第191節
五斗米国への侵攻
                                    苦戦 の 大山塊
な、なに〜ィ〜!?・・・・4107m!??
ーー
筆者、愕然としている!!
 ーー確か 富士山は 377 6 だった ヨナ??

然も単体では無く、大々山脈である。更に驚く事には裾野がジェンジェン、全く、無〜い!!
標高500mから行き成りの4000m超え!!ーー
垂直、絶壁だ!!
さあ、いよいよ
漢中へ攻め込むぞ!とばかりに筆者、曹操に成り代わり、剣を筆に代えて 漢中へ攻め込まんとする今・・・・念の為にと 眼を遣った中国大陸の地勢地図を覗き込んだ時、そこに在った数字に眼の玉が飛び出したのである!!

こんな凄絶な地勢は、狭い島国列島には存在しない。然も其の、分厚い大山塊の横断(秦嶺山脈) と横断(大巴山脈)の隘間に鋭い溝の様に切れ込んでいるのが標的漢中盆地なのだ
筆者、頭では解っていた気がして居た為に、思考回路が紙の上の
平面2次元の世界
偏傾してしまっていたのである。ーー然し今、改めて、立体的な3次元的視点で状況を見直した時
はじめて、その困難さが一層鮮明に成って来る!

そこで、改めて其の〔漢中への侵攻ルート〕を検証して試ると・・・・(※
通常通りに、上を 北 と観る )
漢中盆地と直ぐ北の渭水盆地
(峡谷)との距離は僅か150キロしか無い。中国大陸での150キロ なぞ、平地であれば1日以内の”直ぐ隣り”に過ぎ無い距離である。だが実際に曹操軍が費やした
進軍日程を辿るとーー(
長安でじっくり準備した後) 3月に「陳倉」から登攀・進軍を開始した後
両軍が対峙する漢中盆地の西の端・「
陽平関」に到着するのが7月であった。 この間なんと
実に
5ヶ月要しているのである!!ーー

更に言えば、曹操本人が漢中から帰還の途に着くのは
12月であり、業卩城に凱旋するのは
翌年
2月となる。結局、曹操は往復に丸1年半を費やす大長期遠征を敢行 するのである。その最大の直接原因が、漢中盆地の真北にデデ〜ンと聳え立つ4107m
太白山
であり、それに連なる2000m級の秦嶺山脈であったこの太白山は

前人未到、2千年前の人類には絶対に冒せぬ地点であった。迂回せざるを得無い。然し迂回した

からとて、日本アルプスや八ヶ岳山頂に匹敵する剣峰が連綿として聳え続くのである・・・・

愛用の500万分の1の現代地図を眺めてさえも、一体全体、何処から取り着いたら良いのかすら

直ちには判らぬ物凄さである。 三国時代の地図など 現代から見れば、幼稚園児のお絵かき程度

の物である。その上、参謀本部の全員が、全く初めての未知の世界へ
10万を越す人間の群れ

を率いてゆかねばならぬのだ。重い武具・武器を装着した格好で、或いは背に何十キロの輜重を

担いだり、牛を牽引しながら踏み込むのである。全員が未知の、道なき道を辿るしか無いのだ。

ーー是れは最早、軍事作戦・行軍と言うより、寧ろ、エベレスト登攀の大探検隊ではないか!!

天空を見上げる仰角の、巨大な壁の連続である!!然も三国志は2千年も前の事だ。

正に之はナポレオンのアルプス越え、いや其れ以上の大冒険である!!その困難さをしっかり胸に刻み込んで置いた上で、この漢中平定戦一部始終を観てゆこう
曹操が征く曹魏軍がゆく。目指すは、五斗米道張魯が独立を宣言している 漢中構想から丸4年目の最終決着をつける為であった。
その曹魏軍の先頭には、是れ迄は見られ無かった、
官軍である事を示し、皇帝が親征して
居る事を知らしめる
錦の御旗が揺れていた!!

正史・武帝紀』 の 記述・・・・『十二月、公は孟津に到着した。
天子ハ公ニ
旄頭ヲ置キ、宮殿ニ鐘虚ヲ設ケル事ヲ許可シタ。
この
旄頭ぼうとう鐘虚しょうきょ・・・・後漢の開祖光武帝の故事に由来する。光武帝の長子【劉彊】は

生母の 郭皇后 が廃位された事により、皇太子の地位を 異母弟の【劉荘】 (のちの明帝) に譲り、

東海王に封ぜられるが、その封国へ赴く廃太子・劉彊に対し、父である光武帝は、虎賁と〔旄頭〕
を賜り、宮殿に〔鐘虚〕を設ける事を許した。ーー即ち、
《王に対する”殊礼”であった。 さて、その旄頭ぼうとうであるが・・・・この故事を当て嵌めずに普通に解釈すれば、旄牛(ヤク)の 毛を旗飾りにした天子の御旗 と云う事になる。だが厳密に、光武帝の故事を当て嵌める ならばーーそれはザンバラ髪の儀杖兵と云う事になる。

曹丕の手による『
列異伝』には・・・・『秦の文侯の時代、梓の木が牛に化けた。退治を命ぜられた
騎士は苦戦し落馬してしまう。だが其の衝撃で髻
もとどり が解け、ザンバラ髪になった。それを見た
怪牛は怖気づいて川の中へと逃走し去った。ーーそれ以来、秦軍はわざとザンバラ髪
(被髪)
騎兵を軍の先頭に押し立て、
〔旄頭騎〕 と 称した。』・・・・

エイリアンorプレデターの如き異様な形相で敵をビビらせ、味方の気勢を高揚させる。
ーーその為の神憑りの特殊騎馬部隊!!
もう1つの
鐘虚しょうきょはーー猛獣の飾りを施した鐘を吊るす台の事。両方とも皇帝の占有物で
あるから、是れを賜ることは”殊礼”である。・・・・もっと言えば・・・・

魏公曹操として扱われている事を示す。

ーーさて、その曹操、この
12月の19日に、駐屯中の「孟津」で布告を発している。

『そもそも行儀の良い士が、必ずしも仕事が出来るとは限らない。陳平は篤行の士では無く、蘇秦は信義を守る人では無かった。然るに陳平は漢の帝業を遂げさせ、蘇秦は弱い燕を救った。これ等の例をみれば、士は半面の短所有りとも、どうして見棄てて良かろうか!役人が然と此の事を心に留めれば、野に遺賢は無くなり、官に失態は無くなるであろう。』

相変わらず意気軒昂、才を求めて已まない。また別に布告した。

『そもそも刑罰とは人民の命である。然るに軍中の裁判官には、まま不適任の者が居る。そんな者に、全軍の死生の大事を任せると在っては、肌に粟の立つ思いがする。法理に練達の者を選んで、刑罰を司らしめよ!』
鶴の一声・・・・そこで、法律を専門とする官職である、
〔理曹掾属〕が設置された。



ちなみに此処ら辺りの郡は、遠征軍にとっての後方支援基地としての機能を任されていた。特に
黄河の大北曲に在る
河東郡は、馬超との戦い (関中平定戦) の時以来、西方への備蓄庫
して重要視されていた。その郡太守は
杜畿であり、前後16年間に渡り、河東郡一筋で在り
続け、『治績は常に天下第一!』 と評価されていた。処が曹操、魏公国が出来ると杜畿の才能を
手元に置いて措きたくなり、河東太守から”尚書”へと召し出す辞令を発した。だが直ぐ後悔して、
また再び河東太守に戻した。その時の辞令の文句が、如何にも2人の信頼関係の深さと親密さと
を示している。

『昔、蕭何は関中を安定し、寇恂は河内を平定したが、卿には其れと同じ功績がある。近ごろ卿に
尚書の職を授けようとしたのだが、考えてみるに河東は儂の手足とも言うべき郡であり、充実した
地域であって、天下を制圧するに充分な内容を持っている。そこでしばらく卿には面倒を掛けるが
まあ寝そべりながらでも抑えてくれ!』ーー


この
杜畿 の様な地方長官の存在が、曹操軍の食糧の備蓄を常に確保していて呉れるからこそ 曹操は連年の如き遠征を無事決行し得るのであった。まさに縁の下の力持ちを自認する
慎ましくも誠実な 生き方の人物であった。その河東郡の西隣り、渭水の河口を含むのが「馮翊ひょうよく郡」である。其処の出身者が
張既であった。この張既も亦、西方のエキスパート。最大の功績は、

粘り強い説得で西方の暴れ者【馬騰】を帰順させた事であり、その子【馬超】の叛乱の後は、西方

を慰撫して安定させた事であった。魏公国成立後やはり曹操は、杜畿同様に彼も亦一旦”尚書”に

招き寄せた。だが、その統治能力を高く評価していた為に思い直し、西方全体を統括させるべく、

直ちに
雍州刺史に大抜擢した。その時の口頭辞令ーー

「君を故郷の州に返すが、
刺繍した衣服を着て真昼に行くと言ってよいであろう!」と大絶賛した。

ーー故郷に錦を飾るのであるぞよ!・・・・その昔、覇王と成った項羽が、滅ぼした秦の都を去って

故郷に向う時、「成功して故郷に帰らないのは、夜、錦を着て歩く様なものだ」 と言った『史記』の

引用であった。その
張既 が万全の態勢を敷いて 曹操を出迎え、長安に先導した。そして当然、

この後の漢中平定戦にも随行する事となる。ーー斯様に、「関中」までの曹操は何等の心配も無く

悠悠たる行軍をして、ひと先ずは長安にドッカリと腰を据えたのである。だがその
長安

212年からの丸3年間を〔残敵掃討戦〕の為に八面六臂・獅子奮迅している、肝腎な部将が未だ、

顔を見せて居無かった。杜畿と張既が
自国版図の治世の重臣で在るとするなら、もう一人、

この長安を本拠地として今や
敵国版図への斬り込み隊長役を担っている重要人物が
未まだに姿を見せて居無かった。
仮節護軍将軍夏侯淵であった。
その夏侯淵ーー1部には夏侯淵を評して 白地将軍 などと陰口を言う者達が在った。猪突猛進型で思慮に浅く、単に 曹操の身内 と云うだけで将軍に成っただけの人物・・・・白地とは”白痴”の意では無く、「理由も無いくせに」 だとか 「ただ何となく」 の意であるが、可なりキツイ。
言われてみれば確かに・・・・時に敗北し、また救援に間に合わず、馬超の復活を許してしまったりしていたから、あながち悪口とも言えない。だから一抹の不安を抱く曹操は、その副将・輔佐として
最も信頼できる部将平狄将軍張合卩を配しては有った。
                    
更には
横野将軍徐晃まで附したのである・・・曹操は終始一貫して、方面軍総司令官には

身内・一族の者を用いた。だからまあ夏侯淵の軍功は実質上、この張合卩や徐晃らの功績だった

訳ではある。(※それを思うと、合肥を任されている
張遼は破格である)だがまあ、そうした部の

陰口は兎も角、現在、曹操が何の心配も無く、こうして西に遣って来れたのは(表向き) ひとえに

此の
夏侯淵の軍功に拠る処が大きかったーーと謂う事である。

あの糞ジジイの
韓遂を、今や涼州の奥地に”青息吐息の状態”に追い込んだのも彼の執拗

な追撃によるものであった。若い頃から 『3日で五百里、6日で千里!』と、こと追撃戦に関しては

得意中の得意として居たのであるから、此処までの任務はほぼ合格点だったと謂えよう。

その夏侯淵軍ーーいま現在も作戦中であったのだ。曹操が腹の中で考えている、漢中への侵攻

ルート・・・あの4千m級の太白山を西に迂回して廻り込む・・・その地点に在るのが、漢中に隣接し

ている
武都郡であった。郡全体が大山脈の塊で占められている。平地なぞは絶無の難所・

最難関の郡であった。其処に住む者は異民族の 《
てい》と《きょう》ーー有史以来、中国人の

支配を拒み続けて来て居る者達であった。人数は少ないとは雖も、道無き道と峻険な地形を知り

尽くしたゲリラ戦法を採られたら・・・・10万の大軍とて無事では済まされず、甚大な被害を蒙る。

最悪の場合は撤退を余儀無くされ兼ねない。その不安を前以って除去して措くーーだから、この時
夏侯淵は既に、独り、大山塊のド真ん中・武都郡では最大都市であり政庁の在る武都=下弁に到達して居たのである。 ーー『正史・夏侯淵伝』 に拠れば・・・・
下弁にいる 武都郡 の てい族・きょう族 を攻撃し、氏族の穀物10万石以上を没収した。
のである。没収すなわち”略奪”である。背に腹は代えられ無い。奪えば反抗されるに決まっている。だが、こんな地勢の難地では〔現地調達〕が最も確実な方法であった。
幾ら大兵力が進攻しても、食糧輸送が途中で襲われたら”大敗北”は眼に見えていた。その事は
是れ迄の歴史が証明していたーー詰り曹操は念には念を入れ
現地での食糧確保
夏侯淵に厳命していたのである
曹操本軍が合流するのは、其の後の事なのだ。尚この夏侯淵 軍の中に 合卩徐晃 の姿は無かった。麓の「陳倉」で曹操を出迎える為であった。

その代りに夏侯淵は、涼州の諸将・侯・部族の王達を従えていた。30有余年に渡って反抗し続け
て来た、涼州の猛者たちですら恭順したのだ。だからお前達も無駄な抵抗は諦めよ!と云う警告
シグナルを含んでの陣立であった。ーーすなわち既に、
漢中平定戦は、大山脈の谷隘で、深く静かに進行していたのである・・・・!!

かくて曹操は黄河〜渭水を経て孟津→長安へと至ったのだが、道中で一寸したエピソードを残す。 孟津の先に”
弘農王”の墓が在ったのであるが、此処で曹操はハタと迷った。墓参すべきか?
素通りすべきか?・・・”
弘農王”と聞いただけで直ちに判る読者が居られたら脱帽である。

ーー董卓に廃されて殺された(少帝こと) 劉弁・・・・

蛍の光だけが頼りの荒野を弟の陳留王(今の献帝) と 唯2人だけ彷徨った、あの少年帝の墓所が

在ったのである。ちなみに曹操がハタと迷ったと云う事はーー当時この死者・劉弁の扱いは、歴代

皇帝の1人として認めるか否か?・・・未決の儘であった事の証明である。歴代皇帝の正式な陵墓

・園陵は長安の郊外に在るのだが、皇帝としての在位期間がアヤフヤな劉弁の場合は、別の場所

に在ったのであろう。 現在、漢王室 (献帝) とは 誠に微妙な関係に在る曹操であったから、一体

どんな態度を採ったら最善なのか? 諸般の事情を勘案するに、流石の曹操も即断できずに困惑

した。曹操は馬上で振り返って幕臣達に訊ねたが、幕臣達も自信を持っての上申が出来ず、みな

返答できずに居た。すると、末席に在った「董遇」が身分を越えて進み出て申し述べた。

「春秋の道理では、国君が即位して年を越さずして亡くなった場合は、君主としての資格が不充分である、としております。弘農王は位に就かれてから日が浅かった上、暴臣(董卓)に自由を奪われ降等して藩国に居られました。参詣するべきではありません。」

こう云う場合、重臣で在れば在る程、下手な事は言えないのだ。 曹操としても、こう云う場合は、

いざと成れば家臣の所為に出来るから、腹の裡では決めて居ても、自分からは動かない。誰でも

好いから家臣が発言した後に決めた事にする。ーー結局、素通りした・・・・

その後、翌年3月迄の曹操の所在は史書に無いが、恐らく渭水を溯上して「
長安」で正月を迎え

その儘ドッカリと腰を据えて、大作戦発動 の時期 を窺って居たものと想われる。

そして其の
215年正月・・・・長安に居た曹操の元へ11月の”伏皇后の謀略事件”以来
空位と成っていた
皇后の座に次女曹節が即位したとの慶事が届けられた訳である




処で此の大遠征軍の司令部には
司馬懿仲達の姿が在った。その官職は
丞相主簿〕!曹操の側近中の側近参謀・総務局長・秘書官であった。
                   
仲達にとっては、是れが軍事作戦への初めての登用であった。
・・・・と言うより、
のちに 三国を統一する〔司馬氏〕にとっても、
軍事分野に於いてその権威を高めてゆく上での
記念すべき第一歩であった
!!のである・・・・即ち、この「漢中平定作戦」は、

仲達の軍事部門での名声を高めてゆくデビュー戦でも あったのである。

それ迄の仲達は、専ら”文官”としての才能を買われ、用いられて来ていた。と言うよりは、曹操の

警戒心が解かれて居無かった、と謂うべきであったろうか? 曹操は、出仕して来た仲達の第一
印象を
狼顧の相 と謂う、彼独自の表現で荀ケに漏らしていた。

実は、この〔狼顧〕の表現・・・・「三国志」では無く『晋書・宣帝紀』中の言葉である。また曹操の造語でも無く、原典は『史記・蘇秦伝』に在るーー『秦、深く入らんと欲すると雖も、即ち狼顧するは韓・魏の其の後を議るを恐るれば也。』ーー 背後を極度に警戒し、その態度は丸で、狼が何度も何度も背後を振り向いているかの如くであった、との形容。つまり本来の意味は・・・・非常に高い能力を有するが故に、周囲からは猜疑すら招く様な人物・・・・そうした有能な人物が、組織の中で徐々に頭角を現す為には、周囲の罠や疑念・猜疑を常に的確に見抜いて、万全な用心深さを以って、己の未来を切り開いて行かねばならぬーーとの戒めであった。 決して 「首がグルリと180度回転する」如き、肉体的な特徴を指す形容では無い。当り前だが、一応、念の為の老婆心・・・・

爾来、必要以上と思える程に、仲達の軍事部門への登用を忌避していたフシが有る。

ーーだが仲達は出仕以来、曹操政権内で
〔2つの役割〕を着実にこなして来て居た。

つは 曹丕の世話係 として、もうつは 曹操のブレーン としての役割であった。

最初の丞相文学掾は曹丕の教育担当であり、是れが曹丕と仲達の運命的な出会いと
成った。その後の、丞相府幕僚としての任務としては、
〔丞相東曹属=人材登用課員
そして現在の丞相主簿〕→程なく丞相軍司馬=幕僚長へと信任されてゆく。


折しも曹操は【荀ケ】・【荀攸】といった
大ブレーンを次々に失い、己自身も老齢を感じ始めた今

現在・・・・《自分の代での天下統一は無理だ!》 と 判断している曹操としては、若い世代の育成、


代目へのスムーズな政権移譲・指導部要員の新旧交代の要に迫られても居た。

又、再三に渡る曹丕からの強い推薦・バックアップが在った。無論、もっと早い時期から、荀ケを

筆頭に、譜代のブレーン達からの推挙もあった。それに曹操自身が、”才の適材適所”を繰り返し

求めて公言して居た・・・・そうした総合的な背景や仲達自身の曹氏への忠勤が、此処へ来て漸く、

曹操の警戒心を解き放つに至った、と云う事であろう。無論、現時点では未だ、仲達自身の心の

底には何等の野望が在った訳では無い。ーー行雲流水ーー正真正銘の”臣下の道”を歩んで居る

真っ最中であった。ーーそして筆者はハタと気付いた。後年、【司馬懿仲達】が【諸葛亮孔明】との

死闘を繰り広げる《五丈原の戦い》の根源は、実に、既に此の大山塊を踏破した「漢中平定戦」の

裡に原点が存在して居る!!・・・・と謂う事である。少なくとも、初めて実戦デビューした司馬懿の

記憶回路の中に、この輜重・兵糧搬送に苦しんだ、山岳ルートの困難さ

実体験としてインプットし得た事は、後の貴重な戦略思想を生む濫觴と成った筈である。

後年の戦役の場合は今回とは全く逆の立場で諸葛亮の遠大な山岳ルート越え

対する防衛側の総司令官として活かされる。頭の中だけの想像では無く、実体験に基づき裏打ち

された実感・実態を識って居た事は、何にも替え難い貴重な財産と成ってゆくに違い無い・・・・。 

曹操孟徳61歳
曹丕29歳
    司馬懿仲達
37歳長男司馬師8歳
            次男
司馬昭5歳であった・・・・



さて我々は本節で、曹操の
漢中平定戦一部始終を観てゆく訳であるが、

その前に、曹操の此処1〜2年の動きと天下の情勢を確認して措こう。・・・・何故なら此の214年

以降は、魏・呉・蜀 の
国の動きが、俄に風雲急を告げるのであるーーそれ迄は 夫れ夫れが、

不確定地域の
切り取り競争で済んでいたものが、最早ほぼ国の版図が確定 し始めた
今後は、
国間に於ける直接激突!が勃発し始める展開へと突入してゆくのである。

我々も出来る限りは、
其の3者の動きを同時の視点で確認 しながら進まねば
ならなく成ってゆくのである。多少うっとしい面も有るが、逆に謂えば、此処ら辺り からが、

三国志
三国志たる最も複雑で虚々実々直接対決の面白さ
発露される
三国志の華の場面を迎えてゆくのである

先ず、曹操が遠征中であったにも関わらず、その期間内に業卩城の重臣達の手で着々と
進められた
魏公国の機構改革魏王朝への準備 について纏めて措く。

215年・正月ーー次女の曹節が漢王朝の皇后に即位。 1部郡県の統合整理 新興郡の拡大 215年・9月ーー天子 (献帝)は、公 (曹操)に対して
   独断で諸侯・太守・国相を任命する権限を与える実質的な皇帝の権限 215年・10月ーー初めて〔名号侯〕名前だけで実際の封地を持たぬ 爵位を設ける。
                      ・・・・以後の時代に引き継がれる「
虚封の始まり」!である。

次に、曹操が今、長安で機を窺っている
動向について・・・・

劉備と孫権が同盟を結んだのは数年前からの事であった。巨大な敵・曹操に対抗する上で、両者

共にメリットの有る同盟であった。その結果、劉備は荊州中部に一定の根拠地を得て独立した。

ところが当初は良好であった両者の関係は、益州獲得問題が表面化した
年ほど前から次第に

怪しく成り始めていた。ーーそして今から半年ほど前の214年・5月に、劉備が成都を陥落させて

〔蜀〕を手に入れた後・・・・最近になって俄に険悪化していたのであった。孫権は再三に渡り

益州を獲得したからには 「荊州を返還せよ!」 と劉備に要求。 応じないと見るや、全軍体勢での

実力行使に踏み切った。それに対し 関羽は軍を率いて出陣。 劉備自身も益州から駆け付けた。

そして両軍は終に益陽に集結し合い、あわや一触即発。同盟の完全崩壊・両軍激突か!?

の緊迫状態にまで達していった。 ーー(その詳細は第173節
・鈍牛月に吠えるで既述したが) ーー
正に其の時、
曹操長安に在って、その両者の様子を視野に
収めつつ
漢中侵攻の機を 窺って居たのであるMAP191 215年(建安20年)3月・・・・《フフ・・・頃は好し!》
遙か1500キロ彼方の ( 直線距離でも800キロの ) 荊州 (益陽)で
劉備と孫権が全面戦争の瀬戸際に対峙して居るのを見定めた後ーー
曹操、遂に、漢中制圧の軍を率いて進発した!!

長安を発ち、渭水に沿って西上し、途中で五丈原の鼻先を通過した後、最後のベースキャンプと
成る
陳倉に着いたのが、この3月であった。打ち合わせ通り、此処で「合卩」と「徐晃」が

出迎えた。是れ迄3年間、常に「夏侯淵」の指揮下に在った両部将だったが久々の合流であった。

だが、ゆっくりと歓談する暇も有らばこそ、曹操は直ちに両将に夫れ夫れの任を与えると、本軍に

先立っての進発を命じた。大山塊には道などは無いに等しい。逆に言えば、何処でも道である。

光太郎先生ではないが、『前に道なく、道は後に出来る』 のであった。

曹操の予定ルートは・・・・
散関を経て河池に至り下弁から来る夏侯淵軍と合流した

後で、漢中盆地の西端に在る
陽平関を目指す・・・と云うものであったーーだが其の途中に

住む
異民族は、曹操の進攻に対し敵対的な反応を示す者が殆んどであった。五斗米道を営む

張魯との関係が優良・友好であっただけに、突然の収奪・徴用(略奪)・独自の部族社会生活の

破壊を、武力行使で押し付けて来る曹操の遣り口には、素直に応じられる筈も無かった。

一寸の虫にも五分の魂である。・・・・だが、そんな事に斟酌している暇なぞ曹操には無い。そこで
曹操は先ず、
合卩に諸軍を指揮させて「興和」のてい族王・【竇茂とうぼう】を討伐させ、また別に
徐晃
を派遣して「木賣とく」・「仇夷きゅうい」の【種々の山氏さんてい族】を討伐攻撃させたのである。



三月・・・・公は張魯征討に西へ赴き、陳倉に到達し、武都からていへ入る心算で
        あった。氏人が道を塞いだので、先に張
合卩・朱霊らを派遣して攻撃させ
        これ等を撃ち破った。
四月・・・・公は陳倉から散関へと出て、河池に到達した。てい王の竇茂とうぼう1万余★★★人の
        軍勢を有し、険阻を恃んで服従しなかった。

五月
・・・・公は攻撃して之を陥落させた。



距離にすれば僅か100キロ・・・・然も、相手は未だ、張魯とは関係の無い少数異民族に過ぎ無かった。それでも尚、ヶ月を
要しての進軍だった。 曹操孟徳61歳。 その行く手を阻む
大山塊ーーそれは恰も、その男の寿命と野望とを削り取る如き
最後の大試練と成ろうとしているのであった。

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