第172節
東の激戦地
                                 祖国防衛 の シンボル


長江は龍である河口を頭にして途中で大きく2回うねって飛翔している。その龍が、鎌首を擡げている部分が「南京」である。流れは其処でほぼ直角に曲り、龍の背と化している。

その「南京」・・・・当時は
秣陵ばつりょうと呼ばれていた。その以前は 「金陵」 と呼ばれていたのだが、始皇帝が巡幸して来た時に、お供の望気者 (運気を見る占い師) が、
「この丘陵には王者の”気”が立ち昇って居りまする!」 などと適当な事をのたくったものだから、
「朕の他に王者が出るなどゆるせん!」 と激怒した始皇帝は、その長大な丘陵 (金陵) を ズッタズタに切り崩させ、櫛の歯状態=
にしてしまった。それで以後は「秣陵」と謂われる様になった・・・と伝えられていた。尚、現代中国に於いて長江の河口都市と言えば「上海」である。その300キロ上流に「南京」は在る。だが、三国志の時代には、上海は未だ 海の底であった。そして南京が河口都市であった。詰り海岸線は、現代より250キロほど内陸寄りに在ったのである。

その
「秣陵」へ、孫権 は 政庁を移していた。昨211年の事である。それ迄は「呉」が首都で

あったのだが、重鎮の勧めに従って首都移転を実行したのである。そして丸1年を掛けて、新たな

城郭都市を完成させていた。その中心となる城が「
石頭城」であった。そして、その城を含めた首都を、この212年建業と改名したばかりであった。

天下統一の業を建てる!!・・・・・その意気込みを表明したものである。この首都移転を進言した

のは、〔呉の2張〕の1人ーー最長老の
張紘であった。その理由を張紘は、こう述べた。

「かつて始皇帝の時代に『金陵の地勢には王者の都邑たるべき”気”がある!』と言われましたが

現在でも 其の場所は破壊されずに残っており、土地には 王者の都たる気が保たれております。

天が命ずる処に従い、都邑とされるのが宜しいでしょう。」

無論それは、現実的なメリットや必要性を含めた言い方であった。ーーこれから後の時代は、必ず

曹魏との対峙が続くであろう。 その場合、最も望ましい 首都の位置は、直接長江に面して、然も

後背が安全な父祖の地・秣陵が最適である・・・・

210年に「周瑜」が逝去して以後、【曹操】や【劉備】の派手な動きに対して、対外的にはすっかり

鳴りを潜めた格好の【
孫権】であった、が実は、その体力温存・内政重視策を進言したのもこの

張紘】その人なのであった。

「軍事的な行動は時宜を得て動かす事が大切であります。どうか今は、暫らく兵士達に休息を与え

られ、農耕の事を広く盛んにし、賢者を任用し 、能力ある者を職務に就かせ、務めて寛大で恩恵

溢れる施策をお取り下さいますように。その後で、天命を奉じて誅伐を行なえば、労せずして賊を

平定する事が出来るので御座います。」

ーー然しこの張紘子綱・・・・旧首都「
郡」から、完成したばかりの建業へ移る
      旅の途上で不帰の人となった。享年は60であった。
その、孫権に宛てた 切々たる 『
遺書』ーー 本人は謙遜していたが、天下双璧の書家であった

彼の筆は、最期まで乱れる事が無かった。その真心から書き遺した 孫権への書置きは、或いは

若い君主を励まし、或いは諌めて已まない。

古より 国を統べ領地を統べてゆく者は、徳ある政治を行って、かつての黄金時代にも匹敵する世の中を現出したいと、皆が望むのでは御座いますが、 実際の政治は、その多くが 芳しからぬ結果に終るもので御座います。而して其の原因は、忠臣や能力ある輔佐者が無く、政治の根本がよく分からなかったのでは御座いません。 主君が 自分の好悪の情に流されて、そうした者達を
充分に働かせる事が出来無かったからなので御座います。そもそも人の気持と申しますものは、困難な事を嫌がって易きに走り、同調する者を好んで、異議を申し立てる者を嫌うので御座いますが、こうした気持の動きは 治安に至る道に逆行するものです。

古典にも『善に従うは急坂を登る如く、悪に従うは雪崩れの如し』とありますが、是れは善を行なう事が如何に難しいかを言っているので御座います。主君たる者、歴代の先王が築かれた基を受け継ぎ、山川の地勢を利用し、
8つの形態に拠る君主権の発動によって、臣下達の上に大きな力を揮るって居るのでありますからゴマスリ者達の意見を安易に喜んでしまい、他人の意見を求めようなどとは中々致しません。

それに対し 忠臣は、実現困難な正しい道を標榜し、聞く者の耳に痛い意見を吐くので御座いますから、主君の気に入られる事が無いのは、寧ろ当然な事で御座いましょう。君臣の間が結節して居無いと其処に間隙が生じ、巧みな言葉が入り込んで、更に君臣の間を隔てる事と成ります。

主君はちっぽけな忠義立てに目を眩まされ、恩愛の情に引かれて、賢者と愚者の区別が付かなくなり、長幼の序列を乱してしまうのでありますが、その原因は、好悪の感情に心を乱されて正しい判断を損うからで御座います。 故にこそ聡明な主君は、こうした道理をよく理解して、賢者を恰も飢餓に迫られているかの様に探し求め、諌めをもう充分だなどとは決して言わず、どしどし受け入れて、感情を抑え、欲望を節して、正しい道の為には恩愛を割くので御座います。この様に、上に立つ者が 不公平な恩寵の与え方をする事が無ければ、下にある者も僥倖を期待したりする事がありません。


どうか、この事に幾度も思いを致されて、決して高ぶられたりする事無く、大きな御仁愛で 人々を
お包みに成って戴きますように・・・・


           ※8つの形態に拠る君主権の発動ーー爵位・俸禄・下賜物・職務・老臣の尊重・没収・追放・譴責




その張紘が進言し、みずからは住む事が叶わなかった、
天下統一の事業を建てるべき新たな首都・・・・建業ーー但しその場合、その位置取りは、攻守両刃の剣とも

成り兼ねぬ懸念が在った。 即ち、攻め上る場合には都合が好いが、逆に侵攻を受けた場合には

直ちに危険が首都に迫る。 その弱点を指摘し 補う、軍事的な意見を出したのは
呂蒙

あった。 首都・建業の上流に祖国防衛のシンボルとなるべき軍事要塞を建設すべきである!!
其れがーー
濡須塢 じゅす う であった


軍事専門家である将軍達のの眼から判断すれば、曹操が呉に侵攻して来る場合、そのルートは

唯1つだけに絞られる。こちらが攻め上る場合も亦然り!ーーでは何故この1地点だけに戦闘が

限られたのか?・・・・それは主として、攻める側の曹魏の事情に因った。その大軍を素早く戦場に

運ぶ為の方途としては河と運河を利用した
水上経由に頼るしか無かったからである。無論

その背景・根底には、何よりもスピードが必要とされる
〔3極構造・三国鼎立〕が在った。

ダントツの国力ではあったが、基本的には2国への攻撃、時としては守備を課せられた曹魏軍は

常に、東 (呉) と 西 (蜀) と 南 (荊州) の各方面への
素早い移動を必要とした。ーーそして、当時

としてはその
唯一の高速大量輸送手段は船舶に拠る水上交通だけであった

その事を、具体的に魏呉の場合に当て嵌めて見れば・・・・下図の如く一目瞭然・・・・
曹操軍はベースキャンプの寿春迄を河川や運河を経て、水上経由で遣って来る。その南に
最前線基地の
合肥が在る。更に其処から長江に進出する場合、「施水」〜「巣湖」を経て
その湖水が流れ出る
濡須水を下って長江に出る・・・だから、その曹操軍の長江進出を未然に 阻止する為には、「合肥」←→「長江」の間に在る〔濡須 水〕の途中に要塞を築き、事前に兵力を
派遣して置く!即ち、
濡須塢を以って、呉国側の恒久的な最前線基地と為す!

その方針は、曹操の〔東方遠征〕が察知された 今年の劈頭から急ピッチで進められ、正に曹操が

「合肥」に到着し、【荀ケ】に引導を渡した10月には,、万全の姿と成っていたのである。


尚この
濡須塢建設の時、【呂蒙】は他将の発想には無かった特別な提案を為し、後に大いな防衛

効果を発揮させる・・・・川の落ち合いを挟んで、その岸部に
〔堡塁〕を作るべきだ!と主張した

のである。それに対し、諸将は揃って無駄だと言った。 「船から岸に上がって敵を撃ち、終ったら

水を渡って船に戻ればいいのだから、堡塁など何の役に立つものか。」

それに対して呂蒙は言った。「同じ兵器にも鋭い物と鈍い物が有り、戦いも百戦百勝と云う訳には

ゆかぬ。もし万が一、敵の歩兵と騎兵とが肉薄攻撃して来て、味方が水辺まで退却する暇も無い

場合には、どうやって船に戻る事が出来ると言うのだ?」

そこで孫権は、その呂蒙の万全の態度を好しとして、堡塁の建設を進めたのであった。あの名前

さえ書けず、文字を見ただけで痒い痒いイボが出た、猪突猛進オンリーの阿呆ガキは、今や刮目

すべき成長を果し、すっかり全軍を統帥し得る風格を備え始めていた、と云う訳である。


いざ、ござんなれ!来るなら来てみよ!!》 


曹魏側の最前線基地は合肥である。
対す
孫呉側は濡須を以って之に対抗する。其の両者の 距離は50キロ・・・この2つの要塞を巡る 果てし無き攻防戦ーーそれが所謂三国志に於ける魏呉の戦役なのである。
但し、この魏呉の激突を観る場合の事前認識として・・・・その互いの既得勢力範囲だが・・・・・

根本的には
長江が其の境界線であるとして良いであろう。呉側の方が、多少北岸に

出城を確保していた
(横江津など) が、それは純粋に軍事基地であり、一般人の暮らす城邑では

無かった。また反対に、曹操軍が長江を越えて、その南岸を占拠する事も皆無である。その代り

長江の北側の広い範囲は、一応 曹操側の版図であった。なぜ 一応 かと言えば、濡須の流れの

東西は全くの無人地帯・人口砂漠に成り果てていたからである。
 既述の如く、曹操の強制移住

策を嫌ってこの地帯の住民は全て江東へ逃げ出してしまっていたのである。


かろうじて 濡須の西150キロに在る「皖」だけが城邑として機能していた。あの 2郎が2喬を得た

「皖城」である。それ故、一応は曹操領と言い得た(に過ぎぬ)。従って、この魏呉の戦役の目的は

基本的には
領土拡大・領邑争奪には無く、純然たる軍事衝突・会戦なのであった

実際この後、魏呉双方から互いに「濡須」と「合肥」に大攻勢を掛け合う。君主みずからが出陣した

戦役だけでも以下の如く、連年の様相を呈す。 実際に現地で対戦する期間は 長くても3ヶ月程度

だが、曹操の場合は往復に3〜4ヶ月を要するのだから、その準備期間を含めれば、現実的には

毎年の遠征である。そう思うと、60歳近い曹操の精力絶倫さには改めて驚かされる。


213年(1月)ーー魏の濡須攻撃・(第1次)
214年(7月)ーー魏の合肥進出
215年(8月)ーー呉の合肥攻撃
217年
(1月)ーー魏の濡須攻撃・(第2次)

(詳細は逐次、別節で後述するが) 是れ以外の小規模戦闘は恒常的に間断無く続くのであるーー

だが然し今後に関して言えば、曹操はこの呉国平定に対しては、決して確たる展望を持っていた

訳では無かったのである。いや持て無かった・・・・呉国の地理・地勢上の特殊さが加わっていた。


三国時代以降の史実を観れば判る事だが、如何に呉国を完全崩壊させるのが難しいか!!


先ずは2極構造が必須条件である。 然も 其の上、濡須方面・漢水方面・長江上流の3方面から

同時に、大軍を以って攻め込まぬ限りは、完全崩壊には持ってゆけぬのである。

(西)
が (孫)呉を滅ぼす場合も然り、が 南朝(陳) を滅ぼす場合も亦然りであった。 流石の

曹操も、まさか、そんな後世の事例を識る筈は無い。だが然し、今の実力で直ちに孫権を討ち果

たせるとは全く思っては居無かった。オールorナッシングの決戦など、本気で望んでは居無かった

のである。だからダラダラと、中規模程度の激突を繰り返し、適当な処で 双方が引き上げて終る。

それがパターン化してゆくのである。但し戦うからには ”勝利の名”は 自分の方に獲得せねばなら

ぬから戦闘そのものは激越となった。決して八百長試合では 済まされず、孫権などは 死ぬ目にも

遭う。1会戦の戦死者数も5ケタに及ぶのである。


其処へ曹操軍・歩騎10余万が突っ込んだ・・・!!

第1次・濡須戦役の始まりである!!

残念ながら(史書の本質上当然だが)、精密な戦闘場所や日時は判然としない。 とは言え、細切れ

状態の各人の「伝」を繋ぎ合わせれば、何とか其の大凡は再現できる。ーー



事前に情報を得ていた孫権側の備えは、ほぼ鉄壁であった。呂蒙が築かせた堡塁の効果も大きく

為に、曹操水軍は濡須を河口まで下る事は出来なかった。その一分のスキも無い陣構えを観た

曹操は、改めて孫権の容易ならぬさを思い、周囲に唸った。

「息子を持つなら孫仲謀の様な者に限る。それに比べたら劉表の倅どもなぞ、丸で豚か犬じゃ!」

そこで仕方なく途中で船を止めた。そして敵の裏を掻く心算で、夜の間に兵の半ばを川の中洲に

上陸させ、其処で水陸併用の戦いを挑む事とした。ーーだが、その戦術は不味かった。

いくら 中洲に敵を引き込もうとも、基本的には 船を用いる〔水上戦〕を選択した事になる。艦船の

操作では、曹操側は孫権水軍に及ぶ筈も無かった。又その好機を見逃す孫呉軍では無かった。

「よし、あの中州の敵を孤立させ、全滅させよう!」

孫権がそれだけ言えば後はもう細かい指示を出す迄も無かった。
呂蒙周泰の猛将は曹操水軍

の脇をアレヨアレヨと言う間に摺り抜けて、上流側に位置を占めてしまう。是れがデビュー戦となる

25歳のチビ
朱然は、放うって置いても武者震いして敵艦に突っ込んでゆく。護軍校尉の孫皎は、

孫静
の3男で之も若い。戦後に”精鋭”との評判を得る突進力で、一番槍を求めて襲い掛かった。

2男の
孫瑜は慎重派だが、それだけに敵の弱点を見抜いて割り込んでゆく。甘寧に奇襲攻撃は

御手の物。最長老の
程普などは余裕綽々でドッカリと座ったまま動こうともしない。


中州の脇に停船していた曹操水軍は、上下流からの挟み撃ちを恐れて慌てて後退を開始するが

悲惨だったのは 取り残された 中州の将兵であった。 味方からの掩護射撃も無くなり、身を隠す

草木1本無い 丸裸状態で、呉の艦隊からの 集中射撃に 晒されてしまった。逃げ出すにも、乗る

べき味方の船影は遙か彼方・・・・完全に敵水軍を蹴散らした孫権軍にとって、後はもう殲滅戦が

残っているだけに過ぎ無かった。当時
特に北方将兵は泳ぎを識らなかった。背水の陣の生まれる

所以でもある。ーー結果、中州に取り残された曹操軍には悲惨な運命だけが待ち受けていた。

水軍3千人が殺され溺死した者は数千人にのぼった・・・この緒戦の水軍戦で

ほぼ1万の将兵が戦死すると云う
曹操側の一方的な敗北 となった



「水軍では敵いませぬ。陸上戦に切り替えるべきです!」


軍師の【
荀攸】は、今更ながらに進言した。曹操も、改めて 己の軽率を胆に銘じた。一方、孫権は

これ見よがしに、水軍を繰り出しては曹操を挑発した。軍楽隊を乗せてワザと曹操陣営の眼の前

で大音響の軍歌を唱和させ、観閲式の真似事までしてみせる。然し緒戦の敗退に懲りた曹操は、

固く水塞の門を閉じ、隊伍も整然と進退する孫呉艦隊に向っては決して撃って出ようとしなかった。

そこで或る日、孫権は進退自由な軽船を選ぶと、更に敵中深くへと乗り込んだ。相手が出て

こぬ此の際、みずからの眼で敵情視察を行なおうと云う豪胆なアイデアであった。するや案の定、

曹操は迎撃の艦船は出さず、その代りに岸から強弩の弓矢を雨霰とばかりに射込ませた。

矢尻が石で作られた強弩=石弓は1本でも其れなりに重い。それが纏まれば相当の重さとなる。

その全軍の強弩が一斉に、孫権の単独艦に集中射撃を浴びせたのだから、忽ち軽船は針ネズミ

状態と成っていった。ところが其の何十万本もの石弓は、船の左側だけから浴びせられた為に、

何と軽船は、その石弓の総重量に因ってバランスを失い、大きく左舷側に傾き始めたのである!

「ワッ! あ矢や矢矢矢や〜! 矢バイぞ。 こりゃ冗談じゃ無く、矢バイ!!」

想わぬ事態の出現に、船中は大パニックと成った。こんな敵のド真ん中で転覆・沈没でもしたら、

いくら何でもヤバイ!直ちにとっ捕まり、君主斬首!と云うトンデモナイ結果に成ってしまう!?

何とかバランスを取り戻そうと、全員が大慌てで反対側へ移動するが、持ち直したのも一瞬の事。

次の瞬間には又、船の傾斜角が再びグラリと大きく左に傾いた。もう、人間の体重だけでは 防ぎ

様の無い事態と成って来た!・・・・ま、まさか・・・・!?


「ーーん?? 何で ミンナ 騒いどるんじゃィ ???」 

ふぁ〜ぁ〜・・・・と、独り、大欠伸の孫権仲謀・・・・

「あ、あの〜、もしかして、お昼寝中で御座いましたか?」

「う、うん。まあネ。あんまし ヒマなもんだから、つい ウトウトしちゃった・・・・」

「へ? じゃあ、今どう成ってるか御存知ない??」

「夕べ チョット呑み過ぎたかなあ〜? 何か地球が傾いて見えるんだけど・・・・」

「あ、それは二日酔いでは御座いません。船が傾いている所為であります!」

「ーー何で傾かせる必要があるんじゃ??」

「敵の弓矢攻撃を片側だけに受けて傾いているのであります!」

「あ、そう・・・・ じゃ、反対側にも 矢を受ければイイじゃん。」

「ーーハッ!ハハッ!そうでありました!!」


「うん。 じゃ、そう しといて。 僕 まだ眠いから。 お休みなさ〜い・・・・グウ ぐう グウ・・・・」

そこで、ゆっくりと船首を巡らせて反転すると、今度は右舷に弓矢が集中し、その御蔭で船の傾斜

角度は元に戻り、あわや転覆の危機を免れる事が出来た・・・・とさ ♪ー→後で其れを知った曹操

「仲謀の奴め、中々いい度胸をして居るワイ!」 と言ったとか言わないとか・・・・

これは『
魏略』に載るエピソード。面白いから「三国志演義」は之を〔孔明の矢集め〕のフィクション

に流用しているが、本家は孫権の、この濡須戦に於ける冒険なのでアリマス。

これは、危うく 転覆 しそうになった 話なのだが・・・・本当に転覆し、死んでしまった、笑うに

笑えぬ家臣が出た。濡須の河口を守っていた
メートルの巨将・董襲である!!

董襲は2代目・孫策が会稽へ進駐した時に、みずから出迎えて出仕して以来の猛将。殊に名高い

勲功は、黄祖戦の時に出現した巨大戦艦に対し、決死隊を組んで水中に潜り込み、みずから2本

の碇ロープを斬り除いて勝利を呼び込んだ事だった。

その董襲、今回の戦役では孫権と一緒に長江へと出撃した。だが艦隊が濡須の河口に着いた時

孫権から特別命令を授かった。
ここ濡須口に残り、万が一に備えて敵の進出を阻止せよ!」

そして、その大任を全うする為の、超巨大戦艦を与えられたのである。『
正史・董襲伝』には、その

超巨大艦船は何の説明も無しに只、
五楼船とだけしか書かれていないが、文字通りに解釈

すれば、5つの楼閣を有する巨大艦、もしくは5層構造の超巨大艦であろう。それを濡須の河口の

ど真ん中にデンと浮かべて水上要塞とし、最後の防衛線をかためよ!・・・・と云う名誉であった。

やがて孫権自身は艦隊を率いて、長江から濡須口で北へ曲り、敵影を求めて北上していった。

それから幾日が経った頃の夜半、突如、暴風が濡須口を襲ったのである!!


曹公が濡須に兵を進めて来ると、董襲は孫権に従って急遽、濡須に赴いた。孫権は董襲に命じ

五楼船を指揮して、濡須口を固めさせた。夜、突然の暴風があって五楼船は傾き転覆しかかった

側近の者達は快速艇を切り離すと、「将軍も之に乗って脱出して下さい!」 と伝えた。

すると董襲は腹を立てて言った。

「将軍の任を授かり、此処で賊軍に備えておるのに、 何で其れを放棄して逃げたり出来ようぞ!

重ねて其の事を言う者があれば、斬る!」 こう宣言したので、強いて彼の意志に逆らおうとする

者は無かった。 そして其の夜、 船が破壊し、董襲は 死んだ。


この
董襲の言動をして、部下の諫言を聴かぬ〔傲慢な猪部将〕・〔考えの浅い馬鹿な奴〕!・・

・・・とするのは、見当違いも甚だしいであろう。そうでは無いのだ。

もし是れが、曹操水軍の指揮官であれば、恐らく こんな行動を採らずに サッサと救助艇に乗り

移っていたであろう。 いや 曹操軍の部将に限らず、過去の 中国戦史を紐解いて見ても、沈むと

判っている艦と運命を共にする、などと云う行動を為したのは、この董襲が初めてであろう。

この董承の態度は、近代以降の海軍に於ける「提督」とか「艦長」が、己の愛艦と運命を共にして、

その責任と誇りとを最期まで全うする・・・・と云う、すぐれて高尚な 〔海兵魂・海将理念〕 の具現に

他ならないではないか!ーー蓋し、「呉の水軍」には、建艦技術を含めた、それ程の自信と誇りが

存在し、同時に 規範と愛着とが生まれ出ずる位の土壌が培われていた!ーーその事の証明なの

である。呉水軍の強さは其の操船技術のみならず、こうした精神性・スピリットの面に於いても亦、

他を圧倒凌駕していたのである。 是れを敢えていえば、魏・呉・蜀の3国に於いて、独立した組織

として【水軍
=海軍】を保有し、認識していたのは呉の国だけであった!・・・・のである。


その水軍の強さを身を以って知らされた
曹操ーー水上での戦いに利非ずと観て、陣地を陸上に

構え直した。 濡須の流れの西方一帯は、一応 曹操側の支配地域であったから、今度は 陸路を

南下して濡須口を目指したのである。孫権側とて予め其の作戦が在り得るを想定し、守将を配備

してあった。 その部将は、『都督の公孫陽』 と、唯1ヶ所に 名のみ出て来る人物で、詳細は一切

不明なのであるが、都督は 総司令官を指す尉官であるから、1軍を率いていた事になる。 但し、

都督クラスの人物に「伝」が無いのは面妖しいから、水増し報告
=曹操の伝に華を添える意味でのオベン

チャラ
である可能性の方が高くはある。ーー『正史・武帝紀』にはーー

春正月、軍を濡須口に進め、孫権の長江西岸の陣営を攻撃して撃ち破り、孫権の都督・公孫陽

を捕虜とし
』・・・・との記述が在る。 つまり、水上戦で1敗した後、曹操軍は 地上戦で借りを返して

1勝し、戦績は互いに1勝1敗のタイスコアーに持ち込まれた訳である。尚、その戦闘を想像する

に足る史料は皆無である。ーー兎に角、それ以後は双方まったくの膠着状態と成り、その後は只

睨み合いだけが1ヶ月余も続いた・・・・・ この間の、大局には影響ないエピソードとしては中郎将・

【徐盛】の”座礁話し”が在る程度である。


『魏公が濡須へ軍を進めて来ると、徐盛は孫権の指揮の下で之を喰い止める為に戦った。或る時

魏が大挙して「横江」まで兵を進めて来た事があった。徐盛は他の部将達と共に横江に駆け付け

魏の軍を撃った。この時、蒙衝艦に乗っていたのであるが、激しい風に遭って敵方の岸部に座礁

してしまった。部将達はみな恐れて、誰も船を出ようとしなかった。だが徐盛独りは兵を率いて岸に

揚がると、敵陣めがけて突撃を敢行した。驚いた敵はバラバラになって逃げ退き、多くの死傷者を

出した。風がやんでから帰還した。孫権は彼の勇敢さを大いに称讃した。』 (正史・徐盛伝)

まあ、大勢には全く影響の無い話しではあるが、曹操軍は濡須の東側にも何某かの兵力を派遣

する場合もあった、と云う事は知れる。ーーが、所詮は、局地の小競り合いに過ぎぬ。


膠着状態の続く中、そこで軍師の【
荀攸】は進言した。

「情報によれば、益州に招かれた
劉備は白水関の2将を斬り捨て、いよいよ各隹城の攻撃態勢に

入った模様でございます。この事を孫権は、心良く思っては居りませぬ。 いずれ両者は 争いを始

めるに違いありません。ですから此の際は孫権を唆して、荊州を奪い返させる様に勧めるべきで

御座います。今ここで我々が孫権を引き付けて置く事は、ただ劉備に漁夫の利を与える事となりま

する。一刻も早く和議を結び、孫権が動き易くしてやるのが宜しいでしょう。」

劉備の蜀取りについては、続く 《第12章》 でメインテーマとして詳述するが、曹操が

西で関中、東で濡須と 駆けずり廻っている間に、劉備集団は着々と歩を進め、終に昨
212年

劉璋に対する
〔裏切りの軍事行動〕に踏み切っていたのである。

言われる迄も無く、曹操こそは其の情勢に最も敏感であった。而して曹操は答えて言う。

「劉備の奴は劉備。孫権は又、孫権じゃ。儂は他人の力を当てにしたりなどはせぬ。どうせ劉備と

孫権は、放って置いても、くっ付いたり離れたりで自滅の道を歩むだろう。そして儂は只、その両方

ともを各個に撃破するだけである。 とは言え、確かに今は未だ、孫権と雌雄を決する時では無さ

そうではあるナ・・・・。」

折しも此の時、孫権から2通の書状が届けられて来た。その1通にはーー

春水、方ニ 生ズ。 公、速ヤカニ 陣ヲ 退カレヨ。

春の雪解けに因る増水をダシに、休戦協定を申し込んで来たのである。更に付随の書状
ーー

足下アル限リ、吾モ亦 安キヲ得ズ。

ワハハハハ・・・・・其れを読んだ曹操、快笑して言った。

「さても孫権仲謀、正直な奴よ のう〜〜」


このあと曹操は、合肥の守将に【張遼】を指名、【楽進】を副将とし、更に【臧霸】

には、「皖」方面を任せる仕置きを為した。

かくて魏・呉の双方は兵を退き、曹操は月に業卩城に帰着する。ーーさても後から思えば・・・・


曹操の此の第一次濡須遠征の最大の目的は、孫権との会戦に
在ったのでは無く・・・実は荀ケ抹殺の為であった事が
見えて来るのである。大掛かりな芝居であった!!
       (ちなみに、ここまで思い切ったツッコミを入れたのは本書が初であろう。エッヘン、エッヘン?ゴホゴホ!?)
何故なら、邪魔者の居無くなった業卩に帰還した直後に、曹操を待ち受けていたのは・・・・途方も無い僥倖であったからである!!(詳細は第13章にて後述する)


蓋し、曹操の底意 を知らぬ世間の見た目上では、この第次・濡須の戦役
サスペンデッド・引き分け再試合に持ち込まれて 幕を閉じたのであるーーだが、
是れは・・・・双方に何らの 益も齎らす事の無い、そして此の後々まで、果てしも無く 繰り返される
事となる
東の激戦地に於ける緒戦に過ぎ無いのであった。





曹操から、子供扱いではあるにせよ、一応は褒められた
孫権仲謀・・・・

18歳の若さで、2代目・孫策の跡を継いで早や14年・・・・

31歳を迎えようとする今、支柱であった周瑜を喪い張紘も逝き、【董襲】までもが

死んだ。 然るに 其の幕下には、自分より若い部将達が多い。周瑜の指名を受けた
【呂粛】

諸事を統べては居るが、その人望や軍政家としての資質は明らかにガクンと劣る。

一体、この先、どうしたら善いのであろうか!?相談し、頼るべき相手を失った呉国の君主・孫権仲謀に、果してどんな未来を描く事が出来るのであろうか!?  



この少し後の事、 孫権は諸将を集めて、酒宴を張った。場所は此処・・・・

濡須塢の野外。曹操は合肥の守将として張遼 (楽進・李典)を配して

帰って行った。之に対するに孫権も亦
濡須の督に周泰を指名し、平虜将軍号を

与えた。そして其の配下部将として、若い【朱然】や【徐盛】などを配した。処がであった。誰も彼も

周泰 を軽く見て、その言葉を無視するばかりか、小馬鹿にして 命令さえも聞かぬ有様と成って

しまったのである。その理由は周泰の出自にあった。賤しい家柄、所謂「寒門」の出で学問も無く、

己の命1つを賭けて出世して来ていたのだった。ーー孫権が彼の慎み深い勇敢さを愛し兄の許し

を得て第1番目の家臣にして貰った直後、実際周泰は命を張って、孫権を山越の襲撃から救って

いた。(既述)  爾来、孫呉の全ての戦役に従軍し、武勲を立てて来ていた。 朱然や徐盛なぞ未だ

生まれても居無い以前からの功臣であった。にも関わらず嘴の黄色い若僧までが彼を疎んじた。

之を知った孫権は周泰の人柄と辛さを思い遣り、わざわざ濡須塢まで出向き、この盛大な酒宴を

開催したのである。・・・・・孫権は手ずから酌をして廻り、周泰の前まで来ると、彼の上腕を掴んで

滂沱と涙を流し、周泰を字で呼んで言うのだった。

幼平どの、貴方は私と兄の為に、熊や虎の如く勇敢に戦い、身体も命を惜しまれる事無く働いて

数十の傷を負われ、皮膚は 切り刻んだかの様だ。 私は貴方を 肉親と同様の 篤い関係で以って

遇し、兵馬の指揮と云う重要な任務を委ねずに居られようか!貴方は呉にとっての功臣であり、私

は貴方と栄辱を共にし、喜び悲しみを同じくしたいと思う。幼平どの、貴方が思う通りに事を運んで

呉れ給え。寒門の出身だからといって、遠慮される事は無い!


そして周泰に命じて上着を脱がせ、孫権は其の傷跡を指さしながら、どの様にして其の傷を受けた

のかと尋ね、周泰は1つ1つの昔の戦いを思い起こしつつ答えた。それが終ると上着を着直させ、

孫権は自分が何時も用いている帽と青い衣笠 (主君専用の日傘) を授けた。そして宴は終夜続いた。

やがて宴会が果てると、孫権は其の場に留り、周泰には歩騎兵の隊列を組ませ、太鼓や角笛の

軍楽と鼓笛隊の演奏をさせて栄誉礼で見送った。 ーーその後では、もう 誰一人として周泰を軽視

する者は居無くなった・・・・。

ーー好い光景だ。 だが然し、切なくもある。 そんな事に迄も気を使わなばならぬとは・・・・




時は今、西暦214年、建安の19年を迎えようとしている。そして此の214年こそは、三国志中盤に於ける最大のエポックと成るのである!!俄然、本書・三国統一志も、風雲急を追って息も吐けない 慌しさの渦中に 巻き込まれてゆく事となる!!
【第173節】 鈍牛、月に吠える (賢君の苦慮)→へ