第184節
暗亡君 と 明建君
                                 

北門衝撃が走った!!
ーー・・・・あの、あの馬超が来た!!

《西方の英雄と謂われる、あの馬超までもが、劉備に参画した・・・・のか!?》

そう思った瞬間、益州は、事実上陥落したのである。ーーそしてそれは、もう
度と再び 益州が 劉璋 の代名詞と成る事の無い日々の始まりであった。 と同時に、其処には既にと云う、新たな国の歴史が誕生する直前の、鮮やかな曙光が差し始めていたのである。


代目益州牧・劉璋李玉の性根にとって、この日の”北門の衝撃”は、測り知れ無い大打撃

であった。
万と云う大兵力の軍事的圧力も然る事ながら、長安に覇を唱えて居た稀代の英傑、

西方の名を独りで背負って立つ一世の風雲児、曹操を死地にまで追い詰めた剛勇・・・・その名が

天下に聞こえる大巨人・反曹操のカリスマが、漢中を飛び越えて劉備の元に遣って来るとは!!

ーー即ち其れは、西方の民意・人心が、己から完全に離反・乖離した事の、紛れも無い現実を、

眼の前に突き付けられた・・・・と云う観念と諦観とであった。


「何の今更、動揺する事が在りましょうや!敵は百万在りとても、我等が忠烈はビクとも致すもの
では御座いませぬ。こうなれば却って腹も据わりました。せめて悪逆・劉備の奴に、正義の鉄槌・
破邪の利剣で報いてやりましょうぞ!」

長男の 劉循 を筆頭に、城内の全ての者達が、全滅覚悟の徹底抗戦を主張し、実際にも城から
撃って出て玉砕突撃を敢行して見せるのであった。

「劉循よ、皆の者を此処に集めて呉れ・・・・儂の決意を改めて皆に伝えたい。」

今から10日程前の、未だ馬超の参陣ない時点で、劉璋は1度、それと無く降伏を匂わせながら、

家臣団に今後の方針を協議させた事があった。会議は熱を帯び沸騰したが、結局、誰一人として

開城・降伏を口にする者は居無かった。あれから更に10日・・・・城側の死傷者は爆発的に増加し

ていた。投石機による爆撃で、市街地にも多大な被害と破壊が広がっていた。そして東西南北の

各城門も、次の総攻撃を喰らえば確実に突破され、その血みどろの戦闘は、城内での激闘へと

移り、市民を巻き込んだ阿鼻地獄と成るに違い無かった。

とは言え、包囲50日目の此の時点では、「正史」の記述に拠ればーー未だ未だ、

城内には3万の精兵と衣食は1年分が在り、官民は共々に死を賭して戦う覚悟に満ち溢れていた


のである。集まった者達はみな 当然の如く、主君の口からは、死をも厭わぬ徹底抗戦の決意と

激励の言葉が発せられると思っていた。又それに忠誠を誓う覚悟であった。

「ーーいま私が心の底から思うに・・・・」
    
劉璋は、沁々とした口調で言うのであった。
我々親子は、20年以上も州を統治して来たが、人々に恩徳を施した事は無かった。人々が 3年 もの間、攻戦に明け暮れ、草野に肌を晒し、脂を流して死んで逝ったのは、此の私・劉璋の所為 である。ーーそれなのに嗚呼、どうして私は平気で居られようか・・・・ (正史)
戦いを止めて降伏を申し出る・・・・城明け渡しの意志表明であったーー主君の此の言葉を聞いて、涙ヲ 流サナヌ 臣下ハ 一人モ 居無カッタ と 謂う。

張裔が呼ばれた。張裔は、張飛が執江を溯上して来た時に、「徳陽」で迎撃したが返り討ちに
遭って成都に帰還して居た人物だが、もともと武人では無く、実務家としての評価が高かった。
劉備への使者として選ばれた。そして
劉備に会った。


「そうか、良くぞ決断して下された。此方には何の異存も無い。」

「では、御主君の助命は御約束して戴けるのですな?」

「もともと儂は、劉璋殿には何の恨みが在った訳では無い。助命は勿論の事、今後とも厚く遇する
心算で居る。又その一族も決して粗略には扱わぬ。更に臣下達全員の安全も保証しよう。最後迄 忠義を尽くした誠実な者達こそは、我が欲する忠臣である。是れからは共に力を合わせ、新しき
理想の国創りに励もうではないか!」

「嗚呼、貴方様は噂通りの仁徳の持主で在られます!必ずや”明建君”と成られましょう。」

「ウム、安心して参られる様にお伝え下され。直ちに此方からも御迎えの者を送りますから、輿に乗って悠然と遣って来て戴こう。」

古来より降伏にも”作法”が存在していた。通常であれば、国破れた君主が降伏する場合はーー

死に装束に、自らを高手小手に縛り上げ、裸足の腰に棺桶を引き摺り、首からは印綬を吊るし、
死罪を覚悟して臣下の礼を取るのである。其処で入城して来た相手から初めて、己の生死を示さ
れるのである。馬上から声を掛けられれば助かり、素通りなら死を意味する
・・・・。

劉備は其んな古式に則った手順は取り止めるばかりか、恰も賓客を迎える如くに劉璋を遇しよう
と謂うのであった。

《ーーさて、其の迎えの使者には誰が好いだろうか?》

 「何だ〜い玄ちゃん?オイラに何か、用でも有んのかい?」
相変わらずルンルン気分の
簡雍が遣って来た。

「有るから呼んだんだヨ。」 どうも明建君の劉備も、此の簡雍と顔を合わせると調子が狂う。

「へえ〜珍しい事も有るもんだ。もしかして生まれて初めての椿事じゃ無エかナア〜!」

「そんな事に自分で感心してる場合じゃ無えワイ。重大な任務じゃぞ。」

「それよりサア、人を呼んで置いて、酒の一杯も出ないのかナア〜?」

「ったく仕様が無え奴だな。」 と言いつつも酒を運ばせる劉備。

「クヒ〜ィ、美味い!!好いなあ〜、こんな上等な酒、初めて呑んだヨ!」

「相変わらず大袈裟な奴だ。この仕事をチャンと片つけて呉れたら、あの百日宴より、もっと
ず〜〜っと好い目を見せてやっても良いぞ。」

「えっ!ええっ!其れってホント!?」

「ああ、本当だとも。大盤振舞いしてやろう。」

「だからオイラ玄ちゃん好きなんだヨなあ〜。で、なに何?その御仕事って!?」

「劉璋を此処まで連れて来て欲しい。」

「な〜んだ、そんな事かア〜。そんだけでOK牧場なの?」

「ああ、そんだけでOK牧場だ。」

「だってサア、もう劉璋クン、降参したんだろ?今更どうって事ネエじゃんヨ〜?」

「それでも御前みたいなノガが必要なんだよ。もしかしたら、向こうで不意にグサッて事も、無きに
しも非ず・・・・だからナ。こう云う場合、余んまり堅っ苦しい者が乗り込んだら、折角の御膳立てが
台無しになる事も有り得る。だから此の役は、脳天気な奴が好い。」

「アレ〜?これから御仕事を頼む相手に、そんな失礼なこと言っちゃってイイのかナア〜?」

「良いんだよ!未だ借金の方が多いだろうに。」

「テヘヘヘ、其れを言われちゃア、二の句が出せませ〜ん。」 (ペロッ)

「それに何だか知らぬが、劉璋は矢鱈お前がお気に入りの様だからナ。」

伸び伸びとした態度で美事な論を為し性格は傲慢・無頓着 (正史・簡雍伝)

あの百日宴でも、【簡雍】は何時通りの開けっ広げな様子で振舞い続け、スッカリ劉璋とも仲良し
子良しに成り、可愛いがられて居たのである。ーー


先主ガ益州ニ入ルト、劉璋は簡雍と会って非常に彼を愛した。 (同上)

「ああ、オイラも劉璋クンの人柄は好きだナア〜!一日中一緒に居ても愉しい人だゾィ。」

「それが理由だ。お互いに心底惚れてる同士が会うのが1番じゃ。まあ是れからは、劉璋殿にも、
お前の様な気儘の暮らしをして貰おうと思って居るんだ。」

「うん、あの人にゃあ、其れが似合ってんじゃ無えのかナア。同感、同感!」
「お〜い皆の衆、何とか無事で居て呉れたかナア〜♪」
相変わらずダラシの無い、ブカブカ衣裳で遣って来た簡雍であった。

「やあ、簡雍殿お使者には一体どなたが遣って来られるのかと、一同、戦々恐々と致して居り
 ましたが、まさか貴方がお出で下さろうとは!何だかホッと安堵致しましたわい。」

あの百日宴での付き合い以来、簡雍ファンは此の成都城内にも結構いたのである。ファンと謂う
よりは同輩意識、いや友達感覚の気安さであった。

「いやア〜、こりゃ又 み〜んな、鯱チョコ張っちゃってサア!平気、平気、安心してお呉んナ
 オイラが来た位だから、何の心配も要ら無エ〜って事だよ。」

あの百日宴と簡雍の人柄は、トンダ処で役立った訳である。劉備に言わせればーー
『馬鹿とハサミは使い用!』・・・・と云う事に成る??


「で、殿サン、元気してるかい?」 

「見るも悲愴な御姿で部屋に閉じ籠られ儘、我等には声の掛け様も御座いませぬ。」

「ま、元気な筈ア〜無えワナ・・・・。じゃ、殿サンの所へ連れてって貰おうか。」

劉璋の居室に近づくと、微かに香が焚かれているのが判った。

「何だかナア。えらく辛気臭い雰囲気じゃ無えかヨ。オイラこう云うの嫌いだナ!」

「こちらに居られます。」

「あ、そ。じゃ暫らくは、殿サンとオイラの2人だけにしてお呉んナ。」



薄暗い部屋の中はガラ〜ンとして、人影は勿論、その気配すら無かった。

「お〜い殿サ〜ン!何処に居るんだ〜い?恥ずかしがらずに出て来てお呉んなヨ〜!!」

よく見ると、大テーブルの上には宴会の用意が為されているではないか。

「お、おお〜!劉璋クン、やって呉れるじゃ無えノ!!是れって、もしかしてオイラの為に用意して
 呉れたのかナア〜??」

キョロキョロ辺りを見廻すが、誰も居無い。

「う、美味そう〜!!・・・・好いなあ、美味そうだなあ〜!食べちゃおっかナ・・・・食べよっと。」

最初は摘み喰いだったが、その裡いつしか本格的な食事に成ってしまう簡雍であった。

「うん、こいツァ〜上物だぞ。あ、こ、これはもしや葡萄酒!!」

呑み喰い、ひたすら舌鼓に堪能し切る男ーー使者の役目なんかスッカリ忘れて居る様だ・・・・

其れを厚手のカーテンの陰から密かに覗くのが劉璋であった。何だか心が和んだ。

「お〜い殿サン。早く出て来無えと、オイラだけで全〜部平らげちまうヨ。」

「何だ、最初から知って居ったのか!?」

カーテンの陰から出て来た劉璋に
簡雍が言った。

「殿サン、長い間御苦労さまだったネエ〜。でも、是れでまた、オイラと仲良く酒が呑めるネ。まあ
 全て、天の神様の決めた事にして置きましょうヤ。」

「ーー・・・・・。」    

「まあ世の中じゃあ、きっと殿サンの事、暗君だとか暗愚者だとか言うだろうけど、其れは其れで
好いんじゃ無いかナ。少なくてもオイラはそうは思って居無いかんネ。オイラなんて穀潰しの脳天
気の極楽トンボで御座〜い!人の見る目や評判なんてモンは、当人にゃあ関係の無え事ですサ。 ホントは人々の事よ〜く考えるからこその今日の日。オイラにゃ良っく分かります。」

「ーー本気で、そう思っ居て呉れる様だの・・・・。」

「オイラ一応は玄ちゃんの家来って事に成ってるから、余んましデカイ声じゃあ言えないけどね・・・
今回の事も 何も 彼も、お天道様は全てお見透し・・・・ですワナ。どっちが善いも悪いも在りゃしま
せんサ。ただ物事が在るだけでサア。 ありゃりゃ〜? オイラ偉そうな事いっちゃてるかも?」

「いや、そんな事は無い。君の心遣いを有り難く思うぞよ。」

「じゃあ、1つ御願いが有るんだけど、聞いて貰えるかナア?」

「この際じゃ。何でも聞いて進ぜよう。」

「オイラちょびっと酔っ払っちゃったみたいで御座います。だから、オイラも一緒に、殿サンの輿に
 乗っけてって貰えませんかネエ〜。」

「ーーこの儂の為に、不測の事態を、身を以って防いで呉れようと・・・・。」

「えっ?あ、そう云う風に受け取って呉れちゃう訳か。違う、違う。このまま呑み続けてたら、オイラ
 本当にフラフラに成っちゃうから。幾ら何でも、酔っ払いがバレたら玄ちゃん怒るだろうカンネ!」

「ああ、君の御蔭で、余計な雑念無く、事後にも対処できそうじゃ。」

「そりゃ良う御座った。ーーでは、ボチボチ参りましょうか・・・・。」

「万事、頼み参らす。」


のちに先主ガ成都ヲ包囲シタ時、簡雍ヲ遣ッテ劉璋ヲ説得サセタ
かくて劉璋ハ簡雍ヲ同ジ輿ニ乗セテ城ヲ出、命ニ服シタのである
 
                                                (
正史・簡雍伝)
ーー
”それ”は、馬超が参陣してから日余り後の事であった。

劉備は馬超が到着したと聞いて喜び「儂は益州を手に入れたぞ」と言った。そこで使者を遣って
馬超を留め置き、秘密裡に軍兵を与えた。
馬超ガ到着スルト、軍兵ヲ引き連レ 城壁ノ北ニ駐屯サセタ。馬超ガ遣ッテ来テカラ10日ニ満タズシテ ・・・・成都ハ陥落シタ ーー(典略)ーー

十九年。夏。各隹城破。進圍成都數十日。璋出降。』 (正史・先主伝)

十九年夏、各隹城破る。進んで成都を囲むこと数十日。璋 出て 降る。

成都陥落!!・・・・時に214年5月の事であった。


劉備玄徳54歳ーー20歳で故郷のシ豕県を出てから
天下を放浪すること実に30有余年!
を得る!!

思えば長く苦難な道程であった。・・・・それにしても、2000年前の54歳である。現代で言えば
”晩年”に当る。(古代史書の表記は数え歳。満年齢ならマイナス1) 急がねばならぬ。

ーーつらつら慮みるに、である。善悪の判断は別にしても、この大作戦の最大の立案者で在った
張松と、最大の実践者で在った广龍統の2人は、既に此の世には居無い。

・・・・
因果応報・・・と謂うべきなのであろうか!?ーーで、あるなら、この黒い陰謀に 基づいて成立した「蜀の国」命運は、一体どんな道を辿るのであろうか??

尚、改めて確認して措くけれどーー当時のリアルタイムでは、国家としての
と云う国名は存在しては居無かった。愛称名称としてすら

用いられる事は無く、益州内の一地域を指す言葉でしか無かったのである。また、正式に劉備の益州政権が「国家」を名乗るのは未だ7年先の221年の事であり、曹操の「
」・孫権の「」も同様で、実状は兎もあれ、今この時点での中国は未だ公式には「の天下」・漢の年号=

建安を用いているのである。だから本書が 今の段階から 既に「魏」・「呉」・「蜀」の表記を用いて

いるのはフライングであり、本来では誤りである。然し既に断わってあるから、此処では再確認に

留める。ちなみに劉備の益州政権が7年後に王朝として独立の宣言を為す時に採用する国号は

である。自分達は漢を「倒した」のでは無く、「引き継いだのだ!」とする立場を採ったから である。精々謙遜して『季漢きかん』であった。”季”は末っ子の意。三国時代も末期の241年に、「蜀」

の家臣・楊戯が先輩達を賛美した評論集を著した際そのタイトルを『
季漢輔臣賛』とした如くに。

劉備の王朝に「蜀」と謂う国名を与えたのは、『正史・三国志』を著した
陳寿その人なのである。

3国を記す場合、そのタイトルとして、曹氏の「魏」・孫氏「呉」としたのに対し、劉備の政権だけをを

まさか「漢」とはできぬ。そこで苦肉の策として独自に【
】と云う国名を発明して付したのである。

とは言え日常会話などに於いて、「我が漢は」などとは言いずらいから、やはり「我が蜀は」と言い

廻しては居たではあろう。その事を強調する為に、陳寿は『正史・薛綜伝』の伝の中に、態々次の

如きエピソードを載せて、蜀の表記が不自然では無い事を、それとなく匂わしている。


『或る時、蜀の使者の張奉が、孫権の御前で尚書の敢沢の姓名を分解し、意地悪い解釈で当て

擦り、物笑いの種にしたのに、敢沢は気転が利かず遣り返す事が出来無かった。すると薛綜は

酒を酌して廻ったついでに張奉に反撃して言った。

「そもそも”蜀”とは何で有りましょうや? 犬が居ると獨りに成り、犬が居無いと蜀と成り、目を横に付けて身を苟め、お腹には虫が入って居りまするぞ!」

自国を貶された張奉は言った。

「それなら貴方の国の呉についても分解して解釈して見せて呉れまいか。」

薛綜は即座に答えて言った。

「口が無ければ天と成り、口が有ると呉に成ります。万邦に君臨して天子の都でありますナ!」

是れを聞いて人々は喜びさんざめき、張奉は返す言葉も無かった。彼の言葉と行ないの敏捷さは

皆この例の様であったのである。』・・・・・(面白くはあるが)、何故こんな低レベルの事柄を陳寿が

貴重な「正史」のスペースに記したのか??・・・筆者は最初、理解に苦しんだのであるが、こうして

措けば、自分が創作した【
】の国の表記も、世に認知・納得される、と云う仕組みだったのだ。

ーーチト脇道に反れ過ぎた。本線に戻ろう。


やるべき事は山積していた。一体全体、何から手を着けて良いものやら訳が分からぬ。ーーが、
諸葛亮が居て呉れる。実務的な事は殆んど丸投げで善かった。王者然と構えて居られる。
謂わば
此処からが諸葛亮孔明の本領発揮・才腕の振るい処となる
この、建国の事業は、劉備玄徳の名の下に、実際には
諸葛孔明理想実現日々なのである


この成都陥落益州奪取直後の仕置き
劉備孔明の詳しい言動と施策については、次節でジックリ観てゆく事として、
此処では先ず、亡国君主と成り涯てた
劉璋の処遇について見て措こう。

一言でいえば、それなりの敬意を以って表面上は優遇された・・・・とでも、謂えようか。

『正史・劉璋伝』の記述に拠れば『
先主は劉璋を南郡の公安に移して劉璋の 財物の悉くと、もと佩びていた振威将軍の印綬を返してやった

5年後に 荊州で勃発する3国三つ巴の激戦の時には
劉璋を益州の牧に任じてシ帰に駐屯させた。
劉璋が没すると・・・・


2人の息子のうち『長男の劉循は、義父(舅)に当る广龍義
(劉備によって直ちに左将軍司馬に任じられた)
の言上によって、成都に留め置かれたが、やがて先主は劉循を奉車中郎将に任じた。
次男の劉闡は(複雑な経緯の後)呉に行き、御史中丞と成った。』・・・・
この息子達の其の後については、1文字の痕跡も無い。無論、
劉璋季玉に於いてをや。

才非人雄 而拠土乱世負乖致寇 自然之理
   其見奪取、非不幸也。
才 人雄に非ずして 乱世に拠土せしめらる。負乖して寇を致すは自然の理なり。其の奪取せらるるは不幸に非ざるなり (正史・陳寿評)

劉璋は英雄としての能力も無いのに、領土を占めて世の中を混乱させた。柄にも無い地位に就き領地を狙われる羽目に陥ったのは自然の道理である。彼が土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えないであろう。』
所謂羊質虎皮、見豺而恐。吁哉。
所謂 羊質虎皮、豺を見て恐るるなり。吁哉。(范曄の後漢書・劉璋論)

いわゆる虎の皮を着た羊の如き本質で、山犬に会えば恐れ慄く人物であった。嗚呼!
是れでは余んまりである・・・と思ってか、斐松之は其の補注に、張播『後漢紀』を載せる。

張播は言う。 劉璋は愚かで脆弱な男では在ったが、善言を守った。之も亦、宋の襄公、徐の偃王と同じ類の人間で、無道の君主と謂う程では無い。』




念願叶った〔劉備と孔明〕ーー〔主君・劉備〕と〔軍師・諸葛亮〕・・・・・

劉備玄徳
《儂は、”
旧臣重用”に拠る国創りを行なう

諸葛亮孔明
《私は、に基づく国創りを行なう
その目指す処は・・・・仁愛!!


だが、『漢晋春秋』 で 習鑿歯 しゅうさくし は言う。
『いま 劉備が劉璋の領土を襲って奪い取り、非常手段によって功業を成し遂げたのは、 信義に背き 心情に反する行為であって、道徳・正義いずれにとっても間違いである。 功業が之によって隆盛に成ったとしても、大いに其の背徳を傷むのが当然である 。 』



どうやら劉備玄徳は、完全に”ダメ男”を卒業した
模様である。ーー而して、もし、


”ダメ男”の時の方が魅力的で在った
・・・・と、思う者の無かりしや!?【第185節】 人材不足の論功行賞 (蜀の建国戦争Z) →へ