赤壁の戦いから丁度2年後の210年(建安15年)の12月・・・・・曹操は業卩城に完成したばかりの

銅雀台から布告を発し、己は飽くまで漢の臣下で在り続ける事、即ち皇帝の実力は有りながらも

今の王朝の存続を認める【覇王】で在り続ける事を告げるーーだが、その3年後の213年ーー

(建安18年)5月22日・・・・漢の献帝・劉協は 辞令を発し、曹操を〔魏公〕の地位に昇格させる。

そして更に其の3年後の216年 (建安21年)には 曹操はついに、献帝から〔
魏王〕に任じられる

のである。 〔公〕→〔王〕の次に待つものと謂えば、あとはもう【
皇帝】の地位しか無い。 

ーーだが然し・・・此の時点で眼を魏国の外に転ずれば、この間に天運・時局は大きく転変し、既に

天下は3つの勢力に固まり つつあったのである。この3年後の219年(建安24年)7月には巴蜀の

地に
漢中王を称す劉備が在り、江東の地では 孫権が呉王と成っていた。即ち 天下はかろうじて

漢の皇帝一人を戴くも、その下に 〔
3人の王〕 が並存する、「新たな時代」 が出来上がっており、

その実態は 正に、《三国出現!》そのものと成っていたのである・・・・・


      
リセットされた争覇


     【
第156節
   赤壁・・・その風穴

     始動・胎動・再起
  ーー〔第U部を開封するに当たって〕ーー

本書・『三国統一志』は、序章に当たる第T部を終え、いよいよ本章である第U部に突入してゆく。

此の第U部は 全X部から成る本書に於いて、謂わば〔
三国志の華〕とも言える地位を与え

られる筈である。何故なら是から始まる物語は、魏・呉・蜀の3国が出現してゆく過程の中に在って

その3者が 全知全能を傾けて、最も激越に鬩ぎ合い、息も吐かせぬ 死闘の日々を展開してゆく

時期 (11年間) に 相当するからである。

思えば・・・・事は全て〔赤壁戦の翌日から始まる〕のであった。曹操による天下統一が確実視され

ていた3世紀劈頭の中国大陸。衆目が固唾を呑んで見守る中、僅か3万の呉水軍は、総司令官・

周瑜の統帥の下、大方の予想を覆して大曹操軍を赤壁に撃破した!!是れにより、ほぼ逼塞して

いた観のあった歴史状況には、突如、巨大な風穴が空けられ・・・・そして其の風穴からは 新たな

時代の可能性が一挙に吹き出し、中国大陸全土の各方面に向かって途轍もなく複雑怪奇な時代

状況を現出させてゆくのである。即ち、事はーー

1対1の解り易い世界から、一挙に1対1対1が錯綜する累乗世界へと

様相を一変するのである。そして、全ての出来事は3国相互に絡み合い、大戦役が各地で同時に

勃発する様な事態が恒常化してゆく。然も 1戦役が決着を見ぬ内に 更なる展開が加わって複層してゆく・・・・と云った
3つ巴の複合状況 へと 錯綜するのである。 こうした展開は、中国

5千年の歴史上でも唯一の異常事態・特異状況だと言える。

詰り此の第U部は、広大な中国全土を舞台に、実に壮大でダイナミックな人間ドラマ・戦いの歴史

が描かれる事となる。それは智謀・策謀の限りであり死闘・激闘の粋であり、男達の心意気であり

人間性の発露でもあり、そして運命の岐路でもある。それら美醜悲喜の全てが集まり、有りとあら

ゆる面白さが凝縮された歴史舞台ーーそれが第U部の内容であり、紹介されるべき要点となる。


古来より中国には、『事は1を以って始まり、3を以って成る』とする思想が存在

する。だが・・・・〔
3を以って成る面白さ〕・・・・と云う究極の愉悦は、別な言い方をすれば

”複雑怪奇”、”視点の攪乱”と云う事でもある。時々刻々の全体像・3者相互の状況把握が難しく

なり兼ねない・・・とは言い状、我々には恒に 誌面は1つしか無く、どうしても画面3分割的な記述

方法は採用できない。単に年表の羅列なら3国を並列する事は可能ではあるが では如何にしたら第U部の

全体像が把握され易いか?ーーで、矢張り 最上の方策は、大まかな予備知識・事前把握をして

措くに限るであろう。えっ、最初からネタバラシされてしまったら面白さが半減するって?・・・・いえ

いえ大丈夫。そんなこと程度ではビクともせぬのが第U部の面白さなのである。と云う訳で本題に

戻るが、その際の要点(
印)は3つである。

ー→何と言っても最大の出来事は・・・・
あのケタ外れのダメ男・
劉備が大豹変して西方に蜀の国を建設してしまう事である。そして基本的には、この〔蜀〕と〔呉〕の 弱小国は、互いに連合・同盟して、大国・〔魏〕に
対抗。2対1の構図を以って己を保ちつつ対峙してゆく。

ー→是れにより、国力最大の (曹操)は、X・Y・Z (西と南と東) の3正面 に於ける恒常的な戦役を 強いられる事態となり、曹操は 全土を東奔西走する羽目に陥る。為に、国力で大幅に劣る他の2国 (呉と蜀) は、かろうじて命脈を保ち続ける事が可能と成る。但し、この2国は互いに相手との同盟と離反を繰り返し、隙あらば自国の勢力拡大を狙い続けて虚々実々の攻防を展開してゆく。

ー→そんな中、魏・呉・蜀の3者が直接軍事衝突し恒に鬩ぎ合う荊州の動向が 3者存亡の要地としてクローズアップされ続けてゆく。特にたった独りで荊州を8年間に亘って死守する関羽の孤軍奮闘ぶりは圧巻である。 だが・・・・第U部の終末では関羽は裏切られて斬られ、あれだけ獅子奮迅した曹操もついに皇帝を宣する事の無いまま逝去し、そうして1つの時代は終わるのである。ーーこの209年から220年迄の、ほぼ10年間を描くのが本書第U部のスパンである。栄枯盛衰は世の常とは言え其の中でも最もダイナミックな人間達の歴史を描ける事は幸甚である。ーー因みに第U部に常に現われて来るX・Y・Zの3正面(3戦場)とは・・・・・

閨k
方面→西(長安→漢中〜蜀方面)
    〔X〕@・・・・韓遂・馬超の涼州連合との戦い
    〔X〕A・・・・五斗米道・張魯(漢中盆地)との戦い
    〔X〕B・・・・蜀(益州)劉備軍との戦い
驕k方面→(荊州の州都・襄陽及び背後の江陵方面)
    〔Y〕@・・・・関羽と曹操軍の戦い
    〔Y〕A・・・・関羽と呉軍の駆け引き
    〔Y〕・・・・呉と蜀の荊州分割統治を巡る攻防
方面→(との軍事境界線)合肥や濡須方面
 ーーの、3地点である。

国力的にはガクンと劣る
が主として1方面だけに戦力を集中すれば済むのに比べ、

大国
は常に3方面に戦力を分散配備する事を強いられ続けるまた 曹操自身も、(西方)

(東方)との2股を掛けて親征する為に、どちらにも決定的な1大決戦を仕掛ける事が出来ず、

常にモグラ叩き状態の中途半端な処で撤退を繰り返し、終に長江を越えて呉国本土への総攻撃

を為し得無い。即ち、どう足掻こうとも、曹操の天下統一の野望は、実現不可能な夢の彼方へと

潰え去り、此処に中国大陸は、
3国鼎立の新たな局面を現出してゆく事と成るのである。


 三国時代は、赤壁戦の翌日から始まった。

赤壁の戦いが、全てをガラリと変えた。冷厳に謂えば、天下が1つに治まる可能性はゼロと成った

のである。国家静謐の機会は失われ、世の安寧も遠のき、そして更なる戦乱の日々が、涯てしも

無く続く事と成ったのである・・・・然し 其の一方、野心を燃やす男達にとっては、己の望みを果す

機会が再び巡って来たとも言えるのであった。諦めかけて居た夢舞台が、実現可能なラストチャン

スとなって付与されたとも言えよう。蓋し天下を取るの争覇は、リセットされたのである。

その結果、覇業と云う美名の下に、英雄と呼ばれる魑魅魍魎が跋扈するのか?それとも英雄は、

真に英雄たるの王道を辿るのか?・・・その一部始終を語り出す前に 此の節では、予め其れ等の

候補者と主要人物達の生き様を把握して措く事とする。

先ずは、主役の3人、曹操・劉備・孫権の行く末ダイジェスト・・・・・

曹操ー→赤壁で1敗を喫した曹操本人は、主力軍を伴って遙かな本拠地・業卩城に

帰還する。但し、折角手に入れた荊州を確保する為に、江陵城に 曹仁と張合の 2大部将を留め

置き (長江以北の) 荊州保持に執念を燃やし続ける。その一方で自身は、再度孫権との決着をつけ

るべく、直ちに親征して合肥城 に進攻して見せる。 だが此の作戦は・・・・軍事目的よりは多分に

政事的プロパガンダ (赤壁戦敗北は魏国にとっては大した痛手では無かったと周囲に納得させる為) の意味合が

強く、張遼と楽進を留め置いて引き揚げる。

そのあと丸1年の準備期間を経た曹操が、次に狙いを定めたのは
西方であった。長安の向こう

漢中盆地に1大宗教王国を築いていた五斗米道の
張魯の征討に乗り出すのである。その意図

は後述するが、この時思わぬ事態が惹起する。漢中盆地へ行き着く前の段階で、涼州をバックに

した西方部族連合が、
馬超・韓遂に率いられて猛反発・大抵抗を仕掛けて来たのである。大誤算

であった。この抵抗に遭った曹操は漢中を完全には確保する事叶わず、貴重な4年間を浪費して

しまう事となる。それ処かモタモタしている間に、南から入り込んだ
劉備に「益州」を乗っ取られ、

蜀の国】の成立を許してしまうのである。やっとの事で張魯・(漢中)を降伏させた時には、最早

劉備の蜀は すっかり体勢が整い、1撃での殲滅は不可能と成っていた。だから夏侯淵を留め置い

て、今度は劉備軍と対峙する事となるのである。

これ等を整理してみると、結局・・・・・
曹操は 赤壁戦以後には 殆んど新たな
版図を獲得する事あたわぬ儘
、X・Y・Z・の3方面に守将を配して攻勢防禦を試み

るに留まってしまう
のである。(独り、大儲けしたのは劉備だけだった・・・・事になる?)  

尚、〔〕→では夏侯淵、〔〕→では曹仁、〔〕→では張遼がその守将を任される。その間

曹操は 時々思い出した様に へ赴いては1戦に及ぶが、その姿の中には、もはや旺時の

オーラは見い出し得無い。 但し、心血を注いだ国内の充実ぶりには眼を見張るものがあり、他の

2国は及ぶべくも無いのであはあるが。と同時に曹操と雖も、老いに伴う金属疲労的な言動も眼に

着き始める。とは言え、他の者達に比すれば、老醜を晒す事の無いキチンとした死に様は流石!


劉備ー→赤壁戦までの30年間は、ハッキリ言って〔ケタ外れのダメ男〕で在り続けた劉備玄徳であったが、この第U部では堂々の主役?を張り続ける。赤壁戦の直前には、曹操の

急襲を受けて 生死の淵を逃走しまくった挙句、何とか呉・孫権の背後に隠れて赤壁戦を傍観して

いた劉備一行であったのだが・・・・赤壁戦勝利の直後、劉備を危険人物視する 呉の総司令官・

周瑜が、江陵包囲戦
対曹仁戦 に懸かりっ切りになって居る事を勿怪の幸いに、こっそりチャッカリ

火事場泥棒よろしく長江以南の荊州諸郡の掌握を果してしまう。

その先頭に立って南部深くに駐留したのは諸葛亮であった。その結果、劉備集団は初めて自らが

切り取った根拠地を持つ事に成功したのだった。
漁夫の利と云うやつである。この時、まだ弱小

であった劉備軍に 福音をもたらしたのは、あの「筋金入りの売国奴」からのプレゼントであった。

張松」に吹き込まれた益州の【劉璋】が援兵数千と軍資金・兵糧を送って寄越したのである。益州

挙げての支援体制の一環であった。

これで劉備は大手を振って 呉・孫権と交渉する地位を獲得。同盟強化の為に孫権の妹を正妻に

貰い受け、荊州南部の占拠と云う既成事実を、呉からの正式貸借と云う形で黙認させてしまう。と

同時に後に活躍する多くの人士が劉備の下に出仕して来て、陣容も追々に整い始めるのであった

更に劉備にとってはラッキーな事に、眼の上のタンコブであった周瑜が矢傷が元で急逝してしまう。

周瑜亡き後の呉は、元々親・劉備(同盟推進)派であった魯粛が引継いだから、劉備は思いの儘の

フリーハンドを得た事となる。折しも更なる僥倖が劉備の身に降り注ぐ。売国奴の相棒・「法正」が

劉璋を丸め込み、不倶戴天の敵である【張魯(漢中の五斗米道)対策として、劉備を益州に招き入れ 

爪牙
(防衛傭兵) に成って呉れ!と言って来たのである。元より諸葛亮の〔天下三分の計〕に基づく

至上命題が、向こうの方から遣って来た訳である。 
待ってました!とばかりに、
腹に一物ある劉備は、益州へと乗り込んでゆく。但し、此の時点では未だ、行く先不透明である為

諸葛亮・関羽・張飛・趙雲は荊州に残って足元を固めた。先導役は法正。と言うより、この法正は

劉備の絶大な信任を得て以後は諸葛亮よりも頼りにされ続ける
(早逝するが)。大歓待で迎えられた

劉備が終に軍事行動を起こすのは其の1年後の事となるが、《此処ぞ正念場!》と観た諸葛亮は

荊州の守りを関羽独りに託すと、自身も張飛・趙雲を引き連れて益州に乗り込んでゆく。
(尚、関羽は

劉備兄貴とは 8年間 離れ離れの儘に世を去る事となる。)
その結果、翌年には 『成都』 を陥落させ、劉備は

終に1国の君主と成るのであった。(その直前に馬超が帰参して来る)だがそれは又、漢中を巡って

曹操との直接対決を引き受ける事でもあった。更には、「関羽」独りが保持する『荊州』の難問にも

対処せねばならぬ、苦難の日々の始まりでもあったのである・・・・・




孫権ー→せっかく、「赤壁での大勝利」 を手にした 呉の孫権ではあったが、頼りに

していた周瑜の突然の逝去は、呉国の方針を大きく後退させた。熱く燃える男・周瑜亡き後の呉国

は・・・・覇望を捨てて、己の存続にのみ国策を移し替えてしまうのである。と言うより冷静に観れば

元々呉国には天下を統一するだけの力量は無かったのであろう。考えてみれば 赤壁での勝利も

基本的には「祖国防衛戦」であったのであり、決して覇業の進撃では無かった。だとすれば、孫権

の選択は沈着で正しいものだったと言えようか?

実は、そうした孫権独自の判断は、既に 周瑜存命中にも 仄見えていたのである。その現われが

劉備との同盟強化である。それは周瑜が最も忌避したい策であったにも拘らず、孫権は妹を劉備

に嫁がせ、荊州の貸与をも認可するのであった。即ちその措置を認めざるを得無い程に 現実の

戦況・戦力は、周瑜の軍才を以ってしても尚厳しいものだった事の証明である。それを悟った周瑜

は、自分の後継司令官に 敢えて同盟推進論者の魯粛を指名して、此の世に別れを告げる。

それは暗黙の裡に、呉国の方向性を 孫権に示唆する、周瑜の遺言であったのであろう。 爾来、

孫呉は徹底した防禦戦略を国是としてゆく。詰り、此方から遠征はしないが其の代わり、母国本土

へは一歩たりとも敵(曹操軍)に足を踏み入れさせない!・・・そうした姿勢の現われの1つが、長江

北岸に築かれた『濡須塢』であった。この攻勢防禦思想に裏打ちされた城砦の存在は実際、曹操

の侵攻を喰い止め続け、長江を越えさせる事を許さない。

又、君主・孫権にとってもう1つの重大な課題は、西のバッファゾーン(緩衝地帯)であり、国力増大

の秘策でもある荊州を巡る、同盟相手・劉備との 虚々実々の駆け引きであった。最初やむを得ず

”貸与” を認めた ものの、益州に入り込んだのだから、約束通りに 返還するように催促するが、

相手だって未だ手元不如意だから 「ハイそうでしたね」と言って手放す筈が無い。となれば 実力

行使あるのみ!と両者の間は険悪化。早くも同盟は空中分解寸前となる。ところが其処へ曹操が

攻めて来たものだから、忽ち仲直りしてナアナアで手を打って一件落着。 かと思いきや、劉備は

やがて益州に独立。「そんなら矢張り返還しても好いだろう。」 「いや未だ其の時期ではない」の

水掛け論ーーで、3郡を軍事力で奪い返す(取る)。 そしたら其の不協和音の隙を突いて曹操が

攻めて来る。・・・・ヤ、ヤバイ!・・・・で孫権、何と自分から「呉は魏の家来(藩国)に成ります!」と

言って謝って見せる。 いやはや何とも涙ぐましい君主のパフォーマンスを演じる時期もあるのだ。 

そうして措いてから、やおら 荊州の守護神を自認する 関羽の寝首を掻く作戦に出る・・・・・何とも

ショボイ感じの 孫権であるのだが、その背後に見え隠れするのはーー矢張りあの呉の宿痾・

山越〕 の黒い影である。油断も隙も無い 獅子身中の疫病神は、永遠に呉の君主に安息を

与えないのである・・・・・



次は、その他の《脇役》ダイジェスト

張魯ー→言わずと知れた五斗米道の教祖。 その思想や組織、成立過程
などは《第26節・鬼道と少容》で詳述した通りである。

だがその勢力の位置する場所・
漢中盆地と、善政が齎す誤解 軍事力は不備であろうとの憶測の為に

曹操から狙われる羽目となる。無論最大の理由は、善政に拠る人口爆発と物産の豊かさにあった

それをゴッソリ戴こうと云う訳であるーーだが実際は、元々から益州牧の劉璋と不倶戴天の関係に

あった(母親の少容らを殺されていた)から、軍事力も決して微弱では無く、寧ろ攻勢を仕掛けていたのは

張魯の方であり、劉璋側は 防戦一方の窮地に立たされていたのである。

そして遂に曹操の遠征が開始されるのだが、張魯にとって望外だったのは、途中の道筋に当たる

長安周辺で、涼州を根拠にする部族連合軍が激しく曹操に抵抗した事であった。その為に張魯は

一定の時間を保証された事となり、曹操来襲以前に益州全体を奪取すべく、劉璋に対する猛攻撃

を準備していた。


韓遂馬超ー→70歳を越える韓遂こそ、真の西方の暴れん坊であった。

時の中央政権 (後漢王朝)に抵抗し続けること実に50年!骨の髄まで反骨・叛乱の2文字で出来

上がっている男である。但し 席次は常にナンバーツウを自称して来て居た。老いを知らず 益々 

意気軒昂のゴット爺ちゃん。そんな韓遂にとって頼もしい後継者が居た。曹操の西方進攻を目前

に控えた其の日、「今日からは貴方を父親と致します!」と宣言して叛旗を掲げた【馬超】であった

彼の父親は馬騰。韓遂とはかつての叛乱仲間であった。然し現在は 老いを感じて現役を引退。

曹操の誘いに応じる格好で、一族郎党を引き連れて 業卩に移住して居た。曹操にしてみれば、

ギラギラした息子の馬超に対する最高の人質だと考えていたから、まさか真っ向から叛抗して来る

とは大誤算であった。ーー無論、業卩に居た馬一族は 親兄弟をはじめ 三族皆殺しにされる。又、

韓遂にしても 子や孫達を業卩に住まわせていたから、皆殺しにされるのであった。それ程の代償

を覚悟してまで尚、馬超や韓遂を駆り立てる”叛の心”とは一体何なのであろうか・・・!?

劉璋ー→父親・「劉焉りゅうえん」が後漢王朝を見限って、赴任して来て以来の益州2代目のぼん

ぼん君主。その劉焉が母親の色仕掛けもあって信任して漢中に派遣したのが『張魯』であった。然るに

今や、その張魯は 鬼道(五斗米道)を駆使して隆盛を極め、主君筋に当たる劉璋の益州本体を窺う

有様と成っていた。ーー謂わば、軒先を貸して母屋を取られる寸前と成り果てている仕儀。そんな

暗愚な君主の行く末に、大きな不安を抱く 重臣が居るなど 夢にも思わぬ 劉璋。況してや主君を

裏切り、国を売る覚悟を固めた者の暗躍なぞに気付こう筈も無い。張松・法正の進言に唯々諾々

と従って、とうとう劉備を益州に迎え入れてしまう。そのうえ御丁寧にも 百日に及ぶ大宴会を催し

歓待した挙句、劉備に益州を奪い盗られる羽目に曝される・・・・・


と以上、是れだけの事前把握があれば、いかに3者三つ巴の複雑な第U部も、混乱の

発生は些かなりとも軽減されるのではあるまいか?

さて、では、いよいよ 三国統一志・第U部の世界へ
ズズズイ〜〜っと分け入って参りましょうぞ!







   祝・再会!!》 で御座いまする。
    
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