第183節
馬超 参陣

                                  

皮肉にも
諸葛亮軍を筆頭に張飛軍趙雲軍が、次々と到着したのは、正に广龍統
戦死した直後
の事であった。続々と集結して来る 新たな大軍の威容を目の当たりにした各隹城内
の敵は、もはや抵抗も此処までと観念し城を放棄して、最後の拠点である
成都城 へと決死の
撤退を敢行した。
214年3月、丸1年に及ぶ抗戦も空しく、各隹城陥落の瞬間であった。


軍師・广龍統の死・・・・と云う手痛い損失と引き替えに得た戦果であった。然し广龍統が其れ迄の
3年間
に積み重ねて来た実績の御蔭で、この〔益州奪取作戦〕は終に最終局面を迎えたのである。ーー残るは唯、劉璋本人が立て籠もる
成都城だけとなった!!

年ぶりに譜代の者達が勢揃いした作戦会議。劉備を中心に諸葛亮が居て張飛の顔が
在り、
趙雲が居た。ーー落ち着く。安心できる。頼もしい。

《何と言っても、矢張り、儂には彼等こそが真の股肱じゃ!!》

この年間ですっかり信頼を得て、今や不可欠の存在と成った法正黄忠も居て呉れる。
馬謖魏延も軍功を積み重ね、最早1部隊長から将軍の風を備え始めて来て居た。

「是れで儂も、やっと安心する事が出来る。残るは後、たった1つの城だけである。もはや大業の
 達成は目前じゃ。喜ばしい限りだわい。」

是れ迄は常に、何処かしら頼り無く、不安気な雰囲気を漂わせる
ダメ男 で在り続けた居た 劉備玄徳・・・今や其の面魂の何処にも、そんな風の片鱗さえ見えぬ。久々に”主君”に会った 面々は、その変貌ぶりに内心で驚いて居た。

《ーー漢の高祖・劉邦とは、きっと今の劉備玄徳の如き風で在ったやも知れん・・・・!!》

見事に
”ダメ男”を卒業した、その劉備が言った。

广龍統士元の功業と其の死をムダにせぬ為にも、我等は一刻も早く成都を陥落せねばならぬ! じゃが、それも決して難しい事では無かろう。是れだけの者達が揃ったのであるからにはナ。」

然し、その景気の好い主君の言葉を聴きながらも、
諸葛亮は大きな懸念に捕われて居た。

各隹城〕でさえ、丸年の籠城戦で 抵抗したのである。 然も、此方が攻め落としたのでは無く、

相手が撤退したからの落城であった。〔
成都城〕は其れに倍する構えを備えている。

先代の【劉焉】が、都の「洛陽」を擬して修築した巨城である。城内の備蓄も
年分と豪語して

いた。如何に孤立したとは謂え、主君を擁し、もはや逃走先を持たぬ敵が、死に物狂いで抵抗し

続ければーー最低でも1年や2年は篭城し続けるであろう・・・・。

もし、その陥落に丸2年を要する様であれば!!

風向きが変ってしまう恐れが有り得る。広大な益州の事である。劉備陣営の力も此処まで! と

侮り、独自の勢力を興そうとする輩も出ないとは限らぬ。そして日和見を決め込んでいた者達の

中には、劉璋への合力に動き出す可能性も出て来かねぬ。最悪の可能性としては、益州全体が

過去の如き内戦・内乱状態を呈する事も有るやも知れぬ・・・・だが諸葛亮は、この国内の問題に

ついては、安寧を保つ自信があった。古いシガラミや既得権益を持たぬ、新しい為政者の強味を

活かし、万民に平等な 治世機構を整え、法に基づく善政を施して 人々の心を落ち着かせ、その

生活を豊かにして見せる自信は有った。 いや、それこそが 諸葛亮の、蜀建国・天下三分の真の

目的であった。ーーだから諸葛亮の懸念は、その国内問題では無かった。

そうでは無く、成都の攻防戦が2年に及び、蜀の建国が2年先に成った場合・・・・間違い無く、必ず

ーー曹操出て来る!!

今現在、曹操は既に孫権との濡須戦を終え、業卩に帰還して「次の大遠征」の準備に取り組んで

居る最中であろう。無論、次ぎの大遠征とは、3年前に不発に終った〔漢中・張魯征討〕である。

然も3年前とは異なり、途中の関中には既に【馬超】は居無い。そして実際にも 今この時、曹操は

【夏侯淵】に指令して、未だ残って居る【韓遂】の掃討戦を行なわせている最中であった。

果して其の時、
張魯は如何なる対応を為すのか? 徹底抗戦をするのか!それともアッサリ

降伏してしまうのか!?ーーいや、それだけは止めさせなくてはならない・・・・いずれにせよ、

遅かれ早かれ曹操進攻して来る!!

その大軍に備える為には、何としても益州・蜀の完全平定が必要となる。その準備に専念できる

時間が必要である。その侵攻にも徹底抗戦するだけの、人々の共感・恩顧の気持・一体感・・

新しい蜀の国民としての誇りを生み出すに必要な、善政を施す
期間が欲しい

それを考えるとーーただ単に、今迄の様な、力攻め一辺倒の包囲戦を続けてゆくだけでは、2年と

云う日限を短縮する事は出来無い・・・・やっとの思いで益州を手にした途端、曹操に攻め込まれ、

又々荊州の追い落とされ、挙句は元の放浪集団!? その先は・・・・無い!!

そこでーー軍師中郎将・諸葛亮主君・劉備に ”或る秘策” を授けた。

成る程!それは善い策じゃな。 だが 果して上手くゆくであろうかの

「先ず九分九厘は大丈夫で御座いましょう。その誇りを傷付けぬ様な、厚遇と地位を保証 して
 やれば、必ずや聞く耳を持ちましょう。」

「よし、分かった。ーーじゃが、”
もっとデカイ策”が有っても然るべきだと思うがの?」

劉備の謂う、「もっとデカイ策」とは・・・・
張魯との同盟〕!であった。ーーだが、今の

段階では、その成功の見込みは極めて低かった。何故なら、張魯との国境線に近い「葭萌」の

守将・霍峻から、こんな情報が伝えられて来ていたのである。

先主が葭萌より南に戻って劉嶂を襲撃した時、霍峻を留め置いて葭萌城を守備させた。すると
張魯が将軍の楊帛を派遣して霍峻に誘いを掛け、共に城を守ろうと持ち掛けて来た。だが霍峻は
「拙者の首は手に入れる事が出来ても、城を手に入れる事は出来ぬぞ!」と拒絶した為に楊帛は
撤退した。
』 のである。ーー(正史・霍峻伝)ーー とてもの事、スンナリとはゆくまい。

とは言え、こうした張魯の動きを、敢えて甘い観方で読めば・・・・魚心あれば水心・・・・VS曹操とも

なれば、手を結んで措きたいと願う気持は強いであろう。ーーだが、それを”決断”にまで持ち込ま

せる為には、此方が先ずガッチリと独立を果してしまわなければならない。

それにしても、張魯公祺と云う人物・・・・よく分からぬ・・・・》 と孔明は思う。

劉備が直ぐ隣りの益州に内戦・内乱を持ち込んで以来丸3年が経つと云うのに、何のリアクション

も起こさなかった。葭萌城にチョロッと将軍を送っただけの様子見の後は、全く何の音沙汰無しの

儘で来ている。普通に考えれば、己の勢力を拡張する絶好の機会と観て、善かれ悪しかれ、何等

かの反応を示す筈である。処が張魯はただ傍観して居るだけで、手紙の1通も送って寄越さぬ。

真に戦いを好まぬ 腹の据わった男なのか、それとも単に臆病なだけなのか?いや真の臆病者
 であるならば、相手の弱味に付け込まぬ筈も無し・・・・分からぬ・・・・


「はい。”
それ”は、同時に推し進めて措くべきだと思います。 然し、差し当っての 緊急課題は
先ず、何と言っても劉璋の戦意を挫き、その降伏・帰順を導き出す事で御座います。力攻めだけで も成都城は落とせますが、時間が掛かります。それに戦後の事を考えますと、成都は無傷で手に
入れるのが最良! 直ちに我等の拠城として使わねばなりませぬ。又、其処に立て籠もる将兵も、
いずれは我等の味方・蜀軍の精鋭と成るべき者達で御座います。更に重要な事は、戦後の民意
で御座います。もう之以上の恨みを買ってはなりません。その為には何としても・・・・

成都は無血開城させねばなりませぬ!!

「ーーそうじゃのう・・・・考えてみれば、曹操の奴が「業卩城」を手に入れた時も、決して力押しには
 せず、随分と慎重であったが・・・・そう謂う事であったか。」

「曹操が業卩を手に入れたのが 建安
年 の事でした。いま我等は、その曹操に遅れること
丸10年!
その10年間の遅れを埋めるものが有るとするならばーーそれは唯1つ・・・・!!

「ーー曹操が力で人々を従えるなら、儂は仁愛に拠って人々から支えられる・・・・そうせよ、と申す
 のじゃな!?そう云う国創りをせよ、と謂うのじゃな!!」

「人々の恨みは全て、广龍統が其の一身に引き受けて逝って呉れました・・・・後に残った我々が 
 為すべき道を、广龍統は自ずからの死を以って示して呉れておりまする。」

「如何にも其の通りじゃ!よし、直ちに手を打とう。で、その使者には誰が善いであろうか?」

「それには、つい最近出仕して来た者で 信頼が置け、然も未だ 何の仕事も与えて居無い人物が
 宜しいでしょう。誰かそれに該当する人物は居りませぬか?」

「う〜ん・・・・・お、居た居た。」 李恢ーー字は徳昂・・・(既述の如く)益州も成都からは750キロも南に下った、大山岳中の

建寧郡
の ド田舎出身。たまたま親戚が罪を犯し連座制の為に郡を免官される所を 上司董和

図らいで、州への栄転を推挙され 成都へ向う旅の途上にあった。その道中で李恢は劉備挙兵の

噂を聞き、《劉璋の敗北と劉備の勝利マチガイナシ!》 と判断。そこで、自分が郡の使者だと云う

名目を使って「成都」を素通りし、「綿竹」で劉備に仕官を願い出た。 劉備は、そんな ド田舎から

ワザワザ遣って来て呉れた事を嘉し、随員に加えた・・・・と云う経緯の持主。

その重大な任務を与えられた李恢、喜び勇んで直ぐさま旅立った。その行く先はーー北方の

漢中
・・・・前々から曹操に狙われ続けて居る【張魯・・・・かと思いきや、アレアレ、李恢の

足は 「白水関」 でクルリと方向を変えると、何と、誰も居無い 「西の山奥」 へと向かい始めたでは

ないか!?
 一体李恢は、何処へ、何の目的の為に派遣されたのであろうか??


ーーその答は・・・今から
ヶ月ほど前の 漢中の状況 の裡の在ったのである。無論、漢中の主は
張魯であり、五斗米道である。其処に、破れた馬超が身を寄せ、3度目の再起を

図って居た。 のであるが、馬超は 己の再起ばかりを最優先にする余り、すっかり浮いた存在に

成ってしまって居たのである。最初の内は張魯も、曹操の侵攻を事前に防いで呉れた同志として、

馬超の武勇を高く買い再起の為の兵力を貸与し続けたのであるが、もはや関中の諸城は完全に

曹操側のものと成り、相次ぐ出兵は悉く失敗に帰していたのである。貧すれば貪す。馬超はその

敗因を、張魯が兵力を小出しにしか与えぬ所為だと恨む心情を抱き始めた。

充分な兵力さえ有れば、俺が破れる筈が無い!

それに加ゆるに馬超が選んだ
修羅の道・・・父母兄弟と其の一族を犠牲にし、更には妻や子すら

肯んじ無かった冷酷非情な態度は、慈愛・慈悲をモットーとする五斗米道の教義とは、真っ向から

敵対するものであった。 更に人々の反感を買ったのは、馬超の傲岸不遜とすら見える、その

決して頭を下げぬ矜持・佇まいであった。そんな馬超に対し終には、彼を最も評価して居て呉れた

張魯の部将達の間からすら、不満と批判が噴出した。

又、張魯ノ将軍・楊白ら ガ 馬超ノ能力ヲ 非難シタ。 ーー(典略)ーー

「・・・馬超の存在は、我ら五斗米道が生き残ってゆく上に於いて、害にこそ成れ、決して善い結果
を招く存在とは申せなく成ってしまいました。追い出しましょう!拒むなら殺して、その首を曹操に
差し出せば、幾等かの効果は有るやも知れませぬ・・・・」

そんな危険な空気を察知した
馬超ーー無念さと慙愧に唇を噛みながら、漢中を逃れ去るしか
無かった。 《何処へ行くべきか?》 考える迄も無かった。実の父・馬騰を捨てて叛乱を起こした時
之からは実の父親として仰ぐ事を誓った
韓遂 の元でしか無いではないか!ーーが然し、その
頼みの韓遂、今 この瞬間にも夏侯淵の執拗な追撃を受け、敗走に敗走を続けて居る 最中で
あったのである。その居場所は無論の事、連絡すら付かない状況であった。

《ーーやんぬる哉・・・・!!》

夢破れ、故郷に帰る場所とて無く、頼りとする同志は敗走中。然も
父親の代からの最強の勇将
あった
广龍悳ほうとくには随行を拒絶されてしまった。ーーそんな馬超が落ち行く先は・・・・
張魯の宿敵である、益州の劉璋の元!か?? ーーそれは有り得無かった。・・・・何故なら
両者の間には以前、こんな遣り取りが在ったのである。『益州耆旧伝』に拠ればーー

『その昔、韓遂が馬騰と共に関中で騒動を起こした時、度々劉璋の父・劉焉と連絡を取り合った。
馬騰の子の馬超の時代になると、再び劉璋に便りを出し、蜀(益州)と連合する意向を示した。だが
其の時、家臣の王商は劉璋に向って進言した。
「馬超は勇敢では在りますが仁愛なく、利益に目が眩んで信義を意に介しません。ですから運命を
共にする同盟者としてはなりませぬ!『老子』には『国にとって利益になる器物を人に示してはいけ
ない』 と有ります。現在の益部は、優れた士人と豊かな民衆を擁し、宝物を産出する地域です。
是れこそ悪知恵の有る者が転覆を図り、馬超らが西方に目を着ける理由です。もしも招き寄せて
彼を近づけでもしたら、虎を養い、みずから災いの種を蒔く様なものですぞ!!」
劉璋は其の言葉に従い、馬超の申し出を拒絶した。』・・・・


そんな相手に今さら再び、叩頭する事などプライドが許さ無かったーーだから馬超の落ち行く先は

「武都」を経た大山岳地帯の草原を遊牧する異民族・〔
てい〕の元しか無かったのである。彼等は

【韓遂】や馬超の父・【馬騰】の時代から、いや其のもっともっと以前から、常に「反・漢民族」で在ら

ざるを得無かった。だから馬超の様な、反権力の”漢人”とは協調し受け容れる土壌があった。

ーー(典略の続き)ー→
馬超ハ 武都カラ 氏族ノ居住地ヘ 逃ゲ込ンダ。


この
ていきょうこそは、三国時代の100年後に、漢民族を中原から追い出して 中国史上初の異民族支配を行なう五胡(五胡六国時代) なのである。彼等の血の中には
既に此の時期から、そのバイタリティが流れて居たことであろう。

落人と成り果てた馬超は、従子の馬岱だけを連れ、その異民族の風土に頼ったので
ある。 ちなみに此のとき袂を別った馬軍随一の猛将・
广龍悳の、その後の運命であるが・・・・

最期は関羽と激闘して斬られるのである。もし此の時馬超に随行していれば、関羽とは味方同志
に成っていた公算が強い。人の未来は有為転変、何が起こるかは定かでは有り得無い。


《ーー嗚呼、俺ほどの者が、この儘、此んな異郷の地で 朽ち涯てると云うのか!?》

馬超孟起39歳・・・・未だ未だ若い。だが、全てに見放され孤立した今、流石の馬超も半ば

観念して居た。己の器の限界に気付くまいとしつつも、気付いて居たのである。此の世にオギャ〜

と生まれて来てから今迄、常にトップに在った。何時でも人の上に在って、人を率いるのが当然の

事であった。リーダーで在る事が当り前、自分には 其の能力と器が有ると 信じ込んで来て居た。

物心付いて以来、常に”お山の大将”で在った為に、識らず識らずの裡に、自分より上の器を持つ

人物の存在など認めぬ、傲岸不遜の塊りと成ってしまって居たのである。

《嗚呼、こう成る迄その事に気付け無かったとは、俺は何と云う小人物で在ったのか!!》

・・・・今その事に初めて気付かされた馬超ーーひと皮剥けて、己の殻から脱皮した。

生まれて初めて、人に頭を下げる事を 恥とは思わなく 成った。すると 途端に、今まで 見えて居

無かった景色が 心に沁みて来た。 是れ迄は 歯牙にも掛けずに 見落として居た、諸々の事供が

急に見えて来た。新たな世界が開けた。

《我執を棄て、俺より大きな器に頭を下げよう!そして、もう一花咲かさせて貰おう!!》

そう踏ん切りが着いた馬超、使者を送った。と、正に其の返事が届く矢先の事であった。
劉備の家臣李恢 と名乗る男が遣って来た。



「我が御主君・劉玄徳様は仁愛に満ちたお方で、その御仁徳は万民の慕う処で御座います。今は

愚かな旧主・劉璋の悪政に終止符を打ち、この益州に新たな国を建て様と為されて居られます。

そして最早、益州の者達は皆それを寿ぎ、進んで味方と成り、諸郡県は既に劉備様に帰服致して

居ります。然しながら劉璋は独り成都の城に籠って、更なる無益な血を流そうとして居るので御座

います。そこで我が主は今、馬孟起 様 の名声と武勇に拠り、頑迷な 劉璋の気持を挫き、無駄な

抵抗を諦めさせて、平和の裡に成都を開城させたいと強く考えて居られまする。

実際、貴方様が潼関に於いて、曹操を後一歩の処まで追い詰めたと云う赫々たる武勇を、天下で

知らぬ者は御座いませぬ。今、張飛・趙雲と謂った万夫不当の豪将・勇将が駆け付けて来たとは

申せ、矢張り何と言っても劉璋が最も恐れる猛将は、馬超孟起を置いて他には御座いませぬ。

今こそが正に、貴方様が 其の名声と武勇とを、更に高められるべき 機会であり、天が示す道を

実践される時で御座いましょう。」


劉備は既に、厚い待遇を用意して待ち侘びて居ると謂う。


「又この先の事を推し測りまするにーー関中を手に入れた曹操は必ずや漢中を狙い、そして此の

益州・建国したばかりの我が”蜀の国”を 犯そうとするに違い有りませぬ。而して天下周知の如く、

我が主・劉玄徳と姦雄・曹操とは不倶戴天の間柄で御座います。決して屈せずに真っ向から立ち

向かわれましょう。 私が思うに、この曹操と云う男は、我が御主君にとっても仇敵で在りますが、

貴方様にとっても亦、御両親 と 兄弟、そして御一門の方々を 情け容赦も無く殺し尽し、天津さえ

奥方様と可愛い御子様達さえも殺した、憎んでも憎み切れ無い不倶戴天の仇で在りまする!!

心と力を合せて、共に之に当たるのは当然の趨勢では御座いませぬか。どうか、其れ等の事供を

御考えになられて、是非にも素早い御決断を賜わりとう御座いまする!!」




214年3月下旬・・・終に劉璋の立て籠もる成都城
劉備軍
によって完全包囲された

その劉備軍の総兵力は推定で凡そ
10数万如何に巨大な成都城とは言えその全ての

門を封鎖するのには、余り有る大軍勢と成っていた。もはや命有る物の通行は、たとえ蟻の子1匹

たりとも見逃す事は無い程の重包囲であった。

対する城内の劉璋軍は正史に拠れば
3万余であったと謂う。但し城内は全て劉璋に固く忠誠を

誓った者達だけで占められて居り、その全員が
討ち死に覚悟の精鋭であったとも記す。

ちなみに、この劉璋軍の兵数は、巷間伝えられて来ている「
劉璋暗愚説」に一石を投ずる数字で

ある。大したものである!!時局は違うとは言え、曹操に亡ぼされた4世3公の大名門・袁一族が

営々と築き上げた恩顧関係の場合ですら、最期の業卩城には、是れだけの忠義・決死軍は集まら

無かったではないか。更には、諫言を聴き入れられず、逆に支城
(広漢県) に左遷させられても 尚、

その門を固く閉ざした儘、決して降伏しようとはしない【黄権】等の例を含めれば、その数はもっと

増える。その風土背景に、益州人独特の倫理観が在ったにせよ、真に劉璋が暗愚・脆弱な君主で

在ったならば、是れ程の兵力が最期まで踏み止まる事は無いであろう。兵力は3万だが、其の倍

以上の一般市民も城内には居て、『
官民共に死を賭して戦う覚悟』 を 定めて居たのである。

巷間いわれる如き「
劉璋暗愚説」は、多分に「劉備・已むを得ぬ論」を正当化する為の、反射的な

作意の匂いが濃厚である!・・・・と筆者は思うのだが、事実はどうであったのだろうか?

いずれにせよ『城内の備蓄衣食は 裕に1年分を超えており』、血みどろの最終戦争・ハルマゲドン

が予想される事だけは間違い無い、緊迫した状況と成っていた。

さなきだに、古来より〔攻城戦〕は攻める側が10倍の兵力を有して、漸く 互角とされて来ていた。

事実、三国志前半の全ての戦いに於いても、この鉄則は キッチリ当て嵌まっていた。 もし、この

鉄則を超えての勝利の場合には、必ず其処に”内応”が有った故であった。ーー然し、この成都の

攻防戦に於いては、その兆候は全く見られ無い。その上、攻める側の劉備陣営には相い矛盾する

2つの希求が存在していた。1つは時間との勝負であった。近い将来に予想される曹操の襲来に

備える為には、一刻も早い終戦が必要であった・・・・然し其の為に必要不可欠な、大型攻城兵器

を用いる事には躊躇いが有った。出来るなら使いたくは無かった。何故ならば是れから自分達が

永く居城とすべき城を、自ずからの手で破壊し尽くすなど愚の骨頂である。それにも益して致命的

なのは、終戦した直後から、今度は自分の味方となるべき将兵を、然も最精鋭の主力軍とも成り

得る者達をムザムザ殺傷して、新設蜀軍の力を減殺してしまう事に繋がり兼ねないのであった。

〔成都の攻城戦〕は、今迄の戦いとは全く異質の、格別の配慮を要する戦いなのであった。

下手に手出しは出来ぬ。かと謂って、長引けば曹操が攻めて来た時に持ち堪えられない・・・・!?

ただ無為に、相手の食糧が底を突くのを待っては居られ無い。ーー困った。
其処へ
李恢 が帰って来た。

「おお、李恢。理解して貰えたか!?お前の報告を待ち兼ねて居ったぞ!」

劉備と諸葛亮が飛び出す様に彼を出迎えた。

「万事、上手くゆきました!馬超どのは、『
大変有り難い事である。此方の方から頭を下げてでも
御願いに参ろうと思って居た処で在った!
』 と、大いに感激し、ハッキリと 
臣下の礼を取って御仕えしたい!』と誓約されました。之がその書状と起請文で御座います。」

「でかした!よくぞ重大な役目を果してくれた!」 劉備は大喜びで馬超の返書を貪り読んだ。

その間に諸葛亮は李恢に問うた。

「して、お主の観た処では、現在の馬超には如何程の軍勢が保有されて居った?」

「残念ながら、軍勢と呼ぶには如何にも少数で御座いました。」

「ほう〜、それ程までに苦労したのじゃナア〜。」 劉備が読み続けつつ感想を漏らした。

「では5千位か??もっと少ない?では3千・・・・でも無い。まさか1千と云う事はあるまい!?」

だが劉備の胸算用に対し、李恢の首は縦には振られ無かった。

「本人は精鋭500騎と申されましたが、実際は300騎と云った処で御座いました。その上、私でも
聞き知っている様な勇将クラスの者は、従子の馬岱ただ1人だけでした。何処を見廻しても、馬軍
随一の猛将とされる广龍悳の姿は在りませんでした。」

「・・・・そうか。その兵数での参陣では、馬超孟起の武名が泣こう。李恢よ、折り返しで済まぬが、
 直ちに再度馬超に会って、伝えて呉れ。」

劉備は、諸葛亮から既に教えられていた”
”を李恢に理解させると、直ぐ様再び北西の山奥へと
送り出した。元々南の山岳地帯出身の李恢は疲れた様子も無く、成都の戦場から姿を消した。


一方、
成都 城内の劉璋・・・・・包囲されてから5日以上を経たが、未まだに

大規模な総攻撃は受けて居らず、却ってそれが不気味であった。 決して劉備軍の士気が衰えて

居るとは見え無い。実際に 軍装で城門の上から見渡せば、眼下一面は敵兵の黒い大海であった

弱音では無いが、思わず溜息が漏れる程の大軍団の偉容であった・・・・ 思えば自分は是れ迄、

未だ1度も実戦の場に立った事の無い君主であった。

《それを暗君と呼ばれるなら、儂は確かに暗君で在ったやも知れぬ。だが、違う見方をして呉れて
 居る者達も又、此処に之ほど多く居て呉れるのじゃ!》

ふと、亡き父や兄達の顔が浮かんで来た。兄弟の中では1番大人しい質の自分が、君主に納まる

など本当に不思議な巡り合わせであると思う。その代りに能 く したもので、天は長男に劉循と云う

父親を遙かに凌ぐ覇気を備えた男を配して呉れた。頼もしい総司令官であった。


《信じたのは儂だ。そして騙したのは劉備だ。儂には天下に恥じる事は無い・・・・》

そう思いつつ城壁を降りる足元が心無しか重たく感じられる劉璋であった。



包囲10日目・・・・初めて大規模な攻撃が 行なわれた。是れだけの大軍団を

擁しながら、ただ漫然と手を拱いて居るだけでは、全軍の士気に関わってしまう。一種、景気付の

意味合が濃い攻撃であった。だから此の日の主たる目的は、各城門の大扉の破壊であった。

尚この時、劉備は全軍に対して或る厳命を通達していた。

この戦いに於いて劉巴を殺害する者が在れば、3族に及ぶまで死刑に処す!』 と謂うもの

であった。・・・・そも、この【劉巴】とは一体 何者ぞ?ーー字は子初。元々は荊州・零陵郡の出身で

若い時から有能で高名であったが、劉表からの再三の召請にも応ぜず、曹操が荊州を占拠した

時に初めて出仕した。 即ち 曹操を主君に選んだ人物であった。曹操は彼を属官(掾)に取りたて、

改めて故郷周辺
(荊州南3郡) の鎮撫を命じて派遣した。その後、劉備が 此の3郡を制圧した ので

あるが、劉巴は劉備の召請にも関わらず、拒絶して南の交州へと逃亡した。その後は益州の劉璋

に身を寄せ、徹底した 「
劉備脅威論」 を展開して 劉璋を諌め続けた (既述) 人物である。 だが、

劉璋には遠ざけられ、今は 成都城内の 私邸に 病気と称して 閉門蟄居していた。 謂わば 劉備を

拒み続け、その反対の急先鋒たる大名士であった。それを劉備は得たいと公表したのである。


もう一人、天下に名を轟かす 「大名士」 が居た。”許靖”であった。あの〔月旦評=人物評価〕で
有名な【許劭きょしょう=許子将】の従弟いとこである。(既述の如く)本人も月旦評げったんひょうを行ない有名であったが2人の

仲は極めて悪く、先に出仕した許劭は、何故か此の従弟を生涯コキ下ろし続けた。・・・・で兎に角

いま、その【許靖】も 此の成都城内に居たのである。ーーが、この超有名人、己の命が惜しくなり

劉璋への恩顧も有らばこそ単独で敵前逃亡を図った。劉巴とは正反対の行動を取ったのである。

然も城壁を乗り越え様とモタモタやっている処を見つかり失敗した。日頃エラそうな事をのたくって

超有名人だった割には、何ともハヤ見っとも無い顛末であった。だが劉璋は諸般の状況を考慮し

処刑まではせず、牢にブチ込むに留めていた。ーーそれが劉備の耳にも漏れ聞こえて居たが、

こちらには何の庇護命令も出され無かった。



包囲20日目・・・・第2回目大規模攻撃。今度は大型の攻城用兵器も併用した

本格的な激戦となった。劉璋側も勝ち点1を欲しい処であった為に、長男の劉循が自ら兵を率いて

出撃し、城下での激しい戦闘と成った。城壁上からの高位置エナジイを得た矢玉の威力は物凄く、

双方に可也の損害が出た。尚この日の戦闘で判明した事は、劉備軍の中には”なあなあ主義”が

蔓延して居ると云う蔽い難い事実であった。特に益州で新たに参入した部隊の中に、その気配が

濃厚であった。 彼等の心情を推し測ればーーどの道、此方の勝利は決まっている。此処で死ん

だら馬鹿くさい。然も相手は昨日まで顔見知りである。同郷人が殺し合う必要は有るまい・・・・

そこで劉備は彼等の”やる気”を興させる為に、新たな布告を出して見せた。

もし事が成就した暁には、蔵の中の品物は、全て諸君等の
     思いの儘に任せ、儂は一切関知しない事を約束する!


落城直後の略奪を放任し、褒美代わりに認めよう・・・・苦肉の策とは言え、また思い切った約束を

したものである。 但し、この記述は「正史」では無く、『
零陵先賢伝』 と云う 3級史料のものでは

あるが・・・・戦後、この約束が劉備の国庫を危機に陥れる。




包囲30日目・・・第3回目は終日に渡る総攻撃が行なわれた。先日の布告が功を

奏したのか、之までとは見違える様な士気の高さであった。城門の1つが撃ち破られ、あわや城内

突入寸前の処までゆく猛襲であった。劉璋側も必死の防戦を行ない、被害甚大なれども辛うじて

劉備軍を押し戻した。ーーそんな死闘が繰り広げられている最中、遙か北方を疾駆する騎馬集団

が在った。その数およそ
千騎四散して居た配下の者達に、懸命の檄を飛ばして集められた

結果に得られた虎の子部隊であった。眦を決して、その先頭を走るのは・・・・

関中の英雄馬超孟起その男であった

「氏」族の故地を発ち、「武都」に下り、更に「漢中」盆地を突っ切り、「白水関」を越えて、ついに

「成都盆地」に足を踏み入れた。後は「成都城」を目指してまっしぐら!!ーー〔培城〕から〔綿竹〕を

通過、〔各隹城〕も越えて〔新都城〕に到着・・・・もう後1刻で〔成都城〕であった。だが此処で馬超の

足は止まった。劉備からの停止命令が届いていたのである。 (※以下の展開は『
典略』に拠る)


劉備は、馬超が到着したと聞いて喜び、「これで儂は益州を手に入れたぞ!」 と叫んだ。そこで
使者を遣って
馬超を留め置き、秘密裡に軍兵を彼に与えた

詰り劉備は、手持ちの軍兵をコッソリ抽出して馬超軍に加え、その新規到着軍が、恰も大軍団で

あるかの如く、敵味方の双方に見せ掛け様と 企んだのである。そして『
馬超軍5万!』 と

呼号せよ、と命じたのである。天下に其の名を轟かす「西方の核弾頭」・「関中の大英雄」・・・・・

馬超孟起】の登場を、より 衝撃的に演出 して見せよう との作戦であった。

此の 西方の地 に生きて来た【劉璋】に与える、そのインパクトの 強烈さは、「張飛」や「趙雲」の 到来とは比較にならぬ程の生々しさ・現実感であろう。



包囲40日目・・・・時は214年(建安19年)5月となっていた。

第4回目
総攻撃は凄まじいものであった。張飛趙雲黄忠と謂った

譜代の猛将・勇将が前面に押し出し
魏延馬謖劉封等も之に負けじと続いた。

と、成れば自ずから、新規参入して来た益州の諸軍も、後塵を浴びる訳にはゆかない。東西南北

四方八方からの一斉攻撃で襲い掛かった。が、よく観ると、何故か「北門」だけはガラ空き状態の

儘で、一兵も居無かった。兵理の常道としては総攻撃の場合、必ず1門だけは空けて置き、敵の

投降を誘い、同時に決死のホゾを固めさせない・・・・・その為であろうか?

血みどろの激闘が午前中一杯うち続いた。こんな長時間の連続攻撃は初めての事であった。至る

所に敵味方の屍が累々と横たわって居た。ーーその様を、城壁上から眺めやって居た
劉璋

眼からは、知らず知らずの裡に涙が溢れていた。恐しいのでは無かった。命が惜しくなったのでも

無かった。ただ無性に切なかった。皆が何の疑いも無く、自分の為に傷付き死んでゆく・・・・その

無償の行為が、今更ながらに在り難くも哀しかった。


ーーと、その時であった。 戦場に木霊する喚声や悲鳴を 全て打ち消す如き大音響が、地鳴り と

成って轟き渡って来たのである。

「あっ、あれを、あれを御覧下さい!」 物見兵が、北の方を指差して叫んだ。

「あ、あの旗印は・・・・馬、馬、
馬超軍で御座いまするぞ

《ーー・・・・!!

な、何あの、あの関中の英傑・馬超孟起だと申すのか!?

「間違い御座いませぬ
その兵力は・・・・およそ万、いや

嗚呼、もはや馬超までが劉備に付いたのか・・・・!!




関中を一世風靡した英傑
馬超孟起劉備の臣として参陣す!! 【第184節】 暗亡君と明建君 (蜀の建国戦争Y) →へ