第185節
人材不足 の 論功行賞
                                   蜀の建国戦争Z

天地はカオス
(混沌)の中から生まれたーー古代ギリシャ人の宇宙創生観である。

創造の前の混沌・・・・正に今の益州は其れであり、様々の混乱が同時に多発し、

各自の思惑と欲望とが鋭く交差し合った。創造する側とされる側の双方に様々な態度と人間性が

現われたーー天地が引っくり返ったのである。下が上に成り、全てが一旦、無と成ったのである。

然も事は、中国最大の版図と人口を有し、元々から 在地豪族と流入勢力との軋轢抗争の歴史を

持つ 大国での出来事である。ハッキリした統治方針が示され、落ち着きの在る秩序が回復される

迄には、未だ未だ長い時間を要するであろう。ーーだが然し其の反面・・・・劉備と諸葛亮の手には

今、全てが許される大権と、思い切った国創りに臨む”大鉈”とが与えられ、理想実現の可能性に

満ち溢れて居る瞬間でもあった。今後の成り行き・大業の成否を占う試金石でもあった。



先ずは戦後の”人事”ーー戦勝側の〔論功行賞〕であり次いでは降伏側の〔人材登用〕であった

之を過不足無く行なうのが、新君主たる劉備玄徳の最大の課題であった。ーーそして劉備陣営の

最大の悩みであり弱点は、1にも2にも3にも4にも・・・・
人材不足・・・・その事であった。

又その後発の宿命からして、”軍事国家”でも在らざるを得無い。それに連動・表裏一体の事として

大幅な国力増強・経済振興を果さねばならなかった。

謂わば、世界列強の帝国主義の中に、突然放り出された明治時代の弱小日本の如き姿、とでも

比喩され得ようか?ーー旧体制は打倒したものの、一体その後の確たるビジョンは持てず、国内

には、未まだ士族の不満が渦巻き、有能な人材は倒幕諸藩に限られ・・・・然も、世界列強からは

今にも狙われそうな軍事的脅威に晒されて居たーー3国の中で最も後発の「蜀」の宿命であった。

その苦境・難局を打開してゆく国家戦略・・・それは国内的には〔
富国強兵策〕であり〔殖産興業

であり、対外的には〔
2枚舌外交〕であり〔周辺地域への軍事侵略〕である。又体制維持の為の

精神的教育には〔愛国主義〕〔優秀民族思想〕を導入し其の象徴として〔漢王朝〕の血統・正統性を

掲げる。
洋の東西時空を問わず権力闘争の歴史は繰り返される


尚、終戦直後の「略奪行為」についてであるが、その有無については史書によって記述が異なる。

有ったとハッキリ記しているのは補注の『零陵先賢伝』であり、『正史』の方は寧ろ否定的である。

『その前、劉璋を攻撃する時、劉備は兵士達と約束を交わし、「もし事が成就したなら、蔵の中の
品物は全て諸君等の思い通りにさせ、儂は関与しない」 と言った。成都が陥落すると 兵士達は
みな武器を放り出して、至る所の蔵に駆け付け、争って 宝物を奪い取った。その為に 軍需品の
不足を来たし、劉備は非常に之を心配した。』

『十九年夏、各隹城破る。進んで成都を囲むこと数十日。璋、出でて降る。
蜀は豊かにして物産盛んな地。先主、置酒し (宴会を催し) 、大いに士卒を饗 (慰労) す。
蜀の城中の金銀を取り、将士に分賜し、その穀帛を (穀物と絹は元の保管場所に) 還す。』

「先賢伝」では略奪黙認、「正史」では整然とした分賜だった様に記している。実態は・・・・??



次は譜代恩顧の股肱に対する恩賞賜与であったーー『
正史・張飛伝』が代表する記述に拠れば

『益州が平定されると
諸葛亮法正張飛および関羽おのおの
金5百斤
銀1千斤銭5千万両錦1千匹を賜わり、その他
の者には夫れ夫れ格差をつけて、恩賞を賜与した。
張飛は巴西の太守に任命された。』


その褒美の巨大さを現代に換算したら、一体どの位に相当するものであったのか?・・・筆者には

正確には言えないが、1つの見方として謂うなら、兵士10万を数年間養ってゆくには充分な額では

ある。1人ずつが独立した国を経営可能なものと言えよう。然も之は臨時収入・建業の資金であり

今後は 夫れ夫れの任地からの税収で 賄ってゆけるのである。

その新たな任地や、昇進した地位については、直ぐ後に述べるがーー此の記述で注目すべきは、


法正の記載順であり其の行賞の重さ加減である。三国志のヒーローたる劉備・関羽・張飛

兄弟と、超ヒーロー・諸葛亮の間に肩を並び、その重鎮ぶりを讃えられているではないか!!

実際、益州に於ける【法正】の立場が如何に巨大なもので在ったのか!?諸葛亮でさえもが彼の

振る舞いを制御出来無い、重い状況を示す記述が正史に載っている。即ち法正は、過去に於いて

自分を蔑み、軽視して重用しなかった相手に対する、”私的な復讐”を開始したのである。××が

小さいと謂うか、執念深い人格と謂おうか・・・・どんな小さな事でもシッカリ覚えて居て、その恨みを

晴らす時こそ来たれ!とばかりに、冤罪をデッチ上げ、自分の裁量だけで勝手に処刑を行なった

のである。流石に見兼ねた者達が、その蛮行・私刑をキッチリ阻止して呉れ得る、唯一の切り札・

頼みの綱として
諸葛亮に訴え出た。厳格な法の守護神・峻厳公正な正義の実践者として、諸葛

亮の力を仰いだのである。ーーと云うより、未だ”国法”など無かったのである。新国家として、その

条文を作定する暇も無い裡の時期であった。のちには
蜀科と呼ばれる優れた国法が定め

られるのであるが、占領統治状態の 現状に於いては・・・・主君・劉備 の委任を受けた 個人個人

その者が立法者
執行者 なので在った。即ち、その人格と公正・常識を信頼して、個人に各案

件の解決を委ねて居る状態であったのである。だから1つの事件に対しても、その判決は個人に

拠って異なるケースが 間々あった。ーー「私が法である!」 と云う状況・・・・と、成れば 尚 の事、

諸葛亮の胸中に燃える正義の炎が期待された。ーー処がーー


『法正は以前に加えられた僅かな恩恵、本のチョットした怨みにも必ず報復し、自分を非難した者

数人を勝手に殺害した。或る人が諸葛亮に「法正は蜀郡に於いて余りにも好き勝手を遣り過ぎて

居ます。軍師将軍には主君に言上なさり、彼の刑罰・恩賞の権限を抑えるべきです!」 と言うと、

諸葛亮は答えて言った。

主君は 公安に居られた時、北方では 曹公の強大さに脅え、東方では 孫権の圧迫に気兼ねし、

近くは孫夫人が手元に在って変事を起こさぬかと心配して居られた。この様な進退ともに儘ならぬ

時に、法孝直は先主を補佐して、ヒラヒラと空高く舞い上がらせ、2度と他人の制約を受けないで

済む様にして呉れたのだ。どうして法正に思いの儘に振舞ってはならぬと禁止できようか
・・・・。」


・・・存外である!!とてもの事、あの諸葛亮の言葉だとは思えないーー言い訳・言い逃れである。

”超法規的措置期間” と見做して、相手の領域を侵す事はせず、目を瞑った。 瞑らざるを得無い

程に
法正の役割は、益州経営には必要不可欠な存在であったのだ!その証明である。辛い処

である。元より劉備が知らぬ筈も無い。だが今、新国家の樹立を目指す 君主としての劉備には、

そんな私的な些事など眼中には無かった。

「どうせ一時的なハシカみたいなモンであろう。知らん顔で、捨て置け捨て置け」 と言うに決まって

いる。・・・・だが、まあ是れも、極く初期段階の内の事・・・・暫らくすると、両者の立場は逆転する。

今度は法正の方が、諸葛亮の余りの峻厳さに意見具申する様に成ってゆくのである。確かに1部

には、旧来と比較して 不満を抱く者達も 出て来て居たのである。そこで或る時、法正は 諸葛亮に

対して、貴方が”法”を執行する態度は余りにも厳し過ぎませぬか?と諫言した。


「昔、漢の高祖・劉邦は関中に入った時、厳しく煩雑な秦の法律を簡略化して、たった3ヵ条とした

為に秦の遺民は皆、その恵みに懐つきました。 いま君は、武力を借りて1州を占拠されました。

その国を支配されたばかりなのに、未まだ恩恵を施して居られません。又よそ者の、土着の者に

対する建前から言っても、遠慮するのが 適当で御座いまする。 どうか 刑法を少し緩くし、禁制を

緩め民を慰撫して下され!」


そこで諸葛亮は答えるのであるが、この答えの裡には・・・今後の将来に渡る
諸葛亮孔明

国家経営に対する確固たる理念不動の信念とが 吐露されていた事が、

後に実証されて 明らかと成る。この答えは又、その記念すべき決意の表明でもある。


「君は其の一を知って其のニを知らぬ。”秦”は無道で、政治は苛酷、民衆は怨嗟して居り、1人の

平民が大声で呼ばわっただけで、天下は土の崩れる如くに崩壊した。”高祖”は、其の後を受けた

のだから、広く救済措置を採る必要が在ったのである。 (それに比較するに)

劉璋は暗愚で気が弱く、劉焉以来、代々 恩恵を施して居り、法律による 束縛が有る とは言え、

君臣互いに馴れ合いの状態が続き、徳政は行なわれず、刑罰もまた厳格では無かった。だから

蜀地方の人士は権力を我が物にして勝手に振る舞い、君臣の道も次第に廃れていったのである。

官位に拠って寵愛を示せば、官位が昇り詰めた処で其の価値を感じ無くなり、恩愛に拠って従わ

せれば、恩愛が失われた途端に尊敬の念を失う事になる。弊害を惹き起こす元は此処に在る。

私は今、之を威嚇するのに”法律”を用いる。法律が実施され

れば恩徳を理解する様になる。又、身分のケジメを着けるのに

封爵”を以ってする。爵が加われば栄誉を理解する様になる。

栄誉と恩徳が、共に行なわれる様になれば、上と下のケジメが

出来てくる。 
政治の要諦 は、ここに歴然とするであろう!




次は劉備にとって最も嬉しい作業・・・・股肱の重臣達昇進辞令である

正史の掲載順に並べて見る。必ずしも、其の順番が直ちに”エラサ”を示す訳では無いが、何故に
陳寿は、此の掲載順を採用したのか?・・・それを吟味して見るのも愉快であろう。但し益州で登用した者は飛ばしてある。
尚、(カッコ) 内は、旧の地位を示す。色付は単に見易さ故で他意は無い。


諸葛亮孔明(33)軍師将軍・左将軍府事(軍師中郎将)
関羽
雲長(55)荊州軍事総督盪寇とうこう将軍のまま(襄陽太守)
張飛
益徳(50)巴西太守征虜将軍のまま・・・・(宜都太守)
馬超
孟起(39)平西将軍・・・・(都亭侯は従前どおり追認)
黄忠
漢升(60余?)討虜将軍・・・・(曹操より仮の裨将軍)
趙雲
子龍(40位?)翊軍よくぐん将軍・・・・(偏将軍・留営司馬)
法正
孝直(39)蜀郡太守揚武将軍・・・・(劉璋の軍議校尉)

麋竺
子仲(60位?)安漢将軍席次だけは軍師・諸葛亮より上(左将軍従事中郎)
麋芳(55位?)荊州南郡太守
孫乾公祐(60余?)秉忠へいちゅう将軍(席次は麋竺の次ぎ)(従事中郎)
簡雍憲和(50余?)昭徳将軍(席次だけは孫乾と同じ)・・・(従事中郎)
伊籍機伯(50余?)左将軍従事中郎(席次は孫乾・簡雍の次ぎ)
馬良季常(28)左将軍えん・・・・(荊州従事)
馬謖(25位?)??(のち参軍)・・・・(荊州従事)



劉封??(20余)副軍中郎将(副将軍)劉備の養子
孟達子度(30余?)荊州宜都太守・・・・(江陵守備軍)
廖立公淵長沙太守のまま
劉炎威硯固陵太守・・・・(従事)
魏延文長(30余?)牙門将軍・・・・(1部隊長)
向郎巨達巴西太守・・・・(長江口4県の軍政)
陳到叔至のちに永安都督征西将軍謎の将軍





《ーーまあ、こんなモノであろう・・・・》 と、劉備は満足気に、一覧表を手に取って眺めた。

折しも この時、その論功行賞の時期を 見計らったかの如く、荊州を 独りで守って居る
関羽から諸葛亮の元へ通の手紙が届いていた。その内容を読んだ諸葛亮・・・・思わず関羽の

威風堂々たるゴツイ風貌を想い出しながら、その内容との余りの落差に、ついつい唇を綻ばせて

しまうのだった。如何にも負けず嫌いの関羽らしい、未だに洟垂れ小僧の片鱗を失わない、何とも

可愛い気の有る内容であった。その手紙を直接、劉備に送るのでは無く、遠廻しの心算で自分に

寄越した心根が亦、如何にも実直で可笑しかった。

今度あたらしく登用された馬超の名は世に名高いが自分は未だ会った事が無い。そこでチト
お訊ねするが、貴方の眼から観て、一体
【馬超】とは何れ位の人物なのか?我が陣営で謂えば、
差し詰め誰の器量に匹敵すると思われるか、どうか教えて戴きたい。


ーー詰り、俺と比べての評価は一体上なのか?下なのか!?・・・・主君 (劉備兄貴)は俺に荊州を

押し付けて置いて、まさか”もう用済み”だなどとは思っては居無いでしょうな!?


そこで関羽の矜持を識る諸葛亮は返書で言って遣る。きっと喜んだ関羽は、此の手紙を皆んなに

見せびらかすであろう事を想定した上での事であった。だから誰をも傷付けないで、而も駄々っ子

の関羽を喜ばせてやる書き方をした。書きながら諸葛亮は、あの骨を削る切開手術を平然と受け

て見せた、豪胆豪放な関羽の姿を想い出し、改めて関羽と云う人物の”純粋さ”を好ましく思うので

あった。だか同時に、この関羽の”仁侠性”こそが、劉備集団の閉鎖性を生み、今迄30年もの間

その発展性を阻害し続けて来ていたのか!・・・・と納得するのでもあった。


馬超は 大した英傑で、漢の黥布や彭越にも匹敵する人物ですナ。我が陣営で言えば、ちょうど

張飛と双璧だと言えましょう。但し、”髯殿”の群を抜いた器量の大きさには及びませんヨ!
』 と。



羽、馬張の来り降るを聞く。旧より故人に非ず。羽、書して諸葛亮に与え『超の人才、誰か比類すべきか』と問う。亮、羽の護前する(以前の失策や過失を認めたがらぬ矜持・態度) を知る。乃ち 之に答えて曰く、

『孟起、文武を兼ね資り、雄烈人に過ぐ。一世の傑にて黥彭の徒なり。正に益徳と並び駆け先を争うべし。猶いまだ髯の絶倫逸群なるに及ばず』 と。
羽、美鬚髯あり。故に亮、之を髯と謂う。

羽、書を省て大いに悦び、以って賓客に示す。
 ーー(正史・関羽伝)ーー


案の定、関羽は大喜びして鼻高々・・・・諸葛亮からの返事の手紙を皆んなに見せびらかしたので

ある。何も今更、他人からの評価なぞ気にしなくとも、天下の誰しもが其の実力を認め、庶民の間

では絶大な支持率を誇り、1部では既に〔
神様〕として崇められ始めて居るにも関わらずである。

一種、稚戯にも等しい遣り取りであるが、この「正史」に載るエピソードの御蔭で、関羽 と 諸葛亮と

云う英雄の存在が、俄に生き生きとした人間臭さを放ち、グググッと我々”凡人”に近付いて来て

呉れて居るではないか!! と 同時に、関羽を”髯どの””と呼び合い、諸葛亮にだからこそ甘えて

見せる2人の間柄の親しさが、弥が上にも溢れ出て居るではないか!!

※ 尚
既述の如く、関羽の風貌についての記述は、この羽、美鬚髯あり唯1ヶ所のみである。


ーーとは謂うものの、笑ってばかりは 居られ無い。
〔御山の大将俺一人!〕 と 云う、

この関羽の態度は、いずれ関羽の命取りに成るのであるからである・・・・



 「それにしても・・・・」 と
劉備は 思う。

《よくも、こんな少人数で
荊州益州と云う巨大2州を手に入れられたものだ!!

我ながら不思議でならない。僅か
6年前には 曹操に追い立てられ、「長阪坡」で 危うく全滅させ

られそうな己であった・・・・処が今や、その版図の
面積だけで言えば

曹操の魏〕・〔孫権の呉〕を追い抜いてーーな、何と


天下最大領土君主!〕                に成って居る ではないか・・・・??
無論、全ては諸葛亮と謂うの背中に乗せられてからの事であった。

瞬く間のトントン拍子・・・・どん底の地の淵から一気に、此の、眼の眩む様な高みである!!

ーー急に恐ろしく成った。曹操や孫権に比べたら、

《俺は”吹き流し”に過ぎんでは無いのか!?

気持よさそうに青空を泳いでは居るものの、中味はカラッポのすっからかん・・・・

《この儘じゃあ、いずれやられる!!》

人間が足りない。致命的な弱点である。無理すれば、兵隊だけは何とか掻き集められるだろうが、

1回こっきりの勢いで終ってしまうに違い無い。


《俺には曹操の様な軍才も教養も無い。孫権の様な故地・恩顧の群臣達も持たない。常に他人に

助けられて此処まで来たに過ぎん・・・・頭を下げて人を招く事しか出来ぬ男じゃ。》


改めて思った。《
ーー国創りとは・・・・人創りじゃ!!

本気で人材登用に取り組んだ。益州の旧臣を厚く招くしか無い。己個人の実力が劣ると自覚でき

れば他人の能力がよく見えて来る。ーー実際、劉備の「蜀」は、それを支え、形成してゆく家臣団の

3分の2が、この益州出身者で占められるのである。


 以下、この時に登用された益州の人材を 紹介するが、今は網羅はせずに、
有名どころだけに絞って措く。いずれ皆、本書に登場して来る故である。



先ずは、城攻めを始める前に、態々『手出し無用!命令』まで出して欲しかった人物・・・・
劉巴りゅうは 字は子初・・・・荊州南部の零陵郡蒸陽県の人である。若い頃から

秀才の誉れが高かったが、父親の経歴の為に、州牧の「劉表」からは疎まれ、命さえ狙われた。

父親の「劉祥」は、当時長沙郡太守であった「江東の虎・孫堅」と手を組み、共に董卓討伐の為に

挙兵したのであるが、
(既述の如く) その途上で 劉表の任命した南陽太守・張咨を血祭りに挙げた。

又のちには、袁術の命令で劉表を攻め立てた。結局、父親も孫堅も戦死するが、その息子である

【劉巴】は劉表から危険人物視され続けたのである。そこで劉表は、何とか穏便な形で劉巴を荊州

から追っ払おうとして、父親の旧臣を抱き込み再三に渡って「危険ですから一緒に逃げましょう」と

誘わせたが彼は拒絶し続けた。やがて劉表は没し、曹操が荊州に侵攻。赤壁戦を境に「劉備」が

荊州南部を占領して公安幕府を開いた。そして黄忠を筆頭に続々と荊州の士人を登用し始めた。

当然、零陵郡の【劉巴】も、「劉備」に出仕するかと思いきや、彼は、破れたばかりの
曹操を選ん

のである。 曹操は喜んで 属官 (掾) に取り立てると同時に、失地回復を狙って、劉巴を故郷に

赴かせ、人々の気持を曹操支持に持って行かせ様とした。だが折しも劉備の軍事行動が強行され

諸葛亮は彼を招こうとした。だが劉巴は手紙に『もし我が道窮まり、我が命運が尽きたなら、正に

滄海に生命を託して、2度と再び荊州を見ないでありましょう。』と書いて送った。

すると諸葛亮は手紙だけではダメだと思い、態々追い掛けて面談して説得した。


「劉公は 雄才世を蔽い、荊州の土地を支配なさり、その徳義に 帰服しない者は居りません。天と 人の去就は既にお分りの筈。なのに足下は何処へ行かれる御心算か?」

「主君の命令を受けて来たのですから、たとえ 任務が成功しなくても 帰るのが当然です。それが 道理と謂うものでしょう。一体貴方は何を言って居られるのでしょうか。」

劉備はその事を聞いて非常に残念がった。

劉巴は其の足を交阯(ベトナム)に向けたが儘ならず、そこで「蜀」へ赴いたのであった。


ハッキリ言って
劉備嫌い!の人物である。だから「劉璋」に対しても、再三再四に

渡って
劉備梟雄論を説いて、益州への招聘を諫めた。更に劉備が益州入りした後

でも、頻りに 翻意を促し続けた。 だが劉璋は 聴き容れ無かった。そこで劉巴は 諫言を断念し、

病気と称してみずから門を閉ざし、成都攻防戦の間も蟄居していたので在った。


『間も無く先主が益州を平定すると、劉巴は前の罪を陳謝したが、先主は咎め無かった。然も諸葛亮が度々彼を称讃して推薦したので、先主は召し寄せて
〔左将軍西曹掾に任じた。

 
〔エピソード縺l・・・・(※ 以下のエピソードは全て『零陵先賢伝』に拠る)

任じられるや劉巴は、その
経済学に造詣の深い処をキラリと光らせて見せたーー劉備は戦前

将兵に対して〔落城時の略奪〕を容認してしまった為に、国庫の逼迫を来たして困惑して居たので

あるが、劉巴は事も無げに言って見せた。

ああ、その対策なら簡単な事です。ただ百銭の貨幣を鋳造して、諸物価を安定させ、役人に命じてお上の管理する”市”を立てさせるだけで済みますナ。」

劉備が其の策に従った処、数ヶ月の内に、蔵は一杯に成ったのである。


みずから清潔で質素な生活を実践し、田畑を所有して財産を殖やそうとしなかった。又、自分が

帰順する事になったのも、
本来の意向に沿ってのものでは無かった為、嫉み疑われる事を憚り、

慎みを持って沈黙を守り、控え目な態度を貫き、家に帰った後は個人的な交際をせず、公的な事

でなければ発言しなかった。
』ーー何がし、曹操の下で長寿を全うした【賈言羽かく の処世に似る。

 
〔エピソード艨l

そんな彼の謙虚さを伝えるエピソードがある。未だ大ぶ以前の事ーー劉表の別駕・劉先が、彼の

名声を聞いて、【
周不疑】と言う若い英才を弟子に取って、師となって戴きたい!と申し込んだ。

だが劉巴はキッパリ断わった。その断りの弁ーー


「私は昔、荊北に遊学した折り、時には先生方の門を渡り歩きましたが、私の学問の程度なぞは、

記門の学”であって、名前を書くにも不充分な程に頼り無いものです。我が身には「楊朱」の如き

消極的処世術は無く、外に対しては「墨戳
ぼくてき」の如き時代の要請に答えようとする気風も持ち

合わせて居りませず、ちょうど天の南方に在る箕星座が、形だけで箕の役に立たぬ様なものです

お手紙を賜わりましたが、何と”甥ごさん”の鸞や鳳の如き美質を抑え付けて、燕や雀の如き私の

家に遊ばせたいとの事。一体どうやって指導すれば善いのでしょうか?

『有れども無きが如く、実つれども虚しきが若し』と謂う(論語の)言葉に対して恥ずかしく、どうして

引き受けられましょうか。』


記門の学”とは・・・・あらかじめ質問を予想して、答えを記憶しておく学問であるそうな。詰り、

何処かの国の国会議員や総理大臣用の独占的学問の事であろう。 ちなみに 『礼記』にはーー

”記門の学は、以って人の師と為すべからず!”との警告が附されているとか。・・・・処で、周不疑

なる若者、余ほど記憶の良い方で在られれば、《おや、何処かで聞いた覚えが有るぞ?》 と思わ

れた筈であるーー【周不疑】・・・・神童・曹沖が夭折した直後、曹操の命令で暗殺された、若き

大天才である。その時曹操が、曹丕に向って言った暗殺の動機に曰く、「この人物は曹沖ならいざ

知らず、とてもお前が使いこなせる様な代物では無いからだ!」・・・・・

 
〔エピソード・・・・(1部は既述)

こんな
劉巴、だが然し、その一面、名士としての誇りは異様に高かった。

『張飛はかつて、劉巴の元に泊まった事があった。劉巴が彼と話もしないので、張飛はカンカンに

腹を立てた。諸葛亮が劉巴に向って言った。

「張飛は全くの武人では在るが、足下を敬慕して居ます。御主君は今まさに文武の力を結集して、

大業を定めようとして居られるのです。足下は高い天分を具えて居られますが、少しは我慢と云う

事もして下され。」 すると劉巴はキッパリ言い切った。

大丈夫が、此の世に生きてゆくからには、当然、四海の英雄と交わるべきです。どうして軍人ふぜいと語り合う必要がありましょうや!?

ーー後で劉備は之の出来事を聞いて腹を立てて言った。「儂が天下を平定しようと望んで居るのに

子初は其れを引っ掻き廻す事ばかりする!北に帰る心算で、此の地を利用するだけなのか?

全体、儂がやろうとしている事を成し遂げる心算があるのか!!」

ーーまた劉備は或る時には、こう言うのであった。

「子初の才智はズバ抜けている。儂の様な男なら彼を使いこなせるが、儂で無かったら彼に任せ
るのは難しいぞ。」

苦しい”自己弁解”である。己を嫌って逃げまくった相手を、それでも尚、重職に就かせなばならぬ

理由が、劉備には在ったのだ。ーー

曹操が誇る分厚い名士層=世論 に対抗する為には、何うしても彼ら大名士の存在・(虚)名が必要だった のである。

・・・・やがて此の話は、名士ネットに乗って全国に知れ渡った。呉では大名士の【張昭】が孫権との

会話で、「劉巴は見識が狭過ぎるますな。張飛をあれ程ひどく拒絶すべきではありませぬナ。」

【孫権】、「もしも子初が世の中の動きに従って態度を変え、玄徳の気に入る様に努め、不適当な

人物と交際していたならば、どうして高尚な人物と称されるに値しようか!」

世は正に大激動して、「三国時代に」と云う新たな局面を迎えたにも関わらずーー貴族の原形たる

名士〕の地位は更に高まる一方で、軍人の社会的地位は以前として低かった!事の

証明である。ーーこの封建的な身分社会の構造が変わるのには、未だ千数百年の長大な時間の

流れが必要なのである・・・・

其レラ重大ナ文章ヤ任命書ノ類ハ全テ劉巴ノ書イタ物デアッタ


この「劉巴」などよりは数段有名とされる 大名士 が居た。成都城内の地下牢の

中にで在る。劉璋が降伏を決断するのが、もう少し遅れていたら、恐らくは既に処刑されていたで

あろう人物ーーそれ迄の恩顧を裏切って、独り脱走を試みて失敗した男・・・・降伏間際のゴタゴタ

で忙殺された劉璋が、処断の決定を先延ばしにして居た御蔭で、辛うじて処刑を免れて居た。

世間からの評判は ダントツで、絶対に厚遇されて招かれるだろう と予想された。 にも 関わらず、

劉備は鼻の先にも引っ掛けず、何時まで経っても音沙汰無し。劉備が欲しくて欲しくて堪らずに、

心ならずも出仕した「劉巴」とは正反対の攣れない態度。まあ当然と言えば当然の報いであろう。

人様の事を「ああだ、こうだ」 と評価しては、大きな名声を得て来た人物である。

月旦評なる人物評価・・・・之が死命を制する特殊社会、人の一生を左右してしまう時代

で在ったのだから人々は戦々恐々とし、挙って敬い決して粗略には扱わ無かった。だが己自身は

いざとなると恩義もヘチマも無く、”敵前逃亡”と云う大きな”ミソ”を附けてしまった。


「そう謂うテメエ自身は、一体どうなんだヨ〜!!」 と云う、劉備の怒りが伝わって来る。

ーーだが然し、であった。世間は、そんな裏の詳しい事情などは未だ知ら無い。〔月旦評の達人〕と

謳われる大人物を登用しないとは!?・・・・と、逆に劉備の器の小ささを疑う。其処が人気商売・

支持率重視、視聴率至上主義の時代に於ける、政権維持の難しい所であった。

その、何とも厄介な人物ーー
許靖である。字は文休。蜀郡太守の重職に在った。 月旦評の元祖許劭許子将従弟いとこである。(既述の如く) この従弟同士・・・生涯に

渡って犬猿の仲で在り続けた。年長の許劭の方が「許靖」の出世を邪魔し、為に許靖はフリーター

に甘んじ、”馬洗いの日銭仕事”を強いられる有様で在った。 ーー但し、今回は”大ミソ”を附けて

しまったのではあるが・・・・その若い時期に行なった業績は、確かに称讃に値するものであった。

朝廷に招聘され 〔尚書郎〕 として官吏選抜を担当して居たが、【董卓】政権へ移行した後も協力を

強いられた。だがその人事に於いて密かに、反董卓派の者達を大挙地方長官(州刺史・郡太守)に

推挙任命。のちに裏を掻かれた事を知った董卓の激怒を買う。危険を察知した「許靖」は各地の

名士の間を転々と亡命する。即ち
許靖は、謂わば群雄の生みの親

三国時代の基盤を創り出した
偉大なコンダクターであったのである。・・・・だから今でも、

〔名士層〕の間では、其の偉業に対する畏敬の念は絶大なものが在ったのである。過去の化石・

過ぎ去った時代の遺物と観るか?それとも未だ有用な偉人と捉えるか!?

この時、劉備にアドバイスしたのは
法正 であった。

「天下には往々にして、虚名を博しながら実質が伴わない者が居ります。許靖は将に其れに当る

人物です。然しながら、現在、御主君は大業を始められたばかりで、天下の人々に対して1人1人

説明する訳には参りません。許靖の虚名は、四海の内に広く伝わって居ります。もし今、彼を礼遇

なさらなければ、天下の人々は此の為に、御主君は賢者を蔑ろに為さる方だと思うでありましょう。

この際、彼に対しては、敬意を以って丁重に扱われ、よって世間の眼を眩まし、古くは燕王が郭隗

を待遇したのを真似られるのが宜しいでしょう。」


「ーー成る程・・・・!」 そこは海千山千の劉備。ムダに天下を大放浪して来た訳では無かった。

コロリと態度を一変させると、直ちに法正の進言に従った。

かくて人騒がせな
許靖の納まり所はーー左将軍長史・・・・毒にも薬にも成らぬ

”飾り物”の御客様として、劉備の側に置かれる事となったのである。 メデタシ、メデタシ
かな??



先主復タ益州牧ヲ領ス諸葛亮ハ股肱タリ法正ハ謀主タリ
関羽張飛馬超ハ爪牙タリ許靖麋竺簡雍ハ賓友タリ

及た
董和黄権李厳ラハ、元・璋ノ授用スル所ナリ。
呉壹費観ラハ又、璋ノ婚親ナリ。彭漾ハ又、璋ノ排擯スル所ナリ。 劉巴ト謂う者ハ、宿昔ノ忌恨スル所ナリ。

皆、之ヲ 顕任ニ処キ、其ノ器能ヲ 尽クサシム。
有志ノ士、競イ 勧メザル無シ
 ーー『正史・先主伝』ーー




ーーだが、(東)晋の【孫盛】は、ズバリ言う。

蜀は、人材が乏しかった!!
 だから2級の者までが載録されている
 と。

その代表選手が【来敏】であろう。詳しくは後述するが、彼は目出度く「伝」を立てられている人物である。 だが彼は、ただ単に、父親が漢の司空で在ったと謂う理由だけで、〔軍祭酒→輔軍将軍→大秋長→光禄大夫〕 etc.etc を歴任するが、ハッキリ言って
”禄で無し”の”穀潰し”。『前後に渡って何度も免職や格下げになったのは、全て言葉に節度が無く、行動が異常だったからである。』 と、その伝中にすら記されている人物。それが 大失敗をやらかす度んびに、逆に ドンドコ 昇進して行くのであるから、周囲は
ゲンナリ!!すっかりヤル気を失ってゆく・・・・


折角の劉備・孔明の目出度い門出では有るのだが

次節では、その行く先の多難さを予感・予兆させる事象 を、検証して措こう。




此処からこそが
内外共に真の戦いであるのだ!! 【第186節】 蜀 誕生す!(涯てし無き苦難の予感) →へ