【第190節】
鬼女の入城
                                     ーー突然の登場である。”歴史への乱入”と言ってよいかも知れ無い。少なくとも『正史・三国志』の
書き方では、
表向き、そうなっている。女性としては最高の地位である《皇后》を獲得する人物が
曹操の手によって、魏公国が成立したばかりの、正に此の時期に、業卩に入城して来る。
歴史の裏に女性あり!・・・・とは、古来より縷々謂われる事であり、又
悪女とされる女性も多々現われるーーその点、我が『三国志』も亦その例外では無い
但し、
〔悪女の判定〕は難しい。 何を以って”悪”と見るか、その観る者の立場によっては
善悪が逆転する・・・・と云うのが歴史認識の実際であるからだ。
此処で突然
曹操の魏国登場して来る或る女性の場合も、その判定には
大いに苦しむ。 故に筆者は、敢えて 《
悪女》 なる言葉は用いずに、鬼女 と謂う呼称を
使う事とする。その意味の中には、多分に”鬼才”とか
猛女の 要素が含められている。


ーー兎に角、その女性の登場を『
正史』に見てみよう。

太祖が魏公と成った時に見い出して東宮に入れた。
・・・・是れだけである。更に此のあとの記述は、誠にイミシン
意味深長で、憚りに憚って筆を抑えた、
陳寿らしからぬ、歯切れの悪い
奥歯に物が引っ掛かった様な記述が続くのである。

文帝が後継者に決まった事についても
          彼女の画策が有ったのである
』 『甄皇后が死んだのも
     彼女への寵愛が原因だったのである


ーー次には、”コマ切れ”では無く、正史の「全文」を掲げて見よう。

彼女は安平郡広宗県の人である。先祖は代々長吏であった。彼女が幼少の頃、父の永は彼女を
評価し、「この子は儂の娘の中の王様じゃ!」 と言っていた。 かくして ”女王” と謂う 字
あざな
付けたのである。早く両親を失い、戦乱によって流浪して、銅
革是侯の家に召使いとして身を落とし て居た。太祖が魏公と成った時に、見い出して東宮に入れた。彼女は智略が有り、絶えず文帝に
意見を奉った。文帝が 後継者に決まった事 についても、彼女の 画策が有ったのである。太子が
王位に就くと、彼女は ”夫人” と成り、帝位に就くと ”貴嬪” と成った。
甄皇后が死んだのも、彼女
への寵愛が原因だったのである。


多少の解説を附すならーー大した家柄も無く、幼くして天涯孤独の身となり、召使い女として働いて

居る処を”曹操に見い出され”、そして「東宮に入れられた」=即ち、曹丕に与えられた・・・・と云う

事である。尚、銅革是侯なる人物は此処に名前のみ出て来る人物で一切不明。むろん甄皇后とは

曹丕が略奪した正妻の【
甄氏】の事である。・・・・(弟・曹植からの、一方的な?プラトニックラブの

相手として、半ば公然の秘密と成っていた様だ。)


その女性が、天涯孤独の召使い女から出発して一挙に皇后の座に昇り詰めた史実 だけを観れば・・・彼女は さながら〔チャイニーズ・ドリーム〕ヒロインであり、鬼女である。
それにしても、陳寿の、以って廻った筆遣いでは、
        事の中味・真相は丸で判ら無い・・・・。

但し、陳寿ひとりを責める訳には行かない。
於 内大悪諱、小悪書・・・・ 国内の事件についてはーー

大きな悪は隠して記さず、小さな悪は記すものであるーーこれが

『春秋』以来の歴史家の採るべき態度の”建前”なのであった、のであるから・・・・。

ーーだとしても、そもそも、どうやって”曹操が見い出した”のか??

更に踏み込んで言えば・・・・一体全体、見い出して曹丕に与えたのか??

それとも、曹丕の為に見い出したのか?・・・・それが問題だ。ーーだが然し、どんな

事情や経緯が在ったにせよ、兎に角、凄い事である!あの酸いも甘いも舐め尽した、海千山千の大曹操の眼鏡に叶った人物・女性なのである



彼女ーー郭氏である。郭皇后の方が通り相場である。
 字は女王??ーー
ピチピチギャルか!!・・・・・と思いきや、残念ながら  入城が此の214年だったとするなら、当時としては、もう すっかり塔の立った”ウバ桜 科目”に属する30歳であった。(但し曹操から見れば若いし、曹丕には姉サン女房としてピッタリか?)
女性としては異例な事だが、184年3月10日に生まれ、235年の2月8日に52歳で死んだ事が
判っている。流石に皇后ともなると違う。ちなみに曹丕28歳、甄夫人33歳で、その
子の10歳。曹植23。曹操60歳の時の事である。


かくて
全ては霧の中・・・・この女王なる女性の今後の登場場面は
押し並べて筆者の想像・創作と云う事になる。
ーーだが、
全ては彼女自身の意思・野心から起こされたのである。


「合肥」への遠征対孫権戦について・・・今度は別 の角度から観てみる

その場合、
魏軍にとっては初めての措置が、人々の眼を引いた。是れ迄の遠征では常に、本拠地・業卩城の留守居役は、長男の曹丕に任せていたのであるが・・・
今回は初めて★★★曹植が、その大任を任されたのである!!

正式に
〔魏国〕が誕生してからは初の遠征であったーーだとすれば、今後も曹操の基本方針は

この 《曹植重視の方向》で進んで行く可能性が高い。・・・・果して、この曹操の人選・登用に対して

曹植派の者達は俄に活気付いた。後継争いのライバル曹丕が五官中郎将に任じ

られてからは大きく水を空けられ、其の劣勢を歎いて居た面々だったが、この措置で逆転を予感し

曹植後継!の確信を得たのである。折しも 此の214年、曹植は平原侯から臨シ侯へと

転封・昇格されたばかりであったから、益々その周囲の確証は深められて居たのである。 しかも

曹操は、此の出征に先立ち、わざわざ曹植を呼んで激励の言葉を伝えて居た。

昔、儂が頓邱 の県令を拝命したのは23歳の時であった。いま思い返しても、当時
やった事に何ら悔やむ事は無い。お前も今
23だ。しっかりやらねばならんぞ

観方によっては、競争を煽っているーーとも受け取れる様な物の言い方である。

曹操は本当に態度未決定だったのか?・・・それとも、そうした態度を演出し続けて居たのか!?

何とも微妙な、曹操一流のバランス感覚ではあった。だが少なくとも、神童・【曹沖】が夭逝してしま

って以後、父親としての曹操の心の中には、《曹植を後継に!》 と思う一瞬は在ったと観るべきで

あろう。無論、嫡男相続が当り前だとは解り切っての上の事である。逆に言えば、それでさえも尚、

大曹操をして逡巡躊躇させる程の魅力を、曹植と云う男は持って居た!と謂う事でもある

とかく後世の我々は
曹植を”文の人と 決め付けて掛かる キライが濃厚である。 かく言う

筆者自身も同様である。また、文の人 と云うイメージの中には、ややもすると ”
文学青年” と謂う

文弱さ・
武少の者たる予見が混入している。ーーだが筆者は近頃、筆を進めながら・・・その気質

資質に於いては寧ろ、曹丕より曹植の方が、父・曹操に近い人品、器量だったのではないか!?

と想われる様に成って来て居る。(所詮、破れ去った者の史料は少ないから) 単純には言えないが

文武両道に秀逸した若者で在った風に想われる。殊に、上半身裸になっての剣舞の場面などは、

殆んど世に伝えられないが、是れぞ曹植の持つ豪放磊落さの一端であろう。


両派閥の主要メンバーについては大凡既述したが、曹植派の中心人物は【
丁儀】・【丁翼】兄弟と

楊脩】であった。丁兄弟の動機には多分に譜代名門意識が混じっていたが、楊脩の場合は純粋

に個人としての曹植を認めての行動だった様である。曹植の為に親身に成って輔翼した。

「曹丕様が五官中郎将に成ったからと言って、未だ何も正式に決まった訳では無い。それどころか 臨シ侯拝命と謂い、今回の大任と謂い、魏公の御心は大きく曹植様に傾いて居られるのじゃ


「そうだ!少なくとも魏公の御気持はーー我ら家臣に対する人物本位・能力重視の態度と同様に、 御自分の息子達にも其の方針を当て嵌め適用する、と云う事に決められたのじゃ



その
楊脩・・・・大尉・楊彪の息子で、謙恭にして博識。国内外の事情をよく理解し、その
為す行為は悉く曹操の意に叶った、とある。彼には様々なエピソードが有る。

 この頃、丞相府の門が造営され、その基礎工事が完成した時、突然曹操が視察の訪れた。
  だが曹操は門の柱に「活」と云う1文字を書き付けると、そのまま黙って帰ってしまった。すると
  楊彪は直ちに 「門を取り壊せ!」 と命じた。訳も解らず其の作業を終えた時、楊彪が言った。
  「門の中に活に字を書けば”闊”と成る。闊は闊
ひろいである。魏公は、門が広すぎる!と言われ
   たのだ。」 と解説してみせた。

 また或る人が宴席で、当時としては珍しい酪乳 (ヨーグルト) を曹操に勧めた。すると曹操は
   椀を一口すすって味見をすると、その椀の蓋に「合」と書いて、一座に廻させた。一体なんの
   事か誰にも解らず、椀だけが次々と手渡されていった。然しいよいよ楊彪の所に廻って来た
   時、彼は悠揚せまらず蓋を取り、酪乳を一口すすってみせた。驚く一同に向って楊彪は言う。
   「公は、”1人1口”ずつ飲め!と仰せなのだ。何も遠慮する事は無いのだ。」


 この頃は諸事多忙で、楊彪も毎日の様に曹操に意見具申していた。或る問題を具申した際
   必ずもっと詳しい説明の要請が有るだろうと思った楊彪は、留守居の者に詳しい書類を預け
   外出した。処が間の悪い事に、その預かった書類が風に飛ばされてバラバラに成ってしまい
   慌てて拾い集めたが、内容が細か過ぎて順番が判らない。そこへ再諮問の要請が届いた為
   留守居の者は曹操の元へ出向き、書類を見ながら説明したのだが、その目茶苦茶な内容に
   曹操は激怒した。楊彪を呼び出して詰問した。するや楊彪は事情を話し、スラスラと説明して
   見せた。「なあ〜んだ。そんな事だったのか。君が好い加減だった事は無いからナア〜!」


 楊彪は〔主簿〕の重職に在ったが、曹植に惚れ込んだ為に、何としてでも今の流れを保ち、
   一気に後継決定に持ち込みたいと願った。だから万が一にも曹植に失敗を犯させぬ様にと
   万全の準備を怠ら無かった。 主簿と云う政権中枢部に居れば、曹操が次にどんな事を諮問
   して来るか大凡の予測は着く。そこで予めキメ細かい「想定問答集」を準備して置き、曹植が
   即答し得る様にして措いた。



                                               



ーーさて話しは、この直前の「合肥遠征」の途時、銅
革是侯の屋敷に立ち寄った時の事であった。

酒宴の膳を運んで来た”
下女”の胸元から、紙片がハラリと零れ、曹操の膝の前に落ちた。ふと

其れを見咎めた曹操、思わず拾って、見た。  《ーーン?・・・・何の事ぞ??》

天知操 地知丕 我知伏』 と美しい書体で書かれていた。己の粗相に気付いた下女は

畏れ、はにかんで低頭すると、程好い所作で非礼を侘びて退出して行った。

曹操は暫し、その下女の姿を眼で追って居たが、やがて其の紙片を、傍らの曹丕にも見せた。

「・・・・只の悪戯書きとも思えませんな。」

「どう読み解く?」 と、曹操の眼がギラリと光った。

人の名前が出ていた。曹操と曹丕と・・・・高が庶民の分際で、然も”下女”でしか無い者が、畏れ

多くも 魏公と其の嫡男を、中国人にとっては命と同じ位に重要な”
”を用いて書き付けていた。

即刻、無礼討ちにされても仕方ない所業である。更に重大な事には・・・・下々の一般庶民など知り

得ようも無い筈の、”
最高機密”に属する情報までもが記されていたのである!!

「一体、誰の手の者でしょうか?」


「人の手先では在るまい。彼女自身じゃ。」

「ーーえっ!まさか。それ程の者でしたか?」

「差し当っては、お前の手元に置いて、教育して試るか?」

想いも寄らぬ父親の言葉に、曹丕はビックリした。

「構いませぬが、よく身元や人物を確かめる必要は御座いましょう。」

「うん。だが儂の第一勘では既に合格じゃナ。」

「父上が其れ程の女性と御覧になりましたなら、私には異存など有りませぬが・・・・。」

「まあ、お前自身で確かめて見る事だ。」

談笑に打ち興じて居た為に、その下女の姿にさえ気付かなかった曹丕ではあった。


ーーだが、後で召し出してみると、是は如何に
!!

何処でしつらえ整えたものか、眼を見張る様な艶やかな姿で現われた。

「そなたには誰か、高名な知り合いでも在るのか?」

訝しんだ曹丕は思わず訊ねた。すると彼女はニコリとして答えた。

「ハイ。御座います。」

「そうであろうノ。で、どなたのお知り合いなのじゃ?」

「明徳馬后様で御座います。」

「な、何じゃと!?」 ーー明徳馬后といえば・・・・(本書第28節でも紹介した) 漢帝国400年の中

でも最優秀とされる伝説の名皇后である。更に話してみると驚くばかり・・・・とても下女とは思えぬ

博識と知性、それに煌めく様な機知を秘めた女性であった。

「流石に、父上の御眼鏡に叶うだけの事はある!!」

曹丕は、その人生の中で、或る意味では
最大の出会いを 果して居た のである
穿った見方をすれば・・・この郭氏は、伏皇后の密書の発見者?だったのかも知れ無い。少なくとも何等かの関与はしたかも知れぬ・・・・とすら想像を逞しくさせてしまう、灰汁の強いキャラクターである。まあ事件の直接現場は業卩城(東宮)では無く、許都(後宮)であったのだから、99%は有り得ぬ事とは思うのではあるが・・・・。
いずれにせよ、
曹丕女参謀長としての地位を、ガッチリ、着々と固めてゆく。
曹丕にとっては、生涯の伴侶として
最大の寵愛を与える女性 と成る。

ーーその寵愛獲得の最大の原因は・・・どうも、曹丕の気質的弱点・心理的コンプレックスを、彼女

だけが理解し、同化して見せる事により得た、ものの様である。もっと具体的に言えば、曹丕の有

する”粘着質の怨恨気質”を当然の事として正当化し、更には寧ろ一緒に成って煽り、励ました・・・

事に因った模様である。ちなみに筆者は、【曹丕】の人格の中に”或る危うさ”を感得し始めて

いる。其れが父・曹操をして、曹丕をスンナリ後継者に指名しなかった理由の1つで在ったのでは

ないか?とも想うーーその人格的危うさ・・・・とは、〔
他者に対する好悪の感情の甚だしさ〕 で

ある。一旦怨めば終生に渡って根に持ち続ける粘着質・・・・善く作用すれば 〔粘り強さ〕 とも成る。

が反面、”狭量”・”無慈悲”としても現われ得る。既に以前、兄を殺した相手として、「賈ク」 と共に

投降帰順して来た【張繍】を自殺に追い込んでいた。又、【曹洪】のケチに対する恨みを生涯忘れ

ない。更には後述するが、諫言居士の忠臣・【鮑】を処刑してしまう等々・・・・。 父親の曹操とて、

曹丕以上に多くの者達を粛清しては居た。だが一応は、全て政治上の配慮・措置が背景に在った

と言える。曹丕の場合は感情が優先してしまう。その点が根本的に違う。

女性に対する態度も亦然り・・・・・


そんな
郭氏煽り行為を髣髴とさせる記述が『正史・曹洪伝』の中に見える。

最初、曹洪は家が豊かなのに ケチな性格であった。文帝 (曹丕) は若い頃に 借財を申し込んで、 思い通りに行かなかったので、ずっと其れを根に持ち、結局、曹洪の食客が法を犯した事を口実
に、獄に下して死罪に附そうとした。群臣はみな彼を助け様として果せ無かった。
(曹丕の母親である)
べん太后が 郭后に「曹洪を今日死なせたならば、 明日は私が 帝に申しつけて、あなたを皇后の
位から退位させる様にします!」 と言った。その結果、郭后は涙を流しながら何度も(曹丕に)懇願し
たので、(曹洪は) 死罪を免れ、官職を免じられ爵位を落とし、領地を削られる事で収まった。
曹洪は先帝
(曹操)の功臣であったから、当時の人々の多くは釈然としなかった。


具体的には
郭皇后が 何をしたのか?は記されていない。だが、母親の卞皇太后が乗り出し

て来るとは尋常では無いし、「お前を皇后の座から引き摺り降ろすぞ!」 と脅かしてさえ居るのだ

から、”首謀者” と見られて居た事だけは、事実であろう。尚、この話は郭氏が皇后に就いた後の

出来事だが、今から3年後の217年の事として既に郭氏が曹丕から
絶大な寵愛を得ていた

事を示す記述が『
正史・鮑ほうくん』に見える。
      
郭夫人の弟は、曲周県の小役人だったが、お上の布を切り取って盗んだ。法律では死刑が当然

だった。そのとき曹操は
言焦に居り、曹丕が業卩で留守居していたが、曹丕は何度も自筆の手紙を

鮑に送って、郭夫人の弟の為に 罪の免除を頼んだ。鮑は 敢えて独断で釈放する事をせず

詳しく 其の次第を曹操に報告した。 鮑は 以前から 曹丕の言い成りには成らなかったのだが、

曹丕は当然、気に入ら無かった。更に此の事件が重なって、怒りと怨みがいよいよ積もった・・・・』


曹丕の、甄氏に対する”愛情”が、何時から薄らぎ、消え失せていったのか・・・・それは

判らない。ーー”あれ”から
僅か10年しか経って居無いのである。その時、曹丕18歳。甄氏は

23歳であった。今それぞれ28歳と33歳ーー苛酷な見方をすれば・・・もしかしたら、業卩城で

初めて、異常な形で奪い取った 最初の邂逅からして、 既に ”それ” は、愛では無かったーー

のかも知れ無い。だが其の間10年、最初の最初から情愛が皆無だった筈は無かろうと想う。

だが唯1つ 明らかなのは、この
郭氏業卩へ入城してから以後は、曹丕の寵愛は甄氏からは

完全に失われていったと云う事である。そうした前後の事情を、果して〔
曹操〕は知って居たので

あろうか?知って居た上での郭氏の受け入れであったのだろうか??

ーーどうやら曹操は、この
郭女の賜授 を以って、後継者争いの軍配を、曹丕の方に
上げるべき時の近い事を暗に示したのではないか・・・・との方向性が仄見えている
!?

陳寿の慨歎では無いが、
奥ノ事ハ秘ニ属シテ分ラズである。



だが、そうなると、どうしても曹植の存在に触れざるを得無い。曹植が『美女篇』 と
題する美しくも切ない詩賦を創ったのは、曹植
22歳の、 213年の事である。
この詩は、或る特別な人に読まれる事を 念頭に置いて創られている。ーーしかし、
《君に捧ぐ》 と云うストレートな形態を憚られる為に、〔桑を摘む美女〕と云う古い楽府 『陌上桑
』の設定を採用 している。ちなみに、桑は神が宿る木として神聖視されていた。 愛の舞台は神々しく
聖なる場所なのである。

詩の大意はーー完璧な女性(前半部)であるにも拘わらず、《媒酌人媒氏》の不手際で
彼女に相応しい夫に巡り会えず、その宿命の不条理を悲しみ嘆く理想的な美女、と云う事である。
               
                    美女 篇

                                              か
     
美女妖且閑    美女 妖にして且つ閑なり 
                                  と
     
采桑岐路間   桑を采る 岐路の間
                                   ふん       ぜんぜん   
     
柔条紛冉冉   柔条 紛として冉冉たり
                                        へんぺん
     
落葉何翩翩   落葉 何ぞ翩翩たる
                                 かか
     攘袖見素手   袖を攘げし 素手を見れば
                             こうわん
     
皓腕約金環    皓腕 金環を約す
                                          かんざし  
     頭上金爵釵   頭上 金爵の釵
                                    お      すいろうかん  
     
腰佩翠琅干   腰には佩ぶ 翠琅干
                                   ぎょくたい  ま と
     
明珠交玉体   明珠 玉体に交い
                            さんご           ま じ
     
珊瑚間木難   珊瑚 木難に間わる
                            ら い        ひょうよ う
     
羅衣何飄遙   羅衣 何ぞ飄遙たる
                            けいきょ       したが     めぐ        
     
軽裾随風還   軽裾 風に随って還る
                            こ はん                   おく  
     
顧盻遺光采   顧盻すれば 光采を遺り
                             ちょうしょう                   ごと
     
長嘯気若蘭   長嘯すれば 気は蘭の若 し
                                    も      が    やす         
     
行徒用息駕   行徒は用って駕を息め
                                           さん
     
休者以忘餐   休者は以て 餐を忘る
                                     なんじ   いず       あ 
     
借問女安居   借問す 女は安くにか居る
                            すな
     
乃在城南端   乃わち 城の南端に在り
     
青楼臨大路   青楼 大路に臨み
                                   ちょうか ん
     
高門結重関   高門 重関を結ぶ
     
容華輝朝日   容華 朝日に輝く
                                          ねが
     
誰不希令顔   誰か 令顔を希わざら ん

                            ばいし
     
媒氏何所営   媒氏 何んの営む所ぞ
                            ぎょくは く
     
玉帛不時安   玉帛 時に安んぜず
     
佳人慕高義   佳人 高義を慕う
                                           まこと      かた
     
求賢良独難   賢を求むる 良に独り難 し
                                  いたず    ごうご う
     
衆人徒嗷嗷   衆人 徒らに嗷嗷たり
                            いずく 
     
安知彼所観   安んぞ 彼の観る所を知らん
                                            お
     
盛年処房室   盛年 房室に処り
     中夜起長歎   中夜 起ちて長歎す

甄氏は、まさしく玉体であるーー この詩の中には、曹植の心の叫びが潜む。


《ーー美女あなたよ、甄洛よ・・・・あなたは自分の意に反して、不条理な結婚を強いられたのです。
そんな貴女は今、本当に幸せですか?そんな事は有り得ぬと、私には解っています。
貴女の様に 気高く 素晴らしい女性を、真に理解し、心の底から愛せる者は、今、夫と成っている人物では無いのです・・・・


宿命
と云う仲人(媒氏)の不手際で二人は結ばれる事はありませんでしたが、全宇宙の中で 私こそが、貴女を真実愛せる、唯独りの 男性 なのです。

ーー嗚呼!それなのに今、二人は、 不本意な日々の中に生きて居る。私は一体、この身も焦がれる様な愛うしき想いを、如何にしたら よいのでしょうか・・・・》


直接には告げる事もならず、その相手にも語れず、独り、己の真実を、ひっそりと墓の下まで抱き

続ける人生・・・・ それを己の唯一の愛と信じて貫き徹すーー もどかしく、恰も薄衣うすぎぬ越しに

手を取り合う様な愛の在り方・・・・ それ故にこそ燃え滾る、尽き無い想いーー。



簡易ニシテ威儀治メズ
              輿馬よば服飾華麗このマズ

曹植子建
、今23歳。
史書には
甄氏への愛在ったとは、文字も無い・・・・。【第191節】 五斗米国への侵攻(漢中平定戦T)→へ