第181節
諸葛亮 出陣!
                                    
一方的な退潮傾向に追い込まれた観のある劉璋軍ではあったが各隹らくに立て籠もった
主将の
劉循劉璋の長男は、ただ守っているだけの男では無かった。機を観ては城外に撃って

出る気概を見せた。又、籠城戦の有利さをも十二分に心得た智将でもあった。総合的に観れば、

寧ろ父親の「劉璋」よりも優れた器で在った様である。城内の士気も高く、統率も取れて、乱れが

観られ無い。この各隹攻防戦は、既に212年の年を越えて
3ヶ月も経つのに未まだビクとも

する気配さえ見せて居無かった。ただ劉備側にとって幸い?だったのは、「成都の劉璋」が自分の

城の為に、手持ちの大軍を温存しようとする気持が強く、長男との連繋作戦を採用して来ない点で

あった。2つの巨城を合せれば10万近い大兵力に成る筈であるのに、劉備側もその伝令の往来

を厳しくチェックした為もあり、挟撃作戦は実行されては居無かった。

その通信の遮断を打破して、両城合同の大作戦を打ち合わせる為の手段として、劉循は重鎮で
忠烈の老将
張任ちょうじんにその役を与える事とした。無論、少数で密かに抜け出すのでは無い。

是れ迄も時々見せた城外への出撃の形を取るのだ。但し今迄は、1戦を終えれば城内に引き上

げて来ていたものを、今回は戻らずに「成都」に駆け込む・・・・

そこで
各隹城軍は期日を定めて一斉に城外へと撃って出た。目的は【張任】の敵中突破・成都への

駆け込みであった。ーー果して【張任】は軍兵を率いて出撃したが、「
雁橋がんきょう」と云う地点で

敵の大軍と遭遇し、大激戦と成った。何とか自分だけでも突破しようと試みた。だが却ってそれが

仇となり、無念にも生け捕りにされてしまった・・・・。だが劉備は、張任が忠勇の士だと聞き知って

居たので、予め全軍に「処刑せずに連れて来る様に」との命令を発してあった。配下と成っている

将兵も亦みな、彼の人物をよく知って居たから手違いも無く、張任は劉備の前に連行されて来た。

「おお、貴方が、忠烈の士と名高い、張任どので在られるか!どうぞ、私と共に同じ道を歩んで
戴きたい。貴方の様な士人こそ厚く遇されるべき御仁じゃ!」

だが劉備の仁徳の魅力も、この老将には全く通じ無かった。張任は貧しかった自分の能力を認め

終には州の「従事」にまで引き立てて呉れた劉焉・劉璋2代に対する恩義を忘れる様な人物では

無かったのだ。劉備の誘降にも一切耳を貸さず、威厳ある態度を貫いて言い放った。

「老臣は、2主に仕える様な事は 絶対にせん!!」

かくて斬られた。
張任・・・・享年、字ともに不明。


こうして膠着した
各隹攻防戦の日々は過ぎ213年となっていた。そんな折り劉備は
【法正】に命じて、「成都に在る劉璋」に対して誘降の書簡 を送らせた。 この
法正・・・・・

公式な立場としては、未まだに
劉璋の臣下の儘であった。ただでさえ売国奴裏の汚名を被って
居たが、大黒幕であった
張松が処刑された後は最大の裏切者として劉璋側から

眼の仇に されていた。 但し、敵にとって「最大の裏切り者!」である・・・・と云う事は、劉備陣営に 在っては
最大の功労者!と云う事であった。劉璋時代は不遇を囲わされ下っ端の

役でしか無かったが、今や劉備陣営に於いては、法正抜きにはニッチもサッチも行かぬ大重鎮の

地位に在った。 何と言っても 地元の人間であったから、遠来の劉備陣営は、全ての事について、

彼の意見を聴かねばならなかった。また益州に着いてから帰参した者達にしても、彼を通じれば

劉備とのコンタクトがスムースにゆく。・・・・おのずと法正の立場は弥増しに強まってゆくーー

そんな法正の書簡とされるものが
正史・法正伝に採録されている。
やや長いが、法正の眼を通して観た
当時の戦況なども詳しいので全文載せて措く。

但し、基本的には、劉璋を降伏させる為の”説得”であり、何割かは 差し引いて観る 必要は有る。
だが 、『陳寿の意図』 の1部には、この手紙を載せる事で、大雑把な戦況を 代弁させたいとする
目論見も 在ると観てよいだろうから、一見の価値はあろう。



      
私は御役目を引き受けながら技能なく友好関係を損う事になりました。側近の方々が其の次第を明らかにせず、共に責任を私に押し付けるに相違無く、辱めを受けて身を滅ぼし、侮辱が貴方様にまで及ぶ事を恐れました。その為お側を離れたまま身を汚し、敢えて復命致しませんでした。

私の声で御耳を汚し、気分を害されるのを恐れました故に、あれから御手紙を差し上げ無かったのですが、以前の知遇を返り見て 悲しみに暮れつつ 遙かに仰ぎ見て居ります。

然し考えてみまするに、何度も真心を披瀝し、最初から最後まで腹蔵なく何も彼も申し上げて参りましたのに、私が愚か者で計略に乏しく 忠誠通ぜず、かかる事態を招いてしまったのでです。

現在、国家は既に危機に瀕し、災禍は目前に迫っております。私は外に追放され、発言は憎悪や非難を買うだけのものでしょうが、それでも心に在る事を充分に述べ、最後の忠義の念を尽したいと存知ます。殿の御本心は、私がよく分かっている処で御座います。 実際に細々と心を使われ、

劉備殿の意を失うまいと望まれながら、突然この様な仕儀に経ち至りましたのは、左右の家臣が英雄の行動を理解せず、信義に もとり 誓約を汚すべき行為と思い込み、心意気によって仲間に成り合い、日月の経過と共に、殿の耳に快く目を悦ばせる事のみを求め、阿諛迎合して思し召しの儘に従い、将来を考えて国家の大計を立て様としなかった為であります。

変事が起こってからも、また強弱の形勢を計算せず、劉備の軍勢には食糧の備蓄が無いと考え、多数を以って少数を撃ち、時間を掛けて持ち堪え様として居ります。然し白水関より此処に至る迄通過する所は全て撃ち破り、離宮や外部の駐屯地も皆、敗軍の兵卒・敗軍の将ばかりで在って、もし戦いを交えようと決意したとしても、兵も将も実際に対抗出来る様な状況には御座いません。

(それに比して) 当方の陣営は 既に堅固であり、長期に渡って 持ち堪えられる様に 食糧を計算し米穀は山積みされております。 処が殿の領土は日に日に削られ、民衆は日に日に困窮し、敵対する者は多数と成り、食糧を提供する所は遙か遠くに成っております。

私の計算に拠りますれば、必ず其方が先に食糧が尽き、之以上の持久戦を行なえなく成ると判断されます。当ても無く守備しても矢張り耐え切れ無いでしょう。
加うるに現在、張飛・数万の軍勢が既に巴東を平定して建為の国境に入り、兵を分けて資中・徳陽を平らげて3道から同時に侵入して来て居ります。一体これを何うやって防ごうと為さるのですか!?

元々殿の為に計略を立てた者は、劉備軍は遠来の為に食糧が無く、輸送も追い付かず、兵数は少なく後続軍も無いと考えたに違い有りません。然し実際は、荊州との道は確保されており軍勢は数十倍に昇り、かてて加えて、孫権殿が弟と李異・甘寧らを増援軍として差し向けて居ります。

それをもし、原住民と他国者との争いに持ち込み、領土の広さに拠って最後には勝利が得られると夢想されて居られるならば、其れは全く儚い夢です。
いま劉備殿は、巴東・広漢・建為の諸郡を全て我が物とし 州の半ば以上を平定済みです。殿は巴西1郡すら支配して居られ無いのです。

考えてみまするに、益州が頼みとするのは蜀地方だけでありますが、蜀もまた破壊され3分の2を失い、官民ともに疲労困窮し、乱を企む者が10戸のうち8戸にまで及んで居ります。

もしも敵が遠方に居れば民衆は労役に耐え切れ無いでしょうし、敵が接近すれば1日にして主君を変えてしまうでありましょう。広漢郡下の諸県が好い見本です。また魚復 (永安) と関頭 (白水関)は実際、益州に禍福を持たらす門でありますが、今2つの門は全て開け放しと成り、堅固な城もみな降伏し、諸軍は共に敗れて兵も将も共に尽きてしまいました。 然も
敵軍は 数本の街道を同時に進みつつあり、既に中心部にまで入り込みました。然るに手を拱いて成都と各隹県を守備して居る様では、存亡の帰趨はハッキリ見る事が出来ます。これは大把みな話であり事の輪郭だけでありまして、その他の詳細な事柄は言葉では表現し切れません。

私は愚か者では在りますが尚この行動が成功不可能な事を承知して居ります。まして殿の側近の才智勝れ、謀り事に長じた方々が、どうして此の道理を見て取れない事が有りましょうや。

日夜 寵愛を盗み、君に受け容れられる事を 求めて諂い、将来の計画に 考慮を巡らす事も無く、心を尽して 優れた計策を 献上する気持を 持とうとしない だけです。 もしも 事態が極り、状況が切迫しましたならば、各自が自身の延命のみを求め、己が一族を助け様と願い、ガラリと寝返りを打って、現在とは違った計策を立て、殿の為に身を投げ出して危難に立ち向かいはしないでしょう一方、御一門は 矢張り苦しみを受ける事と成るでありましょう。

私は 不忠者と云う非難を受けて居りますが、然し、心の中では 御徳を裏切ってはいない と思って居り、守るべき道義を顧みまして、真に密かに心を痛めて居る次第です。
劉備殿は今回の行動を起こしてからも、以前通りの心をもってお慕いして居り、実際むごい気持は持って居りません。計画を変更なさって御一門を維持なさるべきだと愚見致します。



さて話しは、劉備始業の地荊州に戻る。現在ここには劉備陣営の主要メンバーが殆んど

全員控えて居た。
諸葛亮関羽張飛趙雲馬良・【劉封】・【孟達】

【麋竺】・【孫乾】そして【甘夫人】に【阿斗】・・・・差し詰め
国家が成り立つ如き、豪華フルキャスト

である。事実これは1つの独立した〔
荊州政権〕と言ってよかった。そして既述の如く、この時期の

”荊州政権”は、呉軍が撤収したのを絶好の機会として、「長江以南の荊州全土を軍事占領」 し、

三国志全体を通じて観ても、荊州に関しては ”最大の版図” を獲得した直後の膨張期でもあった


ーーでは諸葛亮は何故、孫呉との関係が険悪に成るのを承知で、敢えてかくの如き膨張策を推し
進めたのか?・・・答えは唯1つ、益州乗っ取り=
蜀建国資本集め

あった!!兵力と輜重とその要員ーーこれ等を、1地方に片寄る事なく、荊州全土から平均的に

収集する。
不平の分散化を図る為であった。之を称して善政と呼ぶ。薄く広く 徴税した。

着々と其の備蓄を整え、さあ何時でも出陣出来るぞ!ーーそこへ見計らったかの如く、益州から

『劉備の指令書』 が届いた。無論、全ての手配は事前に検討され尽くされていた。要点は2つ。


つはーー後に残る荊州の仕置き・・・・関羽】に任せる!
  首席参謀として
馬良が付く。属将として【孟達】も残る。

もしかしたら諸葛亮は、益州さえ確実に獲得できれば、《荊州は棄ててもいい》・・・・と考えて居た
かも知れぬ。少なくとも、関羽独りに無理をさせず、時期が来る迄は、拠点である江陵を死守さえ
して貰えれば好し!・・・・とする戦略である。そして当分の間、妻子は荊州に残し、折を見て益州に 呼び寄せる事とする。【麋竺】・【孫乾】などの古参老齢の者達も亦、同様に暫らくは荊州に居残り、 占領地域の慰撫治世に当たる。

つはーー益州への増援軍の進撃ルート・・・・益州では3方向から成都を目指す

長江を溯上し魚復(白帝
=のち永安)を経て江州(現・重慶)に到達してからは3軍に分かれ、夫れ夫れ
南北と中央から、各地の郡県を平定しつつ成都で劉備に合流する。(到着時には
各隹城は陥落の
見込み) その合流迄に要する日数の目安は、凡そ1年程度を見込む。



〔第1中央軍〕→諸葛亮が率い、江州〜徳陽〜資中〜成都
〔第2北方軍〕→張飛が率い、江州〜巴西〜培水〜成都
〔第3南方軍〕→趙雲が率い、江州〜江陽〜建為〜成都

時に
213年上月・・・・曹操は「濡須」から撤兵し、帰途に着いた頃であった。

曹操・孫権ともが此の有様では、とてもの事、劉備・孔明の動きにストップを掛ける事は能わない。

その絶好の間隙を突いて、諸葛亮は念願の益州へと出陣する。夢の実現への出立であった。尚

その総兵力についての記述は無い。然し、長江以南の荊州諸郡は、この戦乱の時代に在って

実に100年以上もの間、大きな戦禍には無縁の地で在り続けていたのであるから、その潜在的な

拠出能力は相当なものであったであろう。新兵を訓練して編成すれば、5万は下らぬ10万に近い

体勢も可能であったろうか?


その出立の日ーー見送る者、旅立つ者、夫れ夫れの感慨を抱きながら、其処此処で別れの挨拶

を交わす光景が見られた。普通であれば 見送くられる側が主役であるが、この場合は 寧ろ逆で

あった。主だった者達が全て去って行き、残る方が急に手薄に成る観は否めない。取り分けても、

譜代の臣として
唯独り残る関羽への挨拶は一入ひとしおであった。関羽は劉備から

〔襄陽太守〕〔盪寇とうこう将軍〕と云う地位と肩書を与えられ、実質的には

荊州の君主の役割を果す事となる。


尚、『正史・関羽伝』 は、”この 頃 の事” として、世に有名なエピソードを記している。

羽、かつて流矢のあたる所となり、その左ひじを貫く。後、きず 癒えるといえども、陰雨いんうに至る毎に骨、常に疼痛す。医いわく「矢鏃やじりに毒あり。毒、骨に入る。まさに臂を破り創を作り、骨をけずり毒を去るべし。しかる後、この患、乃ち除かれんのみ 」 と。羽すなわちひじを伸ばし医をして之をかしむ。時に羽、たまたま諸将をまねきて飲食し、
い対す。臂、血、流離し盤器につ。しかして羽、しゃ(あぶり肉)をき、酒を引き、言笑げんしょう 自若じじゃくたり。



※是れは 飽くまで 『正史』 の記述 (史実) である。こんなスゲエ話を 「演義」 が放って置く 筈は
  無い。”医”と在る所をー→名医・華侘と混入させて用いている。




「行って参りまする!御用とあらば、いつ何時でも御呼び下され。この趙雲子龍、直ちに馳せ参じ
ましょう。又お会い出来る日を楽しみに致して居りまする!」

「ウム、有り難い申し状だが、此方は儂に任せて、向こうでは存分に働いて呉れヨ!」

「はっ、では参ります。どうぞ、お達者で・・・・!!」

言うと
趙雲、クルリと踵を返すと【甘夫人】と【阿斗】の方へと歩み去った。

《趙雲・・・・好き男かな・・・!》 それを眺め遣った関羽は微笑んだ。


そこへ今度は若い
劉封りゅうほうが遣って来た。思わず関羽の顔が固くなった。

「行きます!精一杯やる覚悟です。どうぞ見て居て下さりませ!」

「ウム、忠烈なる
臣下としての働きを存分に示すが善い。命を惜しまず励むのじゃぞ。」

関羽・・・・この「劉封」に対しては複雑な思いを抱いていた。劉備の養子であり、嫡男と云う立場の

青年であった。45歳を過ぎても終に跡継ぎに恵まれ無かった劉備が、その気力渙発さを見込んで

養子に迎えた。今ちょうど
20歳の、血気と気力に満ち溢れるキラキラする青年に成長して居た。

ーーが、主君と血の繋がった「
阿斗」が生まれた。関羽は誰よりも早く 劉備に進言していた。

「劉封の身分は、速やかに臣下と為されるべきです!将来の禍根の芽は、小さい裡に摘み取って
しまうのが、劉封自身の為ともなりましょう。」 然し 劉備は言った。

「それは今すぐには出来ぬ。 如何に 直系が生まれたからとて、直ちに お払い箱 にしてしまう様な 真似は儂には出来ぬ。いずれ考える事にでもしよう・・・・。」

爾来、〔劉封の立場〕は、何とも微妙なものと成って来て居たのである。人情としては忍び難いが、

さりとて〔御家〕の事を考えると、関羽の態度は自ずから硬いものとなる。演技など出来ぬ関羽ーー

自然と其の煙たさが色に現われてしまう。だが劉封はケレン無く言って立ち去った。

「お世話になりました。どうぞ末永い御活躍を。」

当時劉封は20歳余りであったが、武芸を身につけ気力は人に立ち勝って居たので、兵を率いて
諸葛亮や張飛らと共に長江を溯って西上し、行く先々で勝利を収めた。
ーー(正史・劉封伝)ーー



「ヒゲ殿!」 入れ替わりに諸葛亮が遣って来た。

「この度は大変な役割を御任せ致しましたが、どうぞ御無理だけは為さらぬ様にして下され!
元より今回の夢の実現も、全て荊州の万全の上に建って居りまする。今度またお会いする日には
必ずや殿は、蜀の国を手に入れられて居られましょう。その日の為に、我ら、身は万里の彼方に
在りとは申せ、志は唯一つで御座いまする。 益州と荊州、互いに手を携えて、新たな時代を築き
ましょうぞ!」

「軍師どのこそ、我等が永年の夢を夢で終らせず、終に此処まで瞬く間に運んで下されたお方!
いよいよ其の日が遣って来た喜びを殿に代わって感謝致しまする!どうぞ今後とも我等を御導き
下され。そして此の関羽雲長、我に与えられし使命は必ずや果して御覧に入れまする。」

「もしかすると再会の時まで数年、いや、もっと掛かるやも知れませぬナ。」

関羽には諸葛亮の、己に対する信頼の深さが痛い程によく分かって居た。

「身は万里の彼方に在ろうとも志は唯一つ・・・・!」

「では、此方は全て御任せ致して、我等は殿の元へ参りまする!」

「万事心得ました!」

関羽と孔明は、互いに互いの手をしっかと握り合うと・・・・別れた。


張飛が遣って来た。

「兄貴、行って来るぜ!!・・・・留守番は 何時も 俺の役目だったが、失敗ばかりして、よく兄貴に
怒鳴られたもんだった・・・・俺にぁ〜荊州なんて馬鹿デカイ家の留守居は勤まらん。兄貴の分まで
精々暴れまくって来て見せるヨ!」

「ああ、張飛大活躍!の便りを、愉しみに待って居るとしよう。向こうへ行ったら酒を慎み、部下を
大切に可愛いがるんだぞ!」

「うん、分かってる。酒は昨日から断ってる・・・・」

「ほう〜、それは殊勝な心構えだな。長兄には暮れ暮れも宜しく 伝えて呉れヨ。
 
我ら義兄弟の固い契りは決して忘れては居らんぬ!・・・・とな。」

我ら義兄弟の契り・・・・だな!」

「そうじゃ。」 もう30年も前の日の事であった。

生まれた日は違えども、死ぬ日は一緒・・・・同年同月同日・・・・》



だがこの後の史実は・・・・いま益州へと旅立った全員が、
もう2度と再び 関羽とは会う事が叶わない
のである。

この日の別れが 〔永遠の別れ〕 となる など、
一体誰が知って居たであろうか
・・・・・・

ーーさて長江を西へ溯上する諸葛亮軍団。国境を越えて直ぐの「
白帝」を経ると、此処から長江は

急に南に折れ、成都盆地の東の縁に沿って南流する。白帝から350キロの、山隘を抜けた所に

在るのが「
江州=現・重慶である。此処が益州の玄関口であった。巴郡である。3軍の内、この
巴郡以北の担当は
張飛であった。だから張飛軍は此の江州で一旦 下船した。するや

直後に襲い掛かって来る軍兵があった。巴郡の郡兵だった。その先頭に立つのは、巴郡太守の

厳顔げんがんその人であった・・・・字は不詳だが、劉備が1年半ほど前に入って来た時、

「これでは丸で、一人奥山に座って、猛虎を放って自分の身を守るに等しい愚行ではないか!」 と

胸を叩いて慨歎した人物である。当然ながら、今度は兵を率いて阻止に出て来たのである。


「何を〜小癪な奴メ
先陣を飾るにゃあ〜丁度好いワイ。血祭りに上げて呉れようぞ!!

好い加減、船旅に飽いてウズウズして居た張飛である。久々に己独りに与えられた餌とばかりに

逆襲したーーそして張飛は余りにも強過ぎた!! ましてや多勢に無勢・・・・厳顔は奮戦も空しく

生け捕りの憂き目に遭ってしまった。張飛は 厳顔を 怒鳴りつけた。

「おい、我等が大軍で遣って来たのに、何で降伏しないで抗戦したのだ


するや厳顔、悪びれた様子も無く、怒鳴り返して来た。

「そっちこそ無礼にも、我が州を侵略しているではないか
我が州は首を刎ねられる将軍が居る
だけで、降伏する将軍なんぞは居無いのだ


「な、何んだと〜
」 図星を突かれてカッとなった張飛

「あっちに引っ括って、直ぐに首を刎ねちまえ
!!

側近の者に命じて、即刻の処刑を決めてしまった。処が厳顔、顔色ひとつ変えずに答えた。

「首を斬るならサッサと斬るがいい。何で腹を立てる必要が有るのだ。」


「うるせエ〜!!ゴチャゴチャ抜かすな!」・・・・今迄の張飛なら、こう云う展開に成った筈である。

ーーだが、違った。感服したのである。張飛とて45を過ぎて居た

美事だ!!厳顔と云う武人の生き様に、己の生き様をオーバーラップさせて、共鳴する事の

為し得る 齢を 積んで居たのだった。

「大したものだ!前言は撤回じゃ!直ぐ縄目を解いて、上客として迎えよ!」

張飛ハ見事ダト感ジ、彼ヲ釈放シ、招イテ賓客トシタ。(正史・張飛伝)

但、この張任・・・・史書の記述は此の場面だけに止まる。従ってもし、是れ以外に言動の記述がある場合は全て後世の創作・虚構であるとして構わない。


この後の3軍個々の夫れ夫れの戦闘詳報は史書に無い。唯その制圧・平定のルート(地名)だけが

記されるに止まる。何度も言う如く、史書は「戦記」・「戦史」では無いのだから已むを得ない。

ただ
張飛に関しては、この「張任」の他にもう1人だけ、撃ち破った相手の名が記されている。

『張飛が 荊州から テン江
(の下にの字) を通って侵入した時、 劉璋は張裔に兵を授けて、 徳陽の陌下はくかで張飛を防がせたが、軍は敗北して成都に帰還した。』  ーー(正史・張裔伝)ーー

(※ 尚この「張裔」、のちの重要な場面でチラリと又出て来る。)



成都盆地 (益州大平原)を 時計の文字盤に見立ててみれば、「成都」は9時に位置する。諸葛亮が 率いる3軍が通過した国境の「白帝城」のちの公安は、その成都のほぼ真向いの3時に相当する 3時から南流した長江が5時の地点に至れば、其処が「江州=現・重慶である。

張 飛軍は、此の5時地点から半時計廻りに12時→9時と廻り込みつつ進軍してゆく
諸葛亮軍は、5時地点から文字盤の中央を斜めに突っ切って9時を目指す。
趙 雲軍は、5時地点から時計廻りに6時→7時、8時→9時と進軍した。
無論、この文字盤の見立は極めて大雑把な比喩であり、実際はジグザグに行きつ戻りつしながら
各地を転戦した。だが戦う事が主眼では無く飽く迄
戦後を見据えた慰撫説得が主眼

であった。武功に逸りがちな張飛も、その点だけは諸葛亮から重々戒められていた。

「我等の歩みは、戦禍を終らせる為の治世の行軍です。謂わば”平和部隊”ですからな。」

その諸葛亮の戦略を、実際に上手く実行出来た背景には、
荊州南部の平定作戦の経験が大きく

寄与していた。みな初めての体験では無かったのであり、過去の失敗例を含め、そのノウハウを

身を以って会得していたのであった。一時はカッと成った張飛が「厳顔」を赦し、賓客として招いた

逸話の根底には、こうした諸葛亮の強い要請と訓戒が示されていたのである。

だから3軍共に、焦らずジックリと時間を掛け、諸郡県の政庁を丁寧にローラーしながら進んだ。

時として〔和平〕は〔戦争〕より難しく、また時間も掛かる。それでも粘り強く、3軍は基本方針を実施

していった。ーーその結果、諸葛亮・張飛・趙雲の3軍が、その使命を果し、再び合流する迄には、

ほぼ
1年近い日時を要するのであった・・・・。




その一方劉備广龍統は思わぬ大苦戦に陥り
未まだに
各隹 を 落とす事が出来ずに居た。


果して
臥龍鳳雛無事に合流の日を迎え
られるのか?
ーー厳しい現実が待ち受けていた!【第182節】 愛惜、落鳳坡! (蜀の建国戦争W)→へ