第147節
孤高の主役 登場
                                 赤いマント再び





衆人固唾かたずを飲む中その男は、北風に赤いマントを翻しつつ大艦隊を率いて、ついに長江上に其の姿を現わした。
英雄を数多あまた書き留めた『三国志』に於いて、陳寿が唯一”その男”だけに用いた特別な讃辞ーーそれは高い精神的風貌と謂う言葉である。一体、その言葉の中に秘められていたものは何で有るのか・・・・!?
その暗示の中にこそ、この男の《孤高》が示されているのではないのか!?其れを理解し確心出来た時こそ、吾人は、真に三国志世界を己の物に為し得た事になるに違い無い・・・と筆者は思っている。何故なら、事柄・内容は異なれども、同じ人間の生き方・在り様の一つの典型として、その事は2千年の時空を超えて尚、現代の我々にも共通する根源的な生き方、心の持ち様を示して呉れると思えるからである。・・・とは言え、いつ成就できるか判らぬ遙けき夢を、敢えて日々日常の中に持ち込み、其れを維持・継続し続けると云う精神作業は、余ほど確固とした意志力と、自身への厳しさを持つ者だけにしか成し得ぬものであろう。だから殆んどの場合、この精神作業は、齢を重ねる毎に日々遠退き、困難なものとして潰え去ってゆくのが、我ら凡人の常である。故にこそ我々は、その険しさの中に踏み留まり、己を高め続けられる人物に憧れ、畏敬するのである。
しかして三国志の人物達は多くの場合、言葉で己を語らない
その行為・行動・生き方・死に方そのもので己を語る。そして又、その個々の行動語こそが、他者との違いを際立たせ、我々に自分が学ぶべき人生哲学や人生観の道標みおつくしと成って呉れるのである。 就中なかんづく、唯一稀少なる讃辞を与えられた
その人物”の場合については、刮目かつもくして然るべきであろう。

彼は、深みの有る紅い色が好きだった。朱色や軽薄な赤ではなくビロードの様な品のある、
紅蓮の赤を愛した。それは静かに燃え滾る己の生き様を示している風に思えるからだったかも知れ無い普通、赤を身に着けるとキザに過ぎて、人物の方が負けてしまうものだが、この男の場合は却ってしっくりと美しい佇まいとなって、その重みと凄味とを増している。今、銀を燻した兜の下の眼差しは、流石にやや緊張気味ではあるが、その表情はキリリと苦味走り、一種近寄り難い威厳の源となっていた。生来の美貌に加え、幾多の戦いと日々の重責とが、この男のマスクに更なる厚味を刻み込んでいる。そしてそれは、当人の意識せぬ処で、その存在感を只ならぬものに仕立て上げていた。
その男・・・この時33歳。曹操より20歳も若い世代である
つい10年前まで影も形も無かった
呉の国を、2代目孫策と共に立ち上げ、美事に一つの〔国家〕として築き上げて来た、最大の実力者であった。孫策の死後は、実質上の君主権を代行し、誰しもが呉国の支え、軍政の中心人物として仰ぎ見る存在と成っている・・・・だが今、彼が育てて来た呉の国の命運は、建国以来の存亡の危機に瀕していた。そして故にこそ、その浮沈の行方は、全てこの男の決断ひとつに懸かって来ていると言ってよかった。

100万vs10万ーー勝てる筈が無い・・・・むざと殺されるよりは恭順を示して降伏するー→それが命脈を保つ唯一の道である・・・口惜しいが、誰でもが選ぶシビアな現実であった。
だが然し、何故か此の男だけは違っていた。百万と号する曹操軍の侵攻を前にして、呉政権の指導層が押し並べて沈鬱な思いに下俯いて居る中、この人物だけは昂然と面を上げて、すさぶる心を静かに燃やして居た。周囲押し並べて事態を悲観し、戦意を砕かれ喪失してゆく中で唯独り《しめた!》と快哉して止まなかった。然もそれは、単に観念的な自己欺瞞では無く、理路整然とした合理的な根拠に基づき、彼我の実情を見極めた現実に裏打ちされた、絶対的な確信であった。
《喜べ我が友・孫策よ!お前との約束を果せる好機の到来じゃ!これぞ我等が待ち望んだ、悲願達成の好機到来である!!》
我に10倍する大敵の襲来をただ恐れるのではなく、寧ろその危機をこそ、宿敵撃破の千載一遇の機会として捉える・・・・広い天下の中で、何故この男だけはそう云う風に思う事が出来るのか?

その答えは、恐らく、彼の胸中に在り続けている唯一絶対なもの
・・・・壮大な男のロマンを見失わぬ誇り高い自尊心であり、天下を制す!の気概が脈々と流れ続けていればこその事であったに違い無い。ーー《天下を窺う》・・・・その思いは、この戦国の時代に生きる男なら誰しもが、一度は心に抱く熱き志であったと言えよう《チャンスが有れば俺とても!》と、幾多のつわもの達が夢見みて挑んだ事であろうか?だが多くの者達は道半ばにして此の夢から醒めて、日常の中に埋没してゆくのが常であった。己の限界を自ら悟ってしまうのである。だが此の男は意志しただけでは無く、倦む事無しに、日々を〔その日〕の為にこそ研鑽練磨して来ていた。この事は口で言うのは容易いが、生半可な精神力では決して為し得る業では無い。ーー
高い精神的風貌・・・・・・

《ついに曹操の命を奪える最大のチャンスが巡って来たのだ!》

そのキイポイントは
水上決戦であり、船戦さであった。数を頼んで傲慢に攻めて来る曹操軍100万・・・・たとえ5万艘の大艦隊であろうとも、逃げ場の無い水の上である。曹操本人の乗る、たった1艘の軍船を沈めさえすれば、此方の大勝利である。
 これが陸上戦であれば、曹操本陣に辿り着く事さえ覚束ないであろうし、その以前に味方は敵の大騎馬軍団に殲滅されてしまおう。だが、長江上での戦いとなれば、戦場の範囲は水上の限られた平面上での決着で済む。然も直接ぶつかり合う最前線に於ける艦船数では、常に互角で在り得る。その上、船を沈めれば、その乗員は溺死して全滅する。 
(当時、水泳技術は無かった) 文字通り、撃滅し得るのだ。生まれた時から船と共に生きて来た呉の者達にとっては、操船は己が手足の如くであり、鍛え上げられた水軍の強さは絶対である。曹操が大艦隊を率いて出て来て呉れさえすれば、勝機は限り無く我に有る!その大兵力を、根こそぎ長江の藻屑として潰え去らせる事が出来る・・・・是れは、実戦経験を積んだ人間にしか発想できぬ思考である。又、己が軍才に絶対の自信を有する者だけが抱ける見通しである。そして何より、この事態を終着点と捉えるのでは無く、覇業の一環・天下統一の通過点であると捉える壮大な気宇と、不撓不屈の燃え滾る如き誇りを持つ者にのみに可能な事業であろう・・・・。

この男ーー
周瑜公瑾・・・この男を周瑜公瑾たらしめているのは、何と言っても呉国に対する愛情であった。呉の国は、この男自身が築いて来た、謂わば己の分身である。
己の全てを注いで創り上げて来た、掛け替えも無く愛うしい
我が祖国なのであった。血の繋がった我が娘の様なものと言い換えても構わぬ感覚であったろう。その愛うしい娘が、敵に陵辱され様としている時、ただ手を拱いて居る親が在ろうか?命を捨ててでも守らねばならぬ。絶対に勝たねばならぬ!・・・・そう云った思いもある。そして其れ等が一つの精神的高みを培い、この男の心を巌の如き不屈なものにしていた。  あとは、必戦必勝の為にだけ、全知全能を傾けるのみであった。故にこそ彼は、不退転の決意を己自身に明示する為に赤いマントを身に纏う。
《日々の中にこそ戦さは在るのだ!》と云う事を、自分自身に言い聞かせるかの如くに・・・・。
その
周瑜、実は、ここ柴桑の大本営に乗り込んで来る前に、人目を避けた格好で、”或る1人の部将”と重大な密談を交わして来ていた・・・・その内容は、来るべき1大決戦の帰趨を左右する、超機密事案であった。相手は、諸葛亮の論舌を、あと一歩の処でブチ壊した、あの老将・黄蓋であった。髪も眉も髭もすっかり白くなっているが、現場の第一線での活躍振りは若い部将達の尊敬の的になっている。呉軍にはもう1人程普と云う最長老の部将が居るが、帷幕内での地位には大きな差が有った。程普は常に軍権の中枢に在り続ける一方で、周瑜に対しては謂われ無き反発を示し続けていた。だが今は其の反感も氷解し、 『周公瑾どのと交わっていると、恰も芳醇な美酒を飲んだ様に、自分が酔ってしまった事に気が付かない』と人々に語り、若い総司令官を支えて呉れている。(※一部の史料では、その氷解は赤壁戦後であったとするものも有るが、それでは余りにも周瑜の負担が大き過ぎよう。又そうで有ったとしても、それは曹操側に対する演技であったとも取れようか)
同じ老将ではあっても、程普が軍中央の重鎮で在り続けるのに対し黄蓋はその生涯を一介の現地指揮官として全うして来ていた。是れ迄の人生で、この老将の口から不満の言葉が漏れ出た事は唯の1度も無かった。そう云う人物であった。周瑜が見込んだ通り「秘中の秘」の役廻りに抜擢された事に対しても、老将は眉1つ動かす様子も無く泰然として、まっすぐに其れを受け容れて呉れた。己の倹しい生涯の最後に、艶やかな花一輪を咲かせられる事を、どこか喜ぶ風情でさえあった。

「先年、烏丸の老将・トウ頓は、民族の滅亡を救う為、敢えて自らが戦死する道を選んだと私は観る。民を思う老人の智慧とは、そうした誠に貫かれているものだと思う。曹操も亦、それに気付いたに違い無い。だが、だからこそ私は、敢えて其の曹操の体験律の死角を突こうと思う。誰よりも多くの戦さを体験して来た曹操なればこそ、この策は成り立ち、又こちらには黄蓋と云う至誠の老将が在ればこそ可能となる策である。是れも、貴方が生涯民や兵士を仁恕し、人々も亦あなたを慕っているからこそ出来る策なのです」
密談の最後を、周瑜はそう締め括った。

「・・・有り難い御言葉です。」 「そう受け取って下されまするか。」

口数の少ない老将には、相手を安心させる人間味が具わっていた。ーーだがこの2人、知る人ぞ知る犬猿の仲であったのである。人前では悉く反発し合っていた。元々地味で無口な老将の方が、派手で小生意気な若僧め!とばかりにソッポを向いて無視し続けて来ていたのである。程普がすっかり氷解して、周瑜に惚れ込んだ後だから、黄蓋の反発は尚のこと際立って人々の印象の残った
・・・無論、この日の在るを見越した両者了解済みの、遠大な演技であった。
「−−思えば、断金の友情で結ばれた2代目・孫策伯符とそれ★★を誓い合ったのは、私が未だ10代の頃であった・・・・。」

周瑜は、随分年下の己だが、老・黄蓋の生き様・来し方を好ましく思っている事を、それとなく相手に伝えたくなった。そうする事が礼を尽す事の様に思えたのだ。
「周の若殿で御座いましたな。」老将も、そんな周瑜の心を察したかの様に、遠い昔を見る目になった。

「奴は志半ばにして刺客の手に落ちたが、あれは将に許都進攻直前の事であった。曹操めは袁紹の大軍に攻め込まれ、官渡で金縛りに遭っておった。」
「そうでしたなあ・・・・。あの頃は国中が、本気で天下を目指して、その気に溢れ返っておりました。」
「それが今はどうだ。皆、小じんまりと安穏な暮らしに慣れ、相手の顔色だけを窺って、己の保身ばかり心を砕こうとしておる。」
「−−げに・・・・。」
「いや、それが人情と云うものではあろう。ようやく手に入れかけた安寧の時を、幸福と思う事は間違っていない。我々はそれを望んで戦って来たのだから・・・・。」
老将は温かい眼差しで、若者に続きを促す。
「だが、この安寧も未だ、本物では無い事に、人は気付きたがらないのであろうか。」 周瑜は立ち上がると黄蓋を促して露台に出た眼下の番卩陽湖には、自慢の大艦隊が其の時を待っていた。

「人の思いは様々有ってよいが、屈服して得られる幸せなど、男子たる者には断じて受け容れ難いではないか・・・!」
一陣の木枯らしが、周瑜の赤いマントを揺さぶっていった。
「少なくとも私が周瑜公瑾で在る限り、呉の国は誰にも屈しはしない!!」

腕組みしたまま壁に凭れ、それ迄ジッと瞑目して衆議を聴いていた
周瑜が、ゆらりと立ち上がった。そして座っていた床几を右の軍靴でズンと踏みつける、彼独特のスタイルになった。それを見ると、廻りの者達は全て口を噤んだ。周瑜は床几に乗った右膝に右の肘を置くと、手を顎に当てて一座を睥睨した。一見、不遜な態度だが、彼にはそれが許されていた。そしてそれが、周瑜の発言の合図なのであった。衆議堂は、水を打った様に静まり返った。無論、この席に部外者の諸葛亮が居る筈は無い。別棟の迎賓館で結果を待つばかりであった。

「では最後に、大都督である周公瑾の考えを聴かせて貰おうぞ。余はそれに拠って、最終決断を下す事と致す!」
孫権の声に促されて、甲冑姿の周瑜が中央に進み出た。磨き込まれた赤銅の鎧が眩く光った。赤いマントがさっと跳ね上げられる
3代目・孫権にとって、彼こそ最期の切り札であった。今や呉国に在って、頼れる人物は周瑜公瑾1人しか居無かった。現在、呉の国の中で、最も人望と実力を兼ね備えている人物・・・・彼にこそ、この窮状打破を委ねるしか無いのである。
 時間は無い。既に曹操から最後通牒が届いていた。こうなればもう、全軍の総司令官である周瑜の発言だけが、頼みの綱であった。常に戦いの第一線に立ち、且つ国の最中枢に在り続けて来た、軍政家としての彼の存在は巨大である。現時点では、事実上の君主と言っても差し支えあるまい。ーーその直前、切羽詰った魯粛は、番卩陽湖から彼を呼び戻す事を、孫権に進言した。孫権とて、元より其の心算であった。
大丈夫です。絶対勝てます!殿には只管、隠忍自重して戴きたい。決してギリギリまで断を下さず、曹操めが呉の降伏を確信する様、とにかく衆議を引き延ばして居て下され。そして、いざとなったら、わたしを呼び戻して戴きましょう。この私めが、一挙にケリを着けて御覧に入れまする!
是れは魯粛にも明かしていない、孫権と周瑜とだけの了解事項であった。そして今まさに、その”いざと成った”のである。

「−−今まで為されて来た論議は、全て誤りである!」

周喩の指揮刀の鞘尻が、ドン!と床を鳴らした。

「曹操は漢の丞相の名を楯にしているが、その実は 漢に敵なす賊徒でしかないのである。それに対して我が殿は、優れた武略と大才を具えられ、加えて父上・兄上の烈を受け継ぎ、江東の地に覇を唱え、その土地は数千里に及び、兵士は精鋭にして充分に役立ち、勇俊の士達は、為すべき事あらんと心に期している。
だから我々は、自信を持って天下を思う通りに闊歩し、漢王室に害を為す者どもを除き去るべきなのである!」


先ず、呉国の誇りと正義とを、1人1人に想い出させ、自分達への自信を取り戻させる周瑜であった。だが此処で、周瑜のトーンが下がった。
「そもそも百万対十万と云う圧倒的兵力差が事実であるとするならば、奇襲や小賢しい戦略が通用する様な問題では無い。大軍を擁する敵が、自在に兵力を展開し、機敏に動き廻る機動戦では
結局わが軍は包囲殲滅されてしまう。是れは自明の兵理である」
一同、おや?といぶかった。だが真理である。

「たとえ我が智略を以って、一戦局で勝利を得たとしても、それは瞬間的勝利に過ぎず、大局からすれば、いずれ我が軍は消耗し尽し、潰滅の時を迎える・・・・。第一、曹操の用兵やその戦術眼は超一流であると認めざるを得無い。詰り普通の戦いでは、呉軍は万に1つも勝てぬのである。」

しわぶき1つ聞こえぬ静寂だけが残る。「−−では、寡兵の呉が曹操の魏を破り、天下の覇権を手中に納める事は全く不可能な事であるのか?・・・・否!たった1つだけ勝機は在る。或る特定な条件下でなら、必ず勝てる戦い方が在るのだ!」

全員の視線が、喰い入る様に周瑜の口元に集まっている。

「その必勝の条件とはーー長江での艦隊決戦である!!」

ここからは、数多の戦場で実際に戦って来た総司令官としての言葉となった。張昭や諸葛亮など、実戦経験の無い文官の発言とはおのずから重みが違う。諸葛亮も水戦の有利さは説いた。だが其の内容は抽象一般論でしかなく、生々しい実感に欠け、具体性に乏しかった。だから聴く者の心に、どこか不信感を覚えさせてしまった。然し、周瑜は違う。彼が呉の国を築き、支え続けて来た実績を誰もが認めている。軍を動かし、実際に曹操と命を賭して戦うのは、この周瑜公瑾なのである。

「水戦となれば、100万の大軍と雖も自在な兵力展開は許されず限られた長江上でしか動けぬではないか。戦闘の水域も限定されるから、勝敗の帰趨を決める因子も、兵力差より技量差が重要となる。これは、長江を揺り籠として育って来た我が呉軍にとって、全く有利な条件である。長江上での決戦となれば、こちらが包囲される心配も無い。いや寧ろ、水戦に長けている我が呉軍の方が進退自在の操船を以って曹操の軍船を包囲する事さえ可能ではないか。我が艦隊には、それだけの錬度と力量が在ると断言できる。陸上戦なら必敗であるが、逃れる場の無い水上戦なら、一挙に敵全軍を長江の藻屑として殲滅する事が出来得るのである。
 是れはもう、願っても無い千載一遇の好機を、天が我々に与えて呉れたものと言ってよい。まさに水上決戦に持ち込む事こそ、私が長年待ち望んでいた最も理想的な、唯一の戦い方なのだ。それが向こうから遣って来たのだ。わざわざ逃れ様も無い水の上に、然も全軍が纏まって遣って来るのだ。これは丸で、魏を亡ぼして下さいと言っている様なものである。」

長江の岸辺に周瑜を出迎えた全員が、彼の率いて来た呉軍艦隊の美事さに胸を熱くしていた。周瑜は、その創始者であり、育ての親でもあるのだ。

「曹操は陸の合肥から来ず、水の江陵から遣って来る。功を焦る余り、得意の陸上戦を捨て、不得手な水戦に嵌り込んだ。これは既に、曹操が天から見放された事を示す啓示である。 その上、曹操軍はこれ迄に、唯の一度も艦船での戦さをした体験が無い。いやいや、そうでも無いか。確か、人口の池の中で、ポチャポチャと猛訓練を何十日かした事は有るそうだとかは聞いている。」
議場に初めて、失笑が湧き起った。聴く者達の心の中には、いつしか一種の余裕の如きものが生まれようとしていた。

「この池ポチャ訓練は、逆に曹操軍の自信の無さと恐れを示す証拠に外ならぬのだ。その不安を隠して無理押しに遣って来るのは100万と云う数字の多さに我々が縮み上がって戦う意志を捨て、降伏する事を見込んでの事でしか無いのだ!」
周瑜のテンションが再び上がった。

「然るに諸君は、その曹操の魂胆にうまうま乗せられようとして居るのだ。諸氏は、曹操が寄越した脅しの手紙に、水軍と歩兵が80万在ると言っている事だけを見て震駭を来たしてしまい、それが嘘か誠かを考えてみる事さえして居無いではないか!敵が流した虚報をそのまま鵜呑みにして、すぐ投降すべきだとの議論には、何の意味も有りはしないのだ!」

ここで周瑜は、ひと呼吸おいた。その瞳がキラリと光る。

「今からは、私が調べた敵情報を諸君にお聞かせ致す。久しく私が衆議にも顔を出さ無かったのは、全て其の為であったと了解されよ。−−実は・・・80万などとは、真っ赤な嘘であるのだ!曹操が率いる中原兵の数は、実数15・6万に過ぎぬのである!然も、その兵士達は軍事行動が長く続いて、疲れ果てておる。又、荊州で手に入れた軍勢も最大限で7万止まり。その上、将兵は曹操に心服している訳では無い。当然、戦意は薄く、士気も低い。然るに曹操は、そんな荊州の水軍に頼るしか手が無いのだ。
 疲れ切った兵卒を頼み、心の動揺している降伏兵を無理矢理にまとめ上げた混成軍など、その人数が多いと言っと処で、全く恐るるには足らぬものでは無いか!それとも、我が呉水軍と将兵は、そんな弱兵にも劣る腰抜けとでも言うのか!?」

既に自尊心と闘争心に火が着けられ、我が至誠を表明したくて
うずうずして居る武官達の表情には、戦意が漲っているのが判る。それを知った上で、周瑜は更に浴びせ掛けた。

「諸君の返答や如何に!?」
「戦いあるのみ!」 打てば響く様に、最長老の【
程普】が立ち上がった。
「戦さじゃ!」 
呂蒙が叫ぶ。陸遜が続く。
「奸族曹操を討つのみ!」 
凌統も叫ぶ。
「我が呉軍の底力を見せ付けてくれようぞ!」
口々に雄叫びつつ、次々に全員が立ち上がった。周瑜は満足そうに頷くと、沸き立つ者達を手で制して、静粛を求めた。

「諸氏の気持はこの周瑜公瑾、然と心に受け止め申した。だが最後にもう1つ、我が軍必勝の最大の理由を申し伝えて措きたい。この情報は、別して他言無用。最重要機密と心得えられたし。」

この上まだ有利な条件が在るのだろうか?一同、頼もしい総司令官の次の言葉に、魅入られる様に耳を傾ける。

「−−敵全軍には、既に
疫病が発生しているのだ!!

議場に、新たなざわめきが起こった。
「敵の軍勢の少なくとも半分は、使い物にもならぬ重病人どもに
                             過ぎぬのである。」
衝撃的な大ニュースであった
!!

「今まで私が語って来た幾つもの点は、みな兵を用いる際には忌むべき事であるのは、軍権に携わる者の常識である。然るに曹操は、その全てを犯して事を押し進めているのだ。この様に、曹操みずから死地け己を追い込んで来るのであるのに、それを迎え入れるなどと云う愚かしい選択が有ってよいものであろうか!?」
寒さも厳しく、馬のまぐさも無い中で、遠く水郷地帯を跋渉ばっしょうさせているのである。北方の将兵達が、慣れぬ風土にその疲弊した肉体を蝕まれる事は、充分ありえた。

「仮に百歩譲ったとして考えてみよう。もし曹操が北方に内憂無く平静を保って余力が有ったとしても、我々と水軍に拠って勝負を決しようなどは、片腹痛い所業である。実戦で鍛え上げられている我が呉水軍の実力の前には、俄か水軍など赤児同然である。水戦でならば、この周瑜、百戦百勝を誓ってみせる。」

同じ水戦の有利さを語っても、諸葛亮と周瑜とでは、その説得力に於いて、断然重みが違う。

「増してや今は、北方の地は安定していない上、馬超と韓遂とがなお関西
(陝西省以西)に在って、曹操の後患となっている。これらを総合して鑑みれば、殿が曹操を捕虜とするのも、今日明日の事であると言ってよいであろうぞ!」
戦場の第一線に立つ者の強味であった。部屋の中で論議だけしている者達には、到達でき得ぬ峰の高さである。豊富な情報量と密度の濃いその内容、そしてそれらに裏づけられた論理の展開の前には、もはや誰1人として異議を唱える者とて無かった。

「我等、眼から鱗が落ちた思いですぞ!」
ついに、降伏派の急先鋒であった重鎮・
張昭の口からも、同心の言葉が迸った。それに目顔で頷くと、周瑜公瑾は断言した。

「曹操破れたり!我に必勝の成算あり!!」

オウ〜ッ!! と文武百官、老いも若きも雄叫んだ。するや
周瑜は、クルリと孫権に向き直った。そして、やおら面前に片膝ついて見せると、右手を胸に押し当てて、最後の進言を為した。
周瑜の赤いマントが沈んだのを見た全員が、同じく孫権の前に片膝をつく。
「願わくば、この周瑜めに精兵3万をお預け下さり、夏口まで兵を進ませて下され。必ずや曹操を打ち破って御覧に入れまする!」

周瑜が描いた筋書き通り、最後の見せ場へと事は進む。仕上げは孫権に任せてある。どんなパフォーマンスで応えて見せるか?
 兄・孫策の急死によって僅か18歳で君主の座についてから8年
3代目・孫権仲謀この時26歳・・・父や兄に比較すると、どうしても覇気に欠けると見られ、優柔不断と評されているが、果して群臣達にいかなるインパクトを与えられるか!?
孫権は一段高い君主の座から立ち上がって、居並ぶ家臣団を見下ろす姿勢をとった。 そして、これ迄の同一人物とは想えぬ、張りの有る野太い声で、一語一語を明瞭に発し始めた。

「老いぼれの悪党めが、漢帝を廃して、みずからが帝位に就こうと狙って居るのは久しい前から知れていた事じゃ。但、今迄は袁紹や呂布・劉表と余を憚って、それを為せずに居ただけの事。だが現在では是れ等の実力者達も滅んでしまい余だけが残って居る」

これまで抑えていた熱いものが、若者の内包する本来の姿と成って現われようとしていた。
「今や、余と老いぼれの悪党めとは、両立出来ぬ趨勢にあり!周瑜殿は曹操に攻撃を加えるべきだと言われたが、それは余の思う処と全く合致した。これぞ、天が貴殿を余に授けて下さったものと謂えようぞ!」
言うや孫権、つつと段をすべり降り、スラりと宝剣を抜き放った。
そして大声で宣言した。
呉は、曹操を、討つ!!
と同時に、宝剣が全身全霊の凄まじさで振り降ろされた。
デエエ〜イ!! 烈迫の気合一閃、前に置かれた奏案(上奏文置きの机)が、真っ二つに斬り割られていた。
「これ以上、降伏を申す者あらば、かくの如しと心得えよ!!」
※以下、参考の為に、『正史・周瑜伝』から周瑜の発言を全文掲げて措く。

『曹操は漢の丞相の名を楯にして居るが、その実は漢に敵なす賊徒である。将軍(孫権)様は優れた武略と大きな才能を具え、更に父上・兄上の烈を基に江東に割拠され、その土地は数千里・兵士は精鋭で英俊の士は為す事あらんと願って居る。天下を思う様に闊歩して、漢王室の為に害を為す者どもを除き去るべきである。況してや曹操は自ら死地へ飛び込んで来たのに、それを迎え入れるなど笑止千万。将軍様の為に今後の方略を立てますならば、たとえ北方の地が既に安定し、曹操に内憂無く久しい平穏が保たれ戦場で敵と交戦する余裕が有ったとしても、我々と水軍によって勝負する事など土台、出来無いのです。まして只今、北方は未だ安定せず、馬超と韓遂が関西に在って曹操の後患と成って居りまする。加うるに、騎馬を捨て舟を用いて呉や越の者に勝負を挑むのは、元来より中原の者達の得手ではありませぬ。更に現在は寒さが厳しく、馬に馬草は無く、中原の軍勢を狩り立てて遠く水郷地帯を跋渉させているのですから、土地の風土に慣れず、必ずや疫病が生じましょう。これら幾つもの点は、全て用兵の際に忌むべき処。然るに曹操は、その全てを犯して事を推し進めて居ります。将軍様が曹操を捕虜にされるのは、今日明日の事でありまする。願わくば瑜に精鋭兵3万をお預け下さり、夏口まで兵を進めさせて下さいますように。必ずや曹操を打ち破ってお目に掛けます。』

孫権が言った。 『老いぼれの悪人が漢帝を廃して自らが帝位に就こうと目論んで居るのは、久しい以前からの事なのだ。ただ袁氏の2人と呂布と劉表と私とを憚った。現在ではこれら実力者達も滅び、私だけが残っている。私と老いぼれの悪者とは両立出来ぬ趨勢にある。貴方は、彼に攻撃を加えるべきだと申されたが、それは私の思う処と全く合致した。これぞ天が貴方を私に授けて下さったのだ。』


それにしても、何とも凄い男である。テンヤワンヤの最終決議の場に乗り込むや、あっと云う間に「降伏・帰順」一色だった呉の国論を、あっさりと「徹底抗戦」に逆転してしまったのである。その上弱腰の慎重論者に、必勝の信念まで植え付けてしまったのだ。
 君主・孫権が、己の力量だけでは群臣の同意を得られず、天才諸葛亮の弁舌を以ってしても、どうにも出来無かった厚い障壁を、いとも簡単に蹴倒してしまったのである。
 それもこれも全て、周瑜公瑾の、大敵を前にしても決して屈せぬ不撓の誇り高さが在ったからこそであった。人は逆境に追い込まれた時にこそ、その者の姿が浮び上がって来るものだ。絶体絶命の淵に立たされた周瑜は、決して絶望せず、諦めなかった。その強固な意志が執念となり、何としてでも勝つ道を、必死に探し続けて来たのである。そしてその為に、敵の弱点を求めて、全力を傾けた情報収集活動が為されて来たのであった。

         
会議の終わった夜ーー周瑜と孫権は、2人だけの時間を持った。

「お約束通り決戦に持ち込みました。それにしても、長い間よくぞ自重なされて下さいましたな。御蔭で曹操の奴、すっかり此方が参っていると思っておる事でしょう。これで曹操が長江に乗り出して来る事は確定的となりました。望み通り、水上決戦に持ち込めます。戦さの帰結については御懸念くださるな。精兵5万が手中に有れば充分で御座います。曹操の野望を砕く事が出来まする」

防ぐだけではなく、一気に荊州を奪ってみせまする・・・との言葉は今は未だ、己の胸にだけ留めて置く周瑜であった。
 孫権は溢れて来る感謝と親愛の情を示そうと、周瑜の手を取り片手で彼の背中を撫でる様に身を寄せながら言った。

「公瑾どの、そんな風に言って下さる貴方の言葉は、私の思う処に寸分の違いも無い。子布
(張昭)や文表(秦松)といった者達は、夫れ夫れ妻子に心が引かれ、個人的な事情を配慮するばかりで私の期待には全く応えてくれない。唯あなたと子敬(魯粛)とだけが、私と心を1つにして呉れる。これぞ天が私を助ける為に、あなた方2人を授けて下さったものと思っております。5万の兵は急には集め難いが、打ち合わせ通り、既に3万を選んで、船も兵糧も兵器もみな貴方の指揮下に入っている。
 公瑾どのは子敬
(魯粛)・程公(程普)と共に、すぐさま先鋒として出発して下され。私は引き続き人数の動員に当り、なるべく多くの物資や軍糧を送りつけて、公瑾どのを後方から支援いたそう。公瑾殿の3万で曹操を処理出来るならば、どうか勝負を決して欲しい!但もし、何かの都合で意図通りに事が運ばなかった時には、無理をせず、すぐさま軍を返して私の元に戻って来て下され。その時には、この孫権仲謀が孟徳(曹操)と勝負を着けようと覚悟して居る程に!」
「宜しい!殿に其の御覚悟あらば、周瑜公瑾、必ずや御期待に
沿って見せましょうぞ!!」


ちなみに此の後、周瑜は孫権から、もう1つの問題について説得された。ーー〔
劉備との同盟問題〕であった。兵員集めに苦慮する呉にしてみれば、劉備軍2万余の纏まった兵力は馬鹿には成らなかった。合肥方面はじめ、北方の抑えを含めた全面対峙を考えれば必要な2万余である。(こうしてみると、曹魏に比べ呉の国力が如何に小さな物であったかが判る。と同時に、諸葛亮の関羽水軍温存策が見事な先見性を持っていた事も浮び上がって来る。その軍事力の有無こそが同盟成立の最大の要因となったのである。)

「現在、劉備殿とは互いに唇歯輔車の関係じゃ。同盟して措く事は、我等に損は無いと思うのだが・・・・。」
「いや、その観方は危ういと申すものですな。劉備は中々に喰えぬ人物です。彼の来歴から観ても、一筋縄では引き下がらぬ男だと思います。政事的に、後日必ずや我が国の発展に害を招く覇気を秘めていると、御用心あって然るべきでしょう。」
「ウム、重々用心は致そう。然し今、彼の3万は、はっきり言って魅力的じゃ。」
周瑜は政治戦略には不同意である。だがその一方、軍事戦術的には其のメリットは理解できる。
《−−劉備は後廻しでよいか・・・・》
先ずは、当面の大敵・曹操へ向かわねばならない。そこで周瑜は取り合えず、劉備との同盟には異議を差し挟まぬ事にした。
「解りました。然し、いずれ劉備の本性が現われんとした時には、改めて進言致しましょう。」

ーー時間は無い。既に誘い水として、合肥に攻勢を掛けた上は、今日明日にも曹操は出陣して来るかも知れ無いのだ。周瑜は最後に、既に番卩陽の地で練り上げてあった、呉軍の陣立・部隊配置について、孫権に了解を求めた。無論、孫権に異存の有ろう筈も無かった。
         (※例の中国歴代戦争史に拠れば・・・・)

    A《長江本軍
       総司令官ーー左都督・・・・【
33歳
       副司令官ーー右都督・・・・【
60代
       参謀総長ーー賛軍校尉・・・・【
36歳
       先鋒ーー丹楊都尉・・・・【
60代
       左衛ーー承烈都尉・・・・【
19歳
       右衛ーー長水校尉・・・・【孫求z
10代
         《水軍本隊
  当口令・・・・【
40代   横野中郎将・・・・【30歳
  中郎将・・・・【
40代  宜春長・・・・【20代
  奮威校尉・・・・【
20代  鄂長・・・・【胡綜??
  督軍校尉・・・・【
48歳
      《陸軍本隊=陸戦隊》

         征虜将軍(豫章太守)・・・・【
40代
    竟威校尉・・・・【
25歳  武猛校尉・・・・【??

    B《柴桑後軍
       君主(将軍)・・・・
孫権26歳
       運転都督・扶義将軍・・・・【
53歳
       運転副都督・裨将軍(彭沢太守)・・・・【
30代
      C《
北方方面守備軍
盧江守軍〕ー→(皖城)  
中司馬・・・・【
34歳  偏将軍・・・・【30代
歴陽守軍〕−→対(合肥)  
左長史・・・・【
52歳   横江将軍・・・・【厳o50代
広陵守軍〕−→対(東城)
左司馬・【
顧雍??丹揚太守・【孫静】40代 武衛校尉・【孫桓10代
                          (※尚、
は2年前に41歳で病没している。)

    A《長江本軍
      総司令官ーー左都督・・・・【
周瑜33歳
      副司令官ーー右都督・・・・【
程普60代
      参謀総長ーー賛軍校尉・・・・【
魯粛36歳
      先鋒ーー丹楊都尉・・・・【
黄蓋60代
      左衛ーー承烈都尉・・・・【
凌統19歳
      右衛ーー長水校尉・・・・【孫求z
10代
           《水軍本隊
 当口令・・・・【
甘寧40代   横野中郎将・・・・【呂蒙30歳
 中郎将・・・・【
韓当40代  宜春長・・・・【周泰20代
 奮威校尉・・・・【
全j20代  鄂長・・・・【胡綜??
 督軍校尉・・・・【
呂岱48歳
      《陸軍本隊=陸戦隊》

        征虜将軍(豫章太守)・・・・【
孫賁40代
  竟威校尉・・・・【
陸遜25歳  武猛校尉・・・・【潘璋??

    B《柴桑後軍
      君主(将軍)・・・・
孫権26歳
    運転都督・扶義将軍・・・・【
朱治53歳
    運転副都督・裨将軍(彭沢太守)・・・・【
呂範30代

      C《
北方方面守備軍
盧江守軍〕ー→(皖城)  
中司馬・・・・【
諸葛瑾34歳  偏将軍・・・・【董襲30代
歴陽守軍〕−→対(合肥)  
左長史・・・・【
張昭52歳   横江将軍・・・・【厳o50代
広陵守軍〕−→対(東城)
左司馬・【
顧雍?? 丹揚太守・【孫静】40代武衛校尉・【孫桓10代
                        (※尚、
太史慈は2年前に41歳で病没している。)総じて、その将官達は官位も低く、みな若い。果して若い力は
奇跡を起こせるであろうか・・・・!?



一方、
魯粛は抗戦が宣言されるや、迎賓館に待機する諸葛亮の元へ、すっ飛んで行った事は言う迄も無い。

「周瑜様はエラク自信たっぷりだったが、ぶっちゃけ、本当に勝てるのであろうかなあ?若旦那はどう思ってるんだい?」
現実に長阪坡で曹操軍の猛攻撃に遭い、その凄さを実体験している2人であった。
「水軍戦になれば、勝ち目は有るかと・・・・。」
「まあ、先ずは我等の望む方向に事態は進むのだから、後の事は周瑜様の戦さ振りに賭けるしかあんめえか。」
「それより、その後の事の方は、大丈夫で御座ろうかな?」
「おお、そっちの件は、オッケーで御座る。既に殿には内々で了承を取り付けてあり申す。」
決戦に勝った暁には、荊州の一角を切り取り、その周辺地域は
劉備に任せる・・と謂う大戦略の約束であった。名目上は、呉から
経営権を一時借用する〕のである。何ともアヤフヤな密約条項ではある。だが決戦の帰趨も判らぬ今は、単に画餅に終わるやも知れぬのだから、両者とも玉虫色の合意で手を打つしか無い次第であった。然し、魯粛も諸葛亮も、現時点では大満足であった。
2人共に
三国鼎立構想では完全に一致している。そんな2人にしてみれば、この戦いの持つ意味は、飽くまで、呉の攻勢防禦戦だと映る。曹魏百万が一夜にして消滅するなど絶対に在り得無い。一時的撤退を強いる戦いに過ぎぬのである。だとすれば当然、その後も永く両国の対決は続くであろう。その場合、とても呉国1国だけでは持ち堪えられない。〔1対1〕では話しにもならぬ早晩、併呑されると決まっている。だが〔2対1〕なら、カツカツどうにか拮抗状態を保ってゆけるかも知れ無い・・・・となれば、同盟相手の【劉備】には、それなりに強大に成っておいて貰わねばならない。−−それが魯粛の描く《国家的経営戦略》なのであった。

「我等の出番は戦勝後じゃ。ここは1番、周瑜殿のお手並み拝見とシャレ込もうかい・・・・。」
周瑜は、呉軍単独で曹操に挑む方針である。関羽・張飛・趙雲らを参戦させず、危険人物・劉備が、戦後に影響力を持つ事を排除せんが為である。周瑜は、劉備の存在を最も警戒している唯一の人物なのである。そこが根本的に魯粛とは異なる。
「外野はスッコンで居ろ!って訳で御座るよ。この際は遠慮せず、ずずずい〜っと、思いっ切り後方で戦局の行方を観望なされるが宜しかろうぞ。」
「ハハハ、そうさせて戴きましょうかな。」 と答えつつも諸葛亮は、この先を思うと、些か周瑜の存在に重圧感を覚えざるを得なかった。《−−周瑜公瑾・・・・厄介な相手じゃな・・・・。》

だが御蔭で劉備一行は、取り合えずの雨宿りの軒先を確保したばかりか、この大戦に於いては、兵力を温存する事も、戦場での自由行動をも黙認されると云う、願っても無いポジションを得たのである。ーー事実、このあと諸葛亮(劉備一行)は、赤壁の戦いが終わる迄、呉軍艦隊の遙か後方で”洞ヶ峠”を決め込んで、一切史書には登場して来ないのである。当然、「演義」が描く様な、派手派手しい活躍なぞ為し得ようも無かったのである。
諸葛亮は独り、上流の樊口に居る劉備に向かって、密かにほくそ笑もうとして、・・・・そして、止めた。



中国史上かつて例の無い、水上会戦の場所は、「江陵」と「柴桑」の中間点でなくてはならない。ただ待機してのみ居て、柴桑に迄曹操の進出を許せば、周瑜艦隊18番の、進退の妙を発揮する事が出来なくなってしまう。だとすれば、その機先を制して、曹操が出陣する直前に、此方も出動するタイミングこそが肝腎となる。
では、その曹操軍の出航をどうやって知り得るのか?偵察に出してある快速船の到着を待っていたのでは、時期を失する。そこで周瑜が講じた通信の手立ては、《
烽火》に拠る情報伝達であった。
裴松之が付す『
揚都の賦』には・・・・『烽火のろしによる通信は、炬を独立峰の頂上に設備し、それ等はみな長江に沿った互いを見通す位置に在り、百里・或いは五十里・三十里と云う間隔で設置された。敵の侵入があれば、炬を掲げて通信をし、一夜のうちに1万里にも届かせる事が出来た。孫権の時代、ちょうど暮れ方に西陵で炬火を挙げたところ、太鼓が3更(真夜中)を知らせ終わる頃には、呉郡の南沙(常熟)にまで達した。』とある。キチンと整備された光通信網が完成されるのは、もう少し後の事ではあろうが、一刻一瞬を争う情報の取得に、周瑜はこの手を活用したであろう。


魏呉・決戦の仕掛け人は【周瑜公瑾】であり、間違い無く、その大戦は彼の為にこそ在った。いな、彼こそが長江南岸の岩の壁を赤く染め上げてゆく主人公なのだ。そして、炎に照らし出されて赤く映った壁の色は、その戦勝の鮮やかさと共に、永く人々の心に焼き付く事になる。そして大戦後、中国の人々はこの戦場を《
赤壁》と呼ぶ事になる。
それを為す男が今、空の高みに燈る烽火の昇天を待つ。

そして
・・・・周瑜公瑾
   赤壁の戦いは始まった!!
「−−いざ、出陣!!」
ついに、周瑜艦隊3万は軍事行動を開始した。闘志を内に秘めた静かな滑り出しであった・・・・。
【第148節】 赤壁戦を蔽う〔10の謎宮〕 → へ