第154節
       起死回生のΩシールド
(シェイクスピア)     (ゲーテ)          (ケネディ)


もし〔龍〕にも滅する時が在るとするなら、その様はかくの如きものであろうか?霊力の根源である尺木(茸状の角)を折られ、飛翔能力を失った曹操と云う龍が、突如、天の高みから泥濘の中に墜落して悶え、のた打つ・・・・それは地獄の「華容道」ーー江陵から東南東へ20キロに”華容の町”は在る。その短い区間が主要幹線道であり、あとは単に烏林方面に伸びる、名ばかりの難道に過ぎ無かった。普段でさえ、かろうじて旅人が湿原に敷かれた踏み板の上をオッカナビックリで通れる位の悪道であった。一歩踏み誤まればズブズブと、泥湿地に足を取られる。今、曹操軍が喘ぎ苦しんでいる地区はその最悪の末端部分、華容の町までは未だ100キロ以上もある泥濘の中であった。ーーその撤退劇は悲惨を極めている。泥に足掻き、濘にもがくが進めない。暗夜の其処此処に死の顎が、禍々しい罠を仕掛けて待っていた。果てし無い絶望だけが延々と続き、光明は何処にも見えて来無い。未知の道筋を暗闇が覆い、待ち伏せの恐怖感が一層募る。瀕死の逃避行。時折おこる絶叫は、底無し沼に呑み込まれる者達の断末魔・・・・《儂は何故負けた!?》 との口惜しい思いが脳裡を掠める。が、曹操は自ずから其れを封印して、再び〔魔〕へと化す。
ーー神か魔か人か?・・・・今は”
”と成るべき時であった。
病兵を集めて人夫とせよ!
その命に従って、凍て付いた闇の底に、万を越す歩兵の群れが蠢きだす。その1人1人が、一帯の潅木や枯れ芝を刈り取っては抱きかかえ、次々に歩んでは其れを泥濘の上に折り敷いてゆく。人海戦術による、一種の緊急舗装工事であった。泥沼に枯れ木を敷き詰めて、”浮き橋”代わりの〔渡り廊下〕を作らせるのだ。
・・・その結果、かろうじて大湿地帯の中に、一筋の細い道が伸びていく。然し、その人夫と成った病兵達は、其の地点に嵌り込んだまま身動き出来ず、恰も《人柱》の如くに往生してゆく。彼等は皆、事前に、因果を含めて言い渡されていた。
「冷酷な様だが、いずれ御前達は病死するか、敵に殺されるかの道しか残されて居らぬ運命じゃ。同じ死ぬなら、せめて最期に曹公のお役に立って、家族への褒美を遺してやるのだ!曹公の、遺族への厚遇は皆も知っている筈じゃ。違約は無い。どうせ死ぬる身であれば、最期の御奉公と思って忠節を全うするが善い!」
それが眼の前の現実であるからには、否も応も無い。黙々として命の最期の火を灯した名も無い病兵の群れが、敢えて泥濘に向かう。・・・・やがて、どうにか騎行可能な強度が確保されるや、曹操は其の第一番手の渡り手としてギャロップしてゆく。ーー然し、その直後、彼等を待ち受けていた運命は過酷極まりないものと化した。曹操が発ち去った後、続いての優先順位は騎馬軍団に与えられた。その次が健康な歩兵であった。
統率の効いていた先頭集団が過ぎ去った後は、もはや無秩序が支配するだけの大集団の通過となった。人夫と成った病兵達は馬に踏みつけられ、押し倒されは泥の底に沈み込んでいった。
最早もがく体力も無い彼等は、終には其の自身の肉体がレンガ代わりに使われる生き地獄を味わう事となってしまったのである
怨みは深し華容道・・・・謂わば曹操は、彼等を”人柱”として使い捨てる事によって、己の死地を克服する策に出たのである。

その様を、正史・補注の『山陽公載記』は次の如くに記している。折紙付きの”3級史料”だが、敢えて掲げて措く。
公は軍船を劉備のために焼かれ、軍を率い華容の街道を通り、徒歩で引き上げたが、泥濘に行き当たり道路は不通であった。
そのうえ大風が吹いていた。弱兵全員に草を背負わせて泥濘を埋めさせ、騎兵はやっと通る事が出来た。弱兵は人や馬に踏みつけられ、泥の中に落ち込み、非常に多くの死者を出した。軍が脱出し得た後、公は大いに喜んだ。諸将が訳を訊ねると公は言った。「劉備は儂と同等じゃが、ただ計略を考え着くのがチト遅い。先に素早く火を放てば、儂らは全滅だったろうに!」 劉備はその後やはり火を放ったが間に合わなかった。

ーー果して翌未明・・・・曹操の中核部隊は、華容道の泥濘部分を脱し切り、遂に幹線道路部分に到達。急を知って迎えに出て来た〔江陵軍〕との合流に成功したのである。ホッとした曹操が、泥だらけの姿で、思わず周囲に漏らしたとされるのが、上記の会話部分である。オイオイ、そりゃ「劉備」じゃ無くて〔周瑜〕だろうが!
・・・まあいずれにせよ、曹操の胸中に〔相手〕として意識され易いのは、「周瑜」より「劉備」ではあったろう。 何と言っても劉備は、黄巾の乱以来20余年来のシガラミを共有する顔馴染みであった年齢的にも同世代である。互いによく識っている。今や実力に余りの開きが在り過ぎる為、「敵」とは言えぬが、心の中では今でも〔相手〕では在ったかも知れ無い。中々にシタタカで、群雄と謂われた者達の中で今でも生き残って居るのは、劉備唯一人である。現に「長阪坡」で接触(戦った?)相手は劉備であった。それにしても買い被りではある。其れに対し周瑜は、ここに来て急浮上して来た人物と映る。顔も知らない。年齢も若く、官位とて無く、活躍したと言っても、精々揚州1国内の事でしかない。周瑜を軽んずる訳では無いが、印象度では劉備の比では無かったであろう。リアリスト曹操にしては、やや片手落ちの観は否めないが、老境に差し掛からんとする人間の心理には、そうした傾向も有るかも知れぬ・・・・だが、次第に事実が明らかになるに連れ、曹操の周瑜への評価は変化する。
赤壁の戦役では、たまたま疫病が流行した為、儂は船を焼いて退いたのであるが、周瑜に之ほど迄の虚名を得させる事になってしまった。』ーー明らかに負け惜しみ・強がりであるが、敗北の事実は認めざるを得無い。
周瑜に破られたのであるから、私は逃げた事を恥ずかしいとは思わぬ。』 赤壁の戦いに勝ったのは周瑜であり、曹操は敗れたのである。但し、その負け方が問題であった。その勝ち方が問題であった・・・・。

「無念なり!大魚を逸したか!!」
白々と夜が明け始めても、遂に曹操の背中を認める事無く、周瑜の追撃戦は終結の時を迎え様としていた。
「千載一遇の好機であったものを・・・・!!」 
赤壁での大勝利にも関わらず、唇を噛む呉軍総司令官。
「どうやら、討ち漏らした様で御座いますな。」
「ですが、充分な大勝利で御座るぞ!!」
「うん。皆よくやって呉れた。大勝利じゃ。」
「一旦、味方を再結集させ、事後に備えましょう。」
「ウム、存分に兵を労ってよろうぞ。」
やがて、追撃を止めて集まって来た呉軍全将兵の歓喜の鬨が、誇らしく何度も何度も、未明の戦場に鳴り轟いた・・・・だが、周瑜の戦いが止む事は無い。勝利のその瞬間から、〔赤壁の戦い〕は既に過去のものと成ったのである。この男の壮大な構想にとっては、赤壁の勝利は最初から織り込み済みの、覇業のホンノ始まりに過ぎ無いのであった。或る意味では、反転攻勢に移る是れからこそが正念場である。赤壁戦大勝利の攻勢に乗った今、一気に何処まで呉の勢力圏を押し拡げて置けるのか・・・・クラウゼビッツの言う〔攻勢限界点〕を、少しでも伸ばして措かねばならぬのだ。何故ならば、周瑜の現在の手持ちの兵力は、決して充分とは言えず、依然3万の儘なのだ。至急、魯粛を孫権の元へ派遣して戦勝報告と同時に、増援兵力の要請をしていたが、多くは望めまい。(それでも2万が送られて来る)この少ない兵力を以って大攻勢を掛けるのは、敵が退潮傾向に在る今を置いては2度と無かった。
赤壁と云う局地的な戦闘に於ける〔戦術的勝利〕を、全面的な〔戦略的勝利〕として確定する為には、占領地域の拡大が必要である。勝利の拠点を、更に遠方に伸延さねばならない。”点”から
”面”への攻勢である。その為にはーー拠点城市を占拠する事がこの時代の鉄則であった。人口・人家は全て城砦都市の城門中に集中している故である。その意味で、是が非でも入手・奪取しなくてはならぬ次の攻撃目標は・・・・誰が観ても「
江陵」であった!赤壁の更に上流、荊州の水陸の心臓部とも言える軍事拠点である。今も曹操が遠征基地としている。其処を陥落させなければ、赤壁での勝利は、単なる自国防衛戦の意味しか持たなくなるそれを反転攻勢へと変容させてこそ、〔赤壁の戦い〕は周瑜にとっての真の勝利と言えるのだった・・・・。
だが、その
江陵には曹操最後の頼みの綱とも言うべき難敵曹操究極の楯・〔Ωシールド〕が出番を待って居たのである。


            【シールド色々】
   (コロンブス) (ノストラダムス)(トルストイ)
   (ワシントン) (ヨーゼフ2世) (バッハ)
   (ワーグナー)(ツェッペリン)  (チャーチル)

その無傷の兵力はほぼ数万、有力騎馬部隊も温存されていた。それに敗走して来る曹操直属軍が合流すれば、忽ち十数万に達するであろう。心強い限りである。
死地を脱した曹操ーー華容道伝いにひとまず「江陵城」に入り、安堵の溜息を漏らす事が出来た。
「御無事で何よりで御座いました。ささ、急ぎ御召し替えを。」
初めの裡、泥まみれで、寒さの余り歯の根も合わぬ曹操であった
「先に湯に浸かりたい。」
立て続けに酒盃を仰りながら暖を取り、羹汁(スープ)を啜る。
「いやあ〜悪疫にやられた。あれでは戦さにも成ら無かったワイ。船も焼き捨てさせ、帰って参ったと云う次第じゃ。」
さっぱりと着替えを終えて出て来た時には、もう其処には何時も通りの大曹操が居た。
「心配かけたな。だが大した事は無い。戦わずに引き揚げたからみな無事の筈じゃ。」
「はい、誠に叡明な御判断で御座いました。後は此の私めに御任せ下さい。先ずは安心なされて御ゆっくりと休息を御取り下され」
「ウム、出直しじゃ。孫権め、次は目に物を見せて呉れようぞ!今度こそ長江の水の中へ叩き込んでやるワ!!」
カラカラと豪快に笑い飛ばし、敗れても尚、意気軒昂な曹操が居た・・・・だが・・・・流石に、独りとなって横たわると、ドッと疲労感が全身を覆い尽くした。この大敗は骨身に堪えた。1日と2晩一睡もして居無いのに、頭の芯が冴え返って眠られない。
《しっかりせよ曹操!戦さの勝ち負けは兵家の常ではないか!》

自身に言い聞かせてみるが、何処か存在の深い処でガックリ来ている己が判る。 人生が一気に溶解してゆく様な、どう仕様も無い脱力感。人生の完成時期に喰らった、思いも懸けぬ唯一の大敗北。是れは堪えた。骨身に沁みて堪える。理性では、〈未だ幾等でも遣り直しは効く!〉と言い聞かせる自分が居るのだが、その声を凌駕する無言の落胆が、隠し様も無い巨大さで自我を打ち拉いでいるのが分るのである。

−−我が夢は潰えたか・・・・ 天下統一の野望は、此処に破れたのか?ーー何時もなら此う云う時グチでも落胆でも何でもかんでもブチ撒ける恋女房が居た。手紙に書き殴って送り付ける相手が居た・・・だが、その【荀ケ】はもう今や居無い。許都に居る男は荀ケでは無い。荀ケ文若と云う名を冠した、禍々しい裏切り者に成ろうとして居るばかりであった。 あれ程信じ合い、一心同体と思っていたのに!!と、今度は不意に【曹沖】の顔が浮かんで来る・・・・・そして此の時53歳の曹操は、生まれて初めて、己の”老い”を実感したのだった。
「クソ、クソ、クソ〜ッ!こんな事で参る曹操では無いぞ!!」 
持病である偏頭痛の発作が起こり掛けていた。然し、主治医の【華陀】も亡い。
失った兵力は、5万は下らないだろう。最大限に観れば江陵から出陣した総兵力の半分に当たる十万近いかも知れぬ。火攻めの第一次攻撃に因る被害が致命的であった。ここで損失の殆んどを出していた。その後の退却戦でも、万単位の歩兵が命を落とした。死んでいった兵達の大多数が、いずれ死ぬ運命にあった重病人であったとは言え、治療を施せば回復した者達であったかも知れ無い。今更悔いても詮無き事だが、周瑜公瑾には虚仮脅しは通用しなかったのだ・・・・。
いずれにせよ、未曾有の大敗北であり、1度の会戦で是れだけの死者を出した例は、過去の曹操戦史には無かった事である。百万と号した大曹操軍も、実態は30万余り、今その3分の1近くが消滅したのだ。これは痛い。そう簡単には立ち直れまいーー
などと、千々に乱れる思いに苛まれる中、突然、53年間の蓄積疲労が、ドッと曹操を混濁の睡魔に引き摺り込んでいった・・・・・その寝顔の上に一筋残るのは慙愧の寝汗か、はたまた無念の涙跡か?
ーーだが、曹操は丸2日間、泥の様に眠り続けた後、復活した!深い眠りから醒めた其の時、曹操の全身からは、全ての過去が捨て去られていた。曹操はみずから訣別したのだ!曹沖とも荀ケとも、そして何より、是れ迄の自分自身と・・・・。
さて、其処で、我々自身もハタと目を醒まさねばならぬ。
21世紀に在る我々は、知識が豊富であり過ぎ、研究熱心の余りに、却ってリアルタイムの古代人の実感・実態からは遠ざかって居るのではあるまいか? ・・・・・昨今では、この赤壁の敗戦は、曹操(曹魏)にとっては然したる痛手では無かったーーとする観方が有力・支配的である。特に、魏呉両者の総合的国力は10対1であったと考えられる事から、曹魏はビクともせず、孫呉の勝利も大した事では無かった・・・・とされる様になって来ている。確かに研究上のデーターから導き出される其の判定に異存は無いが、然しである。事態は2千年も前の事である。科学的な地図はおろか、図法すらも無い時代の事であり、現代と違って世界球体論も無く、ましてや上空からの全体像をイメージする手立ては一切無き時代の事である。曹操と雖も自国(魏)の版図すら、現代の我々の如く明確に掌握・イメージ出来ていたかどうかさえ怪しいのだ。まして異文化圏の呉の国情(地勢・人口・経済基盤etc.)は、多分に霧の彼方であった筈だ。−−だからして、曹操が赤壁戦で受けた衝撃は、我々が想像する以上の、未知なる敵への脅威・驚愕であったに違い無い。ケロリとして居られる筈も無い。もし平然として居たとしても、それは表面上の演技であり、作られた態度であろう。ーー《呉は手強い!》・《呉は強敵だ!》ーーとの実感は、拭い難いトラウマと成って、曹操の野望の前にこびり付き、立ちはだかっていった・・・・それこそが実相で在ったろう。
そして赤壁戦は天下統一の困難さと一撃で呉を全滅させる事の不可能さとを、曹操の胸中深くに植えつけた・・・・に違い無い。
ちなみに、
至弱を以って至強に当るのコピーは三国志前半に於いては2つの対戦が其れに当て嵌まる。
1つは【
官渡の決戦】であり、2つは【赤壁の決戦】である。そして曹操孟徳は、その両方に登場して、先には其の大勝利者と成り、今度は大敗北者を演ずる事と成ってしまったのである。無論、後者の方が様々な意味に於いて、格段に重要であり、敗れた曹操の被った打撃は測り知れ無い。蓋し、両大戦に共通する点が有るとするなら、それは1つの時代の終焉を意味する事である。そして赤壁戦の場合は、其れが曹操の心の中で起ころうとしていた


天下統一は諦める!!

       ーー
それがほぼ曹操の結論であった

その夢は、次代に託そう》・・・・と思っている自分が在った。
俺は其の為の礎と成れば良いのだ》と、思わざるを得無い自分が居た。而して其の反面、そう思うと何か急に、憑き物が落ちた様に、新たな発想が次から次へと湧き出て来る自分も在った。
蟠っていた眼の前の暗雲が俄に消え去り、新しい生き甲斐が見えて来る・・・《だが慌てるな。大曹操の此の俺が根本的に生き方を変えようと云うのだ。じっくりと考え、焦らずゆこうではないか。》

「此処(江陵)に5万置いていく。後の事は全てお前に任せる。これだけで何とかせよ!」 ーーそう言い置くと、曹操は もはや中途半端な態度は採らなかった。「荊州」はスッパリ部下に任せ、自身は一路本国めざして700キロを引き返してゆく。途中の”当陽”には汝南太守だった【満寵】を奮威将軍兼務として留め置き、更には
”襄陽城”にも肝っ玉将軍の【楽進】を当らせると、曹純の虎豹騎も従えた堂々の凱旋軍の姿をとった・・・一戦には敗れたとは言え本貫の領土を失った訳では無い。手に入れた荊州も、長江以北は依然こうして版図に治めている。寧ろ遠征前より、領土を拡大して帰還するのだ。何で下を向く必要があろう。第一大局的には魏の圧倒的優位には、何の変りも無いのだ。とは言え、威信が低下してしまったのも亦事実である。本国に着いたら直ちに、威信回復の為の大作戦も立てねばなるまい。考えるべき事・やるべき事は幾等でもあった。
《全ては本国へ戻った上での事だ。じっくりと戦略を練り直そう!》
曹操は冷静に本軍主力を引き上げさせた。従って今、「江陵城」には支軍のみが立て籠もって、周瑜の攻撃を待ち構えている。
早くも
赤壁戦の次の戦場は、此処・江陵攻防戦へと移ろうとしていたのである・・・・。
さて、その「江陵」で
《我、曹公の最後の楯たらん!》と、心に誓っている人物こそは・・・・曹仁子孝
曹操の
従弟である。この時40歳。円熟期に在った。一言でいえば、曹操が最も信頼している実戦担当司令官であり、〔曹操の楯〕・〔守り刀〕・・・・即ちΩシールドであった。血族としての安心感だけでは無い。軍事能力に対する信頼も亦絶大であった
『太祖、其ノ勇略ヲ器トス』と彼の実戦に於ける勇猛さと智略とを高く評価していたのである事実、その戦歴は、彼が実戦的野戦部将としての資質を、全て兼ね備えている事を物語っている。その上、『
仁、少キ時ハ行倹ヲ修メザルモ、長ジテ将ト為ルニ及ビテハ、厳整ニシテ法令ヲ奉ジ、常ニ科ヲ左右ニ置キテ、案ジテ以テ事ニ従ウ』と、ガチガチの順法主義者であり、全将の模範とされる様な生真面目さも有していた。のち曹丕も、気儘に振舞う次弟の曹彰に対して、『将と為りて法を奉ずる事、正に征南(曹仁)の如くならざるべけんや!』と、手紙の中で戒めている位である。特に曹軍自慢の、騎馬軍団総司令官としての履歴は、十二分に果して来ていた。弟の【曹純】には、その中から最精鋭の勇士を与え、泣く子も黙る〔虎豹騎〕=曹操直属の親衛騎馬軍団を率いさせていた。この虎豹騎は烏丸征討戦では、敵の総帥・「トウ頓」を生け捕りにもしている。長阪坡では劉備の娘2人を捕え、江陵占拠の一番乗りも果していた。
曹仁自身は、曹操の旗挙げ以来、常に騎兵を率いて軍の先鋒となり、袁術戦・陶謙戦(徐州虐殺戦)・呂布戦に大戦功を立てて来ている。野戦ばかりでは無く攻城戦にも秀いで、敵将の幾人もを生け捕りにしている。又、別働軍として、独自の判断を数多く任せられ、その悉くを成功させていた。
曹操最大の危機・「官渡戦」の劣勢の中、袁紹は劉備を黄河の南へ派出して、背後の諸県を攻め取らせた。この為、許都以南の官民は大いに動揺し、劉備に呼応する者が続出した。孤立無援、最悪の事態となった。その時、曹仁は進言する。
南方では、我が軍が眼前の袁紹軍に釘付けにされて動けない情勢に有ると判断しています。そこへ劉備が強力な軍を擁して遣って来たのですから、彼等が叛旗を翻すのも当然ですな。然し、劉備は袁紹の軍を率いてから日も浅く、未だ思いの儘に動かせる迄には至って居らぬと推察致します。今直ちに之を攻撃すれば必ず撃ち破る事が出来ましょうぞ。是非この私めに、その任をお命じ下され!」 かくて自ら騎兵を率いて出撃し、撃破敗走せしめ諸県を全て取り戻して帰って来た。
又、袁紹が韓荀を使って西へ廻り込もうとするのを、渓洛山で撃破し、以後の策動を封じ込めた。そのうえ逆に、屡々こちらから出撃しては、敵の輸送部隊を襲い、その食糧を焼き払った。
南へ西へ、そして東へ北へと、曹操が官渡砦に悠然と構えられて居たのも、彼のこうした八面六臂の活躍が有ったからとも言えた。
206年、華北を平定し終えたと思った矢先、目を掛けてやっていた「高幹」が叛旗を翻した。袁紹の甥に当るが降伏を許し、引き続き并州刺史にしてやってあった。だが一族が衰亡してゆく中、ビビッて焼け糞となり、壺関を封鎖したのだ。その癖、楽進と李典に攻められるや、小心の高幹本人は唯一人で南匈奴に逃げ去ってしまう。
(門前払いされた高幹は荊州へ遁走するが結局斬られる。)壺関城に置いてけぼりにされた将兵こそ、いい面の皮だ。飼い犬に手を噛まれた思いの曹操は激怒した。
「城を陥落させたら、全員生き埋めにせよ!」思わぬトバッチリを受けた城兵達は、どうせ助からぬ武人の意地を見せてやる!とばかりに頑強な抵抗戦に突入してしまい、3ヶ月経っても埒が明かない大苦戦となった。内心まずい事を厳命してしまったとホゾを噛んで居る曹操の前に、曹仁が再び登場。彼は身内である己の役処をちゃんと心得ている。
城を包囲した場合には、必ず生きる為の出口を示してやるものです。と申しますのは、彼等に生存の道を開いてやる為です。
処が今、公は彼等に必殺を布告して居られます故、将兵は自分から進んで守りに就いて居るのです。その上、城壁は堅固にして食糧も豊富なのですから、攻撃すれば我が方の士卒を傷つける事になり、包囲を続ければ長い日数が掛かりましょう。いま堅固な城壁の下で軍兵を据え置き、必死の敵軍を攻撃するのは良策ではありませんな!

釈迦に説法とばかり、進言して見せた。身内でなければ、こうは言えない。他の幕僚が言えば曹操の面目丸潰れである。曹操、待ってましたとばかりに前言撤回、忽ち城は降伏した。カッとなった叔父貴のエラーを、しっかりとフォローする・・・・阿吽の呼吸も心得ていた。そればかりでは無い。直に曹操の命を救った事さえ1度や2度では無かったのだ。特に印象深いのは197年、宛城で張繍を降伏させた後、軍師・賈言羽の謀略に嵌り、女体
(鄒子・張繍の不倫相手)に溺れ切っている処を奇襲され、大敗北を喫した時の事である。長男・曹昂、弟の子・曹安民、衛士の猛将・典韋らが犠牲となり、命辛々の脱出劇となった。この時、別働軍を率いて現れたのが曹仁であった。『仁、将兵ヲ率イテ叱咤激励シ、獅子奮迅ノ働キヲ為ス。太祖、其ノ勇気ニ甚ダ感歎ス。カクテ張繍ヲ撃チ破ッタ』のである。ーー正に〔曹操の楯〕・〔守り刀〕であった。

「魯粛どのが凱旋されました〜!」
「おお、参ったか!!」

既に赤壁戦大勝利の吉報を受けて居た
孫権は、大満足の呈で腰を浮かせた。
「直ちに全員を集めて、魯粛を出迎えよ!」
今や柴桑の大本営は、戦勝祝賀に沸き立ち、浮き浮きと華やいでいる。孫権自身、全文武官をうち従えると、わざわざ営門まで出向いてゆく。嬉しくて堪らない。何せ大方の予想では、大敗も覚悟し、いざとなれば孫権自らが最後の1兵迄を率いて、決戦する体勢で臨んで居たのだ。それ程の窮地を、一発大逆転で引っくり返したのだ。《ザマ〜見ろ!》と云う気持も有る。いま此処にニコニコしている全員が、つい最近まで自己保身を優先させた降伏帰順論を唱えていたではないか。そんな中、ただ周瑜と魯粛だけが、君主と運命を共にせんとして呉れたのであった。
その
魯粛が帰って来るのだ!! 《君主たる自分が、如何に忠義を求め、その者には称讃を惜しまないかを見せ付けてやらねばならん。》・・・・歓声の中、魯粛が営門に到着した。下馬して門を入ろうとした魯粛は、先ず馬上から軽く拝礼した。すると孫権は、異例な態度を示して見せた。馬上の臣下に対して、此方から立ち上がると、正式な答礼をして見せたのである!その上更に、こう切り出した。「子敬どの、私が貴方の馬の鞍を支えて、貴方を馬から迎え下ろしたならば、貴方の功績を充分に顕彰した事に成るであろうかの?
一同唖然とする中、魯粛は小走りに主君の前に進み出ると、こう言い放った。「
不充分で御座います!
辺りにザワめきが起こった。不遜極まり無い言葉である。大体、新参者で名士でも無い癖に、日頃から態度がデカイ魯粛は、長老連中から徹底的に嫌われていた。
《驕るでない!》・《何たる無礼!》・・・・そんな顔があちこちに見える。が、魯粛は平然たる態度で、意にも介さない。
《へん!無礼者は御前達の方だろうが!主君を見捨てようとしやがったのは何処のどいつデエ〜!!》
やがて座に着くと、魯粛はおもむろに鞭を挙げつつ言って見せた
願わくば、陛下の御威徳が全世界に及び、全中国を1つに纏められ、帝王としての事業を完成させられました上で、安車蒲輪によって私をお召し下さいましたならば、その時はじめて私を充分に顕彰して下さった事になるので御座います!
「おお、よくぞ申した!それでこそ誠の忠臣なり!!」 孫権は嬉しさの余り、思わず掌を打って破顔一笑した。”安車蒲輪”とは、皇帝が賢者を召し出す時の特別の馬車の事である。参謀総長たる者、咄嗟に是れ位のパフォーマンスは示さねばならぬと謂った処であろう。・・・・だが、この魯粛の言葉は、決してお追従とばかりは言えない、重大な意味を含んでいる。安車蒲輪を出すと云う事は、孫権が皇帝と成って新王朝を樹立する・・・・詰り、漢王室を否定・打倒する事である。これは「張昭」達、名士の重臣にとっては、眼が飛び出す様な大事件である。冗談にしろ口には出て来ない発想である。然し、この祝賀ムードの中、皆、景気の好い御世辞と受け止め、ただ笑って居るばかりであった。無論、魯粛とて、孫権に全中国を統一させようなどとは思って居無い。但し、『後漢王朝などと謂うモノは既に無い!』と云う基本認識は、その恩恵を受けて居無い〔非・名士〕たる魯粛独自の世界観であった
「ささ、大勝利の様子を詳しく聴かせて呉れ!それを楽しみに待って居ったのじゃ!」
「その前に先ず、周瑜さまからの増援要請にお応え下されませ。総司令官どのは、引き続き江陵攻撃に移らんとされて居ります。私の役目は戦勝報告を致しましたら直ちに、その軍を率いて周瑜どのの下に馳せ戻る事と思し召しあれ。荊州を我が領地とする為の戦いは、これから始まるので御座います。」
「ウム、そうであった。戦勝に浮かれては居られぬな。よし、
取り敢えず精兵2万を率いて駆け付けよ!」

赤壁の戦いからほぼ1旬後、年は
建安14年(209年)に新たまっていた。2万の増兵を得て総兵力5万となった周瑜軍はついに「江陵奪取」に動き出した。全艦隊を江陵の対岸に一先ず上陸させ、本営を構えたのである。魏呉の兵力はほぼ互角・・・・と云う事は、攻撃側に負担が大きい。いかな周瑜とは言え、まともには攻められない。何せ「江陵城」は、荊州随一の堅牢無比を誇る、軍事目的の為の城砦都市であった。然も、防禦・籠城専用に設計されていた。亡き【劉表】が、たっぷりと手間暇を掛け、有り余る財貨を惜し気も無く注ぎ込んで築かせた巨城であった。
そもそも此の城に攻め寄せて来る仮想の敵は、大曹操軍であった。曹軍100万の来襲を念頭に置いて築かれている。城壁の高さも厚さも半端では無い。曹操ですら、かつて御目に懸かった事の無い偉容であり、然も2重、3重構造に成っている。まさか其れを曹操軍が守る事になろうとは、草葉の陰の劉表もさぞや驚いて居るであろう・・・・〔孫子の兵法書〕ではーー
上兵ハ謀ヲ伐ツ。其ノ次ハ交ヲ伐ツ。其ノ次ハ兵ヲ伐ツ。其ノ下ハ城ヲ攻ム。攻城ノ法ハ已ムヲ得ザルガ為ナリ』とし、攻城機具の準備に3ヶ月、土塁や櫓を築くのに3ヶ月を要し、それでも不用意な攻撃をすれば、兵力の3分の1は損耗し、多大な犠牲を強いられる・・・・とする。更にーー
用兵ノ法、10なれば此れを囲ミ、5なれば此れを攻メ、倍すれば此れを分カチ、敵すれば善く此れと戦イ、少なければ善く此れを逃レ、若かざれば善く此れを避ク。』 と説くーー詰り、城攻めは下の下策であり、已むを得ず採る方法であり、10倍の兵力差が有る時にだけ行なうべきである・・・・と戒めている。だとすれば、周瑜には50万の軍勢が必要である。処が現実の兵力は、ほぼ互角の5万同士。疫病による魏兵の弱体化を見込んでも、実質は2倍と迄はゆかぬであろう。普通なら6ヶ月の準備期間と10倍の兵力を要する城攻めに、呉の軍は準備期間ゼロの上に、比率10分の1相当だけの兵力を以って、難攻不落を謳われ然も勇将曹仁が立て籠もる”江陵奪取”を敢行するのである。−−当然ながら此の儘では、攻め寄せては来たものの、是れと言って打つ手も無く、只いたずらに睨み合いだけが続く、膠着状態と成ってしまうに違い無かった。それを承知で何故、周瑜は兵理を犯してまで江陵攻めに執着するのか?
ーー周瑜は、〔時の勢い〕に賭けていたのだ。
天・地・人の3要素で謂えば、〔天の時〕が来たっていると感じ、又、陰陽の思想から推せば、呉は陽の上げ潮に在り、魏は陰の引き潮に在ると思えるのであった。 いや、そんな理屈では無く、周瑜公瑾と云う男なればこその直感・閃きであった。多分それは
”戦機”とか”戦運”と謂われるべきものなのであったろう。
現段階に於いて、まともでは及ぶべくも無い超大国に対して、もし覇業を仕掛けるとするならば・・・奇跡の大勝利を得た、此の赤壁戦直後の時を置いて他に無い。唯一絶好の時節・運気の到来と見切ったのである。ーー《小国の呉が天下を臨むに必要なのは、〔一気禾生の勢い〕に乗る事しか無い!今を逃せば、もう2度と再び其の機会は巡っては来無いだろう。》
然りながら、ただ単にジッと待って居れば、自動的に事が動き出すものでは無い。こちらから何らかの方策を施さない限り、折角手に入れた勝利の運気も薄れ、将兵の間に横溢している優勢感も消え失せていってしまうであろう。−−そこで採用されたのが、【
甘寧】の建策であった。甘寧興覇は、孫権に身を寄せる迄の長い間、荊州で不遇な日々を過ごした経歴を持ち、此の辺りの地勢には通じていた。
「直接に江陵を狙うのでは無く、先ず、その上流の《夷陵》を手に入れるのが面白う御座る。多寡が小城1つですが、様々な利点が有り、戦局も動き出すでしょう。」
この『夷陵』と云う呼称は、この13年後に劉備が亡びる〔
夷陵の戦い〕で有名になるが、どうやら広い地域名であるらしく、夷陵城なる城市そのものの在否は不明(古地図には無い)である。とは言え、その地に城砦が在ったのは事実で、江陵からは100キロ上流の北岸に位置していた。(史料の記述から推して) その為、江陵総攻撃に際しては、陸路から軍を動かせるメリットがあった。又、夷陵は、大山脈に囲まれた西の大国・益州の、唯一の荊州口に当たる。上流から来援して来るかも知れぬ「劉璋軍」を抑え込むポイントでもあった。更にもし曹仁が派兵してくれば、敵の兵力を分散し、引き付けて置く事にもなる。何より、膠着しかけている戦局に風穴を開けられる・・・・
「して、兵力はどれ位必要か?」
「500もあれば陥として見せまする。」
「500でよいのか?」
「はい、城兵も500余り。不意を襲えば何の造作も無く手に入りましょう。守るは荊州兵のみ。吾が甘寧の顔を見知っている者も居りましょう故、全て帰順させる事も叶いましょうぞ。」
「ウム、やるだけの価値は有りそうだな!」
かくて甘寧は、僅か五百の兵を以って、夷陵への奇襲攻撃に出陣して行った。そしてこの小部隊の動きが《
新たな戦いの日々》の幕開けを告げる、最初の軍事行動となるのである。


三国時代のメインテーマ
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荊州争奪戦の始まりであった!!
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