【第160節】
「ホウ〜、よくも其んな人物が、未だ野に在ったものだな!」
曹仁を襄陽に追い払って間も無い時期の事であった。周瑜の情報網に”或る男”の存在が
聞こえて来た。その人物の噂だけなら周瑜も以前から耳にしていたのであるが、まさか其んな近く
に、無位無官のまま在野して居たとは意外な事であった。
「本来なれば此方から出向いて、手厚く迎えねばならぬ御仁だが、任務多忙の折ゆえ、重々失礼の無い様に、よ〜く 其の旨を伝えて呉れ。」
【周瑜】が招請した”その男”・・・・数奇な事に、生まれついてのモッソリと大らかな本性とは凡そ懸け離れた〔ダークな役廻り〕で、三国志の一幕を担う事となる。
その為もあってか傅巽 ふせんは、(人物評の名人。劉jに曹操に帰服すべしと迫り魏の重臣と成った) 彼を
『不完全な英雄』 と評定している。この時31歳。そして其の余りにも有名な役廻りが、劉備の軍師としての仕事だった為に、ともすると恰も最初から劉備に出仕していた如くに見られがちである。
だが実は、彼の才能をキッチリ認め、初めて正式に重く用いたのは【周瑜】その人であったので
ある。寧ろ【劉備】などは、他人から注意されてやっと彼の才能に気付かされると云う 大チョンボ
なのである。 と言うより、知らぬは劉備ただ一人・・・・江南〜江東の名士社会では、知らぬ者など
無い程の超大物であったのだ。
そんな彼の秀逸さを示す逸話は、既に其の青春時代に於いてすら、夙に有名なものであった。
『彼は襄陽の人で、若い頃は 地味でモッサリしていたので、未だ誰も彼を評価する者は
無かった。然し20歳の時、清潔・温雅な人柄で人物の鑑識眼に優れていた「司馬徽しばき」に会いに行ったところ、司馬徽は桑の木に登って葉を摘んでおり、彼を木の下に座らせて語り合うこと 昼から夜に及んだ。司馬徽は彼を非常に高く評価して、「彼は南州の士人中第一人者になるだろう」 と答えた。それから次第に有名となった。』
ちなみに荊州の豪族名士だった广龍徳ほうとくは、その司馬徽を、世を照らす〔水鏡〕であると言い
司馬徽のサロン(私塾)を援助し、その門弟の諸葛亮を〔臥龍〕、そして此の男を鳳凰の雛 〔鳳雛〕
ほうすうであると評した。即ち此の男は、諸葛亮孔明の学友であったのであり、その才は水鏡サロン
の双璧と云う評判を得ていたのである。親友の諸葛亮は曹操が荊州に来襲する1年前の時期に
劉備に仕官したのであったが、この男は別に焦る訳でも無く、悠悠とマイペース。特段に己を売り
込む様な道を歩まず、生来からのおっとりした性格もあって、のんびり自由気儘に各地の名士との
交流を楽しんでいた様だ。
「貴方ほどの人が、何時までも野に在るのは国家の損失と言うべきです。どうぞ、この私に貴方の力をお貸し下され。そして乱れに乱れ切っている此の戦乱の世を、一刻も早く終わらせる大業を、共に力を合わせて達成して参りましょうぞ!」
ひょっこり現われた【彼】に向かって、呉の総司令官・周瑜は、最大の礼を以って迎えると、
開口一番、そう熱く語り掛けた。そして即刻、自分の曹功 (副官)に就くよう要請したのである。
初見の彼を、一挙に〔軍師〕として迎えたのである。周瑜ならではの、大抜擢であった。その厚遇に
感激した彼は、直ちに人材の登用に腕を振るって見せた。生来、彼は人物評価が好きで、人を育
てる事に努力するタイプであった。 処が、其の実際の遣り方は如何にも大雑把で、彼が称讃して
推挙する場合その人物が持っている能力以上に評価する事が殆んどであった。 そこで或る時、
不審に思った周瑜が尋ねると、彼はこう言った。
「現在天下は大いに乱れ、正しい道は次第に衰え、善人は少なく悪人が多う御座る。
この時節に風俗を向上させ、道徳的行為を盛んにしようと願った処で、大袈裟に褒めてやらなければ、名誉は充分には希求させず、充分に希求されなければ、善行を行なう者は少ないでしょう。いま10人を抜擢してやって5人は失敗したとしても、なお半数を手に入れた事になるうえ、世の教化を高め、志ある者に努力させる事が出来まする。
それも好いでは御座いませぬか。」
「う〜ん、如何にも。流石である!」
こう云った大雑把で楽天的な発想や手法は、貴公子と育って来た周瑜には備わって居無いタチの
ものであった。どちらかと言えば周瑜は、物事を常にキッチリと把握して見通して上で、敢然と実行
するタイプの人間であった。 言わば周瑜が最も嫌う「在り方」の持主である。部将としてなら、そう
云ったタイプも必要であるし、実際にも呉には個性強烈な猛者どもが揃っている。
然し、緻密を
必要とされる軍師としてであるなら、その大雑把さは些か問題であろう・・・・
だが此処に、時代と
共に常に進化してゆく周瑜の周瑜たる凄さの所以があった。
《そう云う観方・考え方が在っても好いではないか!》
己とは異質な価値観も、決して排除はしない。其れを認め、尚かつ己の裡に取り込んでしまう。
思えば【魯粛】と云う異形の星を見い出し、己の路線に抵触し兼ねない人物と知りつつも、敢えて
己の後継者として認める周瑜である。この大らかな会話を聴いて益々彼を信頼、重く用いてゆくの
だった。
そして、劉備が同盟強化と称して京城に出かけて行った際には、周瑜の密使として呉本国に派遣
されたのであった。 その内容は既述した如く、”劉備の軟禁”を示唆するものであった。 当然、
彼は、周瑜の真意・企図を充分に理解した上で、使者の任を務めた筈である。・・・・結果としては、
孫権の判断で周瑜の進言は却下されるが、彼は此の時点では寧ろ、劉備の敵対者として動いた
のである(既述)。それ程に彼は、周瑜から信任されていた、と云う事である。
余談ではあるが、此の呉国滞在中の時の事・・・・既に名声の有った彼は、呉の名士達に歓待され
交流を深めた。その時の遣り取りが『呉録』に見える。ーー或る人が彼に訊ねた。
「あなたの品評だとすれば、あなたより陸氏(陸績?)の方が優れていると云う事なのですか?」
その皮肉っぽい相手の質問に彼は答えて言った。
「駑馬どばはたとえ優秀でも1人しか運べない。鈍牛(私)は1日300里を行くだけだが、載せるのは一体1人の重さだけでしょうか。」
また顧劭は (陸績と並んで名声が有り、人物鑑識眼が有ると評判の呉の重臣。妻は孫策の娘であった)、
彼の宿に赴き語り合った時に、ズバリと訊いた。
「貴方は人を見分ける事で有名ですが、私と貴方とでは、どちらが優れているでしょうか?」
「世俗を教化し 人物の優劣を判断する点では、私は貴方に及びません。ですが、帝王の採るべき秘策を考え、人間の 変転する運命の要を把握している点では、私の方に一日の長が有るようですかな。」
・・・・以上の余談は、単に”余談”である訳では無い。筆者が何故に紹介したかと言えばーー実は
この直後に、彼が言った『人間の変転する運命の要を把握する』事が、彼自身の身の上に及んで
来るからなのである。又、『帝王が採るべき秘策を考え』の点でも、今後の彼自身の役廻りを暗示
しているからなのである。 無論、『呉録』著者・張勃の附会 (後からの辻褄合わせ) ではあろうが
上手く書いてあるものだ。即ち筆者が言わんとする事は・・・・この男は周瑜の曹功として、周瑜が
是れから決行しようとしている大作戦〔益州平定の大遠征〕の計画にも深く関わっていた点を強調
して措きたいのである。《あとは決行あるのみ!》の大作戦の全貌を、隅から隅まで熟知していた
ーーその事が、彼の此の後の運命を変転させる大きな要因とも成るのであるのだから・・・・・
さて、【周瑜公瑾】の210年・・・・いよいよ〔其の時〕が来た!!
全ての準備は整い、後はただ孫権の認可を得るだけとなったのである。
亡き友・孫策と誓い合った《天下統一の夢》に向かって、その第一歩を踏み出すのである!!
その日時は史書に明記されて居無いが、呉軍総司令官・〔周瑜公瑾〕は、〔甘寧〕や〔副官の男〕を
伴って江陵を発ち、久し振りに大好きな船上の人となった。目指すは祖国・呉の都ーー其処には
懐かしくも愛うしい、大切な人達が待って居てくれる。が、周瑜の心は、もっと遠くと対面していた。
《ーー天よ、孫策伯符よ。願わくば我に、あと5年の命を与え賜え!!》
長江の川風を全身に浴びながら、祈る様な思いで天を仰ぐ英雄一人・・・・・ 左の鎖骨に受けた、
たった1本の流れ矢の毒が、いま確実に己の命を削り取ってゆくのが分かる。
《せめて益州を我が手にする迄は!!》ーー手首が随分と細くなっていた。
「死に神め!俺は未だ死ぬ訳にはゆかんのじゃ!」
言うや周瑜は佩刀を引き抜くと、エイッ! トゥ〜!と 己の宿命を斬り裂く様に、眼の前の大気を
全霊で2度斬った。鬼気迫る裂帛の気迫であった。赤いマントに包まれて然とは判らぬが明らかに
痩せて来た、そんな周瑜の後姿・・・・それを副官の男は只ジッと見守って居た。
ーーやがて船は、もはや「古戦場」となった”烏林”の対岸の〔岩壁〕に差し掛かる筈である。
曹功の男が言った。
「大都督さま。赤壁を通る際に、御自身の手で〔赤壁の2文字〕を、一筆 書き残しては如何で御座いましょうや? もし、したためて戴けますれば、今度また戻って参ります時迄に、石工達に命じてその2文字を寸分違わずに拡大させ、その岩壁に刻み付けさせましょう程に!」
「ーーー・・・・・・。」
「そんな事を為されずとも、もはや人は『周郎の赤壁!』と呼び、周瑜公瑾の名と赤壁の名は、永遠に人々の心と記憶に燦然と刻まれましょう。では御座いますが、その場所を正確に知る人々は時と共に減り、やがては誤った地点が後世に伝わってしまうとも限りませぬ。私には其れが口惜しいので御座います。どうか私の小さい願いをお聞き容れ下さいます様に!」
「ーーー・・・・・・。」
「それが許されるのは、此の世に唯一人。周郎・周瑜公瑾さまで御座いまする。また、それを果す責めを負われるのも、此の世で唯一人。周郎・周瑜公瑾さまなので御座いまする!」
「ーー・・・・。」 ニコリと周瑜が、綺麗に微笑んだ。久し振りに聞く 『周郎』 と云う言葉であった。
「では、その様に取り計らせて戴きまする。」
折しも船は、その赤壁に着岸した。岩壁を見上げる周郎。ーーあの紅蓮の夜の出来事も今はもう
遠い昔の事だった様な気がする・・・・曹功の男が差し出した丈幅に、周瑜は万感の思いを籠めて
墨痕も鮮やかに、「赤」 「壁」 の2文字を 書き納めた。
きっと今度、再び此の地を通る時には、この岩壁に周郎の『赤壁』が深々と刻まれている事だろう
ーーだが果して、周瑜公瑾は、その刻まれた2文字を、しっかりと己の眼に焼き付ける事が出来る
のであろうか?・・・・それが小粋な曹功の、大きな懸念であった。
赤壁へと出陣して征って以来、1年半ぶりに【周瑜】が帰国すると知った【孫権】・・・・
文武百官全員を引き連れると、その3日も前から、みずから長江の船着場まで出かけて行って、
その再会を待ち侘びた。救国の大英雄の”凱旋”でもあったのだ。ーー祖国を曹魏100万の襲来
から守ったばかりか、永年の課題であった荊州にも拠点を築き上げた。更に今度は、呉国が天下
の覇者を目指す為に、更なる大作戦を発動すると言う。2年前と比べれば、夢の様な話であった。
其れも之も全て、【周瑜】と云う人物無しには考えられぬ戦果であった。凄まじい闘志である。
その獅子奮迅ぶりには、心の底から頭が下がる。・・・・だが心配があった。聞く処によれば、その
周瑜の健康に〔重大な変化〕が生じていると謂う。 果して傷の具合はどうなのか? 無理をして
欲しく無い。今ここで周瑜に居られ無くなったら、一体誰が其の跡を継げると謂うのだ!?
周瑜に代れる者など、呉国に誰一人も居はしない・・・・・
だが周瑜の”覇心”と”覇気”は健在であった。孫権の目には些かの衰えも見せぬ周瑜のオーラが
ハッキリと見て取れた。確かに幾分スリムに成った観は有るものの、全く病人には見え無かった。
顔色も好かった。凛呼とした英雄の佇まいは、些かも損われては居無かったのである。
「本当に御苦労であった!いくら感謝しても私の気持は未だ未だ表わし切れるものでは無い!
君こそ真に我が国の守り神である!!」
孫権の眼には涙さえ浮かんでいた。
「良かった!君の具合が好くないと聞き、随分と心配して居ったが、見れば誠に壮健である様だ。だが、不眠不休の苦労続きの身じゃ故、決して無理は為さらないで下されよ。 我が呉国にとって周瑜公瑾と云う御人は、何物にも替え難い、掛け替えの無い”至宝”で在るのだからな!」
「有り難き御言葉、恐悦至極に御座いまする。先ずは是れで、我が国も大国と成った申せましょうと同時に、今こそが一気に覇業を達成する絶好の機会でありまする。」
「ウム。そなたの存念と計画を、然と聴かせて戴こう!大いに語って呉れ給え!」
孫権もグイと身を乗り出した。
「只今、曹操は 敗戦の憂き目を見たばかりで、自分の身辺から
変事が起こるのではないかと心配いたして居り、とても将軍様と兵を動員して戦いを挑み合うと云った余裕は御座いません。
どうか奮威将軍(孫瑜)様と共に軍を進めて蜀を奪取する事をお認め下さいますように!
蜀を手中にしました後、 張魯を併呑し、その上で奮威将軍様に其の地に留まって守りを固めて戴ければ、馬超との同盟関係も上手く結べます。
私は蜀より戻り、将軍様と共に襄陽を根拠地として曹操を追い詰めてゆけば、北方制覇も夢では無いので御座います!!」
「その言や善し!我が意に叶うものである!直ちに其の策を進めよ!」
「ハハッ!!必ずや益州を得て参りまする。そして是非にも曹操を屠り、我が呉国が、天下の覇者と成るの 礎と致して見せまする!」
「ウン。私も其の日を楽しみに、江南の備えを然と引き受けようぞ!」
「チト酔いました。暫し雪隠へ行って参りまする。」
主人に耳打ちすると、副官の彼は宴席を外して立ち上がった。だが、彼の足が向かったのは
厠ではなく、主人・周瑜の私邸であった。
「知って置いて戴きたい事が御座いまして非礼を承知で遣って参りました」
こんな夜更けに、然も突然、直接に周瑜の正妻に面会を請うたのである。 この時代には絶対に
許されぬタブーを、二重三重にも犯しての異例の行動であった。・・・・待つ事しばしーー
噂に違わぬ、いや想像を絶する美女が現われた。天下に『小喬』と謳われる「喬夫人」であった。
然し今、彼の目には、その清楚可憐な美しさが美しければ美しい程、哀しい気持に成るのであった
「宴席をこっそり中座して参りましたので、手短に申し上げまする。どうぞ、お驚ろき為されませぬ様、お聞きくだされませ。」
「はい、私も武人の妻で御座います。常に覚悟は出来ておりまする。どうぞ余計な御気遣いは無用と思し召し、事の要件をお話し下さいまし。」
流石に、周瑜の妻だけの事はあった。見目が美しいだけの女性では無かった。
「既に、都督様が負傷された事は御存知と思いますが・・・・」
「ーー!!亡くなったので御座いましょうか!?」
健気に応対している夫人の顔から、サッと血の気が失せてゆくのが彼には分かった。
「いえ、今も凛とした御様子で執務を続けて居られます。然し・・・・」
「嗚呼、生きて居られるのですね!生きた御主人様と御会い出来るのですね!」
不意な夜半の使者と聞かされた時から、 《もしや!!》 と胸を塞がれつつ、半ば覚悟して来た
小喬夫人であったのだ。ドッと感謝の気持が溢れ出た。
「強がりを言って置きながら、つい嬉しさの余りに、申し訳御座いませぬ。」
話の腰を折る様な、己の反応を恥じる小喬夫人。
「生きて御会い出来さえするのであれば、たとえ両手両足を失われて居られ様とも、私は天に感謝致します。どうぞ、御様子をお話し下さいませ。」
半ば彼の訪問意図を察した如き、深い眼差しであった。
「そう仰って戴くと、私も話し易う御座いますが・・・・有り態に申し上げまする。ーーどうぞ、再会なされました時に、余り驚きの御顔を御見せに為さらぬ方が、殿も随分と安堵されるのではないか、と愚考いたす次第に御座います。我ら常日頃に接して居る者にとりましては大した変られ様では無く
とも、久し振りに御会いされる方には、甚だ殿の御様子の変り様に驚かれるやも知れぬと、拝察致すもので御座いまする。」
「細やかな御配慮を有難う御座います。では、御加減は相当に悪いので御座いますね?」
「はい、正直に申し上げれば、今は唯、 《夢を実現させるのだ!》 と云う強い気力だけで生きて居られる御様子で御座います。衣服の下には幾重にも厚着をされて、御自分が痩せた事をお隠しに為られて居いです。 また頬や唇にも、密かに紅を差して居いでだと拝察いたします。」
「・・・・いかにも公瑾様らしゅう御座いますわね。」
其処にはもう、か弱き”小喬”の姿は無かった。幽かな微笑みさえ浮かべた〔喬夫人〕が居た。
「助かりました。貴方様のお蔭で、全て在るが儘に受け入れられる気持に成れました。」
「それは来た甲斐が御座いました。この際、私の御願いも聞いて戴きたいのですが・・・・」
「御願い・・・・と申されますと?」
「是非にも、今度の船旅には御随伴を御願い致したいので御座います。」
「・・・・夫は其れを喜ぶでしょうか・・・・・」
「いや、この先は御夫婦間の事。但、もし私が御役に立てる様な事が御座いました場合には、遠慮なさらずに御申し付け下さりませ。それが私の、せめてもの気持なので御座います。」
それだけ言い残すと、彼は又、突然と闇の中へと消えて行った。
顔にも似ぬ粋な計らいを為した男は、何喰わぬ顔で、再び宴席へと戻った
ーーそして・・・・・
ーーそして・・・・・
ーーそして・・・・・周瑜は・・・・・死んで・・・・・・しまった・・・・・・・・
ーー・・・・・周瑜公瑾は、死んでしまったのだ!!
ーーあの、あの 周瑜公瑾が死んだ・・・・・
江陵へ戻る途上の、洞庭湖の入口に在る「巴丘」での事である。 ーー果して、その前に、周郎・
周瑜公瑾は、己がしたためて刻んだ『赤壁』の2文字を、最愛の妻・小喬夫人と共に はっきりと
その両の眼で見る事が出来たのであろうか・・・・!?
「男の夢」が大きく脹らんだ、その最も無念な時期の、非業の死であった。
せめてもの手向けとしては、その最期の瞬間を、最愛の小喬夫人の腕に抱かれて迎えた事であろうか・・・・・ (と、統一志は思いたい)。
『正史・周瑜伝』は一切の修辞無しに、只その事実だけを記す。
『周瑜は、江陵に戻って遠征の準備に取り掛かろうとしたが、その途上、巴丘に於いて病気を発し、死去した。 時に歳は三十六。』
そして周瑜の遺骸は、副官であった”その男”に付き添われて、祖国・呉の地へと、永遠の帰還
をしたのである・・・・・・
実は此のだいぶ以前の時から、副官の懐には既に、周瑜より託された祖国への遺言が、
密かに渡されていたのであった。
その物言わぬ周瑜と対面し、そして副官から渡された周瑜の遺言を読んだ孫権は、人目も憚らず
男泣きに号泣した。
『孫権は喪服を着けて哀哭し、その悲しみの様子は、左右に侍る者達の心を打った。
また周瑜の柩が呉(蘇州)に戻って来る事になると、孫権は蕪湖まで其れを迎えに出、葬儀に掛かった諸々の出費は、全て孫権から給付された(国葬とされた)。』
『周瑜が死去すると、孫権は涙を流して言った。 「公瑾どのは王者を補佐する資質を持って居られたのであるが、いま思い掛けなくも短命に終られた。私は何を頼りとすれば善いのであろうか!?」と』 ーー以上、(正史・周瑜伝)ーー
是れは決して修辞では無く、若く未熟な孫権の”本音”であったろう。遠近を見渡しても、周瑜ほど
の人物・人材は、もはや呉国には誰一人として居はしなかった。また今後も、出て来る事は絶対に
無いであろう。創業者であった兄・孫策に続き、周瑜までもが突然、居無くなってしまったのだ!!
ーーその孫権宛ての周瑜の遺言(上疏)・・・・・
『只今、天下は多事で戦役が盛んで御座いますが、こうした事態に対し、私は日夜憂慮致して居り
ます。どうぞ陛下には、事が起こるのに先んじて其の為の配慮をなされ、心を楽しませられるのは
皆が安心しての後にして戴きますように。
現在、曹操と敵対致して居ります上に、劉備は公安と云う近辺に在って、 御領地の境も遠くには
及ばず、民衆達も未だ十分には心を寄せて居りません。 どうか、良将を選ばれて鎮撫に当らせ
られますように。 魯粛は智略の点で十分に任に堪えます故に、どうか私の跡は彼に引き継がせ
られますよう御願い致します。そうして戴けますならば、私が落命致します時にも、何の思い残す
処も無いので御座います。』 (正史・魯粛伝)
ーー同じ遺言を、『江表伝』は、もう少し文学的に記している・・・・・
『私には取り立てて才能も御座いませんのに、かつて討逆将軍(孫策)様より特別の御礼遇を戴き
腹心の臣下として御信任を受けて、栄えある任務に就き、兵馬の指揮に当たって参りました。
又、御主君(孫権)の為に犬馬の労を取り、軍旅の間に手柄を立てて御恩報じをしたいと念じて参っ
たので御座います。
巴蜀の地を占領し、続いて襄陽を手に入れようと計って参りましたが、我が君の御霊威を お借り
して実行致しますならば、既に手中に在るも同様、容易な事なので御座いました。
然るに、身を謹みませんでした事から、その途上に在って急病を得、先頃より治療に努めては居り
ますが、病気は募るばかりで衰える気配が御座いません。
人として生まれました以上、死は避けられぬのであって、長寿か短命かは運命であり、ここで命を
棄てる事を少しも惜しみは致しませんが、ただ私の些かの志が実行されぬ儘に終わり もう、御命
令を奉ずる事が出来無くなります事だけが心残りで御座います。
只今、曹公が北方に在って国境地帯は猶お多事であり、 劉備が身を寄せて来て居りますのも、
虎を養ってやる様なもので、天下の事は未まだ其の帰結が知られていませぬ。 これこそ朝廷に
在る者達が寝食を忘れて力を尽すべき秋であり、陛下も御聖慮を巡らせられるべき日なので御座
います。 魯粛は真心を尽くして役目に励み、事に当って等閑な行動は致しません。私に代って
職務に当たる事が出来ます。
人が死のうとする時、その言葉の邪意は無いとされます。私の是れ等の言葉に、もし御採用いた
だける処が御座いましたなら、肉体が死にました後も、私は永遠に生き続けるので御座います。』
肉体が死にました後も、私は永遠に生き続けるので御座います
肉体が死にました後も、私は永遠に生き続けるので御座います
肉体が死にました後も、私は永遠に生き続けるので御座います・・・・・そしてーーー
後世の 我々の心の中に、
周瑜公瑾は 永遠に生き続ける・・・・
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