【第164節】
ーーそれからの曹操・・・・・・・
兎に角 逃げた。猛スピードで逃げた。半年前に、荊州へ雪崩れ込んだ時以上のフルスピードで
逃げた。赤壁での大敗北ー→華容道ー→江陵城ー→襄陽城ー→宛城ー→許都ー→業卩・・・・へ
と逃げ戻った。だが、誰かサンとは違い、自分独りだけが遁ズラしたのでは無い。本軍を引き連れ
ての”撤退”であった。 其の逃走の目的は、死の恐怖から逃げる為の ”逃亡”では無かったので
ある。 情報との競争であったのだ。いずれ、『赤壁大敗北!の情報』は、全土に伝わるであろう。
伝われば、封印されていた《叛逆の魍魎ども》が、各地で策動を始めるに違い無い。その前に何食
わぬ顔で帰還を果し、即応態勢を築き上げてしまう・・・・・
即ち其の懸命な逃走は、戦後を見越しての戦術の一環なのであった。但し、赤壁ー→華容道
ー→江陵までの逃走は命辛がらの遁走であった。然し、江陵城に「曹仁」を、襄陽城に「楽進」を、
宛城に「××」を置き留めた其の後は、堂々の陣容を整えての行軍隊形を採って見せた。
《な〜んだ、全然凹んでなんか居無いじゃないか!》・・・・と 思わせる事が 肝要なのであった。
史書に其の記述が見当たらないから、恐らく許都は素通りしたのであろう。献帝に報告するのは
バツが悪かったろうし、この頃にはすっかり冷え切った関係になって居た【荀ケ】とも顔を会わせ
たくは無かったに違い無い。(あの美わしい君臣の関係は既に過去のものと成っていた。)
本拠地・業卩城に戻った(武帝紀には無く、諸葛亮伝の記述に見える)曹操軍の威容は、恰も凱旋軍の如き
外観を保っていたであろう。ーーだが・・・実際には、
曹操の権威はガクンと失墜していた!!
そして、その政権には 最大の危機が迫っていたのである!
さっそく、その周辺地域に叛逆のキナ臭さ・反転攻勢の運気が立ち籠め始めた。・・・だが、曹魏を
唯一正統な王朝とする『正史三国志』にとっては、都合の悪い赤壁戦大敗北後の曹操の動きは、
突然 唐突に3月の「言焦」への進軍から記述されるのである。この陳寿の態度は、いっそ全ての
動きをカットしてしまう事に因って、却って〔曹魏政権の苦境〕をクッキリと印象づけさせる、
苦肉の手法と観るべきであろう。
そこで我々は此処で時間を少しだけ巻き戻して、赤壁戦直後の
209年 (建安14年)1月以後の
曹操に密着し、魏国が復活 を果し、再び天下統一に向かう迄の一部始終を追う事にしよう。
その場合、我々が念頭に置いておくべきは、曹操の根本的な変貌・変容、即ち〔戦略の大変換〕
である。 無論、したくて した変換では無い。追い込まれて仕方なしに迫られた転換であった。
《もう、儂の時代での
天下統一は無理だ!!》
この血を吐く様な思いこそが、曹操の偽らざる本心・落胆であった。表面上で、どんなに強がって
見せても、ふっと独りになると、身体の芯の所から忸々と、諦めと悔恨の悪寒が這い出して来る。
・・・・・とは言え、此処からが曹操の非凡な所でもある。ーー思えば10年前、このケースに全くよく
似た史実が在った。曹操自身が刻んだ史実である。もっとも其の時は、逆の立場ではあったが。
・・・・・・・・【官渡の戦い】・・・・・・・
遠征先の戦場で一敗地に塗れたとは雖も、袁紹には 未だ未だビクともしない本国が在った。
にも係わらず、数年後には滅亡していった。
《その轍だけは踏んではならない!!》
ーーそれに対する、根本的な心構えは唯1つ・・・・・
クヨクヨと引き摺らない!
徹底的に忘れる!
ジメジメと暗くならない!
・・・・そうして居れば、そのうち何とか成るだろう・・・・そして、
徹頭徹尾、〔カッコ付けまくる!〕
余裕の余ッチャンで、見栄を張りまくる!
まあ実際に国力では、未だ未だ断然トップでリードして居るのだから、何もガックリする事は無い。
いま最大の敵は、己自身に巣食う挫折感なのだ!!
それを表に現してしまう、人間的な弱さなのだ!!
お坊ちゃん育ちの袁紹は、それで自滅していった。ーーだが曹操は、何と言っても 『贅閹の遺醜』なのだ。幼い頃から散々にバッシングされ続けて来た事で、すっかり鍛え上げられた不撓不屈の反発バネが備わっていた。 深層ではガックリ来ていても、其れを封印して周囲に伝播させぬ術を心得ていたのである。其処の所が、袁紹とは決定的に異なっていた。
ーーで、実際に取った行動だが 『正史・武帝紀』の記述を見てみよう。
↓
『十三年(208年)十二月孫権が劉備に味方して合肥を攻撃した。公は江陵から劉備征討に出撃し、巴丘まで赴き、張熹を派遣して合肥を救助させた。孫権は張熹が来ると聞くと逃走した。
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦さとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍を引き上げて帰還した。
かくて劉備は荊州管下の江南の諸郡を支配する事となった。
十四年(209年)春三月、 軍は言焦に到着した。 軽快な舟を作って水軍を訓練した。秋七月、過水から淮水に入り肥水に出て合肥に陣取った。辛末の日、布告を出した。 「・・・・(布告文)・・・・」 揚州の郡県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設した。
十二月、軍は言焦に帰還した。
十五年(210年)春、布告を出した。「・・・(布告文)・・・」 冬、銅雀台を築いた。
十六年(211年)春正月〜〜云々〜〜』 ー→と続く。
208年の記述は丸で劉備の宣伝文であり、とても『武帝紀』の記述とは思えないのだが、まあいい。
それよりも 注目すべきは、赤壁戦のアッサリさと、209年〜210年にかけての 記述の少なさで
ある。かろうじて布告文(後出)の採録で 体裁を保っているものの、其れを除くと上記の如き短さが
顕わになるのである。 如何に逼塞・隠忍自重していたかが窺い知れるではないか。・・・とは言え
行なった行動を一見すれば、それは中々に派手派手しいものではあった。
209年には「対外的な」大遠征があり、210年は「対内向け」の大造営である。 共に、
天下の耳目を集めるには充分なパフォーマンスと謂えよう。
1つは軍事力の大きさを、1つは経済力の豊かさを誇示した
訳である。逆に言えば、そうせざるを得無い程に、赤壁大敗北後の2、3年間は、曹魏政権は非常
なる苦境に在った!・・・・と云う事の証明でもある。
但し、軍事力の誇示=(曹操軍の強さを再認識させる)点に於いては、この209年の「合肥出陣」は
不充分であった。何故なら、今の時点で、まともに戦う相手としては、呉の正規軍は危険に過ぎる
相手だった。だからお互いに ナアナアでお茶を濁すに留まるものだったのである。是れでは未だ、
世間は納得して呉れない。ーーそこで曹操は、”横綱相撲” を取って見せる相手として、呉よりは
グッと格下の相手を選ぶ。そして其れが実行されるのが、赤壁からは3年目の211年なので
ある。(別節にて詳述)
さて209年春三月、軍ガ到着シタ【言焦しょう】についてであるが、言う迄も無く、曹一族の父祖の地・故郷(本貫)であり曹魏五都の1つである。
おや、〔五都〕とは何ぞや? と思われるかも知れ無いが、この当時、世間一般で使われていた中原5大都市の呼称である。そもそも〔都〕とは「帝」が居わす宮殿の在る都市を指す筈であったが、現実には曹操が居る所が都であり、献帝は御飾りに過ぎ無かった。そこで人々は、元々の帝都であり、復興も進んで来た〔洛陽〕と〔長安〕に加えて、曹操ゆかりの〔業卩〕と〔言焦〕そして献帝の宮殿が在る〔許都〕を加えてー→「五都」と呼んでいたのである。
尚、筆者は是れ迄、献帝の存在を強調する意図を込めて 「許」を〔許都〕と表記して来ているが、実際には『臨時の』 のとか、『副=第2の』 と云う意味を有する「昌」の字を冠した〔許昌〕とも言っていたのである。
いずれにせよ〔言焦〕は、曹操にとっては幼い日々を過ごした懐かしい故郷であり、親戚や古馴染
みが住む、心の休まる特別な町であった。官渡の戦いに勝利した直後の202年にも、その正月を
此処で過していた。遠くは190年、董卓にぶつかって破れた後、再起を期す為にも帰っている。
喜びにつけ悲しみにつけ、人生の節目に己を置き、 新たな出発点とする場所・・・・それが、この
〔言焦〕なのであった。そして今度の場合は、此処・言焦から更に南に進軍して、官渡で破れた
孫権に借りを返す! のである。 勝利の2文字を こっちの手に 取り戻して見せるのである!−−その場所は・・・・・「合肥」。
折しも【孫権】は、周瑜が成し遂た 赤壁戦勝利の余勢・機運を活かす為に、ここで一気に大攻
勢を掛け、なんと総力の10万!で「合肥」を包囲していたのである。曹操としては此の合肥を
失えば呉に対する拠点を失う事になる。それ処か逆に、呉からの侵攻の脅威をモロに受ける事態
を惹起する。魏・呉双方にとって此の「合肥」は、進撃と防衛の両側面を兼ね備えた、最大の軍事
拠点なのであった。奪われる訳にはゆかない!
上手い事には、言焦から合肥まで、河川を渡り継いでゆける。(逆の意味では、遣って来られてしまう。)
実際、中国の大地には 大小の河川が、網の目の様に全土を覆い尽くしている。基本的な流れの
方向は西から東に向かっているが、場所によっては北から南への流れも少なくない。言焦〜合肥
のケースでは、「過水」〜「准水」〜「肥水」を渡り継ぐ事によって、水軍による連続した進撃が可能
であった。但し、支流を繋ぐ運河の開鑿に迄は手が廻らぬ為、大型艦船使用は無理だった。
そこで 『軽快ナ舟ヲ作ッテ水軍ヲ訓練シタ』上で、7月に合肥へ着陣したのであった。
さて、孫権が今10万の全力で包囲し、この後も常に狙い続ける事となる【合肥城】についてであるが・・・・・ひと言でいえば、『風雲、劉馥城!』 であった。 もっと言えば、
『死せる劉馥、生ける孫権を走らす!』 でもある。
劉馥本人は、遙かニ千里 (550キロ) の彼方で 曹操に拝謁する事も無いまま、廃墟であった合肥
の空き城を10余年を費やして美事に再生・修復した後この直前の208年に死去していた。そんな
彼の人生は、正に 人知れぬ影の功労者であり、黙々と合肥築城に一生を捧げた辺境の士だった
のである。その彼の人生と、彼が築き上げた〔合肥城の堅固さ〕とを、『正史・劉馥伝』に見てみよう
『劉馥は字を元穎と言い、沛国相県の人である。動乱を避けて揚州に赴いた。建安の初、袁術の将軍だった戚寄と秦翊を説き伏せ、軍勢を引き連れて一緒に太祖の下へ鞍替させた。 太祖は大いに喜び、司徒の役所から召し出して掾とした。(略・長江〜淮河一帯の郡県は戦禍荒廃しきった)
太祖はちょうど袁紹と争っていた時期であったので、劉馥なら東南の事を任せられると考え、上奏して揚州刺史に任命した。劉馥は任命を受けるや、単身で馬に乗り合肥の空き城へ行き、州庁を設置し、南方の雷緒らを手なずけ、彼等を安定させたので、献上品が相次いで奉られた。数年の内に恩恵教化が行き渡り人民はその政治を喜び、江や山を越えて身を寄せる流民は5ケタの数に上った。そこで学生達を集め、学校を建て、屯田を拡大し、 芍陂・茄陂・呉塘の諸堤防を築いたり 修理したりして稲田を灌漑し、お上も人民も蓄積が出来た。
また城壁や土塁を高く築き、木や石をたくさん積み上げ、草ムシロ数千万枚を編み、更に魚油を数千石貯蔵し、戦争の備えとした。建安13年(208年)亡くなった。』
この劉馥の御蔭で合肥の城は、孫権10万の大軍を撥ね返す。(正史の続き)
『孫権が10万の軍勢を引き連れて合肥城を100余日に渡って攻撃・包囲した。其のとき連日 雨が降りしきり、城壁は今にも崩れようとした。 (当時の城壁は、中に植物繊維を混ぜて固めた土壁であった。)そこでムシロを以って其れを覆い、夜は魚の油を燃やして城外を照らし、賊(孫権軍)の行動を監視しつつ防備した。その結果、賊は敗れて逃走した。 ・・・・・堤防のもたらす利益は、現在でも役に立っている程だ。』
かくて孫権の合肥攻略は頓挫したのである。 (※孫権軍を10万とするのは如何にも大袈裟な記述に過ぎる。
荊州では周瑜が曹仁と激闘していたのであり、そんな余裕は無い筈だ) 曹操が親征して来るとの情報に接した
為に、兵を退いたのでもあろうか?(孫権の戦略・態度などについては別節で詳述するが) とにかく孫権は、
この時は曹操と直接対決する事なく兵を退いたのである。
これで一先ずは、敗れた孫権に借りを返し勝利の2文字を手に入れた事にはなった。当初の目的
であった、沈滞ムード払拭の成果も上がった・・・・と 判断したのであろう。 曹操は此のあと暫らく
合肥に留まるが、12月に軍と共に言焦へ帰還する。その間に曹操は、(長江以北の) 揚州郡県に
改めて長吏 (県の令と長) を置くなどの施策を為し、布告を発した。
『最近来、軍は度々遠征の途に就いているが、 疫病の流行に遭った事もあり、官吏士卒のうち死亡して帰還しない者がおり、家人は取り残され、人民は流浪している。それを仁者は一体喜んでいるだろうか。已むを得無いのである。 死者を出した家で、生活の基盤たる財産を持たず、自活できない者に対しては、県官は官倉からの支給を断つでないぞ。長吏は面倒を見、労わってやり、よって我が意に沿ってくれ。』ー→(※赤壁戦の死者を疫病の所為に転嫁している点に留意スベシ)
又、合肥の後背地に当る「芍陂」に大規模な〔屯田〕を拓かせた。是れは所謂〔軍屯〕である。
曹操の新機軸である、政府管轄下で農民が耕作する〔民屯〕では無い。古来より辺境守備部隊が
為して来た、長期戦に備えた軍人による開墾田の経営である。いずれは民屯に移管するにしても
今は最前線に近い地域であるから、先ずは軍事目的が優先であった。(芍陂は合肥の50km北西)
(※余談だが、劉馥の子の劉靖の記述の中に『戻陵渠と云う運河の大堤防を修理拡張し、その水で薊ケイのまち(現代の北京)の南北を灌漑し、3年に1度休耕させる方式で稲を植えさせたが国境地帯の住民はその利益を受けた』 という、当時の農業技術の高さを示す、貴重な史料が見られるので付記して措く。)
然し一方で、このとき曹操は〔殖民〕に関して、ゴリ押しに因る大きな失敗を犯すのである。即ち、
官渡戦の折に上手くいった《住民の強制移住》を再現しようと試みて、住民達に逃げられてしまっ
たのである。折角、現地に詳しい【將済】が 「今は未だ止めた方が無難ですぞ!」と諮問したのに
それを無視して強行したツケが廻る事になるのだった。・・・・呉との国境地帯に当る淮南の住民を
全ぶ合肥以北の地に強制的に移住させ、屯田耕作に従事させようと焦ったのだ。だが將済の危惧
した通り、淮南地域の人々は 曹操の高圧姿勢を嫌い、10余万ノ全員ガ 大慌テデ長江ヲ越エ、
孫権ノ江東ニ逃走シテシマッタ のである。住民を此方側に取り込む処か、却って敵側へ走り込ま
せてしまうのである。ーーのちに曹操は將済に出会った時、「そもそも賊を避けさせようとしただけ
なのだが、却ってすっかり向こうに駆り立ててしまったワイ」 と大笑いしながら頭を掻いて見せる。
・・・・だが、笑い事では無い。この失策により、淮水〜長江北岸の広大の地域は完全な無人地帯
と成り果ててしまい、せっかく苦労して占領し続けたとしても、経済的には何のメリットも産まない
「不毛地帯」にさせてしまったのである。 ーーそもそも、10年も前の官渡戦の夢想を追った発想
自体が、曹操の老朽化・金属疲労化を示し始めては居まいか・・・・??
※尚、この『將済伝』中に気になる記述がみえる。ウッカリすると見逃してしまいそうなトラブルなのだが、よ〜く読めば、合肥周辺の如き〔不安定地域に於ける住民支配〕に関する事の重大さ・深刻さが浮かび上がって来る記述である。→『將済が謀叛を企んだ首謀者である!と誣告した住民が居た。太祖は其れを聞くと于禁らに対して 「どうして將済に此の事が有ろうぞ。之はきっと愚民が騒乱を楽しんで、出鱈目に彼を巻き添えにしただけじゃ!」と言い、裁判官を急き立てて彼を釈放させた。』→事件の詳細は判然としないが、問題は・・・・住民が、曹操の任命した地方長官を訴えそれが受理されて、地方長官の方が収監されたと云う事実である。意外である。それだけ住民側に力があった?若しくは、住民の声を無視し得ぬ弱さ・脆さが存在していた?と云う事の証明ではないか!? 時期は219年よりは以前の事であると確定できる。たぶん此の209年の方に近い時期だろう。曹操の権威は、確実に弱まっていたのである。
ーー蓋し曹操は、この地に屯田を拓く事によって、孫権との長期戦に備えたのである。そして此の
「合肥」を恒久的な要塞にする覚悟を定めたと云う事である。 ・・・・だが反面、この態度は・・・・
『積極的な進攻の放棄宣言』 とも言い得る。つまり、このラインを以って呉国との国境とする!
との意志の現われでもある。ーーその専守防衛策の証拠には 『太祖は孫権征討から帰還した後
張遼に命じて楽進・李典らと共に7千余人を率いて合肥に駐屯させた』 (正史・張遼伝) のである。
《 張遼よ、東の守りは お前に任せたぞ!》 と云う訳であった。
事実、このあと 長期に渡って、【張遼】は〔東の守護神〕 と成って、呉軍との激闘を繰り
広げる事となるのである・・・・・。然し、此のとき 荊州では・・・・・ついに「曹仁」が【周瑜】に破れ、
江陵城を明け渡す痛手を被っていたのである。未だ未だ、曹操の退潮傾向は収まらず、完全復活
するには、余程の時間が掛かりそうである。
翌 210年 (赤壁戦から2年目年)・・・・・
この1年は外見上、曹魏にとっては平穏な年となる。特に是れと言った大きな叛乱も起きず、どの
戦線にも激闘は無く、遠征も行なっていない。ーーだが内実は、いつ何処で不測の事態が勃発し
てもいい様に、ジッと息を溜めて警戒し、緊張に包まれていた1年と言えよう。 又、連年の遠征に
消耗した将兵に、エネルギーを充填させる意味もあったであろう。
そんな雰囲気の中、曹操は 正月早々、世に有名な「布告」を発する。 又、時期は不明だが、
之もまた有名な布告を連発するのである。(だが筆者の都合上、後廻しにさせて戴く。)
ーーさて、世に有名な【銅雀台】・・・・・
是れこそ、誰の眼にもハッキリと見える復活のシンボルであった。銅雀台が落成したのが
210年冬、「赤壁」からは丁度まる2年が経過し、「周瑜」が他界した直後の頃の事であった。
その起工は定かでは無いが、マルチ人間の曹操の事だから、その発想や基本設計は自分自身の
手で引いたであろう。そのコンセプトは《世間のド肝を抜く!》事であった。
かつて人類の誰もが見た事の無い様な、豪壮巨大なモニュメントを築く!ーーその事に拠って、
〔魏の経済力の豊かさ〕を余す処なく天下に誇示し、赤壁の敗北なぞ痛くも痒くも無い、と云う余裕
を強調する・・・・!!だから費用には糸目を付けず、思いっきりリッチでセレブな超高層建築が、
三国志の中に出現する事となった。 その落成の日の曹操や、招かれた者達の表情については
別節で描く事として、先ずは銅雀台そのものの偉容を観察して置こう。
その前に、〔銅雀台の凄さ〕を 改めて認識する為に、古代に於ける巨大建造物の寸法を参照して措く。その際、真っ先に想い浮かべる物としては古代エジプトのピラミッドであろう。
最大はクフ王のピラミッドで現在の高さは137mである。底辺が1辺230m。建造時の高さは146m。現存世界最大の木造建築物、奈良・東大寺の大仏殿は47.5mであるピサの斜塔が55m。通天閣は100m。京都タワーは131m。
それに対比するに、我等の【銅雀台】の高さは・・・・
な、何と155m!!ピラミッドよりも高〜い!!
無論、土台となる城壁部分を加えた高さではあるが、それにしても物凄い。業卩城の西壁上、金明門の北に位置する。予定では更に 銅雀台の南隣に〔金虎台〕、北隣に〔氷井台〕が配され3連台と成る。実際には金虎台は3年後の213年9月、氷井台は214年に落成し、銅雀3連台の完成となる。もう少し詳しく観てみよう。※計算は精密に1丈=22.5mで換算 (出典は業卩中記)
【銅雀台】そのモノの高さは12丈=27.0m。
部屋は101間。 5層の楼閣様式で、地上から大棟迄は27丈(60.75m)。 屋根は100mを裕に超えた。 飾り塔を加えれば、天っ辺の高さは67丈=150.75mであった。
(ちょっと大雑把に1丈=23mで計算すれば、その高さは忽ち155mとなる。)
【金虎台】と【氷井台】でも、夫れ夫れに8丈=18.0m!
現代とは異なり、周囲の大地空間には何も無い原風景である。その背景中に忽然と現われる巨大
なモニュメント・・・!!古代中国の人々にとってこの途方も無い高さは、もはや崇拝の対象・
神の領域であったろう。 頭上遙か、そっくり返って仰ぎ見なければ、其の全容は視界に届か
ない。古今東西、宗教関係の建築物は 須すべから く 天空に屹立している。
残念ながら 色彩までは伝わっていない。だが碧空を背景にして見上げる、色のコントラストをも
考慮したであろう、曹操の美的感覚を想像して見るのも愉しい作業ではあるまいか。
尚、銅雀台の「呼び名」については、2つの薀蓄がある。1説は屋根の上に置かれた銅製の雀の
飾りに由来する とする。・・・・土中から金色のオーラが立ち昇っていたので掘ってみたら、銅製の
雀が出て来た。伝説の聖帝・舜が生まれた時、その母親は 珠玉の雀が懐に飛び込んで来る夢を
見た。だから之は吉祥だと 献上した者が居て、其れを楼上に置いた事から名が付けられた。
もう1説は、土地の名から由来すると言う。ーー昔この地で、土中から銅製のさかずき(爵)が出て
来た。吉兆だとして、この地を
『銅爵』 と名付けた。 又、元々「爵」の字は雀の形から来ている事
から、同音の『銅雀』を当てて地名としたのだ、とする。
《・・・・・・独り 高過ぎて 危ういナ・・・・・・》
それが曹操の感想であった。 今の己が置かれている状況を象徴するかの如き、含蓄を含んだ
感慨である。高楼と云うより”塔”に近い感じであった。
「聳そびえ建っている」 と謂うより、「屹そそり立っている」 と云う趣である。
《・・・・やはり左右にハッキリと、”2台”を従えぬと、座りが悪いワイ・・・・》
銅雀台は 曹操自身である。 その銅雀台が、残る金虎台・氷井台を左右に従え、見下ろす如き
〔銅雀3連台〕と成って納まり、バランス良い安定感を醸し出しつつ、美事に完成するのは4年後の
事となる。ーー3連台が完成するのと、魏が完全復活するのと、果してどちらが先か!?
但し、曹魏の経済力・豊かさを強調する!・・・・と云う意味合に於いては、その目的は充分に達成
されたと謂えよう。こんなマネはマネーが無ければ誰にもマネ出来無い。
最後に、この210年に発せられた、世に有名な2つの布告・・・・
ーー先ずは〔覇者(止まり)宣言〕とも言うべき布告ーー
※出典は補注の『魏武故事』なる史料。長いので解説を挿みつつ、要点のみ掲げる。
『・・・・(長々と己の来歴を述べ)・・・・又、劉表はみずから皇族である事を好い事に、悪心を胸中に抱き、
進んだり退いたりしつつ世の中の動きを観望し荊州を占有していた。私はまた彼を平らげ、かくて
天下を平定した。身は宰相と成り、人臣としての最高の地位を極めた以上は、望みは既に越えて
いる。(臆面も無しに、赤壁戦については口を拭ってシカトしている。)
もし国家に私が存在して居なかったら、幾人が帝と称し、幾人が王と称したか分からない。
斉の桓公・晋の文公が今日に到るまで評判を残している理由は、その広大な軍事力を持って尚、
よく周王室を奉戴したからである。 論語では『周は天下の3分の2を領有しながら、殷に服従して
仕えた。周の道徳は最高の道徳と評価してよいであろう』と謂っている。そもそも、よく 大を以って
小に仕えたからである。・・・(長々と他の例を列挙し)・・・とうとう私が天下を平定し、主命を辱めなかった
のは、天が漢王室を助け賜うたからであって、人間の力では無いと言ってよいであろう。
然しながら、4つの県を合わせた領土を持ち、3万戸を食んでいるのは、それに堪えるどんな徳を
私は持っているのだろうか? 江湖の地域が未だ鎮まらない以上、官位は譲る訳にはゆかぬが、
領土については辞退する事が可能である。 いま、陽夏・柘・苦の3県 2万戸を返上し、ただ武平
1万戸を食むだけとし、先ずは非難の論を減少させ、私の負担を軽減したいと思う。』
曹操の志を述べた布令・・・・と云う事で一般に〔述志令〕と謂われているが・・・・要するに
(何や彼や言い張っても、もう俺には「完璧な天下統一」は無理だから)・・・・俺は最大の実力者と
して、【覇者】の立場を尊奉しながら、領土拡大に突き進むぞ!決して皇帝の座を狙う
様な事は望んでは居無いのだ。魏王朝の樹立なぞは有り得ないのだ!・・・・・と 宣言して
見せたのである。是れを信じるか否かは別として、少なくとも曹操自身は今、そう宣言して見せる
必要性を、強く感じて居る事だけは事実であった。 その本音を忖度するに・・・・この、復活に専心
専念すべき重大な時期に、やれ王朝がどうだの、帝位がこうだのに、余計な精力は一切 費やし
たく無い!・・・・と云う処であったのだろう。
そして最後に、〔求才令〕・〔求賢令〕とも言うべき布告・・・・
こちらは『正史』に採録されている。発令したのは1月である。・・・・『十五年、春。下令して曰く』ーー
『古より受命及び中興の君、なんぞ嘗て賢人君子の之と共に天下を治むる者を得ざらんや。その賢を得るに及んでは閭巷に出でず、あに幸いに相い遇わんや。 上の人、之を求めざる耳 のみ。いま天下なお未だ定まらず。これ特に賢を求むる急時なり。孟公綽、趙・魏の老いとなさば 則ち優なるも、以って藤・薛の大夫と為すべからず。もし必ず廉士にして後 用いるべくば、則ち 斉桓それ何を以ってか世に覇たらん。いま天下、褐を被、玉を懐きて渭浜に釣する者 ある無きを得んや。また嫂を盗み 金を受けて未だ 無知に遇わざる者 なきを得んや。ニ三子、それ 我を佐け仄陋を明揚せよ。 唯 才を 是れ挙げん。 吾 得て 而して 之を用いん、 と。』
↓
『古代以来、創業の君主・中興の君主で、賢人君子を見い出し、彼等と共に天下を統治しなかった者がおろうか。 君主が 賢者を見い出したについては、もし君主が村里に全然 出向かなかったとしたなら、一体うまく出会えたであろうか。上に在る者が探し求めたからこそである。今、天下は尚、安定を見ない。それこそ特に 賢者を求める事を急務とする時節である。『孟公綽は趙や魏の家老となれば、余裕を以ってやってゆけるであろうが藤や薛の大夫には成れない』のだ。
もし必ず廉潔な人物であって 初めて起用するべきとすれば、 斉の桓公は 一体どうして覇者と成れたのであろう。今、天下に粗末な衣服を着ながら、玉の如き清廉さを持って渭水の岸辺で釣りをしている者(太公望・呂尚)が存在しないと言えようか。
又、嫂あによめと密通し賄賂を受け取ったりするが、魏無知(人名)に 未だ巡り会っていない者(高祖の軍師・陳平)が存在せぬと言えようか
2、3の者よ、儂を助けて下賤の地位に在る者を照らし出し、推薦してくれ。
才能のみが推挙の基準である。
儂は其の者を、必ずや起用するであろう!・・・・・』
所謂、〔唯才主義〕と呼ばれる、曹操の豪放で斬新な一面を代表する布告の第1弾である。(※第3弾まで有り、求才3令と謂われる) が、何を今更・・・・もう、とっくの昔から
曹操は、そうして来ていたではないか? 郭嘉や賈言羽なぞ、決して人格的には清廉君子とは言い
難い連中を重用して来ているではないかいナ?又、多くの「詩賦」の中でも、その気持を表わした
作品が幾つも存在しているではないか?ーーだが然し、である。
是れを 公式な 「国家の方針」 として、全土に発令するとなれば・・・・其れはチョット穏やかでは無く
なって来る。人格不問の風潮が世に蔓延り、下剋上を奨励する事にも成り兼ねない。もっと言えば
泥棒サンでもヤーちゃんでも、何か1個だけ取り柄があれば、万事OK牧場になっちまう訳である。
そんな連中が国家公務員にズラリと並んで居たら、かなりヤバイぞ。
無論、それはチト言い過ぎだが、まあ、復活を遂げる為なら 形振り構わず 何でもやるぞ!・・・・・
との、覇王・曹操の決意表明ではあるのだ。
※ここで、三国志の中に屡々引用される陳平について少し触れて措こう。
陳平は貧しい農家に生まれたが専ら勉学に没頭し、農事は全て兄が引き受けた。全く働かない陳平を見た兄嫁が文句を言うと、兄は妻を追い出してしまう。のち各地を転々と仕官するが、旧知の「魏無知」が劉邦に推挙して呉れ、都尉に抜擢された。
これを妬んだ古参の者達が讒言した。その内容が・・・・「兄嫁と密通した事実・諸将から賄賂を受け取っていた事実」 などである。劉邦は流石に魏無知に問い質すと、
「私が陳平を推挙したのは能力からの事です。陳平の品行が悪かろうが、そんな事は関係ありますまい。」 と言って庇った。 (まあ、曹操の先達である。)
その後の陳平は、6度の奇計で劉邦の危地を救い、6度の加増を受ける。有名なのは黄金を贈り続けた〔反間の計〕で、項羽の軍師・范増は疑惑を受けて去り楚を滅亡へと導いた。ーー劉邦の死後、呂太后が実権を握り帝国を専横したが、陳平は無能を装いイエスマンに徹した。然し呂后が死ぬや一挙に呂氏を誅滅し、劉邦の庶子だった文帝を擁立。危うく劉氏の血統を守り、漢の社稷を護持したのである。
ーーで・・・・『才能』と謂えば、何はともあれ【建安の七子】であろう。
だから次節では、その才能あふれる7人を紹介する・・・・・
と思ったら大間違いナノダ!!臍曲りの筆者であるからして、そんな聖人君子達よりも
先ずは、も〜〜っと 「 気狂いに近い 」、 曹操でさえも見逃してしまった、7人の哲人
7人の賢者・7人の意味不明者に興味が有るノダ。
・・・・であるからして、〔建安の七子〕 は後廻しにして、次節では三国時代を代表する〔狂人7人衆〕を先に紹介してしまう。
ーーとは言え無論、『正史・三国志』 に採録されている、歴っきとした立〜派な?方々で在らせられマス。
勝手に題して 三国志の七変人!で御座〜い【第165節】 三国志の七変人 (カタツムリ仙人)→へ