第165節
三国志の七変人

                                 カタツムリ仙人

パルテノン神殿の前で、弟子のプラトンが尋ねた。
「先生はゼウスから、『人間世界最高の賢者である!』との御託宣を受けられたそうで御座いますが、本当でありますか?」
哲人・
ソクラテスは答えた。 「如何にも。」

弟子プラトンは更に尋ねた。 「その理由についても、御託宣は有ったので御座いますか?」
師・ソクラテスは答えた。 「有った。」

弟子プラトンは又尋ねた。 「では、その訳を御聞かせ下さいませ。」

ソクラテスは弁明して答えた。
「私が賢者で在る理由とはーーそれは・・・・

私が、此の世で最も愚かで、未だ未だ知らぬ事が山程あると云う事を、私自身が此の世で最もよく識って居るからに外ならぬ
・・・と謂う御告げであった。」

ーーいわゆる、ソクラテスの弁明に出て来る無知の知である。 

そして是れが、人類史上に初めて〔哲学〕が生まれ出でた原初であり、哲学者・賢人・哲人達の

根源的で基本的な姿勢である。 ちなみに、凛華さんが周瑜に抱いた如き「
プラトニックラブ」とは、

プラトンの『
饗宴』で語られる愛の理想であり、(容姿も含めた)肉体への愛より、精神的な愛こそが

至上のものである・・・・と説く。 尚、ソクラテスは生涯、書物を著わさなかった。 彼は常に散歩

(逍遥)しながら、弟子たちと対話をしては思索を高め、深めたのである
(逍遥学派)

では何故 ソクラテスの思想が現代に伝わっているかと言えば、それは弟子であったプラトンが、

生前の師の会話を書物に著わす形で伝えたからである。 かように、人類の思索・哲学は「対話・

問答」から始まったのであ〜る。 ーーにも関わらず、
三国時代 の中国には、その会話・対話

すらせずに、
唯ひたすら口を閉じ、ジェンジェ〜ン喋らない哲人〕が居た。いや、正確に言うと、

哲人なの
かも知れ無い人物が居た。 たぶん賢者であろうと言う者が1パーセント、 いや単なる

気狂いだ!と断言する者が99パーセントであった。でも、御本尊が全然喋って呉れないのだから

確かな事は筆者にも言えない。・・・・それにしても・・・・・しみじみ、つくづく、吾人は思う・・・・。

そして言いたい。叫びたい。

    アホか!お前は!?・・・・と・・・・

ーーだが然し、アホでもバカでも 何でもいい。誰に迷惑かける訳でも無いのだし、結局89歳まで

長生きして見せたのだから素ン晴しい。とっても吾人にはマネ出来無い。だから、もう一言。

    アンタは エライ!!


いや実際、エライのである。御立派と言うしか無い、物凄〜い生き様なのである。

然も、彼一人だけでは無かった。未だゾロゾロと同類が棲息していたのだ。その事を『
三国志』は

貴重なスペースを英雄・豪傑達以上に割いて、大真面目で後世に伝えているのだから、世の中、

深くて、よ〜ワカラン????ーーで、彼等には共通するキイワードがあった。それは・・・・

カタツムリである。・・・・へ? 何のこっちゃ??ー→どうやら此の節は、我々凡人には

奥が深すぎて理解不可能な様だ。 そこで、推定年齢5億歳の、人生の機微には深く通暁して居ら

れるオジャマタクシ界の最長老・
王石介に御登場を願い、その鋭い哲学的考察を以って

この節の案内役を務めて戴く事とする。



「そもそもカタツムリとは『蝸牛』の事で、螺虫=巻貝の角を持っているエスカルゴの事じゃ。あの、

ナメクジに貝殻を被せた様な、でんでん虫の事じゃ。俗語では「黄犢
こうとく」とも呼ぶ。ーーで、何で

彼等に関係あるのか?と言えば・・・・彼ら手作りの簡易宿泊所、つまり住居の形状が、そのカタツ

ムリの格好に似ていたからなのじゃよ。 三国志では、その円形の小屋を
瓜牛盧と表記して

おるが、つらつら慮みるに、「瓜」の字は「蝸」の字に置き換えるべきものなのじゃ。その事は、原典

の「荘子」に載っておる。」 
・・・・・ナルホド・・・・・

「では先ず、享年は 89歳とも100歳以上とも言われている、或る人物の事から お話し致そう。

その人物の生涯は、ちょうど三国興亡の時代と完全に一致しておる。然しながら、その彼の確かな

出自を知っている者は誰も居らんのが実情じゃな。」

ーーその男・・・・名は
焦先しょうせん、字を孝然と言った。

オギャ〜と生まれた後、20歳頃までは”普通の人”であった。一般人同様に、ちゃんと妻も娶って

いる。出身地は関羽と同じ、黄河大屈曲地点の東に接する「河東郡」であった。だが其処は、彼の

20歳当時、
白波の賊どもが跋扈していた。為に焦先は母親を連れて、親友の侯武陽と共に揚州

へ逃れた。その避難先で妻を娶った。建安の初年
(196年)になって、皆で一緒に、再び故郷に帰る

事にした。このとき侯武陽は河東郡
(大陽県)まで戻ったが、焦先はその手前の陜県に留まった。

処が211年
(建安16年)になると、この一帯に動乱が起こった。(この後、第168節で詳述する曹操の遠征)

その戦禍に巻き込まれた焦先は、母親も妻も子も失って、たった独りになってしまった。

・・・・そして此処から、彼の人生は普通では無くなるのである。

たぶん 40歳 前後の事であるから、焦先は此の後の50年間を、異様で異形な生き方に

徹する計算になる。 その”動機”については詳らかでは無いが、皇甫謐が記した『高士伝』では、

「漢王室が衰微したのを儚んだ為」 としている。だが此の見解は、彼が後に焦先を「高士」と扱う

故のコジツケから為されたと見るべきであろう。恐らく実際の処は、父母兄弟妻子の全てを一瞬の

裡に失った
(奪われた)空虚感・虚無感から、自然発生的に取った、取らざるを得無かった心境・境地

の暗渠から始まったのであろう。 (だとすれば、その責任は曹操に由来する事になる??)


・・・・・一切を捨てる
一切の己を棄て去る・・・・・

生きる為と謂うより、生命維持の為に必要最小限、カツカツ以外は全てを棄て去って求めない。

  衣も、も、
      
  そして、言葉さえも・・・・・

衣・食・住・の全ても失った。 だが焦先はもう、其処から動こうとはせず、そのまま黄河の河原に

身を暗ます。とは言え、生身の人間で在る以上は、最低限でも腹が減る。河原の草を喰らい、黄

河の水を飲み、衣服や履物は無かった。やがて衣服はボロボロの垢だらけとなる。

ーーそして、この時から・・・・焦先は、自分からは

    全然 口を利かなくなった


そんな折、大陽県令の朱南が、遙か遠くから 異様な風体の焦先を見つけて、きっと逃亡の士に

違い無いと思い、船を送って逮捕命令を出した。この時もし捕まって拷問されれば、その衰弱して

いる体力からして、必ずや死亡したに違い無かった。 だが幸いにも侯武陽が居合わせ、長官に

一言アドバイスして呉れた。

ああアイツなら、此処らでは有名な気の狂った単なる阿呆に過ぎませんよ。」

その御蔭で、焦先の戸籍には『単なる阿呆!』との但し書きが付けられ、当座の間は1日に5升の

穀物が支給される事となったのである。だが、「1日に5升とは、何とも剛毅な大盤振る舞いだな!

食べ切れんジャ〜ン!」 と感心してはならない。 当時の度量衡では5升は約1リットル。近代の

10分の1以下だった。とは言え一般人の1日の摂取量は3合
(0.54リットル)兵士は倍とされていた

から、充分以上である。 草を喰らっていた焦先にとっては、夢の様な話であった。取り合えずは、

親友・侯武陽の配慮によって生き長らえる事が出来たのだった。然し、この5升と云う量について

の記述は、常に腹ペコ状態だった彼の記述から推して、どうも多過ぎる。たぶん最初だけだったの

であろう。又、やがて打ち切られたとも想われるーーいずれにせよ、働かざる者、食うべからず!

役所は焦先に最低の職種とされる「死体処理・墓堀人」の仕事を命じた。この当時、疫病が猛威を

振るっていたから、遺体運び・埋葬作業は連日の茶飯事であった。だが焦先は別に文句も言わず

ただ黙々と作業に従事した。然し、その風体は殆んど素っ裸状態で垢だらけの上、その仕事が亦

奴婢以下と来ていたから、大人は勿論、ガキンチョ達までもが焦先を馬鹿にしては軽蔑した。

時には石を投げ付ける、遊び相手にさえされる始末であった。だが然し、焦先は少しも凹む様子も

無く、決して横道には入らず必ず大通りを通った。但し時々、急にササッと物蔭に身を潜める場合

があった。 最初人々は、その彼の”奇妙な行動”の意味が解らなかったのだが、やがて或る法則

が有る事が判った。ーー彼が急に隠れる時は必ず、女性の姿が見えた場合であったのだ。そして

彼が再び姿を現す時は、必ず
婦人が通り過ぎた後であったのである。その行動パターンが判ると

ガキンチョ達は面白がって、彼の後にゾロゾロくっ付いては「ササッとごっこ」を真似ては悦んだ。

やがて穀物支給がカットされ、焦先は落穂ひろいもした。だが拾う場合は決して大きな穂は取らず

余分に拾い集めてストックする様な事はしなかった。衣・食・住・で言えばーー

(1)
・・・・僅かに身にへばり付いていたボロ切れは、もう 全く衣服の意味を持たなくなって

いたから、いっそサッパリぶっちゃって、完全なスッポンポンになった。どうしても必要な場合には、

草の葉っぱを綴って急所だけを覆い、袴の代用とした。当然、頭には被り物なぞは無く、常に裸足

であった。まあ、基本的には
丸裸で一生を過ごし必要な場合だけはゴーギャンの絵の如き、半裸

の腰蓑姿が正装となる訳だった。但し平気で直接、土の上にも寝たから、その肌は何処も彼処も

丸で漆を塗りたくった様だった。その様を哀れに思った人々は、衣服をプレゼントして着せてやろう

とするのだったが、焦先は絶対に受け取らなかった。


(2)・・・・基本的には生涯に渡って空腹を好しとした。決して貯蔵や飽食はせず、数日の間

何も口にしない事がしょっちゅうであった。どうしても腹が減った場合は、賃雇いのフリーターをした

が、賃金は絶対に受け取らず、ただ1食だけを口にすればサッサと立ち去った。人が善意で余分

に物を与えようとしても、決して受け取らなかった。余計な物は一切受け付けず、明日の事なんぞ

考えず、その日暮らし・その時暮らしをモットー?とした訳である。


(3)・・・・生涯、殆んど黄河の河原から遠出する事が無かったから、終いの住処として一応
草で作った簡易な小屋を結んだ。 その形が丸でカタツムリの殻の様に見えたから、【瓜牛盧かぎゅうろ】と

記述された訳である。野火で小屋が焼かれた時も、慌てず騒がず、露天で寝て平気だった。

冬の豪雪で小屋が押し潰された時にも、焦先は裸で横になったまま動かず、為に人々は、きっと

彼は凍え死んだと思い、棒の先でチョンチョンと突っ付きながら「もしもし先ちゃん、生きてるかい?

死んじまってるんなら、死んだって言ってみておくれよ」と言った。すると何とまあ、物凄い生命力!

御本尊は平気の平左でムックリと身を起こすや「ファ〜〜!」と大欠伸で眼を醒ますのであった。


(?)奇行・・・・凡人には理解不能・意味不明にしか映らないエピソードの数々。
先ず、その間、ず〜〜〜〜っと、焦先は 
一言も発しなかった・・・・・。

だから賃雇いのアルバイトを探す場合でも、本人は只ジッと突っ立て居るだけで、雇い主の方から

気付いて呉れない限り、事態は一向に進展しなかった。だが御本尊は全く意にも介さず、半日でも

1日中でも、平気で無言を押し通した。ーーと、謂う事で・・・・いよいよ此処からが肝腎要な部分で

ある。故に、
創作無しの 『原文 を、抜書き形式で列挙する事としよう。


原典は3つ有るが、先ずは
魏略の中からの抜粋ーー

『寒い気候になると火を起こして其れにあたり、
唸りつつ独りしゃべって居た。』

『外出して思い掛けなく人と出くわすと、その度に道から逸れて潜み隠れた。或る人が訳を訊きくといつも「
草むらに住む人間は、狐や兎の仲間ですから」といい加減な返事をして、それ以上は話を交わそうとしなかった。』

『或るとき1本の杖を手に、南方の浅瀬の川を渡ったが、
ふと未だ、駄目だと独り言をいった。その事から人は、彼が気違いではないのかと、かなり疑惑を抱いた。』

『太守の賈穆が着任した時、わざと其の小屋を訪ねた。焦先は賈穆を観て再拝した。賈穆は彼に話し掛けたが、返答しなかった。食事を共にしたが食べなかった。賈穆は彼に向かって言った。
「国家が儂を遣わして卿
きみの主君とさせたのだ。儂が卿に食事を出しても、卿は食べようとしない儂が卿に話し掛けても、卿は儂に返答しない。 こんな風では、儂は卿の主君と成るのは不適当だから、職を去るより仕方が無い。」 すると焦先はやっと言った。
何処にそんな理屈が有りますか。」 そしてもう 喋らなかった。』

『その翌年、魏は大軍を動かして呉を討伐しようとした。密かに焦先に質問する者があった。
「いま呉を討つのはどうだろうか?」 焦先は返答しようとせず、謎を秘めた歌をうたった。
祝衄しゅくじく、祝衄。魚に非ず肉に非ず。こもごも相い追逐す。本心はまさにショウ羊(牝の羊)を殺すべきと為すも、却ってコ羊歴(黒い羊)を殺すか。」
郡民は其の意味が解らなかった。たまたま魏の諸軍が破れた。そこで詮索好きな人は、彼の歌の内容を推量し、ショウ羊は呉を意味し、コ
羊歴は魏を意味するのではないかと考えた。これ以後、人々は皆、彼を隠者だと考える様になった。』

『議郎で河東の人・董経は、とりわけ変った生き方を喜ぶ人だったが、焦先とは旧知の間では無かったので、こっそり彼を観察に出掛けた。董経は着くと、その白い鬚を振るわせながら、彼と旧知であるかの様な態度を取り、話し掛けた。
「先ちゃん久し振りだなあ〜。一緒に白波を避けた時の事を覚えているかネ?」
焦先はジッと見詰めたまま物を言わなかった。董経はかねてより、焦先が侯武陽の恩を受けた事を聞き知っていたので、それに関連づけて又いった。
「武陽を覚えているかネ?」 すると焦先はやっと答えた。「
もう彼には恩を返した。」
董経は更に、上手く唆して彼と話し合おうとしたが、もうそれ以上は返事をしようとしなかった。
その後1年余りして病気で亡くなった。時に
歳89であった。』


ーー次は
高士伝だが、こちらは全文掲載とゆこう・・・・・・

『世間には焦先の出自を知っている者は居無い。或る人は漢末に生まれ、陜県から大陽県に移り住み、父母兄弟妻子は無かったと意っている。漢王室が衰微したのを見て、自分からは全然口を利かなくなった。魏が漢から帝位を譲り受けてからは、常時 草を編んで黄河の岸に小屋を建て、独りで其の中に住んで居た。 冬も夏も何時も衣服を着ず、寝る時には敷物を敷かず、また莚も無かった。身体が土に触れるから、その身は垢に汚れて何処も彼処も漆を塗りたくった様だった。五体を全て露わにし、世間に出歩かなかった。
或る時は数日に1度食べるだけで、食を取りたいと思えば、他人の賃雇いとなった。 人は衣服を彼に着せ、仕事の量を決めて賃金を受け取らせようとしたが、一度の食事を貰えば、さっさと立ち去った。人が余分に与えようとしても、どうしても受け取る事を承知しなかった。又、数日間食事を摂らない時もあった。
道路は横道を通らず、目は女性をまともに見詰める事は無かった。 口は未まだ嘗て利いた事が無く、緊急の場合でも、人と話をしなかった。食物を差し出しても全く受け取らなかった。
河東太守の杜恕は、衣服を持って迎えに行かせ会見したが、焦先は話をしなかった。
司馬景王
(司馬師)は 其れを聞き、安定太守の董経に 別の事に託けて訪問させたが、やはり話をしようとしなかった。董経は、焦先を大賢者だと考えた。
人は、彼の気持をハッキリ掴む事が出来無かった。計算すると100余歳で亡くなった。』


ーー
魏氏春秋には、こう有る・・・・

『元・梁州刺史の目秋黼こうほは、焦先を
仙人だと考えた。北地の傅玄は、彼を評してこう言った。
「性情は
鳥獣と同じだ!」2人とも彼の為に伝記を書いたが、焦先を理解する事は出来無かった


ーーう〜んイヤハヤ、何とも評し難い、
大物である・・・・かも かも 知れぬ かも??
これは最早、『高士伝』を書いた
皇甫謐こうほしつ本人に突撃インタビューを敢行するしかあるまい。

「ーーで、皇甫先生。全体、先生ご自身は、この焦先を如何なる人物と御考えなのでしょうか!?」

そこで皇甫謐は、弁明して答えた。

「私は其れを知るだけの知識を持ち合わせぬが、表と考え合わせれば、大凡は説明できよう。

・・・・そもそも・・・・世間が常に追求するものは栄誉の味であり、
           肉体が捨て去る訳にゆかない物は衣裳であり、
           一身が遠ざかる訳にゆかない物は家屋であり、
           口が止める事の出来無い物は言語であり、
           心が断ち切れぬものは親兄弟である。
今、焦先は、栄誉の味を棄て去り、衣服を脱ぎ棄て、家屋から遠ざかり、親兄弟を断ち切り、口を閉じて物を言わない。ーー心は広々として、天地を以って棟木・軒としており、暗黙の裡に理想の世界に合致し、現実の外界へ抜け出し、玄寂の幽境に入り込んでいる。
同時代の人間も、彼の気持に掛かる程の価値は無く、四海の広大さも 彼の瞳を巡らしむる事は出来ず、不可思議にも、あの太古の3皇以前の人達と一致する。縄を結んで文字としていた時代より此の方、彼の至高の境地に及ぶものは無い。
多くの言葉を以って彷彿とさせたり、通常の心で推し測る事が出来るものだろうか。あの、道行く人も行き着き得無い事であり、辛抱強い人も耐え得無い事である。
寒暑を凌いで其の本性を損う事なく、曠野に住まって其の肉体を脅かされる事なく、 緊急事態に出くわして 其の思慮を狼狽えさせる事なく、栄誉や愛情から離れる事によって 其の心を煩わす事なく、視聴の感覚を捨て去る事によって 其の耳目を汚す事が無い。 足を、損う恐れの無い地に置き、身を 独立の所に住まわせ、延年百年を歴、寿命は100歳を越えた。
優れた見識を有する人でも期待できない事であり
太古の天子・羲皇このかた、彼一人だけである。」


ーーウ〜ン、こうまで弁明して貰えるとは、焦先クンも草葉の陰から、さぞかしビックラしている事であろう。でも、やっぱし・・・・
    
焦先サン、あんたはエライ!?




ーー処で、乞食世界にも流行廃りは有った様で、焦先さん御用達の丸い形のボロ小屋は各地でも

愛用されたようである。この当時、カタツムリ小屋に住んで有名だった
変人は未だ未だ居た。

2番手は・・・手元不如意の俗語であるスッカンピン語源と成った人物

ーーその名を 
、字は徳林と言い、安定の人である。

彼が”変人の境地”に至って豹変する経緯については、焦先とはやや趣を異にするが、その由来

する時代状況・心理背景は同根であったと謂えようか。

建安の初年
(196年)には三輔に客居した。当時、長安には年功を積んだ欒文博と云う学者が居て、

門弟数千人を抱えていた。石徳林はその元で勉強した。 初めは「詩経」・「尚書」に専念したが、

のちには方術(内事)を愛好し、衆人の中では最もひっそりとして寡黙であった・・・・と云うのである

から、生来的にも多少は”その気”は在ったのかも知れ無い。

211年になって 関中が動乱
(曹操の遠征)に陥った時、南へ避難して関中へ移った。全く生業を営ま

ず、妻子を養う事も無かった。常に「老子」5千字と種々の「内書」を読み、昼も夜も吟誦していた。

・・・・詰り、張魯の五斗米道に共鳴・心酔していた訳だ。処が215年になると関中は撃ち破られて

しまった。仕方なく人々に付いて長安に帰った。ーーそして此処から彼は変人の仲間入りする。

魏略』は、かくて阿呆と成って、2度と人と面識を持たなかったと簡潔に

事実だけを記す。(スゴイ書き方ではある!)

『食事は美食を求めず、冬も夏も常に破れた木綿を綴り合わせた衣服を着ており、身体は風にも

耐えぬ
(吹けば飛ぶ様な)感じで、目は何も見ていない様子だった。貧しい町の小さな家に独り住まいし

親戚も無かった。人が彼に衣食を恵んでも受け取ろうとはしなかった。郡県では彼が独り身で貧窮

な事から、日に5升の米を支給したが、食糧が不充分なので、幾等か乞食をして歩いた。乞食を

乞うても、余分には受け取らなかった。 人がその姓と字を訊ねても、やはり言おうとしなかった。

その結果、彼を呼んで
寒貧と謂ったのである。 

かねて彼の旧知であった者がいて出かけて彼を慰問すると、その度に跪ひざまずいた。その事から

人は彼が
阿呆では無いと考えた。車騎将軍の郭淮は気概を示して彼に呼びかけその

望む事を質問したが、矢張り口を利こうとしなかった。そこで郭淮は乾肉・乾飯と衣服を与えたが、

その衣服は受け取らず、その乾肉1本と乾飯1升を受け取っただけだった。』




3番手は・・・・京兆の人で扈累こるい、字を伯重と言う。

初平年間(190〜193)、山東出身で『青牛先生』と呼ばれた学者が居り、長安に客居していた。

姓名は不詳だが 字は正方と言い、天文・暦・風角
(風占い)・鳥情 (鳥占い?)に詳しく、常に青ジョウ・

芫花を食し、実際は百歳を越えているのに、50歳位にしか見えぬ人物であった。

その青牛先生の元へ、40歳の妻帯者・
扈累は弟子入りした。子は無かった。やがて先生の術を

修得したが 211年、長安が動乱
(曹操の遠征) に陥いると、扈累は先生に付いて漢中へ避難した。

だが漢中も撃ち破られた為に蜀に入ったのだが、扈累は先生とはぐれてしまい、仕方なく流民に

混じって業卩へ行った。だが流行病で妻を失い独りになってしまった。220年に洛陽へ移住したが

もう妻は二度と娶らなかった。余程に亡き妻を愛していたのであろう。  

ーー扈累の場合も 亦、此処から〔
変人生活〕が開始されるのであった。


『扈累は 唯独り、道端に住まい 敷き瓦で塀を作り、炊事・寝床兼用の床1つを設え、その中で

食事と寝を取った。
日中は潜んで思索し、夜になると星座を仰ぎ見、「方術書」を吟誦した。 彼に

問い掛ける人があっても、
口を閉じて物を言おうとしなかった。 嘉平年間(249〜253)に至り、

歳8、90に成っていたが、僅か4、50歳の人の様だった。お上が彼が身寄りの無い老人だと謂う

事で、日に5升の米を支給した。5升では食事の量に不足しているので、 幾分か 日雇い労働を

して食糧の補いをした。食糧が無くなると また賃稼ぎに出かけ、人が恵んでも受け取らなかった。

食事は美食を求めず、破れた綿入れを着ていたが、1、2年の後、病気で亡くなった・・・・。』





ーー以上、7人には大分足りないが、まあ、もう充分であろう。それより別な面で気になるのは・・・・

1日に5升の官穀を与えたとの記述である。へえ〜!当時の福祉行政は末端の隅々

にまで広く行き届いていたんだナア〜!!・・・・などと感心してはならないのである。是れは例外。

簡単に言えば、役人根性・面子の問題から派生した余禄なのである。

中興の意気込みに燃える、後漢王朝当初の人材登用のモットーは、「賢は野に置かず!」だった。

天下に居る賢人は余す事なく、必ず朝廷に召し出して人材とせよ!・・・曹操も其のモットーだけは

引き継いだ。いやもっと強烈な「求賢令」を発していた。→だから、もしも万が一、彼等カタツムリ族

が本物の賢人・賢者だった場合、それを放置していたとあらば、きつ〜い譴責は免れない。

それ位なら、問い合わせを受けた時に備えて言い訳できる程度の支給はして措こう・・・と云うのが

1日に5升支給の実態なのであった。

ーーまあ、それにしても、たとえ『
三国志・補注』とは云えども、

2千年の後々の世まで、その名が伝わっているとは、何と彼等は果報者である事よ!!


ーーだが、よ〜く考えてみれば・・・・彼等は皆、元々からの狂人では無かった。それ処か、何事も

無ければ、きっと当時の世の中に於いて、可也の業績を修めたであろう資質の者達であった。

彼等が鬼界に踏み込んだ原因は、極めて人為的な理由に拠るものであった。もし戦禍に巻き込ま

れる様な事が無ければ、こうまで偏屈で 頑なな生涯を送らずに済み、平凡だが安寧な一生を送り

得た筈である。其れも此れも全て、戦乱の所為であった。野望を抱く一握りの男達が惹き起こす、

兵禍の為であった。ーー実は、「
三国志の七変人」と云うタイトルは反語的なものであり、謂わば

彼等は、哀れな〔
三国志の犠牲者〕達なのである。その虫ケラの様な個々人が、時代の不条理に

対して、せめてもの抵抗として貫いた凄絶な姿
・・・・それが彼等・変人なのであった!!



ーーそう思うと大分辛いものが有るが、此処で我々は気を取り直して、彼等に対して その責めの部を負うべき立場に在るとも言える、曹操の元へ再び戻ろう。

いま曹操と、その周辺の錚々たる者達は、
銅雀台落成の式典の為に大集結している筈である。

だが果して、其処に集う者達の全てが、ただ単純に慶賀の念だけで治まって居るものかどうか?

その権威がガタ落ちした曹魏政権ーーー



後継を巡る」と「」2兄弟の周囲では、
早くも水面下での、凄まじい鬩ぎ合いが蠢き始めていた・・・・・
【第166節】 宿命の兄と弟 (派生する閥属) →へ