【第152節】
             裏切りのメロディー






「ーーそうか、来たか。」曹操の第一声は、物静かなものだった。
呉軍からの投降者が、ついに現われたのである
!!
魏・呉両軍ともに大きな動きは無い儘に、更に5日が過ぎようと
していた其の日の事であった。来訪した密使は、対岸に布陣する
超大物将軍の名を口にした。
その密書の内容を、『江表伝』は次の様に記載している。
              (無論、そんな物が残っている筈は無いが、一応、照会して措く。)
私、黄蓋は、孫氏の厚い御恩を受け、常に軍の指揮を任せられて、被っている礼遇には誠に厚いものが御座います。然しながら顧みますれば、天下の成り行きには大きな勢いと申すものが在って、江東の6郡と山越の者達によって、中原百万の軍勢に対抗しようと致しましても、衆寡敵せぬ事は、天下の誰しもが観て取る処で御座います。呉の部将達も役人達も、賢愚を問わず、皆その不可なる事を承知致しては居ります。然し唯、周瑜と魯粛とだけが頑なな見解と浅はかな思慮とから、いっかな承知しないので御座います。ここに、貴方様の元に身を寄せようと致しますのも、こうした事実を見定めた上での事で御座います。周瑜が率いております所は、もともと容易に打ち破れるもので御座います。
 両軍が刃を交えます際には、私は先鋒と成りますが、情勢を見つつ適当な時に寝返りを打って、命を賭けて貴方様の為に働かせて戴く事も、遠い先の事では御座いません。


密書に目を通した曹操、其れを軍師・荀攸に渡す。以下順次、参謀達が其の密書に目を通す。
「黄蓋からの口上は有るか。有れば申してみよ。」
「特には御座いませんでした。唯、間違い無く、この書状を曹公の御手元に届けよ!とのみ申されました。」
「書状の中味は知って居ような?」
「はい。私も同心いたして居る者の1人で御座いますれば・・・・」
「では訊こう。黄蓋は何を願って居るのか?」
「元より衆寡敵せぬ状勢の中、無益な血を流す事を厭うと居られます。」 「私利私欲は無いと申すのか?」
「いえ、男子たる者、己を正しく評価して戴く事を望まぬ者が在りましょうか?黄蓋様とて、我等とて大きな栄達を願って居ります。さればこそ、今回の決断を為さいました。」

「呉の者達は、此の戦さの結果をどう予測して居る?」
「大方の者は、絶対に勝てぬと思って居ります。」
「では何故、この様に手向かうのじゃ。」
「呉軍は周瑜に牛耳られておりまして、表立っては異議を言い出せぬのが実情で御座います。周瑜の周囲には若い者を中核とした、狂信的な崇拝グループが存在し、反対者を圧殺しているので御座います。」
「若い世代と老熟した者達とは意見が違うと申すのだな?」
「はい。血気盛んで無分別な一部の若者達以外、呉の大多数は平和な決着を強く望んで居ります。」

「黄蓋以外にも、後に続く者は出て来ると観るか?」
「もし黄蓋様が厚遇を得られれば、今は未だ行先を不安視して決断の着かぬ多くの者達が、雪崩れの如くに帰順して参りましょう」
「黄蓋に続くと思われる者の名を挙げてみよ。」
「孫権・周瑜・魯粛以外は皆、可能性が御座います。」
「おのれ、黙って聞いて居れば付け上がりおって!そんな好い加減な物言いで、此の曹操が納得するとでも思って居るのか!」
「とんでも御座いませぬ。事実を申し上げただけで御座います。では、より具体的に申しあげする。先ず考えられるのは右都督の程普様です。程公は最初から終始一貫して周瑜とは犬猿の仲で御座いまして、今では互いに物も言わぬ関係に成って居ります」
その情報は以前から曹操の耳にも入っていた。
「又、征虜将軍・豫章太守の孫賁様、意外な処では呂蒙陸遜なども考えられまする。」
孫賁は、言わずと知れた”人質差出”に応じ掛けた人物。呂蒙は恩賞の亡者であり、陸遜は一族の怨念を腹蔵している・・・と言う

「ーーよかろう。御苦労だった。戻って黄蓋に受諾すると伝えよ。」
「ハハッ!」
・・・・同じく『江表伝』は、この場面をこう締め括る。
曹公は、わざわざ黄蓋から遣わされた使者を引見すると、細かに質問をし、親しく勅を伝えて言った。お前達が詐りを働くのではないかと云う事だけが心配なのだ。黄蓋がもし本当に言う通りにしたならば、是れ迄に例の無い程の爵位と恩賞とを授けよう」』

 黄蓋公覆・・・・呉軍の中でも最長老で、初代・孫堅からの譜代中の譜代、呉軍の中核を成す人物と言ってよいであろう。その男が寝返ると申し出て来たのである。使者には応諾の返答を与えて帰したが、事の真偽をジックリ詮議するのは此処からである。 古来より、ともすると吾人の注目度は、赤壁の戦闘場面にのみ奪われがちであるが、
実は、この
曹操の真偽の判定にこそ、
       決戦の帰趨は凝縮されている
のである。
それ程迄に重大な、真偽判定の会議が召集された。その顔ぶれは曹操陣営の錚々たるブレーン達である。軍師の荀攸を筆頭に賈
言羽・程c・陳羣・王粲・華音欠・陳矯・董昭等々であった。
ーー佯降ようこう(偽せの投降)じゃな!」
曹操の第一感から審問が始められる。是れが鉄則であった。
寧ろ、我、人に負くとも、人をして我に負く事なからしめん!
俺が相手を裏切る事が在っても、相手が俺を裏切る様な真似は絶対に許させんぞ!!・・・・若き日、血刀を引っ提げて、傲然と言い放った曹操である。〔裏切り〕とか〔偽り〕を、殊のほか警戒して来た。そんな用意周到・万事細心の男が、更に齢を重ね、権謀術数の中を潜り抜けて来たのだ。黄蓋の投降を、無闇やたらに鵜呑みにする筈も無い。
「確かに、決行の日時が明言されて居無いのはチト臭そう御座いますな。」
「いや、その点は無理からぬでありましょう。この状況で日時を区切るのは、却って怪しいと申すもの。臨機の策を採らざるを得ぬでしょう。」
「情報に拠りますれば、黄蓋は呉の衆議に於いて、終始一貫して和平・非戦論であった由。その上、彼の属する派閥は、最強硬と目される〔張昭派〕であります。」
「領袖の張昭同様に、逆賊となる事を何よりも恐れて居る硬骨漢ですな。」
「それ故に孫権からは煙たがれ、永年勤続の譜代の割には地位が低いのだと思われます。」
「フム、若者なら兎も角、間も無く70に成ろうとする人物が、俄に己の生き様や人生観を転向する事は、先ず有るまい・・・・。」

「黄蓋の人となりにつきましては、かつて人を欺いた様な事例は1度として無く、清廉で頑固一徹、兵士達を可愛がり、人望も厚い奉公一途な忠節者である・・・・と伝わって来ておりますな。」

「然し、孫氏3代に仕えて来た忠義の士が、果して此処で変節するものでしょうか?」
「ウム、得てして忠義者の方が、一たび懐に入れば却って信頼できるのも真理である。常に右顧左眄している様な者は、結局、信用が出来無い。最近では『文聘』の例の如く、儂の部将にはそうした者達が多い。」
と言うより曹操の部将達は殆んど全員が、そうした者達であった

「どうも解せぬのは・・・・その老境に在って、今更ながらに裏切者の汚名を着て迄、果して己の栄達を望むものでありましょうか?」

曹操の頭脳に成り代わったブレーン達が、次々と再確認の作業を、曹操自身に求めてゆく。最終決断は曹操が下すのだが、充分な判断材料を提供するのが彼等の役割である。
「いや、個人的な栄達は二の次なのであろう。若者達の未来の為にこそ、故郷を残さんと降伏する心根と観る。老人の判断とは、そうしたものではないかと思う。」
「それは些か甘過ぎませぬか?人物に拠りけりでしょうが、多くの人間は寧ろ死ぬ間際迄も、欲の塊りで在り続けるものでしょう。」
「その点では、寧ろ使者は本音を申した事になりますかな。」
次々に発せられる疑念や肯定論を聴いて居る裡にも、曹操は曹操自身の自問自答に没入してゆく。
ーー《
俺が黄蓋だったなら、どうする?》 と、考えてみる。
33歳の若僧の指揮下に入って、平静で居られるか?ーー初代から35年、命を賭けて戦い続けて来た自分が、僅か10年前に突然参入して来た30歳も年下の、息子の様な歳の男に膝を屈して使われるとしたら・・・・
ーー《
俺なら我慢できんな。飛び出す。》納まらぬであろうと思う。まして君主でも無く、同じ家臣の立場で在りながら、片や大都督で自分は一介の都尉に過ぎ無い。・・・・《男の沽券に拘る!!》年齢で謂えば、曹操が曹丕に仕える様な勘定になる。心穏やかで居られる筈が無い。何や彼や言っても、結局その無念さが全てであろう、と考えた。
ーーよし、受け容れようぞ!」
兎にも角にも先ず、本物として受け容れなければ事は動かぬ。決して全面的に信ずる訳では無いが、もし真実だった場合の事を考えれば、是れ以上の不信感を重臣達の前で口にする事はマイナスとなる。事後の黄蓋の心証を害する事にも成り兼ねない。
「後は善きに計らえ。」・・・・その曹操の腹蔵・腹芸を斟酌して対処するのが、ブレーン達の能力である。当然、彼等も6分4分の体勢で臨むであろう。〔信用できる〕より1ランク下の〔信用しうる〕ものとして動く。ーー何と言っても、こっちこそ正真正銘の奸雄であり、謀略の本家本元なのだ。
《その儂を敢えて騙そうとする奴など居らぬじゃろうて・・・・。》
買い被りでは無い。それに万が一、下心有るとしても、対陣の間は取り込めて措けば済む。今迄も全ての場合、そうして来た曹操である。名立たる武将が帰順して来た場合、少なくとも3〜6ヶ月は兵力を与えない。実戦に用いる場合でも初陣は小部隊か個人の資格で参戦させて来ていた。黄蓋も其の先例を知れば敢えて参軍を主張し得ず慣例に従うしかあるまい。寝返りは打てない。

その反面、黄蓋の投降が本物であれば、そのプラス面は測り知れない。何と言っても、現場の将兵に多大な影響力を有する、最古参の人望厚き部将である。敵軍の先鋒を担う重大部署の中核がゴッソリ抜け落ちるのだから、敵全軍の戦力はガタ落ちになるそれにも増して大きいのは、他の将兵達に与える衝撃の強烈さであろう。『あの黄蓋殿ですら降ったのだ!!』と、彼に続く者達が、次々と現われる可能性が大きい情勢下にある。−−結果、周瑜は戦闘不能となり、這々の体で逃げ出す。その時こそ攻勢に転じ、撃滅する・・・・それが夢では無くなる・・・・それ程の魅力が有った。
《用心さえ怠らねば、大丈夫だろう・・・・》

是れが曹操孟徳の最終判断であった。
だが然し、後世に在る我々は、その判断・若しくは其の対応が誤りであった史実を知っている。
一体、曹操とも在ろう者が・・・・
何故まんまと致命的な罠に嵌ったのであろうか?
其処には其れなりの理由が在ったーーと我々は、本人以上に冷静かつ客観的に、曹操の深層心理を考察する事が出来る。この事は、人間が重大問題を判断する場合の1つの参考として、我々に何らかの示唆を与えて呉れるに違い無い。その際に着目すべきは、曹操が直面して居た心理背景であろう。

其の1つは・・・・〔作戦の目的そのものが、投降者の雪崩れ現象を期すものであった〕点であろう。謂わば「投降者待ち戦術」であったのだ。当然そこには、投降者が在って然るべきだーーとする我田引水的(自己中心的)な、達成欲求の心理作用が働いていた筈である。此処に最初の落とし穴が、既に潜んでいた。そもそも曹操が無理を承知で出陣した最大の拠り処は百万VS十万と云う圧倒的な数理の持つ威圧力・恫喝効果であった。

其の2つには・・・・〔曹操の気質〕が挙げられる。曹操軍の現状は「守り」に入っていた。だが基本的には、曹操の気質は積極志向・攻撃型人間である。「守り」から「攻め」に転ずる機会を、無意識裡に欲求していたであろう。その為にも、黄蓋の投降を、その反転攻勢のキッカケにしたかった一面が在った。

其の3つには・・・・〔もはや投降者の出現に拠ってしか打開できぬ現実が発生していた〕と云う点である。是れは無敵・不敗の神話を積み重ねて来た男の履歴にとっては、その偶像化された生涯を完結させる為に大変なプレッシャーであったろう。53歳の今になって、敗北は許され無い。そして其の裏返しの潜在意識として、どうしても《それを打開して見せる!しなくてはならぬ!》と云うリキミが出る。一見冷静であっても、根底には焦りが生じている。と同時に、〔期待する心理〕が生まれて来る

其の4つには・・・・過去に於ける〔成功例の誘惑〕が挙げられよう。恐らく是れが最大のポイントと想像できる重大要因である
人は皆、その人生で過去に多くの類似体験を積み重ねる事の中から、洞察力・人生観を獲得してゆく。敢えて其れを〔
経験律〕と呼ぼう。その人物が事に当たって最終決断を下す時、この経験律は重大な影響力を及ぼす。特に、歴戦の英雄・曹操には、豊富な類似体験・経験値が保有されている。投降者の扱いについても、数限り無い者達を受け容れ、傘下に収めて来ていた。中でも鮮烈な例が2つ有った。
 1つは、8年前の〔官渡の大決戦〕に於ける【
許攸】と【合卩】の投降である。許攸の投降により、敵の機密・弱点を知り得た。その情報に基づいた食糧基地への奇襲攻撃で、逆転勝利のきっかけを掴んだのだ。更に敵将・張合卩の投降によって、雪崩れ現象を呼び起こし、終には勝利を決定的にしたのであった。
 もう1つの例は記憶にも新しい、つい1年前の〔烏丸征討戦〕であった。北の方、遙か万里の長城を越えてまで強行した、この異民族殲滅(袁一族抹殺)戦での事は、艱難辛苦の連続だっただけに、曹操の脳裡に生々しく焼き付いていた筈だ。あの時、敵の事実上の総帥であった【
トウ頓】が採った行動は、異常なものであった。曹操が待ち構えていた白狼山に敢えて突っ込んで行って、いち早く自分だけが討ち死にする事により、若者達を敗走せしめ、民族の全滅を阻止し、その生き残りを果したのであった。血気に逸って玉砕を叫ぶ若き王達の純真さを愛するが故に、その未来を惜しみ、国の行く末を憂えた為の決断であった。
ーー憂国の情、滅私の思い・・・・《老熟した人間の智恵、老境の冷静な判断とは、そうしたものなのだ》トウ頓のあの行為は、呉の長老【
黄蓋】の動機にも共通しているであろうとの推断に連鎖していった・・・・曹操戦史の中には、他にも類似した投降劇は枚挙に暇が無い。それだけの経験律を持てばこそ、曹操は其の落とし穴の可能性は小さいと観たであろう。だが・・・・経験律の充実・豊富さは、言い換えれば〔思考の硬直化〕・〔行動のワンパターン化〕に繋がり兼ねない→其処を周瑜は突こうとしたのである。だから人選は『黄蓋』以外では在り得無かったのだ。

其の5つには・・・・早期決着をつけねばならぬ〔農耕期との絡み〕が在った。今回の遠征に際しては、本国の「屯田」に余力を残さず、総動員体制を採っていた。天下分け目の一大決戦と踏んで、農耕に従事すべき労働力を、惜しまず注ぎ込んでいる。
輜重兵は農民でもある。彼等が帰らねば来年の収穫は激減する国家備蓄も底を突くだろう。是れは国家の滅亡を意味する。絶対に避けねばならぬ事態である。そう思って改めて調べてみると、
中国古代に於ける大遠征の殆んどが《冬の農閑期に集中している事実》 が浮かび上がって来るのである!
官渡戦に於ける袁紹軍の出撃然り、この赤壁戦然り、そして晋に拠る三国統一戦(呉への進攻)然り、その外にも事例は数多い。
輜重兵や、運搬用の耕牛も含めた農業従事者が帰郷を果し、翌年度の生産の準備に要する日数などを逆算すれば、何ヶ月にも及ぶ様な「長期戦は出来無い」のだ・・・だから、多少のリスクには目を瞑らざるを得無い制約下に置かれて居た事ともなる。ここにも、投降者の早期出現を期待してしまう心理背景が存在している

其の6つには・・・・もっと巨視的な、曹操固有の事情=〔生涯時間・人生のタイムリミットとの葛藤〕も、その心理背景に加味されるべきであろう。残り少なくなって来た己の人生ーー曹操は多くの名詩賦の中に、彼独特の「死生観」・「時間の概念」を詩い上げており、それは丸で20世紀哲学の〔実存主義〕=ニイーチェやキルケゴール・サルトルやハイデッガーを髣髴とさせる様な感性である。「存在と時間」・「存在と無」ひいては時を越えた「超人思想」まで含んでいるのではないか!?と思える程に、繰り返しあちこちに其の思いを刻み付けている。
在命中に魏王朝を建国してしまう!》と云う最終目標が残されている。〔漢王朝の幕引き〕と云う政事セレモニーの前に、その大前提として先ず、軍事力に拠る天下統一を果して措かねばならなかった。
残されたタイムリミットの中で、この「赤壁の戦い」は、始めたからには後へは退けぬ、是が非でも成功させねばならぬ、のっぴきならぬ状況下に在ったと言えよう。

こうした様々な遠因や心理的背景が存在する時、多少の疑念が残ろうとも、受け容れざるを得無い方向性が、其処には存在していたと云う事が識れよう。ひと言でいえば、〔曹操は焦って居た〕のである。そして其の原因の全ては、予定外の【疫病の猛威】に帰す。更に敢えて附すなら、愛息・曹沖を失った悲嘆から逃れようとする、現実の中への紛れ込み心理=与えられた天命の理不尽さに抗する猛然たる憤りが、何時も通りの平静さを、少しずつ蝕んでいたとも謂えようか・・・・。
「なぜ曹操は裏切りを見破れ無かったのか?」
この命題に関しては、もう1つ重大な観点が在る。それは、一体曹操は、敵の総司令官・【
周瑜公瑾】と云う相手を、どう値踏みしていたか?である。
 時に
曹操53歳、周瑜は二廻りも下の33歳であった。ちなみに曹操が33歳の頃は、霊帝最後の治世年に当り、「西園の8校尉」の一人として中央政界の末席に、ようやく登場した時期である。翌年から始まる董卓の暴政に対しても、ただ遠吠えする事しか出来ず、自己勢力を掻き集める「雌伏の時期」を過していた。周囲には大先輩達・群雄が多数おり、〔貫禄負け〕して居た。人を惹き付け、人の上に立つなぞ凡そ考えられず、人間が練り上がっていたとは、とても言えぬ”若僧”・”青二歳”に過ぎ無かった。時代状況は激変しているが、33は33である。ーーそうした己の過去に照らしてみて、曹操は周瑜をどう評価してたのか?評価して居無かったのか?〔敵を知り、己を知れば、百戦危うからず〕である
 この点に関しては、どうも曹操は確たる情報を、その直前まで掴んで居無かった様である。2代・孫策の頃、曹操は孫策や弟達・その一族周辺に対しては懇ろな懐柔策を施したが、その折、周瑜への対応はゼロであった。詰り他の家臣と同様に、一介の臣下としてしか見て居無かったと云う証左である。だが此処へ来て、俄に周瑜の存在がクローズアップされて来た。そこで赤壁戦の僅か2・3ヶ月前になって急遽、様子を探らせている。但しその折の密命として、あわよくば自陣営に誘い込める人物との観方をして居たフシが窺える。その辺の事情が、『
正史・蒋幹伝』に記載されている。
曹公は、周瑜が年若いのに優れた才能を持っていると聞くと、人を遣って説きつければ、その心を動かす事が出来ると考えて、密かに揚州の役所に命令を下し、九江の蒋幹を遣って周瑜と会わせた。』 ーー九江は柴桑の直ぐ東隣りの(北岸の)町である。少し南下すれば番卩陽に着く。故に恐らく、時期は周瑜が衆議にも出席せず、番卩陽に籠って水軍演習や情報収集に明け暮れていた頃であろう。曹操は既に江陵を占拠していて、呉を併呑しようとの野望を燃やして居た。
蒋幹は、周瑜とは竹馬の友の間柄であったらしい。それ迄は在野の名士として呉政権にも出仕しておらず、この時曹操に採用されたものである。『蒋幹は、立居振舞いが堂々としており、長江淮水一帯で並ぶ者も無く、誰も彼の弁舌に受け答え出来る者は無かった。』・・・・蒋幹は密命を受けると、私的旅行の途中と称し布の衣(無官の者の服装)に葛巾(粗末な被り物)を着けて、周瑜を其の陣営に訪ねた。周瑜は蒋幹の来訪を告げられると、直ぐピンと来た。先ず幕舎の外で、突っ立った儘、軽くジャブを出した。

「子翼君、誠に御苦労様な事ですな。遙か江湖を越えて、曹氏の為に遊説家となって来られたのですか。」
ーーギクッ!いきなり是れである。些か慌てて蒋幹も応酬する。

「私は足下とは同州の生まれで、長らくお目に掛かる事も御座いませんでしたが、遙かに高い評判と御勲功とをお聞きし、久闊を叙し、合わせて御様子を拝見したいと、わざわざ遣って参りました。然るに遊説家だなどと仰られるのは、ひどい邪推では御座いませんか。」 周瑜は尚も、やんわりと釘を刺す。
「私は〔キ〕や師曠しこうには及ばぬまでもことを聴き音楽を賞味すればそれが正統な音楽であるかどうか識別できる力は持って居ます」

そう言ってから中へ招き入れ、酒食を振舞った。衆目の中で、密議には応じないと宣言して措く事によって、あらぬ憶測を生まぬ為の配慮であった。これでは誘降の話など切り出せない。周瑜も曹操側の事など、一切口にしない。もっぱら当り障りの無い、昔話に時を費やし食事を終えた。
「私には今、秘密を要する用事も在りますので、一先ず旅館にお帰り下さい。用事が済みましたら、もう一度、私の方からお迎えに上がります。」

3日後、周瑜は蒋幹を招いた。連れ添って軍営の中を見て廻り、更には倉庫の軍用物資や兵器まで見せたのである。充実し切っている。《こりゃ、すっかり腹の内を見透かされているわい・・・!》
たっぷり時間をかけた巡察が終わり、戻ってみると超豪華版の宴席が設けられていた。そして宴の合間には次々と、周瑜が孫策・孫権2代から下賜された従者や服飾や珍宝などが、これでもかと謂わんばかりに披露された。
男子たる者、世に処するに際して、自分をよく知って下さる主君に巡り会い、表面的には君臣の関係に在っても、実際には肉親と変らぬ恩義を結び、申し述べる意見や計り事は受け入れられ実行に移されて、幸いも禍いも主君と一体になって承けると云う関係に在るのであれば、たとえ蘇秦や張儀がもう一度生まれ、麗食其(れいいき)が再び世に出て、私に呉を棄てるように説いたとしても、やはり私は彼等の背を撫でて、その好意に感謝しつつもその言う処は退けたであろう。ましてや足下の様な若輩に、私の心を動かす事がどうして出来ましょうや。
蒋幹はただ笑うばかりで、結局、何も言わなかった。
《−−参った・・・・!!》
こちらの腹の裡は先刻承知で、旧友に恥を掻かせぬ様、好意から来て呉れたものとして厚遇した上で、結局、肝腎な点ははぐらかされてしまう。その上、ただで帰らしては立場も無いだろうからと、見せてもよい軍の機密は手土産に持たせてやる・・・・心憎いばかりの配慮であった。これだと友情にもヒビが入らない。高飛車に相手を遣り込めるのでは無く、礼を尽くしながらも己を曲げる事はしない。−−これこそ、会った人の心に沁みて酔わせてしまう〔芳醇の酒〕の魅力であろう・・・・。
蒋幹は旅を終えると、曹操の前でも周瑜を絶讃した。
周瑜公瑾には大きな度量と、高い精神的風貌とが備わっております。言葉に拠って孫権との間を割く事など、出来よう筈も御座いませぬ!
是れを聴いた曹操が、敵の総司令官をどう判断したかは述べる迄もないであろう。ーーだが、この時期に於いて、誘降を画策したのが事実だとすれば、曹操は些か周瑜公瑾と云う人間を、歳が若いと云うだけで、やや甘く観て居た事になる・・・・
総括して言えば、結局、曹操は
異文化・異なる風土に育まれた人間を理解する事が出来ず、そのカルチャーの壁に野望を阻止された
・・・・と謂う事であろう。たとえ陸地続きだったとは謂え、2千年前の時代に於いては、黄河(中原)と長江(江表)は、互いがカルチャーの異なる〔外国〕同士であったのだ。その視点抜きには三国志は語れ無い。
ちなみに公瑾の「瑾」は、純粋に輝く至宝の玉の意である。
その翌日、周瑜の元に密使が戻った。「首尾や如何に?」
緊迫の一瞬である。その返答1つに、呉の運命が懸かっていると言ってもよい。ゴクリと咽を鳴らす黄蓋。もう1人の程普も思わず身を乗り出す。幕舎に在るのは此の3人のみ。賛軍校尉(総参謀長格)の魯粛は、未だ此の段階では蚊帳の外に置かれて居る。劉備に情報が漏れる懸念無しとは言い切れぬ・・・・。
「上々で御座います!」 周瑜と黄蓋、そして程普の顔がパッと明るんだ。 「ウム、して其の口上は!?」
「返書は御座いませぬ。その口上を申し上げます。」 「聴こう。」 その密使の役を演じたのが誰なのか、史書には名前が無い。但
”伝”を立てられるクラスの人物では無かった事だけは知れる。
お前達が詐りを働くのではないかと云う事だけが心配なのだ。黄蓋がもし本当に言う通りにしたならば、是れ迄に例も無い程の爵位と恩賞とを授けよう・・・・これが、その口上で御座います。」
「やり申したな!」右都督の程普が、両の手でギュッと周瑜の手を握って、その喜びを表わした。左都督の周瑜もガッチリと握り返す。傍らの黄蓋も会心の笑みを溢す。
「大役、御苦労であったな。後ほど魏軍の陣構えなど、見聞して来た処を詳しく訊きたい。先ずは退がって控えて居てくれ。」
密使役の人物が退出すると、周瑜は黄蓋に言った。
「先ずは兆条。直ちに”仕込み”に入って呉れ。」
「いさい承知!!必要な物は全て調えて御座います。あとは唯、艤装するのみにて準備は完了致します。」
「嘉き日哉!しっかり頼む!」 白髪白髭同志が、互いに35年来の万感の思いを込めて手を取り合った。2人合わせれば、その齢は130にも成る。
「我ら譜代の名に誓けて、必ず成功させまする!」

決行は夜であったとも昼であったとも、史書には記されていない。だが、夜であった可能性の方が高いであろう。 −−1つには、暗ければ、曹操側が黄蓋である事を確認する為に、昼間よりも船団を一段と接近させざるを得無い。もう1つには、炎の勢い具合・事の成否がより一層視認し易い事。更には、暗夜に燃え盛る火焔が強調され、心理的効果・敵のパニックがより大きい事が挙げられる。そして加うるに、日没後の方が大気温の変化が大きく大風が吹きやすい点もあろう。『黄蓋が松明を云々・・・・』とある事からしても、〔夜襲〕であったに違い無い。
黄蓋の担当は頭初から、本軍”先鋒”である。艦隊の先鋒に位置して居れば動きは自在である。他の艦隊への、余計な気を使わなくて済む。予てから「含み」を持たせて措いた、総司令官・周瑜の作戦配備であった。

刻一刻・・・・運命の時が迫る。男達の野望と時代を画する三国志の天王山ーー

赤壁の大シンフォニーは、
  終に其のクライマックスへと到達する!!
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