第179節
ルビコンの鬼
                                   蜀の建国戦争T
将軍シーザーは 躊躇った。ガリア遠征を果したルビコン川の畔であった。軍を留めた儘幾十日をも費やした。己の決断に自信が持て無かったのである。然し、其のルビコンの畔に居たのは、野望に燃えた一匹の””であった。洋の東西を問わぬ権力への執着、”その時”に賭けた男の、一世一代・大勝負の場面であった。

《 如何にすべきか!?》・・・・遠征の大軍団を率いてルビコンを渡るか?それとも、元老院の命令通り、単身で帰国すべきか?将軍が 軍を率いた儘、ローマ本国に足を踏み入れる事は、元老院に対する”叛逆”と見做される。前例の無い賭けであった。

今のままでも、ローマ軍最高司令官の地位と、ガリア平定の名誉とは充分であった。慣例に従い、単身で帰国しても、その褒章と権威は 絶大なものと成ろう・・・・だがもし、己が更に頂点を極め、皇帝 と云う、前人未到の高みに昇りたいのであれば、此処で踏み切るしか無かった。己の生涯に於いて、唯一最大のチャンスでは有った。滅亡覚悟で挙兵するか?折角手にして来た現在の栄達に留まるか? 此処が人生の分岐点であった・・・・吉と出るか!凶と出るか?

最大のネックは、人心の動向に 確信 が 持てぬ事であった。果して己を支持し、時代が変る事を
歓迎する者達は、どれ程の数に成るのであろうか?不安が付き纏った。


正に、このルビコンの畔のシーザー
(ユリウス・カエサル)と全く同じ状況・心境に置かれて居るのが・・・

212年の
劉備玄徳であった。・・・・百日宴で、劉璋から張魯討伐用の、莫大な軍隊と兵糧

とを受け取り、「
葭萌」 関へと進軍した迄は良かったが、その後は ピタリと動きを止めた儘、全く

何の気配も見せぬ日々が続いていたのであるーー今乗るか反るかの大バクチを打たんとする時

改めて己の周囲を見廻してみて・・・・
劉備は愕然と成った!

譜代と言える家臣は誰一人として居無かった

のである・・・・旗挙げ以来の顔馴染みは誰一人として居無かった・・・・!!

無論、今居て呉れる者達には全面的に心を許せるし、彼等とて亦信頼して呉れている。ーーだが

問題は、そうした個々の事情では無い。この重大事に臨んでさえも尚、躊躇が生ぜざるを得無い、

今更ながらの
〔己の危弱性〕であった。〔基盤の脆弱さ〕であった。

軍師の
广龍は1年前に出仕して来たばかりの人物。全軍の総司令官である黄忠も亦、

1年前に見い出した人物。又、この大事業の立案者で参謀総長の
法正に至っては、敵・劉璋

の現役家臣の儘であった。後の者達は、全て「
外人部隊の将官」に過ぎ無い・・・・

《果して此んな状態で宣戦布告し、劉璋との全面戦争に踏み切った場合、一体どれ程の者達が
 命を投げ打って迄ついて来て呉れるのであろうか?成功は覚束ないのではあるまいか!?》

ーー思えば、旗挙げ以来30有余年・・・・股肱の臣と言い得る者は
指にも満たぬ。【関羽雲長】、

【張飛益徳】そして【趙雲子龍】。文官ではあの【簡雍】唯1人。その後に【麋竺】、【孫乾】。10年前

に荊州に落ち延びて来てから漸く 【諸葛亮】を得たものの、【馬良】以下、現在も荊州に残るのは

全て2、3年内に登用した者達ばかり。〔曹魏〕や〔孫呉〕政権に比べたら、暗澹たる惨状である!

その人材の乏しさは、他の2国の10分の1にも及ぶまい。比べる事自体がおこがましい。

《この儘の布陣で大事に臨めば、結局いままで通り、大業は成就しないのではないか??》

正直言って不安に襲われる。今は良い。今迄は好調・上げ潮の乗って来て居た。天の勢いは我に

在った。・・・・だが一旦躓いた場合、戦局が不利に陥った場合には果してどうか!?肝腎要の時

になって見放される事も無しとは言えまい。いや、そう観て措くのが戦術の基本であるべきだ。

ーーとすれば、途中の1敗も許されない。勝ち続ける事が、成功の必須・絶対条件と成る。

《200%の確信が持てる迄は動くべきでは無い!》

而して其の確信を高める為に、劉備自身が今、唯一出来る事・・・それは、彼が生涯かけて培って

来た財産である「名望と仁徳」に拠る《人誑し》=《
人心掌握》 以外には無かった。

『焦ってはなりませぬ。ジックリと腰を据えて、先ず人の心を完全に掴む事です!』

荊州を発つ時に【軍師の諸葛亮】が、暮れ暮れもと進言してくれた忠告・戦術であった。その為に

敢えて
股肱の重臣達は置いてゆく様に!益州に於いては〔一から始める覚悟〕で臨まれる様に!

と勧められて居る劉備であったのだ。そして、もう1つの重大な戦略が与えられていた。

五斗米道と争ってはなりませぬ。漢中には我等が手本とすべき、重大な治世の要諦・原初が在り まする。漢中の張魯と向き合うのは、最後の最後にすべきで御座います。もし、攻め込む必要が
生じた場合でも、その時期は曹操が侵攻して来る直前が宜しいでしょう。決して張魯とは戦っては
なりませぬ。相手は飽くまで劉璋です。成都を陥落させる事が目的と思し召し下さい!


ーーなぜ諸葛亮は、そう勧告したのか?・・・・思えば、全て【諸葛亮】の御蔭である。生れて初めて

「根拠地」を持ち、それがグングンと拡大の一途を辿り出したのも、ひとえに諸葛孔明が出現した

直後からの事であった!!現在、人材の乏しさは魏・呉の10分の1以下であるにも関わらず・・・・

劉備の版図は着実に膨張を続け、今し孫呉と張り合う寸前まで来て居るのであった。

ーーかつて劉備が初めて諸葛亮に出会った頃、彼はズバリ!劉備を斬って見せて呉れた。
劉備集団は、そのスタートから
仁侠的血盟に拠る、傭兵集団であった。その集団が小さい うちは、それで充分であり、その結束力は強固な上にも強固であった。だが、ヤクザが国を治めた 例しが無い如く、仁侠集団は発展性に欠けた。かつて一時、徐州をそっくり譲り得た折、家臣団の
中には、「名士」の代表的人物である『陳羣
ちんぐん』が居た。然し彼は、劉備集団内に留まっては
呉れ無かった。 陳羣の建策すら、関羽や張飛を差し置いては 採用できぬ程に、集団内における
2将の存在は重いのであった。彼等の行動規範の第一は、仁侠と云う「枠組」を守り通す事であり
理や知の「内容」で動くのでは無かった。
その結果、
知や理は、義と情によって駆逐されてしまっていたのだった。
これは、内輪揉め的問題では無い。政治権力の根幹に関わる重大問題である。

仁侠が基本的に、異質なものへの排他性を孕む限り、社会的認知は得られない。
これでは将来性が閉ざされてしまう。仁侠的忠節は有難いが、
政事は別モノである。政事は
綺麗事では動かない。詰まる処ーー政事は
で動く。いかに多くの者達に、多用な”利”を感
じさせるかである。それは、
「武」の善く果す処ではない。別な領域である。
現状の如き、単なる
仁侠に拠る武力集団で在り続ける限り、
政事担当能力は0と云う事なのだ。
その為には
先ず
善意の元凶と成っている関羽と張飛を捻じ伏せなければ、質的大変換は果せ無い。

ーーそんな様な趣旨であった・・・・と思う。そして今、その質的変換を果しつつ、諸葛亮が果そうと
している改革は、一体何であるのか!?
それは・・・
組織の構築であるに違い無かった。人を惹き付ける様な、組織の魅力 を産み出す事!ーー個々人の集合体としての仕組では無く、個人の寄せ集まりとしての「集団」と
してでも無く、逆に、その個々人の能力が最大限に活かされる様な機構として機能する〔
組織
・・・・それが〔
国家〕と云う機関なのである!

建国の精神としては、仁侠・義侠、即ち仁徳を中心に据えながらも、機関としては情実の入り込む
余地の無い、万民が「組織人」としての誇りと意欲を導き出せる様な、制度としての「国家組織」を
築き上げる事・・・・今迄の劉備陣営には皆無だった
法の下の平等を実現する為の
組織作りに違い無かった。そのモデルケースが
五斗米道なのであろう。張魯は「法」では無く
その手法として「道教」を用いているが、

孔明は〔
〕に拠る人民の平等国家を目指して居る のではないか!?・・・・今の劉備には、それが解る気がする。




 同じ 軍師 でも、  「諸葛亮」と「ホウ統」では立場が違う。荊州の根拠地に在る諸葛亮は謂わば参謀総長であり、世界戦略 を視野に置いて 物事を判断し決定を下す。 ーーそれに対し、 益州に乗り込んだ
ホウ統
現地参謀長であり、眼の前の戦局を勝利に導くのが使命であった。おのずから進言のスパンが異なる。必然、現地に在る者としては、一刻 も早い戦果の獲得こそが最重要課題となる。緊迫する現地の実態を体感して居るだけに悠長な事は言って居られない。主君の尻を叩く事となる。ーーそして劉備に示したのが上・中・下の3策であった

上策は・・・・成都への直接攻撃・急襲作戦
中策は・・・・白水関からの順次撃破作戦
下策は・・・・国境・白帝への一時撤退作戦

「さあグズグズせずに、この3策の1つを選んで、決断して下され!!」

最終決断を迫られた劉備ーー「中の策」を選んだ。そしてーー

シーザー
は 言った。賽は投げられた!・・・かくて 遠征軍はルビコン川 を渡り
ガリアの戦地からローマ本国への進軍を開始した。シーザーが
皇帝となる為に必要な、歴史的
決断であった。一たび動き出したからには、もう決して引き返す事の許されぬ賭けであった!!

普段は 何うでも いい。 たとえ
ダメ男で在っても許される。それが雌伏の為であったのなら・・・

       
212年劉備玄徳まさに運命の賽を投げた!!

但し劉備玄徳の場合は、シーザーとは異なって、堂々たる直進では無かった。カエサルは強大な

直属軍を保持していた。が劉備には其れが無かった。数の上では数万とは言え、その実態は殆ん

どが借り物であった。未だ
度の共同行動を取った実績も無い、不確かな軍隊であった。其れを

確実な直属軍に仕立てるには、1つ1つの軍事行動を共に積み重ね、勝利に拠る連帯感を形成し

てゆくに限る。 おのずと 劉備流の 独特な進軍と成る。・・・・果してーー「中の策」を採り、白水関を

手始めに次々に支城を陥とし、最後には「成都」の城を孤立無援と為し、陥落させる・・・・

筈 の 劉備が、先ず最初にした行動は意外なモノであった。ーー何と、北西に在る白水関には背を

向けてクルリと反転、逆方向へ進軍を始める構えを見せたのである!

その理由とは、曹操の侵攻に遭っている 同盟国・
呉からの援軍要請 が届いた為であった。

呉の孫権は 「濡須」に於いて 曹操と対峙。 『戦況不利につき、至急来援されたし!』 との急報が

届けられた のであった。そこで劉備は 長江へ向って 南下を開始する一方、劉璋 へも 通報して

更なる兵力と輜重の増強支援を要請した。その手紙に曰く、

曹公、呉ヲ征ス。呉ノ 憂イ 危急ナリ。孫氏ハ孤ト 本ヨリ唇歯タリ。又、楽進ハ青泥ニ在リ、関羽ト相イ拒グ。イマ往イテ羽ヲ救ワズンバ、進、必ズ大イニ克チ、転タ州界ヲ侵サン。其ノ憂イハ魯ヨリ甚ダシキ有リ。魯ハ 自ラ守ル賊、慮ルニ足ラズ。

曹操が 呉に侵攻しました。呉の憂いは 切迫して居ります。元々から 孫権と私とは 唇と歯の如き
親密な同盟関係に在りますから 放っては置けません。また荊州に残って居る関羽は敵将・楽進と
青泥の地で交戦中ですが、こちらも 今直ちに救援してやらねば 楽進は大勝し、その勢いに乗って 直ちに 益州との国境を越えて 侵攻して参りましょう。 その緊急性は、関中の張魯などより 余っ程
危険です。元々 張魯は 専守防衛論者であり、恐るるに足らぬ 相手です。 ですから、呉の濡須と
青泥の関羽の 両方を 同時に救援する為には、更に1万の兵力と 輜重が どうしても必要です。
直ちにお与え願いたし!



例の”
百日宴”で 大歓迎した上に、3万もの20万石もの輜重とを与え、張魯討伐を

【劉備】に任せた劉璋・・・・益州の都・「
成都」に戻ってから、イライラが募っていた。あれから

既に丸1年が経とうとしていると云うのに、劉備は一向に任務を果そうともせず、只ウダウダと徒に

時を浪費して居るばかりーー思いっきり人を喰った態度である。ここまで虚仮にされては、流石に

御人好しの劉璋もフラストレーションが昂じ、とうとう督促の使者を送り付けた。ところが返って来る

答えは 『現在、鋭意準備中。いま出る処です』 の一点張り。 ソバ物の出前 では有るまいし、好い

加減にして欲しい。 些か 疑念を持たざるを得無く なり始めて居たーーその矢先に”此の手紙”で

あった。読み終えた劉璋、憮然とした顔付で書面を「別駕従事」に放り投げた。

「さても人を喰った話よのう〜。些か虫が良過ぎるではないか?」

別駕従事とは、城代筆頭家老。 殿様の直ぐ後から 別の駕籠で付き従う、側近中の側近である。

劉璋の場合2人居た。首席が
張粛で、次席が張松であった。この2人は実の兄弟であった

が、劉璋からより信頼されて居るのは、弟の「張松」の方であった。相い前後して、2人とも曹操と

会見した実績を持っていた。先に遣わされた「張粛」の方は、懇ろな接待を受け、正式に
(献帝の名に

おいて)
広漢郡太守に任じられて帰って来た。だから現在も彼の肩書は広漢太守なのである。

ちなみに劉璋も、その以前に曹操から振威将軍号を授与されていた。詰り、元々劉璋は、曹操の

庇護を受けたいと考えて居たのである。処が、後から派遣された「張松」の時には、曹操の態度は

ガラリと豹変していた。ケンもホロロに追い出されてしまった。時期が悪かったのである。兄の時は

未だ曹操が荊州を手に入れる直前であったが、弟の時は既に荊州陥落後であった。友好条約の

必要性は 格段に軽くなってしまっていた のである。ーー兄に比して、面目を丸潰れにされた弟の

張松・・・元より”売国の相手探し”が目的だったから、帰国するや曹操を讒言し、代りに

劉備を激賞した。そして
劉備への益州明け渡しの首謀者として、現在も何喰わぬ顔で事の

成り行きを注視して居たのである。当然、あの百日宴にも行かず、成都に留まり続けて居た。

「全ての要請に応える必要は有りませぬナ!この儘ですと劉備の奴、一層付け上がりましょう。」

張粛は、どちらかと言えば親・曹操派の立場。実の兄弟とは言え、弟とは意見に相違がある。

「そうじゃのう。では全面的に拒絶するか?」

劉璋、己独りでは即決出来無い。そこで張松にも意見を求めた。

ーーだが、その
張松・・・・愕然として居た!!

〔こんな話〕は、打ち合わせには無かったのである

事は是れまで、やや遅れ気味とは言え、全て順調に、ほぼ予定通りに運んで来ていた。大願成就
まで後一歩の所であった。

な、なのに・・・・今となって突然、全てをフイにして帰国してしまう・・・・とは!?

劉備と会見して以来、実に5年間ーーもっぱら「法正」を用い、己はひたすら隠忍自重に徹して来て

居た張松である。だが、如何に欺こうとも、既に張松の策謀に”不審”を抱く者達は出て来て居た。

兄の張粛などは不審では無く、半ば気付いて居るフシさえ有った。

此処で帰られたら、次は無い!

その動揺を隠すのには、彼の容貌が味方して呉れた。

「ーーどうじゃ張松、汝が推奨する劉備じゃが、此処は一体どうすべきか?」

黒幕の張松本人にさえ知らされていないのだから、ましてボンクラの劉璋に、劉備の真意の

解ろう筈も無かった。そこで張松、兄に疑われない様、適当な返事をして見せた。


「左様で御座いますナア〜。矢張り広漢どのの申される通り、半分程度を与えて措いて、一先ずは 様子を観るのが 賢明な措置かと、私も亦 同じ意見に御座いまする。」


劉璋とて、国内の多くの者達が今でも 劉備の迎え入れ には強く反発して居る事を知っていた。

そして何より劉璋自身が、張松の推薦自体に疑念を抱き始めて居たのである。

「よし、2人共の意見が一致したのであれば、そう致そう!」

そこで劉璋は、1万の要請に対しては4千を与え、輜重関係については要請の半分しか与えない
事とした。ーーそれに対し、何と劉備は”
逆ギレ”した。

「それが”
”を重んじて駆け付けて来た、””たる者に対する態度なのか許せん!!

無論、劉備のパフォーマンスである。もう目茶っ苦茶な言い草であるがーー是れで以って、

劉璋討伐の大義名分を、強引に己の側に引き寄せてしまう作戦なのであった・・・・

勿論、孫権からの応援要請も・・・・嘘七百五十・・・・(八百では無い処が何ともビミョウ)

『魏書』は、その劉備の逆ギレを、次の如く記し、解説している。

『劉備は其れを利用して、配下の兵達を激怒させようとして言った。
儂は益州の為に強敵を討伐し、兵士は疲労しきって、落ち着いた生活をする余裕すら無いのだ。いま金蔵に財宝を積みながら、褒賞を惜しんで居る。士大夫に死力を尽して戦う事を望んだとて、そんな事なぞ出来るものか!」 と。』


いかん、いかんぞ!是れは!!
一方の張松・・・・慌てた!!劉備は兎も角、法正までもが何の連絡も寄越さぬとは、丸でツンボ桟敷に取り残された格好である。周章狼狽ーー此の場面に遭遇した張松を指した。

《こんな重大な事を、この儂に報せぬとは!一体これは 何う云う事なのじゃ!?》

全く理解に苦しむ下の下策である。折角、苦労に苦労を重ねて、ようやく此処まで漕ぎ付け て来たと謂うのに、その艱難辛苦を突然チャラにして帰ってしまうとは!!
劉備が益州に踏み留まって居ればこそ、初めて事は成功するかも知れ無いのだ・・・それを
!!

居ても立ってもおられぬ張松、堪り兼ねて終に、みずからに架して来た 禁断の掟 を破った。

手ずから劉備宛の詰問状を書いたのである。5年間封印して来たヤバイ手段であった。もし之が
他人に読まれたら、売国行為の動かぬ証拠となり、致命的な失策と成る。分かり切った事であり、
シンジケートのボスとしては、絶対にしてはならない基本中の基本、手引書の第1項目である。が
此の緊急事態に際しては、他に方法が無かった。背に腹は代えられぬ。短く 2通 書いた。

今大事垂可立如何釈此去乎
『今、大事立つべきに垂なんなんとす。如何いかんぞ此れを釈て去るか!』

宛て先は、250キロ北西の「
葭萌かぼう」に居る、【劉備】と【法正】とであった。但し、張松は冷静かつ

迅速に対処したーー心算であった。・・・・だが、この時、何時もとは雰囲気の異なる張松の様子に
気付いた者が在った。以前から怪しいと睨んで居た、兄の
張粛ちょうしゅくである。 事の詳細は 史書に

無いがー・・・・恐らく 益州の中で 最も神経を尖らせ、厳しく 張松を”監視”して居たのは、兄である

「張粛」であったに違い無い。もし一族の中から謀反人が出たとなれば・・・・!!

万一の場合には 、弟の告発は、絶対に自分の手で果さねばならなかった。他人に告発されたら、

もはや言い訳は一切通用しない。事実無根で在っても〔 連座した!〕と見做されて当然である。

ーーそして事実は最悪のものだと判った。その書状が張粛の手に渡ったのである


陰謀の動かぬ証拠であった。ーーだが、他人なら兎も角、その対象は血を分けた実の弟である。

張粛、迷い懊悩した。薄々は、在り得ぬ事では無い・・・とは想っては居たが、いざ実物を手にして

みると全身が震えた。握り潰し、見て見ぬ振り を 決め込む事も可能だった。もし 謀略が成功する

のであれば、劉備に大きな貸しが出来る。影の協力者として恩賞も地位も間違い無いーー

だが此の文面を見る限り、事は寧ろ破綻の方向に進んでいるではないか・・・・いや遅かれ早かれ

こんなトンデモナイ巨大な策謀が発覚しない訳が無いーーとすれば事は
大逆罪である。情状
酌量の余地なぞ一切無い
三族皆殺し!三族根絶やし!の処断が待っている!

ーー怖気が全身を襲った。張松の実兄である張粛の足は、捕縛吏の役所へと向った・・・・。

《弟のバカな妄想の為に、一族を破滅させる訳にはゆかぬ!!》 それが族長としての

「張粛」の判断であった。ーーそして・・・・筋金入りの売国奴・国売りの確信犯・
劉備の益州乗っ取り作戦の首謀者・裏切り行為の仕掛け人・・・・

張松は、その字さえ伝えられぬ儘に、即刻、逮捕処刑された。

享年も亦不明。その相手として選んだ劉備とは、その生涯に於いてたった1度しか顔を合わせぬと

云う、徹底した謀略の申し子・劉備信奉者であった。ーーだが然し、此処で客観的に事態の進捗を

見た場合・・・・劉備にとって張松は、最早不要な人物・過去の人で在っても一向に差し支えは無く

成っていた。意地悪く言えば、”御用済み”だった。・・・・それも亦、動かし難い事実である。

ひょっとしたら、であるがーーもしかしたら張松は、此れを契機に、己の役割は既に終ったと悟り、

ワザト兄の手にこそ証拠品である書状を発見させたーーのかも知れ無い。そんな気もする。


是れを斜めから、穿った見方をすればーー益州と云う
劉璋の巣に、劉備と云う攪卵を産み つけたカッコウの親鳥・・・それは、実は張松であったのだーーそして更にその親鳥を
喰い殺して、独立を果すのが
フクロウであるとするなら・・・・
正に
劉備玄徳こそは、《梟雄きょうゆう》 なのかも知れぬ。


尚、『後漢紀』の「張王番」は、その人物評価に於いて、この張松と「法正」を一絡げにして言う。

『張松と法正は正しい君臣関係に在るとは謂えなかったけれど、然し
(一応は)臣下としての礼を採り
名簿に記されているのである。
積極的には、
(韓嵩や劉先が劉表に進言した様に )ハッキリと状況を主君に説明しようとせず
消極的には
、(陳平と韓信が項羽の元を去った様に) 絶縁を宣言したり、逃亡したりせずに、
二股を掛け、異心を抱き、巡らした計策も忠義から出たものでは無かった
罪人に類すると謂えよう
。』

だが其の一方で、『
正史・陳寿』は正反対な「評」を、この法正に下している。

『法正成功失敗ハッキリ見極め並外れた計画術策の所有者だった。然しながら徳性についての賞賛は無かった。魏の臣下に当て嵌めれば、法正は程cや郭嘉の朋と謂えようか。

ついで?だから、
劉備についての 『陳寿・評』をも示して措く。

『先主は度量が広く、意志が強く、心が大きく、親切であって、人物を見分け、士人を待遇した。
思うに漢の高祖の面影が有り、英雄の器であった。
その国を任せて遺児を諸葛亮に託し、心に何の疑惑も持たなかった事となると、誠に君臣の私心
無き在り方として最高のものであり、古今を通じての盛事である。
権謀と才略にかけては、魏の武帝に及ばず、これがため国土も亦狭かった。然しながら敗れても
屈伏せず、最後まで 臣下と成らなかったのは、そもそも 武帝の度量から謂って、絶対に自分を
受け容れないと推測したからで、単に利を競う為と謂うのでは無く、同時に害悪を回避する為でも
あったのである。』


ーーその評価が正しいか何うか?・・・・それは是れからの劉備の在り方次第であろう・・・・。





メロスは激怒した!・・・・いや、劉璋は激怒した!!

己の人の好さを曝け出されて格好がつかぬ。激する意外に方法も無かった。

おのれ〜クソ玄徳やろう〜!!人の恩義をダシにしおって〜!殺せ!!直ちに全ての関所に封鎖の命令を伝えよ! 絶対に生かして益州を出すで無いぞ!!

かくて此処に至って終に、劉備の化けの皮は剥がされ、後はもう駆け引き無しの実力勝負!!

この歳、璋、成都に還り、先主 北して 葭萌に到り、未まだ魯を討たず、厚く 恩徳を樹て、以って
衆心を収む。明年、曹公、孫権を征す。権、先主を呼び、自らを救わしむ。先主、使を遣わし、璋
に告げて曰く、「曹公呉を征す。呉の憂い危急なり。孫氏は孤と本より唇歯たり。また楽進、青泥に 在り、関羽と相い拒ぐ。いま往いて羽を救わずんば、進、必ず大いに克ち、転
うたた州界を侵さん。 其の憂いは魯より甚しきあり、魯は自ら守る賊、慮るに足らず」 と。乃ち 璋より 万兵及び資宝を
求め以って東行せんと欲す。璋ただ兵四千を許し、その余はみな半を給す。

張松書して、先主及び法正に与えて曰く、
『いま大事立つべきに垂
なんなんとす。如何んぞ此れを釈て去るか』と。
松の兄、広漢太守・粛、禍の己に逮ばん事を懼れ、璋に白し、その謀を発す。
ここに於いて、璋、松を収め斬る。
嫌隙 始めて構せり
璋、関戍せきじゅの諸将を勅いましめて文書に復た 先主に 関 通ず勿なからしむ。』



賽は投げられた。そしてはルビコンを渡った。



こうなれば後はもう 宣戦布告あるのみ
かくて建国戦争開始される【第180節】 宣戦布告 (蜀の建国戦争U)→へ