第177節
    ま   ひと
真人 出現 思想
                                 漢中 と 関中

古来より、1つの時代が亡ぶ時、1つの王朝が衰退して、その崩壊を待つばかりの状況になった

時には、
末法思想とか末世の法などと呼ばれる虚無思想が巷に溢れ出してくる。

是れは、上層に位置する支配階級の間から発生するものでは無く、反対の下層人民階級の間に

自然発生的に 流布され始める、ニヒルな絶望感の
変種である。 時代の閉塞感や貧困の無限

地獄を呪い怨嗟する、弱者階層の呻吟であり、渦巻く不満の発露である。

と同時に
救世主登場待望する伝えが復活して来るものだ。

時は今まさに、後漢王朝の断末を迎え、その滅亡は今日明日の事態と成り涯てていた。もう、ウン

ザリであった。何とか変って欲しい。天に代わって世直しをして呉れる超人が現われて欲しい!



原初キリスト教で言えば
メシア仏教で言えば観音菩薩、そして当時の中国で言えば
真人まひと出現の信仰・言い伝えが、世を蔽い始めていたのである・・・・

その【言い伝え】の原初は、今から凡そ200年前、前漢が滅亡した直後の世に由来する。


劉邦が建国した漢王朝(前漢)は200年間続いた後、西暦8年に王莽の手によって
簒奪され、一旦、亡びた。
『新』の皇帝を名乗った王莽は、当然ながら『漢』の復活=即ち、

「劉氏」が再興して来るのを最も警戒した。そこで、劉氏を連想させる様な事どもを一切禁止し

人心の収攬を果そうと図った。現代の我々から見れば 失笑する様な 姑息な手法であるが、そも

そも王莽の権威は、そうした祭祀的な基盤の上に拠って立つものであったから、当の王莽としては

オオマジメな対抗策であった。 「劉氏」の
」の字を解体してみると・・・「」と「」と「」に

なる。 所謂、『卯金刀
うきんとう』である。 尚、漢字分解は、古代教養人の必須科目であった。

(※余計な御世話では御座いましょうが、読者諸氏に於かれましても1つ此の歳、御自分の姓名を分解して、自分に都合の好い解釈を当て嵌めて見ては如何で御座いましょうか?存外に、生きる勇気が湧き出て来たりするやも知れませぬゾ?)


さて 『
』・『』・『』 の方であるが・・・・この中の 「刀」は、当時 流通していた銭》
刀型の鋳銅銭
からも連想され得る・・・→故に禁止して《貨泉》と云う新硬貨を鋳造した。
また「卯」の字に関連しても、漢王室が正月の魔除け行事に用いていた《
》を禁止とした。

・・・・ところがドッコイ・・・・そんな『ゴロ合わせ』なら、世間の方が、1枚も2枚も上手だった。逆に
王莽の仕掛けを逆手に取った。ーー発行された
貨泉の文字を、同様に解体したのである。。

は→「眞」に、は→「白」「水」に分解された。
更に
→「真」「人」に分けられ・・・・此処に白水真人!」
登場する事と成るのであった。ーーそも、
白水真人とは何ぞや!?

先ず、真人の方・・・・読み方は『しんじん』でも、『まひと』でも、『まびと』 でも構わぬ。

要はーー
天の命を受け、天に代わって世直しを果す”超人”の事を謂う。

その、世直し大明神が出現する!・・・・そんな噂が、王莽の意に反して 頻りに流布され始めた。

然も、単なる真人出現の『願望』だけでは無く、より具体的な人物の登場を予告するキャッチコピー

が付けられていた。
白水である。ーー『白水』は地名で、南陽郡 蔡陽県 (樊城の東方)

白水郷を指した。この白水出身の人物こそ・・・後の光武帝・劉秀であった

そして此の言い伝え通りーー実際に王莽は倒され(8〜23年)、西暦25年、劉秀は漢王朝(後漢)を

再興するのであった。・・・・それから更にまた200年後の今、劉秀が建てた「後漢王朝」は衰亡し、

もう1人の
〔真人の出現〕が待ち望まれている・・・・

果してそんな民衆の期待を担って、新しい世の中、 新しい国家=新王朝を樹立するのは誰なので あろうか!? 而して現在では、その候補者は次第に絞り込まれて来ていた。

1番手は
曹操孟徳なのであろうか

はたまた
孫権仲謀なのであろうか

それとも
劉備玄徳なのであろうか


いや実は、
既に 『真人』を冠している者が在った!
漢中
五斗米道の教祖張魯公祺】である
             間違い無く、
現時点では、最も優れた治世を施しているのが、
この【張魯】であった!!ーー彼に纏わる詳細詳は、第26節 ・「鬼道と少容」に既述してあるので、出来得れば其方を再読して戴きたいが、此処でも更に 検証を深めて措く事としよう。

張魯ハ字ヲ公祺ト言イ、沛国豊県ノ人デアルと、あるが”何時ころ”入蜀したかについては定か

ではない。ーー『華陽国志』には・・・・、

魯は鬼道
を以て益州牧・劉焉の信を得た。魯の少容あり。焉の家に往来したとある。

鬼道少容
・・・・ズバリ、新興宗教色仕掛けである。

とは言え、母子であるからには、その狙いは唯1つ。新興教団の存続と隆盛とを、新長官にも引き

続き認めさせる事にあった!無論その為には息子を新政権の中枢に喰い込ませねばならない。

.思うに、この使命感の強さは、その母親による処が大きかった筈である。この”教団”は、彼女の

父から夫の代へと引き継がれた
(可能性が高い)その草創期の艱難を肌で知る彼女こそが、其れを

是が非でも、次の息子の代へとバトンタッチさせるべく、成り振り構わぬ外道へと化身して、劉焉に

迫っていったと、観るべきではなかろうか。其れを見た息子も亦、己の立場と使命を深く自覚した。

その教団名をーー
五斗米 道と言った。その教義や救済施恩法(現世利益)などは、

先年 蜂起した黄巾の
太平道と全く 基軸を一にする。ただ異なるのは、入信時に 原則として

五斗の米を用意させる
点だけである。(日本の約十分の一、五升余り、10リットルに相当)

『正史・張魯伝』には、その
五斗米道の全容が つぶさに記されている。是れは『正史・補註』に

著わされている他の史書と共に
原始道教の根源的史料として極めて貴重なものとされ、我々に
千年の時空を埋めさせて呉れる。

(張魯)遂に漢中に拠り、鬼道 を以て民に教え、自ら「師君
」と號す。 其の来たりて道を学ぶ者
初めは皆 「
鬼卒」 と名づく。本道を受け已に信ずれば祭酒」 と号す。おのおの部衆を領す。
多き者は
治頭」・大祭酒(治頭大祭酒か?)と為す。
皆 教うるに 『誠信にして欺詐せず』
と。
病あらば 其の過を自首するを以てす。大凡、黄巾と相い
似たり。諸祭酒 皆
義舎を作ること今の亭伝
(駅舎)の如し。又、義米肉を置き、義舎に懸け於く。
路を行く者 腹を量り足るを 取り、若し過多ならば鬼神 輒すなわち 之を病ましむ。法を犯さば三度
ゆるし、然かる後乃はじめて刑を行なう。長吏
(役人)を置かず、皆 祭酒を以って治を為す。民夷 
之を便として楽しむ。巴漢に雄拠すること三十年に垂
なんなんとす。

ちなみに『祭酒』と言う語の由来だが、之は何も五斗米道の専用語では無い。本来は、宴会の
席で最初に酒を捧げて儀式を行う年長者の事であった。既に光武帝の時(200年前)にも、「軍師
祭酒」の官名が見える。三国の中では曹魏だけが、今後も「長官」の意で官職名に採用してゆく。

又、ほぼリアルタイム(魏の魚豢)の『典略』にはーー

憙平年間(霊帝中期)、妖術を使う賊が盛んに起こり、三輔(首都圏)には駱曜と云う者が居た。光和
年間 (霊帝後期)になると東方に張角、漢中には張脩が居た。駱曜は、住民に緬匿べんとく
の法
を教え、張角 「太平道」を行い、張脩五斗米道を行った。』 とある。

注目すべきは、漢中で五斗米道を興したのは張脩
だと記している事である。同じ「張」の姓だが
張魯とは赤の他人・全くの無関係である。張魯の祖父は
張陵、父は張衡である事は諸先 達

の研究により確定している。この五斗米道教祖問題は、現代でも論争に決着がついていない。

五斗米道の教祖は誰か? 張陵か? 張脩か? い や張魯だ・・・はたまた張魯が張脩の業績を
掠め取って、祖父のものに擦り替えたのだ・・・・???いずれにせよ、漢中に
五斗米道 宗教王 国〕を築き上げたのが、張魯であった事だけは 間違い無い。

さて『典略』には・・・・同じ時期に並存した太平 道 と 五斗米 道と云う、
2種類の 道教を比較しながら紹介して呉れている。
太平道というのは、巫師みこが九つの節ふしが有る杖を手に持って呪まじないをし、病人に
叩頭させ 過失を反省させてから、呪
まじないの水を 飲ませる。病気に罹っても短時間で快癒 した
場合には、この者は 信心が深いと言い、癒らなかった場合には、信心しなかったからだと言った

五斗米 道張脩のやり方も大体「張角」と同じで、静かな部屋を設けその中に病人
を入れて過失を反省させると云うものであった。又、姦令祭酒の役を置いた。祭酒は 『老子』
五千字を習熟させる事を役目とし、
姦令と称した。鬼吏
を置き、病人の為に祈祷する事を役目と
した。祈祷の方法は、病人の姓名を書き記し、罪に服すると云う意味の事を述べる。三通の文書
を制作し、その一通は天に奉る為にの頂上に置き、もう一通 は中に埋め、残り一通は
沈 める。これらを
三官手書と名付けた。病人の家から 五斗の米を供出させる のを常例 とし
その為に
五斗米師 と号した。

張魯は 漢中を根拠とすると、其処の住民達が、張脩の教えを信仰し 実行している事を利用し、
この教えに手を加え 粉飾した。
義舎 を作り、米と肉を その中に置いて、旅人を引き止める事を
命じ、又 些細な罪を犯して 隠している者に対しては、道路を百歩の間修理すれば、罪を免除する
と命じた。又、季節の決まりに従って春と夏は殺生
死刑と狩猟を禁止した。また飲酒を禁止した。
流浪して此の地に身を寄せて居る者で、服従しない者は居無かった。



ーーこの事実を、当時の社会状況と重ね合わせて観た時、この張魯の政治が如何に優れたもの

であったのかが、より鮮明と成って来る。上記、『流浪して此の地に身を寄せた者』及び『旅人』の

数たるや、ハンパでは無かったのである。ーーそれは、中原の戦禍 を逃れる 難民の大量流入・

人口爆発を指すのである!益州の「劉璋」は、此の深刻な重大課題に対応しきれず、終には内乱

すら招き、今でも在地豪族の怨嗟の的とされて居た。にも関わらず張魯の漢中は、極めて平穏を

維持し続けていたのである。つい昨年に勃発した
関中の動乱 (曹操の侵攻に対する、馬超・韓遂ら

西方諸将の抵抗)
の際にも 『関中の家族・数万軒が漢中に流入した』との記述が「正史・張魯伝」に

在る。それをキッチリ捌き、対応できる・・・・
凄い事である!!


時代をブッ飛んでいる
。ーーでは何故、そんな事が可能であったのか!?

その答えの 裏返しの1つとして、直ぐ隣りに「反面教師」が居るではないか!己の保身を図る為に

贅を尽した酒池肉林のドンチャン騒ぎを、何と100日以上も続けて憚らぬ男が・・・・。但し、それは

決して劉璋個人だけが責められるべき問題では無い。ーー詰り20世紀を迎える迄の支配階層は

押し並べて、己だけの
(乃至は己達だけの)繁栄を当然として居たからである。そうした人類の長い

歴史上の観点からも、張魯の思想は、時空を2千年もブッ飛んでいた!のである。

慮みるに・・・・張魯の思想は
(政祭一致とは謂え)2千年後の中国人によって実現される事となって

いったーーとも謂えようか?即ち、原初的ではあるが一種の社会主義思想・
穏やかな共産理念・いわゆる社会民主主義的な倫理思想を孕む
ものであったのではあるまいか?少なくとも三国志の時代の中に在って
優れて特異な、最も人民に歓迎されている 小宇宙
あった事だけは間違い無い!!

一方、父親・劉焉りゅうえんから蜀の地(益州)を引き継いだ、2代目
劉璋の評判は、余程芳しく無い。『正史』の記述に拠れば、劉璋ニハ明晰ナ判断力ガ欠ケテイタ為に、彼の重臣の中には

蜀(益州)の行く末に 不安を抱き、国を憂うる者
張松法正など)が現われて来るのである

そして その者達は、もっとマシな主君を 物色し始めた挙げ句、終には、
国を売る決断を固め、

その相手として
劉備を選ぶ。詰り、すぐ北の張魯の脅威こそが、劉璋の重臣達に憂国・

売国の決意を為さしめる、最大の原因と成っていたのである・・・・・そして『正史』に謂わく、


後漢末、朝廷は征伐する力が無かったので、張魯の元に使者を遣り、鎮民中郎将
任じ
漢寧太守の官に就け、貢ぎ物を献上する義務だけを課す、と云う恩寵を与えた


ーー事実上、独立を認められたに等しい。それから更に30年・・・・こう成れば、張魯の周囲には、もうそろそろ
漢寧宣言しても構わないのではないかとする声が挙がったが 諫言する名臣も居て呉れた。巴西出身で功曹の閻圃えんほであった。

「漢川の住民は10万戸を越え、財力は豊か。土壌は肥沃、四方は険固な地勢に拠って守られて
おります故、上手くいって天子をお助け出来れば斉の桓公や晋の文公
(覇者)の様に成れましょうし
もしダメであっても(光武帝に帰服した)竇融
とうぶと成って、富貴の身分を失う事は無いでしょう。
いま現在でも、独断で処置し得る権限を与えられ、刑罰を断行するに充分な勢力を保たれて居り、
別に王に成るまでも御座いません。どうか暫らくは『王』と名乗られる事なく、真っ先に厄災を引き
被る羽目に陥る事の無い様に 為さった下さいませ。」

元より張魯自身にも、そんな思想は無かった。

「私は自分が 王に成る為に ”道” を歩んで来たのでは無い。まして、己一身の富貴を求めているのでも無い。黄老の教えの下、誰もが皆、等しく豊かで在る事だけが本源の望みなのじゃ。」

更に重大な記述が、補注の『献帝伝』に見える。

教団幹部で、後に曹操の左中郎将と成った
李伏の回想として上申された文書と、その中に

登場して来る
姜合なる人物の”予言”である・・・・詳しくは又その場面にて後述するがーー

要点は
つである。まず先に張魯の行く末未来への展望に関する件・・・・・

李伏」が回想して謂うには→幹部(家臣)の中には「劉備と手を組むべきです!」と進言する者も

在ったのだが、その勧告を聞いた時の張魯はひどく激昂して叫んだ、と言う。曰く、

魏公奴隷成るも劉備上客とは成らじ!

その言葉には悲痛な思いが込められ、誠に筋の通った態度で御座いました云々・・・・

何に故に、張魯がそうまで劉備を嫌悪したのか?・・・その
番肝腎な理由が何も記されて居無い

処が、まさに3級史料の3級たる所以ではあるのだが、仮に其の発言が事実であったとすれば、

事はかなり重大である。
劉備にとっては非常なマイナスである! と 同時に、

張魯の時局判断・最終的な身の振り方・
教団生き残りの戦略が、仄見えて来るではないか!

そして巨視的なスパンで観た場合、張魯の教団生き残り戦略は、大成功を収めた! と言っても

良い事となるのである。蓋しその史実としての結末は、この後の展開が
215年に示して呉れる事となるであろう。

さて、もう
点だが・・・・是れは、神秘的占い書である『図讖としん』や「天の予言」を解読する名人と

される【姜合】が述べた、とする【李伏】の回想ーー『献帝伝』の主眼は、こっちの方がメインなの

であるがーー
真人出現予言である(まあ半分以上はオベッカと観てよいであろが)

即ち、魏の中から真人が現われる!と予言し、張魯が「その原典は何か?」と質問

すると、「孔子の玉板です!」と明らかにした?と云うのである。玉
ギョクで作られた石版に彫り込ま

れた、訳の判らぬ文言ーーそんなモノなど実在する筈も無いのだが、其れは其処、何しろ神秘な

事柄だからして、ツッコミは入れない。おお〜!!と驚嘆讃美するのが、レ・イ・ギ・なのだ。

尚、この真人伝説に関して、張魯が強く反応し、深い関心を抱くのは当然な事であったのだ。何故

なら・・・・後世
(南朝時代) の道教経典に於いて、五斗米道の教祖 に 対する、”注目すべき称号”が

記されているからである・・・・
太上正一真人三天大法天師
・・・・張魯の祖父・張陵を指して

冠された大仰な称号である。ちゃ〜んと? ”真人”に成っている。 もし、ジイチャンの代から既に

冠されていたとすれば、
張魯も当然それを引き継いで、真人を名乗っていた筈である。

いずれにせよ、
漢中盆地 は、〔隠れ谷〕 と云うには、余りにも広過ぎた。

『隠れキリシタン』で在るには、余りにも隆盛で、然も 長安に近過ぎた。

否応なく三国志の、その騒乱の渦中へと 巻き込まれてゆく宿命に在った。




そのXデー迄、あと3年・・・直ぐ南方では、劉備遂に
 
蜀取り
軍事行動を 起こさんとしていた

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