【
第173節
】
眼が廻る。今迄こんな事は無かった。何時もは史料が乏しくて乏しくて、「参ったな〜コリャア!」の
世界だったものが、此処へ来て急に様相が一変。お宝続々、金の鉱脈にブチ当った山師みたいな
夢見心地の有頂天〜♪♪・・・・ 然し、かつて遭遇した事の無い 余りの僥倖を前に、右往左往の
右顧左眄。 嬉しい悲鳴を挙げつつも、おたおたウロウロ、一体全体 どこから手を着けて 好いもの
やら・・・・何しろ 3つの情報源が 次から次へと 「俺を書け!俺の方がヒーローだぞ!」 とばかりに
急っついて来るのであるからシテ、もう堪らない。
殊に此の
214年
からの
3年間
は
ダイナミック
である
!!
然も、1国だけが突出しているのでは無い。
魏
と
呉
と、そして生まれたばかりの
蜀
の3者が
互いに己の強化を願いつつ、虎視眈々と互いの弱体化を策す。その場合、互いの利害は決して
一致はしない。1対1なら解り易い事も
3極構造
になれば複雑と化す。それが
1対2
に成ったり
2対1
に成ったり、また
1対1対1
に戻ったり、どっちを向いても、こっちを見ても、権謀術策の
オンパレード・
正に、此処から
三国鼎立の大叙事詩
は、始まらん と している
のである
!
そこで、さて、問題となるのはー→吾人の筆使い・
〔構成の組み方〕
である。
どの1国を描くにしても其処での出来事は、必然的に他の2国と関わる。だからと言って其の都度
他国の事情を一々説明していたのでは、話しが細切れで一向に進まなく成ってしまう・・・・・矢張り
1つの国だけの出来事を 2、3年まとめて描くのが、 最も解り易いであろう。 然し、元々からして
3つの国々は同時進行で、互いに絡み合いつつ存続してゆくのだから、重複や省略・説明無しの
場面が生じよう。読者諸氏には予め、その点を御了承戴き、じっくりとお付き合い願いたい。だが、
それでも尚、問題は残る。果して魏・呉・蜀の3者を、どの順番で描くのがベストなのか??
ーーで、矢っ張り、新しく生まれ出ずる
【
蜀の国
】
の事情は最優先であろう。 故を以って、
次の第12章は是れに当てる。処がそうは言っても、この
「
劉備の蜀
」
が又、尋常一筋縄では
ゆかぬ代物・・・・他の2国、特に同盟関係に在る
【
孫呉
】
との間は、ネコの眼の様にコロッコロ
変る。かと思えば北方からは
【
曹魏
】
が襲来して来る!その「曹魏」も亦、内部で重大な変化が
生じていた!ーー3国夫れ夫れが次から次へと、時代を画する如き重要事件を捲き起こす・・・・
そこで武蔵は考えた。 本格的に「蜀」を描く前に、此の節では3国中
最も遠征距離の少ない
孫呉の3年間
を
先に
★★
描いてしまおう!
と。 当然、そこには《蜀》に関する
説明不足は生じようが、此処は一番、無理を承知で筆を持ってゆこう・・・・。
或る月夜の晩の事であった。
《俺は、虎は好きだが 虎では無い ナ。 差し詰め、長江の岸部で草を食む 水牛 であろうか・・・》
孫権仲謀
ーー
214年
の今、
31歳
・・・・曹操は59歳、劉備は53であった。
その53歳が、この年ついに【益州・蜀】を奪って独立を果した。
※
(その経緯は次の第12章で詳述するが)
【呉】との同盟の御蔭であった・・・・と、「孫権」は思っている。
魯粛の自論・〔
2対1での三国鼎立戦略
〕 こそが、呉国存続の唯一の方策である!
故にこそ、劉備が益州 (蜀) を奪って独立する迄の間、その足場として
「
荊州を
貸与
★★
」
した
筈であった。ーーだが、
劉備
は、210年に「周瑜」死亡の為に、呉軍が荊州から撤退したのを
勿怪の幸いに
関羽
等の武勇を用いて荊州のほぼ全域を占拠してしまっていたのである。爾来
一方では益州に入り込んで其の奪取を企て、他方では荊州の勢力拡大を実行していたのである。
それに反して孫権は独り、その間に曹操からの直接攻撃を受けて、専ら損な目を喰わされ続けて
いたのである。 《・・・・約束が違うではないか!!》 孫権の腹臓は煮えくり返る思いであった。
そこで我々は、214年1月の
〔第一次濡須戦役〕
(既述)
以後の、孫呉の動きを追いながら
主として、同盟者である筈の劉備との関係、取り分けても
荊州の動向
を観てゆく事とする。
1月
の濡須戦が停戦となり、曹操が
業卩
へと去った直後の
5月
・・・・孫権はその軍備を解く事なく今度は
「
皖
」
の奪取に着手した。この皖は元々、兄・孫策と周瑜が2喬姉妹と略奪結婚して
以来、呉の勢力だったものを、曹操側が占拠していたのである。その間には【韓当】と【臧霸】との
激突もあったのだが、今や「皖」は、長江北岸を版図とする曹操側の、「
合肥
」以西の進出拠点の
意味を持ち始めていたのである。曹操は帰還に際して、合肥には【張遼】と【楽進】、舒に【臧霸】の
勇将を留め置き、同時に 皖へは 「朱光」を盧江太守として送り込んだ。そして盛んに水田を開墾
させ頻りに間者を放っては、南面する
番卩
陽の不服従民 (山越) の首領達を煽動し、魏への内応
を誓わせようとしていた。ーーその動きを危惧したのが、
偏将軍の
【
呂蒙
】
であった。
「皖の田地は肥沃で、ひとたび豊作が得られれば、彼等の軍勢は必ず其の数を増すに違い無い。 そうした状態が 数年も続けば、曹操の本来の意図が 現実化して来よう。 それを阻止する為にも
一刻も早い内に、之を除き去らねばならぬ!」
その進言を聴いた孫権は
5月
、直ちに
「
皖
」
へと軍を進め、みずから城を包囲した。
だが・・・・直ぐには城を陥とす事は出来ぬまま、閏
5
月になってしまった。
そこで孫権は戦術会議を開き、諸将に意見を述べさせた。すると 部将達は皆、口々に
「城壁の下に土山を盛り上げて作り、攻城用の兵器の数を増やして攻めるのが最善である!」 と
定石通りの意見を述べ立てた。まあ、その通りではあった。 だが其の時、
呂蒙
は言った。
「もし攻城兵器を揃え、土山を作るとなれば、その完成迄には、どうしても日数が掛かります。その
間には、城内の防禦も整い、外からの救援軍も きっと到着し、皖の攻略は不可能と成ってしまう
恐れが有りましょう。それに加え、我が軍は雨で水かさが増しているのを利して、船で攻め込んで
参りましたが、も し 長く留まって居れば、水は必ずや退いてしまい、帰還の道が 難儀になるのも
心配となりまする。」 実際この時、【張遼】は合肥を発っていたのである。
「では、どんな方策が有るのか?」 孫権の問いに、呂蒙は答えて言った。
「いま此の城を観察いたしますと、余り 堅固な物とは思われませぬ。 全軍の 精鋭の気を以って、
四方八方から同時に攻め掛かれば、一刻の内に攻め落とす事が出来ます。その上で、川に未だ
水量が有る裡に帰還する。是れが勝利を完全なものにする道で御座います。」
「ウム、其れは、父の代から我が軍が得意とする勇猛な戦法である。じゃが果して今、この軍中に
その先鋒を良く務める者は居ろうか?」
「甘寧が適任で御座いましょう。彼を升城督に任じて、全軍の先頭に立たせるのが宜しい。
「どうか、甘寧!?」 斬り込み隊長に指名された
【
甘寧
】
。ニヤリと不敵に笑う。
「元より願う処、一刻で片付けて御覧に入れましょう!」 そして・・・
『
呂蒙は甘寧を升城督に任じ、先頭に立って攻撃の指揮に当らせ呂蒙自身は精鋭を率いて其の
後に続くと云う作戦を立てた。 朝未だ来に 攻撃を掛け、呂蒙みずから 攻め太鼓と バチとを手に
持ち、士卒達は勇躍して我勝ちに城壁を乗り越え
・・・・(呂蒙伝)・・・・』
『
甘寧は練り絹を手に握り、みずから城壁を攀じ登って、軍吏や兵卒達の先頭を切り、ついに敵を
破って朱光を捕えた
・・・・(甘寧伝)・・・・』
かくて『
食事
(朝飯前)
ニハ 敵ヲ 敗退サセ
』ーー
その手柄の評定に於いては、呂蒙が1番となり、
甘寧は其れに続く者とされて、折衝将軍に任じられた。孫権は呂蒙の手柄を嘉し、即座に盧江郡
太守に任じ、手に入れた人馬を全て彼に分け与え、別に尋陽の屯田民600人と官属30人を下賜
した。
』
(尋陽は呂蒙の駐屯地)
この時 【張遼】 は 直ぐ近くにまで 救援に来て居たが、既に
城は
陥落したと知り 引き返した。 之が
214年
の
〔
皖城攻撃
〕
の顛末である。
↓
(
※
正に此の
5月
、
劉備は益州の奪取を果した
のである
!
)
或る月夜の晩の事であった。
「
兄・
孫策伯符
は、天下と云う獲物を狙う
〔
虎
〕
であった。 その義兄弟の
周瑜公瑾
も亦、
虎の一族
であった。・・・・だが、此の
孫権仲謀
は、虎では無く
鈍牛
に成ろうと思う。我が江表で、ノンビリと草を食む
”水牛”
で在らんとぞ思うが、どうじゃ、この考えは?
」
長江に面した「釣り台」で、月見酒と洒落こむ主従の影・・・
「君主としては、中々に言える言葉では御座いませぬが・・・
鈍牛
・・・で御座いまするか・・・・。」
問われて答えたのは
【
魯粛
】
であった。
周瑜が遺したいった最後の手紙にはーー
『
どうか、良将を選ばれて 鎮撫に当らせられますように。魯粛は智略の点で十分に任に堪えます
故に どうか 私の跡は、彼に引き継がせられますよう 御願い致します。そうして戴けますならば、
私が落命致します時にも、何の思い残す処も無いので御座います。
』 と あった。
元より孫権も、赤壁戦直前の段階で唯一、君主の為を思った献策を為して呉れた魯粛への信頼
は揺らぐ事も無かった。その魯粛の持論は
〔
天下3分の計
〕
、
〔
3国鼎立
〕
〔
劉備との同盟に拠る
2対1の南北対峙
〕
であった。そして
実際にも、天下の形勢はその通りに動き始めていた。と言うより、魯粛がフィクサーとして推進する
構想が実際に実を結び始めていたーーと言えようか。其れも之も全ては周瑜が決然として曹操と
戦い、赤壁に野望を阻止した為ではあった。その周瑜は根本的に、魯粛とは気宇が違っていた。
自力で益州を奪い、呉の独力に拠る天下統一・〔呉王朝の樹立〕を企図していた。而して孫権は、
その夢の実現を許可する反面で、〔より現実的な魯粛の路線〕 をも 密かに進めていた。 気宇は
確かに小さかろう。だが堅実ではなかろうか・・・・それが、
【
鈍牛
】
発言の真意であった。
劉備が
孫権の妹を娶り
、両国の同盟をより強固なモノとした仕掛け人は、この魯粛であった。更に
建業の資本として劉備に対する
「
荊州の一時貸与
」
を認めさせたのも亦、魯粛であった。
その御蔭で劉備は、然したる苦労も無く、「荊州」から「益州」へと自在に移動し、終には
【蜀】
を
獲得するに至れたのである。但し其の一方で孫権は、ワリを喰わされる羽目と成った。既述の如く
曹操の侵攻を独りで引き受ける事態に耐えねばならなかったのであるーー だが今ようやく劉備は
「益州獲得」の目的を果した。貸与してあった「荊州」を返還させよう。同盟条件を、約束通り履行
する時期が到来したのだ。その機は熟した。
それにしても、
【
関羽
】
の奴はチト図に乗り過ぎていた。魯粛が好意的な事を勿怪の幸いと
ばかりに、我が物顔に荊州を差配していた。その権勢は恰も「荊州牧」の如きであった。孫権側の
勢力は、その殆んどが駆逐(撤収)させられているのが実情であったのだ。是れ以上は、我がまま
勝手な振舞いを見過ごす事は出来ぬ・・・・そこで孫権は遂に、正式な使者として
【
諸葛瑾
】
を、
益州の劉備の元へ派遣。〔荊州の返還〕を求めさせた。前後の史実から推して、この返還要求が
行なわれたのは、
214年の秋
(7〜9月) だったであろう。
ところが劉備の返答は、木で鼻を括った様な、およそ脳天気なものであった。曰く、
『
今こちらは涼州を狙っているので暫しお待ち在れ。涼州を平定できたなら荊州はそっくり全部、呉に与えよう程に。
』
「おのれ劉備め〜!好い加減な事をほざきおって! そも、『与える』 とは何事じゃ! 借りたまま、返す心算など毛頭なく、上手い事を言って 引き伸ばす魂胆だな!!」
怒り心頭に発した孫権。”鈍牛”でも 怒った時は恐ろしい。即刻、実力行使に出た。先ず手始めに
南の3郡(長沙・零陵・桂陽)へ、孫権が任命した郡太守を送り込んだ。ーーところが、処がである。
何と
【
関羽
】
は、もっと強硬な行動を指示し、その3人の郡太守一行を、悉く追い払ってしまった
のである!当然、劉備の意向に沿ったグルミの挙動であった。
「おのれ〜!儂を何だと思って居るのかア!!」
怒髪天を突いた孫権。今度こそ本気で関羽を潰す覚悟を決めた。もし返還を承諾しないのなら、
劉備との全面戦争も辞さぬ総力態勢を指令。実際に軍事行動を起こした。切り札の
【
呂蒙
】
に
兵2万を与え、鮮于丹・徐忠・孫規らを指揮させ、先に太守が追い払われた
南の3郡
に向け、進撃
を開始させた。また、関羽が みずから出撃して来るのに備え、
【
魯粛
】
には1万の兵力を与えて
巴丘
に本営を置かせた。
孫権自身
も建業から「
陸口
」へと乗り込み諸軍の統帥に当たった。
同盟を破棄した、完全な挙国態勢である。
《蜀との 全面戦争も 已む無し!!》
さて、荊州の南3郡に進撃した
【
呂蒙
】
・・・・
長沙
→
桂陽
と、2つの郡は直ちに服従したが、
零陵
の
赤卩
普だけは降伏の使者を送って来なかった。そこで呂蒙は、軍を西に反転させ、軍事
制圧に向った。ーーとその時であった。何と成都
(益州)
に居た
劉備
自身
が急遽、長江を下り
「
公安
」に姿を現したのである
!
そして自分は其処に留まると
【
関羽
】
に命じて
3万
の兵を
率いて、「
益陽
」へと向わせたのである。
孫権
が本気で
荊州を奪還
しようとするなら
劉備
も亦本気で
荊州を死守
する覚悟で遣って来たのである
!
それを知った孫権は、関羽の抑えとして「巴丘」に在る【魯粛】が、1万の兵力しか持たぬ事を危惧
した。そこで、兵力2万を有する【呂蒙】らに、直ちに作戦を切り上げて魯粛と合流せよ!と 命じた
合流すれば
「
呂蒙3万
」
対
「
関羽3万
」
の
互角
と成る。その後の 増援軍は、夫れ夫れ
孫権 と劉備の統帥しだい となる。然し、その命令を受けた
呂蒙
は慌てず、配下の部将には
誰にも漏らさず、夜中の作戦会議で、翌朝の総攻撃を命じて見せた。その席には偶々途中で見つ
けた
赤卩
普の古なじみ・ケ玄之が居たからであった。総攻撃を命じた後、呂蒙はやおらケ玄之に
ニセ情報を混じえながら語り掛けた。
「未だ左将軍(劉備)は遠く漢中に在り、南郡の関羽には我が君(孫権)が対峙して居られる。だから
いま私が 零陵の城に 総攻撃を掛ければ、城邑は1日で落ちるであろう。 軍法に照らせば、城が
落ちた後では 一切の助命は 受け付けられぬ。 だから城の陥落後には、幾ら忠義や友情を発揮
したくとも、もう追い付かないのだ。まして百歳の彼の老母も誅殺されるとなれば、何と痛ましい事
ではないか・・・私が思うに貴方の友人は、外からの情報が無い故に、未だ救援が来るに違い無い と勘違いをし、為に、こんな立場に嵌り込んで居るのであろう。貴方は彼に会って、事の成り行きと 結果の善し悪しについて聞かせてやって戴きたい。」
劉備が公安に出張って来ている事や、関羽が 益陽に布陣した事などは、ついぞ知らぬケ玄之は
赤卩
普に面会すると、呂蒙の言葉を其のまま伝えた。このとき呂蒙は部下に
、
「赤卩
普が出て来たら即刻城内に入って、内側から門を閉じてしまえ!」と命じた。果して
赤卩
普が
出て来るや、呂蒙は 彼を船中に招き入れ、城が確保された事を確認してから、孫権の命令書を
見せた。其れを読んで、実は味方が近くにまで来て居り、まんまと欺かれた事を知った
赤卩
普は、
恥じて後悔し、床に突っ伏して泣きじゃくった・・・・。
かくて 3郡全てを従え終えた上で、
孫皎
を零陵に留めて 事後を任せると、呂蒙は其の日の内に
潘璋
の軍と共に「巴丘」へ向かう。魯粛との合流を果すと、いよいよ呂蒙は、「
益陽
」へと軍を
向けた。ーーそしてついに
、関羽軍と直接に対峙する陣を構えた!!
昨日の友は今日の敵
・・・
友好同盟は決裂
・・・・・
呉蜀両軍一触即発の危機が出現した
のである
!
【
関羽
】
と
【
魯粛
】
が
「
益陽
」
に対峙した直後、呉側は、互いの位置取りに関する
重大な情報を掴んだーー関羽がみずから5千の精鋭を率いて、夜の間に、上流10余里の浅瀬を
渡り、呉の背後に廻り込もうとしている、と謂う情報であった!それを知った総司令官の「呂粛」は
急遽、部将達を集めて対応策を協議した。
【
甘寧
】
が発言した。
どうやら、この甘寧と云う男ーーその重大な戦歴を見渡すに・・・・大部隊の指揮官で在る事よりも
少数精鋭の奇襲・夜襲
を専門とする
特別攻撃
を得意とし、そうした役割を引き受
けていた様子である。主な特攻作戦だけですら、
4
つも有るのだ。然も其の使用する兵力は常に
千人以内、500で充分と言い放っている。寧ろ廻りの方が心配になって要請された兵力より多くを
付与するのが常なのである。現に今も甘寧の直属兵は300に過ぎ無かった。その甘寧が言った。
「
もしあと500人を私の配下に加えて戴けますれば、私が行って之に対処いたしましょう。必ずや
関羽は、私の咳払いを聞いただけで、よく川を渡りますまい。もしも川を渡ったならば、その時こそ
彼は私の囚なのです。
」
彼の機動力と実績を知る魯粛は、直ちに1千の兵を選んで 甘寧に付けてやった。 するや甘寧は
闇夜を物ともせず、 恰も 白昼を進むが如くに 軍を進め、 関羽の機先を制して 浅瀬に 先着して
しまったのである。関羽は其れを知ると、強いて渡る事をせず、そのまま其処に留まって仮の軍営
を定めるしか無かった。ーー現在
(陳寿の時代)
でも 之にちなんで、甘寧が関羽の進出を未然に
防いだ其の浅瀬の場所は、
『
関羽瀬
かんう
らい
』
と呼ばれている・・・・(正史・甘寧伝)・・・・
かくて両軍はピリピリと緊迫の度合を高め合い、もし何処かの1部隊が暴発すれば、それが其の
まま一気に、全面戦闘へと突入する事態と成っていった・・・・
《・・・・
マズイぞ!是れはマズイ!!
》
昨日までの同盟者同士が今、こうして互いに睨み合い、あわや軍事衝突寸前の異常事態に直面
しているーーその現実に最も心を痛めて居たのは、他ならぬ呉の総司令官
【
魯粛
】
であった
「もし此処で、呉と蜀の軍が戦う様な事になれば、其れを一番喜ぶのは魏の
曹操
ではないか
!
それが分かり切って居るのに尚、こうして互いが睨み合って居る。 真に 嘆かわしい限りじゃ。何と
しても、此の戦争は避けねばならぬ。曹操を利してはならぬのだ!今ここで両軍が戦い、傷付け
合う様な事となれば、結局それは、互いが自ら滅亡を招き寄せるに等しい愚の骨頂である。」
この事態が更に悪化したら、一体これまで何の為に
天下三分・三国鼎立
の戦略を推し
進めて来たのか 分からなく成ってしまう。一挙に 其の根本は崩れ去り、衰弱した呉と蜀の2国は
各個撃破に討ち滅ぼされ、結局、曹操の天下併呑に寄与するだけと成り涯てる・・・・!?
そこで魯粛は「書簡」だけの遣り取りでは無く、両者が直接互いの顔を合わせる「会談」を持つ事を
関羽に提案しようとした。すると部将達は 皆一同に、
「関羽の武勇から推して不慮の事態が起こる可能性が強い!」と、会談に赴く事に強く反対した。
だが魯粛は言った。
「今日の事態に関しては互いに腹蔵の無い話し合いこそが必要なのじゃ。劉備が我が国を欺いた
事について、未だ其の非が問い糺されて居らぬ現在、その部将である関羽が重ねて我が方の言う 処に背いた、と言い張るのも面妖しなモノであろう。そんな事に拘って居る場合では無い。」
そう言うと、双方とも互いに夫れ夫れ兵馬を百歩離れた所に留め、ただ軍の指揮官だけが護身用
の刀1振りだけを身に付けて会見に臨む事とした。
【
関羽
】
が先ず口を開いた。誰がどう観ても劉備の方が分が悪いから機先を制する心算で
あったのだろう。正論を振り翳される前に、先ず言い分だけは言ったのである。
「赤壁の戦役では、左将軍様は自ら兵卒達の隊伍の中に在って、寝る時にも甲冑を外されれず、
力を1つにして魏を打ち破られたのじゃ。そうした働きが無視され一塊の土地も与えられ無かった
上に、いま貴方は遣って来て、土地まで取り上げようと為されるのですか!」
物凄い事実歪曲・目茶苦茶な言い分である。そこまで言われた魯粛、元々は度しょっ骨の座った
ヤサグレだったから、その関羽の言い草に怒った、怒った!!
「何を言うか!そうでは無いダロが!」 魯粛は嘗て見せた事の無い激しさで関羽を責め立てた。
「元々孫権様が 御慈愛の心を以って、土地を 貴家に貸し与えられたのは、貴家が戦いに敗れ、
遠く身を寄せて来て、身を立てる資も持って居無かったからではないか。いま既に益州を手に入れ たのに、土地を奉還しようとする気持も無く、 3つの郡だけを返すよう求めたに過ぎぬのに、それ
さえも聴き入れようとしないのは、一体如何なる道理が在っての事なのじゃ!!」
すると、その魯粛の言葉も終らぬ イ トに、関羽側 の 或る者
(氏名不詳)
が 嘯いた。
「何をホザキやがる! 土地と云うものはナ、元々、徳の有る者に 帰するのであって、何時までも 同じ人物のモノであるとは限らんのじゃワイ!」
是れを聞いた魯粛は勿論、気の短い若手連中はサッと顔色を変ると、今にも剣を抜いて、言った
相手を斬り殺さんばかりの剣幕となった。ーーだが流石に、関羽が其の場を抑えた。
「これは元より国家に関する事であって、この者の関知しする処では無い。」
関羽は目配せして其の者を席から去らせた。すると
魯粛
は、今度は理性的な態度で言った。
「
劉豫州どのは自分の事ばかりを計り、表面を取り繕って、徳に悖
もと
り 好みに背いて居られる。
いま既に西方の州を手中に収めて根拠を得られたのであるのに、更に荊州の土地をも切り取って
兼併してしまおうとされて居る。こうした事は普通一般の人でさえ心に咎めて、よく行なわぬ事だ。
況してや立派な人物達の統率に当る君主がやって良い事であろうか!?私は聞いておる。
『貪欲な事をして 義を蔑ろにすれば、それは必ず禍いを招く道に成るのだ!』 と。 貴方は重要な
任務を受けて居られながら、道理を明らかにして自らの分を守り、正義に拠って此の時世を正しく
行こうと為される事なく、貧弱な軍勢を恃んで、力で事を決しようとして居られるが、不正の軍には
力が涌かぬと謂う。何に拠って事を成し遂げられる御心算なのか・・・・。
」
”義”
とか
”正義”
を持ち出されたら、この
〔
義侠の人・関羽
〕
には、返す言葉も無い。
「ーー・・・・・。」 ただ黙り込む関羽だったが、かろうじて返答して言った。
「事は重大じゃ。いま一度、御主君の意向を確かめてみよう。」
「互いに、早まって無益な血を流さぬ様に致しましょうぞ・・・・。」
結局、この会談では、何の成果も得られず、事態は一時だけ先延ばしにされただけであった。
そうこうする間にも 時節は過ぎ行き、年は
215年
(
建安20年
)
と新たまってしまった。
呉
と
蜀
の双方は、
両竦み状態
の儘、何等の打開策も妥協点も提案する事なく、ただ徒に
睨み合いを続けた・・・・と、その時 (215年
3月
)ーー
之を絶好のチャンスとばかりに、
曹操
が
動いた!!
(13章に詳述)
当然と謂えば当然の事ではあった。劉備が予想外にも、益州を獲得した事態は、曹操の許せる事 では無かったのである。その蜀を奪い取る!ーーだが其の前に先ずは、「
漢
●
中
」である。「
関
★
中」を 制圧し終えた曹操にとって今度こそは
(前回は名目だけだった)
本当に
【
張魯
】
を征討するのが
目的であった。その地続きに
「
蜀
」
はある。
《ヤバイ!こんな所で油を売ってるバヤイでは無いぞ!!》
泡を喰ったのは
公安
くんだりまで出張って来て居た
劉備
であった。
←
ソレ見た事か
!
(天の声)
曹操がそのまま侵攻して来る かも知れないのに、益州は 空っぽの 空き家 も 同然!
せっかく苦労して、54歳でヤットコ手に入れた国を、トンビに油揚では堪ったものでは無い!
もう、こう成れば、臆面なぞ無い。調子よくコロリと手の平を返してゴメンナチャイ!・・・・でゆくしか
方法は無かった。そこで劉備は早速に使者を孫権に送った。
孫権
も亦、返答の使者を劉備に
送り返した。ーーかくて事態は急転直下・・・・ 全権の委任を受けた双方の使者が事を進める事と
なったのである。そして其の双方の使者とはーー
【
諸葛亮
】
と
【
諸葛瑾
】
の
実
の
兄弟同士
であったのだった。
この時、兄の諸葛瑾は42歳、8つ違いの弟・諸葛亮は34歳であった。この人選について、人々の
中には、「諸葛瑾は 弟との関係から、劉備と気脈を通じている!」 と観る者もあったが、孫権は
取り合わず、寧ろ、こう言うのであった。
「私は子瑜どのと死生を越えて心を変えぬと謂う誓いを結んでおる。子瑜どのが決して私を裏切る
事が無いのは、私が子瑜どのを決して裏切る事が無いのと同様なのじゃ!」
↓
『
建安20年、孫権は諸葛瑾を使者として蜀に送り、劉備と好みを通じさせた。諸葛瑾は弟の諸葛
亮と公式の席で顔を合わす事はあったが、公の場を退いた後は、私的に面会する事は無かった
』
『
未だ戦端が開かれぬ間に、曹公が 漢中に 侵入した。 劉備は 益州を失う事を恐れて、使者を
遣って和解を申し入れて来た。 孫権は、諸葛瑾を遣って 其れに応ずる旨を伝えさせ、元の同盟
関係を回復した。 そこで荊州を分割して、長沙・江夏・桂陽以東を孫権に属するものとし、南郡・
零陵・武陵以西を劉備に属するものと定めた。
』
この講和に拠って、
呉・蜀
との
〔
荊州分割統治
〕
が
成立
したのである。
整理すると、揚州(呉)と国境を接する
北から
「
江夏
」「
長沙
」「
桂陽
」
の3郡は孫権のモノ。
益州
寄りで江陵・公安が所在する
「
南郡
」
、益州と国境を接する
「
武陵
」
、それに南接する
「
零陵
」
は劉備のモノ・・・・
・・・・と云う事はーー
北の漢水で=襄陽・樊城の
曹操南方軍
と対峙、決闘するのは
【
関羽
】
の独占的任務
!
と云う塩梅になる。 同盟復活を見届けるや、劉備は楚楚クサと益州へ戻って行った。
と成れば
今度は
孫権
に
チャンス到来
である
!!
《
曹操と劉備が遙か西方でガチンコ勝負をして居るスキに、俺は
「
合肥
」
を奪ってやる
!!
》
転んでも只では起きぬ・・・・孫権は折角準備していた、この軍事態勢をそのまま横滑りさせると、
全軍
10万
を、曹操が手を出せぬ、手薄と成った
合肥攻撃
へと向けたのである
!
合肥の曹操軍は僅か
7千!
〔鈍牛〕
が
〔虎〕
に変身するべき時が巡って来たのである。
ーーだが然し、この鈍牛には、曹操・劉備の外にもう1つ、
第3の敵
が在った。
呉の孫権だけに枷られた為に、鈍牛は終に鈍牛の儘で在り続ける
宿命の敵
とは
?
さて、此処まで、やや先廻りして「孫呉」の動向を追って来た我々であるが、矢張り気になるのは
あの
ダメ男
だった
〔
劉備の蜀取り
〕
である
!!
この劉備集団に関しては、本書は、時計が
211年の3月
でストップした儘である。
即ち・・・・劉備が招かれる格好で
益州へ単身出発した所
で終っている。
そこで我々は、今から
3年分だけ後戻り
しなくてはなるまい。
次の【第12章】ではその劉備集団が為した
蜀 建国の史劇
の
一部始終を
、
トクと拝見させて戴こうではないか
!
ワープ
!!
【第12章】 ダメ男卒業、蜀を得る
《第174節》 世の中逆さ吊り?
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