第171節
Jの悲劇
                                  謎の死 の 謎

ーー分からぬ・・・・どうしても分から無い・・・・

最後は美意識の問題、美学の領域だと想う・・・・だが、それすらも分から無い。一応のそれらしい

推測・憶測なら幾等でも湧き出して来る。だが、究極としては断定できる事の不可能な謎・・・・深い

歴史の闇に閉ざされた儘、永遠に謎の儘ので在り続ける謎ーーそれが
Jの悲劇である。

ちなみに、
J とは・・・・荀ケであり、悲劇とは・・・・彼の不可解な死を指す。


三国志には多くの謎が存在するが、一個人の死としては、最大の謎と言えるのではないだろうか。

無論それは、濃密な
曹操との間に起こった主従関係・社会背景に基づく人間的な帰結である。

そして又、多くの歴史学者や小説家などが、夫れ夫れ結論めいた断定を下してはいる。然し、どれ

1つとして、我々を心の底から納得させ得るものは存在して居無い。それが現状である。

一体、あの、世にも稀しい
極めて美しい君臣の間柄!と人々から謳われた2人が、何故

そこまで行き着かなければならなかったのか? その悲劇に至る、必然性は何処に在ったのか?

どの時点から、この悲劇は 進行していたのであろうか?  「死」 と云う形でしか収まらなかった、

その、のっぴきならぬ関係とは果して如何なるものであったのであろうか・・・??

畢竟、この謎を解明してゆく作業は、荀ケと云う人物の真実をフィルターとして、曹操と云う人間の

晩年に潜む”業”を探る事とも重なるであろう。何故なら、この悲劇の主導権は一に曹操が握って

いたのであるからである。


その悲劇が起こったのは「
関中平定」から凱旋して迎えた、翌212年後半の事である。

『ーー
折しも 、孫権征伐が行われたが、太祖は上表して、言焦に於ける軍慰労に荀ケを派遣して

貰いたいと要請した。そのまま荀ケは軍中に引き留められ、侍中・光禄大夫として節旗を持ち、

丞相の軍事に参与した。太祖の軍が「濡須」に到着した時、荀ケは病気になって「寿春」に残留し、

憂悶の裡に逝去した
。 時に50歳であった。敬候とおくり名された。


これが『
正史・武帝紀』に記された表向きの事情である。無論、実際は、そんな綺麗事では無い

事は、既に当時から取り沙汰されていた。何故なら・・・・その憶測の元となる曹操周辺の動きが、

この
年の劈頭に俄然、急を告げていたからである。取り合えず其の状況から観てゆく事としよう


曹操が其の狙い通り、横綱相撲を取り終え、一応は天下への面目を施した格好で「長安」から

業卩城」に凱旋したのは、212年正月であった。・・・・だが〔関中平定戦〕の勝利は

謂わば、ゲリラの掃討戦に成功した様なもので、大国の正規軍を相手にした戦捷では無かった。

だから世の中の眼は、決して未だ、失墜した曹魏政権の権威が完全に復活した!とは観て呉れて

居無かった。その不信感を払拭する為には矢張り、赤壁で破れた相手の「呉国」を、直接に叩いて

見せる事が必須であった。そこで「
西」から戻ったばかりの曹操は、5月ーー人質同然だった

業卩
在住の馬騰を筆頭にした馬一族を皆殺しとし、韓遂の妻子も殺害

その見せしめとした後、直ちに今度は
「東」への遠征・孫権との戦いの準備をし始めた。そして、

この年の
10月には呉への遠征に及ぶ。(※第1次・濡須口の戦い=次節にて詳述)



然し其の間
曹操は明ら様な変容に踏み切り、それを立て続けに実行する。

この
正月・・・・曹操は賛拝不名入朝不趨剣履上殿の殊礼を

献帝から賜わる。賜わるとは言うが、水面下での要請があった事は言う迄も無い。

天子が曹操を呼ぶのに本名を呼ばずに敬称で呼び小走りで走らずに天子同様ゆったり歩ける

剣を帯び履をはいたまま昇殿
して構わない・・・この特典は前漢建国の功臣であった丞相・蕭何が

初めて許されたもの。然し以後は大漢帝国四百年の歴史の中でも、王莽・梁冀・董卓の4人にしか

与えられて居無い。蕭何以外の顔ぶれを見れば判る通り、何れも事実上の王朝の簒奪者で占め

られている。それを承知で曹操は、敢えて5人目と成ったのである。その企図する処は明白である

ーー皇帝と同等に近づく・・・・近づき、いずれは
権力欲剥き出しの姿と成った。

更に曹操は、明確な魏国建設に乗り出した。筆者は是れまで曹操政権を指して「曹魏」

だとか 「魏」 と云う書き方をして来ているが、実の処、それはフライングであり、決して正式なもの

では無かったのである。無論、当時の人々は実を取って「魏国」とは言い合っていたのではあるが

天下統一をした上での魏国樹立!のグランドデザインが崩壊した曹操としては、

急遽、路線を変更して、
分裂王朝を前提とした魏の建国 に向って、遮二無二

動き出したのである。・・・・その第一歩が、
魏郡の領域拡大であった。

隣接する
郡から合計14県を強制的に合併した。之は将来、魏郡を中心とした「冀州」 の行政

区画を、同様な手法で更に拡大
(州の併合を為)し、業卩の在る冀州を、天下最大の州に格上げし

魏国の中心に据える為の端緒であった。要するに、先ず魏と云う国のコアを作り上げてしまう事で

あった。コアさえ作れば、あとは其れを押し広げてゆける。そして事実、2年後には決行される。

詰り正式に魏国の成る為に、先ず領土確定の下準備に着手したのであるーー当然、その視線の

先に在るものは
魏王朝の樹立である。

但し現実的には先ず
〔魏公〕次には魏王、そして・・・!! と云う段階を踏む

必要があった。 だから、この措置は、取り合えず〔魏公〕就任の為の作業だったと云う訳である。

だが、それを今から 余りにも 前面に押し出すと、何かと差し障りがある。 そこで曹操、一方では

姑息な ”眩惑策” をも実施して見せる。

この212年の
9月ーー曹操は、献帝が息子(皇子)4人を夫れ夫れ「王」に立てる事に同意して

見せるのである。だが本音としては、
206年に八王国の取り潰しを実施していたのだから、その

姑息さは見え見えである。く しく も益州の許靖 (のち劉備の家臣と成る) は、その真相を看破して

曹操を嘲笑った。「何かを縮め様と思えば、必ず一旦それを大きくして措き、人の物を奪い取ろうと

思う者は必ず一旦それを与えて措くものサ!


然し、こうした曹操の動きを見て、その底意を察知した オベッカ 使いが居た。と言うより、遅かれ

早かれ、曹操自身が、そう仕向けたではあろう、黒子の登場に過ぎ無い。

その男の名は
董昭・・・・東帰行の途中、安邑に在った献帝の元へ行って議郎と成って以来、

一貫して曹操に肩入れし、遂には「献帝奉戴」を実現させた。以後は曹操のブレーンとして昇進を

重ね、現在は丞相軍祭酒の重職に在った。その董昭が中心と成って案出したのが・・・・

魏公に相応しい賜わり物ーー九錫賜与であった。

九錫とは、天子が賜わる9つの器物。原初は「周王朝」の時に、諸候を封建する場合に用いられた

器物に由来する。又、九錫の始まりは、前漢から帝位を奪った「王莽」が賜与された事に因る。

@大輅・戎輅・・・ (天子専用車)  と  玄牡ニ駟・・・ (4頭立ての馬×2)
A袞冕・・・ (天子の衣服)  と  赤冩・・・ (履物)
B軒懸の楽 ・・・(編鐘) と  イ月の舞・・・ (36人の舞手)
C朱戸・・・(朱塗りの門扉)
D納陛・・・(遮蔽のブラインドを施した階段)
E虎賁三百人・・・(近衛の勇士)
F斧・鉞
G
丹彡弓1・丹彡矢100 (朱塗り)  と  旅弓10・旅矢1000 (黒塗り)
H秬鬯一占 (薬草酒1樽)  と  王贊 (玉製のヒシャク)


この九錫を案出したのは、どうも、この曹操の時が最初らしい。(王莽の時には九品無かった)

但し、その持つ意味合は大きかった。 王莽の”前例”を踏襲するならば・・・・そこには必然的に

禅譲
王朝の譲り渡しの意味が付与されて来るからである。もっと都合よく解釈するなら

天下を統一せずとも (天命が革まらなくとも)現在の天子から
その地位だけを譲り受ける事が出来る
・・・・・・

その資格を獲得する為の朝廷から認知ーーそれが、この九錫の意味であった!


この董昭、実は是れ以前にも、似た様な進言を曹操にしていた。

「古代の5等級の爵位制度を復活すべきだと存じます。」

「それは聖人が設置したものであり、とても儂ごときが手を染められる事柄ではない。」

曹操が一応謙遜して見せると、董昭は 縷々先人の例を並べた後、曹操の功績は それ等を凌駕

しているのだから、なんら躊躇する必要は無い!と主張。

「明公には威光・恩徳にすぐれ、法律に拠る統治の術に明るくおわしますものの、基礎を定めない限り、万世の計画を打ち立てるには、未だ距離が御座います。基礎を定める根本は、土地と人間に在ります。宜しく段々と藩国をお立てになり、みずからの楯と為さるべきと存知ます。」

つい最近、『覇王留り宣言』 をして見せたばかりの曹操が、実は 《内心に企図している野心》 を

代弁してみせたのである。曹操が満更でもない顔をしたのは当然であった。その反応を確認した

【董昭】は、もう誰に憚る事なく、神輿の担ぎ役を買って出たのである。




だが然し・・・・このアイデアに、最も反対するであろうと予想される人物が居た。然も、その人物は

誰が見ても、曹魏政権が此処まで巨大に成っ来た、
最大の功労者で在り続けて居た。

何事も彼に相談し、お伺いを立ててから曹操の所へ持ってゆく・・・・それが慣例であった。だから

【董昭】は、その説得に乗り出した。いや一応、その顔を立ててみせた。 案外、曹操本人からの

示唆が有ったのかも知れない。 『献帝春秋』は、その書簡とされる文面を掲載しているが、まあ、

内容はクドクドと曹操の業績を論い、魏公就任を促すのは当然の趨勢である!・・・・と謂うもの。
それに対し、かの人物・
荀ケは言い放った。 

丞相が義兵を興されたのは、朝廷をお救いして国家を安寧に導こうとの御考えからである。故にこそ公は、爾来一貫して天子への忠誠を保持し、謙譲を守り通されて来たのだ。 飽くまで”徳”を重んじて対処する。 是れが君子たる者の態度である
出すぎた真似は、お止め為さるが善い!!


それを言ったら、どんな事態を招くか!?・・・・覚悟の上の阻止宣言であった。 だが、よく考えて

みると、この発言だけでは、決して荀ケの”真意”は語り尽くされては居無い事に気付く。確かに

董昭=曹操の思惑を明確に弾劾してはいる。然し、肝心な、その論拠・意志がナ辺に在るのか?

その最も重大な内容は記されて居無い儘なのである。其れが謎の究明には大きな支障となる・・・


とは言い状、荀ケの置かれて居る立場の変化が、我々に1つのサデッションを与えては呉れる。

赤壁戦直前の208年7月、少府の【
孔融】が粛清された。その時までは荀ケは「」で居られた。

漢王室を守る矢面には常に、この孔融が身を挺して立ち続けて居て呉れたからである。記憶の良

い読者は覚えて居られる筈だが・・・・廷臣の楊彪が拷問されそうになった時、その担当官であった

満寵の元に駆け付けて説得したのは、孔融とこの荀ケの2人であった。その後で曹操と直接に渡

り合い、啖呵を切って事を収めたのは孔融の方であった。荀ケの方は「影」で在り得たのだった。

だが、その孔融亡き後、漢王室を守る「
」の顔としては、一体この荀ケ以外に誰が在ったであろ

うか!?尚書令【
荀ケ】は亦、議郎であり、光禄大夫(近衛長官)でもあった。公式な位置としては、

曹操の家臣では無く、
皇帝の臣下なのだったそして事実上は、曹操政権と漢王朝の双方を結ぶ

唯一の大重鎮であった。ーーと云う事は・・・「董昭」の推進する〔九錫賜与〕のアイデアは、荀ケの

進言によってストップさせられると云う事である。もっと進んで言えば、〔魏公〕任命の詔勅も、荀ケ

が居る限りは下されず、遂には実現しない・・・と云う事に繋がる。事実、この年には九錫の賜与は

行なわれ無かったのである!


ちなみに、この発言の以前、荀ケが最後に史書に現われるのは補注の『魏書』で、関中平定直前

210年に曹操の命を受け、関中に駐留していた 治書侍御史の「衛覬」の元へ行き、関中の

情勢および対策について質問。その文治方針を聴いて曹操に上呈している。

ーー余ほど曹魏政権にとっては不都合な事が在ったのであろうか? あの「孔融粛清」後に、陥落

させた荊州から、曹操が荀ケあてに手紙を出した・・・・との記述を最後に、史書は全く荀ケに触れ

なくなり、上記の2つの記事しか存在しないのである。削除を迫られるか、史料の抹殺が行なわれ

た為に書け無かったーーとしか思えぬような豹変・シカトぶりである。前半の華々しい活躍ぶりとの

落差が余りに大き過ぎて不自然極まり無い。その数年間の史書の空白が示す謎とは何か?ここ

にも謎を深める理由が存在しているのである。

  

その猛反対が、直ちに曹操の元に報告された。それを聴き終えた瞬間、その瞬間・・・・この、

正に 
此の一瞬こそが、最大の問題である!!

「ーー・・・・・!!」

《ーーどうして呉れようぞ!?》 曹操の奥処で、大きく何かが軋んだ瞬間であった。


ドス黒い激情が忍び寄り、渦巻いた。愛しさが昂じて、憎さが大きく広がってゆく。

《ーー殺す・・・・か?》 本気では無かったが、先ずその思念が浮かんで来た。最大の功臣であり、

掛け替えの無い友人に対してでさえ、そう思う自分を、我ながら非情で冷酷な奴だと思った。

「いやいや、そこ迄やる必要は有るまい・・・・」

口に出して独白してみた。だが、絶対にそうは思って居無い自分が在った。

余りにも相手が巨大過ぎる。「荀ケ文若」と云う一個の人間としてでは無い。『荀令君』と呼ばれる

彼の地位と権限、その人脈・周囲に及ぼす影響力がである。 生かして置けば、本人の意志とは

無関係に、その周辺、就中、漢王室に関わる廷臣・名士階層が動き出すに決まっている。

個人としてなら、不満を抱えた儘で生きて居て貰っても、荀ケ文若自身は決して直接行動を起こす

様な男では無い。それは100パーセント断言できる。・・・・だが、いざ、荀ケに生きて居て貰おうと

した場合、果してどんな方途が在ると言うのか??ーー隠居、引退、追放、蟄居、謹慎??

無かった。何処にも荀ケの生き残るべき安住の場所は、此の世には存在して居無い。

「ーー矢張り・・・・死んで貰おう・・・・」

其処に私情を挟む問題では無いーーと思う曹操が居た。

《彼の、公私に渡る俺への役割は既に終った。今や彼は、寧ろ俺の敵対者に成ってしまった・・・・》

生かして置くか、抹殺するか!?・・・・それと向かい合い、結論をだすべき時が、終に遣って来た、

という事だった。


「俺は、俺の覇業を邪魔する者は、鬼神と謂えども許さぬのだ!」

己を励ます様に、己の生き様を確認する様に、曹操は呟いた。

この地平まで遣って来てしまった以上、今さら互いに引き返し、己の信念を曲げる様な事は無い。

曹操も荀ケも、その点では互いに、相手の生き様が解っている。


ーーこう成った以上・・・・ 後は唯、双方が 大人同士の 最後の決着をつける方向で、破局を自己

完結させてゆくしかあるまい。

《ああ言い切ったからには、既に荀ケにも覚悟は出来て居ろう・・・・》



と筆者は描いてはみたのだが、果して正史・武帝紀』は・・・・『太祖ハ此ノ事ガ在ッテカラ
内心穏ヤカデハ居ラレ無クナッタ
』 と のみ記す。


その
初冬ーー曹操は、孫権矢報いる為の東征の軍を起こし、みずからが その

先頭に立った。 赤壁で失墜した権威を回復する為の、本格的な遠征である。 赤壁戦の直後に、

その敗北を糊塗しようとして行なった「合肥」迄の”遠足”とは訳が違った。

このとき曹操は、重大な解任劇を断行した。漢の朝廷と曹魏政権のパイプ役である「尚書令」を、

突然交代させたのである。無論その狙い撃ちに遭って解任された尚書令とは
荀ケであった。

この措置の主眼は、荀ケを献帝の側から引き離し、遠征軍に同道させる為であった。荀ケは侍中

であり、光禄大夫として献帝に仕える身であった。だから曹操は献帝に上表して、荀ケを軍の慰問

役として派遣して欲しいと申し入れたのである。思えば【荀令君】は、官渡の戦いでも、赤壁の戦い

でも、常に尚書令として「許都」に在って、後方守備を担当して来ていた。それを今度初めて外征に

引っ張り出そうと言うのである。是れ迄には前例の無い事であった。

その侍中・光禄大夫である荀ケには、更に(参)
丞相軍事の肩書が加わった。ここで注目すべきは

もう1つの肩書ーー〔
使持節〕である。これは遠征軍の将に対して殺生与奪の権限を持ち、皇帝の

名代である権威を現わす印である。詰り表向きではあるが、荀ケは曹操を監督する立場と成った

訳である。・・・・当然ながら、この荀ケに対する使持節の処遇は、献帝サイドの好意による。と云う

よりは、朝廷側には、〔大いなる危惧・憂慮〕 が存在していた 事の逆証明と謂えよう。

『漢朝廷の守護神とも言える、
荀ケの身が危ない!!

ーーせめてものシールドとして「節」を持たせてやろう・・・・

その緊迫した暗闘の雰囲気が満ち満ちた儘の出征であった。


天子が居る許都でならば〔憚られる様な事〕でも、遠征中の〔
不慮の事故〕であるなら、事は大きく

ならずに収まる・・・・曹操が考え抜いた挙句の”穏やかな決着”方法であった。

当然ながら、当事者である荀ケがその事情に気付かぬ筈は無いーーだが遠征軍は、何事も無い

かの如くに「
言焦」へ到着し、更に南の「寿春」を目指して進軍を続けた。その途中、諸将も普段と

変らず、親しく 荀ケに 語り掛けて来る。曹操も 時に 荀ケと轡を並べては、昔話しなどに穏やかな

時を過していた。思えば残酷な光景な筈なのだが、周囲に其れを感じさせぬのは流石と言おうか、

切ないと言おうか・・・・・・ 
(此処ら辺り以後の事情は、一切 史書に記述は無いのであるが、唯1、曹丕の遺した
典論・自叙に、其の時の事として、陣中で曹丕と対話を愉しむ姿が出ている)・・・・・

『のちに軍が南方に遠征し、曲蠡きょくりに宿した時、尚書令の荀ケが献帝の使者として軍を労ったが、余と会って論壇した末に、荀ケは訊ねたものだ。
「聞けばとのには左右いずれでも弓を射られるとか。是れは実際むづかしい技術ですなあ〜!」
余は言った。「執事じゅんいくにはあのうなじや口の辺りから放ち、標的(馬蹄)を俯して見、標的 (月支) を仰ぎ見る様子を見た事がおありにならぬかな?」 荀ケは喜びに笑いながら 「なるほど!」 と言った。

余は言った。「馬場の囲い(埒)には一定の通路が在り、標的は一定の場所に置かれている。発射する度に命中したとしても、至妙の事とは謂えぬ。もし平原を馳駆し、茂る草の中へ向い、狡猾な獣を狙い、軽やかな鳥を遮り、弓を空しく引き絞る事無く、命中したものは必ず貫通するとならば、其れこそ素晴しい事だ。」
当時、軍祭酒の張京が座に居たが、荀ケの方を見て手を打って 「ご尤も!」 と言った。・・・・』


これは曹丕が己の来し方を述懐した話の1部で、寧ろ自分の弓や剣術の腕前を語ったものなので

あるが・・・・此処には、直後の悲劇を予感させる様な雰囲気は丸で無い。寧ろ只管に歓を尽くして

(談論を愉しもうとする) 荀ケの姿勢・在り方が眼に浮かんで来る。ーー恐らく・・・・曹丕にとっても

”J”の悲劇は突然の事で在ったのであろう・・・・。



ーーやがて、復興中の「
寿春」が見えて来た。15年前、焼け糞になった袁術が、自ら火を放って

消滅させて以来、廃墟と化していたものが、やっと少し城邑の姿を取り戻しつつあった。が、往時

の姿には 未だ程遠かった。 戦禍に明け暮れた日々が、すっかり人々から怨嗟され、戻って来る

気力を失わせていたのだだった。

《これが、寿春なのか・・・・!?》 荀ケは、その荒れ果てた光景の責任が、全て自分に在る様な

気がした。己は常に後方の王宮に在って、遠い地方の現実を 直接眼にする事が無かった。

《それがどうだ!是れが中国の実際なのか?》

自分が拘り続けて来た、漢王朝の治世だったのか!? 今も 許都の宮殿の一角で、煌びやかに

居わす漢の天子の御世であったのか!?ーー切なさが急に吹き上げて来た。


《ーーここら辺が、潮時・・・・か・・・・》

荀ケは独り、密かに 呟いてみた。すると、本当にそう思えて来た。




寿春は未だ後方基地に当たるが、その先の合肥更にに南の濡須口は、もはや最前線である。ーー10月、曹操軍はその「寿春」を発って最前線へと向った。
・・・・だが、その軍中に、最早
荀ケの姿は、無かった。その前日ーー


「どうも具合がすぐれませぬ。此処が痛みます。」

荀ケは己の胸に手を置きながら、曹操の目を見て言った。

「暫し お暇を戴いて、休養したいと存じます。」ーー存じますが、とは言わなかった。

曹操、限り無く労しい表情で、その眼差を受け止めた。

「そうか、長い間、本当に御苦労であった。ーーゆっくり休むがよい・・・・」

「はい、御言葉に甘えさせて戴きます。殿も、余り御無理は為さいませぬ様に。」

水底の如き、静かな遣り取りであった。

「いずれ又、何の屈託も無い所で会おうぞ。」

「はい、そう致しましょう。」

「文若は好い男じゃ・・・・」

「殿も愉しいお人です。」

「さらば、じゃな。」

「おさらば、で御座います。」


ーーそれから程無くして、荀ケは逝った。享年は50であった。その死因は定かでは無い。

以上が、分かる範囲での、Jの悲劇の”顛末”である。ーーだが”真相”では無い。また、

憂悶ノ裡ニ逝去シタ・・・と云う『正史』の記述の謎はカバー出来て居無い。寿春に残った

(残された)場面も、実際はもっと暗い雰囲気の、監視付き軟禁状態であったかも知れ無い。

荀ケは、そんなにスンナリとは、己の死を迎え入れ無かったかも知れない。いや寧ろ、その方が

「憂悶」と云う語の意味に近いであろうと想われる。少なくとも、何処かで納得していた部分があれ

ば、憂悶と書かれる謂れは無い。不条理・不合理な死であったればこそ、陳寿は敢えて「憂悶」と

云う語を付与した筈である。病死でも憤死でも無い。そうであれば他の例の如く、そう書く。だから

絶対に病死・自然死では無かった。 敢えて言うなら 「自死」 であったろうか?ーー強要された死、

殺人同然の強制された死であった・・・・たとえ形としては、自ら命を断った と してもである。


潤色の多い事で知られる孫盛の『魏氏春秋』は、その事情を、さも真実らしく 以下の如く記述して

いる。が、この場面だけが潤色無しだとは言えまい。有名なので紹介はして措く。

『太祖は荀ケに食物を贈った。荀ケが開けてみると・・・・其れは
 空っぽの器だった。その為、荀ケは毒薬を仰って自殺した。』

だが其の一方で、我々の心の何処には、2人の美しき日々の幻影が、強くこびり付いて離れない。

公私に渡る理想的な君臣関係ーー互いを補い合い、謙譲と信頼に拠って高め合って来た王者と

王佐。・・・・だから、曹操は果して其処までやったのだろうか??と云う疑問が払拭し切れ無い。

ーーいや、今の曹操なら矢張り、そんな感傷はバッサリと切り捨てたであろう。

ーー寧ろ問題は、荀ケの態度の方ではないのか?鬱病にでも罹っていたのではないのか?

ーーいや、双方ともが、是れを望んだ必然の帰結であったのだ。

ーーその原因は曹操の老化だ。単に 堪え性 を 失っていたからだ。

ーー最初から2人は、ボタンの掛け違いの儘で出発していたのサ。 気付いた時にはもう、後戻り
   出来ぬ地平まで来てしまっていたのだ。

ーーいやいや、責任は全て曹操の変節に在る。初めから新王朝を建てるなど想っても居無かった
   のに、途中から欲が出たのだ。荀ケは、その野望の犠牲にされたのだ。

ーーそうとばかりは言えまい。荀ケだって献帝奉戴に際しては、それを覇業のダシに用いるべきだ
   との戦略を立てていたではないか。

ーー結局荀ケは、個人では在り得無かったのだ。名士階層の代表者として、いずれは曹操と対決
   せざるを得無い場所に立ってしまったのだ。

ーーまあ最後は、荀ケと云う人物の純粋さが齎した悲劇なのだろう。己を時代に合わせて適当に
   妥協させられぬ一徹さが大きな因子と観てよいのではなかろうか。




その死後、荀ケは「敬候」とおくり名される。だが、その後のリアクションについては一切の記述が

省かれている。曹操は郭嘉が死んだ直後に、あれほど号泣し続け、荀ケに愛惜の心情を吐露し

続けた事が連綿と記されているにも関わらず、その何倍も深い関係に在った荀ケに対しては、唯

の1文字も伝わらないーー曹魏も4代目の244年11月21日・・・・魏朝廷は旧臣の遺徳を偲んで

荀攸の霊を曹操の霊廟の前庭に祀った。だが此の時も尚、「荀ケだけは除外される」のである。

この一貫した魏朝廷の態度の方向性が、
〔Jの悲劇〕の真相を指し示しているのであろう・・・・


191年ーー袁紹の元を去り、曹操に出仕・・・・29歳であった。
192年ーー司馬として曹操の兌州割拠を佐ける
193年ーー徐州大虐殺の間に呂布が兌州に蜂起。3城を死守して曹操の帰還を可能にする
194年ーー呂布との決戦を焦る曹操を諌め、内治の充実と今後の戦略を明示する
195年ーー曹操は呂布を定陶で破り、兌州を固める
196年
ーー曹操、青州黄巾軍を併呑。献帝奉戴を進言し実現させる。爾来「尚書令」の任。
197年ーー張繍に破れるも、許都の荀ケへ復活を誓う手紙を送る
198年
ーー籠城する呂布に対し、水攻めを進言。滅ぼす。
200年ーー官渡で袁紹に押しまくられ、弱気になった曹操を一喝奮励。
粘り勝って大逆転勝利を得る。この時の「至弱を以って至強を破る!」は名言として世に伝わる。


以後、『太祖ハ 軍事・国事ニ関スル 全テノ事ヲ、荀ケニ 相談』 した。


又、荀ケの大功績の1つには、人材の推挙があった。ーー荀攸・鐘遙・郭嘉・陳羣・司馬懿・王朗・

音欠・希慮・戯志才・杜畿・荀悦・辛比・趙儼・杜襲・仲長統・丙原・厳象・韋康・衛覬などなど・・・・

多くの人物を招いていた。

頗る付きの美丈夫でありながら、真に頭の低い人柄で、誰に対しても等しく接した。 また、偏屈で

有名だった程立の夢の話しを持ち出して「程c」と改名させたり、曹丕との狩猟談議が伝わるなど

帷幕内の潤滑油的役割をも果して居た。 出世欲や私的な物欲の全く無い清廉な人物であった。

曹操からの再三に渡る顕彰も固辞し続け、謙虚で節倹に生きた。

それでも207年には、領邑千戸を加増され、合計2千戸と、曹一族より上の待遇を授けられた。

更に曹操は、自分の娘を荀ケの長男に娶らせ、親戚にまで成っていた。曹操が絶賛する上奏文

の数は限り無く『
忠義公正、よく緻密な策略を立て、国の内外を鎮撫した者としては、荀ケが之に

該当し、荀攸がその次に位置します』 と言い切り、『
荀令君は善を推し進め、荀軍師は悪を除去し

除去し終わるまで止めなかった』 と称讃した。

司馬懿仲達】も常々、荀ケを讃えて こう言っていた。『書物に書かれている事や遠方の出来事、

それ等を儂は 自分の眼や耳で見たり聞いたりしているが、百数十年間に亘って、荀令君に及ぶ

賢才は存在しない!』

傅子』は・・・・・『荀令君は仁愛をもとに徳性を樹立し、聡明さによって賢人を推挙した。その行動

には阿った処や不正な所は全く無く、計策はよく変化に対応するものであった。
』 と述べる。


正史』はその”評”で・・・『荀ケは涼やかな風貌、道理を弁えた態度、王佐の風格を備えていた。

然し、時運を認知し先見の明がありながら、自己の理想を完全には実現する事は出来無かった


ーーとするが、「
斐松之」は之に納得せず、猛抗議している。


『魏の武帝に、衰えた漢朝の忠臣として 終始する意図の無い事を、荀ケともあろう人が、どうして

知らなかった筈があろうか!まことに当時は、王道すでに廃れ、邪流すでに蔓延り、英雄豪傑は

虎視眈々と機を窺い、人々みな心に二心を抱いて居ると云う状態であった。もし乱世を正す資質、

時勢に沿った計画が存在しなかったならば、漢王朝は忽ち滅亡し、人民は滅び尽きてしまった事

であろう。 そもそも時代の英雄を補佐し、行き詰った世運を打開しようと 願うならば、この人物に

協力せずして誰と協力せよと言うのか?これが為にこそ、天下の激しい病を治める事、我が身を

救うのと同じく、困難の中でよく行動して、世の建て直しに成功したのである。万民は助け船に救い

上げられ、漢王朝は2紀に渡って命運を延長する事が出来た。是れこそ荀ケの本意、その仁愛が

遠くまで及んだ成果ではなかろうか。 武帝の覇業が成功し、漢王朝を滅亡させようとする行動が

歴然となるに至り、初めて彼は身を殺し節に殉じて、平素の心情を明らかにし、当代に於いて正義

を全うし、百代の後まで真心を伝えたのである。

遙かな道のりを重荷を背負って歩き、理想を実践し正義を樹立した・・・・・と謂う事が出来よう。

是れを、「その理想を完全に実現する事は出来無かった」 と評するのは、出鱈目に近い。


ーーいずれにせよ、
Jの悲劇・・・・即ち・・・・



荀ケ1つの時代終焉であり
正直さ との 訣別であった・・・・ 【第172節】 東の激戦地 (祖国防衛のシンボル)→へ