第159節
策謀の交差点

                                    天が与えし 荊の道




魏・呉・蜀の3勢力が常に激しく鬩ぎ合う争覇の地・・・・・其れが〔荊州〕に与えられた宿命であり、


三国時代とは此の荊州の争奪の歴史
だとさえ言えるのである。逆に謂えば荊州の情勢いかんが

常に3国の動静に直結していると云う事である。 赤壁戦直後の西暦209年(建安14年)ーー

天下統一の争覇がリセットされたばかりの此のスタート時点に於いてでさえ、既に荊州は
3分割

されていたのである。そして其の鬩ぎ合いの構図は、生れ落ちた瞬間からして、常に3者の策謀が

交差する荊の道と成るのであった。


ー→江陵を撤退したとは言え、その直ぐ北の州都・襄陽以北は依然として
                                       曹操の版図であり続けている

中央
ー→呉は周瑜の踏ん張りで、辛うじて「南郡(江陵)」制圧を果したとは云うものの、
                                長江北岸の勢力圏は僅かに此処1郡のみ。

ー→その2者に比すと、長江以南の広大な4郡を占拠した劉備の漁夫の利が、
                                            いかに大きいかが判る。


では何故、呉軍のほぼ主力全軍を率いる
周瑜とも在ろう者が、そんな劉備の美味しい

状況を黙認して居るのであろうか?ーーその答えは・・・・周瑜と云う男の壮大な夢・燃える様な

彼の戦略の裡に秘められていたのである。 即ち、中国の〔西〕と〔東〕を押さえ、〔南の正面〕から

曹操を撃破する!その手始めが《西への進出》であった。

そして西とは
益州を指した。そんな周瑜の下には今も猛者連中が集って居る。程普・呂蒙・

周泰・黄蓋・韓当・呂範・陵統・陳武・・・・・赤壁戦の体験者が全て揃って居た。中でもキャラが濃い

のは甘寧であろう。その甘寧が今、益州の細かい地図を書きながら周瑜の質問に答えていた


甘寧
・・・・元々は”益州”の出身で、若い頃はヤクザの大親分。川賊を生業とし、ド派手な

格好をしては辺りを伸し歩いていた。だから江陵←→益州の川筋は嘗ての縄張りであり、隅から

隅まで知り尽くしていた。 また内陸部との取引や、更には劉璋に反逆して州都まで進攻した事も

あり、周瑜の部下の中では最も益州の地勢には通暁していた。但し其のキャラの濃さ・婆沙羅の

気骨が発する毒気は、周囲にしょっちゅうゴタゴタの種を撒き散らし続ける。読者としては面白くて

有り難いキャラなのだが、この際そのエピソードの幾つかを紹介して置こう。

そもそも『
正史・甘寧伝』には、その人格についてこうあるーー


甘寧は粗暴ですぐ人を殺したが、開けっ広げな性格で将来への見通しが立ち、物惜しみをせず有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士達を養い育てる事に努めたので、兵士達も 彼の為には喜んで働いた。
・・・・・よ〜っく考えれば、是れって・・・どう云うこっちゃ??・・・・直ぐ殺された堪らんワイではないか!?・・・・で・・・・・・

【エピソード1】
・・・・或るとき甘寧は 酒の席で、孫皎 (孫権の叔父・孫静の3男) と、小さな事から大喧嘩をした。甘寧の方を諌める者が在ったが、甘寧は言い張った

臣下も公子も同列である筈だ! 征虜将軍(孫皎)は 公子であるとは謂え、どうして彼ばかりが他人を侮辱して良いものだろうか!私は明主と出会う事が出来た以上、ひたすら力を尽し生命をも投げ出して、天とも頼む主君に御恩報じをするべきであって、世間の習わしに従って身を屈する事など絶対に出来無い!」

孫権は此の事を聞くと、手紙を送って孫皎を責めて言った。

私が北方と敵対する様になってから、もう10年になる。最初は年端も行かぬと云う事でお前の
援助もしたが、今はお前ももう30にも成るのだ。孔子は『30にして立つ』と言ったが、是れは単に
学問の道だけについて言っているのでは無い。 お前に精鋭の兵を授け、お前に大任を委ねて、
千里も遠隔の地に於いて部将達の総指揮に当たらせたのは、楚が昭奚恤を任用する事によって
北方の土地に威声を示した様に、お前も信任に応えて武威を輝かせて欲しいと願っての事であっ
て、何もお前に勝手気儘な振る舞いをさせようなどとしての事では無い。 

聞けば近頃、お前は甘興霸どのと一緒に酒を飲み、酔って自制心を失い、かの人を侮辱した為、かの人はお前の元を離れ、呂蒙の指揮下に入りたいと願い出ておるとの事だ。
かの人は繊細さを欠いて向うっ気が強く、人の気持を損ねる事も有りはするが、大きく見れば立派な人物で在るのだ私が彼に肩入れするのは、個人的な感情からでは無い。私が親しくする者を お前は疎んじ憎むが、お前のやる事が何時も私の考えと逆らうと云った事で、長く其の儘で居られると思うのか。慎み深さを守り杓子定規を排すれば、民衆の上に立つ事が出来、他人を思い遣って包容力を持てば、人々の心を獲る事が出来る。この2つの道もよく理解できずに居て、どうして遠方の地に在って人々を統率し、敵を防ぎ国難を乗り切ってゆく事など出来ようぞ。        

お前も行く行くは 年長者と成り、特に重い任務を授けられる事になろうが、上には遠方からジッと注がれる視線が在り、下では部曲達が朝夕お前の命令に従おうと待って居る時、どうして心の儘に怒りを猛らせたりして良いものだろうか。過ちの無い者など何処にも居らぬ。
重要なのは過ちを改める事であって、先の間違いを反省し、深く自らを責めるべきである。
今わざわざ諸葛瑜(瑾)殿を煩わせ、重ねて私の気持を伝えて戴く。 この手紙を書きつつ思いは沈み、心は悲しんで涙を零しておるのだ。
孫皎は此の手紙を受け取ると、上疏して陳謝し、以後は甘寧とは厚い交わりを結んだ・・・・
正史・宗室伝 

たとえ相手が誰であろうとも、己が侮辱されたと思えば咬み付く。此の世で甘寧が頭が

上がらぬのは唯2人。主君の孫権と、彼を拾い上げてくれた恩人・周瑜とだけであった

そして常に、このトラブルメーカーを庇って執り成して呉れるのは、あの元悪ガキ・呂蒙なのであった。

【エピソード2】
・・・・甘寧は粗暴で殺生を好み、常々呂蒙の気持を害ねていた上に、時には孫権の命令にも従わぬ事があった 孫権が、そうした甘寧に腹を立てると、呂蒙は何時も赦しを請うて上陳した。

「天下は未だ安定しておらず、甘寧の様な勇猛な部将は中々見つかりません。どうか勘弁してやって下さい。」 孫権は、こうした言葉を容れて甘寧を厚く遇し、甘寧に充分な働きを示させる事が出来たのであった・・・・『
正史・呂蒙伝

ーーと云う事になると、主君でさえ御し難く、真に彼が頭が上がらぬのは、周瑜唯一人

と云う事になって来る。その上、折角の理解者である呂蒙にさえも突っ掛かってゆく。


【エピソード3】
・・・・或る時、甘寧の料理番が失敗を仕出かし、呂蒙の元に

逃げ込んだ。呂蒙は、甘寧がこの料理番を殺すであろう事を心配して直ぐには送り返さなかった。

のちに甘寧は、呂蒙の母親に贈物をすると、お目に懸かって御挨拶がしたいと申し出て来た。

呂蒙の家の座敷で一緒に会う事になって、それに先立ち、呂蒙の料理番を甘寧の元に送り返した

甘寧も呂蒙に殺したりはしないと約束をした。だが甘寧は船に戻るや直ちに料理番を桑の木に縛

り付け、みずから弓を引いて之を射殺した。 そのあと水夫に言って艫綱をしっかり巻き付けさて

固定させると、自分は上着を脱いで船の中に寝そべった。

約束を破られて料理番が殺された事を知った呂蒙は激怒して、非常呼集の太鼓を叩いて兵士達

を集めると、船の所に攻め寄せようとした。だが甘寧は其れを聞いても横になった儘で、起き上が

ろうともしなかった。呂蒙の母親が裸足で飛び出して来て、呂蒙を諌めて言った。

「陛下は お前を肉親の様に遇され、お前に大事を託しておられます。どうして 私事の腹立ちを
以って甘寧を攻め殺したりして良いものでしょう。甘寧が死んだならば、たとえ陛下からの御問責が無かったとしても、お前は臣下に有るまじき事を為した事になるのです。」

呂蒙は元々孝心が篤く、母親のこの言葉を聞くとカラリと怒りの気持が釈けた。自ら甘寧の船まで

遣って来ると、笑いながら呼び掛けて言った。

「興霸どの、母が貴方を食事に招いております。急ぎ岸に上がられますように。」

すると甘寧は涙を流し、嗚咽しながら言った。 「貴方には申し訳ない事をした。」 

呂蒙と一緒に戻ると 母親に目通りし、終日歓を尽くした・・・・『
同・甘寧伝

ーーだが、そんな無頼派の甘寧にも 気掛かりが1つ在った。 呉に仕官する直前の

戦闘で、呉の将・陵統の父親を射殺していたからであった。


【エピソード4】
・・・・陵統は、自分の父親の陵操が甘寧の為に殺された事を

怨んでいた。
甘寧は何時も陵統を警戒し会おうとしなかった。孫権も、陵統に遺恨を晴らそうなどと

してはならぬ!と命じていた。 だが或る時、呂蒙の家に人々が集まった時の事、酒も酣となると

陵統は刀を持って舞い始めた。すると甘寧も立ち上がって言った。

「俺も双戟の舞いが舞えるぞ。」 両者、抜き身の武器を構えて睨み合う。一触即発の展開となっ

てしまった。ーーマズイ!!・・・・そこで呂蒙の登場

「甘寧にも出来るであろうが、私の上手には及ばぬまい。」

そう言うと刀と楯を持って、身を以って2人の間に割り込んだ。 その御蔭で其の場は、どうにか事

無きを得たのであった。 のちに孫権は、陵統の気持の深さを知ると甘寧に命じ、兵士を率いて

速やかに 陵統の任地とは離れた場所(半州)に移るよう、駐屯地の変更を命じた・・・・『
呉書

主君としては痛し痒しの、何ともハヤ 有りがた迷惑な、御し難い超豪勇。

実際この後、孫権の命を身を挺して救う場面も有るのだ。


 で、今、その甘寧だが・・・壮大な夢に向かおうとする周瑜の構想に

大いに感動し、その実現の為なら犬馬の労も厭わぬ覚悟を決めていたのである。

事は
益州への遠征・西方の奪取であった。 曹操軍を北の襄陽まで撤退

させた今こそ、次のステップへ踏み出す好機であった。

「此処から益州に入る迄の川筋については、その輸送に関する問題に一切の御懸念は御座いませぬ。 又、その玄関口に当たる巴郡にも、私の息の掛かった者達が多数居りますれば、入蜀の第1段階は然したる抵抗も無く進められましょう。問題は其の後、此処と此処へ・・・・・」

熱心な図上演習・作戦検討が続けられ、具体的な軍編成や指揮官の割り振り、その

各々の任務も明示された。そして総司令官・周瑜のは言った。

「ウム、こちらは完璧だな。後は・・・・」

大きな問題があった。この遠大な作戦には、重大な懸念材料が残っていたのである。 蓋し、

この益州遠征は、1つの仮定の上に成り立っていたのだ。 即ち、周瑜軍団が其の全力を以って

益州へ踏み込んで征った場合、空白と成った荊州中央部(南郡・江陵)に、曹操軍が再び奪還を

狙って進攻して来る可能性は十分考えられるのであった。曹仁は北方へ撤退したとは云うものの

その撤退距離は僅か160キロ。未だ漢水の此方側・州都襄陽城に踏み留まり、捲土重来を期し

て居たのである。その場合、南郡をガッチリ防禦して措かねば、益州遠征軍は分断されて孤立し、

最悪の場合は自滅する。だが今の呉の国力では、之以上の兵力派遣は無理であった。

実際、曹操は東の”合肥”へ向けて進軍を開始していたのである。

となれば、ここは同盟者たる劉備の兵力に、その留守の期間を守備して居て貰うしか無かった・・・

が周瑜と劉備の間は、最初から冷え切っており今更とても交渉する様な関係には無かった。

そこで出番が期待されるのは矢張り君主・孫権の外交手腕であった。妹の婿に成った劉備である

からには、孫権の要請をムゲには断われまい。曹操軍が再び南下して来れば劉備とて脅威になる

少なくとも足を引っ張る様な真似だけはすまい。


「よし、儂自身が御主君と会い、この作戦決行の認可を得て来よう!」

「私も一緒に御供させて下されませ。」

「ム、いいだろう。手配りを済ませたら直ちに参ろうぞ。」

実は、甘寧はじめ周囲の者達は、密かに周瑜の健康状態に一抹の不安を覚えて居たのである。

あの矢傷の所為であろうか。周瑜本人は何も言わぬが、何処とは無しに顔色が冴えない。公務の

時は相変わらず凛然として居るが、一旦私邸に戻ると床に臥せる時間が長くなり始めていたので

ある・・・・ そんな周瑜が実際に甘寧を伴って長江を下り、久し振りに呉の国に戻って孫権と顔を

合わせたのは翌210年になってからの事であった。 この間、前年の夏には曹操が合肥に姿を

現わし孫権も出陣したが、7月には双方現状維持のまま兵を引き上げる
(合城は張遼が守備) と云う

戦役があった。(別節にて後述する。) 

その脅威も一段落し、曹操の動きが内政引き締め方向に逼塞した観のある今こそ、益州奪取の

好機である事は、孫権も同感であった。

その献策・了解の模様を『
正史・周瑜伝』は次の様に記している・・・・

『この当時、劉璋は益州の牧であったが外から張魯の侵攻を受けていた。周瑜は そうした情勢を見ると、京に遣って来て孫権に目通りして言った。

只今、曹操は敗戦の憂き目を見たばかりで、自分の身辺から
変事が起こるのではないかと心配いたして居り、とても将軍様と兵を動員して戦いを挑み合うと云った余裕は御座いません。どうか奮威将軍(孫瑜)様と共に軍を進めて蜀を奪取する事をお認め下さいますように!

蜀を手中にしました後、張魯を併呑し、その上で奮威将軍様に其の地に留まって守りを固めて戴ければ、馬超との同盟関係も上手く結べます。
私は蜀より戻り、将軍様と共に襄陽を根拠地として曹操を追い詰めてゆけば、北方制覇も夢では無いので御座います!!
」 

孫権は、この計り事に同意した。 そこで周瑜は江陵に戻って、遠征の準備に取り掛かろうとした・・・・・』



奮威将軍とは
孫瑜。孫権の従兄弟で叔父・孫静の2男。字を仲異と言い、今年33歳。有能で冷静

沈着。周瑜とは今迄に何度か共に作戦を遂行して来ていた。

益州平定を果した暁には、その孫瑜に益州を任せ、周瑜は再び荊州に取って返し、孫権と合流し

て曹操に決戦を挑む。その際、曹操軍を分散させる為に西方の馬超にも呼応させる
・・・・それが

基本構想であったーーだが、事はそう簡単には運ばない。否むしろ此処からが、同盟している者

同士の虚々実々の駆け引き・策謀の交差の始まりであった。

その際、問題になるのは呉側(特に周瑜)が果してどの程度の認識度で劉備と益州の繋がりを観て

いたか?である。即ち、〔売国奴との密約の存在〕を感得して居たのか?居無かったのか?

・・・・法正が劉璋を丸め込んで、劉備に対して兵数千・兵糧を届けに来たのが何時の時点だった

のかは判然としないが、既述した如く事実である。是れ程の兵員・輜重の移動なのだから周瑜が

気付かぬ筈は無い。それに劉備は言い逃れとして、「反曹操同盟に加わろうとする者が1人増えま

した様ですナ」位は報告したであろうから、周瑜は承知していたに違い無い。但し、まさか〔売国〕の

謀略が其の根本に存在していたと迄は、流石に見抜けはしなかったであろう。だから薄々は何か

キナ臭さを感じては居たが、今の処は特段の咎め立てはせぬ儘に放置して措いた。



正史・先主(劉備)伝』・・・・『孫権が使者を遣わし、協力して蜀を取ろうと申し出た(その時劉備の
陣営では) 或る者は、呉は荊州を越えて蜀を支配する事は全く不可能であり結局は自分達が蜀
の地を手にする事が出来るであろうから今は承知の旨を答えるのが善いと主張した。 だが荊州
主簿の
殷観(孔休)は進み出て言った。

もしも今、呉の先駆けと成り、進んでは 蜀に勝つ事が出来ず、退いては呉に付け込まれる事にでもなれば、忽ち好機は去ってしまいます。今は只その言う通りに呉の蜀討伐に賛成する一方、我々は新たに諸郡を支配した処だから、未だ行動を起こす事は出来ぬと説明なされませ。 呉は、思い切って我が領土を越えて勝手に蜀を取る事はしないに違いありません。
この様に進退についてお計りになれば、我等は呉・蜀の両方から利益を収める事が出来ましょう。
先主が其の説に従った処、果して孫権は計画を中止した。殷観を別駕従事に昇進させた・・・・とある。



又『正史・魯粛伝』には、『是れより以前、益州の牧であった劉璋の統治が弛んで体を成して居無
かった事から、周瑜と甘寧とは蜀を奪ってしまう様にと、揃って孫権に進言した。孫権は此の事に
ついて劉備に意見を求めた。劉備は、自分自身が蜀を占拠しようと密かに考えて居たので、心を
偽って返答をした。

私と劉璋とは 共に漢の宗室に連なる者として、先帝方の御霊威をお借りして、漢の王朝を立て直したいと願って参りました。ただいま劉璋は陛下の御気持に沿わぬ事となり、私としては只心を慄かせるばかりで、何もよく申し上げられぬのでは御座いますが、どうか彼の為に御目こぼし戴きますように。 もし御許しが得られぬ様でしたなら、私は官冠を棄てて山林に隠居する覚悟で御座います

のちに劉備は西方に軍を進めて劉璋攻略に向かうと、関羽を留めて其の後を固めさせた孫権が
言った。「狡すからい賊めが、ペテンなんぞ働きやがったナ!」 と。』




ーー更に
献帝春秋も、ほんの参照して見て措くと・・・・

『孫権は劉備と協力して蜀を取ろうと考え、使者を劉備の元へ送った。

「米賊の張魯は、巴・漢に王として君臨し、曹操の耳目となって、益州を狙っている。劉璋は武勇が無く、自力で守る事は不可能である。もしも曹操が蜀を手に入れれば荊州は危ない。いま先ず劉璋を攻略し、進攻して張魯を討伐したいと思う。蜀と首尾を相い連なり、呉・楚を統一したならば、たとえ10人の曹操が居たとしても心配は無い。」

劉備は自力で蜀を取る心算だったので、その申し出を拒絶して返書した。

「益州の民は豊かで強く、土地は険阻です。たとえ劉璋が弱いとは言っても、みずからを守る事は出来ましょう。張魯は好い加減な男ですから、必ずしも曹操に忠義を尽くすとは限りません。
いま蜀・漢の地に軍兵を滞在させ、万里の彼方より兵糧を送りながら戦闘に勝ち、攻撃して占領し負け戦さにならぬ様にと望んで居られますが、それは呉起でも策を施す事が出来ず、孫武でも上手く遣り通す事が出来無い行為です。曹操に君を蔑ろにする心が有るとしても、主を奉ずると云う大義名分が有ります。論者は、曹操が赤壁の戦いで負けたのを見て、その力が挫け、2度と遠方に出兵しようと云う気持を持たないであろうと申して居ります。
然し今、曹操は既に天下の3分の2を支配し、まさに海原で馬に水を飲ませ、呉会の地に軍威を示そうと考えて居り、どうして現在の状態に甘んじて老年を待つ事を承知しましょうか。いま同盟国を訳も無く攻撃するのは、曹操に枢を貸す様なものでしょう。
(戸の回転軸を貸して戸を自在に動かす如く、呉や蜀を操らせる事になるでしょう)
敵に其の間隙に付け込ませる様な事は、優れた計略ではありません。」

ーー孫権は聞き入れず、孫瑜に水軍を統率させ夏口に駐留させた。
劉備は呉軍の通過を認めず孫瑜に言った。
「お前が蜀を取る心算ならば、儂は髪を振り乱して山に入り、隠遁して天下に信義を失わせない様にする!」
そして関羽を江陵に、張飛をシ帰に駐屯させ、諸葛亮を南郡に拠らせ、劉備自身はセン陵に駐留
した。孫権は劉備の意志を知ると、孫瑜を召還した。』・・・・と云う事になっている。



ーー以上、是れだけの史料が有れば、かなりの事が判る様に思われるかも知れ無いが、

実はよく読むと、肝腎な要点が抜け落ちているのである先ず、日時は勿論の事、その記事の年月

すら定かでは無いのである。又、記述の内容も殆んどが「会話文」であり、事実そのものの記述で

は無い。即ち、209年〜211年までの3年間に起きた〔周瑜の益州遠征計画〕に纏わる出来事を


順番通りに前後正しく整理する事は不可能
 なのである。

日時が確定できるのは、直接は関係の無い”合肥の戦い”だけである。

そもそも事の始まりである、周瑜が曹仁を破り〔江陵を確保した時期〕からして不明なのである。

209年内の事ではあるのだろうが、何月の事なのかが判らない(年末だった可能性が高い)。又、

本書では劉備の4郡借受交渉と妹・孫夫人の婚姻を同時進行で描いたが、実のところ別々だった

可能性の方が高いのであり、夫れ夫れが何年何月の事だったのかさえ定かでは無いのである。

ーー詰りハッキリ言って、事の顛末を史実通りに再現するのはお手上げ状態なのである。

となれば、危険(無謀)覚悟で大凡の道筋を追うしか無い。以下、是れ等の史料をブレンド撹拌し、

或る種、歴史のカクテル作るとするならば、そのグラスの中には以下の様な酒の姿(経緯)が浮か

び上がって来る筈である。其の見た目は一見美しいが、而して其の味は極めてキツく辛い。


(その前に、レシピの一覧)

    ※ 208年冬(12月)・・・・赤壁戦
                     ↓ 
(以下は210年まで順不明の出来事)
             ★ (直後から)江陵の攻防戦はじまる
             ★ 劉備、4郡の占拠を進める
             ☆ 曹操、合肥に進攻(孫権出陣)→両軍撤退
(9年7月)
             ○ 法正、(益州から)兵・糧などを劉備に届ける
             ★ 曹仁の江陵撤退(周瑜、南郡を支配)
             
★ 孫夫人の婚儀
             ★ 劉備の京城ゆき(4郡の借受了承)
             ★ 周瑜、本国に赴く(益州遠征作戦決定)
             ☆ 孫権と劉備の駆け引き(協力要請)始まる 

孫権
としては、曹操の呉本国への脅威を防ぎつつ、益州を奪取するーーといった

〔2股かけた舵取り〕に取り組まねばならなかった。その為には、劉備との同盟を強化(妹の婚儀)し

荊州南部4郡の支配を黙認(貸与)する代わりに、周瑜の益州遠征の留守を受け持たせ、曹操軍

の再侵攻に備えさせねばならなかった。謂う処の『爪牙』=番犬役としての役割を劉備に求めたい

実際、ケタ外れのダメ男だった劉備50年の人生は、是れ迄すべて、其の番犬・傭兵隊長としての

経歴であった。今回も其の任務を果して戴こうではないか・・・・

一方
劉備としては、近々自分が蜀を乗っ取る心算であったから、何としても周瑜の益州

平定は阻止しなければならなかった。とは言え、その時までに自己の根拠を荊州内に確保して置く

必要があった。だから其の事を、同盟相手である呉に気付かれぬ様に、刺激しない様に、上手く

進める事が肝要であった。即ち、戴く物はシッカリ戴いて置いた上で、相手の弱味に付け込んで、

其れを咎められぬ様に予防線を張って措く。4郡占領の既成事実を、ただ単に借りて居るだけと

言い包め糊塗してしまう。人生も終着駅に近いのだ。 この儘お人好しの番犬人生で終わる心算

など毛頭ない。

他方、劉備を次の主君と決定した
売国結社の2人としたら、もはや予定変更は出来無い

地点にまで来ていた。劉備には此処でポシャッテ貰っては困る。是非とも〔其の時〕に備えて、力を

貯えて置いて貰わねばならなかった。多少のリスクは有るが、周瑜の顔色ばかりを窺っている場

合では無かった。だから敢えて兵や輜重を届けたのである。

(※なお”売国”の表現が些かキツ過ぎるとすれば、立場を替えて【献国】と表記しても一向に構わない。魏に王朝を譲った形の後漢ラストエンペラー劉協が〔献帝〕と追号されたのとはチョット違うけれど。)


処で気になるのは、一向に顔を見せない
曹操の動向であるが、 (詳しくは別節で述べる)

実際にも赤壁戦後の彼の動きは、この丸2年の間、対外的には大きな戦役を実行していないので

ある。(209年に合肥には出陣するが、版図確保の為のものであり、本気だったとは思えない。)

その精力を、国内の安定に注がざるを得無かったのである。それほど赤壁戦の敗北は、人心の

動揺を含めた様々な方面に、回復困難な大きな痛手を与えたと云う事であろう。

周瑜は其れを見逃さなかった・・・・


そして、いよいよ全ての準備を整えた
周瑜は、孫権との会見を終え、祖国・呉の地を後にして、益州平定戦に出発したのである!!

有象無象の瑣末な駆け引きなど吹っ飛ばす様な豪快な一撃が、三国志の歴史に新たなに刻まれる・・・・・



レッドバロン・〔周瑜公瑾〕、
  乾坤一擲の賭けに出る!!【第160節】 夢の しずく (周瑜 死す) →へ