第170節

                                大草原 の 単馬会


兵之變化固非一道也
兵の変化は 固より 一道に非ざるなり!

文武百般ーー「檀公36計」、「六韜」は勿論、「孫子の兵法書」を精選編集して後世に伝えた軍神曹操・・・・その軍神が西方遠征後に、家臣の質問に答えた述懐である。
総じて謂えば(死ぬ目には遭ったが)、この関中平定戦は、曹操会心の一戦であった

・・・・と、(後からなら) 言えようか。



下手をすれば、『あわや一巻の終わり!』 であった曹操・・・・危うく 許猪の御蔭で命拾いした後、

気を引き締め直すと、今度は慎重過ぎるほど慎重に1歩ずつを進めて行くのである。

黄河を北に渡った先は「河東郡」であった。 此処は曹操が終始一貫して、『
河東は儂の手足とも

言うべき郡であり、充実した地域であって、天下を制するに充分な内容を持っている!
』と重要視

して来ている郡であった。そして、あのコツコツ屋の【
杜畿】が治めていたから、何の懸念も無しに

次の準備に取り掛かれた。ーー次なる軍事行動は・・・・この河東郡で”大曲北”している黄河を、

今度は 〔西に渡河する〕 事であった。 無論、渡河後に南下して 渭水に臨み、出来うれば賊軍の

背後を遮断する 事が最大の狙い ではあった。 だが先ずは西への渡河である。 但し、ただ単に

将兵が渡河すれば済む訳では無かった。より重要なのは、輜重の輸送・運搬問題であった。

この後いつ迄続くか判らぬ遠征の全期間を通じて、絶え間なく兵糧を送り続けられる、安全確実な

〔輸送ルート〕を構築設営して置く作業が残されているのだった。 一旦、黄河を西に渡れば、其処

からは全てが敵側の支配地域なのだ。遠征軍が前進すればする程、補給線が伸びる事となる。

伸びきった線の途中を襲われて寸断されれば、遠征軍は補給を受けられずに撤退を余儀なくされ

潰滅する・・・。焦ってはならない。事前の準備を周到にする事だ。


ーーだが此の時、西への渡河をスムーズにさせて呉れたのは、先に密かに命じてあった【
徐晃】と

朱霊】の先遣部隊であった。 この先遣部隊は闇夜を利用して 「蒲阪津」を対岸に渡り、其処に

揚陸拠点を設営し終え、後続する本軍の到着を掩護したのである。 その以前、渡河した直後を

「楊秋」が襲っては来たが、撃退されてからは遠方に逃げ去っていた。その後は 着々と砦を築き

防塁を固め、万全な構えと成っていたのである。その御蔭で曹操軍は悠悠と黄河を西に渡る事が

出来た。但し本軍将兵が渡り終えた後も、陸続として輜重の搬送は続いた。今後も続く。その仕置

一切を担当するのが【杜畿】であり【張既】であった。



さて、この〔
輸送ルート確保の重大性〕を強く認識した曹操・・・・その設営に於いて、流石の新機軸

を具現して見せた。ーー手間ヒマ掛けた
甬道ようどう作戦に出たのである!!

甬道とは、その道の両側に防禦壁を連ねて、ゲリラ攻撃に備える地上のトンネル

地面だけは除いた
小型版・万里の長城だと想えばよいであろう。

その甬道を、蒲阪津から南へ、渭水の北岸迄の延々30キロに亘って構築させたのである!

やるとなったら徹底的にやる・・・・安全確保に万全を期したのである。

無論、この遅々とした曹操側の動きは、「潼関」に陣取って居た【韓遂・馬張側】にも伝わった。

「曹操め、我等の背後に廻り込む心算じゃな。西に少し戻って陣を敷こう。渭水を渡ろうとする処を叩き潰して呉れようぞ!」

潼関は、渭水の河口
(渭口) よりは、少し東寄りに位置していた。そこで連合軍は直ちに西行して

曹操軍の甬道の終着点である
渭口 (黄河との合流地点) へと走った。ーーかくて曹操軍と韓遂・

馬超軍は、今度は渭水の河口を 南北に挟んで、「渭口」に対峙する事になった。 だが、このまま

いつ迄も、こうした 睨み合いの 膠着状態 が続けば、 戦局は 地元の利を活かせる 連合軍が、

益々有利と成ってゆく。 一刻も早く、渭水を南に渡ってしまわなくてはならない。少なくとも渭水の

南岸に
橋頭堡だけでも確保し、本軍の移動を容易にする措置を講じて置くべきであった。


ーーそこで
8月・・・・曹操はまた”奇策”を用いる。先の〔甬道戦術〕が堅実を旨とする

王道作戦であるとするなら、今度みせたのは敵の不意を突く
奇襲作戦の妙であった。

夜の星明りの中、浮き橋作戦を決行させたのである!!

船を数珠つなぎに並べて浮かべ、その上を次々に
橋頭堡確保部隊が渡るのである。

渭水の河口は黄河ほどの急流では無い。それを巧みに利用したのである。物音を消す為に馬の

口には枚を喰ませ、隠密行動を徹底した。無論、渡河地点は「渭口」に駐屯する連合軍の正面を

ずらした、やや上流・西寄りの場所である。・・・・・だが単に是れを実行したのでは、直ぐに敵側に

悟られてしまう恐れがあった。ーーそこで曹操、敵の眼を欺く
眼晦まし を施した。
大量の
ワラ人形を作らせて陣中に並べ置きその背後で赤々と篝火を焚いた。そうすると

影と成ったワラ人形は、対岸の遠目からは恰も兵隊達が其処に宿営して居る様に見える訳だった

その”奇略”に連合軍はすっかり騙された。・・・・暗闇の中、事は無事に進捗した。 渡り終え次第、

各部隊は直ちに 防塁の構築に取り掛かかった。当然予想される敵の猛襲に備える為であった。

この時、謀臣・【
婁圭ろうけい】は、氷の一夜城を出現させたとする伝説も生まれている。この

211年は閏8月が在った為、今月とは言え、季節は冬に入っていた。だから婁圭は、渭水に

泥を捏ね合わせ、朝方の寒気で其れを氷らせて「氷の防塁」を築き、時間稼ぎを果した・・・・と謂う

ものである。まあ九分九厘、眉唾であろうがーー兎に角、翌朝に馬超が気付いて襲い掛かった時

迄には、既に防禦体制は完成していた、と云う事である。 ばかりでは無かった。曹操は事前に、

もう1つの策を授けて置いたのである。・・・・泡を喰らって、直後に攻めて来るであろう敵の襲撃に

対して
伏兵を潜ませて撃退せよ! ー→結局、全て曹操の作戦通りとなった。その後、この

先遣部隊は更に防塁を高くし、渭水南岸に於ける”橋頭堡”の要塞化に成功する。こうして措けば

この後に続く 、本軍の南岸への揚陸は非常に容易となる。


かくて〔甬道作戦〕〔浮き橋作戦〕と、緩急自在に軍略の妙を使い分けて見せる

曹操・・・・だが是れ位の進展では、韓遂・馬超側の意気が挫けよう筈も無い。頻りに書簡を寄越し

て来た。その内容は、『黄河以西を、正式に我等に割譲せよ。さすれば講和に応じよう!』 と云う

ものであった。今の段階で、そんな虫のいい要求を出して来るとは 片腹痛い。当然、曹操は無視

した。そしてグイと、次の作戦を断行した。



9月、ついに
本軍主力を渭水南岸の橋頭堡に揚陸させたのである。

この軍規の峻厳さを要求される
渭口渡河作戦の指揮官は、厳格さの余りに
ツル禿げの刑を受けた程の
楊沛ようはいであった。その際の【エピソード】・・・・・

『楊沛は遠征軍に随行し、孟津の渡河作戦を指揮した。太祖が既に南に渡り、その他の者が未だ
渡り終えない時に、
中黄門が (宦官ー→曹魏も宦官を復活させていた事が判る。又 この遠征には
婦人達が一緒であった
事も知れる) 先に渡ろうとしたが、行軒(何か不明)を持って来るのを忘れた。
そこで こっそり北に戻り、其れを持って又南へ行こうとして、係りの役人に船を要求した。役人は
咎めて許さず、言い争いになった。この時、楊沛が現われて黄門に訊いた。
「書付は持っているか?」 「書付は無い。」 すると楊沛は激昂し、「書付も無い御前が、どうして
逃亡を企てて居無いと言えるのだ!」 言うや役人に命じて、杖で叩かせた。黄門はどうにか逃れ
たが衣も頭巾もズタズタにされ、その姿の儘で楊沛の行為を太祖に訴えた。すると太祖は言った。
「お前は、殺され無かった事を幸運だと思え。」 この事が全軍に知れ、いよいよ楊沛の峻厳さは
評判となったのである。戦後には張既に代って京兆伊を任された。』
この【
楊沛】ーー最期は 《カタツムリ仙人》 の仲間入りを果す
。学問の方は名士とはゆかず其のため、代が変わると里巷で閑潰しをする身となるが、元来から私的な欲は無く、高貴な人にも頭を下げるのを承知せず、〔瓜牛盧〕を建て病没する。



かくて曹操は、→「潼関」→「河東郡」→「蒲阪津」〜(甬道)〜「渭水北岸」→「渭口」渭水南岸へと、緩急を織り交ぜた作戦で軍を
進めて来た。ーーだが、この後の曹操は、再び防禦を強化して、専ら ”穴熊作戦” に徹する。

馬超は、再三に亘って攻撃を挑んで来るが、曹操は ひたすら守りを固めて動かない。是れを

曹操側の弱気と観た連合側は、またも土地の割譲を求めたばかりか、今度は人質要求までをも

追加して来た。ーーだが無論の事、曹操は弱気に成って居た訳では無い。わざと一種の膠着状況

を作り出す・・・・それも作戦の内だったのである。

「ボチボチ相手の要求を受け入れてやる”
振り”をして見せてやるのも宜しいでしょう。」

此処まで様々な人物が次々と登場しては、この遠征を輔佐して来たが・・・・ヤッパリ最後の締め・

オオトリは此の人物を置いて外には居まい。

策士中の策士謀略の宝庫尽きない策謀の泉

曹操とは阿吽の呼吸で繋がっている男・・・・・・

太祖が韓遂馬超と渭水の南で交戦した時、 馬超らは和睦の条件に 土地の割譲を要請すると

同時に、人質を要求して来た。彼は、偽りの承諾を与えるのがよい!と主張した。更にその内容を

質問すると、「彼等を分離させるまでです」 と答えた。太祖は 「わかった」 と言い、以後は全てに

わたって彼のはかりごとを採用した。
』 ーー曹操との美事な2人3脚・・・・

もう、誰の事だかは、お判りであろう・・・そう、あの男・・・
言羽】である
    
賈クと云う男の凄い処は・・・敵の事情を徹底的に調査分析するのは勿論の事、翻っては

曹操と云う人物の過去の全てをも調べ尽くしてある事であった。だから敵の総帥・韓遂と曹操との

過去に於ける交友についても充分に識っていた。ーー韓遂の
父親(可也の高齢の時に) 曹操と

同期で孝廉に推挙された為、若い曹操とは親交があった。その息子である韓遂も亦その関係で、

曹操とは面識以上の付き合いがあった。


その
韓遂から 曹操に対し2人だけの 指しで 会見をしたいとの申し込みが

届いた。・・・・随分思い切った申し込みをするもんだナア〜と思われるかも知れないが、騎馬遊牧

民族の間では特段に珍しい儀礼では無かったのである。

普段から、互いに遠い場所に暮らす部族長達は、予め大草原の会合地点を決めて措き、互いに

馬で遣って来て、《
部下を遠ざけた2人だけの馬上会談》 を通例としていたのである。

その大草原での”指しの馬上会談”を、
単馬会とか単馬語と謂った。

曹操は、 賈ク の策謀に従い、その申し込みを受諾した。無論、ただで済む筈は無い。双方ともに

己に都合の好い、秘められた思惑を持っていた。

韓遂ーー曹操が此の申し入れを受諾すればその段階で既に、策は成功だと観ていた。もし
         本当に自信が有るなら受諾なぞすまい。受諾すると云う事は講和の目が存在する
         と云う何よりの証拠。状況次第では
トップ会談での決着をつけてしまおう・・・・。
馬超ーーノコノコと曹操が遣って来たら・・・・隙を見て、俺の手で暗殺してやる!!
賈クーー奴等に疑心暗鬼を抱かせ、互いを離間させてしまう・・・・。
曹操ーーフフフ、まあ、全て俺に任せて置け・・・・。


互いに、決められた
千の護衛兵を連れてゆく事となった。但し話し合うのは、人払いした 曹操と

韓遂の当人同士だけに限られる。・・・・史書に拠っても、その日時や 邂逅地点は定かでは無い。

だが、9月中であった事だけは確実である。



草原は一面、緑色から茶褐色に変り始めていた。季節は、もう冬に入っている。だが天気だけは

頗る好かった。空気は澄み渡り天は飽くまで青かった。足元の影法師が正午を指して短くなった。

単馬会の始まりである。双方とも1里(400m)の間隔を置いて背後に最精鋭

の騎馬軍団5千騎ずつを従えていた。その軍団の前100mの地点に、互いの幕僚達がひと塊りの

影を成している。 更にその前方50mに、夫れ夫れ2つの騎影が在る。 韓遂には馬超、曹操には

許猪が随伴していた。やがて、そのペアから単馬が離れ、互いに近づいて行った。



「よお〜、糞ジジイ!元気そうだな!」

曹操は鎧も兜も着けず全くの軽装で、丸で散歩の途中を抜け出して来たかの様な気軽さであった

「おお〜、お久し振りで御座る。」 韓遂も亦、普段着の遊牧姿であった。

「あれから何年が経ったかナア〜?」

「そうですな、はや30年は過ぎましたかナ。」

「当時は互いに若かった。覚えて居るか、あの小汚い横丁の妓楼を?」

「ハハハ、親父に隠れてちょくちょく通ったもんだワイ。」

「確か、その直ぐ3軒先には飲み屋が在った。」

「ああ、ああ。在った、在った!いつも酔い潰れるまで飲んだもんじゃった。」

「フフ、何も彼も愉しい時代だったナア〜!!」

取り止めも無い昔話しに花が咲く・・・・・。

「処で、是非、曹公に御目文字したいと申す者が居るのですが、宜しいかな?」

韓遂は振り向いて、後に控える巨大漢を顎で示した。

「ほお〜、あれは馬超ではないか?」

馬超は数年前、父親・馬騰の代わりに幾度となく曹操側に参戦しており、既に面識があった。

「左様。一言、御挨拶だけ申し上げたいと控えて居ります。」

「相変わらずギラついて居る様じゃな。ま、好いだろう。苦しゅうは無い。許す。」

韓遂が手招きすると、右手に長矛を引っ提げた儘の馬超が、ゆるゆると近づいて来た。

無論、胸中密かには、一撃必殺の暗殺企図を抱いていた・・・・と、曹操の背後からも、馬超と同じ

間合いで肥大巨躯が接近していった。何時でも馬超の企図を破砕すべく警戒した許猪であった。

のんびりムードの2巨頭とは異なった、もう1つの空気が、静かに緊迫の視線を張り合った。

   
    「ーー・・・・・!!」       「ーー・・・・!!」

その緊迫の一瞬を、『正史・許猪伝』は次の如くに記している。

太祖は韓遂・馬超らと単身馬に乗って会見し語り合った。側近の者は誰もお供できず、ただ許猪

だけを引き連れた。馬超は己の力を恃んで、密かに太祖に突き掛かる心算でいたが、予ねてから

許猪の武勇を聞いていたので、お供の騎馬武者が許猪かと疑った。そこで太祖に、「公には虎侯

と云う者が居るそうですが、何処に居るのですか?」 と訊ねた。太祖は振り返って許猪を指すと、

許猪は眼を怒らせて彼を睨んだ。馬超は敢えて行動を起こせず、引き上げた。


ーーもし此の時、馬超36年の人生の中に、他人に凹された”トラウマ”が無かったならば、許猪が

居ようと居まいと、その暗殺計画は実行されていたに違い無い。馬超は、許猪の姿を見た瞬間、

思わず識らず裡に、自分を死ぬ目に会わせた【
閻行】の姿をオーバーラップさせていたのである。

そのトラウマが馬超をビビらせ。此の世には、自分が敵わぬ、より強い個人が居る事を体験的に

学習していたのである。 許猪は、その閻行より更に強そうであった。《ーー無理だ!敵わん・・・・》

そこで馬超は、ただ挨拶だけをすると後方に引き下がった。


この後も曹操は只、もっぱら昔話しに終始し、韓遂に 講和の話題を 持ち出させなかった。そして

最後に、こう言って単馬語を切り上げた。

「まあ今度、再び会う時には、お互い、平穏な場所で会いたいものじゃ。」

この間およそ一刻
(15分)余。2刻迄は費やさなかったであろうか。韓遂と曹操のお互いは、左右に

分かれると、そのまま砂塵と共に草原を去っていった・・・・。


※尚 『
魏書』は、この単馬会が もう1度有ったとして、次の様に記述している。こっちの方が面白さだけで言えば、人々の様子を上手く描いている分、寧ろ上だろう。

『公は後日再び韓遂らと会談する事になった。諸将は言った。

「公は敵と言葉を交わされるのですから、軽はずみな事を 為さるべきではありません。馬止めの木柵を作って防禦をして措いた方が宜しいでしょう。」 公は其の通りだと考えた。

賊将達は公に会うと、みな馬上で拝礼した。秦の人や蛮族の見物人達は、前後に犇めき合った。

公は笑いながら賊兵に向かって言った。

「お前達は曹公を見物したいのか? 儂も矢張り、人間の仲間だぞ。 4つの眼、2つの口が有る訳では無い。ただ智恵が多いだけじゃ!」

蛮人は前後に重なって見物した。また公は 騎兵5千を並べ十重の陣立てをして見せ、その鮮やか

な光は陽にキラめいたので、賊はいよいよ縮み上がった。』ーー
見物した・・・・と云う表現が何とも

好い。西方の人々の素朴さが髣髴とさせられる。


ーーさて問題は、この後だった。馬超は早速、韓遂に訊ねた。

「一体、話しはの中味は どうでした!?」

馬超で無くとも、誰もが一番気になる事だ。

「?? いや只、旧交を温め合っただけだぞ。」

韓遂の方が寧ろ怪訝な顔をした。見て居れば、その雰囲気は判った筈であろう、と云う顔付だった

「そんな事は有りますまい!」 それも亦、誰もが思う処であった。

「いや、本当に昔話しをし合っただけで終ったのだ。」

事実だから仕様が無い。外に答え様も無かった。

「ーー何故、私にまで隠そうと為されるのじゃ!」

こんな大掛かりな会見を申し込んで措きながら、ただムダ話しだけで終った・・・・など信じられる筈

が無い。今の段階では公表を差し控えるべき内容ならば、それはそれで理解もしよう。

《だが、韓遂を実の父親だと言い切って信ずる此の俺にまで隠す必要は有るまい!》

2人の間に初めて、不満と不信が芽生えた。



「是れだけで、韓遂と馬超の仲が離間するとは思えん。」 と、曹操。

「もっとアコギな手を打ちましょう。」 と、賈ク

「どうするのじゃ?」 と、曹操。

「公式な書簡を韓遂に送り付けます。」

「して、その内容は?」

「内容なぞ適当なモノで構いませぬ。仕掛けは、その書き方で御座いますナ。」

「ーー??・・・・。」 流石の曹操も、未だ其の意味が理解でき無い。

「まあ、其処で暫し見て居て下されませ。」

言うや賈ク、忽ちサラサラと1通の書面を書き上げた。だが然し・・・・その後の処置こそが、策士・

賈クの賈クたる真骨頂であった。

「ウ〜〜ム・・・・!!」 それを見た曹操、唸った。


ーー数日の間を取ると、その書状を携えた使者が、韓遂の陣屋を訪のうた。賈クは、其の使者の

衣出立を態と質素にさせ、恰も”密使”然を装わせた。

中味を読んだ韓遂。直ぐに其れをおっ放り出した。つまらぬ時候の挨拶だった。返事を出すまでも

無い内容に過ぎなかった。 それにしても ヒドイ書き方 であった。やたら 書き損じが多くて、丸で

下書きを其のまま寄越した様な塩梅であった。いたる箇所が長々と墨で塗り潰され、書き直されて

いた。《失礼な奴じゃ!》 と思い、使者には返書も与えずに追い返した。

処が、暫らく経った頃、馬超らが入って来た。

「先程、曹操からの使者が来たと聞いたのですが・・・・・」

「ああ、人を小馬鹿にした手紙を持って来おったから、直ぐに追い返したばかりじゃ。」

「その手紙を見せて戴きたい。」

「ああ、構わぬとも。其処いらに、おっ放り出してある。」

見遣ると、確かに乱雑の呈で、広げ放しの書状が在った。

「是れですか。」 「ああ、其れじゃ。」

馬超が手にした書状を、諸将も覗き込む。

「ーー・・・・これは・・・・!?」

「ヒドイもんじゃろう。全く人を小馬鹿にした書き方だワイ。」

気軽に答える韓遂。だが、馬超の顔色は見る見る変った。

「何故、こんなに風に塗り潰したのですか!!」

「最初から、そうなっていたのだ。」

「こんなに書き損じばかりの手紙を、誰が一体、人に寄越すものでしょうか!」

あの単馬会の内容といい、馬超はすっかり韓遂を疑い出していた。

「?? 儂がか? 儂が塗り潰した・・・・と言うのか??」

今度は、韓遂の方が呆れた。

「儂が密かに、曹操と通じている、とでも言う心算なのか?」

「そうは言って居ませんが、何かスッキリしませぬ!」

面と向かって、そう言われた韓遂。流石にムッとして頭に血が上った。

「儂は、お前達がオギャ〜と生まれる以前から、終始一貫して”叛”に生きて来た男ぞ!何で今さら此の歳に成って、曹操ごときに頭を下げるもんか!!」

そう言われれば、返す言葉は無い。

「是れは、曹操めの謀略じゃ!!それが判らぬのか!お前達を、そう云う気持にさせる為の策略じゃぞ。乗せられてはいかん!」

自分で言った後に、やっと曹操と云う男の底意に気付いた韓遂。気付くのが遅かった自分にカッと

なって、肝腎な無実の証明を為し得る、唯一のチャンスを逸してしまった。

ーーもし儂を疑うのであれば、墨の濃さの違いを調べてみよ!!ーーそう指示すべきであったが、

この時は興奮の余りに、気付けなかった。後で気付いたが、もう時期を逸していた。

《・・・・嗚呼、こんな姑息な手段で、我等の団結が崩されてしまうのか・・・・!?》

こうなればもう、韓遂に残された手立ては、唯1つしか残って居無かった。

「儂の方から決戦を申し込む!もはや姑息な策も通じない、草原の真っ只中で、真正面から白黒つけて見せようぞ!どうじゃ、これなら文句は有るまい!!」

「それこそ我が望む処で御座いまする!」

そうは答えたものの、もはや馬超と韓遂、そして諸将との”鉄の結束”には亀裂が生じていた。


かくて賈クの
離間の計が、連合軍に綻びを齎したであろうと観た曹操、頃は好し!と

して、遂に
軍事決着の腹を固めた。此処からは曹操の独壇場である。



いよいよ
軍神が、その奥義を見せる時が巡って来た。

與克日會戰ーートモニ日ヲ克シテ会戦ス・・・と、あるからには不期遭遇戦

では無く、互いに日時と場所を指定し合った
約束の地での決戦であった筈である。

と云う事は・・・・双方ともに、その勝利に自信が有った!という事でもある。詰り、その兵力はほぼ

互角か、やや連合軍の方が有利であったと観てよいだろうか。ーーいずれにせよその主力は双方

ともに騎馬軍団であった。 両軍あわせれば
騎馬10万が疾駆する指定の場所・・・・それは

大草原しか無い。

三国志に於けるクルスクの大戦車戦が開始される!!



意外な事だが、西方軍の兵が得意とするのは 騎馬軍団では無く、長矛による 集団戦法であったとされる。 長矛とは 長さ4.5m(8丈)の長柄の槍である。 この長矛部隊

幾重にも密集隊形を組み、それを強弩部隊が掩護射撃する。更に其の両翼には騎兵が控える、

と云うパッケージ戦術が基本であった。 そして 此の戦法の由来は、40年ほど前に、「段ケイ」 が

羌族を撃破した事から継承されて来ている・・・・とされる。 まあ、殆んど古代ギリシャの重装歩兵

密集軍団に近いと想像してよいだろう。それが更に発展強化され、現在では騎兵と歩兵の比率が

逆転し、騎馬軍団の方が主力と成っていた。但し、もし彼等に弱点が在るとするなら、それは実戦

体験の少なさであろう。 普段は各地域に分散している部隊が、これだけ大規模で一同に会した

事など無かった。果して乱戦と成った時に、味方同士の意思疎通が、十全で有り続けられるかどう

か!?・・・それを唯一為し得るのは唯独り・・・戦闘経験豊富な【韓遂】だけであった。その韓遂の

威令が、果して10単位の諸将にどれだけ行き届くのか??


対する
曹操軍ーー秘密兵器が有った。
鉄製の馬鎧と面簾(覆面)で全身を覆った重装騎兵である。それを鉄騎と呼ばせた。

馬鎧ーー咽元から馬尻までのグルリを、鎖帷子の袴(スカート)で覆い尽くす。

面簾ーー競馬などで見られる馬の覆面だが、鉄の簾で編み上げてある。 弓矢攻撃は勿論、

チョットやそっとの武器攻撃にも耐えられる。ほぼ完璧に全身を鉄で覆い尽した重戦車と謂えよう。

通常の騎兵
(軽騎兵)に比べて、スピード面では劣るものの、乱戦となった場面では、その防禦力は

無類の強靭さを示すであろう。それが
虎豹騎5千頭に施されていた。その秘密兵器を戦場

の何処に配し、何時どの戦局で投入するか!? ・・・・それが軍神・曹操の腕の見せ所となる。






見渡す限りの大草原は、茶褐色に大きく畝り、その広大無辺な天地の会わいに、敵味方あわせて

20万の人馬が、その地表全体を埋め尽している。壮観であった。

曹操は、そんな地形の小高い丘の上で、戦場全体を見下ろしていた。臨機応変の指揮を取る為で

ある。・・・・韓遂・馬超らの西方連合軍は、基本通りの展開で陣を敷いて来たていた。中央正面に

自慢の〔長矛軍団〕を重層に密集配置し、その後方に〔強弩部隊〕が掩護体勢を組んでいる。最も

重要な〔騎馬軍団〕は、セオリー通りに左右の両翼に展開させていた。

「韓遂の糞ジジイめ、こうして漢軍に勝って来たのか・・・・。」

自信に溢れた陣立てであろう。定石が最も厄介である。

「まあ最初は此方も同じ手で、お手並み拝見とゆこう。」

曹操軍も、敵正面に歩兵を配した。両翼に騎兵を配するのも同じであった。だが、あの重装させた

〔虎豹騎〕の姿は、後方の窪地に秘匿させた儘であった。

ーーやがて・・・・規則正しい軍鼓のリズムが轟き出した。連合軍の方から攻撃が開始されたので

ある。それに歩調を合わせた重装歩兵の密集部隊が各ブロック毎に、正面500mに亘ってザッ、

ザッ、ザッ、ザッと 一斉に前進を開始した。地鳴りの如くに大地が揺れ始める。だが未だ、長柄の

矛は天を向いたまま陽光にキラめいている。・・・・対する曹操軍からは、一斉に弓矢が放たれる。

と、密集歩兵は楯を前面に掲げて之を防ぎ、尚も前進を継続する。一糸乱れぬ、鮮やかな進軍で

ある。やがて中央正面では、歩兵同士の距離が急接近。するや、それまで天を向いていた長矛が

サッと前に倒され、槍ぶすまが形成された。そして遂に両軍は激突した!!

然し序盤から、形勢は圧倒的に長矛軍団が優勢であった。根本的に短い武器では歯が立たない

のである。 防禦するのが精一杯で、とても攻勢に転じる隙が見い出せない。突き立てられ、押し

まくられた曹操側の歩兵は、ジリジリと後退を余儀無くされていった。

「ーー・・・・・。」 その形勢を観望して居た曹操、 無言で指揮刀を円月に振った。背後に待機して

居る虎豹騎への指令であった。すると、その鉄騎軍団は左右に大きく別れ、夫れ夫れ戦場の外へ

消えていった。 ーー再び眼を主戦場に転ずればーー押しまくられた味方歩兵は、既に半里近くも

後退させられ、おのずと味方騎兵が対戦する位置にまで敗北させられていた。 ジリジリしながら

突撃命令を待って居た騎兵部隊に、その指令が下されたのは、 開戦してから 2刻が過ぎた頃で

あったろうか。ドッと両翼から曹操の騎兵部隊が、密集歩兵の側面に襲い掛かった。

するや局面は一気に攻守が逆転。今度は曹操側が敵を押し戻し始めた・・・・然し、それも束の間

その更に外側から、西方軍の精鋭騎馬軍団が、突撃を敢行して来たのである。判っていた事とは

言え、再び防戦一方に陥る曹操軍ーー激闘さらに2刻・・・・冷静に観て、戦局は大きく西方連合軍

の方に傾き始めていた。 と同時に主戦場の位置は、開戦時からは随分と異なり、曹操側の方に

500m以上も移動して来ていた。先ほど迄は、其処に虎豹騎が潜んで居た窪地が、今や主戦場と

成った訳である。ーー無論、これは偶然の出来事では無かった。

じっくり時間と犠牲を掛けた軍神・曹操の兵法・罠であったのだ。 それは、韓遂と馬超らが、ほぼ

勝利を確信した時であった。突如、戦場の両翼に、キラキラ輝く、眩い軍団が出現したのである!

秘匿され続けていた曹操軍の秘密兵器・・・・重装備を施した
虎豹騎鉄騎馬軍団の勇姿

であった!! その出現位置 と 出現時期 こそ、曹操が練りに練った用兵の妙であったのだ。

先ず〔鉄騎〕は、眼の前にやって来た格好の敵騎兵を苦も無く駆逐した。そうなると「長矛部隊」は

その両翼だけでは無く、ガラ空きと成った背後にまで廻り込まれる羽目に陥ってしまった。後はもう

完全包囲だけが待っているばかり・・・・・10諸将のうち、先ず【成宜】が討ち死、続いて【李堪】の

首も討ち取られる。こうして一旦敗色濃厚となると、それまでは何とか隠されていた互いへの不信

感、取り分けても〔韓遂に対する疑心暗鬼〕が一挙に噴出した。「
離間の計」が最大の効力を発揮

した瞬間でもあった。

かくて大草原の
関中大決戦は、曹操側の殲滅的な大勝利となった

韓遂馬超は遙か涼州へ【楊秋】は安定郡へ、【程銀】・【侯選】らも漢中の各地へと

逃走した。もはや2度と再び、大連合を組んで反抗する事は出来ぬであろう。


だがそんな大激突を尻目に、遙か南の地では、濡れ手で泡の【劉備の野郎】が、楽々と益州に入り込んで居たのである




10月
ーー曹操は長安へ入場を果した。 「漢中」の張魯討伐の為の ベースキャンプを

確保した事になる。だが今回の遠征の主眼が「関中」では無く、「関中」であった事は明白である。

曹操は残敵掃討の為に 引き続いて軍を北上させ、安定で【楊秋】を包囲した。

するや楊秋は直ちに降伏して来た。

「なんで儂に反抗した!?」

「誘われたからです。西方に住む我々には、普段からの付き合いと云うモノが在り、どうしても
 断わり切れず、仕方なく加わったので御座います。」

「まあ良いだろう。今後は儂に忠誠を尽くせるか?どうじゃ!」

「ハハぁ〜!!」 這い蹲る楊秋。

「では此の儘、お前に安定は任せる。精々忠義を示して呉れよ。」

毒を以って毒を制す。本命は馬超と韓遂である。此処、
安定郡は涼州と長安の中間に位置する。

糞ジジイ達の息の根を止める為の攻撃拠点には絶好の場所であった。

12月ーー再び長安に戻った曹操は、戦後の仕置きを決定した後、業卩城へと凱旋する。
その主な内容としては、護軍将軍の
夏侯淵 を 関中総司令官

として長安に駐留させ、涼州に逃亡した韓遂・馬超の完全制圧を行なわせる事。

又、丞相長史・【
徐奕】を雍州刺史に任じて諸事を司らせ、、【張既】を京兆尹、【鄭渾】を左馮翊、

趙儼】を右馮翊とし、長安周辺をガッチリ固めさせた。



秋七月。公、西征す。超らと潼関を挟みて軍す。公、急に之を持して潜かに徐晃・朱霊らを遣わし

夜、蒲阪津を渡らしむ。河西に拠りて営を為す。公、潼関より北渡し未まだ済らず。超、船に赴き

急戦す。校尉・丁斐、因りて牛馬を放ちて以って賊を餌す。賊乱れて牛馬を取る。公、乃ち渡るを

得たり。河に循いて甬道を為りて南す。賊退きて渭口を拒ぐ。公乃ち多く疑兵を設け、潜かに舟を

以って兵を載せ、渭に入りて浮橋を為る。 夜、兵を分かち営を渭南に結ぶ。賊、夜に営を攻む。

兵を伏せて之を撃破す。超ら渭南に屯す。信を遣わし河以西を割き和を請わんと求む。公許さず

九月。軍を進め渭を渡る。超ら屡々挑戦す。また許さず。固く請い、地を割き任子を送るを求めん

とす。公、賈クの計を用い偽りて之を許す。

韓遂、公と相い見ん事を請う。ここに於いて馬を交え語りて時を移し、軍事に及ばず。ただ京都の

旧故を説き、手を打ち歓笑す。既に罷む。超ら遂に問う公何を言いしかと。遂曰く、言う所なしと。

超ら之を疑う。他日、公また遂に書を与う。点竄する所を多くし、遂の改定するものの如くす。


超らいよいよ遂を疑う。公、乃ち共に日を克して会戦す。先ず軽兵を以って之を挑みて戦う事やや

久しく、初めて虎騎を放ちて挟撃して大いに之を破る。成宜・李堪らを斬る。遂・超ら涼州に走り、

楊秋、安定に奔る。関中平らぐ。
』   ーー(正史・武帝紀)ーー


業卩城に凱旋した曹操。この
関中平定戦を総括して、家臣の質問に答えた。

〔Q1〕 「潼関対峙の折、賊の応援部隊が着く度に、嬉しそうな顔をされたのは何故ですか?」

ANS→「関中長遠。もし賊、各々険阻に拠らば、之を征するに1、2年ならずんば定むべからず。
      今みな来集す。その衆多しと雖も、相い帰服する無し。軍に適主なし。
      一挙に滅ぼすべし。功を為す事やや易し。吾ここを以って喜ぶ。」

〔Q2〕 「潼関で睨み合って日を過し、その後で北に渡ったのは何故でしょうか?」

ANS→『賊、潼関を守る。もしわれ河東に入らば、賊必ず引いて諸津を守れば、則ち西河いまだ
      渡るべからず。故にわれ、兵を盛んにし潼関に向う。賊、全軍を尽して南を守り、西河は
      ガラ空きとなる。故に2将、楽々と渡河す。
      必勝の備えを為すも弱を示し、賊の襲うも堅塁を出ぬは、賊を驕らしめる故なり。されば
      賊、陣地も築かずして割地を求む。われ之を許すは、賊を安心せしめて備えを怠らしむ
      為なり。
      因って士卒の力を蓄わえ、一旦これを撃たば所謂 「疾雷耳を掩うに及ばず」 なり。

   
兵の変化は元より1道に非ざるなり。』

然し大局的に観た場合、果してこの遠征に、一体どれだけの意義が有ったのか??となれば・・・・それは一に掛かって、今後の成果次第に拠る、と言わざるを得ぬ、不確定要素の残る「関中平定」ではあるのだった・・・・

 兵之變化固非一道也
  
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