【第186節】
正史三国志の『蜀書』には〔不忠者列伝〕が存在する!!
モロに、そうタイトルしては居無いが、〔第十〕・「劉・彭・廖・李・劉・魏・楊伝」は正に
その”挫折7人衆”乃至は”悪逆7人衆”を集めて纏め書きした部分である。
正直といえば正直なのではあるがーー実際の処は・・・・最初は皆 忠臣で在り、其れ成りの功績を修めて居た者達なのである。だから都合が悪いからと云って、彼等を全員ネグり省略してしまうと、蜀の歴史が穴凹だらけと成り果て、国の様子を正確に語れなく成ってしまう・・・・・。
〔必要悪〕、〔仕方無し〕の、陳寿にとっては 切なく辛い執筆作業の箇所である。 詰りーー
劉備・諸葛亮の
「蜀」は、決して順風満帆な国家経営を歩むのでは無く、ややもすると
”法律と遵法”に拘り過ぎて、何処とは無くギスギスした人間関係を持たらす。
或る意味では、劉備流の大らかな美点が、諸葛亮流のキッチリとした組織論に拠って相殺されて
ゆく過程とも言えるーー実際、【蜀取り】以降の劉備は、専ら〔曹魏〕と〔孫呉〕との軍事抗争に明け
暮れ、内政は諸葛亮任せるしか無くなる。まあ、それが〔建国君主の宿命〕では在るのだが、やや
寂しい・・・・但し、西郷の後の「大久保」や、高杉の後の「山県」の如く、建国の実務を担った者達
への世間の風当りは厳しい。また其の人間的魅力にも乏しい。と云うより、そもそも、建国の実態
とは、特に〔法律〕に拠り国を統治してゆこうとする”立憲君主国”を目指す場合に於いては、その
創造作業は、非人間的な冷厳さが必要とされる「無機質な作業の連続」なのである。
にも関わらず〔諸葛亮孔明〕の場合は、その人間的魅力を含め、時空を
超えて人々の心を感動させ、敬慕敬愛され続けて居るのだから、実に偉大である。
諸葛亮が人々に敬慕される理由は幾つも在ろうが、少しだけ考えて試る。
先ず孔明には、仕える立場に徹する清廉さが有る。自らが君主・トップに立つと云う
人間最大の欲望を一瞬たりとも抱かず、終生輔佐役に徹した点。
次には孔明が、既存の大企業を選ぶのでは無く、将来性も危うい弱小企業で有るにも関わ
らず、その社長の人柄に惚れ込んで、躊躇う事なく身を投じた点。
勝れて独自のはっきりとした志(大ビジョン)を持つ青年であった点。
どん底から立ち直り、逆に苦難をバネに大きく飛躍する不屈の行動力を有する点
劣悪な環境の裡に在りながらも、全身全霊を以って支え貫く至誠の持主で在った点
周囲に同輩なく孤高の存在として孤軍奮闘を強いられた辛さを有して居た点・・・等が
垣間見られる。その一方で寧ろマイナスで有る面も亦、諸葛亮の魅力なのでは無いだろうか?
人材登用・人物起用に於いては、縷々失敗人事を行なってしまう。就中、決定的場面・
重大局面での致命的人為ミスを呼ぶ様な誤った人材配置を再三 犯してしまう。曹操や
孫権の場合にも 失敗は有るが、取り返しの付かない様な、致命的失敗は 犯して居無い。それに
比べると諸葛亮の場合は、傾国の不沈に関わるケースが目立つのである。(後述)
その事は、罰せられた相手が、《諸葛亮ならば又、己の復権を認めて呉れるだろう》
と淡い
期待を持った事実の中に、諸葛亮の人間的な甘さ・温情 が、彼の内奥・奥処に在った事を示していると言えよう。 そうした自身の優しさや、人間的温もりを、”甘さ”と 誤解されぬ為に
行なったのが、「哭いて馬謖を斬る」 の行動だったとも映る。
大は国家戦略の立案から、小は徴税の帳簿点検に至る迄、全ての国務に眼を配らなくては
納まらぬ完璧主義の心配性は、或る意味では”狭量”でも有る。其れをこなすだけの能力が有った
と言えば確かにそうかも知れ無いが、身体を壊す程ではチト遣り過ぎであろう。
又、彼の法治主義が厳格に過ぎるとの批判も出るので有るが『漢晋春秋』の習鑿歯は言う
『昔、管仲は、伯氏の領邑300戸を没収したが、伯氏は生涯怨みがましい言葉を発し無かった。
聖人・孔子も難しい事だと言っている。諸葛亮は自身の死によって、生前に罰を与えた「廖立」に
涙を流させ、「李厳」を悲死に至らせた。ただ単に、怨みがましい言葉を言わせ無かったと云うだけ
では無い。そもそも水は完全に平らかでありながら、傾いた者は其れを手本にし、鏡は
何も彼も
明らかに写しながら、醜い者は腹を立てないものだ。水や鏡が、物の本質を究明しながら、然も、怨恨を抱かせ無い理由は、それ等に私心が無いからである。
水や鏡でさえも 私心が無ければ 猶を 非難を免れる事が出来るのである。まして大人君子が
生命を愛うしむ心を抱き、憐みと思い遣りの徳を施し、用いざるを得無い場合にのみ法を行使し
自分から犯した罪にのみ刑罰を加え、私心に拠らずに封爵を与え、怒りに拠らずに処罰を行なう
ならば、天下に服従しない者など居ろうか。諸葛亮は、こう謂う理由から観て、刑罰の行使が的を
射ていた、と言ってよく、秦・漢以来、絶えて無かった事である。』
・・・・と、大絶賛して居るのである。とは言えーーだから、大雑把な代りに生き生きと個人が輝く
【呉】の在り方や、曹操の裁量によって円滑に衆を仕切ってゆく【魏】の在り方とも異なる、独自の道を歩まざるを得無いーー
畢竟、他人の国を乗っ取った者に架せられた、〔重い十字架〕 である。
尚当然だがこの不忠者列伝7人とは正反対の高みに位置して、政権中枢を担うグループも
存在した。恒に中央政治に携わり非常に優れていた (と想像されている) 蜀の法律の制定に関与した
所謂、〔蜀科5人衆〕である!そのメンバーは【諸葛亮】を筆頭に【法正】・
【劉巴】・【伊籍】そして【李厳】であったと「正史」は記している・・・・だとすれば此の中にも
1人、《不忠列伝》 の該当者が居るのである!? 陳寿は其の『評』に於いて、彼等7人を一刀
両断に身から出た錆である!と言っているのであるが、どうも気に成って仕方が無い。
故に先ず、その辺の”人材の質”を、簡略に検証して措こう。(事件の詳細はいずれ出て来る)
とは言え、7人もワラワラ出て来ると、些か辟易とされるやも知れぬので頑張って戴きたい。
先ずは【李厳】ーー16年後の230年に【李平】と改名する。字は正方
「綿竹城」への増援軍を指揮するも、そのまま全軍を率いて劉備に降伏し、直ちに〔裨将軍〕に任じ
られた人物。まあ、寝返り・裏切りの第1号の功労者?では在った。
成都が平定された後 〔建為郡太守〕・〔興業将軍〕に成った。劉備が漢中へ出征して居た218年に
資中県で 数万規模の反乱 が起きたが、李厳は 新たに徴兵する事なく 手持の5千だけを率いて
鎮圧する。また蛮夷(異民族)が新道県を包囲した時には、救援に駆け付けて追い払った。その功
により〔輔漢将軍〕に昇進、郡太守を兼務する。更に後には〔尚書令〕と成り、劉備臨終の砌には
諸葛亮と並んで事後を委託され〔中都護〕などを経て終には〔前将軍〕にまで昇進
する。処が、諸葛亮が (有名な) 「キ山攻撃」に遠征中、肝心要の時に昇進を求めてのサボタージュ
を行ない・・・・官位剥奪・庶民に落とされて流罪と成る。
然し 諸葛亮ならば、いずれは復権させて呉れるだろうとの一縷の望みを抱き続けた。だが、孔明
死去を知らされた時、もうダメだと悲嘆して死んでゆくのである・・・・。
『不忠者列伝』の残り4人も簡単に見て措く。(記載順)
問題の【劉封】ーー阿斗が生まれたアトは、微妙な立場の劉備の養子。
益州平定戦で大活躍したので〔副軍中郎将〕に任じれる。その後は、関羽・孟達の守備する荊州に
派遣されて、不信感の拭えぬ孟達の目付役を仰せつかり、功あって〔副軍将軍〕に昇進。
だが、重大な過失が2つも有った (詳細は別章で述べる) として・・・・
『諸葛亮は、劉封が剛勇な為に、代替わりのアト、結局は制御し難く成ると判断し、この際、彼を除く様にと先主に進言した。
ーーその結果、劉封に死を賜い、自殺させた。』
次は、あの”禿チャビン刑”を受けて居ながら【广龍統】の所に押し掛けて、採用を勝ち取った【彭永】の事。ーー蜀が平定されると〔治中従事〕の抜擢された。然し、
『彭永は、囚人から起用され、一朝にして州民の上に立つ事と成ったので 思い上がり、自ずから
優遇されて居る事を鼻に掛ける様子が次第にひどく成っていった。諸葛亮は表向きは彭永を持て
成して居たものの、内心では好く思わず、しばしば先主に内密で言上し、
「彭永は遠大な野心を持って居る故、おとなしく仕えさせて置くのは難しいでしょう」 と述べた。
先主は諸葛亮を敬愛し信頼して居た上に、彭永の行状を観察した結果、次第に疎んずる様になり
彭永を江陽太守に左遷した。』
この仕打を根に持った彭永は、何と馬超を誘って”クーデタア”を持ち掛けたのである。
「君が外側を受け持ち、私が内側を受け持てば、天下は簡単に意の儘に成るのだがネ。」
外様の馬超は驚き、疑われる事を恐れ、直ちに彼を告発逮捕した。 そのとき彭永は、言うに
事欠いて、劉備の事を 「老革!」=老い耄れ兵士メ! と罵った。
ーー結局、処刑された。37歳であったと言う。
更に、【廖立】ーー字は公淵・・・・劉備が荊州に根拠を得た時に招聘し、
20代の若さで〔長沙郡太守〕に抜擢された。諸葛亮は彼を非常に高く評価し、孫権の使者が質問
した時には、次の如く答えている。
「广龍統と廖立は楚の良才であり、正に後世に伝える我が功業を輔佐し興隆すべき者達です」と。
ーーその後、(既述の如く) 約束違反に怒った孫権が、荊州3郡を奪い返した時、廖立は脱出して
益州へ逃げ帰った。劉備は咎めずに〔侍中〕に任じるが、後には〔長水校尉〕に降格される。
『廖立は本心では才能・名声ともに、己は諸葛亮の次に位する者だと 自負して居た。それなのに
閑な官に移され、李厳らの下に置かれたと云う事で、恒に怏々として気持が晴れ無かった。』
そこで終には、事ある毎に 私的な席で、現体制の不備や 人事の不適当さ、ひいては家臣団への
誹謗中傷を行ないだした。元々優秀な男だから、その言は峻烈を極めたーー諸葛亮は上表する。
『長水校尉の廖立は何もせずに尊大に構え、士人達の評価をし、国家が賢明な人物を任用せず、
俗吏を任用していると公言し、更に、万人を率いる大将はみな小人物だと放言するなど、先帝を
誹謗し大勢の家臣の名誉を傷つけました。或る人が、国家の兵士は精鋭で部隊の組織もきちんと
していると言った処、廖立は首を上げて屋根を見詰めながら憤然と血相を変え、
「取り立てて言う程の価値が有ろうか!」と怒鳴りました。およそ此の様な事が無数にあります。
羊が群れを乱してさえ、害を為すものです。まして廖立は、高い位に在るのですから、普通以下の
人間は、彼の言葉の真偽を識別する事は出来ませぬ。」
ーーこの結果、廖立を廃し、庶民に落として、ビン山郡に流した。
諸葛亮が死んだと聞くと、涙を流して歎いた・・・・。
次の【劉王炎】については既述したので略すがーーあの、例の・・・・
顔は草履を受ける地では無〜い! として 処刑された人物である。
『それより以後、大官の妻や母が、朝賀に参内する風習は絶えたのである。』
続いては、本来ならば『武将列伝』入り しても不可しく無い、勇将・・・・・
【魏延】である。ーー詳しくは第U部の「最終章」で語られるが・・・・20年後に諸葛亮が
五丈原に没した直後のゴタゴタに因り、一気に”叛逆人”の仲間入りしてしまう。
現在は1部隊長から一挙に〔牙門将軍〕へとメキメキ売り出し中。やがては張飛が就任するだろう
と予想されていた〔漢中太守〕に大抜擢され、〔督漢中〕・〔鎮遠将軍〕と成る。更には〔鎮北将軍〕→
〔丞相司馬〕・〔雍州刺史〕→〔前軍師〕・〔征西大将軍〕と、昇進し続ける。無論、それだけの実力を
有し、武勲を挙げたからである。・・・・処が・・・・(とナル)
『魏延は諸葛亮に従って出陣する度に、何時も1万の兵を要請して、諸葛亮と違う道を採り「潼関」
で落ち合って、韓信の故事に倣いたいと願ったが、諸葛亮は制止して許さ無かった。
魏延は常に諸葛亮を臆病と思い、自分の才能が充分発揮できないのを歎き、かつ恨みに思って
居た。魏延は士卒をよく養成し、人並外れた勇猛さを持っている上に、誇り高い性格だったから、
当時、人々は皆 彼を避け、遜って居た。ただ 「楊儀」だけは 魏延に対して容赦をしなかったので
魏延は大いに怒りを抱いて居り、ちょうど水と火の様に相い容れ無かった。』 ・・・・で、
取り残された魏延は、楊儀の命で 斬り殺され、3族は皆殺し にされる。
最後は其の【楊儀】である。ちなみに『李漢輔臣賛』の著者・【楊戯】とは別人。
その後の楊儀ーー想ったよりも低い評価しかして貰えず、「こんな落ち目に遭うとは!!あ〜あ、
こんな事なら、いっそ、あの時に魏に寝返っていた方がマシであったか!?」 などと、つい本音を漏らした為に告発されて、庶民に落とされて流される。が猶も配所に於いて激烈な言葉を吐き続けた為に、再逮捕され自殺する・・・・
主君・劉備に悪意を持つは、互いに味方同士いがみ合うは、無能と判っていても重職に就かせなくてはならぬ はーー行く先は決して薔薇色とは言えぬ、蜀の不安な未来が 仄見える・・・・
何だかスッカリ、滅入ってしまった・・・そこで、ジャ〜ン!!
話題をお目出度い話に転換しよう。
劉備の再婚である!!
折しも正妻の〔孫夫人〕に逃げ出されて (本心ではホッと安堵して居たであろうが)、
一応は”チョンガー”に成って居た劉備、時期はハッキリせぬが、群臣から勧めら
れて(?)、正妻を娶る事にしたのである。今度こそ、死ぬ迄の正妻と成る女性とはーー
〔穆ぼく夫人〕・・・・のちの【穆皇后】である。
この女性、数奇な運命の持主であった。即ち、劉璋の、亡くなった兄・劉瑁の未亡人であり
間接的にではあるが、亡ぼした相手・「劉一族の者」であったのだ。
そもそも初代の【劉焉】には4人の息子が居た。長男の【劉範】、2男の【劉誕】、3男の【劉瑁】、
そして末っ子で4男の【劉璋】であった。父親の劉焉は 常に3男・劉瑁だけを身近に留め置き、
第26章で詳述した如く その野心に従って、他の3兄弟を長安政権内に送った。だが上の2人は、
馬騰の叛乱に連座・発覚し、未遂の裡に処刑された。末の「劉璋」だけは其の直前、献帝の使者と
して益州に派遣された為に無事であった。だから息子は〔3男の劉瑁〕と〔4男の劉璋〕の2人だけ
となってしまった。そこで普通であれば、3男の劉瑁が跡目を継いで、益州2代目君主に成る
筈であるのだが『”精神の病” ニ因ッテ物故シタ』とある。父親が常に手元に置いて
措いた理由は、其の病気にあったのだ。その病名や症状の程度は判らぬが、痴呆状態では無か
った様だ。何故なら劉焉は、父親の眼鏡に叶った女性を、劉瑁に娶ってやったのだからである。
ーーそれが【穆氏】と謂う次第なのである。
※余談であるが・・・・この 《物故》 と謂う言葉は、陳寿が初めて史書に用いたらしい。何故なら
400年後の斐松之が態々補注を附けて、『この言葉の意味は先師から次の様に聞いて居ります。
《物》 とは「無」の意であり、《故》 とは「事」の意であって、〔2度と何事もする事が出来無い〕 と謂う
意味であります。」ーーとの、高堂隆の解説を紹介しているからである。即ち、穆氏の最初の夫で
あった劉瑁は、〔物故の語源 〕と成った人物だと云う事に成る訳である。
『先主の穆皇后は、陳留国の人である。兄の呉壱は幼くして孤児となったが、呉壱の父は予て
より劉焉と旧知の間柄であったので、一家を挙げて劉焉に従って蜀に入った。劉焉は叛逆(独立)の
志を抱いて居たので在るが、よく人相を観る者が穆后の容貌を観て、「たいそう高貴な身分に成る
に違い無い!」 と判断したのを聞いた。そこで劉焉は自ずから劉瑁を連れて彼女を訪れ、かくて
劉瑁の為に穆后を娶ったのである。劉瑁が死に、穆后は未亡人となった。
先主が益州を平定した後、孫夫人は呉に帰ったので、群臣が先主に穆后を娶るように勧めた。』
この穆夫人ーー経緯から推すと、決して若くは無い (少なくとも孫夫人よりは年長の) 筈で、当時
としては「ウバ桜」の部類に属したであろう。 まあ、初老の劉備には、ピチピチギャルは
不釣合い
だから、ちょうど好かったかも知れ無い? それに第一、オッカナイ孫夫人の後釜であれば、誰でも
”お淑やか”に思えたに違い無い。きっと美人でも在った? 劉備も満更では無く、乗り気になった。
だが此処に、重大な”障害”が2つ在った。 社会倫理の問題である。1つは 〔同姓不婚〕 の
タブーを犯す点。 2つは〔略奪結婚〕の汚名に抵触する点であった。 降したばかりの
敵君主の身内を奪い取った!!・・・と観られては、元々から ”乗っ取り君主”である
劉備としては、
金看板の『仁愛君主』・『徳義の人』に傷が付くーー躊躇い、蠱惑した。そこへ助け舟を送ったのが
法正であった。(結局は反対せずに認めた、諸葛亮では無い処がミソである。また劉備は法正が
勧めたから従った、と云う処も同様である。1番悪いのは法正なのだ・・・と云う塩梅になる。)
さて、その法正ーー春秋時代の”故事”を引っ張り出して来たのである。
「同族関係の遠近を問題にすると、”晋の文公と子圉” しぎょの 間に比べて何うでしょうか?」
・・・・簡単に言えば、晋の文公(重耳)は、兄の長男(子圉)の妻を娶ったのである。それに比べれば
全然ノープログレム・・・・気にする事など御座いませんぞ!ーーと勧めた訳である。
『ソノ結果、先主ハ穆后ヲ娶ッテ夫人トシタノデアル。』 (正史・穆皇后伝)
この穆夫人は245年に逝去するのであるから、劉備より22年も長生きする。従って、劉備との
夫婦生活は僅か8年程の事となる。
この際ついでだから、劉備の女性関係 (奥向き)について、軽く ”おさらい”
して措く。
『正史蜀書』に劉備の妻として「皇后伝」を立てられているのは2人だけである。この【穆皇后】と
その前に、阿斗 (劉禅) の生母・【甘皇后】の伝があるのみ。然し 既述の如く、甘皇后の場合は
死後に諸葛亮が追慕して贈った”仮空皇后”であり、存命中はズ〜ッと《妾》の儘であった。麋竺の
妹の【麋夫人】は正妻として娶られた筈であるが、若くして遭難した為に「伝」は無い。
ちなみに劉備の子(男児)についてであるが、とかく巷では劉禅独りしか居無かった風に思われ
がちなのだが、実は外にも2人在ったのである。
劉禅とは腹違いの異母弟2人ーーどちらも更に異母兄弟・・・・その生母、即ち側室・妾妻の名すら
伝わらぬが 劉永(公寿) と 劉理(奉孝) である。無論、劉禅よりアトに生まれたのであるから
劉備ドノ、老いて猶お盛ん!で在った訳である。と同時に、史書に隠れた側室・妾妻の数が何れ程
多く居たのかは、ただ空想するしか無い。尚 この3異母兄弟の内で 最も長生きするのは劉禅で、
亡国(263年)した後も更に8年生き、271年に64歳で没する。 諸葛亮も妻子を持つが、それは後述する
ーー当然ながら? 例の 『習鑿歯』 は 噛み付く。
『晋の文公は、礼を無視して現状に対処し、女を娶る事に因って秦の援助を引き出し、その覇業を
成し遂げたのだ。訳も無く、教礼に反したのでは無い。処が劉備は、いま 逼迫した已むを得無い
状況でもないのに、前代の誤りを引き合いに出して例としているのは、主君堯・舜のを徳政に導く
遣り方では無い。劉備が之に従ったのは誤りである!』
・・・・と言われても、困る。劉備には劉備なりの考えが有ったのだ。
《新旧勢力の融和と結合!!》まさに之を、身を以って率先垂範したのである。
実際、穆夫人の兄・【呉壱】は 直ちに〔護軍〕・〔討逆将軍〕に任じられ、やがては 〔関中都督〕→
〔左将軍〕→〔督漢中・車騎将軍・仮節〕の重責を担うのである。又その族弟の【呉班】も〔領軍〕を
経て 〔驃騎将軍・仮節〕 として活躍するのである。敵対して居た者も厚遇する!!
・・・・で、気分転換できた所で、残りの〔益州人材登用〕であるが・・・・
気になる者達が、未だ残って居る。劉璋を諌めたが逆に左遷されてしまった【黄権】ーー
『先主が益州を奪い、将軍達を分遣して諸郡県を平定すると、その噂を聞いて郡県はみな帰服し
たが、黄権は城を閉ざして固守し、劉璋が降伏するのを待って、はじめて先主の下に出頭した。』
それに対し劉備は、直ちに黄権を〔偏将軍〕に任じたのである。その後の活躍ぶりを正史はーー
『漢中を支配する事に成ったのは、全て黄権が元々立てた計略に沿ったものであった』 と記す。
硬骨漢も在った。【杜微】は聾と称して出仕を拒否し続け、諸葛亮の説得(筆談)で10年後に
漸く 、〔諫議大夫〕 を引き受ける。ーー又、劉備から〔従事〕に任命された【李貌】は・・・・
正月元旦の祝宴で、酒を注いで廻る役を命ぜられたのだが、その御蔭で 劉備にも近づく機会を
得た。そして劉備への酌の時であった。衆目の面前で劉備を痛罵・難詰した!
「劉璋様は、劉備殿の御一族として、張魯討伐を委任されたのです。それなのに、その約束を果す
前に劉璋様を滅ぼしてしまわれました!私は今でも、劉備殿が州を奪われた事を、甚だ宜しく無い
事だと思って居り申す!!」 と、やった。ビックリした劉備も慌てて遣り返した。
「其れが善く無いと解って居たなら、何で彼を助け無かったのじゃ!」
「助け様としなかった訳では御座らぬ。ただ力不足だけの事だったので御座る!」
当然処刑もので有ったが、諸葛亮の取り成しで助かり、やがて〔建為太守・丞相参軍・安漢将軍〕と
成る。ーー処が之でメデタシメデタシ・・・・では無かった。のち、諸葛亮の《哭いて馬謖を斬る》事件
に際しても、李貌は諸葛亮を諌めた為に機嫌を損ねる。 更に 諸葛亮の死に際しては、
「全ての人にとって喜ぶべき事態です!」 と上表し、劉禅の逆鱗に触れて処刑されるのである。
ーーこの事は重大である。身内の重臣の中にさえ、然も諸葛亮が没する時点に於いてすら、未だ
批判的な意見・感情を内包して居る者が存在した事・・・・ひいては 、諸葛亮の連年に及ぶ遠征=
〔攻勢防禦戦略〕を民の疲弊・人民困窮の元凶と観て居た者が在った。
《蜀》は最後まで一枚岩とは行かなかった!その小さいが大きな傍証、だとも見えるからである。
先が思い遣られるエピソードである・・・かと思えば、情けない様な人物まで登用せざるを得無い
蜀の人材不足が露呈される話も有る。上の【李貌】の話は『華陽国志』が出典だから、だいぶ割り
引いて考えられるのだがーー次の話は、『正史・蜀書』の「伝」に於いてである!!
ーー『正史・許慈伝』よりーー
『先主が蜀を平定した時、動乱が続くこと十数年に及び学問は衰退していた。そこで書籍を収集し
種々の学問を篩に掛け、【許慈】と【胡潜】を〔学士〕に任命し、先代の慣例制度を扱わ
せた。ちょうど万事の草創期に当っていたので、ややもすれば異論が頻出した。
「許慈」と「胡潜」は互いに相手を押さえ込もうとし、非難を浴びせ合い、感情をむき出しにして争い
声や顔色にまで出る程であった。互いに持って居無い書物を貸し借りする事も無く、時には鞭を振
るって相手を脅しつける程であった。彼等の、自分の我を通し、相手を嫉妬する態度は、それ程に
ひどかった。 先主は、彼等の其の様な有様に 哀れを催し、群臣を集めて 大宴会をした
席上で、
〔芸人〕に、2人の格好をさせて、彼等が争い合う姿を真似させる事にした。
酒宴たけなわと成り、音楽を演奏する時に至ると、そのパフォーマンスをやらせ、酒の肴とした。
最初は言葉の遣り取りで非難し合っていたが、最後には刀や杖で相手を屈服させる様を演じさせ
彼等を反省させた。胡潜は先に没したが、許慈は後主の時代に次第に昇進して〔大長秋〕にまで
成り、亡くなった。』・・・・
こんな情けない有様の中、ズッシリとした建策をして呉れるのはーー矢張り、
股肱の重臣であった!!・・・・この頃、諸将への恩賞として、成都城内に在る劉璋一族の
旧邸宅と、城外に広がる園囿(農耕地)・桑田を全て分与すべきだ!との意見が検討されていた。
その時、【趙雲】は反対し、進言を為した。
「霍去病は、匈奴が未だ滅亡していない と謂う理由で、屋敷を作ろうとはしませんでした。
現在、
国賊は匈奴程度では済まされず、未だ平安を求めるべきではありません。
天下が 完全に平定されるのを待って、夫れ夫れ郷里に帰り、故郷で農業をするのが最も適切であります。益州の民衆は戦禍に遭ったばかりですから田畑や住宅は全て返還すべきであります。住居を落ち着かせ、仕事に復帰させて、その後で 賦役や徴税を行なったならば彼等は 大喜び致しましょう!」
時期早尚、浮かれて居る場合ではありませぬぞ!!
ーー正に、その通りに成った!!
行く先の心配どころでは無く、足元に火が着いた!!
215年、関羽独りに任せてあった荊州に、
孫権軍が雪崩れ込んで来たのである!!
原因は、欲を掻き過ぎた劉備に有った。同盟締結時の約束ではーー
荊州は互いに東西半分ずつを領有 し合い、共同して北の曹操に対抗する・・・・と謂うものであった。
ーーだが、周瑜の逝去をキッカケに、呉軍が一時撤収したのを勿怪の幸いと観た諸葛亮は、
荊州の全面占領を強行!・・・・曹操の襲来に備える孫権は、已む無く
之を黙認。その付帯条件として、劉備の益州奪取が成功した暁には、3郡を元通りに返還する。
詰り、荊州の南3郡は期間限定の一時貸与であり本来は呉の領土であったのだ!
而して劉備は、蜀の乗っ取りを成功させたのにも関わらず、依然として荊州の全面占領を続けた
儘で、条約不履行を押し通して居たのであった。
腹に据え兼ねた孫権は、同盟破棄・全面戦争も辞さぬ覚悟で全軍進攻を開始したのであった!!
孫権軍はアッと云う間に南3郡を奪還!!
続いては逆に、全面占領を窺う事態にまで発展してしまったのである。
(詳細は既述したが) 関羽は江陵城を出て、「益陽」に布陣するも、一触即発の緊急事態と成った。
「荊州は我が資業の地!!今、失う訳には参りません!直ちに軍を率いて崩壊を喰い止めて下さい!!」
「元より其の覚悟である!後は頼んだぞよ!」
【劉備】は諸葛亮から、その基本方針と、駆け引きの態度一 切を聴き出すと、急遽、船を乗り継いで長江に出、一気に「公安」へと上陸。【関羽】の掩護に、何とか間に合った。
「真の敵は曹操ですぞ!我々は同盟を維持し、こんな所で戦うべきではありませぬ!もし両軍戦い
双方が傷付き合えば、結局、最後に笑うのは曹操ですぞ!」
ーー結局、事態は〔荊州を折半する!〕事で収まる。その危機が収拾された背景には・・・・呉蜀同盟の推進論者である【魯粛】の必死の説得も挙げられるが、最大の理由は
〔曹操、漢中遠征へ出陣す!〕 の情報であった。
《ついに曹操が、蜀を狙って、遣って来る!!》
ーーヒヤリ!・・・・としたが、その御蔭で、丸4年ぶりに、兄弟であり、
主君と家臣でも在る、【劉備】と【関羽】は 再会できた。
「御主君、先ずは”蜀”平定、慶賀の至りに御座りまする!」
「うん、みな本当に良くやって呉れた。ーーじゃが 今、つくづく 思うのは・・・・矢張り、心から頼りに
出来るのは、我が兄弟 と 軍師、そして譜代の者達だと云う事だ。」
「新たな地での御苦労、お察し致します。」
「いや、儂には大勢の者達が一緒に居てくれる。それより御前の方こそ、たった独りで此の大州を
守り通して呉れる苦労・・・・頭が下がる。」
「何の之しき、この関羽雲長ある限り、荊州は安泰!大船に乗った心算で居て下され!」
「済まなかった。もっと早く来る心算だったが、お前が独りで頑張って居て呉れた御蔭で、何とか
大事に至らずに済んだ。まあ是れで当分は、孫権の方は 気にせずに 済むであろう。
改めて深く
礼を申すぞ!・・・・我に関羽あり、じゃ!」
「ーー終に、終に・・・・我等が永年の夢が、実現しますナア〜・・・・!!」
「ーーうん、張飛と3人で旗挙げしてから何年に成るかナア〜・・・・・。」
「色々有りましたナア〜・・・・!」
「色々有った・・・・!」
久々に兄弟2人だけの酒宴であった。思い出は尽きない。此の世で之の2人にしか語れぬ日々の
事どもが、走馬灯の様に互いの胸を去来し合った。ーー未だ青かった互いの髪に、今こうして白い
物が混じり出した今日までの苦労と悲喜こもごも・・・・天下広しと雖も、また人の数が幾千万あろう
とも、この2人程に 固い絆で結ばれた”他人同士”は存在し無かったであろう。他人同士で在った
ればこその、美しく、純粋を極めた人間関係の極致・至宝と謂えよう。〔周瑜と孫策〕の絆も純粋で
美しいが、それとも異なる質の、文字通り苦楽を共にして来た”仁侠”の結び付きであった。そして
何と言っても特徴的なのは、それが2人の関係だけでは無く、張飛を含めた《3人の絆》で在る事で
ある。全く個性の異なる〔3人の他人同士〕が生涯1つに生きる
古今東西、幾先年の人類の歴史に於いても、此の様なためしは絶無である!!
ーー別れの時がやって来た。そして最後に、2人は、固く 誓い合って別れた。
「互いに生まれて来た日は異なると雖も、
死ぬる時は、同年同月同日であらん!!」
ーーだが、この誓いは果される事は無い。ばかりか・・・・
この日、この時を以って、【劉備】と【関羽】の義兄弟は、
〔永遠の別れ〕 を迎えてしまうのである・・・・無論、【張飛】にも会えぬ。
それがーー現実なのである。これ程までに固く誓い合い、強い絆で結ばれて居る 義兄弟3人が、
その最も望んだ 最後の在り方 をすら許されぬ程に、それ程までに此の後の時局・天下の趨勢は
激しく揺れ動き、三国時代は激しく踊る!ーーと云う事なのである・・・・!!
以上で、ひと先ずは、実質的な《蜀建国》に纏わる物語を了える事とする。
・・・・だが、大きな疑問が残る。
劉備が益州を乗っ取って蜀を建国してしまった此の丸3年の間、あの奸雄・姦雄と呼ばれる
曹操は一体”何”をやって居た のであろうか??
後世の我々から観れば、全く理解に苦しむ展開である。是れ迄の経緯を見て来た限りでは、ただ
手を拱いた儘ムザムザと劉備の独立を”許してしまって居る”だけで在った。幾等でもチョッカイを
出す機会は有ったし、蜀建国そのものを ブッ潰す 為の行動を起こす事は 可能な筈である。にも
関わらず、史実は曹操の影すらも登場して来ないのである・・・・。何故か!?
別に病気に罹った訳では無く、元気溌剌・やる気満々!で在ったと云うのに、である。
もしかして”女”!?ーー絶世の美女を探し当て、その色香に溺れ切って居たのか??
いずれにせよ邪推は止めて時計を戻し曹操の真実を探ってゆこう。
〔第13章〕 皇帝へのアブト(きざはし)・ 【第187節】→へ