第188節
潜れぬ 虹のアーチ
                                      大軍師 没す!
曹操は、辞退の理由を「布令」として世に発表した。ーー曰く、

『そもそも九錫を受け、広い領邑を新たに開いたのは周公その人であった。漢の異姓の八王は、高祖と共に平民から起ち上がり、初めて王業を確立した。その功績は至大である。私などが何で彼等に比肩できようぞ。』・・・・前後3回に亘って辞退した。(
正史・武帝紀)

此処で曹操が問題提起しているのは、「劉氏」以外の
異姓の王の存在である。その存在は
建国創業時の特殊な例外であった。漢の高祖・劉邦は《諸王の王》として、諸王侯の推戴を受ける形で皇帝に即位した。が、漢帝国が成立するやーー

非劉氏而王者、天下共撃之』ー→ 『劉氏以外の者が王を名乗れば、天下の者は共同で之を撃滅せよ!との盟約を定め、この不文律は 前後400年間に渡る漢王朝の下で、固く守られて来ていたのである。

即ちーー
王の位は、帝室・劉氏の近親者に限られて封ぜられ、
      その王の位は、皇帝に降ること一等
・・・・とされていたのである。

詰り、
皇帝に成る資格の基本的要件その第一歩は、先ず《王》に封ぜられる
事であった。だがその王位は劉氏に限られ、異姓の「曹氏」には絶対に認められ無いのである。

そこで曹操は、辞退するポーズをして見せつつも、返す刀で婉曲に・・・・

建国時には 〔
異姓の王が存在して居た〕 事を周囲に思い出させたのである。

それでも矢張り、400年間と云う歴史の重みは、曹操と云う”ポッと出の馬の骨”如きには巨大な

プレッシャーであったのだ。 実力から言って、ゴリ押しすれば 《王》 に就けない事も無かったが、

それを強行した場合の 〔世論の反発の程度〕 が 読み切れ無かったのである。ーー予想としては、

その評判・評価は、史上最悪のモノに成るであろう事は確実であった。世の反発は恒常的に不測

の事態を誘発し、その地位の安定を脅かし続けるであろう。

虹色に輝く”帝座”と云う七色のアーチは、すぐ其処の、手の届く近さに見えながらも、

いざ自分が其れを潜り抜けようとすると、その輝きは再び三度と遠ざかるばかり・・・・。

そもそも、大漢帝国400年の歴史の中に、 と云う 爵位は存在し無い。
在るのは
皇帝と、諸 だけであった。即ち、漢帝国内には、劉一族が治める、 臣下 (藩国) としての王国は在っても、未まだ嘗て現われた事も無い、得体の知れぬ
公国などと云うものは無かったのである。ーーだからもし曹操が本気で新王朝を樹立する 心算なら、常識では先ず〔王〕爵位を望む筈であった。にも関わらず今、曹操は”王”では 無く、”公”爵位を 要求して、得たのである。其処に、奸雄たる曹操の真骨頂が在った。
でも無く、ましてでも無い。その中間に位置するであろう?と謂う奥の手を

探し出して来て、滑り込ませたのである。前例が在った。然も 「2種類」 在ったと言うべきであろう。

1つは前漢末の「宋公」と「衛公」。殷の末裔と周の末裔を顕彰する為の特例で、漢の賓客とされ、

その位は三公の上とされた。また光武帝も同様な措置を行なった。

2つは【新の王莽】の場合。「安漢公」と成り、位は《諸侯王の上!》 とされた。続いて九錫を賜わり

〔仮皇帝〕と称した。その4年後に皇帝に即位すると、今まで己の位だった安漢公には、前皇帝の

劉嬰を封じた。即ち王莽のケースでは、”公”は皇帝への階の最終ステップだったのである。

無論、曹操は後者の例を想定して居たに違い無いが、そっくり其の儘を真似た訳でも無かった。

時代状況も周囲の環境も同一では無いのだから、より慎重に事を進めた。”公”を最終の1段とは

位置づけずに、もうワンステップを設定するのだった・・・・。

ちなみに、特別の臣下だけに許される優遇を
殊礼と謂う。世論の動向を強く意識せざるを

得無い曹操は、この”殊礼”を多く身に帯びる事に拠って、その反発をクリアーしようとしたのだ。

既に曹操は 幾つもの殊礼・恩典を得て居た。 206年には一挙に3万戸を増封されたが、是れも

その1つと観て良い。何故なら1万戸以上の封邑は、大漢帝国400年の歴史上でも、ほんの僅か

な超功臣だけに与えられたに過ぎ無かったからである。又208年の〔丞相就任〕もその1つと観て

いい。更には昨年 (212年) に得た3つの特権ーー賛拝不名 (拝謁の時に本名を呼びつけぬ)・

入朝不趨 (小走り不要) ・剣履上殿 (剣を佩び沓を履いた儘の参代))・・・・は言う迄も無い。

以後の魏公就任に至る経緯は、まあ一種の”
茶番劇”では有るが、一応見て措こう。

曹操が辞退して見せると、今度は群臣が黙っては居無かった(事になっている)。 正史には、その
面々が記載されているが、この当時の
家臣団の役職を知る上で役に立つので全部並べてみる。

中軍師荀攸前軍師鐘遙左軍師の涼茂、右軍師の毛王介
平虜将軍の劉勲、建武将軍の劉若、伏波将軍の
夏侯惇、揚武将軍の王忠、奮威将軍の劉展、
建忠将軍の鮮于輔、奮武将軍の
程c
太中大夫言羽軍師祭酒董昭、薛洪、董蒙、王粲、傅巽、
祭酒の王選、袁渙、王朗、張承、任藩、杜襲、
中護軍曹洪中領軍の韓浩、曹仁(驍騎将軍)、領護軍将軍の王図、
長史の万潜、謝奐、袁覇
殆んどの者は、「亭侯」の爵位を拝領しているが略した。 文章は代表して荀攸が書いた。

『古えの三時代
(夏殷周)以来、臣下に領土を授けておりまして、天命を受けた創業の際と国家中興の際に、輔佐の臣に封土・官爵を与えますのは、全て 功績を称揚し 徳義を褒賞し、国の藩衛 とする為であります。先に天下は崩壊混乱し、凶悪な者供が盛んに出現して、秩序を覆したり我が物顔にのさばり、その艱難さは語るに忍びない程でした。

明公
(曹操)には身を奮い立たせ生命を投げ出して其の危難にぶつかられ、2袁(袁紹・袁術)の簒奪と云う叛逆行為を処罰し、黄巾の乱賊に加わった一味を滅ぼし、謀叛の首謀者を誅滅し、生い茂る雑草の如き連中を刈り除き、霜や露を被って苦労される事20余年に為られます。記録に残された限り、これ程の功績は未だ御座いません。

昔、周公は文王・武王の跡を継ぎ、既に出来上がった事業を受け継いだ為、筆墨を枕にのんびり休み、諸侯に挨拶して居れば済み、殷の余民を討伐する勤務ですら2年を越えませんでした。
呂望は周が天下の3分の2を領有した状況に頼り、八百諸侯が味方に付いた形勢を根拠に、暫時軍旗と鉞を手に取り、一時だけ指揮を振るっただけです。処が2人とも大いに領土を開き、何州にも跨り何ヶ国をも合わせ所有しております。周公の8人の子は、いずれも侯・伯と成り、白い牡牛と赤い牛を生け贄として天地を祭り、典礼・記録・文物・制度は王室に手本を取りました。栄誉のしるしや恩寵の盛大さは是れほど大きかったのです。

漢の興起に至りますと、創業を助けた臣のうち張耳と呉ゼイは、その功績が極めて少なかったのに、矢張り城邑を連ね領地を開き、南面
(玉座は南向き) して 孤(君主の自称) と称しました。これ等の例は全て、明哲の君が上に在って施行し、賢明な臣が下に於いて其れを受け取ったものであり、
三代の優れた決まりであり、漢帝の明らかな制度で御座います。

今、苦労を比較しますれば周公と召公は楽であり、功績を計算すれば、張耳と呉ゼイは僅かであり、制度を論議すれば、
(呉ゼイの領国)長沙は大きい事になります。
だとすれば、魏国の領土も、九錫の栄誉も、以前の恩賞に比べて、なお玉を抱いて粗末な衣服を着ている様なもので、実質に相応しいとは申せません。

その上、列侯・諸将は、幸いにも驥尾に付しまして僅かな苦労を取り上げて貰え、金印紫綬を得ており、その数は恐らく百人単位に昇りまして、矢張り其れを頼りとし、万世の後まで爵土を伝えたいと望んで居ります。それなのに明公が上に在られまして独り恩賞を辞退されますと、下位に居る者の心に不安を与えましょう。上は聖朝の御好意に逆らい、下は高官達のこの上無い期待を失わせます。天子補佐の大業を忘れ、庶民の取るべき小さな道義に信を置かれる事を、私(荀攸)どもは大いに心配する次第で御座います。』

この結果、公は彼ら以外の者に命じて上奏文を書かせ、唯
魏郡だけを受領する事にした
荀攸らは再び上申した。・・・・(略)・・・・公は、やっと命令を受けた。』


この、魏公〕就任=九錫文 (詔勅) の重大さを改めて検証して観ると・・・・
縺@冀州の、河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安・甘陵・平原の10郡を
      以って、君を魏公に取り立てる。
ーー 是れは、通常的に行なわれる”名目”
 だけの封爵では無く、
実際に10郡の「領土」を所有する実態である点。

艨@魏国は、全て漢初の諸侯王の制度の通り、
                 丞相以下の郡卿百官を設置してよい。
』ーー
その魏公国は、実際に国家を運営してゆく為の国家機構・官僚組織を新たに開設してもよい!と云う、
独立国家の承認である点。・・・・即ち、

漢帝国中に、もう1つの
 
魏公国誕生した瞬間であった!!
時に213年(建安18年)5月22日・・・・劉備は益州で「各隹城」の包囲戦中に在った。 『秋七月、初めて魏の社稷宗廟を建立した。
天子は、
公の三人の娘を迎え入れて貴人としたが、
                               一番年少の娘は国で成長を待つ事となった。
九月、
金虎台を作った。 運河 を掘って 黄河に通じさせた
冬十月、
魏郡を東西両部に分割 し、都尉を置いた。
十一月、初めて
尚書・侍中・六卿を設けた。』・・・・・

この『正史・武帝紀』の淡々とした記述内容は、極めて重大である。1つずつ検証して措こう。
社稷を建てる
とはーー古来より、王朝を樹立する時には、必ず前もって
                    天地2神の社稷壇を築き、国家の象徴として其の2神を祭った。
ーー土地の神。ーー五穀の神。 此の世の大地に豊饒をもたらし、天下万民の 命を
支える神々を祭り、人心をして安らか為らしめる所・・・・それが社稷であり、国家なのである。

天子の〔
〕は・・・・東西南北と中央 に5つの祭壇を以って是れを築く。又、夫れ夫れの壇には、方位に見合った5色の土が用いられるべきこと。

東方青土西方白土南方赤土北方黒土
そして
中央の祭壇黄土を以って築くべし・・・・・

天子が諸侯を封ずるに際しては、その者が赴く封地の方角の土を、其処から掬い取って下賜し、
任地に持って行かせ其処に又、新たな
を建てて、天子を支えるーーそうやって国家は繁え
て来たと言うが・・・・曹操は今、献帝から、『君に玄土を、白い茅に包んで授ける故、亀甲によって
占い、土地神の社を建てるがよい!』 とされた。玄土は北方 (冀州) を象徴する”黒い土”である。

社稷は又、王国を滅ぼした時、その者は社稷壇を取り払って、我が身の正統性を示す為に、
新しい壇を築けばよい・・・・とも謂われる・・・・・

5月に勅命を受けた
曹操の国は、この213年(建安18年)7月をもって
正式に
魏公国として建国されたのである!!

ーーだが曹操・・・・是れでも未だ、万全とは思わなかった。

《自分は漢を亡ぼすのでは無く、漢と合体して再生するのである!》・・・・と言って見せる必要性を感じ取って居た。その証明としてーー
漢王室と縁戚関係に成る!!

そこで・・・自分の
3人の娘達をごっそり後宮に入れた。一番下の娘などは未だ年端もゆかぬ

童女であった為に、名目だけの入内であった。

この魏公就任を境に、曹操の新王朝建設への態度は、俄然、形振り構わぬ強行姿勢に一変した

事を示す出来事である。3人の母親は、それぞれ別の女性だったと想われるがハッキリはせぬ。
が、3姉妹の名は判っている。
」・「」・「と言った。
地位は3姉妹ともに、
皇后に次ぐ貴人の位とされた。古えの言い伝えには、”堯”が

”舜”に2人の娘を嫁がせたとされており、曹操はその聖人帝の故事を真似たのでもあろうか?

献帝起居注』には、その〔結納〕の様子が記されている。ーー献帝は、使持節太常大司農の

安邑侯【王邑】を使者として、璧
(環状の玉)・帛 (しろぎぬ)・玄糸薫 (赤黒の絹)・絹万匹を持って業卩

行かせ”結納”とした。 介添えは5人、全て”議郎”を用い、大夫の事務を執り行わせ、副介添えが1人ついた。
無論、真の狙いは・・・・いずれ3姉妹の中から、1人の
皇后を即位させる為であった。
だがーー現在、
伏皇后が居た。現皇后が在る限り、曹操の娘は皇后には成れぬ・・・・


秋9月ーー銅雀台に続き金虎台落成する。

3台構想のうち、2台までが完成したのである。恰も、その構想の進捗具合は、もう1つの戦いの
進展具合と符合するかの如き、眼に見える形での輝きであった。

更にもう1つ・・・・こちらは地味だが
非常に重大な工事が完成した。業卩城の西を流れる シ章水と白溝を運河で結び、
〔黄河へと直結する〕一大水路が開鑿されたのである。

是れに拠って曹操軍は、業卩城の玄武池から直接 黄河へ出た後、そのまま黄河から渭水へ乗り
入れ、何と
長安へと一気に直行する事が可能に成ったのである!!

実際には、直ちに全軍の移動が可能な訳では無いにしても、輜重の輸送能力と効率は飛躍的に
アップした事となる。ーーとき折しも、この
9月・・・・「関中」で一旦は復活した【馬超】は破れ、
漢中」の【張魯】の元へと逃げ込んだばかりであった。ーー曹操にとっての次なる軍事作戦は 2年前に掲げた張魯討伐漢中平定戦完遂であった。
劉備の奴は、来年中にも「益州」を奪い兼ねぬ勢いである。劉備に先に「漢中」を奪われ
ると、後が厄介と成る・・・・劉備よりも先に「漢中」は押さえておかねばならぬ!ーーその為の心強い味方が、この
〔運河の完成〕であったのだ

冬10月・・・・『魏郡を東西両部に分割 し、都尉を置いた』・・・・
これはーー先に述べた「首都圏」構想の前段階に着手した・・・・と云う事である。ほぼ10年後、魏
王朝が成立した暁には、
東部都尉は→〔陽平郡に、西部都尉は→〔広平郡に格上げされ魏郡と合せて→三魏
と呼ばれる魏王朝の首都特別行政区に変身するのである。

11月・・・・『初めて
尚書・侍中・六卿
を設けた』・・・・
こちらはーー本格的に新しい国家の政府機能・行政機関創りに着手し始めた・・・・と云う事であり
先ずは、其の中でも最重要な政府中枢部を完成させたのである。ーー『
魏氏春秋』などによれば、
尚書令(宰相)には→【荀攸】、尚書僕射には→【涼茂】、
尚書に→【毛王介】・【崔王炎】・【常林】・【徐奕】・【何キ】、
侍中には→【王粲】・【杜襲】・【衛覬】・【和洽】を任命した、とある。
六卿・・・(九卿が完成形である)・・・
郎中令(のちの光禄勲)→【袁渙】太僕に→【国淵】大理(のちの廷尉)に→【鐘遙】
大農(のちの大司農)に→【王脩】少府には→【謝奐】中尉(のちの大鴻臚)は→【?】
(※未まだ、この文官達の殆んどを紹介できて居無いのは、筆者の慙愧する処であるが、追々に紹介する予定ではある。)
翌年には
奉常(のちの太常) と宗正が加わり卿、翌々年には衛尉が置かれ目出度く?九卿が整う (217年)。ーーなお、”のち”とは、魏王朝が成立した (220年) 後の事で、漢から王朝を譲り受けた建前の魏王朝は、〔後漢の九卿制〕に合せて名称の変更を行なうのである。

と云う事はーー
魏公国は、事実上の魏王朝
    魏帝国原形を現わした!!
                                                 ・・・・のである。
魏・公国は、衰亡してゆく 漢帝国の、最後のエキスを吸い取りながら、その胎内で成長してゆく。
214年ーー正月・・・・60歳を迎えた曹操は、魏国で初めての籍田を耕した。殆んど自然の力だけが頼りの古代農業に於いては、豊作祈願の祭祀は
重要な国事行為であり、一国の君主として大きな責務であった。”籍田”とは・・・天地神の為の田
の事で、天子みずからが神に供える穀物を収穫する為に農耕作業をする儀式。初めは天子みず
からが耕し、後は人民の力を籍
りる・・・・と謂うことから、「籍」・「田」と呼ばれた。
最早、
曹操天子見做されている事を誇示するパフォーマンスであった。

2月・・・・献帝は、魏国から2貴人を迎える為の使者を業卩城に派遣する。
天子の使者のしるしである”節”を携えた太常事
大司農の【王邑】と宗正の【劉艾】に、礼物用に
束ねられた絹 (束帛) と、4頭立ての馬車を持たせ、5人の介添えと4人の高級宦官が従った。
その
12日ーー魏公の宗廟に於いて、貴人に印綬が授けられた。
その
13日ーー魏公の宮殿の延秋門に至り、貴人を迎え車に登らせた。魏は、多くの重臣達が
出て、その馬車行列を見送った。 【
曹憲】と【曹節】の人は、父親である曹操とは既に
別れの挨拶は済ませてあった。 だから、此の日の見送りには出て来ない。 銅雀台か、完成した
ばかりの 金虎台 の上から ジッと見送って居たのであろうか。
その
22日ーー貴人はシ有倉の城中に到達した。献帝は侍中に命じて、近衛兵(冗従の虎賁)
          出迎えに行かせたが、その煌びやかな行列は前後ひきも切らずに続いたと言う。 その
24日ーー貴人は宮に入った。御史大夫九卿大夫議郎を引き連れて殿中に集まった
     魏国
の2卿と侍中・中郎の2人は、の公卿と並んで殿に登り、宴に連なった。

3月ーー天子は魏公の位を諸侯王の上に置き、
            改めて「金璽」・「赤
糸友」・「遠遊冠」を授けた。

                                                 (使者に持たせて業卩に行かせた。)
3種ともに、魏王の位が特別なものである事を示すアイテム。
金璽は・・・・王者である事を示す金の印鑑。ちなみに、皇帝の印璽は「白玉」である。
糸友は・・・それを(肘に)括り付けて措く為の赤い組み紐。丞相の印綬はであった。
その組み紐の色が「緑」から「赤」に変った訳だ。
遠遊冠は・・・・皇太子と諸王が着ける上が平らな冠。 それ迄は ”冠帽” を着けて居た曹操の頭上には今、王族の証の 長方冠 が載っていた。
尚、皇帝の冠は 「通天冠」 で、其の前後には玉簾状の”前立て”が揺れる。

詰り曹操は、見た目でも
皇帝ほぼ違わぬ姿に成った
のである。

ーー然し・・・・曹操クローン皇帝の心地良さを味わって居た頃にも、天下は激しく揺れ続いていたのである
この
5月、遙か劉備は成都を陥落させ、蜀取り達成!していた。
そして亦、
孫権が濡須の西方に在る 皖城攻撃 したのも此の5月である。
曹操が
もう1つの戦いに明け暮れて居る間にも、そんな事など露も考えずに済む2人には
この曹操の遅々とした動きは勿怪の幸いであった。敢えて其れを見逃すか曹操・・・・??
いや曹操には、頼りに成る家臣達が居て呉れた故にこそ出来る業であったのだ!

地点の関中方面には→夏侯淵地点の関羽には→曹仁
地点の孫権には→張遼が在った。 ( その、夫れ夫れの戦いについては、別節で語る事とする 。)


7月ーーその
”Z地点”に 孫権が攻勢を仕掛けて来たとの報に接した曹操は
自ずから「合肥」へと出陣した。帰還するのは10月。11月には仕組まれた某大事件を勃発させる
のであるが、その辺の経緯は次節以降で語る。
・・・・が、この出征の途上・・・・曹操の心に、
深い哀しみが襲ったのである。
あの
大軍師ーー曹操が生まれたのに遅れる事2年、この20年間の苦楽を共にして来た名参謀が、58歳の享年を以って陣中に没したのである!!

彼無くしては、曹操の今日も亦、あり得無かった。つい先日も、曹操との阿吽の呼吸で、魏公九錫
の辞退と受諾を演出して呉れた、曹魏筆頭の
宰相でもあった。又、三国志上に於いて尊称と
してでは無く、
正式な職制としての軍師第1号でもあった。

曹操幕下に両荀君あり!・・・と並び賞される王佐の臣の1人であった。

だが後世の評価度と有名度に於いては、多くの場合、荀令君こと【荀ケ】の方が知名度が高い。

詮なき事では有る。そもそも同じ王佐の任務では在っても、その分担や役割は異なって居り、また

年齢・個性・容姿・生き様も全く違って居たのであるから・・・・『正史』にはーー

彼は思慮深く緻密で、事を処理する判断力と身の危険を避ける叡智を持っていた。太祖の征伐に随行する様になってからは、いつも陣幕の内で独り計り事を巡らして居たが、当時従軍した者や肉親達の内、その発言の内容を知っている者は誰も居無かった。・・・・彼が前後に渡って立てた奇策は合せて12有ったが、鐘遙1人しか其の内容を知ら無かった。鐘遙は彼の著作集を編集し、未だ仕上がらぬ裡に 折悪しく逝去した。その為に、世間に彼の 全計策 が伝わる訳には いかなくなったのである。』ーーとあり、後世の史家達はジダンダ踏んで残念がるのである。
( ちなみに鐘遙は230年に80歳で没する。 斐松之なぞは 「一体何をやってたんだ!」 と鐘遙を罵倒している程である。)

ーー斯様に曹操は・・・・原則として、【荀ケ】を常に”後方の備え”に置いて、主として大戦略を担当

させた。それに対し彼には
常に遠征に随行させ、直接の作戦・戦術を担当させた

故に、ともすると彼の功績は表面上、曹操の戦功の中に埋もれて影が薄められゆく事にもなった

のである。だが、彼の臨機応変で的を射た作戦の妙や決断は、時として主君・曹操の態度を根底

から変える程の重みを持った。そして曹操が急成長する 原動力 と成って呉れていた。そしてーー

その事実を 最もよく 識って居たのは、常に 戦塵を共に 身近で浴び続けた、他ならぬ曹操自身であった。

荀攸じゅんゆう公達ーー荀ケの従 子に当たる。

曹操
は常々荀攸を褒め讃えては、周囲の者達に次の如く述べていた。
公達ハ
外愚内智外怯内勇外弱内強 ニシテ、善ヲ伐ラズ、労ヲ施ス無ク、智ハ及ブベキモ、愚ハ及ブベカラズ。
顔子・寧武ト雖モ過グル能ワズ
』ーー荀攸は、表面上は愚鈍に見えて、内実は英知を有し、表は臆病そうで実は勇気に溢れ、表面はひ弱であっても 内実は剛気である。 善行をひけらかさず、面倒な事を人に押しつけない。その英知には近づけるが、愚鈍さには近づけない。

また長男の曹丕に対しては、「萄公達は、人の手本となる人物である。お前は、礼を尽くして彼を尊敬しなければならぬぞ!」 と語った。だから荀攸が病気に成った時、曹丕は見舞いに訪れ、唯一人で寝台の下で拝礼をする程であった。

別の上表文に曰くーー 私は荀公達と 天下を巡り歩くこと20余年になるが、
非の打ち処は 些かも無かった彼はまことの賢人である。所謂・・・・
(おだやかさ)・(素直な心)・(うやうやしさ)・(慎ましやかさ)・(控えめな態度) と云う五つの徳によってこれを得た。 人々との交際が立派で、交際が永くなっても、敬意を失わなかった。
【荀ケ】は善を推し進め、【荀攸】は悪を除去し、除去し終わる迄やめなかった

同僚
鐘遙 の回想・・・・ 『 私は何か行動 しようとすると、何時も 繰り返し考慮を巡らし、これで
もう変更の余地が無いと確信してから、彼に意見を 求めたが、荀攸の意見は、人の上をいくのが常であった。』
敢えてもし、
荀ケの才能や人柄・風貌を煌めく宝玉と譬えるなら・・・・
荀攸
の存在は・・・・燻し銀であったと謂えよう。

荀ケより6歳上、曹操からは2歳下であった。初めは霊帝期に権力を掌握した【
何進】に
召し出されたが、彼が宦官達に暗殺され、【
董卓】が権力を乗っ取り、暴政を行うに及ぶと、議郎
の【
何ギョ ウ】らと謀議して、董卓の暗殺企てた

「董卓の無道は、桀・紂より甚だしく、天下の人々は挙って彼を怨んでいる。董卓は強力な軍隊に
依拠して居るとは言っても、
実際はただの1人の男に過ぎ無い!」・・・・その言葉の中には、

彼の静かな、而して不屈な剛毅さが窺われる。ーーだが実行直前に事が露見し何ギョウと荀攸は

逮捕・投獄された。何ギョウは董卓の残虐極まりない処刑法を想うと、その恐怖の余り自殺した。

然し荀攸の方は、言葉つきも、食事を取る時も、泰然自若として、動ずる風も無かった。 折しも

董卓が、【
呂布】に裏切られて斬り殺され、荀攸は命拾いし官位を捨てて帰郷した。 ーーそこへ、
荀ケの推挙を得た曹操からの手紙が届いた。今から 18年前の196年 曹操が【献帝】を
許の城に奉戴した直後の事であった。

『現在、 天下は大いに乱れており、今こそ知謀の士が心を働か せる時である。それなのに、蜀漢の地で変を傍観したまま、 君が野に在る状態は、もう随分長くなるではないか。
直ちに 儂の処へ顔を出して呉れ賜え!』

曹操は【
荀攸】と直に面談した後、大満悦で【荀ケ】と【鐘遙】に 言ったものだ。

公達ハ非常 ノ人ナリ。吾 コレト事ヲ計ルヲ得バ、
              天下 当ニ 何ヲカ 憂ウ可べケンヤ


ーーその5年後の論功行賞では・・・・

忠義公正、ヨク緻密ナル策略ヲ立テ、国ノ内外ヲ鎮撫シタ者トシテハ文若ガ是ニ該当シ、公達(荀攸)ガ其ノ次ニ位置スルと認められている

然し 荀ケは、〔実戦の労苦を経験して居無 いから〕 として固辞・・・・その言動 の中にも、荀攸が如何に”実戦の現場”で、多くの活躍をしていたかが窺い知れる。


そんな地味で目立たぬ 燻し銀の功績 を此処に纏め、その霊前に供えるとしよう。

192年ーー(35歳)・・・・董卓の暗殺を企てるも失敗。
196年ーー(39歳)・・・・曹操は8月に献帝を奉戴。
曹操に出仕、10月に軍師となる
                         ※
呂布に破れた劉備が曹操の下へ逃げ込んで来る。
197年ーー〔張繍戦〕に随行。建策を採用されず曹操は敗退する。
198年ーー
呂布攻めを進言。敗走した呂布は下丕卩に籠城して長期戦となり、
                    曹操は帰還を考えるが、
〔水攻め作戦〕を勧め、呂布を亡ぼす。
199年ーー
※劉備は曹操の下を離脱し小沛に独立。袁紹と手を結ぶ。
       ※孫策は黄祖を破り、江東を制覇。許都襲撃の準備に入る。
200年ーー曹操は劉備を急襲、関羽を虜とする。
       
官渡決戦・・・・荀攸の作戦により、〔白馬・延津戦〕を勝利に導く
             ・・・・袁紹の
穀物輸送車列襲撃を建策し、数千両を焼く。
             ・・・・投降して来た許攸の自白を採用すべきと主張。
               
〔烏巣焼き打ちの奇襲作戦〕を決行させ、官渡戦を大勝利に導く。
203年ーー袁譚の救援要請 (骨肉の抗争)に対して、
躊躇なくゴーサインを出し
                                          袁氏滅亡の流れを掴む。
204年ーー業卩城制圧。
205年ーー
南皮攻撃に随行。袁譚を討ち取る。
207年ーー万里の長城を越えた
烏丸討伐に随行。※郭嘉38歳で死去。

以上、此処までが史書に記される荀攸の功績である。

208年以後の〔荊州進攻〕や〔赤壁戦〕以後の具体的な行動の記録は見られない。但し、

213年ーー
魏公国の誕生時には、事実上の宰相と言うべき「尚書令」に任命されている事から
推しても、
重鎮ナンバーワンだった事が判る。


・・・・但し、従弟の荀ケとの”間合いの取り方”や、その〔
の悲劇〕に対する態度については、事が

事だけに、史料の存在する筈も無く、ただ推測するしか出来無い。ーー然しながら、2人は互いに

互いを尊敬し合い認め合って居る、常に親密な間柄だった事だけは間違い無い。従弟同士と謂う

親さは、他の友人や同僚とは又全く違った信頼や安心感を抱ける存在で有ったでもあろう。

正史・荀ケ伝の最初の頃、献帝奉戴直後の196年の事項として、曹操と荀ケのこんな遣り取りが

記載されている。
ーー曹操が他意無く、荀ケに尋ねた。「君に代わって儂の為に策謀を立てられる

人物が在るとすれば、それは一体誰かね?」・・・・「荀攸と鐘遙です!」

また荀ケが大きな恩賞を再三再四に渡って辞退した時も、曹操への使者を荀攸に頼んでいる。

その荀ケの死から、僅か1年半を経ずしての荀攸の逝去には、肉体的な病魔以上に、その精神

的なダメージの大きさが在ったであろう事は容易に推察できる・・・・。

荀攸公達
ーー40歳近くからの曹操への出仕。そしてほぼ20年に亘る仕官
清潔で徳行を修め』、『常に謀臣の中心として活躍し』、
表面的な行動や態度を整えようとはせずひたすら慎み深く、
 目立た無い生き方生き方を取った。

その大きな功績の割合には、常に目立たぬ
燻し銀の生涯であった。


魏公国の君主を得た曹操・・・・これで、両荀君を共に失った。

曹操は彼の話をする度に、涙を流して悲しんだ。ーー244年、4代目曹芳(少帝)の時、荀攸の墓は曹操の霊廟の前の広場に移されて顕彰される。ちなみに、荀ケにはその恩典は行なわれ無い。

曹操とは、ほぼ同年代で、然も2歳若い58歳・・・・曹操は自ずから、我が身にも近づきつつある、
”命の終焉”を想わざるを得無かったであろう。現代の哲学用語で謂えば形而上学的な思想傾向を強烈に内包し、若い時分から其の発露として、多くの詩賦の中に、有限なる生命 と
しての人間を謳って来た曹操である。

残された人生時間の最後を 如何に締め括り、自己完結を何う果すべきか・・・・!?

魏公
曹操孟徳60歳は、
 その
自己完結スタートであった 【第189節】 潜れぬ虹のアーチ (皇后幽殺、新皇后誕生)→へ