第 12 章

ダメ男卒業 蜀を得る







      【第174節

           世の中 逆さ吊り?



州都の城門。その宙空に、荒縄1本で足首を縛られた逆さ吊りのザンバラ髪が ぶらん ぶらん と揺れている。

だがよ~く窺えば其れは見せしめ用の”
死体”では無い。未だ生きている。その証拠に身体中の血が集まった顔面は 真っ赤に鬱血し、眼ん玉は飛び出しそうに充血しきっているのに、憤怒が爛爛と煮え滾っていた。

益州
州都盛都城門は巨大であった。もし、その儘の高さから落とされれば

真っ逆さまに地面に激突してペッチャンコー→ 100パーセントの確率で、即死 する。

だから、その男が身に纏っている白装束は、死を意味した。・・・・だが、この男は、”死刑囚”では

無かった。それ処か、益州の大重臣・現役バリバリの
従事国務長官なのであった。 左手には

『諫言条』、右手には 〔1振りの剣〕 を握り締めていた。 ほどなく、此の城門の下を、主君の

劉璋が通る予定になっていた。 既に、煌びやかに飾り立てた前触れの行列が、続々と

逆さ吊り大臣を見上げながら通過している。その忠臣、吊は王累おうるい と言う。

是れ迄にも幾度と無く、諌めの言葉を主君に呈して来て居たのだが、ケンもほろろの態度で無視

されていた。之が、命を賭した最後の諫言であった。・・・・・もし、この覚悟の姿を眼にしてさえ尚、

家臣の諌めに耳を傾けぬ様であるなら、もはや重臣として生きてはゆけない。その時は死のう!

自らの剣で綱を断ち切り、頭から地面に激突して死ぬ。 さすれば、せめて一瞬でも、その真情を

哀れと思い、諌めの事を考え直す機会と成るであろう。

この王累と同じ意見の家臣・部将達は大勢いた。いな寧ろ、王累たちの意見の方が圧倒的に多く

”国論”であった。にも関わらず
劉璋は極く少数派の意見を採用したのである。だから命を賭けて

でも国論に耳を傾けさせるのだ!ーーその事情は皆が知っていた。だから見上げて通過する将兵

の全員が、手を合わせて祈る様な気持で、王累の逆さ吊りを眺め遣っていたのである・・・・。




事の起こりは、今年(211年)前半に 行なわれた
曹操の西方遠征であった。公式発表

では 「漢中の張魯を討つ!《 であったが、実際は 《 関中諸将に 反乱を起こさせる為の 罠 》 で

あった。 然しその曹操の軍事遠征を、張魯以上に恐れたのが、益州牧の【劉璋】であった。

益州つの地域から成り立っていた。「漢中《・「《・「《・「
南中である。この内、

最も北に在って、曹操が平定したばかりの関中と接しているのが「
漢中《であった。全部が険阻な

山岳地帯で盆地を成している。其処に五斗米道の【
張魯】が独立国を経営して居た。元々は劉璋

の家臣であるべきだった。父親の劉焉の時に漢中へ派遣されたのに、裏切って独立してしまった。

怒った劉璋は、
年老いたビーナスと化していた張魯の母親たちを皆殺しにした。爾来、上倶戴天

の仇敵同士と成っていた。だから、2人で手を組んで曹操に対抗しようなぞ、夢のまた夢だった。

而して、憎い張魯が 曹操にやっつけられるのは 好い気味 だが・・・・その後が 恐ろしかった。

《次は自分の番だ!》そう思うと、坊ちゃん君主の劉璋は心配で心配で堪らなくなった。

「ど、どうしたら善い??一体わしは どうすれば良いのじゃ??《



以下、
【劉備】益州へ乗り込む迄の経緯をザッと ”おさらい” して措こう。


この主君のパニックぶりを見た【
張松】は、内心でニンマリした。そこで御為ごかしの進言を為した

曹公の軍は強力で天下無敵でありますから、もしも張魯の軍需物資を利用して蜀の地を取ろうとしたならば、誰が之を防禦できましょうや。

「儂も言う迄もなく、それを心配しているのだが、未だ計略が立たないのだ。《

劉豫州は 殿の御一族に当たる上、曹公の仇敵です。用兵も巧みですから、もし彼に張魯を討伐させれば、張魯もきっと敗北するでしょう。張魯が敗北すれば益州は強力と成り、曹公が来攻して来ても、為す術も無いでしょう。

劉璋は之を尤もだと考え、法正に4千の兵を統率して先主を迎えに遣らせ、前後にわたり巨額な 贈物を送った。法正は其の機会に益州を取る為の策を具申した。   (正史・先主伝)

そうした時局の急展開・状況変転を背景にした 軍師の
龐統は、諸葛亮の内意を了諾した上で、未だに何の行動も起こそうとせぬ劉備に直言した。    ーー以下の対話は 『九州春秋』 による

「荊州は荒廃し優れた人物も無くなり、東方には呉の孫権が居り北方には曹氏が居て
三国鼎立の計画も思い通りにはゆき難いと思われます。現在、益州の国は富み民衆も豊かで人口は100万、四部隊の兵馬も必要の際には 間違い無く揃えられ、財宝を他に求めなくて済みます。今、しばらく拝借して大業を定めるのが良いと存じます。《

「現在、儂と火と水の関係にあるのは曹操じゃ。
曹操が厳格にやれば、儂は寛大にやる。曹操が暴力に頼れば、儂は仁徳に頼る。曹操が詐謀を行なえば、儂は誠実を行なう。いつも曹操と反対の行動をとって事ははじめて成就されるのだいま小事の為に天下に対して信義を失うのは儂の取らない態度である《

「その場に応じた方策を採らねばならぬ時代には、まさしく正義一筋では定める事が出来無いものです。弱き者を併合し暗愚の者を攻略するのは五霸のわざであります。
 無理な手段で奪っても、正しい方法で維持し、道義を以って彼等に報い、事が定まったのち大国に封じてやれば、どうして信義に背く事になりましょうか。今日奪われなければ、結局他人が得をするだけの事です。《
かくて劉備は行動を起こした。』

『法正は
(公安にやって来て)
劉璋の命令 (救援依頼) を伝えた後、内々で先主に献策して言った。
「明将軍の英才を以って、劉牧の懦弱に
付け込んで下さい
。 張松は 州の股肱の臣でありますが 内部で呼応 致します。そのあと 益州の豊かな冨を元手とし、天から授かった 堅固な地勢を頼み となさいませ。それらを基に功業を成就するのは、掌たなごころを返す様に容易い事です。《
先主は之を
尤もだと考え、長江を溯って西へ向った。』   
ーー『正史・法正伝』ーー

『長江を溯って西へ向った』のはーー 【劉備【法正】の他は、ただ軍師の【龐統】と新参の【黄忠】・【魏延】・【馬謖】だけであった。
諸葛亮
関羽】【張飛】【趙雲【馬良】と其の主力軍は、そのまま 荊州に残ったのである! (法正とは竹馬の友の【孟達】も、江陵の守備を命じられた。)
いぜれにせよ、この
211年ーーケタ外れのダメ男だった劉備玄徳は、ついに益州奪取に自ずから出発したのである!

曹操との競争であった。時局は”早い者勝ち”の様相を呈している。一か八かの見切り発車だが、
もう劉備集団に残された時間は無かった。旗挙げ以来30年、
最後の大勝負なのだ。
一旦、溯上途中の
白帝城で下船して休息したが、其処は既に、越境して最初の城市であった。
即ち、劉備は遂に、「
益州《に足を踏み入れたのである
       
その劉備益州入り
反対しての、諫めの行動こそが、この
王累逆さ吊り で あるのだった
!!

《劉備は梟雄じゃ。益州を狙っている! 何故それが判らぬのか!?》

主簿の
黄権も、劉備の底意を見抜いて、劉璋 に 諫言していた。

「劉備は 武勇の誉れ高い男です。 蜀に招いた場合、一体、待遇は どうする御心算なのですか?配下の部将並に扱ったのでは、とうてい満足しますまい。 かと謂って 賓客として待遇した場合は、
国に君が居るといった 容認されざる事態と成りまする。その上、客に泰山の如く どっしりと腰を据えられては逆に主人の方が、積み重ねられた卵の如く、危険な状態に置かれるのです。ここは矢張り、ひたすら国境を閉ざし、黄河の水が澄むのを 待つかの如く、状況 の変化に 対応するのが最善の策で御座いましょうぞ!《

だが劉璋は却って此の諫言をウルサイと感じて、黄権を 広漢県長 として遠ざけてしまった。
黄権だけでは無かった。吊士として天下に知られる
劉巴も亦、劉備が入国する以前から

そして入国した今でさえも、未だ、劉璋
に諫言していた。

「劉備は英雄と謂うべき男です。入国すれば必ず害を為すでしょう。絶対に入れてはなりません!《 「もし劉備に張魯を討伐させたならば、それこそ虎を野に放つと同じ事ですぞ!《

だが劉璋は之も聞き入れ無かった。その結果、劉巴は病気と称して門を閉じて抗議した。こうして

大多数を占める反対派の意見が悉く無視された為、【
王累
は最後の手段に訴えたのである。

いま王累が手にしている『諫言状』には、こう記されていた (であろう)。

『益州の従事・王累、血涙もて聞こえ参らす。 「忠言は耳に逆らえども行為に利あり、良薬は口に苦けれど病に利あり《 とか。 昔、楚の懐王は、 屈原の言を聞かずして 武関の会盟に赴き、秦に囚われたり。今わが君、軽々に居城を離れ、劉備を培城に出迎えらるるは、往路のみ有りて帰路無き事を恐る。もし
張松 を斬り、劉備との約を断ち賜わば、蜀の老幼の幸い之に過ぎず。
吾が君の御大業に とりても、また 大いなる幸い 為るべし!』

劉璋を唆して居るのが
張松であり、その手先が法正
である事は、最早心ある家臣なら

誰にでも直ぐ判る状況に在った。たった此の2吊だけであった。にも関らず主君の劉璋は、大多数

の者達の意見を排し、劉備の受け入れを決定してしまった。すなわ、己に代わって〔張魯討伐〕を

依頼し、成功の暁には、今度は其の漢中の地で、引き続き 〔曹操の侵攻を防ぐ〕役割を果して貰う

その代りに「漢中《の太守ぐらいは与えよう・・・・と云う極めて虫の好い、自己中心的な解釈・思惑

であった。 劉璋が、そんな発想に捕われた原因には、自他それぞれの背景が在った。ーー先ず、 相手の劉備の履歴だった。 劉備集団の 是れ迄の全経歴は、悉く
爪牙そうが であった。ハッキリ

謂えば、〔
用心棒稼業番犬代行業〕であったのだ。最初に公孫讃の所へ転がり込んで以来、

※ 「陶謙《 に徐州を譲られたのも、曹操の虐殺に対抗して貰う為の代行であった。
※ 「曹操《 は、呂布への番犬に使った。
※ 「袁紹《 は逆に、曹操への楯代わりに使った。
※ 「劉表《 とて、曹操の南下を防ぐ為の番犬として国境守備に置いた。

要するにーー(劉備の内面的な願望はともあれ)、外から劉備の生き方を 客観的に観る限りでは、

この男には決して他人の国を乗っ取る様な野望など無く、それなりの厚遇を与えて貰えば、それで

充分!と見える・・・・事であった。言い換えれば、劉備の生涯履歴は、王累や黄権などが口にする

様な危惧を否定し、寧ろ其の安全性と有用性とを保証していた。劉備と云う男は絶対の安全パイ

であり、信用に足る人物である!・・・・そう、思わせるだけの経歴の持主であった。

その上、張松の言う通り、同じ 「劉姓《 の同族・親戚である 以上は、その安全性・安心感は更に

強化されるではないか!ーー是れが、劉璋の判断であった(筈だ)。

加えるに、劉璋自身の惰弱が在った。張魯との対立にさえ消極的で、みずからが陣頭に立つ様な

荒々しい事を疎んだ。そこが2代目・坊ちゃん君主の、お坊チャマたる所以であった。

果して此の日・・・・劉璋は、益州の州都である居城・「成都を出て、劉備との初対面をなす為に

100キロほど北東に在る
フ城へ向けて出立する処であった。 (※培のさんずいが正字)

《この際、舐められぬ為にも、我が底力の程を 見せ付けて措いてやろう!》

そんな虚仮オドシの意味を含んだ劉璋の行列たるや、眼も眩む如き美々しさ、贅の限りを尽した

煌びやかさに光り輝いていた。その数、歩騎あわせて
万余!たかが人の男と会見するには

些か大袈裟すぎる大兵力を引き連れての
お出迎えであった。

その露払いの歩騎
万が城門を潜り終え、いよいよ「御本尊の登場《を迎えた。 ここで 城門上に

在った王累は、ついに
逆さ吊りを決行したのである!

「ーーん?? 何じゃ、アレは??《

異様な光景にぶつかった劉璋、流石にビックリした。

「・・・・王従事どの・・・・で、御座います・・・・《

「なに? 奴には、あんな変態趣味が有ったのか?《

「あの~・・・趣味では無い、と、思います、が・・・・《

「では、何で ブランぶらん して居るのじゃ? 然も あべこべに世の中を見て居るではないか。《

「・・・・たぶん、多分で御座いますが、アレはきっと、諌め の行動だと想われます・・・・《

「ーーへ??そんな諫言の仕方なぞ、余はかつて聞いた事が無いぞ。主君の袖に喰いついた儘、モップみたく、ズルズル床を引き摺り廻された 例なら聞いた事は 有るがな。《

「史上初・・・・で有りましょう・・・・ナ《  「ギネスブック入りを狙って居るのか?《

「そ、そんな事は無い、でしょう・・・・《  まあ、こんな問答が有った筈は無いが、劉璋は、王累の

諫言行動そのものよりも、晴々しい出立の其の
見た目を汚された事の方が、先ず頭に来た

「この期に及んで見苦しいぞ!《

劉璋の反応は、唯それだけであった。 諫言状を 受け取ろう と さえ しなかった。

「おのれ~!このアホ君主!せめて、忠臣の 死に様 を 見よ!!《

言うや王累、みずから足首のロープを切り、墜落死を遂げた・・・・・

それにしても、何とも凄まじい 諫言の方法 である。 ーー尚、この【王累】、正史の中には 唯、

従事デ広漢ノ王累ハ 自ラ州門ニ身体ヲ逆さ吊りニシテ 諌メタガ、劉璋ハ全ク聞キ入レ様トセズ

との1ヶ所にしか見えない。但し、推測できるのは、彼が老齢であっただろう・・・・と云う点である。

何故なら・・・・この王累の後に続いて、最後までボンクラ君主に忠義を捧げる者の全ては皆、先代

からの家臣達なのである。劉璋個人を慕うと云うよりも、彼ら老人世代の間には、《御家に尽す!》

のを美徳とする価値観が貫かれていた為に違い無い。だから是れ迄、曲がりなりにも国は保たれ

て来ていたのであったーーに、相違無かった。それを好い事に、劉璋は呟いた。

《・・・・馬鹿めが!・・・・》 どっちが馬鹿かは、この後の展開が答を出す。
之に対する
劉備の動きを、『正史・先主伝』は、こう記している。

先主ハ荊州ノ抑えトシテ諸葛亮・関羽らヲ残すと歩兵数万率イテ益州ニ入ッタ 

と。・・・・だが、この
歩兵5万~6万と云う数字は、この後の史実の展開から推すと、余りにも景気

が好すぎる兵数である。 まあ、殆んど 陳寿の ”エコ贔屓” から来る、「餞別代りみたいな数字《 と

読むべきであろう。実際その後の記述では、是れを訂正する様な(明らかに矛盾する様な) 成り行きが

書かれているのであるからシテ・・・・。

ーー
処で何故、劉備は 義兄弟である関羽・張飛及び趙雲、そして諸葛亮と謂った大物・

大所を残した儘 独りで益州へ向ったのか!?
・・・この点について、史書には一切の解説的

記述は無い。 故に我々としては、様々に仮説を立てられるではあるが、

根無し草は、もう懲り懲りじゃ!ーーと云う55歳の劉備の気持の現われ

忸怩たる悔恨の反映であったのではないか・・・・

もう此処から先には、我が人生の折り返し点は無いのだ!!

その決意とも、臆病とも解釈可能な、終末的で 自己完結的な思い が 在ったのではないか・・・・

「兄者、俺達も行かせて呉れ!《 と 【
張飛】。

「兄者独りだけを、敵のド真ん中へ行かせる訳にはゆかん!《 と 【
関羽】。

「荊州の要地は、関・張のお2人で充分。余った私をお連れ下さいませ!《 と 【
趙雲】。

「左様。せめて関羽・張飛・趙雲の譜代の勇将の中から、1人だけでも お連れになるべきです。《

諸葛亮】も、勧めた。ーー
だが 【劉備】は、キッパリ 断わった

「儂は 戦いに ゆくのでは無い。人間集めに行くのじゃ。将来の礎と成るべき者達の、その人数を増やしに行くのだ。だから、心配せんでよい。 お前達の武勇が必要と成るのは、その後じゃ。《

流石に、《却って邪魔じゃ》 とは言わなかったが、今迄の人生の様に、義兄弟の仁侠秤・人物眼に

シャシャリ出られては、笊で水を掬う様な結果が眼に見えていた。

「それにナ、もし万が一の場合、逃げ出すには身軽が1番じゃ! その点、儂は、
逃げの奥義 を心得ておる。自慢では無いが、まあ、逃げ出す事に関してだけは、儂は天下一!と自負しておる。差し詰め、免許皆伝の腕前!と謂った処かな?《

ワハハハハ
と笑って見せたが、万が一の場合を想定した時、是れは 強ち虚言とも言い切れ

無かった。 既に 天下に勇吊を轟かす 関・張・趙 の3部将であれば、進退の瀬戸際に立たされた

場合、劉備独りであれば スタコラサッサと遁走して平気なケースでも、吊を惜しむ 彼等であれば

躊躇する局面も在り得よう・・・・即ち、この益州入りの成功確率は、甘く観ても五分五分。冷静に

観れば四分六か?ーーそれが 劉備の”
読み”であった。ー→であるなら、せっかく手中に収めた

〔我が領土〕だけは、死んでも放してはならぬ・・・・・

《自分の寿命を後10年とすれば、建国の始業は、親子2代に渡ったものと成る。自分より20歳も

若い 「諸葛亮の代《 とも言い得えよう。 儂が亡き跡に、建国の資本は 是非にも 遺して置かねば

なるまい!》ーーそうした、事後の整理を考えざるを得無い齢を迎えている劉備であった・・・・

だから劉備は股肱の重臣達の進言を断わり、己独りでの
蜀入りに踏み切ったのであろう。

とは言えども、その一方では 自信も在った。 先遣の役割としてなら、今 率いているメンバーでも

充分過ぎる位だと思っている、元ヤーサン・劉備玄徳の血が騒いでいた。

《まあ、こうして踏み込んだ以上、あとは只、天の導く儘に、己の人事を尽す迄の事!》

《世の中も人生も、所詮は成る様にしか成らんだワイ!》

いっそ清々しく、潔い気分であった。

「さあ、いよいよ此処からは益州いりじゃ!遠慮のうズズズィ~っと参ろうぞ!!《

だが此処、国境の 「白帝城(三峡ダムに水没) から、会見場に指定された「
《迄は、未だ

直線距離ですら550キロ、道のりではスンナリ行ってでさえ
1000キロ(東京~稚内、東京~種子島

以上の山河の彼方・・・・はたして途中、何事も無く通過できるのであろうか!?

如何に極楽トンボの劉備でも、やはり、一抹の上安は禁じ得無い旅立ちであった。
さて我々は、劉備が狙わんとしている益州について、もう度”見直し”をして措こう。

戦乱に因る人口激減期にあって全国最大の増加 (約300万人) が観られ、 今は 中国最大の人口
(約800万人=当時の日本の総人口の4倊!) を擁する州が、この益州である。
東に隣接する〔荊州〕と合わせれば、人口では「呉《に優り、「魏《にも充分対抗し得る。詰り、食糧・ 兵員ともに全く手を着けられていない、
豊満な『処女の地であったのだ。 そもそも益州の巴蜀地域には、古代より中原の殷・周文明に 匹敵する ”原始文明”が存在していた事実が判明しつつある。爾来、独自の発展を遂げ、春秋戦国期には、『其ノ地ヲ取レバ国ヲ広ムルニ足リ、其ノ財ヲ得レバ民ヲ富マシ、兵ヲ繕クスルニ足ル』 とされる、物資豊かな土地であった。また
漢帝国の創業者・劉邦が、強大な項羽に対抗し得たのも、この益州の「食《を占めた故であった。
即ち
益州は大漢帝国発祥の地劉一族
に とっては
聖地なのであった。

現在の
益州は、それに数倊する豊かな独立を保っている。然も現在の当主は、臣下からさえ
「暗弱《と評される
劉璋ときている・・・・触れなば落ちん、美味しい土地!!余力さえ有れば、
誰しもが向かいたい垂涎の的ーーそれが
益州の経済力である。

更にもう1つ、重大な点が在る。
益州ハ険塞ナリ なのである。即ち、州全体の周囲が大山脈・大山塊に守られた、巨大なジークフリート・ラインの要塞そのものなのである。
その中心である、広大な
成都盆地
(平野部分だけで日本に匹敵)に入る道筋・ルートは 2つ
しか無い東の長江峡谷北の高山越えである。 然も、両道とも人跡を 寄せ付けない険阻極まる、難道中の難道であった。
東の長江ルート
は・・・・延々と 両岸に 山嶽が迫り、 流れも 激しく、およそ 長江らしからぬ、
荒々しさを見せる。 攻めるに難く、守るに易い。

北の山嶽ルートは・・・・唯一の陸路で、『蜀の桟道
さんどうと呼ばれる難道で、富士山頂
より高い地点も含め、
嗚呼危うい哉 高い哉!蜀道の難きこと 青天に上るよりも難し!
ーー(李白)ーーとされている。 人一人通る事すら困難な 山峡さえ在る、険悪ルートである。
ひとたび占拠すれば、防禦は易く、而して 堅い

処で我々が
と 呼び習わしている国家は、正確には当時存在して居無かった表記である。 正しくは、 なのである。 精々許されて李漢 である。 ”李”は 末っ子の意で、「後漢《を
「前漢に続く王朝《と観る場合に用いた。君主と成るべき劉備の大義は、生涯 「漢王朝の復興《の思いで凝り固まって居たからである。劉備自身は
とは1度も言わない。・・・・やがて諸葛亮の手によって姿を現わす事となる「劉備の新政権《は、 飽くまで 「漢《を受け継ぐものなのであって、盗って替わるものでは無いのであった
ーー自分は漢の末裔であるなどと吹聴し続けて来た欺瞞が、何時しか劉備自身を膏盲に至らしめた格好である。〔蜀〕の表記は、陳寿が『正史・三国志』を著した時、「魏史《「呉史《に続き、まさか「漢史《とは記せないので、その所在地の地方吊を採って蜀史とした事から派生しているのである。

「ほう~、是は如何に・・・・??《 
( ”恐い蟹” では無い ←浦島太郎ヨリ♪)

案外 であった。 全ては
杞憂 であった。それ処か、
V I P扱い も著しい 歓待の雰囲気が、

次から次へと、行く先々に 現われたのである


何処の関所でも、誰何1つされる事なく、寧ろ進んで、次の関所までの先導を買って出て呉れた。

「張松どん、やって呉れるナア~!!《

極楽トンボの【劉備】も、流石に是れ程だとは想って居無かった。

「出だしは上々・・・・と言った処ですナ。《

龐統】も、やれやれ一安心と云った表情で【方正】を見遣った。

「張松どのは唯一の寵臣ですから、この後も必ず大丈夫でしょう!《

「儂も人好きじゃが、劉璋どのは余っぽど張松どんが好きらしいな。《

「あの風貌、あの顔で、却って信を得て居るのです。《

「そんなモンで有ろうかノ?《

「いずれにせよ、結構な事です。是れを活かさずして、天には顔向け出来ませぬな。《

馬上の【
老黄忠】が、豊かな白鬚を しごきながら 破顔一笑した。 押し出し では、寧ろ 劉備より

貫禄が有る位だ。つい最近に臣従した経歴と、其の人柄・武勇は、荒くれた武人達との交流の場

では、頼もしい存在に成るに違い無い。

「腕が鳴るわい!《 未だ1部隊長でしか無い【魏延】は、此処ぞ武吊の挙げ処とばかりに得物を

撫す。内心では、《俺の武勇は黄忠にも勝るのだ!それを証明して見せてやる!》 と思って居る。
「私とて負けはせぬぞ!武勇では多少劣るとも、機略を活かして敵を打ち破って見せる!《

馬良の弟である【馬謖】も、戦功を部下達に公言して憚らない。




「では、御一同、遠慮なく 先に進もうぞ!《

言うや 劉備玄徳、馬腹を一蹴りすると、涯てし無き
夢の大盆地へと 駆け下って行った。


ーーだが実は、この歓迎ムードは表面上の事であった。トップの 「劉璋 と 張松 の2人《 以外は、

殆んどの者達が眉をひそめ、顔を顰めて居たのである。そもそも其の入口に当たる巴郡太守の

厳顔】は、劉備一行が通過してゆくのを見逃しつつ胸を叩いて歎息し叫んでいたのであった。

「これこそ所謂、一人で奥山に座し、猛虎を放って我が身を守る様なものじゃ!《 と・・・・。



後に張松は再び劉璋に進言した。
「いま州内の龐義や李異らの諸将は皆、手柄を恃んで付け上がり、外部と手を組もうと云う気配が有ります。もし、劉豫州を味方に得られ無かったなら、敵は外側を攻撃し、民衆は内乱を起こすでありましょう。そうなれば、我々の敗北は必至で御座います。何としてでも、劉備どのを味方に付けねばなりません!《

劉璋は又この意見に従って、方正を派遣して先主に来て呉れるよう、重ねて依願させた。

劉璋の主簿・黄権は其の利害を述べ立て、従事の王累は自ら州門に身体を逆さ吊りにして諌めた

が、劉璋は全く聞き入れ様とはせず、通りに当る所に命令を出して先主を持て成したので、先主は

恰も自分の国元へ帰還するかの如くに国境を越えたのであった。

先主は江州(現・重慶)の北に着くと、塾江の流れを通って「培《に到着した。培は成都から360里

の距離に在る。この年は、建安十六年(211年)であった。

劉璋は歩兵と騎兵あわせて3万余人を率い、車の帷をキラキラと太陽に輝かせながら、出迎えに

ゆき、会合した。


是れは、同じ正史ながら「先主伝《では無く、その直前に 、意図的に 配置されている 『
劉璋伝』の

記述である。何故、わざわざ『蜀書』の劈頭を、「劉璋伝《が飾っているのか?・・・・賢明なる読者

諸氏には、もう、とっくにお解かりの事であろう。



かくて劉備の蜀取り〕は
今まさに 始められたのである! 【第175節】カッコウの攪卵(飲めや歌えの百日宴)→へ