【第161節】
岩肌にクッキリと刻まれた、『赤』と『壁』の2文字が見えて来た。
すると、誰が合図するとも無く、呉の全艦隊から自然発生的に大きな賛頌の声が湧き上がった。無論、胸を張った将兵全員の視線は、旗艦上に在る唯一人の英雄の上に注がれていた。中には感動と誇りと心配の余りに直立不動の頬に涙を濡らす者達も居る
その艦橋に佇む2つの影・・・・周瑜と妻の小喬であった。遠目には、英雄が其の愛する夫人の肩を抱きかかえて居る様に見えた。ーーだが実際は、妻の方が杖代わりと成って、夫を支えていたのである。
「・・・どうやら、伯符の奴が、こっちへ来いと 俺を呼んでいるようだ・・・・」
眼の前の2文字すら眼に入って居無い様な、遠い眼差しであった。
「儂は 死ぬ事は少しも恐ろしくは無い。 だが、但、夢の続きを見られなくなる事だけが無念じゃ・・・・」
全てを達観した上での、重い言葉であった。
「だが、悲しむまいぞ。今思えば、伯符の奴から、更に10年の夢を与えて貰った・・・・・とも言えるのかも知れぬのだからナ。」
「私も、姉上様より10年も多くの歳月を、貴方様から戴いて参りました。」
「−−そう、言って呉れるか・・・・?」
周瑜は万感の思いを籠めて、妻の肩を強く引き寄せた。
「壮士たる者、最期の一瞬まで、天下を見ずしては治まらぬが、儂には最早その時間も無いようだ。」
「いえ!貴方様と、貴方様の創られた呉の国は永遠で御座います!」
「そうだな。私の身は滅んでも、私の心は国の守り神と成って、永遠に呉の国の人々の中に生き続けよう・・・・!!」
足下一面、巴丘の眼下には、周瑜が創り、育て上げて来た、呉の全艦隊と将兵の全てが整列し、閲兵隊形に静まり返っていた。
最期の別れである。誰もが其れを識っていた。誰もが涙を湛えていた。
ーーそして周瑜が、渾身の力を振り絞って、立ち上がった。固唾を呑んだ数万の眼が、唯1人の男を見上げる。丘の上に翻る赤いマント・・・・黄金の兜がキラキラと輝く・・・・ 引かれて来た愛馬の白さが、その碧空の中にクッキリと際立つ。
呉の大都督・周瑜公瑾、最期の晴れ姿であった。常に戦士達を勇気づけ励まし続けて来た赤いマントが、白馬の人と成った。
惜しむ様に、愛うしむ様に、未来を託す様に、我が艦隊と将兵に向かって、周郎が宝剣を抜き放ち、そして天に翳した。果してその切っ先に宿るのは、如何なる思いであったろうか・・・・??
『若くして英邁闊達の気風が在った。大らかな性格で度量が有り多くの人々の心を掴んだ。他人の意見に惑わされる事無く、明確な見通しを立て、人に抜きん出た存在を示したのは、誠に非凡な才能に拠るものである』・・・・【陳寿】
『入リテハ心膂(心や腕)ト作リ、出デテハ爪牙ト為リ、 命ヲ銜ミテ出征スレバ、身ラ矢石ニ当タリ、節ヲ尽クシ命ヲ用イ、死ヲ視ルコト帰スルガ如シ。』・・・・【諸葛 瑾】
『文武両面ノ才略ヲ備エ、万人ニ勝ル英傑デアル。 其ノ器量ノ 大キサカラ考ウルニ、何時迄モ 人ノ下ニ仕エテ居ル様ナ事ハ 有ルマイ。』・・・・【劉備】
『長江・淮水ノ英傑デアル。』・・・・【王朗】
『事ヲ成サントスル 大キナ気概ヲ持チ、胆力ト才略トハ人ニ勝ッテイル。其ノ気宇壮大ニシテ、及ビ難シ。』・・・・【孫権】
『優レテ俊敏非凡、 広ク物事ニ通ジ 聡明ナルガ為ニ、 性向ヲ 同ジュウスル者達ハ惹カレテ一緒ニ成リ、志ヲ同ジュウスル者達ハ 其ノ気質ニ感ジ、集来セリ。故ヲ以テ、江東ヨリ、人士 普あまねク 輩出セラル。』・・・・【陸機】
『英俊ニシテ、異才!』・・・・【孫策】
『彼ニ破ラルル故ナレバ、我ガ逃奔ハ 恥辱ニハ当ラザル也。』・・・・【曹操】
特筆すべきは、5千人に及ぶ『正史』の記載人物群中、唯一彼だけに使われる、すぐれて固有な 印象深い言葉 が存在する事である。
『彼には大きな度量と高い精神的風貌が具わっており、言葉によって彼を動かすなど、とても出来るものでは御座いませぬ!』・・・・【蒋韓】
ーー〔高い精神的風貌〕ーー
その時から、呉国の人々の心の中には、間違い無く、〔新たな守護伝説〕が宿っていた。
今は荊州の人と成った 孫 凛華 も、その心深くに秘めていた思いを、我が永遠のものと決めた
一人であった。 「叔父上さまの御葬儀に行って参ります!」 と ひとこと言えば容される。だが、
凛華は言わなかった。 人前で大袈裟に振舞えば、己の大切な大切な 深い真実とは懸け離れた
在り方になってしまう・・・・人知れず、独り 秘やかに思って居てこそ 2人は永遠なのだ。言の葉に
出してさえ真実が毀れる程の、深淵で一途な思いで在り続ける事。たとえ彼の人が、もう此の世に
居無いと分かっていても、全く変らぬ熱く激しい気持・・・・・それを”愛”と呼ぶなら愛であろう。
其れを”恋”と呼ぶなら 恋でもあろう。 プラトニックラブと呼ぶなら、そうでもあろう。呼び方など
どうでもいい。 ただ只管に思い続ける。 思い続けられる幸せであればいい。その思いを変えぬ
自分で在ればいい。
ーーそのとき不意に、涙と一緒に 周瑜の面影が 次々に溢れ出して来た。幼い日からの思い出
の数々が、周囲の風景まで鮮明に蘇って来た。 鮮やかで美しかった。
《ーーああ、私は幸せだったのだ・・・・》
心の中で、周瑜を独り占めして居られる自分は 何と幸せな人間なのだ!と思える。
ーー永遠の恋人・・・・なのだ・・・・と確信できる。
《でも、きっと、お義姉さまは、私より もっと悲しんで居るに違い無い・・・・・》
いや、小喬夫人に限らず、女性に限らず、自分の知らぬ所で 自分の知らぬ人々が、夫れ夫れに
深い悲しみと愛惜の情に駆られて居るに違い無い。
《ーー公瑾様とは、そう云うお方だったのだ・・・・》
歴史ファンで有るならば誰しも、
《あと10年は生きて居て欲しかった!!》 ・・・・と
慨歎する、お気に入りの人物が居るに違い無い。吾人であれば『三国志』に於いては
断然、この周瑜公瑾の寿命である。36歳と云う年齢だけで謂えば、曹操の場合やっと
群雄の末席に 名を連ねたばかりの時である。 未だ未だ此処からが本当の勝負所で
あり、幾等でも野望を燃やして天下を狙う秋に在った。 時代状況は異なるとは言え、
周瑜ほどの人物であれば、その後の何十年かで、きっと大業に関わる大活躍をし得た
であろう・・・・もしも、と想うと胸が躍る。と同時に、残念無念の口惜しさがある。詮なき
事ではあるがーーそんな後世人の思いを、吾人は 〔夢の雫〕 と造語している。
・・・・さて、では、そんな思いを抱きつつ、短くも熱く燃えた
【周瑜公瑾】36年の生涯 を振り返り、その手向として
措こう。
ーーそれにしても、呉国に対する周瑜公瑾の功績は余りにも巨大である。
思い切って言えば、 周瑜なくしては 呉の国は存在して居無かった・・・・とさえ謂える
であろう。少なくとも、現在の形での国の姿は有り得無かった。良くて魏の属国(藩国)、
最悪の場合、孫一族は滅亡していたかも知れ無いのである。その危機を乗り越えて今
在るのは、偏えに周瑜の力に他ならなかった・・・・・
天下の大名門・周家に彼が生まれたのは175年の事であった。そしてその生まれた「舒」の位置が、彼を世に送り出す1つの因子となった。
190年(16歳)
同い歳ながら、既に”傑物”の名望を得ている「孫策」と云う男が、自分の近くに居る事を知った
周瑜は自ら会いに出かける。そして忽ちの裡に意気投合。生涯の友情を誓い合い義兄弟の契り
を結ぶ。この2人の出会いは、武勇のみで未だ社会的に認知されていなかった孫氏集団に、周氏
と云う名声が加わった事を意味する、重大な出来事でもあった。
折しも、父親の孫堅が戦死し、当て所を失った孫策一家・・・・ その窮状に手を差し伸べ、自宅へ
招いて共同生活をしたのが周瑜であった。その家族ぐるみの、温かくも厚い友情は、断金の友情
を確固不変なものへと高めてゆく。
193年(19歳)
突如、曹操に破れた「袁術」が、孫堅の遺臣を抱えたまま寿春に落ち延びて来る。そこで孫策は
袁術の傘下に入り、周瑜との共同生活は終わりを告げる。
195年(21歳)
2人が再会を果したのは、劇的な場面だった。袁術の下で雌伏していた孫策は独立を決意。
事実上の”旗挙げ”をして、歴陽へと向かった。 其処で合流した2人は長江を南に越え、以後、
「対・劉遙戦」を含めた〔怒涛の5年間〕に邁進してゆくのであった。その当初、最も苦しい軍事費
や艦船を供与したのは周瑜(周氏)であった。
196年(22歳)
敵対する敵を次々に撃破。破竹の勢いで江東を平定。2人3脚で周瑜が根拠地をガッチリ守備。孫策は海路遠征して、ついに王朗を伐って会稽も平定し孫策は会稽太守を称する。
197年(23歳)
突如、袁術が”皇帝”を僭称する。そして孫策の実力を恐れて、周瑜を召喚する。 拒絶する事も可能ではあったが、余計な軋轢を避ける為に、周瑜は独り寿春に出向く。 但し、自ら居巣県令の地位を求めて深入りせず、何時でも帰還できる位置取りを心掛ける。
198年(24歳)
この時期、周瑜は「魯粛」を見い出す。が、折り悪しく喪に掛かり出仕は延期された。前年9月に、破れかぶれで北進した袁術は 曹操に大敗北を喫し、もはや裸の王様状態。周瑜は長江を渡り、再び孫策と合流する。江東の地を完全に平定。官渡決戦を控えた【曹操】は、慰撫工作の為に、孫策に『討逆将軍・呉侯』の官爵を贈る。
199年(25歳)
ーー皖城を陥落させ、〔2郎2喬を娶る〕。
ーー引き続き荊州国境を越えて黄祖を討伐。
200年(26歳)ーー周瑜は孫策の本軍と別れて豫章・盧陵の平定に赴く。
ーー4月・・・・許都襲撃を整えた孫策暗殺される!
ーー17歳の新君主・孫権に「魯粛」を推挙する。
202年(28歳)ーー官渡決戦に勝って一挙に覇者候補に躍り上がった【曹操】から、
〔人質要求〕が突き付けられる。独り周瑜は断固拒絶を貫く。
203年(29歳)ーー荊州に攻め込み黄祖を撃破するも、国内で「山越」の一斉蜂起が
勃発した為、撤収する。以後、国内の再建に奔走。
206年(32歳)ーー自ら山越討伐を行ない、番卩陽に駐屯。
爾来、番卩陽湖は周瑜水軍の揺り籠・基地となる。
208年(34歳)ーー黄祖を滅ぼし、荊州の一角(江夏)に喰い込む。
ーー荊州を奪取した曹操から〔会猟の辞〕が送り付けられて来る。
国論は殆んど降伏・帰順論に支配され、孫権は孤立。かろうじて、来訪して来た【諸葛亮】を通じて〔劉備との同盟〕を結び、抗戦の意志を表わすも 国内の動揺は収まらず、不穏な動きを示す縁者さえ出る有様であった。・・・・・其処へ番卩陽から乗り込んで来た周瑜は、アッと言う間に
国論を、断固決戦に引っくり返してしまう! 是れはチョット凄い!!
ーーそして・・・・赤壁戦を大勝利に導く!!
是れは 猛烈に凄い!!
209年(35歳)
江陵に立て籠もっていた「曹仁」との激闘1年。 ついに曹操軍を北方に駆逐し、荊州の拠点・南郡太守と成って、更なる覇望を企図する。先ず狙うべきは益州!その遠征の準備に着手する。
210年(36歳)
準備万端を整え 母国へ戻った周瑜は、君主・孫権から其の”壮図”の決行を認可され、勇躍して西へと取って返すーーが、その途次、病に倒れ 不帰の人となる。
我が身を顧みぬ、〔天下制覇の夢〕を抱いた儘の死であった・・・・・・
こうしてザッと見てみるだけでも、
彼の〔武人としての武勇〕や〔戦略家としての智謀〕が、超一級だった事が
改めて偲ばれる。 だが何にも増して、他の誰よりも卓越していたのは、
どんな苦境に臨んでも決して屈せぬ〔誇り高さ〕であった!と言えよう
また曲ニ誤リ有ラバ、周郎 顧ミルと謳われた、その〔ノーブルな佇まい〕も
他の英雄とは一味も二味も違う魅力である。 甘いマスクと 洗練された物腰。博い教養と高貴な
出自を持ちながら凛呼とした男らしさが香り立つ人物ーーそれが風雪で鍛えられ、更なる風格が
具わっていったのだから、万人に敬愛されたのも頷けよう。
呉国との関わりで言えば、是れはもう最大の功労者・いや創業者である。
その崩壊の危機を何度も救い、その度に燃える様な意志で艱難を乗り越えた守護神であった
そもそも其の最初、父親の急死で当て所を失い、路頭に迷った孫一家を、丸ごと引き受けたのは
周瑜であった。更に孫策旗挙げの当初、予想外に膨れ上がって未だ兵糧さえ覚束ない孫策軍に
経済的・物質的援助を供与し、建国の始業を成功に導いたのも周氏の資力に負う処が大きかった
ーーその後の より大きい危機としては、孫策の急死に伴う内憂と外患であった。
僅か17歳の孫権を盛り立てつつ、ガタガタに成りかけた国内を収拾する一方、曹操からの人質
要求を断固拒絶させる。もし此の時 要求に応じていたら、孫氏は曹魏の藩国(属国)以上では在り
得無かったであろう。ーーそして最大の危機・・・・赤壁の大決戦・・・・
眼には見えぬ貢献、価値の保有者としても、周瑜の存在は大きかった。
1つは・・・当初、社会的地位の低かった武人集団としての孫氏に、大名族の名声が加わる事に
拠り、一挙に其の〔社会的地位を向上させた〕無形の価値付与
2つは・・・・出仕に”二の足”を踏んでいる〔名士層を引き寄せる〕触媒としての役割と功績
3つは・・・・名士と軍人との〔公武を合体させた〕融合剤としての役割と功績
4つは・・・・アクの濃い〔異形の人材の発掘や推挙〕を為した 軍政家としての功績
5つは・・・・そうした〔濃いキャラをきちんと育てあげた〕器の大きさ
6つは・・・・最大勢力として、自らが率先して ”臣従の態度” を鮮明にして見せる手本としての
役割と、その事に拠り〔孫氏の君主権を確立させた〕功績 などなど・・・・
惜しんでも惜しんでも 惜しみ切れない
至宝の早逝であった・・・・
だが何時迄も、ただ悲嘆に暮れてばかり居られ無いのが、シビアな現実と云うものである。魏の曹操が凹み、呉も亦凹んだーーとなれば・・・・その凹んだ分、凸む勢力が出て来る。
第3の勢力を目指す
劉備集団である!!【第162節】 影の軍師 誕生す(汚名甘受の英傑)→へ