【第148節】
「柴桑」の野という野、丘という丘を埋め尽くす将と兵、兵、兵、
そして将と兵、兵、兵・・・・更に長江上に停泊している大小の船、船、船、又船、船、船・・・その数万の視線が、築かれた楼台上の唯1点を凝視していた。呉の建国史上かつて無い大セレモニーであった。マイクも映像も無い時代に、これだけの人数が心を1つにして、一斉に同じ行為を成し得る事と言えばーそれは、軍楽隊の伴奏に拠る「軍歌」と、号令に合わせる「鬨の声」であった。
先ず、誰もが幼い頃から慣れ親しんで来た、祖国に伝わる民謡が奏でられ、数万人の大合唱となる。”呉歌”である。母国に残して来た者達への愛が呼び醒まされ、自分達が同じ運命を共有する同胞である絆が再認識される。その郷愁を帯びた歌声の中、楼台に〔牙門旗〕が押し立てられ、其れが人の海の中を静々と進んでゆく。ちょうど歌声が終わる頃に、総司令官・周瑜の旗艦に掲揚される。・・・・こうして徐々に士気が高揚された時、人々の期待通り、楼台上に赤いマントが登場する。
「我が呉に生まれ呉の地に育ち、呉の全てを愛する兵士諸君!今、その愛する我が祖国は、奸賊・曹操めに蹂躙されようとしている。その思い上がった邪まな狙いを徹底的に撃ち砕き、叩き潰すのだ。我が呉国には、不屈な強者が揃っている事を思い知らせてやろうぞ。愛する者の為に戦おうぞ。私は必ず勝利する。
諸君等は必ず曹操を倒せる。正義は必ず勝つのだ。必勝の算は我が胸に在り!誇り高き呉の戦士達よ、我が朋輩よ、此処で共に誓い合おう!我が祖国に勝利を持ち帰る事を!必ずや奸賊・曹操を撃ち破って見せる事を!!」
遠い場所の兵達に、その声が届く筈も、その表情が見える筈も無かったが、誰の耳にも眼にも、大都督・周瑜公瑾の声が聞こえ、凛冽なる決意の眼差しが読み取れた。ー言い終わるや、周瑜はスラリと指揮刀を抜き放って天に翳した。次に其の手を胸の前に持ってゆくと、剣の鍔を鎧にぶつけてカチリと1音を発したすると其れに合わせ数万の将兵が、夫れ夫れに手にした得物で発音する。槍の尻で地面を突く者、戟を楯にぶつける者、剣の腹で鎧を叩く者・・・・大都督のリズムに合わせ、初めはゆっくり4分音符で、そして次には8分音符の間隔で、最後は荒らぶる儘の乱れ打ちで、天地がガチガチ鳴りさんざめく。秘められた闘志が体内に充満してゆくのが判る。何か叫びたい。叫ばずには居られない。ーと、ピタリと音響の嵐が止み、力に満ちた静寂が天地のあわいに現出される。 するや再び軍楽隊が、今度は勇壮な
《鼓吹鐃曲》を奏でる。軍歌である。入隊して直ぐに教えられ折節につけて口ずさんで来た歌詞を全身で歌い上げる。数万の男達の歌声が、天地を覆って木霊する・・・・。
君主・孫権が進み出て来てサッと宝剣を翳す。
「金色の民、いざやいざ!! 孫呉3代いざやいざ!戦わん哉、時来る。戦わんかな秋とき来る!!」
エイエイエイ!エイエイオー!エイエイオ〜!!
先ず柴桑後軍が《鬨の声》を挙げる。続いて水軍先鋒が雄叫ぶ。最後に水軍本隊が是れに和す。鯨波が互いに掛け合いとなり、大輪唱となり、ついには此処に集う数万全軍の一糸乱れぬ鬨の声が、天を怒よもし地を揺るがす。
「いざ、出陣〜!!」
宝剣が冬の大気を切り裂いて振り降ろされた。
オウ〜〜!!
「黄蓋隊、乗〜船〜ん!」 副都督・程普が下命する。
軍楽隊が呉軍マーチを打ち鳴らす。「呂蒙隊、乗〜船〜ん!」 「甘寧隊、乗船準備!」
決戦の地へと向かう諸将と兵達・・・・其れを見送る将と兵達・・・・
長江を溯る旗艦の舳先には赤いマントが翻っている。12月の河風は頬に冷たいが、林立する呉の軍旗は、雄々しく旗めいていた。独り大敵に臨む、この時の【周瑜】の気持は如何ばかりであったろうか・・・・進む先に待っているのは、想像を絶する様な大艦隊・大軍団であろう。然も相手は百戦練磨の【曹操】である。思わず瞳を上げると、フッと亡き孫策の顔が、そして愛うしい妻の顔が碧空の中に浮かんだ。
「−−俺は・・・・勝つ!!」抜き放った指揮刀に、必勝の陽光が宿って輝いた。前をゆく呂蒙の赤備え船隊が頼もしい。
目指すは「樊口」−−柴桑と烏林(赤壁)の、ちょうど中間地点の南岸に在る。其処には既に劉備軍が待機して居る筈である。丸で曹操と孫権の間に、割り込んで格好になっている。だが真相は
逃げ場に窮した劉備が、魯粛の勧めに従って、唯一両勢力空白の地点に導かれたのであった。そうする事によって、恰も劉備軍は、曹操に宣戦布告している様に見えるからであった。いずれ孫権軍が遣って来れば否応も無く、自動的に同盟軍と為らざるを得無い。・・・・それこそ魯粛の狙いであった。無論それは、諸葛亮と劉備の意図と合致する。実戦となれば出番の無い、この仲良し子良し細胞の、精一杯の策謀であった。
その樊口では、劉備が”大耳”を欹ててドキンドキンしながら、長江の上下を見張らせていた。
《ーー果して同盟は成ったのか?孫呉政権は、曹操との決戦に踏み切ったであろうか!?》 直ぐにでも吉報を持ち帰ると明言していった孔明ーーだが、遅い! もし同盟が受け容れられずば又しても放浪生活が待ち受けている。然も今度こそヤバイ!もう行く先が無いのだ。いずれ曹操に追い詰められ、妻子重臣皆殺しに遭うであろう。 又、同盟成ったとしても、曹操軍がその前に此処に現われたら、これも亦万事休す・・・・!
「未だ見えぬか?」
今にも曹操が、上流から攻め下って来るとの報も有る。
「未だか?未だ遣って来ぬか!」今日だけで、もう何回くり返した事か。《ーーいっそ、此方から柴桑へ逃げ込んでしまおうか?》
生き残る確率からすれば、その方が余程マシである。躊躇い踟躊する劉備。もう兵糧も底を突き、精神的にも踏ん張れる限界に来ていた。
「−−よし、もはや待てぬ。関羽、全軍率いて呉に逃げ込むぞ!直ちに手配して呉れ!」
「解り申した。」 関羽が踵を返そうとした時であった。
「船が見えまする〜!!」
物見兵が転がり込んで来た。
「河上か?河下か!?」 その返答に生と死が懸っている。ゴクリと咽を鳴らす劉備。関羽も張飛も趙雲も、同時に振り返った。
「河下であります!あれは、呉の艦船に違い有りません!!」
腰を浮かしていた劉備は、机を蹴倒して跳び上がると脱兎の如く岸辺に飛び出していった。帷幕の全員がそれに続く。皆、眼を皿の様にして、必死の視線を送る。
「確かに下流だが、どうしてアレが呉の船と判るのじゃ!?」
普通なら大喜びして当然なのに、劉備は尚も疑心暗鬼であった。下流から来たとしても、其れが必ずしも呉のモノとは限ら無い、と恐れた。曹操なら下流からも味方を送り込んで、挟み撃ちにする心算なのかも知れ無ぬ、とビビリまくったのである。如何に敗戦のショックが大きかったかが判る。
そんな劉備をはじめ、通常の視力の持主では、未だ其れは唯の黒い点にしか見えない。
「私は以前、呉の船を見た事があります。荊州のモノとは微妙に異なるのです!あれは絶対に呉の軍船で御座います!」
「是非、そうであって欲しいものじゃ!」
ーーやがて、その黒い点は急激に数を増やし、横に広がった黒い線に変貌した。
「おお、あれは正しく呉の水軍じゃ!!」視力の良い順番に彼方此方から歓声が湧き上がって、岸辺一帯に広まってゆく。
「どうじゃ!?」
寄る年波で視力に衰えを来たしている劉備、気が気では無い。
「・・・・おお、間違い無い!殿、お喜び下され!あれは、確かに
呉の大艦隊に御座いますぞ!!」
1番若い趙雲の眼がついに、艦隊の頭上に翻る《呉の牙門旗》を視認したのだった。其れを聞いた劉備は、思わず其の場にヘタリ込んでしまった。
ーーやがて、遙か下流に黒い点の集合だった塊りが、見る見る間に、水面を覆い尽す、軍船の群れである事が歴然とした。と、寸刻遅れて、今度は勇ましい軍鼓の轟きも響いて来た。かつて見た事も無い大艦隊であった。丸で長江が全て艦船で埋め尽くされた如き、驚愕すべき光景。関羽水軍など話しにも成らない・・・そして、全将兵歓呼の中、鼓吹の音も堂々と、次々と現われては眼の前を過ぎてゆく呉の大艦隊。だが、停まらない。
《・・・・れれれ?俺達には眼も呉れないって訳か!?》
一瞬、劉備の顔が硬張った。が、それは先鋒艦隊に過ぎ無かったのである。やがて眼の前に停まった巨大艦には、「呉」の牙門旗と「周」の指揮官旗が翩翻と旗めいているのだった。
※ この時の劉備のドキドキを、『江表伝』は次の様に記している−−
『劉備は魯粛の計に従って、軍を進めて鄂県の樊口に駐留した。諸葛亮が呉に行った儘、未だ帰還しない間、劉備は曹公の軍が攻め下って来ると聞き、恐れ慄いて、毎日見廻りの役人を水辺に遣って、孫権の軍を待ち望んだ。見廻り役人が周瑜の軍船を見つけ、馬を走らせて劉備に報告すると、劉備は「どうして其れが曹操側の青州・徐州の軍で無いと判るのか?」と尋ねた。見廻り役人は「船を見て判ったのです」と答えた。劉備は人を遣って彼等を労わせた。』
九死に一生を得て、俄然、元気を取り戻した【劉備】、喜び勇むやさっそく総司令官・【周瑜】を招いての会見を申し入れた。
『今後の打ち合わせなど致したく、我が陣屋へのお越しを御待ち申して居りまする。』
だが、周瑜は遣って来無かった。当然である。その書簡を見た【程普】が激怒した。
「何をほざいておる、この劉備とか云う男は!我が呉軍の大都督を、己の元に呼び寄せようとでも言うのか!公瑾殿、会ってやる必要など在りませんぞ。放って置きなされよ!」
「そうです。ヒョイと調子よく脇から飛び込んで来た、高々2・3千の水軍が何の役に立つ! デカイ面させてはなりませぬ。この
戦いは呉の戦いであります。第一、航行の邪魔じゃ!」
19歳の【凌統】は血気盛んである。
「ま、そうカッカする事もあるまい。此方へ呼び付ければ良いではないか。それに1度は顔も見て置きたい。」
『当方、万事多忙につき旗艦を離れ兼ねる。御用とあらば、そちらより御足労願いたし。』
挨拶も抜きの、素っ気無い返事が戻って来た。周瑜側は、敢えて同盟相手を無視する態度に出て来たのである。ーーそこには・・・
《俺は同盟など認めて居無いぞ!》と云う、周瑜の強固な意志が窺える。而して是れは感情論では無い。冷厳な政治的対峙であった。 「ウヌ〜、無礼な奴め!」
此方は感情むき出しの【関羽】。相手が格上の態度を取る者に対しては、若い頃から猛烈に頭に来るタチであった。
「周瑜公瑾、どれ程の者ぞ!そも年齢からしても、我が主君よりズッと下ではないか。況してや無位無官にして、我が主は”漢の左将軍”であられる。何たる無礼!」
「そうじゃ、俺が乗り込んで引っ括って来ようか!」
こちらは”長阪坡”で天下無双を示した【張飛】。
「よいよい、気に致すでない。今迄も何度も人に下げて来た儂の頭じゃ。それに今の状況、この実力差では、今更恥じる事でも無かろうわい。出向かないとなると、同盟の本旨にも反しよう。それに孔明や魯粛殿の面目も立つまいて・・・・。」
劉備は己の沽券なぞ全く気にもせぬ体で、単身、小船で呉の旗艦へと出向いて行った。
《周瑜だけは、孔明の政事戦略を見抜いて居るか・・・・》
両者、初対面である。三国志の時代には、無論、写真も似顔絵師も居無い。故に、英雄が互いに互いの顔を合わせる機会は非常に貴重であり、また稀れな事であった。敵対相手の顔も知らずに戦い、生死を賭けるのが当り前であったのである。だから屡々、古代史では〔英雄会同〕が挙行されるのである。それ程にファーストインプレッションは、互いの将来を左右する重大事であった。ーーだが周瑜は、取り付く島も無い様な、型通りの紋切り型の挨拶しかしない。木で鼻を括る様な会見となった。だが内心では互いに《ほう〜、これが・・・・!!》と、その器の大きさを直感していた。劉備が知っている数限り無い人物群の中でも、これ程の美丈夫は今迄に居無かった。周瑜が知る限りでは、これ程の福顔を持つ骨相の持主は居無かった。
「この度、曹操と対決する事となった上は、定めし深い計略がお有りなのでしょうなあ。」
気まずい空気を払拭する様に、劉備お得意の人誑し作戦が開始される。
「−−・・・・。」 然し、それに応ぜず、無視して答えぬ周瑜。
「処で、軍勢は如何ほどですかな?」
1番気になる事に、果して答えて見せるか?
「3万です。」 意外にも、サラリと手の内を教える周瑜。余りにも少な過ぎる数である。ホントかいな?
「惜しい哉、些か少な過ぎますな。」 ウソだろうとは言えない。
「いや、是れで充分です!」 ニベも無い答え方ではあったが、そのキッパリとした語感の中には、総司令官としての誇りと事実が確認できた。
「処で、聞けば閣下は、樊城以来の長征の旅、合肥辺りにまで軍を出されたとか。さぞや心身ともに御疲れでありましょう。此処は一つ陣屋に戻られて、どうぞゆっくりと御休息をお取り下され。」
一方的な会見終了宣言、体の良いお引取り宣告であった。
「いや、御多忙中の処、誠に失礼致しました。」
飽くまで慇懃に振舞おうとする劉備に向かって、周瑜はズカリと言い放って見せた。
「劉豫州殿には、私が曹操を撃ち破るのを御覧になってだけ戴きましょう!」 一切の”手出し無用”を言い渡したのだ。何とも凄まじい言葉の刃である。
「−−・・・・。」別れ際の言葉であった為に、劉備には咄嗟に返す言葉が無かった。ムカッと来かかった劉備だが、そこは流石に年の甲ーー茫洋とした表情の下で、素早く計算していた。
《考えてみれば、こんな美味しい話しは無いではないか。願っても無い様な申し出である。勝ち負けは兵家の常、未だ勝ったと決まった訳では無い。又もし勝勢ならば、それはそれで此方の自由勝手な行動が採れる。》ーー狸オヤジ宜しく、日和見の傍観者で居てもOKとのお墨付きである。全軍で3万が本当なら、危ないものである。いくら周瑜が強がって見せても、必勝とは言い難い・・・
《ムフ、是れを聞いたら孔明の奴、さぞ歓ぶであろうな!》
咄嗟にそれだけの事を読み切った劉備、只の御人好し男では無かった。然し是れでは、作戦の細部までを聞き出すのは無理と云うものだ。
「御配慮、痛み入ります。陣屋に戻る前に、魯粛殿にも御挨拶を致したいのじゃが・・・・。今般の仕儀については、何かと御面倒をお掛けした故、礼など一言申し上げて置きたいと思いましてな。」
同心・同夢の魯粛であれば、気前よく情報提供もして呉れるに違い無い。
「一軍の総帥たる者、君命を受けて出陣した以上、他人任せには出来ませぬ。魯粛は私の部下ですから、私の命に従うだけです。今、敢えて、あれの意見を聞く必要は有りますまい。そして彼も亦、命令を受けている限り、妄りに持ち場を離れる訳には参りませぬ。どうしてもと言われるなら、別の機会にお訪ね下され。
諸葛亮どの共々、後発させましたから、2・3日中には到着するでありましょう程に・・・・!」
是れも亦、鋭く釘を刺されてしまった。魯粛から事前に聴いては居たが、周瑜公瑾と云う男の自尊・独自の戦略、反劉備同盟の立場は、鋼鉄の如く硬そうである。
《傑物じゃ!!この男が居る限り、是れは此の後の身の処し方、チト骨じゃな・・・・》この感想は独り劉備だけのものでは無く、尚一段と深刻な形で、諸葛亮孔明が漏らす言葉になる。事実この後、孔明の企図する大方針は、この人物によって封じ込められてゆく事と成るのだった・・・・。
《−−だが、勝てまいな・・・・。》
ーー以上、周瑜と劉備の初めての会見の様子は、「正史」では無く『江表伝』の記述に拠るものである。原文(訳)を掲げて措く。
『周瑜は劉備に伝えた。「軍の任務がある故、持ち場を離れる訳には参らぬ。もし、そちらから曲げてお出で下さるならば、誠意を以ってお会い致しましょう。」
劉備は関羽・張飛に向かって言った。「向こうは儂が出向いて行く形を望んでおる。こちらの意志で同盟を結んで措きながら、出向かないとなれば同盟の本旨に反しよう。」
そこで1艘の船に乗って周瑜に会いに出かけた。
「いま曹公と対陣なさるに当っては、さぞや深淵なる計略をお持ちの事でしょうな。兵士の数は如何ほどですかな?」 「3万です。」 「惜しい事に少な過ぎますなあ。」
「我が方は是れで充分です。豫州殿は、私が曹操軍を破る所を、只御覧になって居て下され。」 劉備が魯粛らを呼んで、一緒に語り合いたいと願った処、周瑜は言った。
「命令を受けている以上、勝手に持ち場を離れる事は出来ません。もしも子敬(魯粛)にお会いになりたければ、別の機会にして戴きましょう。また孔明殿も一緒に参りましたから、ここ2・3日を過ぎぬ裡に到着するでしょう。」 劉備は深く恥じ入り、周瑜を傑物だと考えたが、内心では周瑜が必ず北軍(曹操軍)を撃破できるとは、未だ信じて居無かった。』
処で〔赤壁の戦い〕は、屡々〔官渡の戦い〕と比較される。共に圧倒的な兵力差が有り、誰しもが負ける筈が無いと観ていた方が、逆に大敗する。曹操は其の両大戦に登場し、悲喜こもごもを味わう。そして〔官渡〕で《天》を掴んだ男が、〔赤壁〕によって《人》の限界を思い知らされる事となる・・・・偶然と必然ーー運気と人智ーーその天秤のバランスが僅かにどちらかに振れた時、決戦の帰趨に大きな影響を齎す・・・・詳しい比較検討はさて置き(現実は死闘なのだが)両大戦の印象だけで言えば〔官渡戦〕は(実態は長期に渡る睨み合いであったにも関わらず)広い空間を全面的に動き廻って、不期遭遇を根本とする如き《動》のイメージがある。
それに対し、〔赤壁戦〕は(実際は短期間対峙の瞬間決着であったにも関わらず)限られた閉鎖空間で、計算され尽くされた理詰めを根本とする如き《静》のイメージがある。無論、両決戦ともに激しい生死の瞬間が在り、夥しい殺戮の場面がある。然しながら、もし戦いに”美学”・”美意識”と云うものが在るとするなら、より全ての因子が凝縮された形となった赤壁戦の方が、偶然性が少ないと言えるのではないだろうか?ーー何がし「赤壁」の2文字の中には、人間の野望を阻む厚い壁のニュアンスが含まれ、何処とは無しに神秘的な響きを覚えさせられる。そもそも古戦場には、その地名が冠せられるのが普通なのだが、この決戦のみは、その戦闘の様子から来る、詩的な呼び名が付けられている。赤壁と云う地名が最初から在った訳では無く、赤い壁が存在する訳でも無い。紅蓮の炎が河岸の岸壁を赤く染め上げる程に凄まじかった、その戦いの印象から冠せられた古戦場名であるに違い無いそしてもし、其の命名者が勝利者その人であったとしたならば、
当に〔赤壁の戦いは周瑜公瑾の戦いであった!〕
と謂えよう・・・・・
【赤壁戦】は謎だらけである・・・・
古来より語り伝えられて来た戦い・戦闘場面の細部は、
〔ほぼ全部が推測で成り立っている〕と言い切っても、決して過言では無い。『正史・魏書、武帝紀(曹操伝)』では、僅か1行、
『公ハ赤壁ニ到着シ、劉備ト戦ッタガ負ケ戦トナッタ』だけである。
ーー唖然としてしまう・・・・!!同じく『正史・諸葛亮伝』でも、
『曹公、赤壁ニ敗レ、軍ヲ引イテ業卩ニ帰ル』
やや文字数が多い、『正史・先主(劉備)伝』にしても、
『権、周瑜・程普ラ水軍数万ヲ遣ワシ先主ト力ヲ并サシメ、曹公ト赤壁ニ戦イ、大イニ之ヲ破リ其ノ舟船ヲ焼ク。先主、呉軍ト水陸並ビ進ミ、追ウテ南郡ニ到ル。時又疾疫。北軍多死。曹公引帰。』
余りにも簡潔に過ぎて、戦いの中身は全く判らない。況や其の駆け引きや両陣営の作戦などは、知る術さえ見当たらないのである。ーーだが実は、この素っ気無さは、陳寿先生が重複を避ける為に”主役”と認めた人物の伝に、記述を集中的に配する手法であったのだ。その主役とは謂わずも哉、周瑜公瑾その人である『正史・周瑜伝』の中に、赤壁戦の全てを凝縮させたのである。
従って後世の我々は、唯一是れ (補註の江表伝を含む) を頼りに、戦いの全貌を解き明かす以外に方法は無いのである。・・・・とは言っても当然の事ながら〔古代の史書〕である『三国志』は、その記述の主眼が”人物評価”であり、”戦記”を描くものでは無い。
だから人物描写にとって必要最小限の付帯事項としての意味合に於いてでしか、戦闘場面は出て来ない。ーー詰り《何故?どうして?》と云う理由や原因、ましてや時々刻々の心理的変遷や戦いの途中経過などは、美事に排除されている。歴史家としては正統な態度と言える・・・だが其のお蔭で我々は、甚だ困難で、かつ愉しみな、わくわくする様な〔謎解き作業〕を強いられる事と成った次第なのである。行間の空白を読み取り、1語1語に留意しながら2千年前の時空を超えて、その時点に起きた出来事を、眼の前に出現させるのだ。 ーーだが然し、考えれば考える程、何故なのだ? どうしてだろうか? と云う疑問が次から次へと吹き出して来るのである。それは丸で、謎宮に彷徨い込んだ冒険者、
〔時の旅人〕さながらである。
さて、赤壁戦に於ける最大の謎は・・・・
『何故、負けるべくも無い筈の大曹操軍百万が、大敗北を喫したのか!?』 ・・・・その1点である。逆に言えば、何故弱小の周瑜が勝利を掴んだのか?である。それは偶然か必然か、はたまた両方か?である。ーー処が、この大命題を解明しようとして1歩踏み込んだ途端、我々の眼の前には
次から次へと様々な疑問が立ちはだかって来る。それは恰も【10の謎宮】の如くである。
以下に其れ等を挙げて、諸氏と共に〔時空ハンティングの冒険〕へと出掛ける事としよう。それが解決できぬ限り、赤壁の戦いを現代に蘇えらせる事は不可能なのである。 単に物語性を重視するのであれば、こんな先廻りのネタばらし的な事はカット(隠して)措いて、サッサと話しを進めた方が読者受け(盛り上がり度)は良いに決まっているのだが・・・・
実は赤壁戦の実態は、未まだに誰にも判っては居無いのであり、さも自信たっぷりに断定口調で書いてある
書物・小説の全ては(本書も含めて)1つの仮説・推測に過ぎ無いと云う事を、再認識して戴く為の方策でもある。それ程迄に慎重でなくては、赤壁戦の史実には近付けない、と云う事なのである
第T謎宮・・・・(地の謎宮)
そもそも、曹操の戦術意図が不明である。一体何処で会戦しようとしたのか?凡将でも、わざわざ不得手な長江上での決戦は避けそうなものである。無敵を誇る騎馬軍団を使える〔陸上戦〕での決着を、なぜ選ばなかったのか? 又は選べ無かったのか?およそ軍神・曹操らしからぬではないか。兵員の輸送能力は十二分なのだから、より優位な会戦地点への上陸を果せる筈なのに、結局みずから北岸に陣を構えたのは何故か?ーーこれでは陸路を呉に進撃する事は出来無い。陸上での決着を放棄しているとしか見えないではないか?−−其処には、重大な理由が存在しなければならない・・・・。
第U謎宮・・・・(勝利の謎宮)
周瑜は何故、あんなにも自信満々で在り得たのか?我に数倍、もしかしたら10倍近い兵差の大敵を前にして、動ずる風も見せ無かったのは何故か?彼は歴戦のリアリストに違い無い。そんな周瑜が、急に精神主義者に成ったとは到底想えない。必勝の信念では無く、必勝の論拠・必勝の戦術が、早い段階から存在しなくてはならない。「其の場で何とか成るだろう」では無責任すぎるし、自信と成って現われる事も無い筈だ。第3の疑問とも関わるが、必勝の確定要因は一体”何”だったのだろう?
第V謎宮・・・・(風の謎宮)
折戟 砂に沈んで 鉄 未だ銷せず
自ずから 磨洗を将って 前朝を認む
東風 周郎が与に 便ぜずんば
銅雀 春深くして 二喬を鎖さん
折れた戟が砂に埋もれていた。朽ちる事無く、砂に磨かれ、水に洗われ続けて来た。それは遙か三国時代の証人であった。
赤壁戦の時、周瑜のために東南の風が吹か無かったとしたら、美女姉妹は晩春の頃、曹操のものとなって居たであろうか・・・・
世に有名な、杜牧の「赤壁」の賦である。−−この詩賦からも分かる事は、中国古代の人々も、周瑜勝利の最大の理由を〔東南の風向き〕に観ている事である。・・・・だとすれば、周瑜は、いつ吹くか判らぬ季節外れの”逆さ風”に、偶々助けられての僥勝だった事になる。 現場で風向きが変ったのを観て、咄嗟の閃きで大勝を得た・・・とすれば、その臨機応変さは流石とは言えるが、彼が示した絶対の自信を裏付ける要因では無くなる。又、たぶん逆風は吹くであろうとの見込みが有ったとしても、それも亦、確信には繋がらないであろう。
一体、周瑜は、この逆風(東南風)をどの程度、必勝の確率の中に占めさせていたのであろうか?偶然性に満ちた、あやふやな要素では無いのか?もっと言えば、風など当てにしなくても好かったのでは無いのか? 周瑜にとって東南の風は、《必然要素》だったのか、《偶然要素》であったのか?周瑜必勝戦術の根幹に係わる問題である。
第W謎宮・・・・(火の謎宮)
〔火〕の問題である。一体、僅か数十艘の小型火船が突っ込んだ位で、そんなに都合よく、瞬時にして20万(自称80万)もの大軍が、持ち堪えられない程の大火災を起こし、敵全軍に致命傷を与えられるものだろうか? と云う疑問である。精々、心理的効果を挙げる程度では無かったのか?一歩譲って、艦船が燃えたとしても、都合よく陸上の本陣に延焼し、そう簡単に一挙に燃え盛るとは思えない。灯油もガソリンも無い時代だ。巷間伝えられて来た〔火攻めの効果〕は、周瑜の計算外の成果であったのでは無いだろうか? 詰り、会戦の基本戦術は火攻めでは無く、別に在ったのでは無いだろうか?何故なら、火攻めは、敵船が身動き出来ぬ状態でなければ、全く無効と成るからである。火船が突っ込んでも、相手が避けてしまえば”自滅”する。そもそも船とは、基本的に動く為の物である。それなのに何故・・・・?これは次の謎宮とも関わる問題でもある。
第X謎宮・・・・(鎖の謎宮)
ーー〔連環〕・・・・曹操軍は船同士すべてを鎖(等)で繋いで在ったとされるが、果して其れは事実であったろうか?
もし事実で有ったとするなら、何処にその必要性が在ったと謂うのか?曹操は禁忌を犯して、何を血迷ったのだ!?連環の理由としては、兵の”船酔い”がヒドイから、揺れを防ぐ為に繋いだと、何の疑いも無く語られて来たが、一体、長江中流の水面を実際に観察・体験してみて欲しい。果して船酔いする様な流れであろうか。否、まさに悠久の大河・・・・ゆ〜ったりとした、寧ろ鏡の如き水面である。2千年前も現代とそっくりだったとは言わないが、全然違ったと言う方が面妖であろう。 (孔明の意を受けた广龍統の揚言に、曹操がまんまと引っ掛かったなどは噴飯ものだ。) 〔連環〕の必然性が見えて来ない。火攻めの効果が甚大だった筈だと、 後からこじつけた付会なのでは無いのか?
第Y謎宮・・・・(敗北の謎宮)
曹操の負け方である。ーー通説では、火船が自軍に突っ込んだ最初の段階で総退却を命じ、みずからが逃走逃走の先頭を切った事となっている。事実だとしたら、余りにもアッサリとし過ぎてはいまいか?圧倒的兵力差など無いかの如く、何らの抵抗も試みずに逃げ出すとは、どうした判断なのか?一体、曹操に”やる気”は有ったのか?もし無かったとすれば、その理由は?・・・・是れでは丸で、初めから負けを予想して居て、敗走のキッカケを待って居たかの如くである。不自然極まり無い。
第Z謎宮・・・・(影の謎宮)
ーー〔劉備〕であり〔孔明〕である。赤壁戦の前後と戦闘中の所在が不明であるにも関わらず、『正史・曹操伝』は「劉備と戦って敗れた」と云う書き方をしている。常識的には、戦った相手は周瑜であり、記すなら、その君主である「孫権と戦って」と書かねば不可しいではないか?劉備は傍観者として、呉艦隊の後方で日和見を決め込んで居たのでは無かったのか?ーーちなみに、あの口ウルサイ裴松之も、ここでは一言も噛み付いて居無いのだ。と云う事は・・・劉備も戦闘に及んだのであろうか?劉備部隊の具体的な動きが捉えられない。かと言って、直後からの重大な動き出しを思う時、劉備=孔明の在り方は無視出来無い・・・・。
第[謎宮・・・・(走の謎宮)
第6の謎と表裏一体の疑問であるが・・・・曹操軍は、果して大敗したと言い切ってよいものであろうか?確かに敗走はしているがそれにしては、立ち直りが素早や過ぎる。翌年(直後)には大軍を以って、呉に攻め寄せているのである。『孤・・・・自カラ退ク』との曹操の回想が残されているが、赤壁戦後の動きを観ると、あながち負け惜しみとばかりも言えない気がする。その痛手がどの程度だったと観るかで、話しの展開も違って来てしまう・・・・事実は、大した被害では無かったのではないだろうか?
第\謎宮・・・・(病の謎宮)
曹操の野望を打ち砕き、その全軍を弱体化させたと言われる
〔疫病〕の問題である。余りにもジャストタイミングで発生している一体、どんな病気であったのだろうか?・・・本当に伝染病なのか風土病なのか? 現代医学で言えば、病名は何だったのだろう。もしペストなどの伝染病であれば、曹操軍だけで収まる筈は無い
・・・・すると特殊な風土病と云う事になるが、数十万人の殆んどが同時に罹患したとあらば、やはり伝染性のものであったと思わざるを得無い。この時代は、全国各地で疫病が猖獗を極めるのだが、どうもそうした、いわゆる伝染病とは様子が異なっている。医学的・防疫学的〔知識〕が求められる。ーー知識と言えば・・・・当時の人々、特に周瑜や曹操は、果して其の悪疫を、どの程度の深さで認識していたのか?・・・・其れを予知・予見し得るだけの知識や理解力を持って居たかどうか?これは戦術を左右する重大な問題である。果して周瑜は、そんなに都合よく、然も確実に、この疫病が曹操軍を犯す事を、早い段階で予知し得た(読み込めた)のであろうか?出来たとすれば、必勝パターンの中の、最大の眼目となって浮上して来る超機密事項であるのだが・・・・
第]謎宮・・・・(亡の謎宮)
逆の立場から言えば、では曹操は何故、そんな使い物にもならぬ重病人の弱兵集団と識りつつ、敢えて赤壁戦へと突入していったのか?疫病に因る自軍の惨状は、既に出撃拠点である母港・江陵を発つ前から、ひどい有様であったと観るべきであろう。赤壁(烏林)に対陣中の短期間に、突如20万人が発病したとするのは不自然過ぎよう。もし通説どおり、疫病が猛威を振るい、全軍に蔓延・猖獗していたとすれば、曹操は丸で、わざわざ負ける為に出掛けて征く様なものではないか!?
それを承知で強行出撃した背景には、きちんとした裏付けがなくてなならない。−−曹操の思惑・読みは、な辺に在りや??
ーー正に【赤壁の謎宮】・・・・疑問だらけ・謎だらけなのである。 従って、赤壁戦の筆を起こさんと欲すれども、どう描くのが最も真実に近いのか??ハタと悩んでしまうのである。逆に言えば、どう描こうとも描けてしまうのだ。ストーリーの展開は、幾通りも可能なのだ。書き手の内幕をバラしてしまえば・・・・実は、どの筆者・作家も、真摯であればある者ほど、筆を進めながら《本当に是れで良いのか?》と常に自問自答しながら書いているのであり、確心などと云うものは無いのである。
判っているのは結果だけであって、その途中経過は霧の彼方に隠れて見えない。だが、だからと言って何を書いても許される、と云うものでは無い。おのずと其処には、歴史家としての良心が求められると同時に、前後の事情や状況との整合性に基づく一定の制約が存在する。即ち、(少なくとも)此処に示した10の疑問をクリアーし、其れ等を統合的に整合させ得る程度の見識は、書き手として最低限の責任として求められよう。近頃では受けを狙った荒唐無稽な描き方が多いが、本書は飽くまでも正統性に拘って慎重に進んでゆこう。
仲T・〔地の謎宮〕なぜ会戦地点を陸上に求めなかったのか?
仲U・〔勝利の謎宮〕周瑜が事前に抱いた必勝の論拠は?
仲V・〔風の謎宮〕東南の風は、偶然か必然か?
仲W・〔火の謎宮〕火攻めは本当に効果甚大だったのか?
仲X・〔鎖の謎宮〕連環に必要性は有ったのか?
仲Y・〔敗北の謎宮〕曹操に不退転の気持は有ったのか?
仲Z・〔影の謎宮〕劉備(孔明)軍は参戦したのか?
仲[・〔走の謎宮〕曹操軍は本当に大敗北したのか?
仲\・〔病の謎宮〕疫病を予見し得る知識は有ったのか?
仲]・〔亡の謎宮〕なぜ曹操は強行出撃したのか?
−−では共に、〔時の狩人〕・〔時空の冒険者〕と成って【赤壁の謎宮】へと踏み参ろうぞ!
【第149節】 時の狩人 (謎宮脱出の冒険者) →へ