【第157節】
1人、場違いな奴が居る。
「よ〜玄ちゃん、元気かい?」この男の中には、主君と家来などと云う線引きは無い。天下の英雄
漢の左将軍・【劉備玄徳】に対しても、平気の平左で ”タメ口” をきいて憚らない。 国士無双の大
豪傑関羽は 「ヒゲさん」、張飛は 「雷さん」で済ましてしまう。世紀の天才軍師・諸葛亮に至っては
「葛っくん」である。全く以っての天衣無縫、天真爛漫を生きて居る様な奴である。おん年50は過ぎ
ているにも拘らず、時世時節には丸っきりの無頓着。まして己の名誉栄達なんざあ 眼中に無い。
ただ只管に万事を愉しみ、瞬間瞬間・刹那刹那をこよなく愛しちゃってる奴である。ちなみに此の
緊迫の時節柄、男たる者は皆、威儀を正して生真面目にキリッとした眼付も凛々しく生きて居た。
あの、何をやっても失敗続きだった 〔ケタ外れのダメ男〕・劉備玄徳 ですら、今や 真剣に行く末を
考えて居るのだ。もう48である。このまま朽ち果てるのでは余りにも情けない。何と言っても、評判
だけなら天下随一を誇っているのだ。現に今も、曹操が赤壁で一敗を喫するや、続々として臣従を
願う者達が後を絶たない。ラストチャンスである。顔付もおのずから引き締まると云うものだ。
(気をつけ〜!ー→ビシッ!!)
・・・・・嗚呼〜、それなのに、それなのに・・・・・〔奴〕ときた日には、全くの極楽トンボ・馬耳東風・
我関せずの気儘な風情。旗挙げ以来この30年間、何の役にも立たない居候で過して来て居た。
今日も今日とて、ただ漫然と日を送り、独り浮かれてルンルン気分。 何処に居るのか皆目判らず
誰も彼を捜そうともしない。その癖ヒョイと眼を遣れば、宴席にはちゃっかり其処に奴が居る。ニコ
ニコにっこり 奴が居る。ま、邪魔にはならぬし、目障りでも無い。居ても居なくても何うでもよい。
お互い頼りにもしないし頼りにもされない。ただ居るだけの男である。ーーとは言え巷間”桃園の契り”
で劉備3兄弟の存在は夙に有名だが 実は・・・・この男、関羽や張飛よりも劉備との付き合いは永いので
ある。まあ隣りのトロロ (トトロでは無い)みたいなもんで、互いにオギャアと生まれた時からの腐れ
縁?である。だからと言って特別な才能や見処が奴に在る訳では無い。ただ単に隣りん家に居た
と云うだけの事で、偶々「おいらも玄ちゃんに付いてく〜」と言って故郷のシ豕県を後にしたに過ぎ
無いのであった。爾来30年間、ただ金魚のフンみたいに劉備にくっ付いて離れない。
一種「背後霊」とも「抱き付き爺イ」とも「負んぶ鬼」とも成って、良い時も悪い時も、楽しい時も
苦しい時も、兎に角くっ付きまくって過して来ていた。もっとも当の御本尊は、良い悪いだの・苦しい
だのの認識は爪の先程も持ち合わせては居無い御様子である。
「好いなあ〜!凄えナア〜!面白えナア〜!」・・・・・この男に掛かっては森羅万象が、この3つの
フレーズの裡に全て取り込まれ、悉く 感嘆符と成り果てる。そして全ての出来事・事象は、たとえ
其れが敗北・敗残であってでさえ、歓び・愉しみへと昇華させられていってしまう有様で、怨み辛み
などの有ろう筈も無い。「だから玄ちゃんと一緒に居ると堪んネ〜んだよなあ!」 と云う事になる
訳だった。多分、自分が死んでゆく瞬間も 「凄えナア〜! 好いナア〜! 面白えナア〜!」 で
あろうと想われる。美味い物には眼は無いし、酒も大好き、女だって大々ダ〜イ好きだし、音楽も
愛しちゃう。でも、無ければ無いで一向に構わない。何にもしないでボケ〜として居るのも「好いナ
ア!」。雲の流れや草花のそよぎも愉しい。戦争だってイヤではない。それが生きとし生ける物の
生成流転の様子であるならば、何だって「凄えナア!」なのである。ヨチヨチ歩きの幼な児が、何に
でも興味を抱いて瞳をキラキラ輝かしながら1日1日を過してゆく様に、この50男はそのまんまの
ボーンフリー・・・・然しーー是れって、ヒョットして、もしかしたら、実は、凄い事なの かも かも??
ーー『正史・簡雍伝』に曰く・・・・
『簡雍は字を憲和といいシ豕郡の人である。 若い頃から先主と
旧知の仲で、付き従って転々とした。・・・・中略・・・伸び伸びした態度で 見事な論を為し、性格は傲慢・無頓着で、先主お出ましの席でも、なお足を投げ出して座り、脇息に凭れ、だらしの無い格好をして心の儘に振舞っていた。諸葛亮以下に対しては、自分だけ長椅子を占領し首を枕に乗っけて横になったまま話をし、彼等の為に自分の気持を曲げる様な事はしなかった。・・・・(後略)・・・・』
「ヘ〜ンだ。ラクチンだもんネ〜。だから オイラ 此処から動かネエもんね〜〜。」
丸っきりの天の邪鬼?でも、こんな男なればこその重大な役廻りが、劉備集団の〔蜀〕建国の時に巡って来るのである。
「よ〜玄ちゃん、近頃なかなか顔見ないけど、結構忙しいみたいだネ〜!」
「へん、お前こそ何処ほっつき歩いてんだ。 ほら、邪魔ジャマ!さっさと消えちまいな。こう見えても俺は今、大変なんだヨ。」
「ああ、言われなくても、玄ちゃんの顔付みたら判らあな。ま、精々気張っておくんなネ。大宴会に呼ばれる日を楽しみに待っててやっからサア。」
「ふん、御愁傷様。俺りゃあ何も、オメエの為に頑張ってる訳じゃ無え〜つうの!」
「イカにも左様。タコにも金玉。オイラには無用。カハハハハハ!」
「あ・の・なあ〜、お前の顔見てると、俺 なんだかやる気無くなっから。未だオマエは居無くていいから。頼むよ、後生だから今は消えてて呉んな!」
「ハイハイ承知の介。オッケイ牧場!」
「うん、これでお互いノープログレムだぞ。」
「じゃあネ〜、おいらジャアニ〜に出てくから。」
「ああ、ああ。何処へとなりと行って呉んな。そいじゃナ。」
「う〜ん、さて、どっち行こうかなア〜??」
「風はあっちに吹いてるだろが。」
「じゃあ、反対に南へ行こう〜っと!」 「ったく、勝手にしろ!」
「南じゃ精々、玄ちゃんの好いトコ宣伝でもしてやろっかナ。」
〔南〕の荊州こそは、劉備・孔明の狙い目だった。と云う事は、簡雍も只のアホでは無さそうだ・・・・
と云う事で?(無理矢理ですが)、第U部の出だしは、蜀建国に纏わる劉備集団の話
から入ってゆく事としよう。簡雍に言わせれば「玄ちゃんと居ると面白えナア〜!」・ 「だからオイラ
玄ちゃん大好き!」 ・ 「玄ちゃんの仲間は皆〜んな愉快だナア〜!」 と云う事になるのだが、はて
さて、どうなります事やら・・・・・但し、とてもの事、彼のペースには追いてゆけそうも無いので、此処
からは矢張り、従来通りの語り口調に戻る事とする。
さて、第T部の最終章・【赤壁の大史劇】の其の後だが・・・・その展開を先ず、『正史・周瑜伝』の記述を中心に見てみよう。記憶を喚起する意味を含め既述部分も若干重複させて措く
『折しも強風が猛り狂い、全ての船に火が移って、岸辺に在る軍営にまで延焼した。
やがて煙と焔とは天に漲り、人や馬の焼死したり溺死したりする者は夥しい数にのぼり曹公の軍勢は敗退して引き返して南郡に立て籠もった。周瑜らは軽装の精鋭兵を率いて、火の延焼を追う様にして攻撃を掛け、戦鼓を雷の如くに鳴らして大挙攻め込むと、北軍は潰滅し、曹公は北方へ逃げ帰った。』
↓
『周瑜は、程普と共に更に南郡まで軍を進め、曹仁と長江を隔てて相い対峙した。両軍が未だ刃を交えぬ先に、周瑜は急いで甘寧を遣って前もって夷陵を占領させた。曹仁は、歩兵と騎兵を割き、別動隊を作って甘寧を攻撃し包囲させた。甘寧は周瑜に救援を求めて来た。周瑜は、呂蒙の計を用いて、陵統をあとに留めて守りに当らせると、みずからは呂蒙と共に、長江を溯上して甘寧の救援に向かった。甘寧の包囲が解けると、長江を渡って北岸に軍営を定めた。』
・・・・と、以上ここ迄が第T部の描いた展開であった。
そして、第U部 劈頭の事態は、次の如くに進展してゆくのであるーー
『両軍は日にちを定めて正面から激突した。 周瑜は、みずから馬に跨って敵陣に乗り込んだが、流れ矢が左の鎖骨に命中し、その傷がひどかった為、味方の陣営に引き上げた。のち曹仁は周瑜が臥せった儘であると聞き、兵士達を率いて呉の陣営に迫って来た。それを聞くや周瑜は、みずからを励まして立ち上がり、軍営の中を閲見して廻っては、軍吏や兵士達の気持を奮い立たせた。曹仁は是れを見て、そのまま兵を退かせた。』
↓
『孫権は、周瑜を偏将軍に任じて、南郡太守の職務に当たらせ、江陵に駐屯させた。 劉備は、左将軍として 荊州の牧の職務に
当たり、公安にその幕府を置いた。』
この淡々とした『正史・周瑜伝』の記述ーーだが実は、この短い文章の中には渦巻く男達の野望と
それに伴う複雑な事情とが タップリ含まれているのである・・・・先ず、曹仁の江陵放棄・撤退が
「何時」の事であったかが定かでは無い。たぶん赤壁戦翌年、209年内だったであろうとは想われ
るが、その攻防戦は可也の長期間であった筈だ。ーー正史・孫権伝の209年の項には・・・・
『周瑜と曹仁とが守りを固めて互いに対峙する事が1年を越え、その間に死傷した者は多数に上ったが、曹仁は城を棄てて逃亡した。孫権は周瑜を南郡太守に任じた。劉備が上表して孫権に車騎将軍代行の任が与えられ徐州の牧を兼任する事になった。劉備は荊州の牧の職務に当たり、公安に其の軍を駐めた。』
ーーとの記述があるーー
又、その後の展開から推すと、周瑜 (呉軍) が必死になって 江陵城包囲戦に取り組んでいる間、
劉備集団(軍)は 我関せず とばかりに別行動を 着々と推進していたと 想われる。従って、劉備が
『荊州牧』を名乗る経緯や、突然出て来る 《公安幕府》 なる新勢力についても、虚々実々の
駆け引きが既に存在していたのである。そして重傷を押して、尚も覇業に向かって 孤軍奮闘 し
続けざるを得無かった【周瑜の寿命】・・・・・更には、赤壁戦の一部始終を握り飯をパクつきながら
山の上から見届けて居た、あの筋金入りの売国奴・【張松】が帰国してからの策動の始まり・・・・・
争覇の要地・〔荊州〕と建国の資地〔益州〕を巡る、その同盟2者同士の事情と、捲土重来を
期す【曹操の動き】・・・・・三国統一志の第U部は、その劈頭からして既に、3つ巴・4つ巴状態。
漢中を加えれば 5巴、西方の不穏で6巴 とも言える虚々実々ーーとてもの事、尋常一筋縄では
描き切れ無い様相を呈しているのであった。
「・・・・・何っ!?」ーーその報告を聞いた時、江陵包囲の陣中に在った
周瑜 は、己の裡に何とも言えない複雑な感慨が去来するのを覚えた。
「まこと合肥へ出陣なされたのか?」
赤壁決戦の結果を ”柴桑”で見守っていた君主・孫権は、その大勝利を聞き知るや 直ちに、
江陵とは正反対の”合肥”へ向かって、自ずから軍を率いて出陣したと云うのだった。然も その
行動は、事前に周瑜には何の相談も無いものであった。
「はい。更には兵を割いて九江の当塗にも張昭様を向かわせたとの事で御座いまする」
「・・・・・ウ〜ム・・・・」 周瑜は絶句した。
《何故、いま合肥なのだ?》 との思いが思わず口を突いて出そうになった。だが流石にその非難
めいた言葉は飲み込む。その一方で、若い君主・孫権の気持も 解らぬでは無かった。善く 解釈
すれば、それだけ周瑜に全幅の信頼を寄せて居り、江陵(荊州)の事は全て周瑜に任せた・・・・と
する気持であるに違い無かった。そして曹操が北方に退却した今こそ、自分の手で、母国北辺の
敵の出城である『合肥』を奪い取り、領土を拡大するチャンスと観ての積極果敢な行動であるとも
言えるのだった。ーー然し 江陵で 曹仁を包囲し、攻める側には不利な 攻城戦を強いられている
周瑜にとっては、これで、本国からの増援軍の見込みを 断たれた事と成る。詰り、現在の手持ち
兵力だけで曹仁を撃破するしか方法は無くなったのである。とは言え、戦力補強の手段が絶無に
なった訳では無い。孫権が魯粛の勧めに従って同盟を結んだ【劉備】に頼んで、兵力を補填して
貰う手は、依然として最初から存在していたのである。
ーーだが然し・・・・周瑜の志は、飽く迄も《呉に拠る天下制覇!》であった。
天下2分でも3分でも無い。呉国単独による統一王朝の実現であった。それは
亡き友・孫策の遺志でもあり、互いに誓い合った 男の夢 で在り続けていた。所詮、劉備は其の
妨げにしか為らぬ、胡乱な相手である!と周瑜は観ていた。そんな相手に頭を下げて助力を頼む
なぞ、誇り高き男には慮外の他であった。nとは言え古来より、敵の10倍の兵力を要する(孫子)と
される「攻城戦」に於いては、兵力は咽から手が出る程に欲しい。 況してや 兵力ほぼ互角の
現状では、攻める側の周瑜の方が 却って苦境に在るとさえ言える現実であった。赤壁戦勝利の
”時の勢い”と 総司令官たる周瑜の 燃え立つ様な気概・覇気とだけで、曹仁軍を縮み上がらせて
いる・・・・と云うのが実情であったのである。
(尤も曹仁側は、劉備軍も同じ敵戦力と観て畏れていたのであるし、実際にも極く1部だけは最初から参戦してはいた。)
果して周瑜は、終に自分から劉備に頭を下げて”兵力の増援を頼む”事をしないのである。
だが結局、その頑なとも言える戦略姿勢が、江陵包囲戦を長引かせ、その間隙を突いた劉備が、
着々と荊州南部に己の根拠地・地盤を築き上げてしまう機会を許す事にも繋がってゆくのであった
そのうえ更に此の時、劉備にとっては誠に有り難く有利な”福音”が、長江の上流から
どんぶら
こっこ スッココ ♪ と 流れ寄って来て呉れるのである。 簡雍ではないが、「果報は寝て待て」・
「待てば海路の日和あり」 と云った処ーー
その、荊州に西接する大国・〔益州〕では・・・・・赤壁戦の直前に、曹操に対して派遣された
使者の【張松】が、その決戦の結果を見届けた直後に帰国して、今し 主君【劉璋】の前で、
国の行く末について熱心な進言を行なっていた。
「曹操、あれはダメで御座いまするぞ!!高慢ちきで自分中心。天上天下唯我独尊の男で、物事を上っツラでしか見ず、弱者を労い慈悲を施すの心は持ち合わせて居りませぬ。為に表面上は畏怖されては居りますが、実際は心有る周囲からは忌避され見放されて居るので御座いまする。 その証拠に、曹操の奴めは、私の眼の前で大敗北を喫し、 尻尾を巻いて 逃げ帰って行ったので御座いまする。」
その赤壁大敗北の事実は、何よりの説得力を持っていた。 それ迄、曹操の庇護を受けて、漢中
盆地の張魯を牽制して貰い、生き残るのが最善策だと聞かされて居た劉璋だったが、途端にグラ
グラと困惑してしまった。
「では一体、儂は何うすれば良いのだろうか?」
そこで張松は、かねてからの策謀を開陳して見せる。無論、売国(君主挿げ替え)の真意は伏せられた上での事である。
「劉豫州(劉備)こそ、我等の期待に応えて呉れる人物です。使君(劉璋)も既に評判はお聞きと存知ますが、私が実際に会って話してみて、確信しました。 そのうえ
、使君と劉豫州とは、元々祖先が同じ劉一族の親戚同士では御座いませんか!! この際は、劉豫州と是非にも好みを通じ合われるべきで御座いますぞ!」
最早この時点では、劉備の血筋は(彼自身が吹聴していた通りに)、前漢の景帝の子、中山靖王・
劉勝の末裔である!と観られていた事が窺える・・・・ それにしても、何が幸いするか判らぬのが
人の世と言うものであろうか?張松が売国の相手と値踏みした劉備だが、その理由の一つには、
劉備が殆んど身軽の風来坊で、自由自在に動き廻れる点も、その条件に加味されていた筈であ
るからだ。此の時もし劉備が、身動きの難しい重い立場・地位に在ったとすれば、張松の触手が
果して動いたかどうか?呼び込む相手としては、身軽でスピーディな人物が望ましかったのである
(無論、一定以上の人望・名声の持主である事が前提条件ではあったが。)
思えば、この時点で益州の支配を最も強く望んで居たのは、劉備より寧ろ周瑜であった筈である。
いま江陵で魏軍と対峙しては居るが、早晩それに決着をつけ、次には益州へと進攻し、其れを足
場として西と東から曹操に決戦を仕掛け、そして呉が天下を制覇する・・・・・その夢の様な、壮大な
戦略を抱き続けて居るのが周瑜公瑾と云う男であった。だから張松が周瑜を其の売国の相手とし
て候補に挙げても決して不思議では無かったのである。然しネックは、周瑜が余りにも重鎮に過ぎ
おいそれとは自在に身動きの効かぬ立場の人物である事だった。その点、劉備なら「ホイ来た!」
と直ぐにでも行動を開始する事が出来た。
「成る程、その通りじゃな。では、その使者の役には誰が適当か?」
「”法正”が最も適任で御座いましょう。彼なら必ずや目的を果し、同盟を成立させて参りましょう。」
「で、あろうの!」 劉璋が張松を信頼する事この上も無い。
「但し、此方から申し入れるので御座いまするから、我が誠意を表わすに充分な贈物は用意してゆくべきです。」
「うむ解った。取り合えずは金銀などの資財を持たせよう。」
「先ずはそれで良いでしょう。 然し今、劉豫州が最も欲しているのは、恐らく精鋭の将兵で御座いましょう。真に”好み”を深める御積りなら、早い段階で助力して差し上げるが宜しかろうと思いまする。」
「それも当然じゃな。さっそく”孟達”に準備させ、整い次第に送ろう。」
「お〜い玄ちゃん、拾いモンだぞ〜ィ」 「な、何だョ〜。未だウロついてたんかァ?」
「まあまあ、硬い事言いなさんナ。」 「また変なモン拾って来たな?」
「まあ変なモンか何うか、ひとつ見ておくんナね。」
「一体、何処で何を見っけたんだ?」 「江の上の方から流れて来たモンさ。」
「まさか土左衛門じゃあ有るまいな?」 「まあ、そんなモンかも知んねェな。」
「ったく、俺は今、忙しいっつうの!」
「お〜い土左衛門く〜ん、出番だぞ〜い。」
呼ばれて出て来たのは土左衛門では無く・・・・・・一寸目付きにニヒルな色合が滲んではいるが、堂々の貴公子であった。
「ホレ、名前、名前!早く名乗らネエと、このまんま土左衛門って呼び名になっちまうぜ。」
「私は益州の法正孝直と申しまする。張松殿の推挙で、劉豫州様と好みを深める使者として
遣わされました。」
「ほう〜、張松殿の!いやあ〜、よく来て呉れましたナア! ささ、我が軍師どの、此方へ此方へ、ズンとお入り下され!」 劉備の顔がパッと明るんだ。
「軍師・・・・で御座いますか?」
「そうじゃ!! 我が陣営には既に、この諸葛孔明と云う大軍師が居るが、いずれ貴方にも 其の任を分け持って戴きたい!」
劉備(48歳)は振り返って若い諸葛亮(28歳)を紹介すると、万事のみ込んで居る孔明も、にこやかに
頷いて見せる。6歳上の法正は 此の時 34歳。
「多分、元・ヤーサンの玄ちゃんとは”ウマ”が合うに違いネエわさ。」
簡雍の直感・人物眼は、こと玄ちゃん絡みだと不思議に当たるのである。
事実、この【法正】・・・・
爾来220年に45歳で逝去する (曹操の没年) 迄の11年間、劉備が益州を奪取して〔蜀の国〕を
完璧に建業する迄の一切を企画段階から実行・経営し、獅子奮迅の大車輪に取り仕切って見せる
のである。(仕掛け人の【張松】は、3年後に斬死してしまう。) 前の君主・劉璋にとっては大不忠者なのだが
新君主・劉備に対しては、誠心誠意、身を粉にしての 大忠臣・最大の功労者 として活躍する事 と
なる。劉備が益州に入ってからの信頼度は諸葛亮を遙かに上廻り、実際にも益州内に於ける人望
人心掌握の力量は外来者である諸葛亮には
真似できぬ重きを為すのである。その様子を伝える
「正史・法正伝」の記述が在る。法正死去の直後に劉備は諸葛亮の諫言を振り切って夷陵に出陣
し、致命的な大敗北を喫するのであるが、
『その時孔明は歎息して「嗚呼ここに法正どのが生きて居れば、よく主上を抑えて東征せずに済ませたであろうし、たとえ東征しても、きっと危険を避け得たであろうものを!」と言った。』・・・・・
又劉備が如何に法正を寵愛していたかの証拠には、劉備が存命中に【諡号しごう】を贈った相手は
唯一人・・・・関羽や張飛に対してでは無く、この法正に対してだけなのである。(多忙故もあったが)
大袈裟に言えば、蜀の建国は、この法正が成し遂げた!と言っても過言では無い程なのだ。
彼の風貌を推測させる様な史料は皆無であるが、「法正伝」の履歴には次の如き記述が在る。
『法正の字は孝直と言い扶風郡眉卩県の人である。祖父の法真は清廉潔白な節操の持主で名声が有った。 建安の初年、天下は飢饉に見舞われ法正は同郡の孟達と共に蜀に行き、劉璋の下に身を寄せた。暫くして新都の令と成り、後に召されて軍議校尉に任じられた。 重用されない上に、同じ村の出身者で同期に採用された者に「品行が悪い」と誹謗されて、志を得無かった。
益州別駕の張松は、法正と仲が良かったが、劉璋が共に大事を行なう器量を持たない事を思い遣って何時も心中歎息していた。張松は荊州で曹公と会見して帰って来ると、劉璋に曹公と絶交して先主と結ぶように勧めた。劉璋が「使者は誰がよいか」と言うと張松は法正を推薦した。 法正は辞退したけれども 已むを得ず赴いた。』
この直前に張松から大抜擢され使者に成るまで、法正は全くの鳴かず飛ばずで、極く軽い地位に
止どまって居た事が知れる。それが一挙に軍師待遇を告げられたのだ。悪い気がする筈は無い。
「込み入った話はオイラお呼びじゃネェや。後は玄ちゃんに任せたぜ。ま、精々、仲良くやって
お呉んナね!」
「お〜簡雍、お前にしちゃあ上出来だったぜ!」
「ほんじゃ皆の衆、バイちゃで御座る。」
ーー『正史・劉璋伝』−−
『張松は帰還すると曹公の悪口を言い、劉璋に曹操との絶交を勧め、そのついでに劉璋に進言して言った。 「劉豫州は使君の親戚です。彼と結託なさるべきです!」 劉璋は張松の言う事を全て尤もだと考え、法正を派遣して先主と好みを通じさせ、続いて又、法正と孟達に兵士数千を送らせて、先主の防衛を援助させた。かくて法正は(一旦)帰還した。』
ーー同じ場面を『正史・法正伝』はこう記すーー
『張松は荊州で曹公と会見して帰って来ると劉璋に、曹公と絶交して先主と結ぶように勧めた。劉璋が「使者は誰がよいか」と言うと、張松は法正を推薦した。法正は辞退したけれども已むを得ず赴いた。法正は帰って来ると、張松に先主が優れた武略の持主である事を説明し、密かに相談して計画を同じくし、共に君主として奉戴せんと願ったが、いまだ機会が無かった。』・・・・・・
【法正】が”最初は辞退した”とするのは陳寿の蜀思い=えこ贔屓が為せる修辞と観るのが普通。
なお【孟達】は今後の荊州争覇に於いて、一種キイパーソンと成る日が来る武将であるが、今の処
は失念しても差し支えは無い存在である。尚、”いまだ機会が無かった”状態が急変して、劉備を
益州に招き寄せる日が来るのは此の2年後の211年、曹操が狙いを西方(漢中の張魯)に向けた
との情報が飛び込んで来る時の事となる。
問題は、3度目に法正が劉備を迎えに来る迄の、其の空白の1年半の間に、劉備が荊州で為した
得た行動と成果である。 そして其の荊州占拠のスタートが切られたのが、 この周瑜による江陵
包囲戦(209年)の最中の事であるのだった。
かくて、益州からの増援軍を得た (法正の2度目の来訪を受けた) 劉備の保有する軍事力は 数万を
遙かに超え、単独で思い切った軍事行動の実行を可能にさせるのであった。と云う事は、周瑜は
今迄以上に周囲の政事戦にも、殊更の神経を尖らせざるを得無い状況となってゆくのであった。
即ち劉備に対しては、今迄の如くに、冷たい態度一辺倒ではゆかなくなっていくのである。 もっと
具体的に言えば、劉備が孫権と直接交渉する事を黙認せざるを得無い状況が出現するのである
そんな状況の変化を巧妙に利用して、劉備の根拠地づくりは着々と進められてゆく。つまり、長江
の隔たりと云う地勢・地形を利用して、江の北岸で曹仁・張合卩と対峙して居る【周瑜軍】とは一線
を画し、己は江の南岸に、着かず離れずに独拠する・・・・ 魏・呉両軍が対峙している〔江陵〕から
下流へ僅か20余キロの南岸に”油江口”と呼ばれる渡しの街が在った。劉備は此の何とも絶妙な
地点に己の根拠を置く。そしてこの街を《公安》と改名した上で〔幕府〕を開設したのである。
但し幕府と言っても、日本の鎌倉幕府だとか江戸幕府の様に、全国を支配する巨大権力機構を
指す訳では無い漢王朝から派遣させた将軍が地方に駐留する場合に、その活動の中心として設
置する役所を指す言葉であるに過ぎ無い。この場合、劉備は既に昔 (曹操の上表によって献帝から)
正式に漢の左将軍号を受けていたから、その将軍が地方に根拠を置くと云う意味では誰も敢えて
文句も言えない。だから〔公安幕府〕なのであり、ま、一種の箔付けである。
《劉備玄徳ここに在り!》と、改めて天下に名乗りを挙げたと云う事である。・・・・とは言え、劉備は
全くのフリーハンドを得た訳では決して無い。 我々も、現時点での劉備の兵力を過大視しては
ならない。確かに周瑜軍とだけならば、そこそこの発言力も生まれる状況には成って来ているが、
交渉相手が呉の国全体となれば、是れはもう全く話が違って来る。10万規模の本気で潰しに来ら
れたら一溜まりも無い。土台、劉備軍は寄せ集まりに過ぎぬのである。 恩顧関係の浅い将兵の
忠誠度1つ観ても、呉の3代に比べれば格段に低い。第一、現時点は将兵に与えるべき恩賞その
ものを所有して居無いのだから、兎にも角にも其の元手となる諸郡県を支配して徴税権を獲得し
なければならなかった。その為の幕府開設なのであった。
但し、呉に対する匙加減が非常に難しい。ハッキリ言って劉備の行動は相手の弱味に突け込んだ
”火事場泥棒”である。もう少し上品に言えば”漁夫の利”を得ようとするものである。余り欲を掻き
過ぎて相手を本当に怒らせては元も子も無くなる。 出来るだけ呉国を刺激しない様にしながら、
然も実際はバッチリ支配地域を拡大しなくてはならないのだ。
だから其の際、劉備は少しでも反発を和らげる為に、大義名分の隠れ蓑を用いた。合流した前の
荊州牧・劉表の遺児である【劉g】を新しい荊州刺史として担ぎ、前面に押し出して措くのである。
そして実に上手い?事に、この劉gは直後に没し、劉備自身が次の荊州牧に就任するのに何の
支障も起こらず、絶妙過ぎる程のスムーズさで事は進んでゆく・・・・
(筆者が何を言いたいかは、勘の鋭い諸氏にはお判り戴ける筈である)。
ーーその過程を「正史・先主伝」はこう記しているーー
『先主は 上表して劉gを荊州刺史とする一方、南の4郡の征討に赴き、武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度らを全て降伏させた。盧江郡の雷緒らは配下の数万人を率いて帰順した。劉gが病死すると、群臣達は先主を荊州の牧に推し立て、公安を州都とする事になった。』
上表してと云うのは単なる修辞。数万人と云うのは住民を含んだ数で兵力を指すものでは無い。
州都と云うのも自称である。が、荊州南部の4郡(江陵に対面する衡陽郡(洞庭湖)を除く全ての郡)を
実力行使で占領・占拠したのは事実である。もはや火事場泥棒などと云う範疇には収まらぬ立派
な軍事作戦である。詳しい模様は判らぬが、恐らく、此処ぞ我等の踏ん張り処とばかりに、関羽・
張飛・趙雲らが手分けして一挙に南部全面を席捲したのであろう。諸葛亮も衡陽郡の最深部に当
たる臨烝県に駐留してと云う記述が見える。全力挙げての電光石火作戦であった事が窺い知れる
だが、こうまで広大な地域を占拠したとなれば、呉国も黙って居る訳にはゆかない。如何に同盟を
結んである相手とは言え、由々しき事態である。また劉備にしても、ビクビクものである。何故なら
同盟とは言うものの、その締結は赤壁戦直前のドサクサに紛れた、互いに其の場凌ぎ的な、軽い
扱いに過ぎぬモノであったからである。
然し今や、互いに予想外な展開を経て、非常に重い意味を持つ新たな局面を迎えての同盟関係と
変容して来たのだ。両者互いに疑心暗鬼の儘ではマズイ!改めて互いの真意を再確認する事が
急務の要と成りつつあった。
ーー同じ筈の事情も『江表伝』の記述ではこう記されている。
『(曹仁が江陵を放棄した後)周瑜は南郡太守となり、 南岸の地を割いて劉備に与えた。劉表の吏卒で北軍に従わされていた者達の多くが裏切って劉備の元へ投降して来た。劉備は周瑜の当てがった土地が僅かで、 住民を落ち着かせるには 不充分だったので、孫権から更に荊州の数郡を借り受けた』
・・・・と云う事になるのである。
こっちの書き方だと、周瑜は渋々ながらも諸般の事情を考慮して、劉備に或る程度の裁量権
(ギリギリ現兵力を維持し得る範囲の、荊州南部での自由行動)を認可した、と云う事になる。詰り、
劉備の交渉相手は出先の現地総司令官たる周瑜であったのであり、周瑜には其れだけの権限が
与えられていたと云う事でもある。然し劉備を危険視する周瑜が許容する範囲は厳しい。
だから唯々諾々と承服する訳にはゆかぬが、かと言って、敢えて其の許容範囲を越えて、無断で
既成事実を作ってしまう戦略は、未だ生まれたばかりの劉備陣営にとっては非常にリスクが大き
かった。まして曹仁が撤退しそうな気配が濃厚に成って来た現在では、手が空いた周瑜が反転し
て、劉備を咎めに襲い掛かって来る可能性も排除出来無ない。・・・・・困った!
「よし、此処は一番、儂の勝負処だ!」
いつも愚図愚図と優柔不断がトレードマークであった【劉備】だが、流石に48年間の流転放浪
の授業料は、この男を大きく変貌させようとしていた。
「儂独りで呉に乗り込んで、直接孫権と交渉して来よう。そして頭を下げて4郡を借り受ける格好で荊州の占拠を認めさせるしか手は有るまい。」
「独りでゆくなぞ、それは無謀ですぞ!この私も一緒に付いてゆきましょう」
「いや関羽。心配は有り難いが、下手に護衛の人数を連れてゆくよりは、此の際は、いっそ丸裸で相手の胸襟に飛び込んで行った方が善かろうと思う。」
「どうなんだい、軍師?」 と張飛も心配顔に諸葛亮に訊ねる。
「私の耳には、呉軍内部からの不協和音が聞こえて参ります。」
「と、申されますと?」 趙雲も主君の決断を憂慮した。
「大丈夫で御座いましょう。その根拠の1つは、周瑜と孫権の間に観られる国家戦略の不統一で
ありまする。周瑜は天下制覇を目指し、孫権は天下3分割の立場を採る心算の様に見えまする。」
「確かに。江陵への増援では無く、合肥へ出陣するなど、何か孫権の描く戦略と周瑜が抱く戦略には、根本的なチグハグ感が存在致して居りまするなあ。ま、我が陣営にとっては好都合な展開では御座いまするが。」
眉の中に白い毛が目立つ男が、孔明に代わって解説して見せる。つい最近駆けつけて抜擢された【馬良】であった。(いずれ詳しく紹介する)
「根拠の2つ目は、江陵に在る周瑜軍自体からの不協和音で御座います。どうも周瑜と程普の間に、何等かの確執が存在している様子が窺えるので御座います。」
ーー『正史・宗室伝』の記述 (のち周瑜の跡を継いだ呂蒙が孫権を諌めた時の会話)・・・・・
『以前、周瑜と程普とが左軍と右軍の指揮官となり、協同して江陵を攻めた事が御座いました。最終的な決定は周瑜が為したのでありますが、程普には古くからの部将であると云う自負が有り、それに2人とも指揮官だと云う事で、2人の間が上手くゆかなくなって、国家の大事を損う事になりかけたのであります。是れが、未だ遠からぬ戒めで御座います。』
是れが事実であるとするならば (芳醇な酒の逸話とは矛盾する) 江陵包囲中の周瑜の立場は 益々
もって苦しく、その戦場から離脱して本国に戻り、直接に孫権をコントロールする事は叶わない。
詰り孫権は、天下3分と云う自身が最善だと考える戦略を、独自に推進し易い環境に在ると云う事
でもある訳なのだ。
「ですから孫権は我々の存在を非常に重大視して、今後も益々同盟関係を強めたいと考えて居るものと推測できます。その理論の裏付となって居るのが魯粛です。この魯粛殿こそは今後も我々の心強い味方で在り続け、信頼して良い人物だと観て構わないでしょう。」
「だが矢張り俺は心配だ。周瑜が密かに手を廻し、御主君の命を狙わせるかも知れぬぞ」と関羽。
「そうだ、命を奪われぬ迄も、軟禁された儘にされるかも知れぬわい。」
確かに在り得ぬ話では無い。一同が心配するのも頷ける。
「では、魯粛どのを通じて〔最大の安全策〕を施して措きましょう。」
「ほう〜、最大の安全策とは何じゃ?」
「孫権には妹が居りまする。」
「−−あっ!成〜る程・・・・!!」
正妻・麋夫人を(当陽の惨劇で)喪ったばかりの劉備は、公式的にはチョンガー(独身)なのであった。 (ちなみに、一粒種の阿斗を生んだ甘夫人は終生、側妾の地位の儘で在り続ける。)
思わず全員が顔を見合わせると、次には一斉に劉備の顔を繁々と覗った。
「ーーな、何だよウ〜〜!?」・・・・・
【第158節】 恐妻家 発生す(美女将軍のウェディング)→へ