

まさに四面楚歌・・・・独り、君主・孫権だけが、態度保留をし続けて居た。それでも最初のうちは、武将達の中に2・3抗戦論を述べる者も居たが、曹操から『近く辞を奉じて罪を伐つに、旄磨南を指すや、劉j手を束ねたり。今、水軍80万の衆を治め、方に将軍と呉に会猟せん。』との脅し文が、現実に送り付けられて来るや、その声も全く聞かれなくなった。
孫権一族の家柄・家の格は、決して高いものでは無く、寧ろ当時の尺度からすれば、最下層と謂えるからであった。孫一族は親の代から、武力に拠ってのみ成り上がって来た者達である。
あの時も、トイレに立った自分を追って【魯粛】が軒端に待って居た。会議は例の如く、全員が恭順を述べ立てていたが、彼は口を封じられ一言も発する事をして居無かった。
《−−ん??》・・・・思わず足を止めて、孫権は周囲を見廻した。《空耳か。俺も大分疲れて来た様だな。アイツの声が聞こえて来るとは・・・・》
亡き小覇王・孫策から、男性の部分を差し引けばその跡にはこうした女性が創り出されるに違い無いと、誰しもが納得する様な《女傑》である。誇り・気位も高く、彼女の廻りの空気は、常にピンと張った凛気に満ちていた。救いは性格も兄譲りで明るく、陰湿な処が無い事だ。だから誰も彼女を嫌っている者は居無いし、寧ろみな大好きであった。
さて此処からは【史実】である。その事件が”何時”の事なのか定かでは無いが、史料の記述内容から推せば(その対話の内容を信ずれば)、朱治が乗り込んで”その人物”と〔膝詰め談判〕に及んだのは決戦間際の相当ギリギリの段階の事であったらしい。恐らく朱治は、決戦に参加する為に相当数の軍兵を率いて遣って来たであろうから、 最悪の場合は、最古参の重鎮同士・味方同士が軍事衝突を起こし兼ねない、スレスレの緊迫状況下に置かれたと想われる。無論、単独会見・膝詰め談判が決裂した場合ではあったが・・・・
そこへ、孫権の内意を受けた【朱治】が乗り込んでゆき、懸命の膝詰め談判に及んだ。この時54歳。彼は孫賁とは立場が逆の”臣下”として、その生涯を孫氏3代に捧げた人物である。
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