第180節
宣戦布告
                                    蜀の建国戦争U


長州の高杉晋作は言った。「俺りゃあ〜 古いモンを叩っ壊すのは 得意だがヨ、新しいモンを創り 出すのは苦手ノンタ。新しいモンを創るのは 桂や狂介の方が 向いておろうノンタ。」

薩摩の
西郷隆盛も亦言った。「オイドンは古け家〜壊すんにゃ得意でゴワッドン、新しけ家〜 建てんコツあ、苦手ゴワス。新しけ家え〜おっ建てっんにゃあ、利通っさあ の方が善かゴワッソ。

人には向き・不向きがあるを識り、役目を終えるとケレンも無く身を退き、あっさり次の者へとバトンタッチした人物は多い。蜀建国の前、その破壊・討幕の役割を果すのが
广龍統であった。

当然ながら綺麗事だけでは済まない。いや寧ろ「汚れ役」である。目的の為には権謀術数の限りを尽す。此方が非力で相手が強大であれば尚の事である。それが
影の軍師に与えられた使命であった。

虚偽申告の次は 騙まし討ちでゆく。と云うより 同時進行させた。

実際その実行のタイミングは、極めて危ないスレスレのものとなった。ーーそれは、劉璋が張松を
斬り、各関所に追討の命令が届く”直前”の事であった。

劉備は
白水関の守将に、帰国の挨拶状を送り付けた。白水関は漢中の張魯勢力を押さえ込

む為の、唯一絶対の要地であったから、その守将も亦、劉璋麾下では最も勇猛な2将が駐留して

居た。
楊懐高沛将であった。 この2人は 勇猛であるだけでは無く、劉璋への忠誠心も

厚かった。と言うより、よそ者の劉備が厚遇されて居る事に対して、猛烈な反発心と警戒心を共有

していた。既に以前から、广龍統の手元にも 其の情報は入っていた。だから劉備に上中下3策を

提案した時にもその「
中策」に於いて、こう示唆していた。

楊懐と高沛は劉璋配下の名将であり、屈強の兵を従え白水関一帯を固めて居ります。然もこの
2人は 屡々劉璋に書状を送って、殿を荊州へ退去させるべきだ!と意見具申していると聞き及び
ます。ですから軍を興す前に、彼等の所へ使者を送り、『荊州が急を告げて来たので、急ぎ救援に 戻る』 と伝え、同時に 旅支度を整え、如何にも帰国する様に 見せ掛けるのです。2人とも、殿の
英名を恐れている上、何よりも先ず殿の撤退を喜んで、早速 騎行して挨拶に参る筈です。そこを
空かさず引っ捕え、軍を進めて彼等の兵を併せた上で、成都に向うのです。
」・・・・・

この「中の策」を採用した劉備ーー決断したとなれば、動きは急であった。劉璋に対しては「支援増

強の要請状」を送り付ける一方で、白水関の2将に対しても「
帰国の挨拶状」を送った。ーーすると

案の定・・・・その帰国の知らせが本当であるかを確かめる為にも、また馬の鼻向け
(見送り)を行なう 為にも楊懐がノコノコ遣って来た。元より劉備は殺す心算であったから、理由にもならぬ理由を付けて、宴の最中に謀殺してしまった。

「聞けば劉璋は汝等に対して、我等とは一切の関係を断てと命じたとか。それが、遙々 義の為に 駆け付けて来た士大夫に対する報いとは無礼千万!許せぬ仕儀である。
よって其の不義の廉に拠り、汝には此処で死んで戴こう!!」

「な、何じゃと?そんな指令は受けては居らぬぞ??」

「問答は無用!!」 脇に居た【黄忠】あたりが斬ったのであろうか。

先主ハ激怒シテ 白水軍総督ノ 楊懐ヲ 呼ビ付ケ、無礼ノ廉デ糾弾シ、之ヲ 斬ッタ。

全ては广龍統がやった・・・・と云う事になろう。まあ、挙兵の”血祭り”と謂った塩梅である・・・・



劉備軍は、直ちに反転して白水関へと攻め上がった。不意を突かれた白水関ーー

備えは北方の張魯軍に対してであり、背後に当たる南方の備えは無いに等しかった。だから抵抗

するも空しく、もう1人の守将であった高沛も忽ち捕えられ、斬り捨てられた。強硬派の2部将を

失った白水軍は直ちに帰順を申し出て、呆気なく全面降伏した。


即ち是れが、劉璋に対する宣戦布告であった!!

パール・ハーバーであり、「トラ、トラ、トラ!!」・・・・であった。 引き続いて广龍統が命じたのは、

人質の確保〕 であった。帰順を申し出て来たとは言え、白水軍の諸将の本心は未まだ定か

では無い。冷酷だが致し方ない処置であった。 とかく 劉備と謂えば、全て彼の人望・仁徳によって

おのずと人が集まって来る様なイメージが先行しがちなのだが、実際はシビアであったのだ。この

人質作戦は『正史』が記す処である。わざわざ軍を迂回させて迄も、人質の確保に動いている。


劉璋を討て〜ィ!!

遂に直接、劉備玄徳の口から、その言葉が発せられた。時に
212年7月の事である。


ちなみに此の時期は、曹操が荀ケを置き残して孫権との対決を求め、「濡須塢」へと軍を

向ける直前に相当する。即ち此の後、劉備が成都へ向って支城を手中に収めようと戦っている時

曹操と孫権は、遙か東方の地で直接対決し戦っている事となる訳である。

但し、「劉備の蜀取り」 はそう易々とは運ばない。この後なんと、成都城を陥落させる迄には、未だ


丸2年の時を要する
のである(215年5月)。だがその間、馬超の復活と挫折(213年9月)などが有る

ものの、双方が傷付いた格好の
曹操と孫権は、劉備の行動に対しては何等の手も出せずに終る

のであるーーと謂う事は、逆に言えば・・・・如何に軍師たる
諸葛亮の 「見切り」=時局を観る

判断力が正しく優れていたか!と云う事の証明でもある。従来、この点を評価した書物を筆者は

殆んど知らぬ。だが、地味では有るが、もっともっと高く評価されて然るべき功績・偉業だと思う。



その
劉璋討伐の軍事行動を直接命じられた部将は黄忠卓膺 たくようであった。

この
年後に、漸く【張飛】や【趙雲】を引き連れた【諸葛亮】が乗り込んで来る迄の間、劉備軍の

武人たるシンボルとして、その役割を果すのが此の2人で在り続ける。ーーのだが、【卓膺】と云う

武人については、全く分からない。『正史・先主伝』の中で此処に唯1ヶ所のみ、名だけが記されて

いるに過ぎ無いからである。・・・・詰り、軍事部門に於いても亦、劉備は文官以上の人材不足を抱

えた儘で挙兵したのであった。
魏延馬謖なども連れて来ていたが、武勇を為すのは之から

先の事であり、今は1部隊長としてデビューさせる段階であった。人質を取らざるを得まい。
その人材不足を補って余り有る獅子奮迅の猛活躍を為すのが黄忠漢升であった

『正史・黄忠伝』は彼の活躍振りを、”最大限の讃辞”を用いて 斯く 記している。

黄忠は臣下の礼を取り、付き従って蜀に入国した。葭萌より任を
受け、引き返して劉璋を攻撃した。
黄忠ハ常ニ 真ッ先ニ駆ケテ 陣地ヲ落トシ、
其ノ勇敢サハ 三軍ノ筆頭 デアッタ

※ 黄忠は此の後にも、あの魏の西方総司令官・【夏侯淵】を討ち取る武勲を挙げる武人である。
だから、この諸戦の活躍に対する讃辞も、決して大袈裟では無いに違いは有るまい。



ところで劉備軍には、もう1人謎の勇将が居るのである!!

正史に「伝」は立てられては居無いが、実在した人物である事は陳寿も認め、正史に併載
する楊戯の『季漢輔臣賛』の付記に、みずから次の如くの紹介文を書いている。

陳叔至は 名を 到 と言い、汝南郡の人である。豫州の時代から先主に随行し、名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節 勇武な人物として讃えられた。 建興の初年、永安都督・征西将軍の官位に昇り、亭侯に封じられた。

元の「輔臣賛」には、こう有る。ーー征南将軍・趙雲は重厚。征西将軍・陳到は忠誠。共に当時の選り抜きの兵士を指揮し、猛将として勲功を挙げた。

関羽・張飛・趙雲に次ぐ猛将!!黄忠よりも上!!

然も、趙雲よりも 古くからの 股肱の臣 だと謂う。建興初年は223年であるから、少なくとも劉備・

関羽・張飛よりも長生きして居る。忠誠が第一番目に評価され、然も勇武・猛将であると謂う。

ーー何故、そんな重要人物の「伝」が立てられ無かったのか??何故、陳寿の手元には彼の史料

が集まら無かったのか??・・・・判らぬ。 彼が益州にまで随行したのか? 荊州に留まったのか?
それも上の記述だけでは判定し難いーーいずれにせよ・・・・本書『三国統一志』のアイデンティティ

としては、虚構・創作は排除する立場上、是れ以上は、彼の事蹟を書き続けられ無い。
ーー陳到ちんとう 叔至しゅくし・・・・謎の勇将である!!

小説・劇画・漫画などを描く予定の有る御仁は、是非にもそうした世界で大活躍させて戴きたい、
面白い、(前田慶次郎の如き) 魅惑的で美味しいキャラである。ーーさて・・・・




劉備軍は、「白水関の兵力」を傘下に収めて合体すると、最終目標である 「成都方向」 を目指して

南西に 進軍を開始した。 だが 支城を無視して、直接 「成都城」 を攻撃する訳では無い。劉備は

自軍が
挟み撃ちに遭う事 を最も恐れた。為に「上策」として提案された〔成都急襲案〕を

退けたのである。もし成都城を包囲したとしても、通過して行った背後の支城から出撃して来られ

れば、忽ち自軍は”
逆包囲”に陥ってしまう・・・・益州の人心が不確定である 現段階に於いては、

時間は掛かるが、
その暫進作戦が1番無難であったのだーーちなみに劉璋は対張魯戦を意識

して、敵の侵入口に当たる白水関から成都へ向って、その巨大盆地のへり上(扇状地上)に幾つか

の防衛拠点都市を設けて居た。 巨大盆地を時計に見立てれば、その文字盤の12時の位置が

丁度「
白水関」に相当する。それを反時計廻りにナゾって9時の位置が「成都」である。

その手前の10時地点に在るのが、あの百日宴で会見した
であった。更に此の10時
の培城から 9時の成都までの間には上(北)に
綿竹めんちくその下(南)に各隹らく
が、より濃密な間隔で配されていた。成都に近づく程、支城が増える形であった。12時の真北から 左廻りに・・・「
白水関綿竹各隹成都 の配列である

     

劉備は、この配列の1つ1つを順次攻め落とす事にした訳である。地形的には、夫れ夫れの城の
北側に必ず大河川が流れており、攻めるに難しい場所が選ばれていた。ーーその難城の最初の
1つである
目指して、劉備軍は進撃を開始した!!


但し、その
兵力につては疑問が残る。元々、正史だけを観ても、明らかに自己矛盾する数字が

平然と並記されているのだがら当然の疑問ではあるーー

荊州を発つ時点で、既に『歩兵
数万を率い』と記しているのに、百日宴の後に『劉璋は先主の兵を

増強してやり、先主は全軍合わせて
3万余人を持つ事になった』・・・・と平気で減少させてしまって

いる??まあ、最初の「歩兵数万」は御祝儀相場だったと見て、それ以後の経緯を単純加算して

ゆけば・・・
3万余4千(帰国支援分)白水軍 (3万位か?張魯と本気に遣り合う心算なら5万以上であっても

不思議では無いか?
)=7万以上?→ と云う事に成る筈である(その前後に 若干の協力者が加わって居たと

想定すれば)
中間の数字を採っても万位には成るであろう。 ーー処が、この折角の計算も、又々

正史自身の記述に拠って、二転三転させられる羽目となる。 「正史・法正伝」に載せられている、

劉璋の従事【
鄭度ていたく】の進言である。鄭度は劉備の挙兵に際して其の状況を判断し、主君の

劉璋に善後策を示す。励ましの意味も含まれるから、劉備軍の兵力を過少表現しての数値ではあ

ろうが、それにしても余りにも落差が大き過ぎる。

そもそも左将軍 (劉備)は、遠く本拠地を離れて我が方を襲撃しているので御座います。況してや
その軍勢は
1万にも満たず、兵士も未だ 心服おらず、 野に在る穀物に頼り、軍は 輜重を持ち
ません。そこで計略としてはーー巴西と梓潼しとうの住民を悉く駆り立てて 培fu水以西に移動させ
その米倉や野に在る穀物を全部焼き払い、塁を高くし溝を深くして、慌てず騒がず 静かに待ち受
けるのが1番です。 奴等が到着して 合戦を挑んで来ても、 絶対に 乗ってはいけません。 長期に
渡って 食糧を得る所が無く、百日も経たずして、必ず 自分の方から 逃げ出すでしょう。 逃走する
処を攻撃すれば、必ず叩き潰す事が出来まする!


当然ながら著者の陳寿は、この自家撞着・自己矛盾に気付いている。にも関わらず、敢えて此の

矛盾した数字を列記しているのは・・・・読者諸氏よ、数字には余り拘泥しなさんなヨ。殊に戦争に

関する数字
(兵力とか戦果)と云うモノは、最初っから此れ位にアヤフヤなんですぞ!・・・と云う但し書

・お断り・警鐘であるに相違無いーーと筆者は解釈している。


処で数字は兎も角、上記の
鄭度作戦こそ重大である・・・遠来の劉備に対し
焦土作戦を以って日干しにしてしまえ!! ナポレオンも ヒトラーも
南方の日本軍も、全て是れでやられた
( やられて当然の侵略軍ではあるが )・・・この進言の内容が間諜
の手に拠って、劉備側に漏れ聞こえて来た。

蒼ざめたのは軍師の广龍統であった! 鄭度の其の作戦が

採択され実行されたならば、之は間違いも無く、此方の完全敗北である。直接に現地で軍を指導

する者なればこその、実感であり直感であった。ナポレオン戦争を勝利に導いた名将・クツーゾフ

の出現であった。如何とも仕難く、有りの儘の危惧を劉備に話した。すると劉備も、流石に同感で

あった。オロオロした両首脳は、劉璋と鄭度をよく知る
法正 に意見を求め相談した。

すると法正はケロリとして答えて見せた。

「なあ〜に、心配する事なぞ有りぁしませんナ。そもそも劉璋に、そんな度量が有ったなら、私が今
此処に居る訳が御座いませぬ。 御安心下され。 劉璋は 絶対に鄭度の策を 用いません。是れは
200%の保証付きですナ!」

鄭度は、補注の『華陽国志』に唯、「広漢の人で、州の従事であった」とのみしか無い人物。劉璋の

信任がどの程度であったのかを知る由もないが、最も信頼して居た別駕従事・張松の裏切りに遭

った直後の事ではある。側近に対する信頼度が、著しく低下していた事だけは事実であったろう。

ーー果して
成都に在る劉璋・・・・劉備の恩知らずな軍事行動に怒髪天を突く思いに

全身を戦慄かせていた。直ちに迎撃の為の総力戦を指令した。そして益州挙げての大軍の出撃

を命じた。鄭度が〔焦土作戦〕を進言したのは、丁度そんな最中の事であった。・・・・言われた劉璋

だが君主として些かの自負と自信は在った。劉備に何割かの兵を与えはしたし、また白水軍を丸

ごと乗っ取られはしたものの、州全体の総力を結集さえすれば「返り討ち」に出来ると踏んでいた。

実際それだけの余力は有った。そこで群臣の前で、劉璋は鷹揚に答えた。

儂は是れ迄に、敵を防いで民衆を落ち着かせる・・・と云う話は聞いた事は有るが、民衆を追い
出して敵を避けるなぞ、聞いた事も無い。故に鄭度の案は却下する。
ーー(正史・法正伝)よりーー

即ち鄭度の進言は、そのタイミングが、ホンノ 少しだけ早かったのである。 無論、何時迄も 己の

見解に固執し、臨機応変に対処できぬ劉璋自身に最大の責任はあるーーそして実際には劉備軍

の予想外の動きの速さと、逆に 劉璋軍の集結のモタつきは、その 修正の暇 を与え無かった・・・・

戦局の推移は、そうした展開と成ってゆくのである。

劉璋は当然ながら先ず、諸将にの防衛を命じて成都城から出陣させた。

その兵力は定かでは無いが
(あとから追加派兵をしている処をみると) 必ずしも 万全な陣立 で臨んだとは
想われ無いフシが窺われる。その迎撃軍の主たる部将には、【劉
王貴】・【冷苞】・【ケ賢】・【張任】・
【呉壱】・等の名が記されている。 この内、前の2者は 全く不詳である。

但し
王貴りゅうかいは劉姓だが、劉璋とは直接的な血縁では無いらしい。
冷苞れいほうに至っては、此処に名前だけが1ヶ所のみの人物。
ケ賢とうけんも、ただ「孟達の甥おい」としか判らぬ人物。いずれ孟達を破滅に導く。 孟達とは
法正と共に劉璋から送られた部将で、現在は劉備から江陵守備を命じられ荊州に残っている。後にキイパーソンと成る。

張任ちょうじんは、『蜀郡の人で代々貧しい家柄であったが、若い時から大胆で勇敢、しっかり
した意志を持ち、州の役所に勤め、従事と成った』老部将。劉氏2代への忠誠心に燃えていた。

呉壱ごいつは若く勇猛で、後には「魏延」と並び称される部将。が劉璋の兄・劉瑁の正妻と成っていたが先立たれ現在は未亡人。だから劉璋とは縁戚にあった。

これら諸将の総司令官が誰であったのか判然としない。どうも後の経緯から推すと総司令官未定

のまま出陣した形跡すら窺える。然も、この全軍を編成するのにも手間取ったらしい。

何故なら・・・・この迎撃軍が「培城」に到着した時には、何と・・・・

既に「培城」は、劉備軍に占拠されてしまった後なのであった!!

劉備が素早かったのか?それとも劉璋側がモタついたのか?・・・・その両方であったのであろう。

いずれにせよ、劉璋軍にとっては、手痛い遅延であった。城に入って戦う筈が、逆に城を攻める側

に廻されてしまったのである。攻城用の装備をして居無いのだから慌てた。しかも、劉備側は其の

虚を突く格好で事前に伏兵を配置していたのであった。茫然と立ち尽くしている処を城の内外から

一斉に攻め掛かられた劉璋軍は、陣立も在らばこそアッと云う間に蹴散らされた・・・・。



余っぽど嬉しかったのであろう。また協力者達に対して、そうする必要も有ったのであろう。

正史・广龍統伝』には、此の「培城」に於いて劉備が大祝宴を催したとする記述がある。

『先主は培に於いて、酒を盛り音楽を鳴らして大宴会を催し、广龍統に向って言った。

「今日の集まりは実に楽しい!」 すると广龍統は言った。
  「他人の国を征伐しておいて、
其れを喜んで居られるとは、仁者の戦さではありませんナ!


先主は酔っていたので腹を立てて喚いた。

「周の武王は紂を討伐する時、歌を歌い踊りを舞う者を伴ったが、仁者の戦さでは無かったと言うのか!お前の言葉は的外れじゃ!今直ぐ出てゆけ!!」

その結果、广龍統は後ずさりして出て行った。 先主は直ぐに後悔し、戻って来る様にと頼んだ。广龍統は 元の席に戻ったが、全く素知らぬ顔で 陳謝もせず、平然と飲み食いを続けた。先主は彼に向って言った。

「先程の議論では、誰が間違って居たのかね?」 答えて广龍統。

君臣共に間違って居りました。 先主は大笑いして、初めと同じ様に 酒宴を
楽しんだ。』


余りにも有名なエピソードであり、従来から誰も異論を挟む余地の無い「史実」であるとされて来て

いる。だが、筆者は少し斜めから此の記述を見る。ーーもしも三国志の中に、此の广龍統自身の

口から『他人の国を征伐しておいて〜〜云々〜』の発言・場面が無かったとした場合
・・・・广龍統と

云う人物は、その為した策謀の事実に於いて、弁解の余地も無い〔完全なる悪逆者!〕でしか在り

得無い・・・・ではないか。そもそも大局から観た時、こんな”どうでもよい”会話を載せる必要性は

無い(筈)とも言える。この場面が挿入される事に因って俄然、广龍統を見る眼がガラリと変わって

来る。
いや陳寿は、変えさえようと狙って、このエピソードを記載したのである。 本来であれば、

彼の戦死する原因や場面を詳しく知らせるべきであるものを、その貴重なスペースを割いてさえも

此のエピソードに拘った・・・・何故なら、陳寿も广龍統も同じ蜀の臣下で在ったからに他ならぬから

である。無論、嘘であるとは言わないし、こんな会話もあったであろう。いや在って欲しい。在った。

ーーとは言え、陳寿の意図が働いているのも亦、事実であろう・・・・と筆者は見るノデアル。


※尚、このエピソードに対して【斐松之】は補注を付け、『漢晋春秋』の論評を掲載した上で、その後に己の見解を述べている。読者諸氏には、如何が感じられるであろうや?

習鑿歯しゅうさくしは言う。そもそも王者・覇者は、必ず仁愛と正義を体現する事を基本とし、信頼と道理に拠る事を根本とするものであって、その1つでも欠けたなら王者・覇者の道から外れるものである。
いま劉備が劉璋の領土を襲って奪い取り、非常手段によって功業を成し遂げたのは、信義に背き心情に反する行為であって、道徳・正義いずれにとっても間違いである。功業が之によって隆盛に成ったとしても、大いに其の背徳を傷むのが当然である。譬えるなら、手を断ち切って身体の安全を図る様なもので、どうして楽しい思いなど在ろうか。

广龍統は此の言葉が洩れて世間に広まるのを恐れると共に、主君が必ず反省すると判って居たからこそ、衆人の真っ只中で 其の過失を正したのであるが、守るべき 謙虚な生き方を無視し、傲然として頭を下げず、飽く迄も直言の態度を崩さなかった。

そもそも主君に過失が有った時に矯正が為されるのは、臣道が存在する事であり、反駁できぬ意見を受け容れて我執を持たないのは、道理に従う事である。
臣道が存在すれば朝廷は愈々盛え、道理に従えば多くの献策が全て採り上げられる事になる。
1つの言葉によって3つの善が全て明らかになり、暫時の諫言によって其の正義の行為が百代の後まで輝き渡る。物事の本質をわきまえて居る、と言ってよいであろう。

小さな過失に拘って大きな利益を捨て去り、この失言に誇らしげな態度を取り、みずから将来の直言を断ちながら、功業を成し遂げ義務を果し得た者は、未まだ存在しないのである。』

わたし斐松之は思う。 劉璋を襲撃すると云う計画、その策略は广龍統の提起したものであるが、然し道義に背いて功業を成就したもので、本来邪道である。  内心で気が咎めて居たとすれば、喜びの情は おのずと萎むもので、そのため劉備の「楽しい」と云う発言を聞いて、思わず言葉が口を吐いて出たのである。
劉備の酒盛りは時宜を失したもので、その行為は災禍を楽しむ態度と等しい。みずからを武王に擬して少しも恥じる様子が無かった。これは劉備の方に非が在って、广龍統には過失が無い。
彼が「君臣ともに間違って居りました」と言ったのは、恐らく、非難を分担しようとした発言であろう。
習鑿歯の論は、大筋に於いて正しいと言えるが、それから演繹した一般論は大袈裟すぎる。』



さて、劉璋軍が這う這うの呈で逃げ込んだのは・・・・1つ南へ退がった位置に在る、

綿竹めんちくであった。(※綿の字は→帛系が正字)

この「綿竹の城」は、嘗て州都であった事もある大きな城邑である。此処に籠城されたら、如何に

勢い付いた劉備軍と雖も、今度ばかりは簡単には行かない。とは言え、出だしは上々。アッと云う

間に駒を2つも進めた事となったのである。

一方の
劉璋、送り出した迎撃軍の不甲斐無さに怒った。が、同時に反省もしていた。

「矢張り、キチンと司令官を決めて置くべきだった様じゃな・・・・。」

今頃やっと当り前の事に気付いた劉璋は、新たに〔
護軍=総司令官〕を任命して増派。綿竹城に立
て籠った全軍を指揮させる事とした。その護軍に指名されたのはーー
李厳・・・字は正方

元々は荊州・劉表に仕えて居たが曹操の南征に遭い、西方に逃れ劉璋に召し抱えられた人物。

有能な人物として評価されて居た。劉璋は、その「李厳」に更なる軍勢を与えると、しっかり頼むぞ

とばかりに送り出したーー処が、処がある。何とその
李厳劉備軍に襲い掛かるかと思いきや

劉備に手紙を送り届け、
そのまま投降してしまった!!のである。


裏切り・寝返り=劉備に言わせれば恭順・帰服の第1号であった!!劉備は諸手を

挙げて喜んだ。当然ながら水面下の謀略工作の成果であったろう。いずれにせよ大成果である。


敵の総司令官
が其の軍勢諸共味方に成ったのである!!ーーそして更にもう1人、李厳と 共に重大な人物が帰服したのであった。費観である・・・・字は賓伯。劉璋の娘婿むこ

であり、劉璋の母は 彼の族姑
おばに当る と云う、劉璋の 身内中の身内であった。或る意味では、

こちらの【
費観】の離反の方が、人々の心には衝撃的であったとも謂えよう。

総司令官娘婿が劉璋を見限り見放した!!・・・是れは単に劉備の兵力が

増大した と云うだけでは無く、今後の 人心の動向を占う上でも、非常に大きい インパクトを 益州

全土に持たらした。 一体、降伏・帰順したら、その後は何う扱われるのか!?・・・・2人の処遇に

衆目が注がれた。するや劉備、李厳を直ちに「裨将軍」に任命。何の疑惑も見せずに信任し、その

まま軍勢を率いさせた。費観も亦厚遇を受け、のち同様に「裨将軍」を任される。


是れを知った綿竹城内は激しく動揺し、城を抜け出して帰順を申し出て来る者が相次ぎ始めた。

又、この綿竹 包囲の最中に
李恢と云う男が 駆け付けて来た。字を徳昂と言い、益州も

成都からは750キロも南に下った、大山岳中の建寧郡の ド田舎出身。たまたま親戚が罪を犯し

連座制の為に郡を免官される所を 上司の
董和(のち孔明に招かれる)の図らいで、州への栄転を推挙

され成都へ向う旅の途上にあった。その道中で李恢は劉備挙兵の噂を聞き、《劉璋の敗北と劉備

の勝利マチガイナシ!》と判断。自分が郡の使者だと云う名目を使って成都を素通りし、この綿竹

で劉備に仕官を願い出た。劉備は、そんなド田舎からワザワザ遣って来て呉れた事を嘉し、随員

に加えた。そしてこの後、
或る重大な密名を任され任務を遂行する 事となる・・・・。


こんな有様の綿竹城ーー実は結局の処、無血開城で降伏したのである。
守将は費詩であったが、もはや利非ずと観て、『費詩ハ先ンジテ城ヲ挙ゲテ降伏シタ
のであった。戦後の論功行賞では〔督軍従事〕に任命される事となる。ーーそこで、籠城していた
劉璋軍の1部の者達は、此処も放棄。又1つ撤退して次の各隹らくへと立て籠もったのである!!これで劉備軍は・・・・白水関〕→〔培城〕→〔綿竹城 と電光石火の進撃に成功。ほぼヶ月も要さずに最終目標の〔成都〕包囲まで後わずか25キロの各隹にまで快進撃を果したのである!!

だが実は・・・・
此処からこそが 蜀取りの正念場と成る のである。
「ーー・・・・!!・・・・。」  軍師の广龍統も、劉備も、黄忠も、暫し絶句した・・・・。

「これは容易では有りませんゾ・・・・!」  「ウム、流石に益州の底力じゃナア〜!!」

「確かに。真正面からではチトきつう御座いますナ。」
各隹を初めて眼にした劉備側の首脳陣、思わず此の後の困難さに立ち竦んだ。

今迄の支城など比べ物にならぬ
巨大さであった何者をも寄せ付けぬ、圧倒的な偉容で聳え

建っていた。初代・劉焉と劉ワの親子2代が、州都防衛の為に総力を挙げて築いた巨城である。

城壁の分厚さも、その高さも、その高楼の多さも、全てに於いてケタ外れであった。

然も其の守将が亦難物であった。劉璋の長男
劉循じゅん・・・・父親に似ぬ覇気と剛勇とを兼ね

備えた人物 と聞こえていた。軟弱な姿勢は決してとらず、徹底的に抗戦するに違い無かった。

(劉璋には2人の子が有ったが、次男の
劉闡せんは現在南方に赴任して居た。のち孔明の南征に会い、呉に帰順する。)

そして 撤退して合流した将兵も 亦、おのずと淘汰されて【
張任】などを筆頭に 皆、死をも恐れぬ

精兵揃いに 固まりつつあった。加うるに、主城である 「成都」 との距離が近くなった為、攻城中に

何時その背後から挟撃されるかも知れぬ危険性も強まったと謂えるのであった。実際「成都」には

未だ数万の州都防衛軍が在ったのである。

「これからは、硬軟両用作戦でゆくしか御座いせぬナ。」

益州は広大である。眼の前の戦局が如何に有利に成ったとは謂え、それは全体から観れば本の

小さな「点」に過ぎ無かった。万が一是れを好機と観て新たに挙兵する〔
第3の勢力〕が現われぬ

とも断言は出来無かった。 特に 巴西郡太守の【
广龍義】は、以前から 独立の姿勢を露わにして

劉璋から警戒されていた。この广龍義・・・・劉焉の代には長安政権の議郎であったのだが、馬騰

の叛乱が失敗し、連座した劉焉の息子 「範」・「誕」 が処刑された時、その子達を保護して益州に

遣って来た。だから一族の恩人でもあり、娘は今 「各隹城」を守備する【劉循】の正妻と成っている

そんな複雑な事情を持つ人物だけに、今後どっちに転ぶか予断は許され無かった。他にも「
李異

など、かような野心家は幾人も居る様であった。

「各地の豪族達に使者を送り込み、彼等を慰撫して措こう。」

そこで劉備は
各隹城を包囲する一方、一緒に連れて来ていた文官達を益州各地へと送り出した。

その面々は
伊籍簡雍劉邑王士張南馮習

そして「广龍統」の汚い手口・謀略には批判的な
張存などであった。

出来れば直ちに駆け参じて欲しいし、兵糧の拠出にも応じて欲しい。だが諸般の事情から其れが

憚られるなら見て見ぬ振りで”洞ヶ峠”を決め込んで居て欲しい。劉璋側への食糧輸送を滞らせる

だけの消極的な協力だけでも構わない・・・・あの手この手を使い分けながら、彼等の説得工作は

州都周辺を中心に、各地に推し進められていった。

この時期は多分、212年の終わり頃から213年の初めに掛けての事であった

ろう。他国の動きで謂えばーー【曹操】と【孫権】は 〔濡須の戦い〕 の真っ最中であった。

【馬超】は密かに復活の烽火を上げる為に雌伏して居る頃に相当する。



・・・・やがて、そうした「搦め手からの策動」の効果が徐々に顕われ始めた。各地から帰順・帰服の

回答が続々と届きだしたのである。無論、頑として拒絶する者も在ったが、どうやら益州の人心は

大きく此方に傾いて来て居る様だ。ーーそこで
軍師广龍統は言った。

「そろそろ孔明に出て来て貰って好い頃合でしょう・・・・」


ほぼ 第一段階の
高杉西郷の役割〕にはメ ドが付き始めた。どうやら 是れから先は

孔明の出番に成りそうであった。諸葛亮張飛趙雲・【劉封】等

と共に、途中の郡県を切り従えつつ、此処に到着する時間を半年として逆算して試ると、今がその

呼び寄せのジャスト・タイミングであろう。


「今は《
各隹》を包囲したばかりで、然も未だ、肝腎な 《成都》 が残っておる段階じゃが・・・・本当に
呼び寄せて善いのじゃな??」


ーー些か時期尚早では無いのか?ーー劉備はやや心配気に聞き返した。


「謀略や武力に拠る制圧は、 此処だけで収まる情勢 と見て大丈夫です。 然し 最終的には 結局、

人々の心を従えるものは謀略や武力では御座いませぬ。私は既に手を汚して来て居ります。その

汚い人物が急に方向転換して善政を試みたとしても、一体誰がそれを信じましょうか・・・・成都を

落とす迄が私の使命・・・・その後の事は孔明の仕事で御座いまする。」


「ーーそうか!そうで在って呉れたのか!!」

劉備は、諸葛亮と广龍統との間を即座に理解すると、直ちに荊州へ、使者を急派した。


かくて
劉備の蜀取りは、新たなる局面を迎えようとしていた。いよいよ満を侍していた

軍師
諸葛亮孔明出陣する【第181節】 蜀の建国戦争V (諸葛孔明出陣!)→へ