第189節

                                   皇后幽殺

この
7月「合肥」への遠征対孫権戦については、その軍事的意味以上に、様々な
事情や思惑が渦巻いていた。そもそも大局的に観ればーー

何も
此処曹操みずからが親征する必要など 全く無かった。だから 幕臣の
中には 其れを訝しんで上奏して来る者すら在った。ーー参軍・【
傅幹】の諫言書・・・・

『天下を治める為に必要なものが 2つ在ります。 文と武です。武を用いる場合 ”威” を第一 とし、文を用いる場合”徳”を第一にします。威と徳が互いに充分補い合って初めて王道は完備します。
先に天下が大いに乱れ、上下が秩序を失いました時、殿には武を用いて打ち払い、十中その九迄を平定されました。今いまだに王命を受けないのは呉と蜀とです。呉は長江の険を持ち、蜀は崇山の阻を持っており、威を以って服従させる事は難しく、徳を以って懐ける事は容易です。
愚考致しますに、暫らく鎧を置き武器を横にし、軍隊を休息させ士卒を保養させ、土地を分け封爵を定め、功績を調べて恩賞を与えるべきかと存知ます。
その様にすれば、内外の心は固まり、功績ある者は奨励を受けて天下の人は制度をわきまえる事になりましょう。その後で徐々に学校を盛んにし、その善き性質を導き、その正しき節義を育みます。公の神の如き武威は 四海に轟いていますから、もし 文徳を修めて 之を補えば、天が下、不服従を思う者は無いでしょう。今、10万の軍勢を挙って長江の岸部に駐屯させて居ります。もし賊が堅固さを恃んで 深く隠れて出て来なければ、士馬も その能力を振るう訳には いきますまい。変化に富んだ奇策も用いる場所が無ければ、大いなる武威も挫かれる上に、敵の心を服従させる事は出来ません。どうか明公には、虞舜が楯と鉞を手に舞をまわせ、威を全うし徳を養い、道義によって勝利を勝ち取った事を参考と為されますように。』



無論、考え有っての曹操、採用などせず無視した・・・・兎に角一旦、業卩城を離れる必要が在った

からである。 が、その理由については帰還直後に露わに成る。


さて孫権討伐に出征した曹操・・・・その業卩城出陣は月であった。 が、実は、全 く

急いでは居無かった。何故なら、孫権が
〔皖城攻撃〕を始めたのは、もうヶ月も 前の月の

事であった。合肥に駐屯して居た【
張遼】が即座に出撃したものの 間に合わず、翌閏5月には

既に皖城は陥落・降伏して居たのである。それを知った上でのヶ月遅れの出陣であったのだ。

だから元より、決戦の意思などは無かった・・・・と云う事である。

ーー結局、この長江北岸 (地点) への遠征は、何等の戦功を得る事も無い儘に打ち切られた。

10月
、曹操は合肥から帰途に着いたーー然し、この10月・・・・地点・合肥とは正反対の 地点(西方)では、征西将軍に任じられた【夏侯淵】が着々と露払い作戦を完遂しつつ

あったのである。「露払い」とは・・・曹操の張魯討伐作戦、漢中平定作戦の為の環境整備を指す。

曹操が真に急いでいた軍事戦略は元々〔
〕や〔〕では無く〔〕の漢中であった。その漢中に

隣接する”
”を、【劉備】が奪取したのである。放って置けば、漢中を先に奪われる可能性が

高まっていた。だから、その〔漢中〕の手前の〔関中〕の残敵掃討を夏侯淵に命じてあった。

その【夏侯淵】は、3年前から其の任に就いていた。あの馬超・韓遂ら関中諸将との激突 (潼関の

危機・単馬会など)以来の任務であった。何しろ其の分担地域は広大であったから
年掛かった。

東は渭水の河口から、西は砂漠の涼州まで、その距離およそ600キロに散在する諸勢力をシラミ

潰しにする訳だから大変だった。ーー3年前に曹操が帰還して以後「長安」を基地とした夏侯淵が

制圧した敵対勢力は・・・・南山で「
劉鳴」、藍田で「梁興」。1年前 (213年) には 「馬超と韓遂」 が

復活したが再び撃破。そして今年 (214年) の正月、曹操が初めて”籍田”の儀礼を行なった頃、

馬超は漢中へ逃亡。韓遂も金城から西平へと逃亡。呼応した氏族の王「千万」を 興国で斬った。

そして
此の10月最後まで隴西 (抱罕) に残って居た「宋建」を斬り、終に 関中の残敵掃討を

完全に果したのであった。是れでもう、渭水峡谷の何処にも敵対勢力は無くなったーー

お待たせ致しました。さあ何時でも、お出で下さいませ!』・・・と云う 準備万端 の態勢 が

整ったのである。ちなみに「宋建」とは、30年の間、河首平漢王と自称して居た男であった。
曹操は、そんな夏侯淵の勲功に対して布令を出した。

『宋建が謀叛を起こしてから30年以上になるが、夏侯淵は1度の戦闘によって之を滅ぼし、関右
の地を闊歩し、向うところ敵無しであった。孔子も言っている。『私とお前は及ばない 』 と。」


だが其の一方で曹操は、長安北西の最奥地であり、異民族の”羌”が混在する「安定郡」の太守と

して【毋丘興】が赴任する際に、その対策としての注意を与えている。
異民族の操縦

如何に難しいかを示すエピソードの1つである。

「羌族は中国と好を通じたいと望んで居り、向うから人を派遣して来るに違い無い。決して此方から 人を行かせるで無いぞ!行かせれば、その者は必ずや彼等と共謀し、此方の弱味に付け込んで
自己の利益を要求して来るだろう。聞いてやらねば、風俗を異にする連中の気持を失う事になり、
聞いてやれば利益をもたらさぬであろう。」

然し毋丘興は、必要上やむなく、部下を羌族の元へと派遣した。するや案の定、曹操の注意した

通り、部下は自分を属国都尉に任命せよと要求させて来た。 


「儂は、そう成るに違い無いと予知した訳だが、聖人で在るからでは無い。
                                      ただ経験が豊富なだけである。」 


大漢帝国がそうであった様に、魏国にとっても
胡人 の者達の扱いは至難なのである。

いや、それどころの話では無いのである。ーー実は、曹操本人は識る由も無いのだが・・・・・

この三国時代に曹操が強行した異民族の同化
徙民
しみん(移民)政策その後に続く中国人の歴史に大きな屈辱の時代 を招くのである!!


国を保ち、繁栄させる為の基本要件は、
〔領土の拡大〕である・・・・だけでは無いのだ。
実はーー
人間の確保〕〔人口の拡大こそが経済発展の基礎・源泉で

あったのである。自動機械など一切無い時代の事である。生産力の全ては人力であった。人間は

消費する生き物で在るが、それ以上に生産する生き物である。不満が爆発しない程度に搾取し、

単純再生産を継続してゆく・・・・それが此の時代の国家経営・治世であり、人民統治であった。

如何にして、労働力としての自国民の人口を増大させてゆくか!

それこそが為政者・支配者達の命題なのであった。だから、もし仮に、農業 (即ち産業と同義語)

分野に於いて、ほんの僅かな増産
(拡大再生産では無いが) でも行なわれれば、それはもう、大明君・

名宰相と言えるのだ。だが実際には・・・・戦乱うち続く三国時代に在っては、最も手っ取り早く効率

的な、
人間狩りが採用された。国境線は在って無いが如き苛烈な時代状況下、いつ領土が

敵の手に落ちるか判らない。敵に奪われる前に、安全な後方に
強制移住させてしまう・・・・

だから3国が激突する最前線の周辺一帯は、”完全なる無人地帯”と化していたのである。

又その一方では、国の心臓部への人口集中が施される。ーー
曹魏の場合は・・・・・
西方〕・〔からだけで無く、北方匈奴〕・〔鮮卑などの異民族を、
心臓部である
”中原”へと、大量に強制移住・徙民=民を徙うつした。その者達がいわゆる 五胡であり、中国人縁の地・中国文明発祥の地である”中原”を、100余年に渡って
奪われ荒されるーー
五胡十六国時代 (316年〜439年) を産むのである。 さて、話を曹操に戻そう。合肥を引き上げ、10月に業城に帰還した。とても
凱旋などとは言えないが、とにかく帰還した。ーーその
直後11月・・・・
天下を震撼させる”大事件”が起きた!! ーーいや、起こした!!・・・・?
曹操の合肥遠征の意図
は、実は此処にこそ有ったのだ!!ーー即ち・・・・

逆アリバイ”=不在証明を以って、事件をデッチ上げた!?のである。

儂が遠征中の留守の間に何も知らぬのを好い事によくもそんな大それた事を企んだものじゃナ!儂を出し抜こうとは不埒千万!そんな輩は断じて許さぬ!!
・・・・と云う
世間への眼眩まし演出 したのである。 居続ける事に因って、密室に於ける謀略性が顕わに成るのを懼れての 姑息な工作=合肥遠征 の 直後の大不祥事・・・・

ーーだが、その大事件についての 『
正史・武帝紀』 の記述は、”ワザと”素っ気無い。

11月、漢の皇后伏氏が以前に父の元屯騎校尉・伏完に送った
手紙の中に、帝は董承が処刑された事で公に怨みを抱いている 
と 書き、甚だ醜悪な文辞を連ねたが、其れが発覚し、その廉かど
后位を廃されて死に
兄弟皆処刑された

・・・・是れだけである。是れが全てなのである。記述の全部である。ーー1回読んだだけでは何の
事だか、よく解らない。下手をすれば、読み飛ばしてしまい兼ねない。・・・・だが、よくよく見れば・・・ トンデモナイ
大謀略事件だった事が、判然と浮かび上がって来る!!

ーー意訳 し 直して試よう。
伏皇后】の父親・【伏完】は、今は現役を引退して 隠居していた。 元は屯騎校尉であったが 代々の名家で、桓帝の娘を正妻にしていた。( 但し、伏皇后の生母は側室の盈=エイであった。)
伏皇后は父の伏完へ、曹操打倒の密書を送ったーー天子・漢の皇帝・
即ち我が夫である献帝は、
『常々から曹操を憎み、怨んで居いでになられます。 殊に15年前の〔
董承処刑事件〕で、
帝の周囲に在った股肱の忠臣達を、悉く殺されてしまった事については、今でも深く怨んで居らっ
しゃると同時に、今度は何時、ご自分の身に、その曹操の毒牙が襲って来るか! と 非常に心配
なさって居られます。』
ちなみに
董承ガ処刑サレタ事とはーー第44節に詳述したが・・・・
官渡大決戦まぎわの200年(建安5年)の正月、
曹操暗殺計画が発覚したのだ!!

(以下、第44節からの抜粋) →→ そして、その陰謀を推進した廉かどで、献帝の近くに在った廷臣達の殆んどが処刑され、その三族も 皆殺しにされ尽くされたのだ!!処刑された者の数は、二百とも三百とも言われる大事件の勃発であった!! その〔首謀者〕は、献帝が股肱と頼んでいた、洛陽時代からの大忠臣・董承 (皇子を産んだばかりの董貴人の父) とされた。
董承は、霊帝の母親 (董太后) の甥であった。即ち、献帝の舅 (丈人) であった。
又その主要メンバーとして長水校尉の『仲輯
ちょうしゅう』・将軍の『呉子蘭ごしらん』(呉碩ごせきとも?)『王子服おうしふく』が挙げられた。この他にも連座したとして処刑された者達が多数居た(筈である)ーーだが・・・だが、である。彼等は皆、廷臣であり 〔武 力〕 を持って居無い。計画には、軍事力を持つ〔実行部隊〕が 居なければならない。・・・・では一体、誰が実行部隊長であったのか?
それは、直前にビビって逃走した【劉備玄徳】であった (と云う事になっている)。
そして更に重大なのは、【
献帝・劉協
】が 自分の手で『曹操を誅殺せよ!』との詔勅を書いて彼等に下命した、とされる事である。 ・・・・・だがハッキリ言って、この事件は胡散臭 い
どうも事の真相は、巷間いわれている如くの、そう単純なものでは無さそうである。ーーとは言え、我々に与えられている歴史資料は極く僅かしか無い。何故なら・・・・真実は、
直ちに
曹操の手によって、 歴史の闇の中に封印され、 葬り去られてしまったからである。
ーー従って我々は唯、推測できるのみである・・・・・(以上、第44節の抜粋から)


その手紙の中で伏皇后は更に具体的な対抗策をも示して書いた(かも知れ無い)。

『国賊曹操は早晩、帝位を簒奪するに違い有りませぬ。それを阻止する為の手立ては唯1つーー

江東の孫権と蜀の劉備に勅命を下し、両者を同時に挙兵させる事です。さすれば曹操は必ず自

身で出向いて行くでしょう。 その隙を狙い、忠義の臣を募って 共々一斉に事を挙げる。 内外から

揃って挟撃すれば、九分九厘成功するに違い有りませぬ。

父上の方から、呉の孫権と蜀の劉備に、密使をお送り下さいます様に・・・・!!』

その密書が発見”されてしまったーーと云う訳である。何処で誰の手によって、どの様な経緯を

辿って発見されたか?・・・・などと云う詮議の公表は絶無であったろう。

ズバリ、曹操皇后殺した!!のである

ーーそして、僅か
1ヶ月後215年(建安20年)・・・・春正月、
天子は公の真ん中の娘を立てて皇后とした
即ち

曹操娘が皇后成った!!のである


元号が興平と改められて2年・・・・忍耐と悲憤に明け暮れる「長安時代」 も、5年目となった195。 【献帝・劉協15歳を迎え、心身共に「成人」らしき風貌を具え始めていた。もはや「少年帝」 では無く、 〔青年帝〕 と呼ぶべき時に来ているようだ・・・・・
だが、《朝廷》 の所在は依然として、「李寉」 の私邸敷地内 の儘であった。また、李寉と「郭」の武力衝突も 日常化した儘であり、朝廷と民の苦しみは、眼を覆うばかりの惨状と成っていた。

ーー4月、そんな青年帝に、せめてもの春が訪れた。
妻を迎えた のである。つまり・・・・・【伏皇 后を迎えたのであった。

それまで【貴人】として掖庭えきてい(妃嬪の住まい)に入内していた、屯騎校尉『伏完』の娘を皇后に格上げし、正式な夫婦 と成った のである。帝が15歳の適齢に成った暁に、皇后に迎えようと、その以前の「洛陽時代」から許嫁として入内していた。 恐らく劉協より年下であったろうから、丸でお人形さんみたいな若夫婦の誕生であった。(本書・第40節より抜粋)

あれから丁度
20年・・・献帝35歳、伏皇后は未だ20代で在ったろうか?

次は補注の
曹瞞伝』・・・(※曹操をコキ下ろす為の2級史書ではあるが)・・・『正史』の記述が余りにも
素っ気無いので、世の人々は此の曹瞞伝を、恰も「正史」の記述であるかの様に混用している。

公は、華音欠 に 兵を指揮させて 宮殿に侵入し、后を逮捕する様に命じた。 后は 戸を
閉ざし、壁の中に隠れたが、華
音欠は戸を壊して 壁を暴き、后を引き摺り出した。帝は
其の時、御史大夫の
希卩ちりょと同席して居た。

后は髪を振り乱し 裸足でやって来て、帝の手を取って言った。

「命を助けて下さる訳には参りませぬか!?」

帝、「私も何時まで命が在るか判らないのだ・・・・。」

帝はの
希卩慮に向って言った。 「希卩公、天下に一体こんな事が在っていいものか。」

かくて華
音欠は后を連れて行って殺害した。伏完と一族の死者は数百人にのぼった。



この記述では、恰も伏皇后が”
確信犯”で在る如きに描かれているが (曹瞞伝の狙いは言う迄も無く、

曹操を悪玉に仕立上げる為ではあるが)、
事の前後や、其の経緯を 冷静に検討してみれば、どう贔屓目に

見ても、
曹操に仕掛けられた冤罪 である。 伏皇后は”暴室”に入れられた。暴室とは

後宮の女官を収容する地下監獄である。伏皇后は其処で死んだ・・・・2人の皇子も毒殺された・・・

献帝にとっては 最後に残されて居た、唯一の味方、皇后一族は根絶やしにされた のである。

然し当時の人々は、我々ほどには此の皇后の処刑・新皇后の誕生を直接的には結び着けては居無かった筈であるーー何故なら・・・・曹操は、自分の娘が皇后に冊立された時、すでに我関せずとばかりに、又 新たな遠征の途上に在ったからである。

新皇后の冊立は、天子が自分で決めた事・・・・だったのである。

陰謀の発覚・処刑は11月の事ーーその12月、曹操は業卩を出陣し、あの孟津
(馬超の強襲を受けた後に渡った黄河の渡し場) に到着して居たのである!・・・・だから、
翌月の正月に、娘の「節」が皇后に成ったのを聞いたのは遠征の陣中の事だった
のである。時局逼迫の折とは謂え、曹操の腹芸の至当さは 斯くの如し・・・!!


尚、この事件に関する史料は、補注に もう1つ在る。だが裴松之自身が、「そのデタラメな記述の

中でも、之が最もヒドイものである!」 と罵倒する 3級の 『
献帝春秋』=(袁日韋著) の中でも最低

の記述部分である。そんなら、補注に記載しなければイイのに〜?とも思うのだが、まあ、そこが

裴松之の裴松之たる所以では有る。ーー何とまあ!荀ケを引っ張り出して来て、挙句の果てには

”J”の悲劇 の原因 にしてしまっている!のである・・・・


『董承が処刑された時、伏后は父の伏完に手紙を送り、曹操が董承を殺した為、帝は復讐を念じて居られます、と言ってやった。伏完は手紙を受け取ると、其れを荀ケに見せた。荀ケは嫌な顔をしたが、長い間秘密にして報告しなかった。伏完が妻の弟の樊普
(此処に名前だけ1ヶ所の人物)に手紙を見せると、樊普は封をして太祖(曹操)に献上した。太祖は密かに之に対する備えをした。

荀ケはその後、黙って居たのが発覚するのを恐れて告発する決心をした。そこで朝廷に願い出て太祖の居る業卩へ使者として赴くと、太祖の娘を帝の皇后にするよう太祖に進言した。太祖は
「現在、朝廷には伏后が居いでになる。儂の娘が如うして皇后に成れよう。儂は些細な功績を取り上げて戴き、宰相の地位に在る。この上、娘の寵愛を恃みにしようか。」 

荀ケ、「伏皇后には御子様が御座いませんし、性格も邪悪です。平素から父に手紙を送っておりますが、醜悪な事を書き連ねて居ります。それを理由に廃されるのが宜しいでしょう。」

太祖、「君はもっと前に、どうして此の事を言わなかったのかね?」

荀ケは驚いた振りをして言った。「もう、とっくに申し上げた筈ですが・・・・」

太祖、「是れは儂が忘れてしまう程の些細な問題だろうか。」

荀ケはまたビックリした様な振りをして言った。

「本当に未だ、公に申し上げて居りませんだしたか?昔、公が官渡で袁紹と対峙して居られた頃の事ですから、国内に対する御懸念の気持を強くしては!と気遣い、それで申し上げ無かったので御座いましょうか?」

太祖、「官渡の戦役が終った後に、なぜ言わなかったのか。」

荀ケは答える言葉も無く、ただ手落ちを侘びるばかりであった。

太祖は 之が原因で、荀ケに対して 割り切れない気持を抱く様に成ったが、表向きは 腹に納めて荀ケを受け入れて居た為に、世間の人々には判ら無かった。

董承が 太祖を魏公に立てる発議 をするに至って、荀ケは 賛同し難く、その事を 太祖に言おうと思った。詔勅を持って「言焦」へ軍の慰労に行った際、宴会の儀が終った後で、荀ケは後に残って時間を戴きたいと願い出た。太祖は荀ケが、天子への上申書について意見を述べる心算だと悟り会釈して彼を立ち去らせたので、荀ケは結局、意見を述べる事が出来無かった。

荀ケが「寿春」で死ぬと、寿春から逃げ帰った者が、太祖は荀ケに伏皇后の殺害を命じ、荀ケは従わず、その為に自殺したのだと【孫権】に報告した。孫権が、蜀に向って此の事を暴露すると、
【劉備】は是れを聞いて言った。 「老いぼれめが死ななければ、禍乱は終るまい。」


・・・・と、まあ、コジツケれば何でも書けてしまうと云う事のサンプルみたいな3級史料ではある・・・

曹操の真ん中の娘ーーとは・・・・
                「憲」・「節」・「華」
姉妹の内の曹節である。
45
年後の260年に没するが年齢は不詳である。 

(献帝は諸葛亮と同じ
234年に没するから、26年間もの未亡人暮らしを送る。) ーーさて 当時の

年齢は?・・・・享年が60であれば15歳。70であれば
25歳。50であれば5歳である。が、妹の

「華」が幼過ぎて 実家で成長を待った 事などを勘案すればーーまあ
12、3歳であったろうか?

当時としては最適齢期に当る。また、3姉妹の中では最も純心であったと想われる・・・・と言うより

曹操は、3人の娘達には、何の因果も含めずに入内させた模様である。だから 此の「曹節」は、

献帝・劉協の皇后として、最後まで”魏”では無く”漢”に忠実で在ろうとするのである。それだけが

献帝にとっては、せめての慰めであった・・・・。


だが、事は そんな個人の人格の問題では無い!ーー娘が皇后で在るなら、その父親たる曹操は

皇帝の父・舅と云う関係になる。
〔漢帝国〕〔魏公国〕親戚同士

となり、血縁の上から謂っても一身同体・・・・

曹操は限り無く皇帝に近づいた
 のである!!

だが、その”遣り口”は、如何に糊塗しようとも、もはや”悪辣”と謂わざるを得まい。皇帝そのもの

には直接手を触れぬが、大事なものは全て奪い取り、己の手に入れてしまう・・・・。


ーー其処までやるか曹操!!

然しである。振り返ればーー劉備とて亦、蜀を奪い取っていたのである・・・・。

ーー
其処までやるか劉備!!←←(何故か、こちらの声は小さい のだが。)


逆に謂えば・・・・其処までやらざるを得ぬ程に、
漢王朝400年間の権威威光は巨大
で在ったのだ


七色に光輝く虹のアーチは、すぐ手の届きそうな近くに見えながらも、いざ実際に、その門を潜って 我が物としようとした時、その玉座は、更に我が身からは遠のいて行く・・・・



潜れぬ虹のアーチ
・・・曹操孟徳残された砂時計の砂
徐々少なく成って来ている・・・・・
     
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