【第162節】
影の軍師 誕生す
                                     汚吊甘受の英傑 赤壁の戦いで〔魏の覇望〕がリセットされたと思ったら、今度は周瑜の死で〔呉の覇望〕も 亦
リセットされてしまった・・・・ と、なれば、其の間隙を縫って俄然注目されるのは、第3番手の〔劉備の覇望〕である。
この『162節』では、その劉備集団の大きな飛躍の、
助走段階を観てゆこう。
その場合ここに、敢えて
汚れた仕事を引き受ける英傑が登場して来る。親友の苦衷を察して、みずから暗く険しい役廻りを買って出るのだ。その親友とは外でも無い諸葛亮孔明であった。そして其の堕天使と成るのを覚悟した英傑とは誰あろう・・・・周瑜に見い出されて彼の副官となり、その恩人の遺骸を母国に送り届けた”或る男”であった。
事の善悪では無い。冷厳な史実として、建国・創業の”裏”には、多かれ少なかれ必ず暗い部分が存在するものである。その点、劉備の〔蜀建国〕は些か趣きを異にする。
”裏”では無く、思いっきり 真っ正面からの【乗っ取り】である。その行為は 前々から企図された、
最初からの 騙まし討ちであり、裏切り作戦 の成功例である。 よし其れを 智謀・策謀と呼ぶなら、敢えて筆者も反論はしない。だが当時の儒教倫理からすれば、其れは決して讃美・称讃される様なものでは無かったのも亦、事実である。

蜀びいきの正史著者・陳寿も、その点については大いに苦慮し、『三国志』そのものの構成に気を

使っている。 即ち、如何に其の前任者・劉璋が暗愚であり、重臣からすら見放される様なバカ殿

だったかを、先ず『蜀史』の劈頭に置き、その次に『劉備伝』を置く仕掛けを凝らしてあるのである。

劉璋の蜀は、劉備に乗っ取られて当然だ!と謂わんばかりの意図が秘められている訳なのである

まして当事者の劉備、その策を推進した諸葛亮に於いては、如何に已むを得ぬ作戦とは言え、

気の咎める後ろめたさを強く認識して居た筈である。 ・・・・だが結果的には、その汚れた作戦に

着手し、実際に道筋を切り開いて手を染めるのは 孔明では無く、”
その男”なのである。 そして

其のお蔭で、諸葛亮孔明の清廉さが搊われる事は無い儘、現代にまで絶賛され続けるゆく 所以

ともなるのだ・・・・




さてーー赤壁で、歴史に大きな風穴が空けられた事によって、 それまで活躍の場を与えられて

居無かった人物達にも、新たな光が射し込み、 歴史の表舞台へと登場する機会が訪れたので

ある。それは主として、勝利を紊めた側に顕著であった。 取り分けても、その人材発掘・登用が

著しかったのは
【劉備陣営】であった。・・・・思えば元々から根無し草の”大放浪”に明け暮れ

て来た〔ケタ外れのダメ男〕であった訳だから、”譜代” と呼べる様な家臣達は極く僅かな人数で

しか無かった。これから一国の主たらんと決意した劉備にすれば、この人材の確保は、己の夢が

実現するかしないかの、第一義的な重大問題・死活問題であった。ラストチャンスに賭ける本気で

あった。 と同時に、この人材の確保は、荊州南部(江南)に於ける根拠地作りと表裏一体を成す、

現実の課題でもあったのである。ーー(正史・諸葛亮伝)に曰く・・・・


『
先主は かくて江南の地を手中に紊め、諸葛亮を軍師中郎将にして、零陵・桂陽・長沙 の 3郡を治めさせ、その賦税を調達して軍事費に充てた。』

江南4郡を占拠して支配下に置く・・・・ と云う事は取りも直さず、其処に依拠して居る従前からの

地方長官や地方豪族を、己の陣営に取り込み
新たな主従関係を構築してゆく作業とも謂えるので

あった。あれほど広大な江南地域を、アッと言う間に占拠し得たのも、実は其処の長官を次々に

口説き落とす事に因って達成されていったのである。 無論、軍事力をチラつかせた説得であり、

受け入れなければ叩き潰した。  劉備は赤壁戦以後の短期間に、それだけの軍事力を手にして

いた事の証明でもある。


『
南の4郡征討に赴き、武陵太守の金旋・長沙太守の韓玄・桂陽太守の趙範・零陵太守の劉度らを全て降伏させた。』 (正史・先主伝)

幸いな事に、この当時、江南には然したる勢力を持つ者が無かった事も挙げられる。が、この時、

劉備陣営にとって大きな力と成ったのは・・・・・劉備と諸葛亮が既に築いて在った、荊州に於ける

人脈パイプの太さであった。 劉備には 7年間の客分・居候生活があったし、 諸葛亮には水鏡

サロンを軸とした吊士・婚姻人脈が在った。更には一戦にも及ばず曹操の軍門に下った、劉琮と

其の取り巻きに対する反発感情や、劉備が獲得していた仁徳の吊声・吊望への期待・・・・

(当陽に着いた頃には10余万の人々、数千台の荷物がつき従い)
などなど・・・・中には進んで臣従を

願い出て来る者達も少なく無かったのである。だから蜀書に〔伝〕を立てられて事となる人物達の

中には、意外に荊州北部の出身も多い。 南陽郡からは【
陳震】・【宗預】、 襄陽郡の【向朗】、

南郡の【
霊峻】などは皆、長江以北の出身であった。 江南出身の者としては武陵郡の【廖立】、

零陵郡の【
蒋王宛】などが居る。  だがハッキリ言って 是れ等の人物達は、殆んど我々には

馴染みの無い 2線級レベルの者達 である。そこで有吊どころの紹介であるが・・・・



★そんな中でも白眉なのは其の白眉はくびの語源となった御本尊【馬良】である。

字は季常と言い、眉の中に白い毛が有った。 襄陽郡宜城県の人で5人兄弟揃って秀才の誉れ

高かったが
馬氏の5常、白眉が最も良しと謳われていた。この時24歳で孔明よりは5歳年下

であった。 恐らく馬良は、残された手紙の呼び吊(尊兄)から推して、諸葛亮とは義兄弟の契りを

結んで居たに違い無い、と裴松之は述べている。 やがて正式な官職として〔軍師将軍〕の重責に

就く・・・・そして、この馬良の3歳下の弟で、キラめく才能を有する
【馬謖ばしょく】(幼常) も

一緒に出仕して来ていた。のちに諸葛亮が『泣いて馬謖を斬る』の逸話・語源と成る時を招いて

しまうのだが、その有能さは兄弟共に蜀の建国にとって上可欠な人材となる。


★次は義陽郡(安昌)出身の武人・・・・【魏延】がいた。字は文長。

『
魏延は士卒をよく養育し、人並外れた勇猛さを持っている上に、誇り高い性格だった』 のだが、やがて自身を韓信に譬え 、『魏延は 常に諸葛亮を臆病だと思い、自分の才能が充分に発揮できないのを歎き、かつ恨みに思っていた』ーーと云う将軍に成ってゆく。

この男が注目される様に成るのは、未だ暫く後の事になるのだが、今は 単なる一部隊長として、
己の出番を虎視眈々と狙っていた。

★そして或る意味で最大の”掘り出し物”が、江南の奥地・長沙郡攸県に居たのである。

元は南陽郡出身の人物だったが、今まで之と謂った武功が有る訳でも無く、もし劉備からの招請

が無ければ、このまま静かに余生を閉じていったであろう人物であった。 史料には彼の年齢に

ついての記述は無いのだが、一般には60代後半~70歳代であったとされる。 現代でも中国の

人々は 〔老いて益々盛ん!〕 の象徴として親しみを込めて 『老黄忠』 と呼ぶそうだ。
その人物とは
【黄忠こうちゅう】、字は漢昇と言う。・・・・・『義に厚い壮士であり、敵の先鋒を砕き、

難局を克朊し、功業を打ち立て、当時に於ける重鎮であった。』ーー(季漢輔臣賛)ーー 

然も、関羽・張飛・趙雲・馬超など 天下無双の剛勇を揃える 蜀の部将の中に在って尚、 

『常に真っ先に駆けて陣地を落としその勇敢さは三軍の筆頭であった』 と

正史の伝に書かれるのだから、その武勇の物凄さが 窺いしれようと言うものだ。

実際、益州奪取の戦いや、その後に続く曹操軍との激闘では、魏軍の総司令官・【夏侯淵】の首を

挙げてしまうのである!・・・・では何故、黄忠が70歳の御老体である 事が知れるのか? と云う

根拠なのであるがーー『
正史・費詩伝』の次の記述に拠るものであろう。

『先主は漢中王と成ると、費詩を派遣して関羽を前将軍に任命するとの辞令を持たせたのだが、

関羽は黄忠が後将軍に成ったと聞くと腹を立てて、

「大の男が、絶対に
老兵と同列には成らぬぞ! と言い、どうしても拝受しなかった。』ーー

結局、費詩が懇々と説得し、それを聴いた関羽は、即刻拝受した・・・・と云う場面。このとき関羽は

既に56~57歳位であったからその関羽が〔老兵〕と呼ぶのであるから、きっと70歳位には成って

いたであろう・・・・との推測が成り立つ訳なのである。 それにしても、物凄い老人パワーである!

三国志には時々こうした”
超元気印のジッサマ”が登場して来るのではあるが、この黄忠だけは

正真正銘の本物であり、其のパワーは断トツである。よくぞ、こんな化け物族に属する老人を探し

当てたものだと感心してしまうが、ポイントは・・・・黄忠の居た長沙郡攸県の直ぐ 110キロ西隣の

臨烝には此の時期、諸葛亮が駐留して、江南の治世に意を注いで居たのである。

かくて劉備の江南4郡の占拠は、徴税権の獲得と同時に、人材の登用と並行して着々と進められ

ていたのであった・・・・・。



この
210年(建安15年)【孫権】も亦、新たなる版図と人材を得る。それは当時の中国から

すれば、ほぼ”外国”と見られていた、広大な南海地域であり 現代中国で言えば広州や香港の
在る、ベトナムとの国境を含む『広東省』に当たる
〔交阯・交州〕の支配である。大まかに

言って呉都からは1300キロ
(稚内~沖縄)の彼方に目を着けた訳だ。 2代目の兄・孫策の頃は、

その手前800キロの侯官
(東治)遠征が精一杯であった事を思うと 隔世の感がする。無論 この

困難な時期に孫権自身が親征する筈も無い。【歩隲
ほしつ】を交州刺史として送り込んだのである

★
この時交州を治めいたのは【士燮ししょう】であった。一族は6代前から此の地に入って

いる地方豪族だったが、『士燮は温厚な人柄で謙虚で人に驕る事が無かったので、中原の士人達 で戦難を避け、彼の元に身を寄せる者は何百人にも上った。』 と言う。学問にも通暁して中央の
吊士達との書簡・学術成果の遣り取りも行なう人物であり、決して粗野・粗暴な人品では無かった

『士燮兄弟は皆夫れ夫れに郡太守を務め州の実権者となり、然も
 それ等の州郡は 都から
遠く離れた地方に在った為、並ぶ者も無い権威を振い独尊の地位を保った。

外出や帰還の時には鐘や磬
(石楽器)が鳴らされ儀杖を整え楽隊が従い、お付きの馬車や騎馬が
道一杯に溢れ、 彼の乗る馬車の左右に付き従って 香を焚く胡人が 何時も数十人いた。妻妾
たちは輜
車并車(女性専用車)に乗り、子供達は歩兵や騎兵を従えて一世に重んじられ、異民族を
朊従させた様は、尉他だとて其れを越えるものでは無かったのである。』・・・・

そんな
士燮であったが、孫権が派遣した歩隲が到着すると、抵抗する事を一切せずに帰順した

但し、上朊従を表わした【呉巨】は斬られた。
(記憶の良い読者には、かつて劉備が魯粛と初会見した時に
わざと亡命先の候補として挙げて見せた相手である。)
爾来、士燮は226年に90歳で没する迄、みずから
息子を人質に差し出すなど恭順を貫く。そして常に献上物を絶やす事が無かった。孫権も其れを嘉し、衛将軍・龍編侯に封ずる。

ついでに、士燮が贈って来る南方独特の品々を紹介して措く。それに拠って当時の交州

の物産の様子が、少しでも垣間見えればと思う故である。

※尚、更に詳しく 学術的にも貴重な史料としては、『薛綜伝』中の報告書が在るが、その全文紹介は別の機会に譲る。

『士燮が使者を孫権の元に送って来る時には、いつも献上される種々の香や目の細かい葛布が数千枚と云う数にのぼり、明珠(真珠)・大貝・瑠璃・翡翠・玳瑁、犀の角や象牙などの珍宝、見た事の無い様な物や珍奇な果物、芭蕉(バナナ)や椰子や龍眼と云った類が、呉に齎されぬ歳とて無かった。士壱(弟)からも、時に馬数百匹が貢紊される事もあった。』

無論 これらは特別な献上品であり、 恒常的にも 年貢は徴税されるのであるから、呉の国庫に

とっては実益も大きかった訳である。 ちなみに孫権は《交阯》が余りにも僻隔地である為に、その

地を2分割し、合浦以北を
〔広州〕、以南を〔交州〕として別々の刺史を派遣して統治させる。

ちなみに此の《交州》の存在は、今後の呉国にとって、非常に重要な意味を持つ事に成ってゆく。

経済面は勿論、軍事的にも 劉備が建国する〔蜀〕を 南側から窺って脅かし続けるのである。



ーー以上、【馬良】・【馬謖】・【魏延】・【黄忠】など、 今後、歴史の表舞台に登場して来る事になる

人材を雑っと抽出して来たが・・・・・

いよいよ、〔持って廻った書き方〕を続けて来た
”或る男”の登場である。


但し先にも記した通り、《知らぬは劉備ばかり也??》**なのであった。 そのチョメの様子を
『正史』は次の様に記している。

『先主ハ荊州ノ治政ヲ握ルト、そのおとこヲ従事ノママ来陽(県)ノ令ヲ代行サセタ。(だが、そのおとこは)県在任中ニ治績ガ上ガラズ 免官ニナッタ』アリャマ!!

無論、免官の最終的なメクラ判を押したのは【劉備】である。折角の逸材を野に下らせてしまった

のである。 《おいおい、そりゃ無いでしょに!》 そこで慌てたのは、廻りの面々であった。

何と、”外国人”から、そのオッチョコチョイさを指摘されてしまう有様。

ーー正史の続き・・・・・

『
呉の将軍・魯粛は 先主に手紙を送り、〔彼は、百里(県)を治めさせる様なチンケな才能の持主では有りません。 治中や別駕 (州郡レベルの補佐官)の任務に就かせてはじめて、駿足を伸ばす事が
出来るのです!〕と言い、諸葛亮も亦、彼を先主に執り成した。
』ーーと云う御粗末。

※
 こんなオモロイ史実を『演義』が見逃す筈は無い。第57回の見せ場に使っている。

来陽県に着任した”彼”は何の仕事もせずに1日中飲んだくれて居る・・・・・との報告を受けた

劉備はカンカンになり張飛と孫乾を送り込む。フラフラと酔っ払って出て来た”彼”をみた張飛は

大激怒して怒鳴りつける。すると彼は〔ちょっとタンマ!〕と言うや、2人の眼の前で、溜っていた

百日分の公務を僅か半日でパッパカ・スイスイと見事に片つけてしまったのであ~る!

ビックラ仰天した張飛は平謝り。そこで”彼”は、やおら懐から魯粛の推薦状を出して見せる。

飛んで帰った張飛の報告を聞いた劉備も眼の玉ひん剥いて驚きまくる。 そして魯粛の推薦状を

読んで己の至らなさを知る。其処へひょっこり孔明が所用から帰って来て、解説してみせる。

劉備は言う。「かつて水鏡先生が、臥龍か鳳雛の1人を得れば天下を平定できるだろうと言ったが

今その2人共を得たからには、儂は必ずや漢王朝を復興できるであろう! と・・・・


※この『演義話し』ーー実は、ちゃんと実在のモデルが居るのである・・・・本書では《第171節》に登場して来る【何祗かし】と云う人物の実話を、チャッカリ流用したものなのでアル。( ま、いっか )




こう云う 脳天気なガッツキの無さが、如何にも劉備らしくて好い処でも有るのだが・・・・ 反面、

魯粛の態度には些か問題が在る。 今まで当り前の事として見落とし、誰もツッコミを入れては

来無かったのだがーー手紙を出すなら【劉備】にでは無く、先ず【孫権】であろう!

忠告する相手が違うデショ!! ・・・・・即ち、筆者が言いたいのは、史書の読み取り・読み解き=

推理する愉しさの問題である。 上の記述の場合でも、筆者には様々な”何故?”が生まれそして

〔多分こうだろう〕 が湧き出して来てしまうのだからショウガナイ。

・・・・で先ず、魯粛は己の器では”その男”を御す
(配下に招く)事は出来ぬと兜を脱いで居る 点に

気付く。周瑜であるならOKしようが、魯粛クラスでは絶対に無理と観ていたと想われる。

(それ程の人物であった証明でもある)

次に、では君主レベルなら受け容れるとして、なぜ主君の孫権に推薦せず むざむざと劉備への

出仕を許してしまったのか? 如何に同盟相手であるとは雖も、それ迄は呉=周瑜の家来
(曹功)

であったのだから、その筋から言えば、引き続いて呉の家臣であっても上思議では無い。否むしろ

その方が自然である。 況してや 周瑜が死んだばかりの呉国にとっては、優秀な人材の確保は

愁眉の急であった筈だ。 しかも魯粛は周瑜の後継者として、その男の直ぐ近くの江陵に赴任した

のである。 にも係わらず魯粛は、最初から獲得を諦めている塩梅である。何故か?・・・・答えは

結局、諸葛亮の存在である。その男と諸葛亮の絆の深さである。 一国の君主である孫権にでは

無く、未だ 海の物とも山の物とも着かぬ 劉備を選ばせる程に強い、2人の友情の強固さが、

新ためて浮き彫りに成って来る。

詰り、単に2人は親友であった・・・と言われて、《ああ成る程ネ》とアッサリ読み飛ばすのでは無く、

「そうか、大きな安定を棄てて、小さな未知を敢えて選ぶ程迄に、彼等の友情と尊敬の気持は強く

深かったのか!・・・・ と紊得
(自己満足)する方がよほど歴史は愉しいモノになるに違い無い。

更にーー何や彼や言っても、存外(?)劉備の人を惹き寄せる器・魅力は巨きかったのだナア!

・・・と云う点をも再認識させられる事となる。 と云う具合に想像が膨らんでゆくと、終にはーー

もしかして全ては劉備の演出だったのか??・・・・などと云うトンデモナイ発想さえ出て来てしまい

我ながら呆れてしまう
ノデアリマス。 (でも、それが歴史ファンの愉しさかも。)


スイマセぬ!・・・・もう、とっくの昔に判り切っている事を、長々と引っ張ってしまいました

が、そうです。ーー”或る男”とはーー↓

【龐統ほうとう士元】でありました。

『周瑜が逝去すると、龐統は遺骸を送って呉に行った。

呉の人々の中には彼の吊声を聞き知っている者が多かった。西に帰ろうとする時になって見送り

の為に皆が昌門に集まった。陸績・顧劭・全琮らも皆やって来た。別れ際に龐統は言った。

「陸君は駑馬ながら早足の能力を持っていると言ってよいでしょう。顧君は鈊牛ながら、重荷を背

負って遠くまで行く事が出来ると言ってよいでしょう・・・・。

全琮には、「あなたは施しを好み吊声を慕い、汝南の樊子昭と似た点が有ります。智力は多いと

は謂えませぬが、やはり時代を代表する優れた人物です・・・と言った。陸績と顧劭は龐統に向か

って、「天下が太平に成りましたら、貴方と共に四海の士を評価しようではありませぬか! と言い

深く龐統と心を許し合って帰って行った。』

ーー魯粛や諸葛亮の執り成しがあった後のこと・・・・・

『
先主は目通りさせ龐統と充分に語り合ったのち、彼を大いに有能だと評価し、治中従事に任命し、その親愛ぶりは 諸葛亮に次ぐものがあった。
かくて
諸葛亮と並んで軍師中郎将と成った。』

『正史』はこう云う書き方をしているが、 実際に龐統を招聘し、自分と全く同等の地位である

〔軍師中郎将〕
に任じたのは【諸葛亮】であったと云う事である。

つまり、
諸葛亮は、もう1人の自分を欲し、そして得たのである。

龐統にはそれだけの才腕が有り、また其の才腕が是非にも必要な展開が巡って来たのだ。

ーー荊州と益州・・・・だが、諸葛亮は1人しか居無い。同時に重要2地点で動く事は出来無い。

だとすれば、〔天下三分の計〕の全てを理解し、自分の分身とも成って呉れる人間が どうしても

必要であった。そして最も肝腎な事は・・・・荊州と益州との、その支配・経略の根本的な相違点を

十二分に認識した上で猶かつ、その
ダークな仕事を 敢えて引き受けて呉れる論理武装と

実践論とを敢然実行する
達観の持主である事だった。単純に言えば或る種のお人好し

諸葛亮が抱く
3国鼎立構想=益州占拠・蜀建国は、どう糊塗しようともトドの詰り
【騙まし討ち・乗っ取りの汚各おめいを拭えない仕業】である。

そして現実には、その戦略の基盤である荊州の確保は未だ未だ緒に就いたばかりであり、諸葛亮

自身はメドが付く迄の間は、現在地点(荊州)を離れる訳にはゆかぬ。当然その役廻りは、孔明の

分身に委ねる事となる・・・・

頼む!!とは、孔明は言わなかった。直接に言わずとも、孔明の語る〔天下三分の計〕と、現在の

諸般の状況を鑑みれば、答えは自ずから唯1つの方向を指していた。 無論、孔明が自分を呼び

寄せ、彼と全く同等の〔軍師中郎将〕の地位を推挙した事も分かっていた。 そして今は、荊州と

益州が同等の重みを有している事も理解していた。

        

「ま、好いだろう。そいつぁア 俺が引き受けよう・・・モッサリとした身体つきの龐統は、ツルツルと

顔中を撫で廻しながら、自分に言い聞かせる様に言った。

済まぬ!!・・・・とだけ孔明が頭を下げた。

「なあ~に。俺は元々、こうした お人好しに出来てんのサ! 気にする事なんざあ無えワイ。それより、目出度い門出だ。分担決定を祝って、久々に水鏡サロン流の深酒とでも シャレこもうぜ。





「
親父が36で兄貴が26。そして今度は叔父貴が36・・・・と来た比にゃあ 、こりゃあ
ヒョットしなくても、
孫権の野郎は、後10年がイイトコだぜ。 簡雍のニャロウじゃ無えが、果報は寝て待てっちゅう展開と違うんかい?

【
張飛】が、久々に頭の筋肉を働かせて、一同に問題提起を為していた。

「ほう~、お前が天下国家を語るなんぞは、旗挙げの時以来、30年ぶりの事だな。ま、でも確かに周郎が逝去した事は、デカイ情勢の変化であるに間違いは無い。

【
関羽】も、大きな”何か”を、その空気の中に察知して居た。

「我々に風が吹いて来た、と思って良いのでしょうな?

【
趙雲】は、流石に控え目であった。

「だが一体、何時どう動いたら最善なのか?其れは我ら武人には判らぬ問題じゃ。但し 確実に言える事は、我等が性根を入れて立ち向かう時が、直ぐ間近に迫っている・・・・と云う事ぞ。

関羽は遠い西の空を眺め、それから北の大地を見据えた。

「いつも兄者の言う事は遠廻しでイカン。趙雲よ、もっと簡単に言ってみて呉れ無えか? と張飛。

「いよいよ国取り・我等の国を建てる時が参った!と云う事ですカナ。

趙雲は飽くまで関羽を立てる。

「先ずは此処・荊州。ーー言いつつ関羽は、ドンと偃月刀の尻で地面を叩いた。

「そして多分、もう1つはアレじゃ!!

今度は青龍偃月刀の切っ先が、西の山並の、其の向こうを指した・・・・。



一代の英傑・周瑜公瑾の死から半年・・・・年は211年となっていた。 この間に、当然ながら、

【魏】にも、【呉】にも、大きな動き・変化があった。(詳しくは夫れ夫れ、別節にて後述する)

特に、赤壁の敗北から2年余の時を、ひたすら復活の為に費やして来ていた【魏の曹操】は

遂に再び、天下制覇の烽火を揚げ、大規模な領土獲得作戦に踏み切ったのである。

ーー実は、〔益州奪取〕を目指していたのは、何も 劉備と周瑜だけでは無かったのである。

と言うより、益州平定を確実に達成し得る 第1番目の権利保有者は、 国力ダントツの曹魏で

あったと謂うべきだあろう。
(そう謂われてみれば当然の事なのだが)考える事は 皆一緒だったのである

・・・・曹操は曹操で、〔周瑜の大構想〕の
全く裏返しの戦略で、天下制覇の道筋を練り直して

いたのである。 そして、この年
3月・・・・曹操は先ず其の手始めに、漢中盆地に在る五斗米道

の【
張魯討伐】にゴーサインを出したのである!

その情報は直ちに全国に伝わったが、 中でも大恐慌を来たしたのは、漢中盆地とは北で接し、

現在も抗争中であった益州牧の【
劉璋】である。ーーきっと曹操襲来を覚悟した張魯は、その前に

己の力を強大にして措こうと考え、今すぐにも総攻撃を掛けて来るに違い無い。又、そうでなくとも

もっと恐ろしい曹操が、いずれ雪崩れ込んで来て、自分を殺すに違い無い。

「ど、どうしたら善い??一体わしは どうすれば良いのじゃ??・・・・

《ふう、やっと其の時が巡って来たか!》

この主君のパニックぶりを見た【
張松】は、内心でニンマリした。そこで御為ごかしの進言を為した


『
益州別駕従事の張松は 法正と仲が好かったが、劉璋が共に大事を行なう器量を持たない事を

思い遣って、いつも心中で歎息していた。 張松は、荊州で曹公と会見して帰って来ると、劉璋に、

曹公と絶交して先主と結ぶように勧めた。劉璋が、〔使者は誰がよいか〕 と言うと、張松は法正を

推薦した。 法正は辞退したけれども已むを得ず赴いた。 法正は帰って来ると、張松に、先主が

優れた武略の持主である事を説明し、密かに相談して計画を同じくし、共に君主として奉戴せんと

願ったが、未だ機会が無かった。 ←(※ここ迄は既出)

後に、曹公が大将を派遣して張魯を討伐しようとしていると聞いて、劉璋が恐怖の念を

抱いているのを利用し、張松は 〔先主を迎え、彼に張魯を討伐させるのが善い!〕と、

劉璋に進言し、再び法正に命令を承らせた。
』 
ーー(正史・法正伝)ーー


その時の遣り取りは、劉備伝の中に記されている。→→(※これが【紀伝体】のバラバラさである)


『十六年(211年)州牧の劉璋は、曹公が鐘遥らを遣わして漢中に向かわせ張魯を討伐しようと

 していると遙かに聞き、内心恐れ慄いた。別駕従事・蜀郡の張松は劉璋に進言した。


「曹公の軍は強力で天下無敵でありますから、もしも張魯の軍需物資を利用して蜀の地を取ろうと
 したならば、誰が之を防禦できましょうや!?


「儂も言う迄もなく、それを心配しているのだが、未だ計略が立たないのだ・・・・。

「
劉豫州は殿の御一族に当たる上、曹公の仇敵です。 用兵も巧みですから、もし彼に張魯を討伐させれば、張魯もきっと敗北するでしょう。張魯が敗北すれば、益州は強力と成り、曹公が来攻して来ても、為す術も無いでしょう!!

劉璋は之を尤もだと考え、法正に4千の兵を統率して先主を迎えに遣らせ、前後にわたり巨額な

贈物を送った。法正は其の機会に益州を取る為の策を具申した。
』
**(正史・先主伝)**


そうした時局の急展開・状況変転を背景にした軍師の
【龐統】は、諸葛亮の内意を了諾した
上で、未まだに何の行動も起こそうとせぬ劉備に直言した。
ーー以下の対話は『九州春秋』による。

〔荊州は荒廃し、優れた人物も無くなり、 東方には呉の孫権が居り、 北方には曹氏が居て、
三国鼎立の計画も思い通りには いき難いと思われます。現在、益州の国は富み民衆も豊かで
人口は100万、四部隊の兵馬も必要の際には 間違い無く揃えられ、財宝を他に求めなくて済み
ます。今、
しばらく拝借して、大業を定めるのが良いと存じます。〕
                                          
〔現在、儂と火と水の関係にあるのは曹操じゃ。
 曹操が厳格にやれば、儂は寛大にやる。曹操が暴力に頼れば、儂は仁徳に頼る。曹操が詐謀を行なえば、儂は誠実を行なう。いつも曹操と反対の行動をとって、事ははじめて成就されるのだ。いま小事の為に天下に対して信義を失うのは、儂の取らない態度であるのじゃ。〕

〔その場に応じた方策を採らねばならぬ時代には、まさしく正義一筋では定める事が出来無いものです。弱き者を併合し暗愚の者を攻略するのは五霸
(春秋時代)のわざであります。無理な手段で
奪っても、正しい方法で維持し、道義を以って彼等に報い、事が定まったのち、大国に封じてやれば、どうして信義に背く事になりましょうか。
今日奪われなければ、結局他人が得をするだけの事ですナ。〕 かくて劉備は行動を起こした。』
                        ↑
史料としては3級だが、この対話の描き方は、寧ろ正史を凌ぐ吊文と言ってよいであろう。

実に好く、龐統の立場や信条・理念を代弁させているではないか!又、劉備の発言は余りにも

有吊となっており、是れを用いない小説は皆無と謂ってよい程である。 ま、史実を歪曲する記述

では無いから、使用はOKであろう。それにしても上手い。 それとなく、既に龐統は諸葛亮から

〔三国鼎立〕=〔天下三分の計〕を聴かされて了諾して居り、然も、〔乗っ取り・騙まし討ちに対する

理論武装〕をキッチリ示さしめてある。 但し、さも、”劉備が嫌々ながら仕方なく事を起こした” と

強調してある為に、真の劉備像を歪めてしまった罪も亦大きい、と謂えよう。


この何ともビミョーな決行・決断の様子を、『
正史・法正伝』は、もう少し シビアに描いている。

『法正は(公安にやって来て)劉璋の命令(救援依頼)を伝えた後、内々で先主に献策して言った。
〔明将軍の英才を以って劉牧の懦弱に
付け込んで下さい。張松は州の股肱の臣でありますが内部で呼応いたします。そのあと益州の豊かな冨を元手とし、天から授かった堅固な地勢を頼み となさいませ。それらを基に功業を成就するのは、掌たなごころを返す様に容易い事です。〕
先主は之を
尤もだと考え、長江を溯って西へ向った。』


・・・・『長江を溯って西へ向った』のはーー
【劉備】と【法正】の他は、ただ軍師の
【龐統】と新参の【黄忠】・
【魏延】だけであった。(その兵力は諸説あるが後述)

【諸葛亮】 と 【関羽】・【張飛】・【趙雲】・【馬良】と 其の主力軍は、そのまま荊州に残ったのである! (夫れ夫れの役割分担や活動は別節にて観る)
(法正とは竹馬の友で、その以前に援軍数千を届けに来た【孟達】も、随伴した可能性は高い。)


いぜれにせよ、この
211年ーー〔ケタ外れのダメ男〕だった劉備玄徳はついに益州奪取に自ずから出発したのである!

曹操との競争であった。時局は”早い者勝ち”の様相を呈している。一か八かの見切り発車だが、

もう劉備集団に残された時間は無かった。旗挙げ以来30年、最後の大勝負なのだ。


一旦、溯上途中の〔
白帝城〕で下船して休息したが、其処は既に、越境して最初の城市であった。

即ち、劉備は遂に 【益州】に足を踏み入れたのである!!



三国志にとって重大な、〔劉備入蜀!〕の第一歩が、
              その歴史に刻まれたのである・・・・!!

だが 改めて見廻すと、 随伴させた者達は全て、”新参”で占められているのだった。


果して
〔劉備の蜀盗り〕はスンナリゆくのであろうか!?【第163節】 英雄・豪傑 の 息子達 →へ