第145節
美女将軍推参!
                                             そう  じょう
                                   呉国騒擾記




柴桑さいそう−−主力軍が大集結している 呉の大本営・・・・と言えば聞こえは良いが、その内実はガタガタであった。 曹操の荊州侵攻を知り、取り合えず此処まで来ただけである。未まだに陣立てさえ確定されて居無い。どころか、一体全体、本気で曹操軍と決戦するのかしないのか・・・・それすらも決まって居無いのが実情であった。
正史・諸葛亮伝』に拠れば、敗走した劉備一行が劉g軍と合流して「夏口」に居た段階(9月の時点)で、既に、『孫権ハ軍勢ヲ従エテ「柴桑」ニ居テ、勝敗ノ行方ヲ窺ッテ居タ』とある。諸葛亮はこの直後に魯粛を伴って、この夏口から柴桑の呉の本営に乗り込み初めて孫権とまみえたのであるから・・・・君主・孫権は、未だ国論が決戦とも降伏とも定まらぬ9月の段階で、兎にも角にも軍を率いて、「柴桑」には来て居た事が知れる。

ーーその柴桑の
孫権・・・・引っ切り無しにトイレに立つ。重臣会議を中座しては、議論を放ったらかすのである。1回立つと2刻(30分)近く戻らない。下手をすれば3刻以上もかかる。だが腹の調子が悪い訳では無い。最前線であるから仮設トイレではあるが、仮設とは言っても1国の君主のトイレである。あだや疎かな代物では無い。専属の侍女が香を焚き込めて控え、絹の帳に厚い褥が敷かれている。其処で独り、長い息抜きをするのである。最近は頓にその休息時間が長くなっていて、1回厠に立てば小1時間は籠ったまま出て来ない。ーーそれも其の筈であった。孫権の耳には、もうすっかりタコが出来ていたのである。いい加減うんざりする様な、同じ論議の繰り返しであった。降伏勧告の大合唱、帰順の説得ばかりである。
ーーやれ、曹操は朝命を奉じているのだからとか、やれ、長江の地の利が損われてしまったのだからとか・・・・詰り、君主・孫権の意向を除けば、群臣会議に於ける『国論』は、全員一致で既に〔
降伏・帰順〕と云う事で、事実上、固まり切っているのであった。
『正史』に其の様子や論調を観てみると、『
呉主伝(孫権伝)』にいわ
『この当時、曹公は新たに劉表の軍勢を手に入れて、圧倒的な勢いを示していた。
  呉の朝論もみな其の勢力に畏れをなし、
孫権に曹公の指図を受け入れる様にと勧める者が多かった


又、『
周瑜伝』には、その〔降伏の論旨〕が載っているーー 
曹公は、その本性は豺虎なので御座いますが、漢の丞相だと云う名分を振り翳し、帝を擁して四方を征伐し、事ある毎に朝廷の意向なのだと称して居りますので、ただいま彼を無下に拒めば、事は更に面倒になります。それに加ゆるに、将軍(孫権)様にとって絶対に有利な条件であり、曹操の阻止を可能にする物として、
”長江”が存在したので御座いますが、いま曹操は荊州を奪取しその地をそっくり手中にしてしまいました。 劉表は水軍を整備し蒙衝(巡洋艦)や闘艦(戦艦)は数千と云う数に上りましたが、曹操が其の全てを発進させて長江沿いに進み、また歩兵も動かして水と陸との双方から攻め下って参りますれば、その時には、長江の険は敵味方が共有する処となり、味方の有利さは消えてしまいます。然も双方の勢力の差は歴然として、比較にもなりません愚考致しまするに、大局的な見地からすれば、
曹操を迎え入れるのが宜しゅう御座いましょう。
まさに四面楚歌・・・・独り、君主・孫権だけが、態度保留をし続けて居た。それでも最初のうちは、武将達の中に2・3抗戦論を述べる者も居たが、曹操から『
近く辞を奉じて罪を伐つに、旄磨南を指すや、劉j手を束ねたり。今、水軍80万の衆を治め、方に将軍と呉に会猟せん。』との脅し文が、現実に送り付けられて来るや、その声も全く聞かれなくなった。
《ーークソッ、皆、己の保身ばかり考えくさって・・・・!!》
《ーー何が大局的見地じゃ・・・・!!》歯軋りし、全員を呪い殺してやりたいのが本心であった。では此処で本音をブチ撒け、君主の威光を振り翳して怒鳴りつけたらどうなるか?
「何をほざくか、この不忠者め等が!おのれ等は先君からの恩顧を忘れ、この儂を見限って曹操に鞍替えしようと言うのか!儂は断じて降伏なぞせんぞ!戦さじゃ!徹底的に抗戦するんじゃ!」
 と一喝すれば、鶴の一声で、皆がヘヘェ〜ッと恐れ入るかと言えば・・・哀しい哉、それは100パーセント有り得無い事だと判り切っていた。逆に、「殿、御乱心!」とばかりに、捕り籠められ兼ねない。要は、やれ忠義だの、やれ大義だのの議論の中身では無く、結局、最後はビビッて居るだけの事である。簡単に言えば
勝てっこ無い!》 と云う現実の前には、如何なる威光や権威も歯が立たないのである。
 それにしても、グウの音も出せぬ程の、ひど過ぎる兵力差である。誰が観ても絶対に勝ち目の無い、彼我の大差である。それでも尚、孫権が意を矯めてジッと針の蓆に座り続け、結論を口にせぬままに隠忍して居られるのは・・・・いま此処には居無い2人の忠臣のお蔭であった。
その信頼出来る、唯一の心強い味方とは、呉国最高実力者の「周瑜」であり、同盟者を連れに出掛けた「魯粛」であった。

その周瑜は以前、自信満々に、こう言い置いて番卩陽湖へと旅立って行った。
「大丈夫です。
必ず勝てます!私に任せて措いて下され!」
そして、その必勝の理由と根拠・裏付けを逐一聴かせて呉れたのだった。・・・・だが、連日連夜「勝てぬ」「負ける」の大合唱を繰り返し聞かされて居ては、流石に孫権自身にも一抹の不安が横切って来る。ーー《降伏した劉jは殺される処か、1郡を与えられて爵位まで授かったと聞く。もしかしたら儂も・・・・。》との悪魔の囁きに、ついつい惹き込まれそうになる。ーーだが、そんな誘惑を振り払い、弱きの虫に冷水をブッ掛けて目を醒まさせて呉れるのは、
魯粛のキツ〜イ一言であった。
「降伏すれば、
殿には生き残る道は在りませんぞ!
魯粛はそう言い置いて荊州へ発って行った。−−グサリと来た。何故か?少し説明を要する・・・・
孫権一族の家柄・家の格は、決して高いものでは無く、寧ろ当時の尺度からすれば、最下層と謂えるからであった。孫一族は親の代から、武力に拠ってのみ成り上がって来た者達である。
大別すれば《
軍人》の部類に属する。当時、軍人の家柄は低いものとされていた。この事は人類史上、世界的普遍性を持つ。国家発生の初期段階に於いては、先ず王侯の血縁貴族による支配(古代封建制)があり、軍人は其の下でシビリアンコントロール(文民統制)されるべきものであった。中国では、軍人は「」と呼ばれた。
そもそも古来の封建制(周の時代)では、庶民を最下層とし、「士」はそれよりは上だが、支配階級の中では最下位とされて来た。
春秋時代からは実力社会となり、『士』の中でも文武両道を修めた者達は【
士大夫】と格を上げ、官僚層に喰い込んでいった。

だが学問を修めぬ単なる武人は「
士伍」と蔑まれ、「士大夫」からは相手にもされぬ最下位の儘であった。成り上がり者の武家・孫一族は、今は呉の君主として認められているが、君主と云う衣を剥がれて裸になれば、その実相は「士大夫」でも無く「士伍」なのである。党錮の禁を経て「士大夫」は更に【名士】へと変容するが「士伍」との地位の差は更に広がり、てんで相手にされぬ存在となっている。−−あの劉jは漢王朝の縁戚筋に当り、れっきとした『名士層』の家柄・家格であったからこそ封爵されたのだ。だが『士伍』に過ぎぬ孫権は、その対象にすらならないのである。つまり、野垂れ死にが待っているだけであった。却って群臣達の方が「名士」や「士大夫」であり、孫権より遙かに上の爵位や官位を約束されていたのである・・・・。
あの時も、トイレに立った自分を追って魯粛が軒端に待って居た。会議は例の如く、全員が恭順を述べ立てていたが、彼は口を封じられ一言も発する事をして居無かった。
何か、言いたい事が有るのではないか?
魯粛の手を取る様に尋ねると、彼はジッと此方の目を凝視めて答えて呉れたものだ。
先程から人々の議論をじっと聞いて参りましたが、殿を誤らせようとする議論ばかりであって、共に大事を図るには足らぬもので御座います。私には曹操を迎え入れる事も出来ますが、殿にはそれが出来ぬので御座います。  何故かと申しますれば、私が仮に曹操を迎え入れましたならば、曹操は郷里に付託して、私についての人物評価をさせ、その結果に基づいて官職を与えて呉れるでしょう。私には郷里に些か名望も有ります故、その官位は下曹従事より下る事は無く、牛車に乗り、役人や兵士を従者として従え、人士達と交わり、官位を歴任いたしますれば、やがて州の刺史や郡の太守と成れます事、間違い御座いません。
それに対し、殿が曹操に迎え入れられました時、一体どの様な身の落ち着き処が得られると、御考えなのでしょうか?どうか急ぎ大計を定められて、人々の議論は用いられませぬように・・・!

衆議とは余りにも違うその誠意に、孫権は大きく歎息したものであった。
あれ等の者達が主張する意見は、甚だ私は失望させるものであった。今、そなたが大計を開示して呉れたが、私の考える処に些かの齟齬も無い。・・・・是れは、天がそなたを私に授けて下さったのだ!
ーーだが今、周瑜も魯粛もここ柴桑には居無い。居るのは「降伏」「恭順」を主張する重臣達ばかりである。そして今日も亦、孫権の耳に届くのは〔降伏の大合唱〕だけであった・・・・。




・・・・「ア ・ ニ ・ ウ ・ エ! 〜〜」・・・・・

《−−ん??》・・・・思わず足を止めて、孫権は周囲を見廻した。《空耳か。俺も大分疲れて来た様だな。アイツの声が聞こえて来るとは・・・・》

「ア ・ ニ ・ ウ ・ エ ・ 様!〜
〜」
こんな遠い柴桑の軍事基地では、聞く筈の無い声であった。妹は400キロ下流の安全な館に居なければならない筈である。立ち止まった孫権は、ヤレヤレと首を1つ振ると、再び歩き始めた。

「コラッ!兄貴ィ!!」 ーーギクッ!!
・・・・もしや!と思って振り返るや、「キェ〜イ!」と例の懐かしき気合と共に、思いっきしの”お面”一発が襲い掛かって来た。

「わっ!出たな妖怪!」  思わず条件反射で、何時もの口癖が飛び出したが、見てビックリ!!

「何じゃ?その格好は!?」
居る筈も無い妹が、然も鎧兜の若武者姿で仁王立ち・・・・!

「お、お前、何で・・・・?」  「何で、では有りませぬ!」

「あ・の・なあ〜此処は戦地ぞ。若い娘が独りで来る所では無い」

「独りでは有りませぬ。皆の者、出て参れ!」

凛華がサッと手を挙げるや物陰から出て来るは出てくるわ。ギョエ〜!!な、何と女武者達が5・60人、いや100人近くもゾロゾロと姿を現したではないか!誰もかれもが凛々しい甲冑姿で、手に手に薙刀を抱えている。中には背に箙を括り付け、弓を手にする者まであった。
「我が君、お久しゅう御座いまする!」 余ほど鍛錬が行き届いているらしく、一同の挙措は一糸の乱れも無く見事であった。
「ウ、ウム、こんにちわ・・・・」
丸で一面に花が咲いた様であった。思わず頬が弛む。

「兄上!何をヤニ下がって居るのですか!そんな場合では無いでしょう!しっかりと為さいませ。 君主として、もっとビシッとした態度が取れませぬのか!」
花も恥じらう様な清艶な美貌を、鎧兜に押し包んだ妹が、本気で此方を睨みつけている。
「分かった、分かった。兎に角、彼女達をどうにかして呉れ。どうも見慣れぬもんだから、何か落ち着かぬ。」

凛華姫が小さく頷くと、花の一団は又ササッと掻き消えた。
「−−・・・・。」
「全く歯痒くて、どうにも我慢致し兼ねます。 一体兄上は、今をどの様な時とお考えなのですか!?」

妹は、手にした鞭をピシピシ腿に打ち据えながら、眉間の辺りに美しい怒気を表わして突っ掛かって来る。どうも苦手である。
さっぱりとした気性の可愛い妹ではあるが、何とも御し難く、手に負えぬ処のある肉親だ。悪気は無いがズケズケと平気で本音を撒き散らし、決して後へは退かない。兄妹ではあるが、気性は自分とは余り似て居無い。どちらかと言えば、亡き兄の孫策をそのまま女にした様な妹であった。『
正史・法正伝』の中に彼女の記述がある。ーー妹ハ才気ト剛勇ニ於イテ兄達ノ面影ガ有ッタ』ーー
彼女自身、常々「男に生まれたかった」と公言して憚らず、女に生まれて来た事を悔しがっている。人々は、その美しさと気性の激しさから、この妹を『
跳ねっ返り』とか『じゃじゃ馬』だとか『女親分』と言っている。1番マシなのは『美女将軍』であった。確かに美しい
亡き小覇王・孫策から、男性の部分を差し引けばその跡にはこうした女性が創り出されるに違い無いと、誰しもが納得する様な
女傑である。誇り・気位も高く、彼女の廻りの空気は、常にピンと張った凛気に満ちていた。救いは性格も兄譲りで明るく、陰湿な処が無い事だ。だから誰も彼女を嫌っている者は居無いし、寧ろみな大好きであった。
 但、どうも戴けないのは、ボヤボヤして居れば、君主の頭の1つもポカリとやる位の、気合の入り過ぎであった。その上、無類の武芸好きと来ている。裸馬には跨るは、薙刀を振り廻すは、武芸試合には挑戦するは・・・・それが又強いのである。兵卒あたりでは歯が立たぬ。将軍連中でも、女だと思って手加減すると怪我を負い兼ねぬレベルにまで達している。
 自然、お付の女官達も皆、文芸よりは武芸自慢を競い合う次第となり、彼女の館の在る一角だけは、丸で結界が張られたかの如く、現在でもピリピリとした空気に包まれていた。もう、とっくに嫁に行っていなければならぬ妙齢であるが、遺憾せん、相手が居無いのである。身分の高貴さのバランスからしても適当な格の男性は限られたが、なにせ、
死ぬまで尻に敷かれっ放しは目に見えているのだから、皆尻込みし、御遠慮仕ってしまう・・・・のである。

「そんな事を言いに、わざわざ此処まで遣って来たのか!?」

言ってしまってから《いかん!》と思ったがもう後の祭りであった

「そんな事とは何事ですか!大体、そんな心根だから家臣どもに侮られ、君主の君の字の働きも出来無いのですわ!曹操ごとき老いぼれの奸賊に、何をビビッて居られるのです!公瑾オジ様の爪の垢でも飲んだら如何です!!」
凛華は勝手にオジ様と呼んでいるが、周瑜も流石にニコニコ笑って居るだけで、その呼び方に異存は唱えて居無かった。

「何故、公瑾オジ様を呼ばれぬのです?直ぐに御呼び為されませ!私はこの目でオジ様の顔を見るまで帰りませぬよ!兄上には、孫家の誇りをお持ちなのですか?ウジウジと此の期に及んで未だ煮え切らぬ態度ばかりとは、女の私でさえも呆れ果ててしまいます!」

烈火の如く怒ったと思うと、最後は涙声になっていた。

「・・・済まぬ。女のお前の心まで騒がすとは、この兄の不徳じゃ。だがな、心配いたすな。他言無用の秘密じゃがーー儂の態度は全て、お前の好きな公瑾殿からの指示なのだ!」

「−−え!では・・・・!!」
急に凛華がうろたえた。自分の口からはカラッと言い放つが、他人から”周瑜”の名を出せれると、途端に乙女に変身してしまうのである。流石に孫権は、その妹の弱点を握っていた。この女将軍を黙らせるには”周瑜護符”に限るのだ。

「儂の心は最初から決まって居る。勿論、公瑾殿も一心同体じゃ。いずれ曹操とは決着をつける!但し、それを公表するのは、決戦ギリギリの段階に至った時じゃ。そこら当りの兵理や戦さの呼吸は全て公瑾殿とは打ち合わせ済みなのだ。よいな、是れは絶対に口外無用ぞ!」
見た事も無い毅然とした兄の顔であった。

「では兄上は〔
腹芸〕を演じて居られるのですか!?」

「まあどっち就かずのノラリクラリはこの兄の性格だと云うことさ」

「もしかしたら、降伏も有り!ーーと期待させて措いて、実はそれによって離脱者の出現を抑える・・・・のですね!」

「圧倒的に不利な立場の君主には、いざの時にワッと行くしか手は無いのさ。大敵を前にして、何ヶ月も前から決戦を待たされて居たら、堪ったもんでは無い。真っ先に此の儂自身が逃げ出したくなるわい。アハハハ、その点では、女のお前の方が、儂よりも
ズンと凄い!!」

(※この無手勝流を手本として信長は桶狭間に出撃して行った、と筆者は思っている)


「−−流石だわ。兄上も少しは成長していた様ね。」

「ほう〜、生まれて初めて、此の兄は妹から褒められたかな?」

「いいえ、勝たねば褒めてはあげません!」

「ほ、そりゃ、そうだ。・・・・だが、ともあれ、美女将軍のお出ましでこの兄は随分と心強く励まされたよ。礼を言おう。万事そう云う訳だから、安心して本国へ帰って呉れてよいぞ。」

「分かりました。其れは其れで善いでしょう。」妹はパッと愁眉を開いたが、未だ完全には納得して居無い様子であった。

「もう1つの件はどうするのです!?」

「ヘッ?もう1つの件とは何の事じゃ?まさかお前の嫁入り話しとか?いや、其れは無いな。うん、絶対に在り得無い!」

「んもう〜、何を確認している訳!?私のいい人は公瑾様だけに決まってるでしょ!・・・・じゃあ、ホントに何も知らないのね!」

「何の事だか判らん。」 「やっぱしね。実は・・・・・」凛華は孫権の耳を引っ張って口を近づけると、或る危惧を報告した。

「そ、それは真か!?」 妹が齎した其の話しの内容は、いかに無手勝流の孫権にも、聞き捨てならぬ一大事であった!!

「だが今、儂は柴桑を離れる訳にはゆかぬ。それに正面切って儂が乗り出したとなれば、事は穏便には収まらなくなってしまう・・・」

「本国に”朱治さん”が居るわよ。」

「お、成る程!同じ最古参同士じゃな。よし、凛華。一筆認めるから、至急に其れを朱治殿に届けて呉れ。朱治であれば即応して呉れるじゃろう。」  「心得ました。」
この時点では未だ本国各地に在って、柴桑には召集されて居無い重鎮が何人か居たのである。即ち、孫権は未まだ”完全なる”臨戦体勢は採れない儘に、様子を窺いながらの柴桑着陣であったのだった。
 その重鎮の1人に
朱治が居た。初代・孫堅の旗挙げ以来、2代目・3代目と忠節一筋の最古参の重臣である。万が一に備えて本国・呉郡に控えて居た。
「然し迂闊であった。まさかと思い、見逃しておったわ。」

「やはり兄上は愚図のお人好しだわね。腹芸なのか、天然ボケなのか、きっと後の方でしょうけどね。」

「まあ此の際は、何と言われ様と仕方無いな。
勅使の来往は大分前の事じゃったから、一件落着かとばかり思って居った・・・・。」

「全く、男なんて云う生き物は、み〜んな腹に一物有るんだから
キライ!」
「まあ、そんな処だろうかな。」

「でも、公瑾オジ様だけは違うけどね。」

「ああ、捨てたもんでは無いぞ。朱治殿はじめ信頼できる者達は未だ未だ居る。」

「信頼するより信頼されよ・・・・それが君主の順番ですよ、兄上。」

「ハイハイ、仰せ御尤もで御座いまする。」

「じゃあ私帰る。会いたかったな、公瑾様に・・・・」

「儂も早く会いたい。会ったらお前の様子も伝えて置いてやるよ」

「そんな事しなくていい・・・・。」

「そう云うものか?」

「そう云うものなの!ったく、この朴念仁!」

「では其の件、然と頼んだぞ。」

「本国は私に任せて、兄上は必ず凱旋するのですよ!」

「ああ、可愛い妹を泣かせるものか。」

疾風の様に現われて、疾風の様に去ってゆく・・・・・
                                 (無論、フィクションでありました。)
さて此処からは【史実】である。その事件が”何時”の事なのか定かでは無いが、史料の記述内容から推せば(その対話の内容を信ずれば)、朱治が乗り込んで”その人物”と〔膝詰め談判〕に及んだのは決戦間際の相当ギリギリの段階の事であったらしい。恐らく朱治は、決戦に参加する為に相当数の軍兵を率いて遣って来たであろうから、 最悪の場合は、最古参の重鎮同士・味方同士が軍事衝突を起こし兼ねない、スレスレの緊迫状況下に置かれたと想われる。無論、単独会見・膝詰め談判が決裂した場合ではあったが・・・・
先ず事の発端は、漢の朝廷からの
勅使が、その人物を訪れた事から始まった。使者の劉陰が向かった先は、この柴桑の直ぐ背後(南)に在る「豫章郡」であった。無論、呉国の領土内であり、荊州と国境を接する要の地である。詰り曹操の使者は、漢朝廷の権威をよい事に、敵中を堂々と通って行った訳である。
−−その 
豫章郡太守・・・・曹操とは親戚関係にある。と言うより、若いカップルの実家同士・親同士と云う深い姻戚にあった。で在りながら然も、孫氏一族の直系血族であり、初代・孫堅旗挙げ以来の重鎮で在り続けている。だから周瑜の構想では、彼は陸軍の総司令官候補であった。又、君主・孫権にとっては年長だが、父の兄の子・即ち従兄弟(いとこ)同士でもある。
 さて、その大物とは一体誰なのか?
    (これだけでスッと名前が出る様であれば、貴方は相当な”三国士”で在られる。)

字は
伯陽・・・・実は、既に第4〜5章で頻繁に登場している人物である。が然し、歴代君主の存在が余りにも強烈であった為、常に脇役としてしか描かれて来て居無い。そこで改めて彼の〔伝〕を転載してみるので、思い出して戴きたい。
           ーー『
正史・××伝』ーー
『××は字を伯陽と言う。父親の孫羌は聖台と言い、孫堅の同母兄である。 彼は若いうちに両親を亡くし、弟の孫輔が未だ赤ン坊であった為、彼自身が弟を養育し、大変な弟思いであった。郡の督郵守長となった。
 
孫堅が長沙で義兵を挙げると、××は役人をやめ、孫堅の配下として征伐に従った。
孫堅が逝去した時、××は孫堅に代わって残された軍勢を率いると共に、その柩を守って故郷へ送り帰した。のちに
袁術が寿春にその根拠地を移すと、××もその配下に入った。・・・・(中略)・・・・のち袁術は××を丹楊都尉に転じさせたが、やがて揚州刺史の劉遙の圧力が強くなり丹楊(江東)には居られなくなった為、配下の幕客や軍勢を率いて歴陽(長江北岸)まで戻り、其処に留まった。 やがて袁術は再び××に命じて、呉景(呉夫人の弟=孫策兄弟の叔父)とコンビを組ませて樊能や張英らに攻撃を加えさせたが、直ぐには(横江津を)陥落させる事が出来無かった。
(独立を決意した)孫策は江東へ渡ると、××や呉景を援助して張英・樊能らを打ち破り、更に軍を進めて劉遙を攻撃した。劉遙は豫章へ逃亡した。孫策は、××と呉景とを寿春に戻らせて袁術に報告させた。折しも袁術が皇帝を僭称したので、××は妻子を棄てたまま江南へ戻った。
 この当時、孫策は呉郡と会稽との2郡の平定を終わっており、××は孫策と共に盧江太守・
劉勲と江夏太守・黄祖との征伐を行なった。その凱旋の帰途、(敗走した)劉遙が病死したとの情報が入った為、豫章郡に立ち寄り、そのまま××は豫章の太守の任に当たる事となった。』

・・・・と以上、ザッと目を通しただけでも、孫氏3代の全ての歴史に深く関わり続けて来た、身内中の身内である。
もうお判りであろう。ーーその人物とは
孫賁(そんふん)である。今も豫章郡太守として、荊州国境をデンと抑えている重鎮である。では何故その孫賁が、曹操と親戚関係に在るのか・・・・それは無論〔政略結婚〕以外の何者でも無かった。孫策伝の中にその時の事情が記されている。

『この頃
 (200年の官渡決戦の直前の頃)は、袁紹の勢いが最も盛んな時期に当り、然も孫策が江東の地を統合してしまっていたので、曹公も存分に力を発揮する事が出来ずひと先ずは孫策を手懐けようと計った。そこで自分の弟の娘を孫策の末弟の孫汲ノ縁付け、また息子の曹章の為に孫賁の娘を娶り孫策の弟の孫権と孫翊とを夫れ夫れ手厚い礼で自分の元に招いて官職に就け、一方、揚州刺史の厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた。』
その政略結婚の残滓が未まだに、一応は続いていたのである。曹操は其処を突いて来たのであった。表向きは、孫賁に改めて漢の朝廷から正式な〔征虜将軍〕を拝命させ、豫章太守の地位も追認すると云うセレモニーであった。ちなみに孫賁は、既に袁術から征虜将軍号を与えられており、豫章太守は既成事実であった。それを態々その時期(荊州侵攻直前頃であろう)に、敢えて強行したのであるから、誰しもが〔裏に何か在る〕と勘ぐった。無論、孫権も注視していた。・・・・だが、この時は何事も無く済んだのである。尤も、そんな衆人注目の中で表立って動く馬鹿は居無いであろうーーそして、そのほとぼりが冷めた今、孫賁は密かに動き出した

使者の劉陰は勿論、曹操の真意を伝えていた。
「実家の親同士、互いの子の幸せの為に、又互いの家門の繁栄の為にも、この際、貴方の真心の証として、
御子息を人質に預かりたい。もし貴方が同意して下されば、未来永劫に渡って両家の絆は固まり、厚遇は保証された事になるでありましょう。」
言葉はどうあれ、〔
寝返りの勧め〕であった。孫呉政権が滅亡した場合に備えて措いた方が身の為である・・・・との恫喝でもある。
「今すぐにとは申さぬが、時期を失すれば、もう2度とはこう云う機会は無いでありましょう。」
孫権の従兄に当たる豫章太守の孫賁は、その娘が曹公の息子の婦となっていた事から、曹公が荊州を破って、その威声が南方を震わせる様になると、孫賁は心に畏れを抱き、息子を人質として魏へ差し出そうと考えた。 ・・・・《正史・朱治伝
そこへ、孫権の内意を受けた
朱治が乗り込んでゆき、懸命の膝詰め談判に及んだ。この時54歳。彼は孫賁とは立場が逆の”臣下”として、その生涯を孫氏3代に捧げた人物である。
 だが此の場面では、一体どっちが主家筋なのか判らない様な塩梅である。念の為、孫賁同様に略歴を転載して措く。
           ・・・・『
正史・朱治伝』・・・・
『朱治は字を君理と言い、丹楊郡・故彰の人である。孝廉に推挙される。
 のち
孫堅の配下に入り征伐に従った。司馬に任じられ、長沙・零陵・桂陽3郡の不服従民、周朝・蘇馬らの討伐に参加して、手柄を立てた。孫堅は朱治を都尉の職務に就かせた。董卓の討伐に参加して、董卓を陽人の地で破り、洛陽に入った。孫堅は朱治を督軍校尉に就け、本軍から独立した1軍を与えて徐州牧・陶謙の元に赴かせ黄巾討伐を援助させた。
 孫堅が逝去すると、朱治は
孫策を盛り立て補佐しつつ、袁術の元に身を寄せた。
やがて袁術の統治が道から外れている事を見て取ると、孫策に軍を還して江東の地を平定するようにと勧めた。当時、太傅の馬日禪が寿春に居たが、朱治を招いて幕府の掾とし、次いで呉郡の都尉に昇進した。・・・・(略)・・・・やがて劉遙との衝突が起こったが其の時、孫策の一家眷属は全て劉遙支配下の揚州に居た為、朱治は人を曲阿に遣って太妃(呉夫人)と孫権兄弟とを迎え取らせると、鄭重に保護を加え、行き届いた心遣いをした。
 朱治は呉郡太守・許貢を打ち破って役所に入ると、
呉郡太守の職務を遂行した。孫策は劉遙を敗走させると、東に進んで会稽郡を平定した。孫権が15歳の時、朱治は彼を孝廉に推挙した。 のちに孫策が逝去すると、朱治は張昭らと共に孫権を盛り立てた。孫権は朱治を呉郡太守に任じ、扶義将軍の職務に当らせた。』

その【
朱治】の説得の言葉が『江表伝』に載っているので、其れを元に膝詰め談判の模様を再現してみよう。ーー先ず朱治は、お互いが初代からの最古参同士である事を思い出させ、自分は孫賁と同じ歴史を歩んで来た、旧来からの同志で在った事を伝える。
破虜将軍さまが、昔、義兵を指揮され、都に入って董卓を伐たれた時、その御名声は中原第一であり、正義の士たちは勇気ある行動を高く評価したもので御座います。」
実際に其の懐かしい昔の場面や光景を共有して、互いの眼前に思い出せる者は、既に少ない。
「−−・・・・。」 
孫賁は身構える様な固い表情の儘、ジッと目を閉じて居る。
朱治は続いて、2代目へとバトンタッチされた頃の苦労や、その快進撃時代の日々を語りかけた。
討逆将軍さまが其の跡を継がれ、6つの郡を切り開いて平定されますと、特別に、貴方さまが血筋を分けた身内で在られ、この時節に相応しい才能を授かって居られると御考えになって、わざわざ漢朝廷に上表をされ、割り符を裂いて大きな郡の支配を任せられ、加えて部将達を配して軍事的な指揮体制も整えて下さいました。」
孫賁はやっと目を開けたが、その視線は宙空の1点を睨んだ儘である。
「かくて貴方さまは文治・武事両面の官署を取り仕切られる事と成ったので御座います。貴方さまが受けられた栄誉は、御宗室の内でも他に比類なく遠近ともに高く仰ぎ見て居る処で御座います

何を思うか孫賁は席を外して立ち上がると、窓際に佇み、後ろ手に背を向けた。その背中に顔を向けつつ、朱治は更に、今の主君である3代目・孫権の資質と業績を問う。
討虜将軍さまは、聡明さと神の如き武略とを以って、大きな事業を引き継がれますと英雄達を1つに纏められ、当面の課題を遍く対処されて軍勢は日々盛んと成り、事業は日毎に隆盛に向かっております。昔、蕭王が河北に居られた時の盛んさも、いま以上のものでは御座いませんでした。孫権さまは必ずや、王業の基礎を立派に定められ、東南の地に在って天下の情勢を見守りつつ好機に応ぜられるに違いありません!」
「−−・・・・。」
「さればこそ劉玄徳どのも遠方より真心を通じ、救援を求めて参ったのであって、この事は天下の全ての者が存じて居る処で御座います。」

ーー実は・・筆者は、この発言を紹介したい為にこそ、この場面を設定した。何故なら、この1事に拠って、この出来事の”
時期”が限定されて来る事になるからである。ーー即ち、この孫賁の動揺(人質提供)が発覚した時期は・・・・敗走した【劉備】が、どうにか虎口を脱して1息ついた以後の事なのである。それは早くても9月中旬以降であり、この後の史実の展開から推測すれば、限り無く12月に近い時点であろう。その12月には〔赤壁の戦い〕が起きる。ーー詰り・・孫権陣営は曹操との決戦が迫り来るギリギリの間際に於いてでさえもその内部では宗族である重鎮までもが裏切り行為を真剣に考えざるを得無い様な、悲観的な展望しか持てなかったのである。君主の従兄にしてからが此の体たらくでは、あとは推して知るべし・・・如何に呉の者達の多くが《必敗》を予想して居たかが浮かび上がって来るのである

曹公が荊州を破って、その威声が南方を震わせる様になると、孫賁は心に畏れを抱き、息子を人質として魏へ差し出そうと考えた。朱治はこの事を聞くと、みずから願い出て孫賁の元へ行って目通りすると、孫賁に向かって情勢の成り行きについて陳べた。孫賁は、この諌めが有った為、人質を送る事を取り止めにした。』  〔正史・朱治伝〕 ーー何をか謂わん哉!!・・・・である・・・・



さて、そんな孫権陣営の内実を知ってか知らずか、この朱治の諫言の中にも出て来た
劉備である。九死に一生を得たものの為す術も無いダメ男・・・・もはや以後の運命は、若き軍師・
諸葛亮に全てを委ねるしか無い状況に追い込まれていた。

その全てを失った灰の中から、主君を再び蘇えらせる事こそが、彼の使命である。 そしてそれは又、臥して来た龍が、いよいよ飛天して、新しい時代を創造する為の、吼吼の声を挙げる時でもあった。


未まだ和戦両論に大きく揺れている呉国に向けて、遂に
が舞い上がった


その名も高き
諸葛亮孔明の始動である!
【第146節】 臥龍 飛天す! (孔明の始動) →へ