第182節
                    ら く    ほ う    は
 愛 惜 落 鳳 坡

                                  
の評論家・【晉戈ちょうせん】曰く・・・・・
劉備は 成功しないだろう。 用兵は稚拙で戦う度に敗北し、逃走に 明け暮れて居る。どうして人の国を狙えようか。蜀は小さな地域だとは言っても、四方を囲まれた険固な土地であり、自分の力で独立を保てる国だ。早急に併呑する事は無理である。』

それに対して徴士の【
傅幹ふかん】は言った・・・・・
「劉備は寛大で情け深く度量が有り、よく人の死力を振り絞らせる人物だ。諸葛亮は政治に熟達し 状況の変化を読み取る男で、正道に拠りながら 権謀が有る。 然も 此の人が大臣と成って居る。 張飛・関羽は勇敢で 義理がたく、どちらも 万人の相手に成る男だ。 然も 此れ等の人が 将軍と成って居る。この3人はみな英雄である。劉備の智略に加えて、3人の英雄が補佐して居るのだ。
どうして成功しない事があろうか。                   ・・・・以上ーー『傅子』ーー

此処までの経緯 を、正史・先主伝に観るーー

@ 、関戍の諸将を勅めて、文書 復た 先主に関通ずる勿なからしむ。
A 先主大いに怒り、璋の白水軍督・楊懐を召し、責むるに無礼を以ってし、之を斬る。
B 乃ち黄忠卓膺をして兵を勒し、璋に向わしむ。先主ただちに関の中に至り、諸将ならびに
   士卒の妻子を質とし、兵を引きい黄忠・卓膺 らと進んで
に到り、其の城に拠る。
C 王貴冷苞張任ケ賢らを遣わし先主を培に拒がしむ。みな破敗し退いて綿竹を保つ。 D 璋、復た李厳をして綿州諸軍を督せしむ。厳 (李厳)、衆を率いて先主に降る。
   先主の軍益々強し。諸将を分遣し属県を平らげ下さしむ。
E 諸葛亮張飛趙雲ら兵を将いて流れを泝り、白帝・江州・江陽を定む
   
ただ関羽、荊州に留まり鎮す
F 先主、軍を進め 各隹らく を囲む。時に璋の子・循 (劉循)、城を守る。
G 攻めらるる事正に1年になんなんとす。』


この、ほぼ
1年に及ぶ
各隹らく城攻防戦(包囲戦)激烈を極めた!
軍師の
广龍統 とすれば、内心では・・・・「諸葛亮軍」か 「張飛軍」か 「趙雲軍」か、後発した 増援3軍の中の1軍でも到着して呉れたなら!と思う程の激戦であった。

何せ州都・〔
成都城〕とは直リンクの防衛圏内ーー謂わば〔親子城〕の如き機能と 機構を備えた戦術拠点として築かれた巨城であった。更に その2城の中間地点には新都城も存在した。 山河の地形を利用した砦クラスの支城 は無数に在り、之がまた 蔑り難い ゲリラ的な策動を繰り返す。劉備軍は基本的に 《野営陣地》 である。夜襲には弱い。敵はそんな弱点も突いて来た。大打撃を蒙る様な事は無かったが、手を焼かされた。信頼できる増援軍が欲しい。
寄せ集まりに過ぎぬ味方の軍は数だけが頼りで、其処にツウカアの意思疎通を期待する事は
無理であった。ーーだが、未だ
諸葛亮は到着しない。

   

臥龍がりゅう鳳雛ほうすう・・・・青春時代を”水鏡先生”門下で、共に過した学友でもあった。
互いに何の腹蔵も無く遠慮の要らない無二の親友であった。
鳳雛こと广龍統の方が
4つ年上であったが、
臥龍こと諸葛亮を、心から大天才として認めていた。

然し当然の事ながら、2人は2人であった。個性も違えば品格も異なる。物の見方も考え方も別個

の人間同士であった。無論、同門出身であるからには似ている面も多々あったが、根本は各々が

異なった天命を持つ、一個の人間と人間で在り続けるしか無い。・・・・だが此処に、其の異なった
人間同士を深く結び付ける縁
(えにし)が存在する。ーーーーと呼ばれる解説不可能な、 不思議な、共有体験を積み重ねる事から生まれる、理屈抜きの共鳴無償の共感

同じ釜のメシを喰った 仲間意識、同じ関係で在り続ける事を 是とする感情・・・・其れを 「友情」 と

呼ぶか「同僚」と呼ぶか、はた「親友」と呼ぶか・・・・いずれにせよ、抗し難く、互いを魅了し合って

已まぬ強固な間柄ーー其れが此の2人の間には在った。

今、广龍統には、その友の力が必要であった。諸葛亮の来援が待たれた

元々からの作戦では、最後の最後である「成都包囲に合流する!」・・・・と云う予定であった。故に

广龍統も其の覚悟で居たし、己の独力で何とか成るとの確信も有った。ーーだが予想外に、敵は
頑強に抵抗を続け、213年
月に始まった〔各隹城包囲戦〕は既に10ヶ月を過ぎ、
214年へと越年していた。
(※この間、すぐ北方の漢中・関中でも大変動が同時進行していた。213年8月、馬超は再び関中での叛乱を成功させ復活を果す。・・・・が、9月には女性達の為に破れ、漢中の張魯の元へと駆け込む事態が生じていたのである(既述)。然し馬超と張魯の間は次第にシックリゆかなくなり、両者の決裂は最早、時間の問題と成りつつあったのである。ーーこの両者の動きは果して・・・・??)


さて 軍師たる广龍統は 其の立場上、口にこそ出しては言えぬが、本心としては、一刻も早い
諸葛亮軍の到着を 心待ちにして居る状況であった。なかなかスムーズにゆかぬ 意思疎通を図る
為に、广龍統は
寄せ集まりの味方の陣地を駆け巡る日々が続いた。
とは言えーー巨視的に観れば、彼の
乗っ取り任務は着実に果されつつあった・・・・益州の
中枢部に当たる周囲の諸城は全て制圧。残すは拠点の2城のみ。然も、敵城内の兵糧も限界点
に近づきつつある事は明白であった。
暗く辛い任務 も、もう少しで完了する。

是れが終れば又再び、己本来の慈愛に満ちた仕事に専念できる・・・・・》
その思いだけが
广龍統士元を支えて来て居た。本来の己の姿を殺し続け、世の批判を
甘んじて一身に浴び続ける日々・・・・幕内にすら批判的な雰囲気は在った。

それが善政・再生の為の破壊・謀略であった事を証明して見せる為にも、 一刻も早く 此の戦いに終止符を打ちたい・・・・

但し蝋燭が燃え尽きる寸前には、パッと最後の煌めきを発するのに似て、敵の最後の抵抗は熾烈 を極めた。激戦・激闘、白兵戦・接近戦が繰り広げられた。



そして、その日の各隹城攻撃・・・・その最中に悲劇は起こった。 以下は創作

矢玉が雨霰と飛び交う戦場であった。普通、軍師とも成れば、後方にデンと構え、最前線に出る事 などは在り得無い。だが广龍統には、己自身に対する”
負い目”が在った。

危険な戦場には顔を出さず、常に陰で策謀を巡らすだけの男・・・・そう見られたくは無かった。そう

見られたら軍師の任務は果せない。その負い目を払拭する為と、軍師の権威を保つ為からか?

おのずと广龍統の位置取りは、通常では在り得無い最前線へと進んで居た。

「广龍軍師どの、此処は チト 危険ですぞ。 我が軍にとって貴方様は、掛け替えの無い御方です。
 もう少し後方へお退がりくだされ!」

老黄忠は广龍統を気遣って、再三に亘って勧告していた。だが广龍統は言うのだった。

「いや、私には私の覚悟と考えが在っての事です。忠告だけは有り難く伺って置きます。」

そして 何時も通り、将兵と共に 最前線へと進出した。

ところが此の日は、予想を超える敵の猛反撃に遭遇した。一瞬、立ち往生する攻城軍・・・・其処へ

弓矢の集中攻撃が浴びせられた。广龍統の周囲に在った幕僚の幾人かが倒れた。

「之は何時もより規模の大きい反撃ですぞ!一旦退きましょう!」

「ウム、そうした方が善い様だな・・・では・・・・・」 《一旦退こう。》 と言った心算だったが、ガクリと

膝が落ちた。《
ーー・・・・!!》 何が自分に起きたのか判ら無かった。

直後、激痛が脳髄を刺し貫いた。思わず蹲ったが、直ぐ立ち上がった。

《何処をやられたのだ??》 手を胸に当ててみると、生温かい赤い滑りが付着していた。3本もの

鏃が飛び出していた。至近距離からの被矢であった。ドクドクと心臓の音が伝わって来た・・・・

ーー気が付くと、劉備の顔が眼の前に在った。

「士元よ、しっかりせよ!死んではならんぞ!未だお前の仕事は之からじゃないか!」

《ーー死ぬ??そうか、俺は死ぬのか・・・・!?》

そう思い至った瞬間、急に涙が溢れて来た。口惜しい。この儘では、死んでも死に切れぬ。己の命

の事では無い。そうでは無く、そうでは無くて・・・・

無念なり!無念で御座いまする!!

《嗚呼、我は終に、騙まし討ちの汚名を着たまま一生を終えるか!!》

孔明に、孔明に、後は頼むと、伝えて下され・・・・」

殿!善き国を、愛に満ちた理想の国を・・・・お建て下され・・・・

                                              (※↑
フィクション終わり)

進軍シテ各隹県ヲ包囲シタ。 广龍統ハ 軍勢ヲ率イテ城ヲ攻撃シタガ、流れ矢ニ当ッテ落命シタ
。時に36歳。 ーー(正史・广龍統伝)ーー


ちなみにーー『流れ矢に当って戦死』・・・それは大激戦・大激闘を示す表記であり、接近戦
白兵戦を物語る。また『演義』等では、广龍統の渾名であった
鳳雛を文字って、彼が命を
落とした地名を
落鳳坡らくほうは としているが無論、後世の牽強付会であり史書には無い。
        


さあ、
トンデモナイ事態成ってしまった・・・・!!
この戦いの最初から 全てを立案し、実現させて来た 現地の作戦総参謀・
軍師が突然居無く成ってしまったのである!!


その
友の死に 諸葛亮は間に合わなかった
・・・ら し い。と 言うのは、其の辺の

事情を、直接に記した史書は皆無であるからである。上記 『正史』 の続きーー

先主は彼を甚だ哀惜し、彼の話をする度に涙を流した。广龍統の父を議郎に任命し諌議大夫に
栄転させた。
諸葛亮はみずから辞令の授与をした。广龍統に関内侯の爵位を追贈し、靖侯の
諡号を贈った。
』・・・・・このまま読み飛ばすと、恰も諸葛亮は其の時点に居たかの如き文章だが、

実はーー劉備が涙を流した事項と、父親の事項との間には、少なくとも7年以上の時間的隔りが

あるのである。”議郎”とは、朝廷の参議官であるから、221年に劉備が皇帝を名乗り、蜀王朝が

開設された後の事になる。更に广龍統が諡号を贈られたのは、戦死からは46年後の260年9月

の事なのである。ーー又、諸葛亮が广龍統戦死の場に居無かった傍証としては、荊州に居残った

馬良が、益州入りした諸葛亮に宛てた手紙も参考になるであろう。

各隹城は既に陥落したと聞いて居りますが、これは天の下し賜うた幸いであります。
尊兄は機運にこたえ世の建て直しに力を貸され、大業の樹立に加わり、国家に光輝を持たらして
居られますが、成功の曙光は顕われて居ります。そもそも変化に対して必要なのは秀れた思慮で
あり、判断に於いて必要なのは明察を広く働かせる事です。かくて才能の有る者を選びますれば、 時代の要求に適合するでありましょう。もしも英智を顕わにせず、遠国の人を喜ばせ、天地にまで
徳を発揮し、この時代の人々が服従を当然と考え、世間が道理に帰服し、高雅な音を並べて鄭・
衛の淫らな音を正し、全ての音が其の機能を果し、他の音を乱す事無く調和を保ったならば、是れ こそ至高の演奏であり
(古代の琴の名手)伯牙・師曠の調べであります。私は(伯牙の理解者である)鐘子期 ではありませんが、拍子を取らないで居られましょうか。』

この文面から推しても、諸葛亮は各隹城陥落後の成都包囲中である事が窺える。故に广龍統の
戦死には敢えて一言も触れていない・・・・過去を振り向くのでは無く、未来だけを見通している。


广龍統士元の短い生涯を振り返って、その手向けとしよう。
『軍師・广龍統は 立派な人物で、風雅な気質がキラキラと輝き、明君に身命を捧げ、胸の奥から
忠誠を発した。之こそ正義の徒であって、身を殺して恩顧に報いた。』ーー(
季漢輔臣賛)ーー

广龍統は常々から人物評価が好きで、経学と策謀に優れ、当時、荊・楚の人達から才能秀でた
人物と謳われて居た。魏の臣下に当て嵌めると、荀ケの兄弟と謂えようか。』ーー(
陳寿の評)ーー

『そもそも、諸葛亮孔明を〔臥龍〕、广龍統士元鳳雛、司馬徽は〔水鏡〕である! と言ったのは
全て广龍徳公の言葉であった。・・・・广龍統は其の徳公の従子(おい)であって、若い頃に未だ誰も 評価しなかった時に徳公だけが彼を重んじ、18歳の時に司馬徽に会いに行かせた。すると司馬
徽は彼と話した後、感嘆して言った。「徳公は本当に人を見る目が確かだ。この若者は誠に立派
な徳をお持ちじゃわい」 と。』 ーー(
襄陽記)ーー

『广龍統は字を士元と言い、襄陽郡の人である。若い頃は地味でもっさりして居たので、未だ評価
する者が無かった。潁川の司馬徽は清潔・温雅な人で、人物を見分ける鑑識眼を持っていた。
广龍統は20歳の時、司馬に会いに行ったところ、司馬徽は桑の木に登って葉を摘んで居り、
广龍統を木の下に座らせて 語り合う事、昼から夜に及んだ。司馬徽は 彼を非常に高く評価して
广龍統は南州の士人中で第一人者に成るだろうと讃えた。それから次第に有名と成った。後に、
(周瑜)が任命して功曹(副官)とした。・・・・周瑜が逝去すると、广龍統は遺骸を送って呉に行った。
呉の人々には彼の名声を聞き知って居る者が多かった。』ーー(
正史・广龍統伝)ーー


これ等の史書を見る限りでは・・・・广龍統の若く生来の気質は、明らかに〔清流〕派的な、煌めきを

内包した温雅な佇まいの人物で在った・・・・事が覗える。

又、親友の孔明が一足先に劉備に出仕した後も、別に急ぐ様子も無く、暫くは気儘に天下の様子

を眺め、プー太郎を決め込んで居たのも、如何にも彼らしいではないか。 更には、国境を越えた

多くの〔名士〕達との交流・交友が記されている。

(彼に限らず、国境無き名士層の団結・交流は、次の時代の貴族社会への橋渡し役としての、三国時代特有の現象では

ある)
が、その原点は此の学生時代から浪人時代の産物であったやも知れぬ。 ーーちなみに、

水鏡サロン出身で劉備に出仕する者としては、「諸葛亮」を筆頭に「徐庶」・「韓嵩」・「向郎
しょうろう

などが居る。尚この【向郎】は現在、荊州と益州を結ぶ要衝の地、長江の荊州口に当たる、シ帰・

夷道・巫・夷陵4県の軍政を担う。

又、交友を持つ〔呉国の名士層〕としては、あの古の狂直「虞翻」・義姑鬱生の父親「陸績」・「顧劭」

「全j」などが居り、魏領(汝南)の「樊昭」などとも親交を持つ人物であった。


そんな彼の人生が大きく変り、生来の温雅で清流の人格をさえ変貌させたのは、劉備への出仕で

あった。いや、劉備の蜀乗っ取り時期に遭遇した〔巡り会わせ〕であった・・・・と謂えよう。

ちなみに、劉備陣営内に於ける人物ランクを窺わせる記述が、前述の『襄陽記』に有る。

ホンノ参考までに載せて措けばーー『習禎は・・・・广龍統に次ぎ、馬良より上の名声が有った。』

即ち、諸葛亮を別格とすれば、广龍統はナンバー2のランクに在った。この席次は劉備の寵愛や

信頼度とも連動していた様で、『正史』の記述にも、『その親愛ぶりは諸葛亮に次ぐものが有った。

かくて諸葛亮と並んで軍師中郎将と成った』 とある。ーー更には、より重大な、

广龍統の諸葛亮に対する思い関係の在り方を示唆

する記述が、〔或る人物の手紙〕 から推測されるのである。 その人物とは・・・・百日宴の最中に

ズカズカと广龍統の座敷に上がり込んで来た、ハゲちゃびんの刑 (コン刑) 執行中の男ーー

彭漾ほうようである。彼は結局、逮捕されて処刑される(詳細は後述)のであるが、獄中から諸葛亮

に宛てた手紙の中に、その重大な一節が記されているのである。
(今は該当部分だけ抜粋)


『私は法正を伝手
ツテに自分を売り込み、广龍統に其の間を取り持って貰い、かくて葭萌に於いて
劉備様にお会いする事が出来たのであります。(略)・・・昔、
广龍統と共に誓いを立て
何時も足下(諸葛亮)の後から付いて行って
御主君の功業に 心を尽くし、古人の名を追って、竹帛に勲功を載録されたいものだ と願って居り
ました。广龍統は不幸にも死に、私は失敗して罪過を招きました。・・・・(略)・・・・』


無論そんな手紙が陳寿の手に入る筈は無い。況してや蜀(諸葛亮)は記録官庁を設置するイトマも

無く、元々から史料の乏しい国である。だから、この文面は陳寿の手による推測・創作であろう。

ではあるが、少なくとも陳寿は其の内容が至当なものであると判断したのである。ーーと云う事は广龍統は常に己自身から進んで諸葛亮の意の儘に働く ”持ち駒”で在る事を 善し! として 受け容れて居た・・・・と云う事を明示しているのである。

此処に广龍統の
潔さ切なさとが在る。生涯、己を殺し、親友を立て続けたのである。

そもそも、益州乗っ取りの大戦略=(カッコよく言えば天下三分の計)を立てたのは諸葛亮であり、

其れを受け容れて決断したのは劉備である。广龍統はただ後から来て、その〔お手伝い〕を為した

だけである。もっとハッキリ言えば、諸葛亮は”汚れた仕事”を親友に押し付けたのである。但し、

其れを充分、互いに分かり合った上での役割分担であった処が又、何とも謂えず深淵である。

四の五の言わずに全て己が引っ被るーーきっと其れが、广龍統流の心意気であり、友情の証で

あったのであろう・・・・。

まあ、そもそもが乗っ取り・騙まし討ちの大戦略の上に立っていたのであるから、それを完遂する

為には、誰が何んな手を用いたとしても、詰る処は汚名・批判の対象でしか在り得無い。

実際、同じ幕僚の中にも、痛烈な非難の視線で彼を観て居る人物が在った。
張存である。

この「張存」に対して【
陳寿】は、正史の中に『伝』を立てて居無い。然し此処が陳寿の歴史家として

エライ処でもあるのだが、その代りとして「楊戯」の著わした『季漢輔臣賛』を引用・転載し、尚かつ


正史に伝を立てる程の史料が集まら無かった人物
については集めた分だけの情報を付している

のである。尤も真の目的は、リアルタイムで蜀の臣下で在った楊戯が、241年に著わした手前味噌で列臣を賛美した

短い人物紹介文を正史に付記する事に拠って、蜀の宣伝を強化する為ではあるのだが) ーーその付記部分ーー

『張 処仁は名を存と言い、南陽郡の人である。荊州従事として先主に随行して蜀に入り、南方の

各隹まで遠征し広漢太守に成った。張存は予ねてより广龍統を買って居無かったので、广龍統が

矢に当って亡くなり、先主が賛美と慨歎の言葉を漏らした際に己の意見を述べた。

「广龍統は忠義を尽くして惜しむべき人物では在りますが、
然し、君子の道に反しておりました。」

之を聞いた先主は激怒して言った。

「广龍統は身を殺して仁を成し遂げたのだ。それを いかん と 言うのか!」

そして張存を免官にした。張存は程無く病没した。

その(彼の)事跡が伝わって居無い為、(私・陳寿は彼の) 伝を作らなかったのである。』




主君・劉備に
暗殺を勧め〕、それが却下されると今度は不意打ちを勧め、
それも却下されると
虚言を弄し〕、敵将を誘き寄せて措いて騙まし討ち
を喰らわせる。念には念を入れて
人質を取らせる・・・・・何でも有りの掟破り・・・・・

だが、これ等の策謀無しに一体誰が
蜀乗っ取りを果し得ようか!?

これ等の策謀無しに、一体 諸葛亮は 何うやって

天下三分の計を果し得たのか!?

善と悪、正義と背徳、光と影、讃辞と非難・・・・
その両側面に混在する 人間の業の裡、
暗く汚れた面だけを全て引き受けて、
友の為、主君の為に散って逝った男ーー
广龍統士元
・・・・若い頃は 地味でもっさりして居た男・・・・・

畢竟、
广龍統士元は、諸葛亮孔明の分身で在った


後の世の人は、彼が没した地を 落鳳坡 と呼んで、その名を残そうとした・・・・ 【第183節】 馬超、参陣! (蜀の建国戦争X)→へ