第166節
宿命 の 兄と弟
                                    派生する閥属
真冬の碧空の中に屹り立つ 
銅雀台ーー純白の壁に 朱塗りの赤が映え 黄金の装飾が
陽光にキラめく。真下の石段から見上げると、その威容は天空に突き刺さる如き高さである。
全国各地から招かれた人々は、その壮麗さと豪壮さに驚嘆の声を挙げ、改めて
曹操と云う人物
の巨大さを思い知らされるのであった。

銅雀村の敷地内を埋め尽くす数十万の拝跪の中、曹操がその高みの上に姿を現わすや、天地を
どよもす如き万歳の声が湧き起り、それが嵐の様に幾度も幾度も繰り返される。天も地も、その合
わいに在る全ての人も物も、その大気さえもが曹操と云う一人の男の為に存在する様であった。

だが、そんな熱狂の中、独り、司馬 懿 仲達の感想だけは異なっていた。


曹操孟徳・・・・裸でさえも圧倒的に偉大な男と思っていたが・・・・
 なんじ、築いた楼閣が高ければ高い程、築いた城が大きければ大きい程、その中に
 住む己が小さく見える事を知らぬか・・・・》

曹操から数歩下がった後ろには、
曹丕曹植兄弟の姿が在った。跡継ぎの資格を有する、

正妻・卞夫人が産んだ息子達である。 この時の年齢は夫れ夫れ、
24歳19歳であった。2男に

曹彰も居たが、自らも認める様に武辺一辺倒で、明らかに其の候補からは外れていた。曹操には

外にも20余人の男児が在ったが彼等は問題では無かった。然し候補が此の2人に絞り込まれる

以前の過去に於いては、他にも有力な候補が居た。と言うよりも、決定的だった。


その 〔
if=もしも〕 の可能性は3つ有った。
つは、最初の〔正妻・丁夫人〕が男児を設けていた場合。
つは、〔嫡男・曹ミ〕が健在であった場合。
つは、誰もが認める〔神童・曹沖〕が生きていた場合。

だが1つ目は、果されなかった。 その代りに 〔側室の劉夫人〕 が曹ミを産んで直ぐに他界した。

だから正妻の丁夫人が、実の子として育てた。然し、その曹ミは曹操の身代わりと成って戦死した

その惨い事情を知った丁夫人は、自分の方から実家へ帰ってしまう。

曹操が最も愛した
曹沖は、2年前に夭逝した。その時、司馬懿には長男の【司馬師】が生まれた。

210年冬の今、【
司馬昭】と名付けられる事となる2番目の男児も母胎にあった。

だが仲達は知っていた。直接、曹丕から聞かされたのである。 曹沖が死んだ直後に

曹操が発した冷酷非情な、《
闇の指令》 の事を・・・・今、臆面も無く 「求才令」 なる布告を全国に

触れ出した曹操だが・・・・実は、その才能にも”但し書き”が隠されていたのであるーーー。

曹丕が仲達に勧められて、曹操の部屋へ御悔やみに行った際、「是れは儂にとっては不幸じゃが

御前達にとっては幸いじゃろう!!」
などと云う、凄絶な呪いの言葉を投げつけて寄越した曹操で

あった。だが暫らく経った或る日、呼び出された曹丕に向かって曹操は、もっと冷徹な事を告げた

のである。その内容は、とても愛息を失ったばかりの父親の姿では無かった・・・・。

劉先の甥に
周不疑(元直)と云う17歳の若者が居た。その周不疑は 、幼少の頃から並外れた
才能が有り、聡明で優れた理解力を持っていた。曹操は自分の娘と結婚させようとしたが、周不疑 は遠慮した。曹操の愛息・倉舒 (曹沖) も幼い頃から才智が有り、この周不疑とは良き相手に成る だろうと思われた。だが曹沖が亡くなると曹操は内心で周不疑を疎ましく思い彼を殺そうと思った。 曹丕が 「それはいけません」 と諌めると、曹操はこう言い放った。
「この人物は曹沖ならいざ知らず、とてもお前が使いこなせる様な代物では無い!」
そこで刺客を差し向けて、
周不疑を暗殺した。』・・・・・・(零陵先賢伝)

超人類に属する様な、余りにも優秀な才能は、不用なのである。いや危険だと見るのだ。そして、

そう感じたら即座に殺してしまい、あとは口を拭ってケロリと澄まして居る。 将来を脅かす存在は

許さない。必要なら何でもやる!それが曹操孟徳の1面でもあるのだ。


この時司馬懿は、黄門侍郎から議郎 (枢密官) に任じられていた。兄の司馬朗は丞相主簿、弟の

司馬孚は太宰と云う夫れ夫れに重要な曹魏政権中枢を担う立場に在った。だから批判では無い。

感想であった。
《あと十数年後、我が子等は誰に仕える事となるのだろうか・・・?》チラと、そんな

思いも脳裡を掠めたが、一方、司馬懿には確信もあった。と言うより、選択の余地は無かった。

〔曹丕〕でなくては困る。それだけ強い絆が、既に2人の間にはガッチリと形成されていた。

実質の跡継ぎ候補は
長男・曹丕3男・曹植2人だけだと言い得た    

・・・・だが、肝腎な曹操本人の意向が、今ひとつハッキリと掴め無い。普通であれば長男の曹丕を

後継者に指名する筈だし、そうすべきである。然し、何を思うか、曹操・・・・未だ意志表示をしない

儘に来ていた。寧ろ、2人に才能を 競い合わせる風さえあった。ーーと謂う事は、その曹操に迷い

を生ませる理由は唯1点・・・・弟・曹植の才能の方が、兄・曹丕を上廻っていたからに外ならない。

そうでなければ、曹操ともあろう者が、何時までもズルズルと先延ばしに躊躇う筈は無い。

正史・曹植伝』には、父・曹操が迷うのも頷ける如き曹植の優秀さが記されている。

陳の思王曹植は字を子建という。年10歳余りで「詩経」・「論語」及び「楚辞」・漢賦数十万語を朗誦し、文章を綴るのが上手だった。
太祖は或る時その文章を見て、曹植に向かって言った。
「お前は人に頼んだのか?」 曹植は跪いて言った。
「言葉が口をついて出れば論議となり、筆をおろせば文章と成ります。
どうか、眼の前で試して下さい。なんで私が、人になぞ頼みましょうや。


今日は誠に目出度く 慶ばしい日じゃ。曹丕、曹植よ。その慶賀の気持をこの銅雀台上で、詩賦に謳って見せて呉れまいか!

こんな時にでさえ 父・曹操は、重臣達の眼の前で、兄と弟に 競作を命じた。それに応えて2人が
詠った詩賦の断片が、現代にも伝わっている。


ーー先ず、
曹丕の詩賦・・・・
  
登高臺以騁望   高台に登りて以って望みを
  好靈雀之麗嫺   霊雀の麗嫺れいかんなるをしとす
  飛閣崛其特起   飛閣はくつとして其れひとり起こり
  層樓儼以承天   層楼はげんとして以って天を

ーー続いて曹植の詩賦・・・・
  從明后而嬉游   明らかなるおおぎみの嬉しき遊びに従い
  聊登以娯情   いささか台に登りて以て情をたのしましむ
  見太府之廣開   太府の広く開けたるを見
  觀聖徳之所營   聖徳の営む所を観る
  建高殿之嵯峨   高殿の嵯峨たるを建て
  浮雙闕乎太C   双闕そうけつ太清みそらに浮かぶ
  立沖天之華觀   天に沖する華観を立て
  連飛閣乎西城   飛閣を西城に連らぬ
  シ章川之長流   シ章しょうの川の長き流れに臨み
  望衆果之滋榮   衆果のはなやぎをすを望み
  仰春風之和穆   春風の和穆わぼくなるを仰ぎ
  聽百鳥之悲鳴   百鳥の悲鳴を聴く

兄弟が残した、多くの「詩賦」の中から、その特徴を見い出すとすれば・・・・・

曹丕
の詩賦はー→息の長い粘り強さ悠悠とした詠い出し
曹植の詩賦はー→噴出する感情の高まり奔放なキラメキ

・・・・だと言える様だ。その事が直ちに、政事的な行為と結び付くとも謂えないが、何となく其の在り

を示唆しているとも言えようか? 「丕」と「植」の兄弟を比較して観る時、難しい事はさて置き、ただ

単純に、人間的な面白味と云う面だけで言えば、そのエピソードの豊富さでは断然、弟・曹植が勝
っている。そんな中でも、曹植の面目を躍如と髣髴させる場面が魏略に残されている。

ーー「
邯鄲淳かんたんじゅん」と云う大名士が居たのであるが、曹操が荊州を陥落させた時に召し出した。それを

聞いた曹丕と曹植の兄弟は、2人ともが競う様に邯鄲淳を我が元に抱えたいと曹操に願い出た。

すると曹操は、邯鄲淳を曹植の元に行かせたのであった。ーーこの時の曹植の応対こそは、彼の

気質・資質の豪放磊落さを象徴するが如きものであった。寧ろ、曹操の若い時に似ている。

曹植は最初、邯鄲淳を我がものとして大そう喜び、座中に招き入れた。だが直ぐには
彼と話し合う事をしなかった。その時は暑さの真っ盛りであった。曹植はそこで、何時も
側に居る従者を呼んで水を取って来させ、自分で身体を洗い、済むと白粉を付けた。
かくて頭を剥き出しにし肌脱ぎになると、拍子を取りながら五椎鍛
の躍りを異国風に躍りつつ、玉 を お手玉の様に投げ上げたり、
剣を振り廻しつつ、役者のやる小話の数千字を口ずさみ、其れを
終えると 邯鄲淳に顔を向けてニッコリと言った。
「邯鄲生、如何かな?」 そのあと改めて衣服・頭巾を着け威儀を整え、
邯鄲淳と

混沌たる天地創造の始め、万物が分離してゆく意味について評論し、その後で羲皇以来の賢人・

聖者・名臣・烈士の優劣の差異を論議し、次に古今の文章賦・誄
るい=追悼文を讃え、官職に在って

政事を行なう場合に 当然なすべき順序に触れ、 また武力を行使し 軍兵を用いる時の 変転する

状況について論じ合った。 
そこで料理人に命じ、酒とあぶり肉が代る代る出された。座中の者は

黙った儘で、邯鄲淳と対抗できる者は居無かった。夕暮れになって邯鄲淳は帰ったが、彼の知り

合いに対して曹植の才能を感歎し、曹植を「
天の人」と言った。

ところで当時、世継ぎは未だ立てられて居無かった。
太祖は急に曹植の方に心が傾いたが、邯鄲

淳は屡々曹植の才能を称揚した。
その事から曹丕の方は些か不機嫌になった。』


正に剛毅乱舞を絵に描いた様な、奔放で華やかな振る舞いである。とても曹丕では想像できない

面白さ・魅力である。また対話する内容も文学に限らず、広く政事や軍事・軍略にまで及び、決して

曹植が単に文学の人で在ったのでは無く、剛勇さを合わせ持つ
”武の人”でも在った
事を髣髴とさせて呉れる。

又、『
正史・曹植伝』にも・・・『業卩の銅雀台が新しく完成した時、太祖は子供達を全部連れて台に

登り、夫れ夫れ賦を作らせた。曹植は筆を執ると忽ち作り上げたが、立派なものだった。 太祖は

大そう彼の優れた才能に感心した。 曹植の性質は大まかで細かい事に拘らず、威儀を整えず、

車馬服飾は華美を尊ばなかった。進み出て目通りし、難しい質問をされた時、質問の声に応じて

答えるのが常で、特別寵愛された
。』


但し、同じ 「
曹植伝」 の続きには、そんな彼の 危うい性向も亦、記されている。

曹植は 才能によって特別に評価された上に、丁儀・丁翼・楊脩らが 彼の羽翼となって助けた。

太祖は考えあぐね、太子と成りかけた事が何度か有った。ところが曹植は生地の儘に振る舞い、

自己を飾ったり努力したりせず、飲酒にも節度が無かった。
・・・(その深酒の原因は”結べぬ恋”か!?)


この父親・曹操の才能重視の態度を、敏感に感じ取ったのは、当の兄弟より寧ろ其の周囲に在る

者達であった。当然、司馬懿もその一人だった。

《・・・・まあ、内心では決定してはいるのであろうが、戦乱の世の事だ。生身の人間には何時、何が起こるかは判らん、と云う処であろうか?》

断然、曹丕派の
司馬懿でさえも、そう思うのであるから、況してや曹植を推して己の栄達を狙う

者達が居ても不思議では無かった。 だが司馬懿が観る処では、今は未だ、当の曹丕 と 曹植の

兄弟の間には、愛情こそ有れ、憎しみなどの感情は一切存在して居無い様にも観えた。


翌211年、曹操は西征する
第168節で詳述するのだが、その時曹操は卞夫人(2人の母親)はじめ他の

兄弟達を全て連れてゆく。 独り曹丕だけが業卩城に残って守備を命じられる。その別れに際して

曹丕
離感の賦を詠った。この「離れに感ずる賦」そのものは断片しか伝わらないが その端し書きーー建安の十六年、かみ(曹操)、西を征す。余は居て守り、老母と諸弟は皆な従う。思慕に勝えず、乃ち賦を作りて曰くーー

 秋風動兮天気涼
   秋風のこりて天気はつめたく
 居常不快兮中心傷  居常くらしは快からずして心の中の傷まん
 出北園兮彷徨     北の園をでて彷徨すれば
 望衆墓兮成行     おおくくの墓のつらを成すを望む
 柯條潛兮無色     えだえだひそまりて色無く
 緑草欒兮萎黄     緑の草は変りてしぼみ黄ばむ
 脱微霜兮零落     し微かなる霜にこぼれ落つれば
 随風雨兮飛揚     風雨にしたがいて飛揚せん
 日薄暮兮無小宗    日は暮れにせまりて小宗たのしみ無く
 思不衰兮愈多     思いは衰えずしていよいよ多からん
 招延佇兮良久     手招いて延佇たたずむことしばらく久しく
 忽踟足厨兮忘家    忽ち踟足厨あしぶみして家を忘る

吉川幸次郎博士によれば、この詩賦の解釈は、従軍中の弟達、殊に体調不充分な曹植の旅中を思い遣るものとして読めると言われる。それに対し
曹植も亦、家族から独り離れた兄・曹丕を
思い、
離思の賦を残す。この「離れの思いの賦」も亦、断片のみ伝わる。 その端し書きに

曰く、
ーー建安十六年、大み戦、西の方を討つ。丕は留まりて国を監り、植は時に戦に従う。 こころおもい恋うる事有り。遂に離思の賦を作るというーー

 在肇秋之嘉月   肇秋はつあきろしき月に在りて
 將耀師而西旗   まさいくさ耀かがやかせて旗を西にせんとす
 余抱疾以賓従   われは疾を抱きて以って賓従ひんじゅう
 扶衡軫而不怡   衡軫くるますがりてしまず
 慮征期之方至   たびときまさに至れるをおもんぱかり
 傷無階以告辭   くて告辞いとまごいするによし無かりしをいた

父の西征の軍に従った曹植が、
業卩都に守備役として留まる 兄の曹丕を思うものとして作った

韻文である。病身で慌しく出立した為に、兄に暇乞いするヒマも無かった事を恨む詩賦である。

この兄弟間に、期せずして詠われた、
離感の賦』と『離思の賦・・・・この頃の2人には

尚、美しい兄弟愛が交わされ合っていた。それ迄は常に、遠征する場合も残る場合も、兄弟達は

ほぼ一緒であった。初めての長い離れに接し、その愛情は一層深まり高められていった。だが、

そんな本人達の気持とは関係無く、2人の周辺に在る者達に因ってその愛情が「対立の感情」へと

変容してゆくのは、この覇王の跡継ぎたる兄弟に架せられた、避け難い
宿命であった。

そして・・・・史書には絶対に記される事は無いが、その遺された詩賦から自ずと偲ばれる、半ば

公然の秘密とされている、甄氏に対する兄弟の底深い愛憎劇・・・・


然しながら、 こう云った類いの暗闘は、得てして 本人達を差し置いた形で、その
取り巻き達が
勝手に思惑を進めてゆきがちなものである。この曹丕と曹植兄弟の場合にも
・・・・

曹植でなければ困る立場有力一族 が実際に存在して居た
のである。そして、その事が一層この〔微妙な問題〕を複雑化させ、同時に先鋭化させてゆく。

             
その有力な一族とは・・・・あの
丁夫人を曹操の正妻に送り込んだ丁一族

あった。実はこの沛国の丁氏は・・娘の丁夫人が勝手に実家に戻ってしまっても尚、曹操が何とか
縁りを戻そうとしなければならぬ程の、重大な相手であった。何と曹操の父親である
曹嵩も亦

その妻を此の丁氏から娶っていた
(可能性が強い)のである。但し、曹操がその子であった との確証は無い。

詰り、
曹嵩→曹操と2代に渡って、曹氏は丁氏と強固な姻戚関係

結んでいた
のである。無論、双方に其れだけのメリットが在ったからである。

ーーそも、
沛国の丁氏とは何者ぞ!?

その疑問に答を探そうとする時、此処で我々は大きな”壁”に突き当たる。即ち、この丁氏一族の

記述は、『正史』から 抹殺・抹消されているのである。 その事実は、著者である 「陳寿」 に対する

風当たりの強さの1つの原因とも成っており、『三国志』が ”国史”として採用された当時から既に、

こんな噂が立てられていた。


陳寿は丁一族の子等に向かい、『米を千斛(千石)寄越したら父上の為に佳伝を作ろう』と言った。

然し米を貰えなかったので、とうとう丁氏の伝記を書かなかったのだ!
」と謂う評判である。勿論、

そんなのは出鱈目であり、”族滅”の処断を被った丁氏には、もはや陳寿が米を要求する相手すら

残って居無かったのが真実である。 なぜ”族滅”の憂き目に遭ったのか? については 第V部で

詳述するが、読者諸氏には当然予測がお着きの事とは思う。但し、曹操の後継争いで敗れるのは

丁氏の中の1部も者達だけであって、その件だけでは未だ”族滅”されてはおらず、否むしろ其の

一族全体としては、3代明帝の時には 側近と成って権勢を誇り、司馬懿親子を 追放寸前にまで

追い込む程の勢力を維持し続けるのである。

まあ、いずれにせよ、陳寿が三国志を執筆した時には、既に丁氏に関する史料は此の世から抹

消されており、彼の手元には「伝」を立て得るだけの資料が無かったのであろう。ーーだが、だから

と言って、我々としては此の重大な一族の存在を不問に伏す訳にはゆかない。

・・・・では、どうしよう?
そこで大きな味方に成ってくれるのが 『石井 仁 博士』の研究成果である。

その著書に拠れば、凡そ以下の如くが 〔沛国の丁氏〕の来歴であると推測される。現在、曹植を
後継とするべく策動している
丁儀广異よく兄弟の父親は丁沖でありその
前には
丁宮が在った。この丁宮は、既に霊帝の末期に三公を歴任する程の権勢を保有して いた。曹操と直接関係するのは 「丁沖」 からであるが、例の丁夫人は此の丁沖の娘で
あった。
(ちなみに沛国は、曹一族の本貫・言焦の直ぐ北東に位置する)一部は既に《第110節=女だけの城》で

述べたが・・・・旗挙げ当時の曹操は近隣の有力な豪族であった「夏侯氏」や「丁氏」・「劉氏」との

提携を強化し、相互に多重的な姻戚関係を構築。その御蔭で群雄の1人として立ったのである。

曹操と丁沖は義兄弟の盃を交わした間柄でもあった。又、献帝奉戴を実行させたのも、この丁沖

の勧めと後ろ楯があった故である。

要するに
ーー丁氏は曹魏政権誕生の立役者であったのであり、その

協力無くしては 政権運営の基盤そのものに支障が出る程の一大勢力であった。


おそらく正妻の地位は、曹嵩→曹操→の流れを汲んで、その次の代も亦、丁氏から娶る事になっ
ていたと想われる・・・が、その丁氏との密約に反発したのが誰あろう
曹丕であった!! 曹丕の母親は「丁氏」では無い。謂わば余所者の卞氏である。現在は正妻と成っているが

曹丕が己の血筋を確固たる正統な位置に押し上げる為には、この丁氏と父・曹操との関係を清算 してしまわねばならなかったのである! 
べん氏〕 の地位を不動のものとする為にはーー

曹丕は、父親・曹操とは 違った態度を採らざるを得無い立場に置かれていたのである。

その曹丕が取った実際の行動を、補注の『
魏書』が採録している。

曹操は、亡くなった(198年頃?)丁沖の功績を讃え、未だ見た事も無い丁沖の子・丁儀に、我が愛

(劉夫人の産んだ娘。のちの清河長公主)を呉れてやろうと縁談を進めた。その時一応、曹丕に相談して

みると、曹丕はこう言った。 「女性は夫の容貌を気にするものです。 正礼(丁儀)は片方の眼が

不自由(眇
すがめ)ですから好い顔はしないでしょう。伏波将軍 (夏侯惇)の子に嫁がせるのが宜しい

でしょう」
 そこで結局、曹操は娘を夏侯楙と結婚させた。処が後日、丁儀を掾属に辟召してみると

才気煥発、想像以上の人物だと判る。 「丁儀なら、たとえ盲目であっても 娘を呉れてやったもの

を!まんまと小僧に嵌められたワイ。」 然しもう、後の祭りであった・・・・。



そう云う態度を貫き通す
曹丕であれば、当然の事ながら ーー丁氏本家の
丁儀广異兄弟反曹丕派と成るしか無い。必然な成り行き として、この2人は曹植に全てを賭ける事となり、敢えて曹植派の旗振り役と成る
                                

但し筆者は、此の”事件”については、更に穿った観方を持って居るーーそれは、表面には決して

出て来ない・・・・〔夏侯氏と丁氏との暗闘〕である無論、曹操も黙認

して居た、否、結託して居たのではないか??ーー実は、全て曹操の計算・演出であった!のでは

ないか??・・・・ハッキリ言えば、《政権中枢を一族だけで固めたい!》曹操や夏侯氏から観れば

丁一族は 「もう御用済み」 ・ 「邪魔な存在」 に成りつつ在った筈である。旗挙げ当初には確かに

心強い同郷の味方では在ったが、今や巨大と成った曹魏政権=特に夏侯氏にとっては、丁氏は

寧ろ「厄介者」へと変容して来て居たに違い無い・・・・その視点をも加味するべきであろうと筆者は

思って居る。ーーとなれば、この後継者争いの対立の構図は、単に2派閥だけの問題に留まらず

閥属の生き残りをも含んで、更に複雑な様相を呈してゆく事となる。又、それは同時に、夏侯氏の

分厚い支持が、曹丕の側に在ったであろう推断を産むものである。

さて処で、そうした特別の背景や事情を持たない、大多数の〔無色の者達〕 だがーー

曹操の真意を測り兼ねる多くの者達は、決定後に予想される粛清の惨酷さを恐れ、余りにも危険

に過ぎる態度表明を避けて「我れ関せず!」の日和見的な立場を採っていた。だが然し、中には

曹植と親しく彼の才能を高く買っている者達も在った。親しいからとて、即、後継問題に直結させて

しまうのは乱暴に過ぎるが、全くの無関係では無い。殊に微妙だったのは、のちに《建安の七子》と

評される如き、詩才豊かな文官の家臣達であった。

詩賦の才能に於いては明らかに曹植の方が数倍上で在ったから(後世、詩の神とされる)、彼等も随分
やり難かったであろう。 当然ながら七子では無いが、この
丁儀广異兄弟 と、
ハッキリ結託した事が判っている
確信犯者楊脩だけである。その他の4人は唯単に

自分の感想を素直に述べた程度だった様に観える。無論多少のリスクは予想して居たではあろう
が、どうも  積極的な活動をした姿勢が 感得し難い。その5人とはーー荀ケの長男
荀ツじゅんうん
孔桂こうけい楊俊ようしゅん秦朗しんろうそれに前述の邯鄲淳かんたんじゅんも含まれようか。だが何せ、記録

抹消の出来事だから、その他の者達の真実の心模様は把握でき無いのが実際の処である。寧ろ

逆に、その勧誘に反発して、却って〔曹丕派宣言〕をした者達の人数の方が、圧倒的に多い始末で ある。だから確実に言える事は・・・・曹植を
積極的に押して立てて、説得活動に奔走したのは 丁儀丁广異楊脩の 3人だけであった と云う事である。

大した文量では無いので、史書にはどう書かれているかだけを見て置こう。


(1)ーー丁儀广異よく】兄弟の行動記述・・・・

『当時 丁儀も亦
(曹丕の妨害に因って) 公主(曹操の娘)を娶れなかった事を恨みに思った。そして曹植と親交を結び、たびたび其の優れた才能を称讃した。太祖が植を太子に立てたいと云う気持を抱くと、丁儀も亦それと同調し 賛意を表した。』 (魏略)

『毛介と徐奕は 剛直な為に仲間が少なく、西曹掾の丁儀によく思われなかった。
丁儀はたびたび彼等の欠点を挙げつらったが、桓階が弁護したお蔭で安全を保つ事が出来た。』 (正史・桓階伝)
『当時太子の地位は未だ安定していず、しかも曹植が太祖から可愛いがられていた。毛介は内密に太祖を諌めた。』 (
正史・毛介伝)

『昔、太祖は長い間、太子を立てず、一方では曹植を評価し尊重していた。 
丁儀らは彼の羽翼と成って助けていて、衛臻に自分達と結託するよう勧めたが、衛臻は大義を楯にそれを拒否した。』
(
正史・衛臻えいしん)
『当時、
丁儀らが寵愛を受けており、徐奕を陥れようとしたが、彼は全く動揺しなかった。』 (正史)

『或る人が 徐奕に向かって言った。「丁儀は現在、身分も高く羽振りもよい。彼に頭を下げる事を考える方が宜しいぞ。」→「丁儀は長い間、その見せ掛けの行為を続けて居られようか。』 
(魏書)

『その頃、丁儀兄弟が取り立てられ、目を掛けられていたが、丁儀はカキと仲が良く無かった。
尚書の傅巽は カキに向かって言った。「丁儀の憎しみはヒドイものとなっています。貴方は毛介と友人だが、毛介らは既に丁儀にヒドイ目に遭いました。n貴方も少し 彼を立ててやった方が宜しいでしょう。」→「道義に外れた行為をすれば、我が身を損うのが精々です。』 (
魏書)

『それより以前、太子が未だ決定されず、曹植が可愛いがられていた。
丁儀らは いずれも曹植の美点を宣伝した。』 (正史・形禺頁)

丁广異は字を敬礼といい丁儀の弟である。丁广異は若年にして才能を持ち、容姿が美しく、広い学識と見聞が有った。最初公府に召され、建安年間に黄門侍郎となった。丁ヨクは或る時ゆったりとした口調で太祖に向かって言った。

「臨シ侯(曹植)は天性愛情深く孝行なお方でして、それは自然に生まれ出たものです。それに聡明で理解力豊か、殆んど理想的といってよいでしょう。広い学問と深い見識を持ち、文章は群を抜く素晴しさ!当今の天下の賢才君子は、年齢に関係なく、皆その遊興に参加し、侯の為に命を投げ出したいと念願して居ります。誠に、天が大魏に幸いを与え、とこしえに無窮の御位を授けられる
”しるし”で御座います。」
この言葉によって太祖の心を動かし、曹植を太子とする事を勧告しようとしたのである。 
太祖は答えた。 「植は、儂も目を掛けておる。卿 の言葉ほどでは無いが、
                      儂は あれを立てて 跡継ぎとしたい。どうだろう?」

「これは国家の盛衰、天下の存亡に関わっている事で御座います。愚かで取るに足りぬ賤しい身分の者が、敢えて関わり合う問題ではありません。私が聞きますに・・・・臣を知るのは君より以上の者は無く、子を知るのは父より以上の者は無い、とか。君については其の明君暗君を論議せず父については其の賢人愚者を問題にせずに、何時でも其の臣や子を知る事が出来る・・・・としているのは何ゆえでしょうか? 詰り、1つの事1つのものから理解されるのでは無く、長い時間を掛けて充分な判断を下すからです。況して明公には、それに加えて英知を御持ちになり、お子様方を充分観察して居られるのですから。今、深い理解を元に御命令を発せられ、永遠の安定の為の御言葉を吐かれますれば、上は天命に応え、下は民意に合致し、暫時の間に下されました処置が、万世にまで長く残る事に成ると言ってよいでしょう。私は斧や鉞による死刑をも恐れず、思い切って言葉を尽さないでは居られませぬ。」 太祖は、その言を心中深く受け容れた。』

※尚、曹植が臨シ侯と成ったのは現時点からは4年後の214年の事であるから、この『文士伝』の記す事が正確であるとすれば、曹操の心はだいぶ長い間、揺れていた事になる・・・・。

(2)ーー楊脩ようしゅうの行動記述・・・・太尉・楊彪の子
『謙虚で慎み深く、広い才能を持っていた。この当時、軍事にも国政にも事が多かったが、楊脩は内外の事を取り仕切り、携わった事は全て太祖の意に叶った。曹丕以下、いずれも争って彼と交友を結んだ。又この当時、曹植は利発さによって可愛いがられていたが、楊脩に心を寄せ、度々楊脩に手紙を送った。
『数日お目に掛からないと、君の事が思われて苛々して参ります。 君も思いは同じでありましょう。僕は幼少の頃から辞賦が好きで、それから現在迄25年経ちました(217年)。その為、現代の作者については大体語る事が出来ます。・・・・(以下、文学論)・・・・
辞賦はつまらぬ技芸であって、元々立派な道義を称揚し、未来に明示する程のものでは御座いません。
・・・(略)・・・・矢張り御国の為に力を合わせ、人民の為に恵みを行き渡らせ、永久不変の功業を打ち立て金石に刻まれる様な勲功を残したいと念願して居ります。 ただ筆や墨を用いる事を手柄と考え、辞頌を作る事を君子の務めだと思いましょうや!・・・・(略)・・・・明朝お迎え致します。手紙では充分に心の裡を述べられません。』
『お側に侍らない日が数日にもなりますと、年を越す程の思いが致します。私だけが特別に目を掛けて戴いている為に、心の繋がりを感じ、お慕いする気持が深くなるのでしょうか。・・・・(以下、文学論)・・・・」
 この様に2人の遣り取りは非常に度々あった。』 (典略)

『その昔、楊脩は 〔
王髦おうぼうの剣〕 を手に入れて曹丕に献上した。曹丕は常に其れを帯用して いた。或る時、楊脩が自分に対して余りにも冷淡だった態度を思い出し、その剣を撫で擦りながら
「いま王髦は何処に居る?」と言い、王髦
(刀匠?)を召し出して穀物と帛を賜わった。』

※ この楊脩ーーのち曹操の『
鶏肋?』の謎掛けを直ちに理解するエピソードも残す。 
※ あの禰衡でいこう が、昔、唯一褒めた相手は この楊脩であった。
※ この楊脩だけは★★★、219年に「曹操の手によって」 処刑される。(後述)


(3)ーー荀ツじゅんうんの場合・・・・(荀ケの長男。曹操の娘(安陽公主)を娶っていた。)
『最初、曹丕と曹植のうち、どちらを後継にするかの比較論が行なわれていた時、曹丕は礼の規
範を曲げてまで荀ケに遜った。荀ケが亡くなると、荀ツの方は曹植と親しくし、夏侯尚とは折合が
悪かった為、曹丕は荀ツをひどく憎んだ。』 (
正史・荀ケ伝)

(4)ーー孔桂こうけいゴマスリ人間の場合・・・・
『孔桂は 字を叔林といい、天水の人である。 孔桂は 媚へつらって人の機嫌を取る性格で、博打
(賭け)や蹴鞠が上手だった為に、太祖は彼を愛幸し、いつも側に置き、外出の お供をさせた。
孔桂は、太祖の気持を観察し、機嫌の好い時を見計らって、話のついでに細々と意見を陳述した
ので、提案の多くは採用され、度々金品を賜わった。他の人々も彼に沢山のプレゼントを差し出し
そのお蔭で孔桂は立派な衣服を身に纏い、素晴しい御馳走を食べていた。太祖が孔桂を愛幸して から後、曹丕や諸侯も亦みな彼と親しくする様になった。
その後、孔桂は太祖が長い間、太子を立てず、意中に曹植が在るのを見て取った為、あらためて
曹植と親しく交わり、曹丕を疎かに扱う様になったので、曹丕はこの事を非常に根に持った。』

                                   (
魏略・侫倖ねいこう篇=ゴマスリ人間篇)
(5)ーー楊俊の場合・・・・
『その昔、曹植は 楊俊と仲が良かった。 太祖は継嗣を 未だ決定せず、内密に 官吏達に意見を求めた。楊俊は曹丕と曹植の持ち前の優れた点を合わせて論じ、一方に加担する事は無かったが、然し 曹植の方をより立派だと讃えた。曹丕は常にその事を根に持っていた。』(正史・楊俊伝)




こうして 改めて羅列してみて、初めてハッキリと言える事はーー
或る時期、曹操は確かに曹植を後継にしても良いと考えた事が有ったと云う事 それも、かなり長い期間に渡っていたと云う事
ほぼ公けに下問や諮問を行なっていたと云う事
或る瞬間には、賛同して措いた方が安心だと思わせる程度に、
                    
曹植派が優勢だった時期もあったと云う事
結局最後は曹操の胸三寸に掛かっていた!・・・・と云う事
曹丕は、深い恨みを抱き続けていた事!将来、凄まじい粛清の嵐が予感される事

・・・・である。 彼等の運命については、いずれ 第V部 で語られるがーーそれにしても、曹操は、

罪な事をするものだ。 何も 敢えて、事を複雑にしなくとも好かろうに・・・・?? 幾ら”覇王の家”に

生まれた宿命だったとは謂え、当の【曹丕】・【曹植】の兄弟にとっては、その青春時代の毎日は、

余りにも苛酷な日々の連鎖であったろう。ーー思えば2人ともに、未だ僅か10代で在った。そんな

〔思春期〕の裡から、常に四六時中の緊迫した競争を強いられて居たのである。然もライバルは、

此の世で最も血の濃い兄と弟であった・・・・堪ったものではない!普通なら、人生で最も幸せな、

野放図で明るく愉快な、青春真っ只中の期間に相当する。その伸びやかな人生の至宝の時期を

奪い去られ、恰も 衆人監視の檻の中に押し込められ、重く圧し掛かる息苦しい空気だけを吸わさ

れ続ける・・・・不可しく成らない方が不思議であろう。

特に5歳下の【曹植】などは、最も美味しい青春の全部の時期を、この緊張状態の裡で生きた事に

なる。現代の青年心理学から観ても、精神に変調を来たすのは当然である。それを強靭な理智と

体力で懸命に耐え、天賦の煌めきで凌いで居る。いっそ健気な程であるーー正に、

曹氏栄光の巨大化は、兄弟にとっての不幸の拡大と比例する

のである・・・・もはや兄弟には、他の道を選ぶ自由は無かった。また父・【曹操】にとっても、己の

決断を迫られる、そう云う時期に差し掛かって居たのである・・・・・・



では、それに対抗する曹丕派の方はどうだったのか??・・・まあ大多数の者達は
この後継者問題は結局、曹操が常識的かつ無難な〔嫡子相続〕を選んで決着するもの、だと観て

居た。と言うより、そうあるべきだと思っていた。だから何も殊更に派閥を結成する程の事も無い、

既定の方向だと観ていた様だ。だから却って存外の事に、”曹植派”などと云う巨大なグループは

存在して居無かったのである。そもそも事が事だけに万が一の場合、下手な意見を言ってしまい

逆転判決が出た場合には3族粛清の悲劇に晒される危険が在った。幾ら思っていても誰も進んで

口を開かない。どっちに転んでも良い様に処世して措く・・・・それが賢明な家臣の採る道であった。

曹操から個人的に、直接に問われれば答えるが、自分の方からは敢えて言わない。無論のこと、

曹操に上申する者も在った。丞相主簿を経て虎賁中郎将・侍中と成った【桓楷】などは再三に渡り

『曹丕は徳がすぐれ年齢が上であるから太子にするのが当然である!』 と意見具申していた。

然し、そうした理性派・常識派の者達は 〔煽り行為〕 を慎み、衆を成したりせず、また直接曹丕の

面前で態度表明する訳では無かった。謂わば、”声無き多数派”ーーそれが曹丕の形勢であった。

だが当事者の曹丕にしてみれば、曹植の取り巻きが蠢いて居るのを知っている以上、矢張り不安

になる。 自分のブレーンとしてハッキリしているのは司馬懿仲達 だけであるが、彼が現在

「議郎」で許都に在るからには、常に相談出切る訳では無かった。・・・・そもそも2人の王子ともが

互いに若く、未だ是れと言った 軍功・武功の在る訳では無いのだから、王子達自身が為し得る

勢力拡大の為の行動と謂えばーー其れは自ずから2つに限られた。1つは 〔世論作り〕

より多くの”名士=重臣”との付き合いを通じて、己の才能や適格さを相手に認めさせる事。その

際には”後宮”の評判も世論と見て良いだろう。そして2つは〔父・曹操の心証アップ〕

その下問に対する 素早くて正確な政策や対策を示して見せる事ーー以外には無かったと謂えよう

いずれの場合にも己独力では為し得ぬ事だ。・・・・曹植には「丁儀」・「丁广異」・「楊脩」と云う

積極派が常に近くに居た。だがその点では寧ろ、曹丕の側に其の側近が居無かった。


ーーそこで、此処に、或る1人の男が、”曹丕派”として登場して来る



その人物・・・・名を呉質と言う。ーー是れまで殆んど注目される事の無かった人物

である。稀に登場する場合でも、それは飽くまで”曹丕のメッセンジャーボーイ”・”手紙配達人”と

しての〔黒子〕に過ぎ無かった。 即ち、曹丕が出した「手紙の相手」としてのみ名前が出て来る。

そして重要なのは、曹丕の手紙の中味 (主として建安文学・建安の七子への評価) の方である。

だから正式な『伝』も立てられては居無いし、正史の記述も僅か3ヶ所。彼の主な言動の殆んどは

補注の史料に拠る・・・・と云った塩梅の”怪しからざる男”である。而して筆者は、この男の存在に

可也の興味をそそられる。 就中、 曹丕を介しての〔司馬懿仲達との関わり には、殊更に

注目して居る。・・・・何故なら此の呉質、後年になって仲達の娘を後妻として迎えるのである。

字は季重ーー呉質は済陰の人である。文才によって文帝(曹丕)に評価され、 官位は 振威将軍・ 仮節 都督 河北諸軍事まで昇り、
列侯に取り立てられた。
・・・・仮節都督河北諸軍事とは、独断で将軍達の殺生与奪権
を認められた、黄河以北の全軍を統轄する総司令官である!権勢の絶大を誇る大重臣である。

正史・崔林伝の記述には、その権勢ぶりが記されているーー『北中郎将の呉質が河北の軍事を統括して居たので、シ豕郡太守の王雄は崔林の別駕 (副官) に向って忠告した。

呉中郎将 (呉質) は、お上に親愛され尊重されて居る方で、国の重臣だ。節に頼って事を統べ、州も郡も挨拶状を送って敬意を表わさない者は居らぬ。ところが崔使君 (崔林) は全然知らぬ顔。
もし国境地帯が治まらぬ事を理由に卿を斬るならば、使君はどうやって卿を弁護できるかね。」

別駕は詳しく其の話を崔林に語った。すると崔林は平然と言った。
「儂は此の州を去る事を履物を脱ぎ棄てる程度に思って居るのだ。どうして彼と関ずらわる必要があるのじゃ。然し此の州は北方異民族と接しており、彼等を鎮めて平静にしなければならぬ。それだからこそ此の地に止まって居るのじゃ。」 一期間だけ在職したが、侵奪は影をひそめた。
にも関わらず上司(呉質)に頭を下げなかった為、河間太守に左遷された。清潔な人々の間では、崔林の為に残念がる意見が多かった。』

呉質別伝』には彼の権勢が、重鎮の間に於いても比類無きものであった様が記されている

『黄初五年(224年)、呉質が都に参代した時、上将軍と特進以下の官吏に詔勅を下して、全員を呉質の宿所に集め、食膳係が御馳走を供した。 酒宴たけなわとなって、呉質は役者を召し出し、肥っちょと痩せっぽちについて喋らせた。曹真は高貴な身分を自負して居たから、酒の肴にされたのを恥辱と思い、腹を立てて呉質に迫った。 「卿は儂を部下の隊長扱いにする心算か!」
驃騎将軍の曹洪と軽車将軍の王忠も言った。「将軍(呉質)が、どうあっても上将軍(曹真)に肥っている事を認めさせたいなら、自分の痩せて居る事を認めるがよかろう!」

曹真はいよいよ怒り、刀を抜き眼を怒らせて言った。
「役者が敢えて浮わついた事をするなら、儂はお前を斬る!」
かくて座中を罵倒した。呉質は剣の柄に手を掛けて言った。
「曹子丹、きさま、まな板の上の肉を料理するのと違うぞ!儂は貴様を呑み込んでも咽も動かさないし、貴様を噛み砕くのに歯も動かさないのだ!どうして権勢を恃んで偉そうにするのだ!」
朱鑠はそのとき起ち上がって言った。
「陛下が我等を寄越されたのは卿を楽しませる為なのに、そこ迄するのか!」
呉質は振り返って怒鳴りつけた。「朱鑠、よくも座を壊したな!」
諸将軍はみな自分の座席に戻った。朱鑠は短気な性分だったから、いよいよ腹を立て、また剣を抜いて地面に斬りつけ、かくて其のまま退出した。』

斯様に、総じて彼の評価は悪い。何となれば、『もともと呉質は 権勢の無い家柄の出であった

その呉質の地位は・・・・偏に”曹丕の寵愛に拠るもの”であったからである。

又その権勢を笠に着た言動を慎ま無かった為である。その不評は他国にも聞こえる程だった。

正史・胡綜伝では、敵国・呉の【胡綜】が、そんな呉質の悪評を利用して、ニセの内通

文書を3通も書き上げて 魏国内に流布させた程である。(詳細は後述) 敵をしてさえ尚、

『効果有り!』 と判断される程に迄、呉質と云う人物は不徳の存在であったのだ・・・・。


だが逆に言えば、それだけ曹丕にとっては有り難い存在であった!・・・・

と謂う事である。そこら辺の事情を 魏略 は次の様に記しているーー

『呉質は 字を季重と言う。 広い才能と学識を持っていた事から、曹丕や諸侯から礼遇され寵愛

された。呉質も亦 それら兄弟の間を上手く立ち廻り、前時代の楼君卿が五侯の間を泳ぎ廻った

のと同様であった。呉質は劉驍轤ニ共に”客”として出入りした。』


ーーそして、実際に曹丕に対して (曹丕派として)、どんなアドバイスや支援をしたかについては

世語』に、かなり怪しげな記述が幾つか在る。 ( 尤も、「世語」自体が怪しいのではあるが・・・・)

丁儀兄弟や楊脩が、弟・曹植の為に様々な支援活動を繰り広げている最中の事ーー

『曹丕は其れを気に病み、車に壊れた”行李”を載せ、中に朝歌県長の呉質を入れて宮中に参内させ協議した。(このとき呉質は、同輩の”劉驍フ不敬罪甄夫人への直視事件”に連座した為に地方の県に左遷されており、参内の資格を失っていたーーとの設定である。但し
〔劉驍ヘ不敬罪で刑を受け〕は正史に記述が在る。) 楊脩は其の事を太祖に言上したが調査する迄には至らなかった。曹丕は心配になり、呉質に話した。呉質は言った。
「何を気遣われます。あす今度は絹を入れた行李を車に積み、参内させて彼を惑わせなさいませ楊脩はもう1度重ねて言上するでしょう。2度目の言上とあれば必ず調査されますが、証拠が無く彼は罪を受けます。」ーー曹丕はそれに従った。果して楊脩は言上したが人は入って居無かった。太祖は其の事から、楊脩に疑念を持った。

同じ 『世語』 の話ーー 『或るとき曹操が出征し、曹丕と曹植はいずれも道路で見送った。
曹植は、曹操の功績と徳義を称揚し、その言葉は美しかった。近侍の者達は目を見張り、曹操も上機嫌であった。曹丕はガックリして、ただ見て居るだけだった。すると呉質が耳打ちして言った。
「王が出発される時、涙を流せば宜しいのですヨ。」
別れになると曹丕は泣いて拝伏し、曹操と近侍の者もみな涙に咽んだ。
その結果ーーみな、曹植は言辞は華やかであるが、誠実さでは曹丕に及ばないと判断した。』

さて、筆者が最も引っ掛かるのはーー『呉質別伝』 の最後の部分である。 むしろ筆者は
此処が言いたくて、諸史料を羅列して来たといっても良い。

『大和四年(230年)、呉質は朝廷に入って侍中と成った。当時、司空の【陳羣】が尚書の事務を
兼務しており、明帝(3代目)は万機を統べ始めた処であった。 輔佐の大臣は安危の根幹である
との考えから、呉質は帝に対して盛んに申し述べた。
「驃騎将軍の司馬懿は忠節で英知が有り、極めて公正な方でして国家を支える臣で御座います。陳羣はのんびりした人物で、大臣の才を持った男では無く、重い職務に在りながら、自分で事に当ろうと致しません。」
明帝は、その言をそっくり受け入れた。翌日、厳しい詔勅が下り
陳羣を問責した。然し 天下の人は、司空の職は 陳羣が最適で
あり、陳羣に対する呉質の発言を事実に即して居無いと考えた。呉質は其の年の夏に亡くなった。
呉質はその前、威光を笠に着て、勝手な振る舞いをして居た為に、醜侯と諡された。呉質の子の呉応は、そこで上奏して事実に反すると論じた。正元年間に成ってやっと改めて威侯と諡された。呉応は字を温舒と言い、晋の時代に尚書と成った。』


ーー是れを、どう観るか?? また 観ないか??・・・・ゴチャゴチャするので、その考察は此処ではせずに措く。が、少なくともーー曹丕には、司馬懿仲達以外に、もう1人、呉質と云う、積極的な曹丕派 が 現われたのである。





兎角メダカは群れたがる。兎にも角にも雑魚どもは、寄らば大樹と派閥に頼る・・・古来より此の方

跡目を巡る御家騒動は、その頂点が巨大で在れば在る程、その暗闘は熾烈を極める・・・・と

相場は決まっている。その事を一番よく識っているのは曹操自身であった。一体、何時になったら

後継者を決定する心算なのであろうか?いや、発表する算段で居るのであろうか!?その胸中を

是非にも語って貰いたい・・・・のだが・・・

ーーフム、宜しかろう!!》

ツァラトゥストラは、かく語りき。 「神は死んだ!」・・・・では・・・・無かった・・・・

魏の覇王・曹操は、かく語りき。 「まあ、次の節を見て呉れ!」

続けて曹操は言った。 「俺の本心は、こうだ!!」




遂に2兄弟の上に跡目の
 発表が為される日が来た!? 【第167節】 跡目決定!か?(五官中郎将・曹丕)→へ