【第167節】
〔銅雀台の落成〕は210年の冬だった。劉備が呉へ赴いて荊州の借用を申し込みオッカナイ凛華さんを妻に迎えたのも此の年の事。又、周瑜が逝ったのも此の年の事であった。
明けて翌 211年 正月、曹操は 長男曹丕に新しい官職を附した。又、同時に曹植を含め成人した息子達(曹丕を除く)には何と1度期に6人もを侯に封じて見せたのである。
年齢順に記せば・・・・(曹彰→焉卩陵侯)、 (曹植→平原侯)、
(曹拠→范陽侯)、(曹宇→都郷侯)、(曹林→饒陽侯)、(曹王玄→西郷侯) と
いった塩梅である。但し、実際に現地に赴くのでは無く、その領邑から上がる租税 (食邑)を貰うと云う事ではあった。尚、曹植・曹拠・曹林は5千戸であった事が判っている。
さて問題は、長男・曹丕の扱いである。曹丕が任官したのは〔五官中郎将〕であった。
唯1人だけ、列侯には封ぜられずに、特に与えられた此の職官・・・・・・
【五官中郎将】・・・・全く耳慣れぬ役職である。そも、是れは如何なる地位を示し、
如何なる権限を有する職官ものなのか??又、曹操の意図は一体な辺に在るのか??
先ずは其の辺の当たりから、曹操の真意に迫ってゆく事にしよう。
そもそも【中郎将】であるが、是れは 覇王・曹操の長男にとっては、如何にも”貧弱な地位”に
過ぎ無いーーと言える。何故かと言えば、簡単に言って、【将軍】よりも下位に当る尉階なのだ。
ちょっと此処で、〔軍人の尉階〕について、おさらいをして措こう。
先ず、最高尉官の【将軍】であるが・・・・本来は、有事の際に特設された臨時職であった。
勿論、皇帝が任命する官軍の最高司令官である。前漢・武帝の頃から次第に増やされて来たが、
建前上は飽くまで臨時職であった。現在(献帝時代)は合計で24将軍が、正式な朝廷軍の
将軍職として存在していた。ーー但し、格式上位の8将軍は別格扱いで、実働は、外征担当の
16将軍制であった。来歴は個々に有るが、皇帝を補任していた大臣が兼務して生まれ
格式としては〔三公〕に相当するのが4つ。
大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍である。
それに次いで、〔九卿〕の格式とされるものが、「左右前後」と外征担当の「4征」。
左将軍・右将軍・前将軍・後将軍・・・・ここ迄は名誉職である。
実働である外征将軍の始まりは、後漢時代に西と南に将軍が置かれた事に由来する。なお、ここ迄で10将軍だが、あとの14将軍は献帝時代、即ち曹操が増設した将軍号である。
征西将軍・征南将軍・・征東将軍・征北将軍
※ちなみに、この4征将軍には、「官有の料理場」と「自由に出来る財政の帳簿」が在り、就任の際には是れ等の特典を使わぬ者は無かった・・・・『魏略』。
更に曹操(献帝)は、「4鎮」・「4安」・「4平」の12将軍を加える。
鎮東将軍・鎮西将軍・鎮南将軍・鎮北将軍
安東将軍・安西将軍・安南将軍・安北将軍
平東将軍・平西将軍・平南将軍・平北将軍
・・・・以上、是れ迄が、漢の朝廷(献帝)が任命する《正式な将軍号》である。
その他はどんな偉そうな将軍号が付いていても、全て〔雑号将軍〕に過ぎ無い。多くの
場合は、群雄が勝手に付けたものであり、たとえ上表されたものであっても、その個人一代限りの
ボーナス的なものであり、その格式はガクンと落ちる。・・・・とは言え、この時節柄、格式なんぞは
何の足しにもなら無い、とは言えた。一国の君主である孫権が雑号の「討虜将軍」であるのに対し
昔ひょんな事で曹操から漢の「左将軍」号をプレゼントされた劉備は、未まだ其の日暮らしに甘ん
じて居るが如くに。尚、曹操本軍である中領軍だの都督などの様な、軍団編成から来る尉階は
また別系統の事となる。ーー処で、『将軍』とは【軍】ヲ将スーーに由来する。
その『軍隊の編成規模』についても、軽くおさらいして措こう。
古代中国(漢王朝)に於ける「朝廷軍」の基本単位は・・・・5人である。
この5人組を・・・・〔烈〕 と呼んだ。 ー→その烈が集まった200人隊を・・・・〔曲〕、
曲の倍・400人隊が・・・・〔部〕、 ー→部の倍・800人隊を・・・・〔校〕と呼ぶ。 だから
群雄達の私兵集団を〔部曲〕と呼び習わしたのも この400〜800人規模を指した訳である。
又「将校」と云う語も、「校ヲ将ス」から来ている事となる。
そして其の「校」を4つ集めた3200人の兵団が初めて【軍】と称された。
・・・・5(烈)→200(曲)→400(部)→800(校)→3200(軍)・・・・である。
この【軍】を率いる将が〔将・軍〕であり、「軍以下」の指揮官は『校尉』である。
さて問題は、曹丕が拝命した【中郎将】であるが・・・・
通常では、「将軍」と「校尉」の中間に位置する指揮官である。会社組織で言えば、まあ
中間管理職といった所で、実戦では最前線で奮闘する役割を担う。だから普通、社長の御曹司が
就く役職では無い。然し、よく見れば【五官中郎将】と【五官】が喰っ付いている。
それでは是れで、グ〜ンと権威・権力が急上昇するか・・・・と言えば、全然そんな事は無い。特に
新設された訳では無く、既に存在していた官職に過ぎ無いのである。ーー光禄勲に属し、五官郎を
掌握する。比二千石で、月にすれば100石の給料である。大将軍・三公が月に350石、二千石の
郡太守が月に120石であるから・・・・【五官】が付いても、どうと言う程の事は無い。
そうだとすれば、列侯にも封ぜられず、この任官はー→曹丕への嫌がらせか??
もっと言えば、曹丕に引導を渡した!のか?
果して曹操は、曹丕と曹植の兄弟相克に結論を出したのであろうか?
「・・・・・敗れたり、曹丕(武蔵)!」・・・・状況なのであろうか?
曹植の才能を、曹丕より上とファイナルアンサーしたのであろうか?
「曹丕よ、お前は 既に死んでいる!」・・・・状態なのであろうか?
司馬懿仲達はじめ多くの重臣達が主張・諫言する、〔古来よりの正道〕を度返ししてさえ尚
曹植に曹魏政権を任せようとする のであろうか?
曹操が意見を求めたのに対し、形禺頁は答えたではないか。「庶子を以って 嫡子に代える事は、
前代の教える禁忌です。どうか殿下には、その事をとくと御考察下さいませ!」 と。
更に賈言羽も「袁本初(袁紹)父子と劉景升(劉表)父子の事を考えて見て下され。」と暗示して見せた
ではないか。その外にも未だ未だ 数多くの重臣達が諌めるにも関わらず、曹操をして、それが
最善だと決断をさせた理由とは、一体何だったのであろうか?
ーーいずれにせよ、「疑問だらけの後継選び」である。
「この粗忽モン!よ〜〜く、儂の任命書を読み返して見よ!!」
ーーで、よくよく読み返して見たら・・・・あっ〜!!有った、有った!!
キッチリ曹操の真意が見えて来たのである。重大な但し書きが存在していたのである!!
ーーその重大な但し書きとは・・・・・
【副丞相】の職を命ず!!と云うものであった。
どひぇ〜〜!こ、こ、これは!!・・・・
エライ事に成ったもんだ!!
〔副丞相〕などと云う正式な官職は無い。飽くまで副丞相待遇・副丞相扱いーーと云う事ではある。
然し、曹操が天下で唯独りの独裁官・〔丞相〕で在るからには、
その〔副丞相〕とは何を意味するか?
その答えは、もはや誰の眼にも明々白々な事ではないか!こっちこそが曹操の真意・本命である
何故なら、副丞相ともなれば、大将軍・三公と同様に、己の〔幕府〕を開設
する事が許されるのである。曹丕に直属する新たな「官」や「属」を新設できる事と成るのである。
謂わば曹魏政権内に”影の内閣”を準備して宜しい!との御墨付きを獲得したのであり、
事実上それは次期政権の発足を促す措置だとも言えるのであった!
だから「中郎将」とは云うものの、その実態・実力は、「三公」は勿論 「大将軍」さえも凌ぐ権力を
掌握するものとなるであろう。ーーこうして曹丕の〔五官中郎将〕の官職は、【副丞相待遇】と云う
かつて例の無い措置を施される事に拠って・・・・既存していた 五官中郎将 の地位とは全く別の、
新たな巨大権力機構として立ち上げられたのである。ーーその事は又、〔後継者争い〕の観点から
しても、曹丕が己独自の官属を任命する事によって、おのずから ”曹丕派” を形成し得る最大の
メリットでもあった。 (但し残念ながら、その官属の機構や人選などについての具体的な史料は伝わらない。)
因みに三国時代以降、中国で王朝が交代する場合=天の命が革まる”革命”が行われる場合には
この曹操の採った、→後継者に独自の幕府を開かせて、革命に備えさせて置く=措置が、先見の
モデル・手本として模倣されてゆく事となる。それ程迄に、この曹操の新機軸は奥が深かったのだ
「先ずは祝着に御座いまする。」
「うん、やっと父上が余を認めて下さった!!」 曹丕が大ニコニコで遣って来た。
「はい、確かに。然し・・・・・」 と、司馬懿仲達は素っ気無い。
「然し・・・・?」 もっと喜んで呉れると思っていた曹丕は、些か訝しんで仲達の顔を見直した。
「この事は、やっと父君が、本気で跡継ぎ問題を御考え始めに為られた・・・・と云う事に過ぎません
「まあ、そうではあるが・・・・もう少し喜んで呉れても良いではないか。」
「慶賀の言葉なら、もう他の者達から散々に お聞きに為られて居られましょう。」
「うん、皆、口々に余を寿いで呉れるワ!」
「で、しょうな。誰がどんな顔で、どの様な仕草をしたか、大体思い浮かびまする。」
「では仲達は何故、そんなに渋い顔をして居るのじゃ?」
「五官中郎将・副丞相の地位は、確かに、これから先、若君の大きな力とは成りましょう。 然し、万全な物ではありません。今後いくらでも、父君は未だ新しい職官を開設する事がお出来です。」
「・・・・成る程・・・・な。」 仲達と曹丕の間には、其れが直ぐに理解し合えるだけの距離しか無い。
曹植にも未だ未だ、逆転の可能性が残されている、と云う事だった。
事実『正史・賈言羽伝』には、この頃の事として次の様な記述が在るーー
『この当時、曹丕は五官将で在ったのに対し、臨シ侯で在った曹植の評判が高かった。
それぞれ党派が出来、正統な後継者 (曹丕を指す陳寿の書き方) の地位を奪い取ろうとして、
盛んに議論が起こっていた。
曹丕は人を遣って、賈言羽に自分の地位を固める為の方策を尋ねさせた。賈言羽は言った。
「どうか将軍には有徳の態度を尊重され、無官の人物の如き謙虚な行いを実践なされて、朝から晩まで孜々(しし)として怠らず、子としての正しい道を踏み外されません様に。只管この様に為さいませ。」 曹丕は此の意見に従い、深くみずから修養に努めた。』
「父君は、何故ハッキリと後継を発表なされぬのか?ーー大命を拝領された本日こそ、若君には、その父君の御心を、しっかと受け止めるべきで御座いましょうナ。・・・・・御返答や如何に!?」
「厳しいナア〜・・・・ま、だが、そんな事を言って呉れる者は、仲達しか居らん・・・・。」
曹丕は、些か浮かれて居た己を恥じた様子で、佇まいを正すと沈思した。
「ーーこう云う事であろうか・・・・」
後ろ手で、外の雪景色に目を遣って居た仲達の背中に向かって、曹丕は漸く口を開いた。
「太子の座は、タダでは呉れてはやらぬ。その資格を自ずから作れ・・・・と。」
「ーー・・・・・もう少し、違った言い方も出来ましょうナ。」
「では、こう言い直そう。ーー太子の座は与えられるものでは無いのだ。自分で地歩を固めて勝ち取ってゆくものなのじゃ!よいな子桓、心して掛かるのだぞ!」
仲達は思わず振り返って、曹丕を視認した。別に真似た訳では無いのに、仲達の耳には、曹丕の
声音が曹操そっくりに聞こえたのだった。一瞬、其処に曹操本人が居るのかと思う程であった。
「ハハハハハ!いやあ〜、済みませんでした。其の事さえ お忘れにならなければ、この司馬懿
仲達、何で喜ばぬ筈の有りましょうや。何処の誰よりも嬉しゅう御座いまするぞ!!」
そ
こで2人は初めて手を握り合い、肩を抱き合って喜びを分かち合うのであった。
「有り難し!持つべきは、良き師、良き友じゃなあ〜!!」
「暮れ暮れも、張り切り過ぎませぬ様に。とかく新しい事を為す時には、つい功を焦り、派手な事をやってみたく成るものです。今度の場合は先ず、何の取り柄も無い木偶の坊で参りましょう。派手派手しい事は全て父君にして戴き、此方はじっくり着実に地歩を固めるのです。」
「なら大丈夫じゃ。余は元々派手やかな事は苦手じゃ。父上とて、それを見越した上で、余に此の位置を与えたのであろうよ!」
「ハハハ、それでは此の仲達などは、差し詰め”ネクラ人間”になってしまいまするナア〜!」
愕けて見せる仲達。詩賦を発表するでもなく軍功1つ有る訳でも無く、未だ宙空に在る・・・・。
「ーー然し、高いナア〜〜!」
周囲の雪景色の中、碧空高く煌めく銅雀台・・・・ 白 と 青 と赤 と金色とが織り成す宙空から、曹操
孟徳が天下を見下ろしている・・・見上げる曹丕が溜息交じりに吐いた感想は、銅雀台の事なのか
それとも其の中に住む父・曹操の事なのか?
「高こう御座いますナア〜・・・・。」 相槌を打ちながら、仲達はふと思った。
《今度の事は寧ろ、我々家臣団に対してこそ示された、沈静の処置だったのかも知れぬ・・・・。》
ーー今は、身内同士で揉めて居る場合ではあるまい。儂は征くぞ! 用意はよいな?ーーそんな
曹操の声が聞こえて来る様な気がする司馬懿仲達であった。
この日、封侯祝いの名目で集まった「曹植派」の面々は、ひどくガックリ来ていた。だが、楊脩も
仲達と同じ事を、反対の立場から言っていた。
「何事も初めての事には失敗が付き物です。その内に必ずや、張り切り過ぎて失態を起こすに違いありませぬ。それに対し我々としては、父君の御下問に素早く対応して見せ、信頼を勝ち取る事こそが肝要です。幸い私は曹公のお側近くに居りまするから、殆んどの下問内容が事前に判ります。予め、父君の御下問に対する幾通りもの答えを準備して措きましょう。その下書きは私が全て用意致します。平原侯(曹植)は只、その臨機応変の才能で父君に応接なさいませ。さすれば更に侯の才能は認められ、後継の事も考え直されましょう。」
「そうだ!未だ太子と決定された訳では無い。迷わぬのが普通であるのに、実際こうして決まらぬと云う事は、それだけ平原侯の才能が尋常では無い事を、認めて居られる何よりの証拠じゃ!」
「ウム、正に此処からが本当の勝負じゃな!」
こう云う場には曹植本人は姿を見せない。その派閥の領袖達だけの作戦会議ではあった。
「ーー然しなあ〜・・・・平原侯ご自身に、イマひとつ欲が無いのが何とも歯痒い・・・・。」
「確かに。急に執り憑かれた様に為ると思えば、また急に投げ遣りな様子に戻られる。どうも
”矯め”が苦手で、長続きがしない御性格だけは困りものじゃ。」
「だからこそ、我々の輔佐が必要なのじゃ。精々心して掛かろうぞ!」
「ウム、こう成れば、何としてでも ”徴事どの” を我々の同志にせずば成るまい。」
「まさに其れですナ!平原侯の夫人は、徴事殿の”姪”であるのだから、本心では必ずや曹植様を応援されて居る筈じゃ。」
実は此処に1人、(筆者がわざと後廻しに残して措いた)、何とも微妙な位置に立つ”超大物”が存在して居たのである!!曹植派の面々にとっては 〔同志であるのが当然!〕 と映る人物・・・曹植の妻が”兄の娘”、即ち夫人の〔叔父〕であり、曹植とは〔義理の叔父・甥〕の血族関係に在る重臣ーー
三国志上で最も貫禄の有る風貌・・・・
90センチもある美事なアゴ鬚を蓄え、30歳迄は専ら剣客として鍛え上げられた其の容貌は威風堂々、曹操すらも気圧される程の人物・・・・
崔 王炎 その人であった!! 字は季珪 きけい・・・・
『正史』の伝にはーー『崔炎は音声・容姿とも気品が有って伸びやか、顔かたちは明るく
広やかで、鬚の長さは四尺 (90センチ)、 非常に威厳があった。朝廷の官僚達は仰ぎ慕い、太祖まで遠慮して敬意を示した。』 とある。
また『先賢行状』はーー『崔炎は清潔忠誠、カラリとした人柄で、未来を見通す見識を持ち、公正な生き方を貫き、朝廷に於いて厳正な態度を取った。朝廷はその高い見識を頼りとし、天下はその公平さを讃えた。』 と記す。
公式な記録としてアゴヒゲ(鬚)の長さを、具体的な数値で記された人物は彼しか居無い。余談だが恐らく『演義』は、この崔炎の〔鬚の美事さ〕を、【関羽の風貌】に採り入れた事は先ず間違い無い。
一念発起して師 (北海郡の鄭玄) に就く迄の30歳までは、剣術や武芸の道を極める青春であった。
カラリとして明るい威厳は、この青春時代の 心身の鍛錬 から来ているものであろう。ーーだが、
その学業生活も1年に満たぬ時に、徐州黄巾軍の侵入に遭遇。子弟とも不其山へ避難するが、
結局、熟は閉鎖され、崔炎は已む無く退学を言い渡される。その後は全国各地を転々と流離い、
4年後に漸く故郷 (冀州清河郡) へ戻って、琴と書の独学に励んだ。・・・・其処いらの坊ちゃん名士
とは一味もニ味も違う前半生であったのだ。やがて当時の冀州長官・袁紹から召請されて出仕。
が、袁紹は崔炎らの諫言を却下して 官渡戦 に敗北。袁紹が悶死した後、袁氏は兄弟が骨肉の
戦いに明け暮れる。嫌気がさした崔炎は、病気と称してどちらにも付かなかった為に投獄されるが
陳琳らの救助活動で難を免れた。その直後、冀州を平定した【曹操】に招聘され直ちに別駕従事
の重職に就く。ーーこの仕官の最初から、崔炎は曹操に対して、周囲が顔面蒼白に成る様な事も
ズケズケと直言した。それを嘉した曹操は、彼を一時期【曹丕の守役】に抜擢して業卩の留守居を
任せた。その頃の曹丕は狩りに夢中で、頻りに城を抜け出した。この時も崔炎は 曹丕にズカリ と
苦言を呈し、反省した曹丕は 「今後もまた教えを乞う」 との関係となった。その後は〔丞相東曹掾〕
〔同西曹掾〕と側近を勤め、最近には〔徴事〕と成っていた。ーーだが、この後の『正史』の記述は、
〔後継者問題〕にとっては非常に重いものである。
『魏国が建国された当時(今から2〜3年後)、崔炎は尚書に任命された。
当時まだ太子を立てておらず臨シ侯の曹植(今から1年後に平原侯から転封)は才気が有って可愛いがられて居た。 太祖は決断が着かず、
封緘された文書によって内密に外部の者に諮問した。
そのうち 崔炎だけが封なしの書面で返答した。
『思うに、「春秋」の建前では跡継ぎの子を立てる場合、年長者を選ぶと聞いて居ります。そのうえ五官将は愛情深く孝行で、聡明で在られます。正しい血統を引き継がれるのが当然と存知ます。私は死を以って其の事を守り通します!』
曹植は崔炎の兄の娘の婿であった。太祖は彼の公明さを尊敬し、ふうっと感歎の溜息を漏らし、中尉に昇進させた。』・・・・・
これでは、曹植派の面々は取り付くシマも無い。ーーだが『正史』はあちこちで、斯様に・・・・
『曹操は曹植を可愛いがり、後継者を決め兼ね、迷って居た』ーー
と記している。そして曹植とは縁戚関係に在った【崔炎】は、「自分は曹丕派である!」 と
旗幟を鮮明にして居たのである。・・・・にも関わらず今から5年後ーー
突然、崔炎は曹操から〔死を賜わる〕のである!!
その崔炎の死 (粛清?) については、後述しよう。ーーいずれにせよ・・・・
曹操の此の、”後継者未決定”の態度 (又は方針) は、否応も無しに、多くの者達を、その渦中に
巻き込みつつ、延々と推移してゆくのである・・・・
この、同じ 211年・正月・・・・・懸念されていた叛乱の火の手が、業卩城から
僅か200キロ北西の「太原郡・大陵県」に上がった。その首謀者は商曜と言ったが来歴は
不明である。たぶんその地勢から推して、袁紹→高幹の流れを汲む遺臣であったのだろう。周辺
の20ヶ所に砦を築いて挙兵した。規模は大した事は無く、大反乱と云う程のものでは無かった。
だが問題は・・・・銅雀台に移った曹操の直ぐ近くでさえも、叛乱に踏み切る者が出てしまった!と
云う、〔事実そのもの〕の重大さであった。この前年、長江に近い盧江郡で雷緒が反抗したのとは
訳が違う。 盧江郡は 遙か遠方の抗争地域に含まれる場所だから、或る意味では当然の反抗で
あった。だが、商曜の叛乱は曹操の版図内。然も殆んど御膝元と言える地域での事である。其処
で叛乱が決意され、実行されたのだ。ーーだとすれば、今後も 版図内の各地に、叛乱の火の手が
飛び火する事態が、かなりの確率で想定されるではないか!!・・・・・詰り、世の中の眼と心は、
赤壁の大敗北に因り、曹魏政権の権威と勢力はガタ落ちしている、と観ている事の何よりの証明
であった。如何に煌びやかな銅雀台を建てて見せようと、合肥に遠征して見せようとも、曹魏政権
最大の危機は払拭されてはいなかったのである。
《ーーマズイ・・・・この程度の仕置きでは、未だ世間は曹魏の完全復活を信じようとはせん。》
商曜の叛乱に対しては、直ちに夏侯淵を征西護軍に任じ、徐晃を指揮させて彼等を包囲撃破
せしめた。ーーするや案の定、今度は西方で、もっと重大は反抗が明らかになった。
漢中(盆地)で五斗米道を経営していた【張魯】が独立を宣言したのである。
《よ〜し!鬼道で有名な 張魯を討つ事によって、天下の耳目を一挙に逆転・称揚させて見せようぞ!!》
独立を宣言したとは言え、曹操にとって張魯の存在は、直接的には何の影響も無い相手だった。
地形的には難儀ではあるが、軍事力は大したものでは無かろう。失墜した権威を復活させるのは
丁度お手頃の相手であった。 その上、「漢中」を獲得できれば、更に南下して全く手付かずの
大州・「益州」全体をもが併呑可能となる。 そうなれば国力は一気に倍増し、再び天下統一の
覇望は現実のものと成って来る・・・・。張魯の独立宣言は、曹操にとって勿怪の幸いであった。
「西方を切り従えるぞ!直ちに其の準備に掛かれ!」
それまで見掛上は慶祝ムードだった曹魏の全家臣団の間に、一気に緊張感が漲った。
そして此のとき、曹操は2つの事を決定していた。
1つは・・・遠征の留守・業卩城の護りを、五官中郎将となった曹丕に任せる事であった。
あとの子等は全て同道させ、周辺の家臣達に余計な策動の余地を与えない。又、曹丕の廻りには
賢臣・重臣達を配し、ガッチリと盛り立てガードさせる。その主要メンバーは凡そ次の如くであった
居府(留守)総司令官・・・・副丞相・五官中郎将・【曹丕】
参軍事(軍事顧問)・・・・奮武将軍・【程c】=大ベテラン、左護軍・【徐宣】、議郎・【張範】、
居府長史(政事顧問)・・・・【国淵】、
長史(元々五官府の顧問)・・・【丙卩原】、【涼茂】、功曹・【常林】、文学侍従・・・【徐幹】(建安の七子)
実際、曹操が全軍体制で征西に出発するや業卩の北方300キロの河間郡冀州の最北・幽州との州境
で、田銀・蘇伯らが叛乱を起こし、2州の人心を煽動したのである。ついでだから此処で照会して措く
ーーその報を受けた曹丕は血気に逸り、自ずから出陣しようとした。だが功曹の【常林】が諌めた
「私は昔、彼の地の太守をして居りましたから、賊の形勢は予測できます。北方の官民は心服する事すでに長く、善を守っている者も多数おります。結局彼等は害を為す事は出来ませぬ。 現在、大軍は遠方に居り、外部には強敵が存在して居りまする。将軍は天下の鎮めで在りまする。軽々しく動いて遠征し、たとえ勝ったとしても武名が揚がる訳では無く、寧ろ評判を下げ兼ねませぬ。家臣に任せてどっしりと構えて居られるのが宜しゅう御座る。」
そこで曹丕は、将軍の「賈信」を派遣して之を討伐させた。田銀・蘇伯らは直ちに討ち平らげられ、
千人以上の者達が降伏を願い出た。 その処置について多くの意見は、現行法通りに『包囲後の
投降者は許さず』の原則を遵守して処刑すべきだと主張した。だが或る2人だけは、夫れ夫れに
進言した。1人は超ベテランの【程c】であった。
「旧法の趣旨は、騒乱の時代を想定したものであります。現在、天下はほぼ平定され、然も是れは領域内の事であって、彼等を殺しても威嚇の効果は有りませぬ。私は殺してはならぬと考えます。少なくとも上聞に達した後で決定するのが宜しいでしょう。」
又、居府長史に選抜された【国淵】も、「投降を願い出た者達は首謀者ではありませぬ」と、助命を
主張した。そこで曹丕は早馬を飛ばして曹操に指示を仰ぐと、曹操の考えも”赦す!”であった。
こうして曹丕は賢臣の意見をよく聴き、その居府守護の任を果し、己の地歩を着実に固めてゆく。
ーーその後のエピソード・・・・帰還した曹操は上機嫌で程cに言った。
「君はただ軍略に明るいだけでは無い。他人と父子の間も上手く捌いて呉れる!」 と。
又、国淵とのエピソードには、〔史料として重大な記述〕が残されている。ーー『正史・国淵伝』より
『国淵の御蔭で生命を助かった者は千人以上であった。
賊軍を撃破した場合の公式文書では、1を10と計算するのが習慣だった。
国淵は首級を上奏する時に、実数どおりに記した。太祖がその訳を訊ねると、国淵は言った。
「そもそも侵略者を征伐して斬った首と捕虜の数を実数より多く報告しますのはそれによって
戦果を大きく見せ、かつ庶民の耳に誇示したいからであります。河間は領域の中に在り、田銀らは叛逆したのです。勝利を得、手柄を立てたとしましても、私は心密かに其れを恥だと考えるのです」
太祖は上機嫌で、国淵を魏郡の太守に昇進させた。』
是れは事件そのものよりも、遙かに重大で貴重な史料である。
敵の戦死者と捕虜の数は、
公式文書に10倍に水増し報告する
・・・それが公式文書ですら慣例だったのだ!!
だとすれば、これ迄の多くの戦役に於ける戦果(戦死者数や捕虜数)についての疑問も、可なり氷解
する。ーー但し、果して歴史書の著者 (陳寿を含め) が、どちらを採用しているかについては、
ケイスbyケースである様だから、直ちに全部を10分の1に換算してしまうのはチト乱暴であろう。
この事が判明したのは有り難いに違い無いのだが、それはそれで又、新たな混乱を生む原因とも
成り得るのである。一体、何を以って実数と観たらよいのか?後世の我々に悩みの種は尽きない
とは言え、非常に有り難い記述ではアリマスる。時の旅人にとっては、愉しみが又1つ増える?
さて曹操の、もう1つの決定事項とは・・・・西方平定の西部方面司令官の人選であった。
その人物とはーー【夏侯 淵】である。字は妙才。
夏侯 惇の従弟。
現在は商曜退治の為に、太原の盆地に出張って呉れているが、昨年は遙か長江沿いの盧江郡に
雷緒を討伐していた。 旗挙げ以来の族累で、頼み甲斐のある男であった。曹操は未だデビュー
する以前の頃、県の長官に絡んだ事件(詳細は不明)で重罪を課せられた。然しこの夏侯淵が身代り
となって出頭し、後で彼を救い出す・・・・と云う様な親密な間柄であった。その名前からも判る様に
夏侯惇の族弟でる。人が呼称を区別する為に独眼竜の夏侯惇を『盲夏侯』と呼んでのは、この
夏侯淵を想定しての事であった (夏侯惇はヒドク嫌がったが)。また彼の妻は、曹操の妻の妹ーー
と云う風に、殆んど一族同様な濃密な関係でも在った。 とにかく勇猛果敢な男で、初めの頃には
曹操がハラハラする位であった。だから『正史・夏侯淵伝』には、こんな記述がある。
・・・・『それより以前、夏侯淵は屡々戦勝を治めはしたものの、太祖は何時もこう戒めていた。
「指揮官たる者、臆病な時もなければならぬ。勇気だけを頼みにしてはなるまいぞ。指揮官は当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は智略を用いよ。 勇気に任せる事しか知らないならば、1人の男の相手にしか成れぬぞ」 と。』
ーーまあ、それ程にまで、若い頃の夏侯淵は、 目っ茶苦っ茶勇猛一直線であった。急襲・奇襲も
御得意で、為に軍中では典軍校尉の夏侯淵、3日で五百里、6日で千里!と囃されたものである
だが、あれから早30余年・・・今では武勇と智略と人望を兼ね備えた、威厳漂う人物と成っていた
《やはり結局は、最後に頼みと成るのは、旗挙げ以来の親戚じゃナ!》
当面の遠征軍総司令官には、江陵で孤軍奮戦して来た【曹仁】を当てるが、その後の漢中(張魯)攻略は【夏侯淵】に任せる・・・・それが曹操の腹心算であった。
尚、この夏侯淵には多くの男児が在った。長男が「夏侯衡」、次男が「夏侯霸」、3男は「夏侯威」、
4男は「夏侯恵」、5男が「夏侯和」である。(次男以下に4兄弟在ったとあるが1名は不明)
まあ、【夏侯一族】と【曹一族】は厖大であるからして、いずれ纏めて紹介するが、曹操にとっては
孫権や劉備に比べて、幸甚を通り越す程の、縁戚の分厚さである。
ーーかくて曹操は、復活を賭けた〔新たなる挑戦〕に臨もうとするのであった。
然しその一方で曹操にも、自身の《老い》を感じさせる様な、旗挙げ以来の者達の訃報が続いた。
昨年(210年)には【曹純】が40歳の若さで没した。曹仁の弟で、204年の南皮包囲戦
からは常に〔虎豹騎〕の司令官として、最強騎馬軍団を率いて来た。袁譚の首を
斬り、白狼山ではトウトツを生け捕り、長阪坡で劉備を追い詰め、江陵1番乗りの栄誉を担った。
赤壁での敗戦後も、再び言焦に随行し、合肥へと進撃した。 ーーだが銅雀台の落成を見る事なく
逝去したのである。曹操は「曹純ほどの者を、どうして再び得る事など出来ようか!」と言い、最早
虎豹騎には司令官を置かず、以後は直接自分が指揮を取る事 (直属)にしたのであった。
又その前年(209年)には中領軍(近衛軍司令官)の【史渙】が没していた。若い頃は
仁侠の徒で男らしい性格だったが、曹操旗挙げに客分として加わって以来、常に遠征に随行して
諸将を監督し、近衛軍司令官として曹操に厚く信頼されて来た〔生え抜き〕であった。享年は不明
だが、50歳前後であっただろう。だが年齢の老若では無く、その戦歴が曹操との付き合いの長さ
を物語っていた。曹操自身の覇業の道程を示していた。
ーー旗挙げ以来はや30有余年・・・・曹操も若くは無い。いや寧ろ老境を迎えたーーと謂ってよい
であろう。孫も有る。
ーーいま曹操、56歳・・・・
老驥伏櫪 老いたる驥は櫪に伏すも
志在千里 志こそ千里に在らん
志こそ千里に在らん!!
こんな所で已んで堪るか!俺の覇道は、今から始まるのだ!
56歳は前途洋々なのだ! (そうだ、そうだ! と、筆者)
鋭気は充分。新たに兵を起こそう!新たな戦さに立ち向かおう!
目指すは西の方、漢中の地!!其処から又、陽は昇るのだ!!
烈士暮年 烈き士は暮にしも
壮心不已 壮き心の已む事はなし
壮き心の 已む事は無し!!
だが、その漢中の手前に・・・・一人、〔厄介な糞ジジイ〕が居た、のを思い出す曹操であった!!
【第168節】 厄介な糞ジジイ (反抗一筋70年・韓遂外伝)→へ