【第149節】
我々の前に立ちはだかる《赤壁の10大謎宮》・・・・
ヤTネ【地】ヤUネ【勝利】ヤVネ【風】ヤWネ【火】
ヤXネ【鎖】ヤYネ【敗北】ヤZネ【影】ヤ[ネ【走】
ヤ\ネ【病】ヤ]ネ【亡】
こんなにも多くの疑問が在ると、思わずメゲそうになってしまう。(実際、この節は随分往生しました)だが然し、筆者つらつら慮みた処、確かに謎宮は10在るが、そもそも根本の謎は唯1つである事に気付いたのである。
詰り、その唯一の〔根本命題〕こそが、数々の疑問を幻出させていた事に思い至ったのである。だとすれば、10の謎宮の扉には、全てに共通したマスターキイが隠されて
いるに違い無い。→→と云う事は、我々が其の万能鍵(マスターキイ)さえ見つければ、10の謎宮は一挙に解き放たれ、時の旅人は 歴史の冒険を続ける事が出来るようになる筈である・・・・
そこで今いちど原点の戻って、我々にとっての最大の疑問は何だったかを思い出してみると、其れは、
【絶対に負ける筈の無い曹操軍80万が、なぜ僅か3万の周瑜軍に敗れ去ったのか!?】であった。従って、その観点だけに絞り込んで、改めて赤壁戦を徹底的に分析してみると、其処には・・・史実の結果から推断し得る、或る1つの総括が現われて来るのである。
ーそれは、《曹操の急ぎ過ぎ》と云う蹉跌である!!
何も無理して、その時点(長江以北の荊州占領完了時)で、決戦を仕掛ける必要など何処にも無かった・・・・と、結果論的には言えるのである。 軍師の【賈言羽】は進言している。
『ーーこの際、焦って長江を下って呉を討つなどとは為さらずとも荊州の豊かさを利用しつつ経済力を高め、軍吏や兵士を労い、
じっくりと民の心を掴みさえされれば、軍事力を行使する迄も無く呉は頭を下げて帰順致すでありましょう。』彼だけでは無かった。幾人もの重臣が進言している。至言である。1〜2年かけて、じっくり荊州経営を安定させてから、水陸全面に於いて、(特に陸上戦に重きを措いて)健康な100万の大軍を以って「さあ、どうだ!!」とばかりに行ってこそ曹操らしいし、そうすべきであった。そうすれば、敗北は百パーセント有り得無い。たとえ局地戦で1部敗れる事があったとしても、大勢には全く影響の無い万全磐石の態勢が仕上がっている筈である。1〜2年の間、曹操は只待ってさえ居れば呉は崩壊するしか無かったのである・・・・。
その一方、攻められる側の周瑜の立場から言えば、此の時点で戦わなければ、もう2度と勝機は巡って来無い!と云う事であった。是が否でも戦いに引きずり込まねばならなかった。そして周瑜の勝利とは、「曹操本人の首を挙げる事」以外には在り得無かった。少なくとも「曹操本人を敗走させる事」でなければそれは勝利とは言い難いのであった。何故なら、トカゲの尻尾切りでは忽ち復活してしまわれ、たった1度のチャンスを逃してしまった事になるからである。−−詰り、曹操が(江陵に)どっかりと腰を落ち着けてしまわない様な、曹操本人が直接襲い掛かって来る様な、魅惑的な状況を創り続ける事が不可欠であった。具体的には、「触れなば落ちん」状態を曹操に意識させる事=
《降伏寸前であると云う情報》を流し続けて措く事が、周瑜の大戦略の根本であらねばならぬ筈である。 幸か不幸か、演技する必要は無かった。現実に呉の帷幕の中は、正に降伏論一色の状況であった。事実がそうで在るのだから、是れは説得力が有り、魅力的である。周瑜は、現実を逆手に取りさえすれば良かったのである。但し、君主・孫権にだけは演技し続けて措いて貰わねばならない。間違っても、早まって〔決定〕を表に現わして貰っては困るのだ。決断(本心)を早く表明すればする程、情報漏れの危険性が増大してしまうからであった。敵の間諜が入り込んでいる事は勿論、自陣営にも何喰わぬ顔で敵に通じ、保身を図ろうとする者が居ても不可しく無い状況である。
情報こそが、互いの死命を制する鍵であった。
【情報戦】=情報操作・情報管理こそが勝敗の帰趨に直結する・・と云う事は当然、早い段階で、孫権・周瑜の両者による密議が持たれ、〔国家の意思〕は決定されていた事になる。そして其の場では、周瑜の必勝パターンが説明された筈だ。そして全ては其の早い時点で「了承済み」であらねばならない。だからこそ、この重大時に、総司令官である周瑜は大本営に居無くてもよかった。いや居てはならなかったのだ。居れば却って議論に巻き込まれ、結論を表明せざるを得無い状況にも成り兼ねなかったのだ。
常識では、こんな緊急事態の真っ只中、国の存亡を論ずる場に実力bPであり総司令官である人物が居無いなど、有り得る事ではない。又、欠席し続けなければならぬ程に重要な理由など、他に有ろう筈も無いではないか。即ち、万事了解済みの上、「情報漏れ」を防ぐ為にこそ、周瑜は柴桑には不在で、直ぐ近くの番卩陽湖に待機して居たと観るべきではないだろうか?
又、四面楚歌の会議には是非居て欲しい筈の寵臣・魯粛を手元に置いて措かず、荊州への派遣を認めたのも、同じ背景が在ったと観れば、頷ける。若き君主・孫権は、周瑜からゴーサインが出る迄、只管だんまりを決め込んで、優柔不断な君主ぶりを、独り演じ続けて居れば良いのである。
−−詰り、曹操は、周瑜の遠大な戦略に嵌められた・・・・のではないのか!?・・・・じっくり行くべき処を、降伏させ得ると思い込まされたばかりに、虚仮脅し用の兵数差を頼みに、脅すだけなら事足りると踏んで、つい一歩前へと吊り込まれてしまったのだ。
曹操軍の実態は、病人だらけと無気力兵士と云う、不完全極まり無い状況であったろう。虚仮脅しとしてしか使い物にならぬ単に頭数だけを揃えた軍容であったと想われる。
もし是れが、陸路進攻するしか無い地勢であったなら、曹操は動かなかったに違い無い。処が幸か不幸か、兵員は全く歩かずに済む、『船』での移動が可能な戦形に在った。−−さながら曹操艦隊は病院船団であったろうが、とにかく数だけは80万を呼号し得る。兵士では無く、大袈裟に言えば〔病人50万〕であったと観てよいだろう。それでも尚、敢えて曹操を進軍させたのは、
《戦わずして勝つ!》・《呉は降伏して来る!》との「読み」をしたからである筈だ。入って来る情報の全ての悉くが、その方向を示していた。・・・・故に曹操の基本戦術を断定するに呉の降伏を前提にしていた と観ても良いのではなかろうか?ーー結論的に言おう。曹操、赤壁への軍容は・・・・「戦闘用の陣立て」では無く、降伏勧告を目的とした《示威・恫喝用の陣立て》で臨んだ。臨まざるを得無かった。一方、周瑜の赤壁戦は、唯一、戦術的に拮抗し得る
《水軍戦による、曹操本人の討ち取り》であった。
・・・と観れば、全ての疑問に納得がつく。根本的な謎が、一挙に氷解するのだ!!
では、この事が正当か否か、本当にそう言えるのか??はた又、マスターキイと成り得るか否かを検証してみよう。即ち、10の謎宮の扉に、この視点・観点の鍵を差し込んでみた時、果して謎宮の扉は、整合性を以って、全てに共通して開くのかどうか??
ーー試みに、10の疑問の1つずつに、この鍵を差し入れていってみよう。
第T謎宮ヤーー曹操が想定した「会戦地点」は一体”何処”であったのか?・・・・最も単純明快な仮説は、
「呉都奪取説」であろう。だが此の仮説は余りにも非現実的に過ぎよう。柴桑に呉軍が陣取っている事実を無視している。次には巷間、最も有力視されて来ている「柴桑襲撃説」である。だが然し(既述した如く)呉軍が長江上に引き払ってしまえば、結局曹操軍にとっては苦労ばかり多く何のメリットも無い、徒労だけに終わるそれ処か寧ろ、補給線を寸断される危険性の残る危険極まり無い行軍になってしまう。・・・・と云う事は、やはり最初から曹操は「江陵」と「柴桑」の中間地点の何処彼に進出地点を想定していた・・・・と云う事に落ち着く。然も曹操には、疫病にやられた弱兵を抱えた不安が有った。万が一の場合を考えれば、陸路を退却し得る地点を選ぶであろう・・・・だが、待てよ。こう観て来ると、その地点は果して《会戦》を想定したものであったろうか?余りにも中途半端で、攻撃意図が薄弱ではないか?やや、お座成りとすら観える。確かに《進出拠点》ではあるが、〈会戦地点〉に選んだとは言い切れぬではないか?何故か?ーーそれは『戦わずして降伏を引き出す為の威嚇戦術』・進攻意図だけを示した恫喝用の選択に過ぎなかったからではないか・・・・と云う我々の推論を排除しない。
第U謎宮ヤーー断然不利な兵力差であるにも拘らず、なぜ周瑜は自信満々で居られたのか?事前に抱いていた、〔周瑜必勝の論拠〕は何か?
まさか周瑜とも在ろう者が、「呉国魂」などと云う根性論だけで
勝利を確信していたなどは論外である。では彼は、国論を引っくり返した時の弁舌通りに、呉軍得意の水軍戦に絶対の自信を抱いていたと言い切ってよいものであろうか?あの発言の中には幾分かの真実は含まれているものの、主眼は士気の鼓舞であり誇張があったと観るべきであろう。公式発言通り、確かに1対1の船戦さであれば技量の差は歴然だろうし、3度や4度の対戦では必勝を期せよう。だが艦艇数の物量で言えば、圧倒的な大差である。 敵が消耗戦に持ち込んで来れば、如何に呉水軍と雖も、いずれ劣敗に追い込まれるだろう。その物量差は、とても技量でカバーし切れる範囲の差ではない。まともに戦えば消耗戦に巻き込まれ、必勝どころか必敗すると想われる。それを認識できぬ周瑜ではあるまい。では、それでも尚、周瑜は不抜の確信・必勝の自信を持ち得たのか?
ーー答えは、矢張《情報・諜報》のキイに関わって来そうである。何故なら、通常であれば周瑜と雖も、まともには水軍戦でも勝てぬ。勝てるのは通常では無いからである。「異常」だからこそ必ず勝てるのだ。・・・・詰り周瑜は、敵の異常事態を見切っていたからこそ、必勝を確信し得た、と云う事ではないのかーーそして其の異常事態とは・・・・謂わずも哉の【疫病の大発生】である!
周瑜は早い段階から、実戦以上に「情報戦」にこそ、死力を尽したと云う事になる。そして結論を出すに充分な「情報収集」を果す
・・・素早さと内容の的確さ、更には其の情報量の豊かさに基づいて、最終判定を決した筈である。即ち、曹操軍の悲惨な内実・戦闘不能な実態を察知し得たからこそ、《よし、やれる!》と先ず、見通しが立てられたに違い無い。
ーー曹操軍兵士は、ほぼ全てが重病人である。
ーー無理矢理に組み込まれたばかりの荊州水軍の士気は、至って劣弱である・・・・これ等の情報を確認した上で、周瑜は更に、時局を数年に渡るスパンで考察する。すると其処には必然的に、今回が最大にして最後のチャンスである事が自覚される。
《此の機を逃してはならぬ!》是が非でも曹操に進軍を続行させ敵全軍を戦場に誘き出す事ーー其れが勝利の必要絶対条件である事実が浮上して来る・・・・
《勝機は今しか無い!!》 《今なら、戦いさえすれば勝てる!》反対に、じっくり構えられたら最期である。以後は、神と言えども手の下し様が無くなる。
そこで大問題となるのは・・・・「疫病」が曹操軍を襲う事を、周瑜はいつの時点で知り得たか?である。少なくとも其の予知・予見が早い段階で為されて居なくては、今迄の推論は根本から崩れ去る事となる。この事は、【第\の謎宮】と地下で繋がっている。即ち、当時の知識として、疫病は予見可能なものであったのか?−−との問題と密接に関連している。
パスツールがヨーロッパで疫病の「自然発生説」を完全否定し、病原菌の因る伝染・感染を証明するのは1857年、三国時代より1600年も後の事である。であれば当然、当時の周瑜に確たる医学的知識は無かったと云う事になる。では周瑜が疫病の大発生を予見する事は不可能であったのか?→→筆者の見解は否!である。周瑜は予見できた。予知し得たからこそ、早い段階で必勝の確信を持ったのだと観る。では、どうやって予見したのか?・・・やはり【情報】に拠ってである。但し、それは科学的根拠に基づいた医学知識に因る予知・予見では無かった。
〔経験律に拠る事実の集積〕=平たく言えば〔生活の智慧〕・〔地域の常識〕を徹底的に調べ上げ、検証する事に拠り初めて可能となる一種の《統計学に裏打ちされた洞察=推論・予見》の賜物であった。科学的・医学的知識は無くとも、地域に起きて来た疫病の情報を丹念に集積して分析すれば、其処には一定の結論が浮び上がって来るー→北方から来た者達が必ず罹患する悪疫の存在・・・・特に、秋〜冬にかけて猛威を振るう荊州の風土病ーーそうした日常体験が無数に既存していた。謂わば、荊州入りする者達への「洗礼」である。そして其の症例の厖大さは、周瑜をして確信させるだけの発生率であったと想われる。 況してや曹操の将兵達は、800キロもの道程を強行軍で押し進んで来ており、体力の消耗・疲弊は著しく、大きく異なる環境への不適応に肉体が拒絶反応を来たすー→だから風土病の洗礼をもろに浴びるであろう・・・・《間違いは無い!》その豊かな情報収集から導き出された分析の結論は、周瑜の洞察の中で確信となり、必勝を裏付ける予見となり、戦略の基盤となっていった。・・・・そして9月10月、11月と時が経つに連れ予兆・前兆が現われ、ついには事実となって報告された。
第V謎宮ヤ
東風 周郎が与に便ぜずんば 銅雀春深くして ニ喬を鎖さん
・・・もし東南の風が吹かなかったら周瑜は破れ、その愛妻姉妹は曹操の妾にされ、銅雀台に囲われていた事であろう・・・・
中国大陸に吹く、冬の季節風に逆らう「東南の風」は、最初から周瑜の必勝パターンに組み込まれていたものなのか?それとも、全くの偶然が齎した僥倖であったのか? ー→筆者の見解は、
そのどちらでも無い・・・・現代の気象データから説明すると今でも赤壁の辺りは冬の間、常に北西のモンスーンが吹く。だが稀に、低気圧の発生に伴い、東南の風に変る事は有るそうだ。又、大別山脈の裏側に相当する地域である為、一種の「巻き込み現象」で、局地的に東南風が起こる可能性は有り得る。更には、水と土の耐熱比率の差によって無風好天が続いた場合にも発生するそうである。だが、この〔気紛れ風〕の予報は、現代でも直前になるまで正確には出来無いとの事である。
だとすれば矢張り、当時は「当て」にすべき確率の高さでは無いと云う事になる。つまり周瑜は、風向きなど初めから当てにはして居無かったのだ。当てに出来る程の確率では無かったのである。無論、黄蓋にニセ投降の決行期日を明記させなかったからには幾日間は期待して様子を観ていた事は確かだが、これはオマケである。いずれにせよ、東南の風は飽くまで不確定要素であり、戦術の根幹に据えるべきものでは無かった。第一、風上に拘る
ならば、自分の方から風上へ向かえば良いではないか。相手は数万艘を超える大船団である。其れが1ヶ所に集結して居るとなれば、岸から沖に向かって、相当の艦船群が出っ張って居た筈である。上流側に廻り込めば、火の手はおのずから、出っ張っている敵艦船に吹き付るではないか・・・・寧ろ重大なのは風向きでは無く、【第W謎宮】に関わる〔火攻めの効果〕についての考察であろう。
第W謎宮ヤ
僅か数十隻の火船(小型快速船)に因る火攻め攻撃=突入だけで、大小数万艘の敵艦隊が一瞬にして業火に包まれ、全滅するものであろうか?この疑問を考える場合、無視する事の出来無い記述が『正史・周瑜伝』に掲載されている。それは戦後に曹操が孫権に送った書簡(孫権と周瑜の仲を裂く為に送り付けられたものとされる)の中の述懐部分である。
『赤壁の戦役では、たまたま疫病が蔓延した為、
私は船ヲ焼キテ自ズカラ退イタのであるが、
周瑜には是れ程までの虚名を得させてしまった。』
ーーこれを単に、曹操の負け惜しみと観るか、それとも幾分かの真実を含んでいると観るか?
「むざむざ水軍を敵に渡す位なら、全て焼き払え!敵には1隻の船も呉れてはならん!」
曹操なら言い兼ねない。 今後の事を想えば、呉の水軍がこれ以上強大になっては、非常にマズイ。又、火力が猛威を振るえば敵船団も直ぐには揚陸できなくなり、曹操本陣にとっても退却の時間稼ぎになる。「此方からも火を放て!」この捨てセリフ的命令は、有り得ぬ事では無い。『船ヲ焼キテ自ズカラ退ク』である。
敵味方の両方から火を放たれれば、大艦隊と雖ども、瞬く間に天を焦がして焼滅したであろう。
『烈火、西シテ魏帝ノ旗ヲ焚ク』・『烈火、天ニ張リ、雲海ヲ照ラス』事に成ったに違い無い。
そもそも曹操の出撃の企図は、相手の降伏を導き出す事にあり、対陣中に寝返りの続出を狙っての陣立てであった・・・とするのが筆者の見解である。
ーー過去に於いて、官渡の決戦でも、敵の重臣や敵将軍の投降が戦局を決した実績を持っているだけに、 つい自分の都合の
好い方向に判断が傾いてしまった。
《このまま居れば、投降者の雪崩れ現象が起きるに違い無い。》なまじ多くの「体験律」を所持する故の、大曹操の死角・盲点が其処には在った。曹操も矢張り人の子であったのだ。然も其の思惑通り、黄蓋の寝返りが演出され、火攻めが敢行される。
《いかん!矢張り、その手は通用しなかったか!》
スッパリ諦めた曹操も火を放つ・・・・そして其の場合にこそ、この火攻めの効果は甚大で在り得る。 だが、火攻め自体は一つのキッカケに過ぎ無かった。ーー畢竟、赤壁決戦の帰趨は、周瑜が攻撃を下命した其の瞬間を以って決していたのである。曹操は攻撃された瞬間を以って、即座に退却を決断したのである。何故なら、曹操は戦う為に出撃したのでは無かったのだ。
《戦わずして勝つ!戦術》に拠る《恫喝・威嚇の為だけの陣立て》は、周瑜に見透かされて失敗したのである。
第X謎宮ヤーー何故、〔連環〕なのか?曹操はどうして、艦隊を鎖で連結したのであろうか?是れは古来より言い伝えられている説であるが、然し問題は、是れが事実であったかどうかである。 『正史・周瑜伝』では、黄蓋の言葉の中に
『只今、敵は多勢で味方は少数であり、持久戦に入るのは不利で御座います。但、観てみまするに、曹操の軍の船艦は、互いに船首と船尾とが接触し合った状態にありますから、焼き打ちを掛ければ敗走させる事が出来ます。』
・・・・と云う記述になっているだけであり、鎖で繋いであるとは、他のどこにも記されては居無いのである。
常識的には、鎖で艦船同士を繋ぐなどと云う愚かな策を、曹操が採用する筈は無いと見做すのが妥当であろう。但し大小数万艘が1ヶ所に繋留せれるとなれば、必然的に艦船がひしめき合い、水面をびっしり埋め尽くす様な状態に為らざるを得まい。
然し攻撃意志が無いのであれば、その陣形で一向に構わない。それを「三国志演義」が〔連環の計〕として創作(捏造)したものが、史実として広まってしまったのである。その理由として、北来の将兵が”激しい船酔い”に悩まされたからだとは、正に噴飯モノである。長江中流域は、そんな暴れ川では無い。言葉としてはカッコイイが、連環の計などと云うものは存在しなかったのである。
第Y謎宮ヤーー曹操軍が1戦にも及ばず、余りにもアッサリと敗走したのは何故か?そも、曹操に不退転の気持は有ったのか?・・・是れは、この10大謎宮のメインテーマであり虚々実々が渦巻く赤壁戦の根幹を成す、最大のキイポイントでもある。だがもう既に、この謎宮の扉は開かれたと言ってよかろう。曹操は、「実戦」では無く、《虚戦》を挑んだのであった。圧倒的優位な兵数差だけを頼りに、呉の降伏を誘い出す為の【恫喝・威嚇】戦術を採るしか方策は無かったのである。それ程迄に【疫病】は猛威を振るい、曹操軍を弱体化させていたのであり、とてもまともに戦える状態では無かった・・・・
だから最早、”張子の虎作戦”に賭けて試るしか手は無かったのである。であるが故に、周瑜が《実戦》を仕掛けて来た瞬間を以って、曹操の「虚戦」は崩れ去り、撤退の1文字しか残って居無かったのである。無論、曹操は此の《脅し作戦》が通用しなかった場合の措置も構じてあったーー周瑜が実戦を仕掛けて来るのは水軍戦である筈だから、素早い撤退が可能な陸上に本陣を構えサッと陸路を退却する・・・・もともと戦える状態では無かったのだから見栄や外聞には拘らず、兎に角サッサと戦場を放棄する・・・
第Z謎宮ヤーー劉備(孔明)は果して、軍として赤壁戦に参加したのであろうか?
『正史・武帝紀(曹操伝)』には『公ハ赤壁ニ到着シ、劉備ト戦ッタガ負ケ戦サトナッタ。』とあり、
又『先主(劉備)伝』には『孫権は周瑜・程普ら水軍数万を送って、先主と力を合わせ、曹公と赤壁に於いて戦い、大いに之を打ち破って、其の軍船を燃やした。先主と呉軍は水陸平行して進み、追撃して南郡に到着した。』
『諸葛亮伝』には『孫権は大いに喜び、直ちに周瑜・程普・魯粛ら水軍3万を派遣し、諸葛亮に付いて先主の元へ行かせ、力を合わせて曹公を防がせた。曹公は赤壁で敗北し、軍勢を引き上げて業卩に帰った。』
これ等の記述だけを読めば、恰も赤壁戦は劉備や孔明が主役で大活躍した事となる・・・・だがコレは、陳寿のオマケである。その背景については《第138節・禁断の聖域=正史の謎を解明せよ》で詳述した如く蜀の遺臣であった陳寿の筆は思わず知らずの裡に些かオーバーな書き方となっている、と観た方が冷静であろうそれに対し、最も肝腎な『周楡伝』の中では、赤壁戦の後に(南郡に立て籠もった曹操軍を) 『劉備は周瑜らと共に更に追い打ちを掛け』としてしか出て来ない。
又、『江表伝』ともなるとーー
『劉備は内心では周瑜が必ずしも北軍を撃破できるとは信じて居無かった。だからアヤフヤな位置取りで後方に居り、1千の兵を率いて関羽・張飛と共に動かず、思い切って周瑜に関わろうとしなかった。つまり進退いずれにも対応し得る態度を取ったのである。』 と云う事になっている。この江表伝は又、その前の記述で
『周瑜は劉備に手出し無用を言い渡した』 とも記している。まあ、
どちらかと言えば、「江表伝」の方がよりリアルであるから、採用したくなる。「正史」では単に(オマケ的に)”力を合わせた”だけで具体的には何も書かれて居無いのも同然である。だから本書は劉備・孔明の出番は赤壁戦の直後からだとするしか無かろう。
さて、ここで筆者は”別の問題”に突き当たって困る。劉備に関連する或る人物を、この時点で登場させていいものかどうか判断に迷うからである。何故なら其の男の行動は、正史を含めた史書の何処にもハッキリとは記されて居無いからである。但し、赤壁戦の決着を見届けてから帰国した事だけは記されている。その男は身長140センチの超小男で、曹操に『怨ミヲ抱イタ』まま帰国する訳にもゆかず、此の地に留まって居る。だが果して其の小男が荊州滞在中に、劉備に〔国を売る〕為の会見・対面を済ませたのかどうかがハッキリしない。史書の記し方だけでは、どうも直接会っては居無い様に思えてならない・・・・然し、売国と云う命懸けの行動を推進する時に、果して相手を見定める事も無く、噂に拠る人物評と曹操憎しの一念とだけで、本当に決断し得るものかどうか?矢張り、万難を排してでも接触を果したのではないのか?だとすれば一体、いつ何処で接触したとするのが最も合理的か?・・・・もうお判りであろう。 あの”筋金入りの売国奴”こと、【張松】の存在である。
『曹公は此のとき既に荊州を平定し、先主を敗走させていたので、もう張松を歯牙にも掛け無かった。張松は此のため曹操に怨みを抱いた。 ちょうど其の頃、曹公の軍は赤壁で敗北を喫した上に、流行病で死者が続出していた。張松は帰還すると曹公の悪口を言い、劉璋に絶交を勧め、その際に劉璋に進言して、「劉豫州は使君の親類ですぞ。彼と結託なさるべきです」と言った。』 《劉璋伝》
『張松は荊州で曹公と会見して帰って来ると、劉璋に、曹公と絶交し先主と結ぶよう勧めた。劉璋が「使者は誰が好いか?」と言うと、張松は法正を推薦した。法正は辞退したが已むを得ず赴いた。法正は帰って来ると張松に、先主が優れた武略の持主である事を説明し、密かに相談して計画を同じくし、共に君主として奉戴せんと願ったが、未まだ機会が無かった。』 《法正伝》
ーーで・・・筆者は無責任であるが、張松は赤壁戦の前に劉備と
”何処かで”会見を果したと云う想定で筆を進める事とする。
第[謎宮ヤーー曹操は、巷間伝えられる如く、赤壁戦で〔大敗〕したのであろうか?
答えはイエスでありノーでもある。観方による・・・としか言い様が無い。勝ったとは絶対に言えない。が、負けるには負けたが、翌年には何喰わぬ体で、 呉への進攻を敢行するなど、然程にダメージを感じさせない程度の負け戦さである。但し『周瑜伝』では、『人馬が焼死・溺死する者は夥しい数にのぼる』と記され、『江表伝』は『北軍は潰滅した』と記している。だがその反面、我々が知っている魏の5星将には1人の負傷者とて出て居無い。又、「江陵」には【曹仁】の大軍が無傷で控えていた。直後に攻め寄せた敵の猛追を、ピタリと阻止してしまう様な大軍であった。どうやら余り堪えて居無い風にも思われる。 多分、戦死したのは、艦艇に乗っていた、疫病には免疫の有った「荊州兵」が殆んど
ではなかったのではないだろうか?却って罹患してしまた北来の曹操兵達は、後方基地(巴丘あたり)で隔離され、直接には参戦して居無かった事が幸いして、やがて回復・復活したのかも知れ無い
ーー但し、是れ以後の史実を観た場合・・・・【曹操】は2度と再び其の生涯に於いて、〔大決戦〕と呼べる様なハルマゲドン(最終決戦)をし無くなっているのである。どころか、劉備に「蜀」の建国を許し、「呉」の安定を許し、終には天下統一の野望は夢と化してしまったのである。そうした意味では、紛れも無く《大敗》したのである!蓋し、この赤壁決戦の最大の影響は・・・・敗戦の被害よりも、余名を数える老境に差し掛かった、曹操自身の精神に復活不能な迄の大ダメージを与えた事にこそ重大な意味が出て来るのである・・・・
第\謎宮ヤーー周瑜は疫病を予知・予見し、彼の必勝要因として、予め戦術の中に読み込も事は可能であったのか?・・・・この疑問は、既に【第U謎宮】と地下で連結していたのであるから、解決済みである。詰り、この問題こそが、赤壁戦のキイポイントであり、呉軍大勝の最大の理由であったのだ。
たゆまぬ周瑜の情報収集と分析こそが、日常普段の〔体験律〕から、危機打開の糸口を予見させたのであった。曹操の野望を破るのは、一に、この周瑜の不撓の洞察だったのである。
第]謎宮ヤーー曹操は何故、弱体軍と認識し
つつ、赤壁戦へと強行出撃して行ったのか?然も、自分自身が全軍を率いて乗り出して行った。
答えは既に出ている・・・・「降伏を強いる恫喝の為」であった。実際、この直前の荊州平定の場合でも、曹操が本当に軍を進攻させた時になって初めて、慌てて”降表”が届けられたのだ。況してや国論不一致の呉の場合に於いては尚の事、実力行使をチラつかせる必要が大であったのだ。
日頃いくら威勢の好い事を叫んで居ても、いざ現実に100万の敵軍が己の足元に近付いて来れば、「君子豹変す」に決まっている。たとえ1部の強硬論者に引き摺られて出陣したとしても、直に自分の眼で魏軍の威容を目撃すれば、《勝てっこない!》と観念し、投降・寝返りして来る者達が出て来る筈である。取り合えずは1人でよい。1人出さえすれば、後は雪崩れ現象的に呉軍の崩壊が起こる・・・・ジッと対峙して、呉軍を睨み付けてさえ居れば、事は成就するのである。
その場合、呉の者達により大きな恐怖心を与えるものとしては「曹操本人が直に乗り込んで来た!」と云うインパクトである。
《曹操は本気だ!抵抗すれば皆殺しにされるぞ!》と云う過去の記憶、そして曹操が親征した場合の絶対的不敗神話・必勝伝説が相手をビビらせる。何せ曹操の軍才は鬼神をも凌ぐだけの実績を誇り、畏敬されていた。 天下狭しと30有余年、百戦錬磨の英雄である。 1年前には何と、万里の長城さえ超えての親征を成し遂げた超人なのだ。人はそんな曹操を《神か魔か人か!》と畏れ讃えた。その男が100万の軍勢を率いて遣って来たのである!!・・・・《勝ち目は無い》
その最も有効なインパクトを敵に与える為にも、曹操はみずから出撃する必要があったのである。また更にはロマンチストである曹操の心の中には、覇者の思いとしても、みずからが呉の地に降り立つ事を夢想・念願して居たに違い無い。
ーーだが然し、此の世に唯1人だけ、別な感想を持つ男が居た。周瑜公瑾である。世の者が押し並べて曹操の”親征”を讃嘆する中、周瑜だけはクールであった。
《フン奴め、第2の”韓信”を畏れて居るな!》・・・・と、ズバリ曹操の弱点を看破して居たのである。【韓信】は前漢・高祖の大将軍で、独立軍団を率いて各地を転戦・平定し、建国最大の武勲を立てた。が余りにも強大と成った配下部将に、やがては己の地位を奪われるのではないか?と疑心暗鬼になった高祖(劉邦)によって粛清された。韓信に限らず、天下統一が果されるや否や、忠臣功臣達の大粛清の嵐が吹きまくる。創業者の不安が齎す冷酷・残忍さである。−−その創業者の不安が曹操には有る・・・・と見抜いて居たのである。
《いい年さげて御苦労な事だ!》万里の長城越えなどと云う辺地の討伐なぞは、部下にやらせて措けば済む事ではないか!50過ぎのジイサマが自分でやるべき事ではない・・・・いや曹操め、任せられないのだ!ーー曹操は是れまで常に、配下部将に単独で大軍を任せる事をして居無い。個々に分散して与え、合計として大軍を為して来ていた。必要な時には、必ず自身が大軍団を直接率いた。親征である。・・・詰り、部下が強大になる事を徹底的に排除していたのである。だとすれば、今度も必ず曹操は自分自身で乗り出して来る!だから首が狙える。
弱小の呉軍が大敵に勝つ方法は唯1つ・・・・
敵の総大将の首を討ち取る事!!
その願っても無い絶好のチャンスが巡って来たのだ!
ヤネヤーーと、以上、些か検証が長くなり過ぎてしまった。だが其のお蔭で、霧の彼方に霞んでいた赤壁戦の実相が大分見えて来た。少なくとも、荒唐無稽な方向だけには進まないで済む自制・抑制の効用は有りそうだ。 ・・・・・と云う事で、いよいよ世紀の大叙事詩を語る時が来たようだ。
魏呉双方、曹操・周瑜両者の思惑を乗せて、
軍船は長江の上下流から互いに、運命の地へと距離を縮め接近してゆく。
果して天地人は、いずれに傾いてゆくのか・・・・
さあ、いよいよ、三国志前半のクライマックス・
赤壁の大決戦へと時は向かう・・・!!
【第150節】 赤壁の大シンフォニー (緊迫のトレモロ) →へ