第 13 章
                                       き  ざ  は  し
     皇帝 への アブト
その昇り坂 アブト式 であった。 遅々としてしか進まない。歯車1つ1つの咬み合わせを 確かめながら、おもむろに”頂上を目指すその代り絶対に後へは退がらない。ーーこの運命
共同トレインの車両には・・・幾百万もの欲望と命とが、鈴生りにしがみ付いて居る。止まれ無いし
下がれ無い。ガチガチと只管に、ループをも厭わず、ただ ”
頂点” を目指す耳であった・・・それを
牽引するものは誰あろう。
ーー毀誉褒貶あい半ばする〔乱世の英雄〕、而して静平の姦雄〕 こと
覇王・曹操孟徳 その男であった!!

アブト式 とは・・・・急勾配の上り坂を、レールの間に在るギザギザの突起1つ1つを己の腹の底に組み込まれた歯車に引っ掛け喰い込ませながら、ゆっくりと、然し確実に前進してその頂上を目指す牽引車・登山鉄道の事である。遅々とした歩みではあるが、絶対に滑り落ちる事なく、必ず目的の頂上に到達する。 無論、厖大なエネルギーを必要とする。


凄ご過ぎる男曹操孟徳ーーだが彼の真の凄さは、当時の者達には解ら無かった筈である。何故なら、後世に在る我々ですら、その心算に成って研究して、初めてその超時代性

漸く気付けるからである。況んや
以後の歴史潮流を知る筈も無い、三国時代の人々には、曹操の

遺業が
後の世に、如何に巨大な影響力を与えたか!など解ろう筈が無いのである。

ーーその曹操が後世に残した大きな遺産・・・・それは・・・・

〔漢詩のガイアであり、〔孫子の兵法書の編者であり、民屯の創始者であり、その故を

以って中国に〔農村風景を産んだ〕パイオニアでもあった。 逆に後世の歴史家を歎かせる如き、

節操を尊ぶ漢代の美しい風俗は、かくて曹孟徳によって、完全に破壊し尽くされた!》 様な事を

処々にばら撒いた男でも在り、その功罪は一概には謂えぬ。・・・・だが、善かれ悪しかれーー

彼の
最大の遺産ーーそれは・・・・古代の嫋嫋たる歴史に終止符を打ちその精神至上主義と訣別し、

下剋上合理化してしまった最初
で 在るのだった。
《神々の時代》 に終止符を打ち、 《人間中心の世界観》

確立し、〔天下国家は実力本位!〕と云う、新しき時代の流れを生み出した

激動史・分裂王朝史で在ったのだ。



とは言え、そこまで巨視的では非ずとも、同時代の者達も、いずれは其の曹操の ”只ならぬ気配”

には気付く。但し其れは、曹操本人が周囲に気付かせる為に、もはや形振り構わずに動き出した

後の事であり、それ以前の何時の時点から、曹操と云う男の奥処で
もう1つの戦い

意識され、開始されていたのか!には、全く気付け無かったのであるーー そんな密かな、深謀に

遠慮を加えた
曹操の野望が顕在化し、もはや誰の眼にも明らかに成るのが、正に此の

劉備の蜀取りの頃 なのである。それは曹操の 《天下統一の覇望》 が挫折、夢の

彼方へと消滅し、自ずから断念・諦観された時期と一致するのである。

ズバリ、見切り発車の
皇帝即位・新王朝樹立へと方針の大転換が強行

され始める
のだった。 ーーそして結果的には・・・・ 其の考え抜かれ、練りに練り上げられた

〔括々の過程〕
が、後世の新王朝成立時の手本・模範とされて行くのである。即ち、

曹操が後世に残した
最大の遺産とは・・・・


王朝交代マニュアル完成させた事なのである

王朝交代の手順ノウハウ
  
創り上げてしまったなのである。


実際、「曹魏」以後の中国歴代王朝の交替劇は、全て曹操を手本とし、その手引書に則り、あとは

只、期間短縮・効率化が図られる・・・・と云う塩梅に成って行くのである。

折しも、此の 
劉備蜀取りの頃 からが、正にその表面化の時期と一致するのである。

そして実は・・・・之こそが、劉備の蜀乗っ取りを成功に導いた、
曹操の空白期

実態・真実なのである。ーー古来より、1部の研究者を除き、その
もう1つの戦い には

全く注目される事は無かった。だが、ともすると華々しくて解り易い、面白く外面的な言動のみ

に拠って評価・理解されがちな・・・
曹操孟徳と云う男の、内面的で緻密な、それで居て

粘り強い、真に底光りする物凄さは、この
”知られざる戦い”を識ってこそ初めて、

理解・評価されるべきものである。ーー例えばコミックや小説などでは・・・・・

『かくて曹操は、”魏公”と成ったのである!』・・・・として、”魏公”と云うものの意味を単に場面完結

に用いて終るのである。また読む側も、それで納得し了解して次の展開に眼を奪われてゆくーー

が然し、では一体 ”魏公” とは如何なる意味と重さを内包するものなのか!? 全く理解されては

居らず、ただ単に解ったと錯覚して居るに過ぎ無い。而して本書・三国統一志の場合は、そこから

更に、歴史の真相に分け入ってゆくのである。その、事の重大さ・持つ意味の深刻さ・時代改革の

巨大さを識り得ずして、三国志の世界は語れぬからであるーーがまあ、余り大上段には構えずに

飽くまで小説風に物語ってゆく算段ではある。 果して、曹操孟徳と云う人物の、

知られざる、もう1つの戦い とは、一体いかなるもので在るのだろうか!?



・・・・・時はややバックしてーー劉備が成都を陥落させて
〔蜀を得た〕214年5月からは

ちょうど1年前
の、213年(建安18年)の5月から始まる・・・・

曹操は、この前年の冬に孫権濡須に於いて会戦したが、213年正月には撤兵した。

尚、その秋には”J”の悲劇で最大の功臣だった「荀ケ」を抹殺していた。 濡須戦を終えた曹操は

213年の
4月に、「業卩」に帰還を果す。その頃の事から此の 《第13章》 は再開される。









             第187節

   歴 史 への 挑 戦



         知られざる戦い




実は・・・・曹操が未だ「濡須」に遠征中の213年正月ーー
             
”事”は、既に断行されていた・・・・のである!!

正史・武帝紀』 は、その曹操の事蹟を淡々と記す。

十八年春正月、軍を濡須口に進め、孫権の長江西岸の陣営を攻撃して打ち破り、孫権の都督・

公孫陽を捕虜としてから、軍を率いて帰還した。 詔勅によって14州を併合して9州とした。

夏四月、業卩に到着した。五月丙申の日、天子は御史大夫の希卩慮に節を持たせ、公を魏公に

任命する辞令書を渡した。



この簡潔な記述だけでは、後世の我々には、その中に・・・・実はどれ程の〔巨大事象〕が含まれ、

この事が如何に驚天動地の
大革命であったのかーーそれは判断できない。検証しよう。

先ずは、曹操遠征中に断行された9州制について・・・・

是れは、表面上の説明では、新しい制度では無く、寧ろ昔への復帰であり、復活であった。
言い伝え (最古の地理書・『尚書』 禹貢篇) ではーー9州の起源は、遠く「夏王朝」の始祖・
禹王うおう
天下を9つに区画した事に始まる・・・・とされていた。だから中国・天下の事を 〔
禹域ういき〕 とも謂う.。

その原点に戻す!と云うのが、世論向けの説明・表向きの理由であった。ーーだが・・・・


尚この 〔9州制復活〕 の目論みは、既に10年も前の204年に1度検討されたが、時期尚早とする

「荀ケ」 の進言によって、先延ばしにされていた戦略でもあった。無論、10年前と現在では、その

企図する目的は全く変容していた。ーー10年前、業卩城を奪取したばかりの曹操が欲したのは、

昔の9州制に戻す事により、冀州の境界線を自動的に押し広め、実力以上に彼の権威を高める

事の方に重点が在った。 元より、実力が伴わぬ10年前の情勢に於いては、その計略は 却って

群雄の反発を招くだけの愚策であった。荀ケの賢明なる諌めと言えた。
『その様に為されば、
は、河東・憑翊・扶風・西河の諸郡と、幽・并の2州を支配する事になり、多くの地を奪い取る事になります。・・・・・(略)・・・・・どうか公に擱かれては、急いで兵を引き上げ、先ず河北を平定され、その後で洛陽を修理復興なされ、南下して荊州の劉表に臨まれます様に。さすれば天下は挙って公の真意を悟り、人々は自然に落ち着くでありましょう。
天下が大いに安定してから初めて、古えの制度について論議する事、これこそ、国家を永続させるに有利な遣り方で御座います。ーーかくて太祖は9州設置の論を取り下げた。』 
(正史・荀ケ伝)


だが、あれから10年を経た
213年現在の、曹操の底意・野望の所在は、最早

そんな程度には納まらぬものと成っていたのである。ーーズバリ・・・・


ーー如何にして
魏王朝樹立させるか!?

ーー何れだけ反発を抑えて 皇帝就く!?

軍事的な天下統一の不可能を悟った曹操にとって、この目標こそが、限り有る己の生涯の到達点

と成っていたのである。焦らぬが、さりとて余す時間は 豊富 とは言え無かった。”アブト”である。

残された時間の経過と共に、曹操の遣り方は一層苛烈な様相を呈してゆく・・・・。



さて、その〔9州制復活〕の真意であるが・・・・実は7年も前
(206年)国除と、2年前(211年)
魏郡拡張の政策の中に、既に 其の意図は連動されていたーー その事実が、不覚にも、
今更ながらに想起されるのである


当時の中国は13 (司隷・首都圏を含めれば14州)郡・県制であった。そこに特例として

存在していた。”国”とはーー歴代皇帝の皇子や兄弟が封ぜられた「郡」の事であり、「○○王」の

領封地とされて来ていた。が、当の本人(王)が没してから名前だけの「国」が幾つも在った。但し、

皇帝・劉一族の直轄地との意識だけは強く残っており、他の郡に比べるとアンタッチャブルな土地

とされ、劉一族以外の者には 《手出し無用》 の”聖域”と見做されていたのである。然も、
当然ながら

皇帝一族であるのだから、その封地・王国の所在地は、全て国の要地とされる場所に点在してい

た。無論、「業卩」の在る冀州の内にも多く在った。ーー
邪魔である!いずれ 魏国

誕生する場合、その領域内に ”劉氏” の直轄領が残って居たのでは、如何にも按配が悪い・・・・

そこで7年前に断行されたのが
国除き なのであった。つ纏めて取り除いた。

業卩の近く冀州で言えば「
甘陵」・「平原」・「常山」ー→この3国は後日、魏国誕生の際には其の

領土としてスタートする。 更に 「済北」・「阜陵」・「斉」・「北海」・「下丕卩」を合せた8国であった。

このとき曹操は流石に”取り潰し”だけでは聞えが悪いとして、代りに献帝の皇子3人を新しく国王

に任じた。その見え見えの措置を嘲笑ったのが、益州に居た例の【許靖】で、「人の物を盗る場合

には、一旦それを与えて見せるものサ!」 と看破していた。(既述) 7年も前の事である。



2年前の
魏郡の拡張 ーーこちらは更に具体性を帯びていた。業卩城の在る 魏郡 は、

まさに曹操の心臓である。新国家の中枢と成る・・・・そこで、隣接する
郡国から14の県を編入

して加え 、それ迄の2倍の30県を以って、 魏郡の行政区画拡大をして措いたーーのである。

差し当っての理由は・・・・諸王侯の領地が、「王は1郡・侯は1県を以って為す」・・・・との規定が

在った為、もし曹操が”王”と成って1つの郡を領地とした場合に備えて、1郡を巨大化させて措く。

それに拠って、将来的には 前漢の
三輔 、後漢の 三河 に匹敵する首都特別区

設置に備えるー→後には実際に、この地域に
三魏 が誕生する!!

              ※ 三輔・・・・長安 (京兆尹) ・左馮翊・ 右扶風。 三河・・・・洛陽 (河南尹) ・ 河内郡・ 河東郡




さて、曹操遠征中の213年正月に発動された、肝腎の9州復活であるが
その効果は覿面
抜群の統治効力を発揮する。ーーこの措置に拠って、曹操の根拠地である
冀州の版図・行政範囲は一挙に天下最大と成ったのである

13ー9=4・・・・で、既存13州から 4州 が消滅した。

并州幽州涼州交州4州 で ある。 又、ややアヤフヤな位置づけの首都圏・
司隷校尉
=司州をも”州”として加えれば
14州 とも謂えるのだが、同時に消滅させた。だから14−9=5・・・で、司州(司隷校尉)も含めれば5州が消滅した事になる。

ーーと云う事は、削減された
州分の版図が整理統合されて、州のいずれかにプラスされた事

となる。但し其の中で、
全く変更無し 兌州徐州青州揚州益州
もある。又、変更

拡大された
州 の内の州は・・・・実質的には、中国の支配が及んで居無い辺境州を、便宜上

くっつけたに過ぎ無かった。
荊州には 交州が、 雍州には 涼州 が含まれる事としたのである。

ーーとなれば、残るはガチガチの曹操領である
冀州
豫州 のみ

然し 其の ”豫州” には、(司隷だった) 弘農 と 河南 の 2郡が加えられたに過ぎ無い。


ーーつまり、
9州制復活最大眼目は・・・・
   冀州
拡大集中していたのである

その曹操のお膝元冀州にはー→旧来の2州が丸ごと飲み込まれた。更には司隷校尉だった「河東」・「河内」・「馮翊」・「扶風」の4郡 をもが 併合されたのである。

面積こそ及ばぬものの
人口経済力では他を断然圧倒する最大最強巨大州誕生したのである!!


然しながら・・・・世間は全くの無反応・・・・誰一人として文句を言う者も出て来無かったのである。

そう言われて辺りを見廻せばーーおんや? 興奮して居るのは、筆者の唯独りだけ??か!?

そうなのだ。よ〜く観て見れば、誰にも直接的な被害・実害は及んで居無いのである。何を今更、

改めて目鯨を立てる必要も無い改革・・・にしか見えないのである。即ち、既に曹操の版図と成って

いる自国領内を、曹操自身が好き勝手に”線引きし直した” 位にしか思われ無かったのである。

それで好いのだ。今は充分である。実際、曹操も、そう云う風に振舞い命令した。自陣営の全ての

機構や人事には未だ、
州制に伴うべき本格的な変更を与えずに放って居た。一応は、新任の

「冀州西部都督」などを任命するが、任務も兵力も従来通りの儘に過ぎ無かった。その仕掛けが

功を奏し、全ての機能が大きく姿を変え、いよいよ本格的に動き出すのは約
年後の事である。


以後、かくの如く、万事は曹操不在(遠征中)の「業卩」に於いて、その内命を受けた重臣官僚達の

手によって、次々と大改革が断行されてゆくのである。と言うより、曹操は外征と革命を同時進行

させつつ、”
その目的”の達成を推進してゆくのである。今58歳。60代に成ってから益々その

戦いは熾烈となる。物凄いエネルギーである。年表にして、彼の事蹟を逐一書き込んでゆく作業を

して居ると、その八面六臂・東奔西走・獅子奮迅ぶりに、改めて 驚嘆してしまう。 と 同時に、その

緻密な遠謀深慮の奥の深さには尚のこと溜息が出て来る・・・・・。

又、曹操陣営の官僚達の有能さと、その層の分厚さにも思い至らされる。そして、業卩城の留守を

預かる曹丕 (又は曹植) の責務の重大さを、改めて思い知らされるのでもある。 9州制の発動を陣中で了承し、(第一次)濡須戦を切り上げて4月に業卩城に帰還した曹操を待ち受けていたのもの・・・・それがーー魏公〕就任 である!!

ここから曹操孟徳 知られざるもう1つの新たな戦いの日々が開始される。

業卩城に戻るのを待ち兼ねた様にした
213年(建安18年)の5月22日ーー
許都に在る
皇帝(献帝・劉協) からの勅使が、その辞令書を持参した。

この
魏公と云う特殊な地位と、その有する巨大な意味についての考察は後廻にして、

先ずは、献帝の詔勅そのものを見て措こう。無論、皇帝の直筆では無い。作成者は尚書左丞の

【潘
冒力】である。内容は、曹操の天下平定の功に報いる・・・・と謂うもの。


文章の書き方は、ちょうど曹操の人生を
フラッシュバックさせたかの如き手法を採っているので

この際我々は、ついでに 《曹操の半生記・個人史》 を通読できてしまう訳でもある。


ーー蓋し追慕すれば、つい1年前、この”授賜”に猛反発して取り止めさせた「荀ケ」は、

                                  既に 此の世には居無いのであった・・・・





  
漢帝の(曹操を魏公に任ずる)辞令書
       
所謂いわゆる・・・・九錫文きゅうせきぶんと言われるみことのり


朕は不徳の為、若年にして 悲しむべき不幸に遭遇し、遙か西方に流れ住み 唐・衛 へと移った。

この時期に在っては、綴旒
ていりゅう
(垂れ付き旗) その儘の有様であった。宗廟は殆んど祭られる事

無く、社稷は在るべき地位を失った。凶悪な者どもは分不相応な野望を抱き、中国
(漢王朝)を分裂

させ、国内の一人の人民も 朕は持ち得無かった。 詰り 我が高祖の 受け給いし天命は、今にも

地に落ちんとしていた。朕はそのため朝早く起き仮眠しか取らず、心に悲しみと嘆きを抱きながら

言った、『祖よ父よ、股肱よ先正
(公卿大夫)よ。一体誰が朕の身を哀れんで呉れるのか』。それが

天の真情をいざない、丞相(曹操)を養い育て、我が皇室を保全し、広く艱難を救済して呉れた。

朕は実に其の御蔭を蒙ったのである。今、君に典礼を授けたい。敬つつしんで 朕の命令をきけ。

昔、董卓が初めて国家の危難を惹き起こし、諸公が官位を放棄して 王室を助けようと

計画した時、君は 積極的行動をとり、率先して 戦争の口火を切った。 これは君の本朝に対する

忠義を示すものである。
(189年〜


のちに
黄巾(黄巾の乱以後の農民軍)が 天理を無視し侮り、我が3州(青・冀・兌) を侵害し、ひいては平民

まで巻き込んだ時には、君は又彼等を滅ぼし東中国を安定させた。これも亦君の功績である。
(192年〜


韓暹と楊奉が勝手に威令を揮った時、君は征討を行ない、よく其の危難を取り除き、かくて
許に都

を移し
、我が首都を造営し、官職を設置し、祭祀を復興し、古い制度・文物を失う事無く、その結果

天地鬼神は安きを得た。これも亦君の功績である。
(196年)


袁術
は僭号を称し逆心を抱き、淮南に在って勝ってを極めて居た時、君が心霊を働かせハッキリ

した対策を取るのではないかと恐れ憚った。キ陽の戦いでは、橋ズイが首を授け、御稜威
みいつ

南に進み、袁術は滅亡した。これも亦君の功績である。
(199年)


ほこを巡らして東へ征討し呂布は殺され(198年)帰還の途中、張楊は打ち倒され目圭固すいこ

罪に伏し、張繍は降伏した。これも亦君の功績である。


袁紹
は天理を無視し 掻き乱し、社稷を危うくしようと企み、その軍勢を恃んで 兵力を誇示し、侮り

の心を抱いて居た。 この時に於いて、官軍は少数で力弱く、天下の人は心を冷たくし、確固たる

信念を持っている者は無かったが、 君は大いなる節義を保持し、 精誠は 白日を貫く程で、その

燃え上がる怒りは 武勇に溢れ、巡らす策略は神の如く、
官渡にて処罰を行ない、醜悪な輩を殲滅

し、我が国家を絶対の危機から救った。これも亦君の功績である。
(200年)


軍は大河を渡り、4つの州
(青・冀・幽・并) を平定し、袁譚・高幹は いずれも其の首を晒し、海賊は

逃亡し、
黒山の賊は服従した。これも亦君の功績である。


3種の
烏丸が2代に渡って盛んに混乱を惹き起こし、袁尚が其れに頼って、北境地帯を圧迫し

占拠した時、馬を引っ張り車を担いで行き、一度の征伐で滅ぼした。これも亦君の功績である。

〔万里の長城越え=北伐〕 
(207年)


劉表
が思い上がって顔をそむけ貢物を差し出さ無かった時、官軍は征途に登ったが其の威風は

先に到達し、百の城・8つの郡は腕を縛り膝を折り曲げて服従した。これも亦君の功績である。

〔荊州平定=南征〕
 (208年)


(※次には赤壁戦の敗北(208年)が来る筈なのだが、無論、その事には触れ無いーー


馬超・成宜が協力して悪事を働き、黄河と潼関に沿いつつ立て籠もり、欲望を思いの儘に伸ばそう

とした時、之を渭水の南で全滅させ、5桁に昇る馘
かく (殺した敵兵の左耳) を献上し、ついに辺境

地帯を平定し、蛮族を慰撫した。これも亦君の功績である。鮮卑族と丁零族は二重三重に言葉を

通訳させながら遣って来て、卑于族と白屋族は官吏の派遣を要請し、貢物を差し出す事となった。

これも亦君の功績である。



君は天下を平定した功績が有る上に、優れた徳義を持ち、四海の内を秩序あらしめ、広く風俗を

美化し、遍く恩恵と教化を施し、刑罰・裁判に慎重で憐みを掛け、官吏は苛酷な行政をせず、人民

は悪事を働かなくなった。皇族を敬い、絶えた家の復興を奏請し、旧来の徳、以前の功を全て然る

べく処遇した。伊尹の徳は皇天に届き、周公の徳は四海に輝いたけれども、以上の事に比すれば

影も薄くなる。


朕は聞いている。前代の聖王達は 何れも優れた徳を持つ人物を位に就け、領土を授け、人民を

分け与え、恩寵のしるしを高め、礼遇を示す文物を設ける事を許した。王室を保衛し、その時代を

輔佐させる為である。そもそも周の成王の時に於いては、管叔・蔡叔が動乱を起こしたので、兵難

の懲罰と勲功への期待の意味で、邵の康公を使者として斉の太公に履物を下賜し、東は海まで、

西は黄河まで、南は穆陵まで、北は無棣まで赴かせ、五公
(公・侯・伯・子・男)と九伯 (九州の長 )を征討

する実権を与え、代々太師の位を授け、東海を褒美として与えた。襄王の時代になると、また楚の

人間が王への貢物を差し出さ無かったので、晋の文公に命じて侯伯の位
(諸侯の長)に登らせ、2台

の輅車
(天子の乗用車) ・虎賁 (近衛兵)・金夫鉞 (殺生権の象徴たるオノとマサカリ)・秬鬯( 祭祀用の酒)・弓矢を

下賜し、大いに南陽の地を開いて領土を増し、代々諸候の盟主とした。従って周王室が破滅しな

かったのは、この2国の御蔭である。



いま君は 盛大光輝の徳を掲げ、明らかに朕が身を安んじ、天命に答え奉り 大功を導き輝かせ、

九州を安定し、服従し御用を勤めない者は無くなった。功績は伊尹・周公より高いのに、恩賞は斉

・晋の場合よりも粗末である。

朕は甚だ気の引ける思いがして居る。朕は微少な身でありながら兆民の上に位置し、その責務の

艱難を思うにつけ、淵に張った氷の上を渡って行く様な気がしており、君が助けて呉れなければ、

朕は責任を果し得無いであろう。



今、冀州の河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原
あわせて
10郡 を以って、君を 魏公 に取り立てる。

君に
玄土 (北方を象徴する黒土)を白い茅に包んで授ける故、亀甲によって占い、土地神の社を建てるがよい。

昔、周王室に於いては、畢公 と 毛公が朝廷に入って卿 (大臣) として補佐し、周公・邵公といった

太師と太保が外に出て2伯
(諸侯の長)と成った。外と内の任務のいずれにも、君は実際通じている。

よって
丞相として冀州の牧を担当すること以前の通りとする。

(※以下は、皇帝からの特別プレゼントの数々である。一々勿体ぶった理由が付けられていて面白いが、当時の皇帝=
天子の周辺が知られる興味深い記述でもある。又、曹操の位置・地位が、段々と皇帝の其れに近付きつつある過程の
一端を示す記述としての意味合もある。)


また君に
九錫(1車馬・ 2衣服・ 3楽則・ 4朱戸・ 5納陛・ 6虎賁・ 7金夫鉞・ 8弓矢・ 9秬鬯)を与える。よって敬んで朕が命をきけ。


君が礼と法を整え人民の軌範となっている為に、彼等は安んじて仕事に就け、動揺する者は存在しなくなった。かかる理由によって、君に
大輅(天子が天を祭る時に乗る車)戎輅(天子が戦さに出る時の乗用車) 各1台と、黒の牡馬8匹を賜う。


君が職分に励む事を奨励し、基本
(農業)の振興に努力した結果、農民は仕事に昏め、穀物と絹帛は蓄積され、大業はここに興隆した。係る理由によって、君に袞冕の服(天子の衣服と冠)を、赤セキ(赤い靴)を添えて賜う。


君が謙譲を尊んだ結果、人民の品行は高まり、年長者と年少者の間の礼が確率し、上下すべてに渡って調和が保たれる様になった。係る理由によって、君に
軒懸の楽 (諸侯の部屋の3面に吊り下げる打楽器)イ月の舞 (六列六行の人数による舞子) を賜う。


君が教化を翼賛宣揚し、四方の地域まで啓発した結果、遠方の人は顔を此方に向けて服従し、中国は充実した。係る理由によって君に
朱戸(天子が用いる朱塗の戸)を賜い住まわせる。


君は其の叡智を研ぎ澄まし、禹も難かしいとした人物評価に思いを致し、才能ある者を官に就け、優れた人間を任命し、善行ある人達を必ず起用した。係る理由によって君に殿に登る為の
納陛
(上下左右を覆われた階段)を賜う。


君は国の政治を執り行い、厳正公平な態度を取り、微細な悪をも全て抑え退けている。係る理由によって君に
虎賁の士(近衛兵)300人を賜う。


君は天刑によって糾し虔しみ、その罪ある者を明らかにし、国の綱紀を犯した者を全て誅滅している。係る理由によって君に
金夫各1つを賜う。


君は龍の如く登り虎の如く見、八方を遍く見渡し、忠節に反する者を討伐し、四海の敵を打ち砕いた。係る理由によって君に
丹彡(赤い弓)1つ、丹彡100本・玄衣(黒い弓)10・玄衣1000本を賜う。


君は温和と恭敬を以って基礎と為し、孝行と友愛を以って道徳と為し、信義に明るく誠実な態度は朕の心を感動させている。係る理由によって君に
秬鬯樽を王賛(玉製の杓)を添えて賜う。


魏国、全て漢初の諸侯王の制度の通りに
       丞相以下
群卿百官を設置してよい

慎んで受けよ。敬んで朕の命令に服せよ。 汝の民衆を労わり、諸々の功業を明らかにし、よって

汝の優れた徳を全うし、我が高祖の大命に応え、それを弘めよ。








      
プレゼント目録

魏公・・・・冀州の河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原あわせて
         10郡
を所有

・・・・・・白い茅に包んで授けられた玄土(北方を象徴する黒土) を用い、亀甲によって
           占い、土地神の
社を建ててよい

丞相として冀州の牧を担当

九錫きゅうしゃく (1車馬・2衣服・3楽則・4朱戸・5納陛・6虎賁・7金夫鉞・8弓矢・9秬鬯)
大輅
たいろ (天子が天を祭る時に乗る車)
戎輅じゅうろ (天子が戦さに出る時の乗用車)
各1台と、それを牽く黒の牡馬8匹を賜う
袞冕こんべんの服 (天子の衣服と冠)赤セキ(赤い靴)
を添えて賜う
軒懸
けんけんの楽 (諸侯の部屋の3面に吊り下げる打楽器)
イ月ろくいつの舞 (六列六行の人数による舞子)
を賜う
朱戸 (天子が用いる朱塗の戸)を賜り住む
殿に登る為の納陛のうへい (上下左右を覆われた階段)
を賜う
虎賁
こほんの士(近衛兵)300人を賜う
金夫
ふえつ各1つを賜う
丹彡とうきゅう(赤い弓)1つ丹彡100本・玄衣ろきゅう(黒い弓)10・玄衣
1000本賜う
秬鬯
きょちょう1樽を、王賛けいさん(玉製の杓)を添えて賜う



ーーだが曹操は、この献帝からの授賜を
     全て辞退した!!・・・・のである。 【第188節】 魏国の濫觴 (大軍師 没す!)→へ