第144節
蹉跌へのプレリュード
           赤壁戦序曲

 下り坂に向かわぬ上り坂は無い。もし在るとすれば、それは、突如現われる断崖絶壁であろう。人生の絶頂期に在る人間には得てして、そうした宿命が用意されている。
 大人物と言われる者の人生ほど、絶好調の時間の中に、既に悲運の芽生えが内包されている場合が間々ある。
そして・・・今や、天下人目前の『大曹操』と雖ども、その〔人間の定め〕から免除される事は、やはり無かったのだった。
ーーその”予兆”は、業卩城からの1通の手紙から始まった・・・・・

倉舒さま、御容態悪化!

           ・・・・《
正史・曹沖伝》・・・・
とう哀王あいおう曹沖そうちゅうは字を倉舒そうじょという。年少ながらにして聡明で理解力があり、5.6歳にして、智慧の巡りは成人の如き一面を見せた。当時、孫権が巨大な象を送り届けて来た事があった。太祖は其の重さを知りたいと思い、その方法を臣下達に訊ねたが、誰もその原理を即座には答えられ無かった。すると曹沖が言った。
「象を大きな船の上に置いて、その水の跡が着いている所に印しを付け、それと見合う重さの物を載せれば、計算して判りますよ。」 太祖は大喜びして、すぐさま実行した。
 当時、軍事上、政治上の事件が多く有り、刑罰の適用は厳重を極めた。太祖の馬の鞍が倉庫に置かれていたが鼠の為に齧られた。倉庫係は死刑に違いないと心配した。相談して後ろ手に縛って自首しようと考えたが、それでも助かるまいと心配した。曹沖は彼等に向かって言った。「3日間待って、その後で自首しなさい。」 
曹沖はその後、刀で単衣に鼠が齧った様な穴を空け、ガックリした振りをし、心配そうな顔付をして見せた。太祖がどうしたのかと尋ねると、曹沖は答えた。
「世間では鼠が衣服を齧ると、その持主に不吉な事が有ると申しております。今、単衣が齧られました。その為に心配して沈んで居ります。」
「それはいい加減な言葉に過ぎぬ。苦にする事は無いぞよ。」
突然、倉庫係から、鞍を齧られた件を報告して来た。太祖は笑いながら言った。
「子供の衣服は側に置いても尚、齧られている。まして鞍は柱に掛けてあるのじゃ。」
そして一切責任を追及しなかった。曹沖の仁愛と見識は全てこの類であった。およそ刑罰に処せられるのが当然であるのに、曹沖がこっそり取り成してやった御蔭で救われ赦された者は、前後数十人あった。

             ーー《
魏書》ーー
曹沖は刑罰に該当する者を見るたびに、いつも其の者の無実の事情を探知して、こっそり其れを処置した。それに勤勉な官吏が過失の為に罪に触れた場合は、常に太祖にその者を大目に見てやるべきだと進言した。是非の判断力と仁愛の情は、生まれながらのものとして具わっており、容・貌・姿は美しくて、人々と違っていた。そのため特に目を掛けられ、可愛いがられたのである。

曹操41歳の時に生まれた”自慢の我が子”であった。眼の中に入れても痛く無い程に可愛くて、愛うしくて堪らない。頭脳の明晰さも、心の広さ・温かさも、人間のレベルを遙かに超えた〔神童〕・〔天使〕と謂われ、誰からも愛されていた。曹丕・曹植の兄弟達も非凡な才を具えているが、桁外れの弟には及ぶべくも無かった。 ーー
太祖ハ度々群臣ニ向カッテ称揚シ、跡ヲ継ガセタイ ト云ウ意志ヲ抱イテ居ターー
ーー
曹丕ハ 曹沖ヲ述懐シテ、「彼ガ生キテ居レバ、儂ノ出番ハ無カッタデアロウ」 ト、しみじみ述ベターー

曹操の寵愛ぶりは、
溺愛と言うよりは、寧ろ激愛と言うべきものであった。



ーーだが、最初の急報から僅か数日後。2度目の使者が運んできたものは、『
倉舒さま、御危篤・・・・』の報であった。
「なにィ〜〜!!」

その報せを握り潰した曹操の手が、ワナワナと震えた。顔を上げたその形相は、黒い怒りに満ちた悪鬼羅刹そのものであった。
「業卩の者達は一体何をして居るのじゃ!国中の名医を呼べ!道士を全て集めて曹沖の命乞いをさせよ! 華陀をよべ!華陀なら曹沖を救えよう!」
思わず叫んでしまった其の【
華陀】は、既に此の世には居無かった。・・・・曹操自身の疑心暗鬼が、世界1の名医を殺したばかりであった。それを忘れる程に、曹操は激しい怒りと動転の中に揺れていた。怒りの相手は《死に神》であった。卑怯にも死に神が取り憑いたのは、姦雄と自負する悪業に満ちた己自身ではなく、僅か13歳の小さき命であった。
死に神よ、この儂に取り憑け!この大悪人・曹操孟徳に掛かって来い!人の命が欲しいなら、先ずこの儂と戦え!何故に罪も無い曹沖を狙う?理不尽ではないか!!
曹操は今迄、人前では父親の顔を見せる事はまず無かった。有っても精々、一族の長としての節度の効いたものであった。だが今、曹操はその仮面をかなぐり棄てて、正真正銘から父親の姿と成っていた。

業卩城を発つ時、曹操の唯一の心配は此の事であった。間歇的な高熱に襲われ、曹沖は床に伏せりがちに成っていた。
「見送りには及ばずとも善い。沖は1日も早く元気に成って、父の帰りを迎えて呉れれば、それで善いからの。」
慈愛に満ちた、限り無い優しさで、曹操は曹沖の手を握り、その額に触れた。
「こんな御目出度い日に、御見送りも出来無い自分がお恥ずかしゅう御座います・・・・。どうぞ御許し下さいませ。お父上に御心配お掛けしないよう、必ず元気に成りまするから、今度のお仕事も是非上首尾にて凱旋されて下さりませ。その時には、真っ先に走っていって、父上の首にしがみ付いて見せまする。」
苦しい息の中で、精一杯元気に笑って見せた、健気な其の顔が眼の中に浮かんで来る。

「ええい、こう為ったら、儂みずから死に神と対決して見せてやるわ!直ちに天地万の神々を祀る祈祷壇を築かせよ!」
曹操は斎戒沐浴すると、有りとあらゆる神々に、曹沖の命乞いをする為に一切の公務を部下に任せ、祈祷台に籠った。そして己の命を削る事に拠って、我が子の延命を願うかの如き、不眠不休の凄絶な”結界”を張り続けて祈りまくった。
−−が、然し・・・・その全身全霊を込めた必死の父の祈りも、終に天には届か無かった。

曹倉舒さま、御逝去・・・・

その報せが届いた日も、曹操は祈祷壇に籠り、未だ一滴の水も口にせず、一睡のまどろみを貪る事も無い儘に、ひたすら祈り続けていた。

「ウワアアアアア〜〜!!」
そこには、怒りと哀しみと怨みとに荒れ狂う、一匹の手負い獅子だけが居た。呪いの言葉を吐き散らしながら、天への供物を片っ端から引っくり返し、祭壇を蹴り倒し、挙句の果てには剣を抜き放って、旗や幟を全て斬り廻る髭ボウボウの狂気だけが居た。
おのれ〜死に神め!何故じゃ?何故、あの曹沖が死ななければならんのだ!! 酷い!痛まし過ぎるではないかア〜!!

ザンバラ髪を振り乱し、辺り構わず狂刃で斬りつける其の様は、本当に気が触れたのではないかと思える程の、激しくも狂おしい絶望と落胆の表現であった。そしてやがて、ユラリと立ち上がった幽鬼は、肩でゼイゼイと息をつきながら、よろめく様に自室に退き籠ると、他者の入室を一切禁じた。−−だが・・・・その部屋の外にまで、終日、最愛の我が子を失った、父親の慟哭が漏れ聞こえるのであった・・・・・
群臣、一族の誰もが、その心の傷の深さを察し、近づく事すら出来無い、《
人間・曹操の大悲劇》であった。


輪廻転生ーー消える命あらば、生まれる命もある・・・・・
この時、のちの歴史を象徴するかの如き、「生」と「死」との入れ替わり・・・・寿命の車輪が廻り巡って、新たな生が転ずる出来事が起きていた。
 曹操希望の星だった【
曹沖】が此の世を去った時、それに入れ替わる様に時を同じくして、司馬懿仲達に長男が生まれたのである
のちの景帝・
司馬師・・・・子元と名付けられる、元気一杯の男児が、正妻・張春華から誕生し、此の世に生を享けたのであった。皮肉と言えば余りにも皮肉な天の配材・・・・偶然とは言え、後の歴史を識る我々にとっては、何か不思議なものを感じてしまう歴史上の事実である。(※尚、次男・子上ーーのちの【司馬昭】(文帝)は、この3年後に誕生する。更に、三国を統一する其の子(仲達の孫に当たる) 【司馬炎】は、28年後の236年に生を享ける事となる。)
無論当人達は今、そんな先の事はつゆも知らぬ。仲達にすればガックリ来て居る曹操に対し、何か申し訳ない様な気もしないでは無いが、全身に新たなパワーが漲って来る様な嬉しさを感じていた。己と血の繋がった命の誕生が、これ程までに男を歓びに浸らせて呉れるものとは、初めて知る仲達であった。
 此の人の世で、互いを完璧に信じ切れる唯一無二の人間・・・・それが”我が子”と云うものであろう。是れは理屈抜きの、本源的愛であろうし、生類普遍の真実でもある。乱世に在っては、将来の最大の戦力でもある。いずれ事を成さんとする場合、一心同体となって、何等の危惧も無く力を合わせられる存在。又、限り有る己の命や意志を、次代に連鎖させ受け継がせる事も可能となる生命!・・・・これ等の事を直感的に受け止めるのが、父親と成った時の歓びであり、父性愛なのであろう。仲達は今、己のパワーが更に増強してゆく様な、未来に向かっての自信に溢れる自分を感じて居た。その一方、それを失った曹操は、どれほど力を落として居るだろう事か・・・だが是れは所詮、人の力の及ぶ事では無い、と仲達は思う。人は人、己は己と、天は夫れ夫れに宿業を命ずるのだ。ーーそれより何より問題なのは、冷静になって曹沖の他界を、自分自身に関連づけて観た時・・・・
これで
曹丕が後継者と成る”目”がグンと強まったと云う事だ。常識的には、ほぼ決定と言える。長男が跡を継ぐ・・・これは儒教社会の根本倫理であり、大原則である。
 だが、どうも曹操の様子を注意深く観ていると、必ずしもそうは言い切れぬ不安が在った。・・その不安とは、曹操が2代目に抱く統治方針・国家経営の路線を、な辺に置いているのかがハッキリせぬ点だ。初代曹操は天下布武が当然だが、2代目に国を渡す時、天下統一の事業が何処まで進んでいると踏むかに拠って、《武断政治》か《文治政事》かが分かれて来よう。もし天下統一の覇業がすっかり完了していれば、文治政事を重視して、それに相応しい2代目を選ぶかも知れ無い。そうなれば、曹丕の”目”は消える可能性も有った。『文によって国家を安定させる』には、弟である【
曹植】の方が適している・・と父・曹操は観ているフシがある曹操本人が、「文学」に新しい〔時代の価値観〕を見い出しいる創業者で在るからには、それを自分の代だけで終わらせたくないと云う心理も働こう。ちなみに世の評価では、文才については現時点でさえ、曹植の方が圧倒的に高く、抜きん出ている。
《いずれにせよ、是れから先は、生きるか死ぬかの兄弟の跡継ぎ争いが、必ずや起きると云う事だ・・・・。》
曹操ほどの偉大な人物でさえ既に、その火種をみずから蒔いてしまった。それも全て「神童・曹沖」への激愛がもたらした結果である。あんな天才児が後から生まれた事が、曹操の冷静さを失わせてしまったのだ。これが家中に、「曹家は必ずしも嫡子相続ならず」の風潮を産み、家臣団の不統一を孕ませてしまった。
曹操が元気な裡は表面化せずとも、その健康に衰えが見え始めた時には・・・・・《以って他山の石とすべし、だな!》
 そもそも、後継者問題が存在する限りにおいては、 該当者が並立した儘、その生涯を全うする事は、こうなってしまった以上、
たとえ本人同士がそう思ったとしてさえ、無理になるのが〔権力と云う魔物〕なのだ。仲達自身にせよ、ここまで曹丕と共に歩んで来たからには、もはや運命共同体である。とは言え今の時点では、若い曹丕も曹植も、未だ互いに其の辺の認識は甘いし、互いを憎悪する様な事も無く、寧ろ美しい兄弟愛さえ抱き合う仲の良い若者同士であった。
《こう云う事は、腹心が抜かり無く気を配り、手を打てばよい。》
・・・との立場を取る仲達であった。そうしなければ、この戦国乱世には生き残ってはゆけない。さりながら、
最後は曹操の腹1つに掛かっている。一時的には迷うにしろ、あれ程の人物が、嫡子相続の選択を誤る事はまず無い筈である。・・・・だが彼とて、曹沖の死に是れ程の衝撃を見せる、やはり生身の人間である。100パーセントとは言え無い。打つべき手は、どんな細かい事でも打って措くべきである。
                   
ーー
我が子が誕生した今、【司馬懿仲達】の裡に初めて、純然たる曹丕や曹魏への忠節では無い
或る思い〕が芽生えた一瞬であったかも知れなかった。無論まだ、司馬懿仲達自身でさえ、その事に気付いて居無い、ほんの幽かな心象風景の変化に過ぎ無かったのではあるが・・・・。

「若君。今宵のうちに父君をお慰めに参られますように・・・!」

丞相府付きになった司馬懿だが、曹丕との仲は一層強固に成っていた。
「今宵くらいはそっとしてあげて置いた方が善いのではないか?」

「いえ、今、父君は感情が荒ぶって居られますが、ここで二の足を踏んではなりません。誰にも先んじて一番先に父上にお会いしてお慰めする事が重要です。これで若君は、押しも押されもせぬ、魏国の跡継ぎで御座います。いずれ、こう成る事は、常々仲達が申していた通りになりました。曹沖様の如き神の童は、得てして身体がお弱いものです。」
「そうであったのう・・・・。余が幼くてスネた時から、仲達はいつもこの日が有るを見通した様な言葉で励まし続けて呉れた。 今、それがよく判る。」
「父君は、一時の感情で物事を見誤まれる様なお方では有りませぬが、人の心は測り知れませぬ。後でホゾを噛まぬ様、ここは将来にとって大事な局面と思し召し為されるべきかと存知まする」

2人とも口には出さぬが、明らかに【
曹植】の存在を意識した会話であり、後継者争いを見据えた心構えであった。

「然し何か、曹沖の不幸を喜ぶ様には受け取られまいかのう?」

「それは当然、受け取られますとも。恐らく今、最初に曹公に会う者は、たとえ其れが天帝であっても罵倒され、呪いの言葉を投げつけられましょうな。」  「それでも行くのか!?」
「おゆき為され。それを受け止めておやりになった時、初めて覇王と子の距離は無くなります。そして寧ろ、心理的には立場が逆転いたします。」  「どう云う事じゃ?」
「父君・大曹操が、初めて若君に親の弱さを見せられるのです。そして其の瞬間から、目には見えない、曹丕の時代が始まるので御座います。」
「−−そうしたもので有ろうかのう?・・・・だが、そうしよう。」

「長居は御無用。言われるだけ言われたら、悲しい顔で退出なされば宜しゅう御座る。いつの日か、父君はこの事を必ずや思い出せれるでしょう。但し、演義は一切無用の事。もともと若君の心は他の誰よりも強く、父上をお慰めしてあげたいと思って居られるのですから・・・・。この仲達は只、そのキッカケを御示しした迄の事に過ぎませぬ。」
そう言いつつも、そう聞きつつも尚、其処には既に、親子の情愛とは別な、政事の影が入り込まざるを得無い”現世のしがらみ”が存在していた。
その夜、曹丕は禁じられた部屋を訪れた。扉を開けた途端物でも飛んで来るかと思いきや、仄暗い部屋の中はひっそりと静まり返り、ただ鎮魂の香だけが焚き込められていた。

「父上、子桓に御座います。」

戸口で声を掛けたが、中からは何の応答も無かった。−−意を決して歩を進めると、やがて其処に曹操の黒い影が見えて来た。
父は寝台に腰を落とし、頭を抱え込んで蹲る様に、動かぬ影と化して居た。曹丕は、そんな父親の傍らに額ずき、声を掛けた。

「−−父上、お痛わしゅう御座います。最愛の倉舒を失われた今私には父上の御気持を宥め、お慰め申し上げるべき言の葉も見つかりませんが、父上には御気を強く持たれて、1日も早く、何としてでも天下統一を果して戴きとう御座います。これは倉舒の願いでも有りました。又、天下万民の願いでも御座います。」
「−−−。」  「・・・・どうぞ父上、お哀しみの余り、お体を壊されませぬよう、御自愛くだされませ。父上のお命は、今や我々天下万民の唯一の希望で御座います。何日間にも及ぶ厳しい御祈祷を続けられた、父上の御健康が心配で御座います。」

「−−−。」  「この曹丕子桓、父上の為なら一命を賭してお仕え致しまする。どうか天下の為、1日も早く、お哀しみから立ち直られますよう、お見舞い申し上げまする・・・・。」

「−−・・・」 曹操が、やっと顔だけを向けた。その眼窩はドス黒く落ち窪み、髪は掻き乱れ、髭はボウボウの儘であった。そして肩越しにギロリと一瞥した其の眼の光は、常軌を逸した蛇の如き、何ともおぞましい狂気を帯びていた。

是レハ 儂ノ不幸ジャガ、御前達ニトッテハ幸イジャロウ!!

相手の気持などは微塵も忖度する事の無い、何とも凄まじい呪いの言葉であった。身も蓋も無い。これでは二の句の継ぎ様も無い。曹丕は父親の其の謂われの無い、愛と憎しみを一身に浴びると、唇を噛んで静かに退出した。−−だが曹丕はひどく自分に驚いていた。あの偉大で巨大過ぎる父の姿が、何だか急に老い込んだ、只の1人の人間に見えたのだった。今迄かつて、そんな風に父を感じた事など決して無かった。超え難い絶対的存在でしか在り得なかったのだ。それがこんな風に思えたのは、一体どうしたと云う事なのか・・・・!?

この後、曹操が亡き愛息に行なった事は、異様なものであった。
死んだ曹沖に、花嫁を娶ってやったのだ!!その花嫁も亦、既に此の世には亡い、甄氏(曹丕)の娘であった。
所謂
黄泉婚よみこんである。幼い死者同士の結婚の儀式を盛大に取り行なったのである。そしてその後に今度は2人を夫婦として共に葬る事を行なわせたのである。異常と言われようと、こうでもしてやらねば、親としての気持が治まらなかったのだ。其処にはもう、人目や世評を気にする事の無い、有りの儘の曹操しか居無かった。ーー女性の柔肌も知らずに逝ってしまった最愛の我が子への尽きない哀惜・・・悔やんでも悔やみ切れない哀しみと歎きと怨みと落胆・・・それを隠したり、断ち切って見せたりしない曹操が居た。「華陀を殺してしまった事が残念じゃ。その為に曹沖をむざむざ死なせてしまった・・・」この後も曹沖の事を語る時に限っては常に涙を流す曹操の姿が見られる様になってゆく。11年前、長男・曹ミを亡くした時の、鉄面皮の曹操は其処には居無かった。あの時とは、全てが大きく変っている。もはや曹操が個人として、人間らしい喜怒哀楽を表わしたとて、曹魏国家は微動たりともするものでは無く成ってはいたのであった。
だが、曹操自身を含め、誰もが直ぐには気付く事は無かったのだが・・・然し、この後の歴史的展開を観る時、その史実こそが「曹沖の死」が如何に曹操の心象風景に巨大な空虚感の風穴を空けさせ、曹操自体に変貌を遂げさせたかを、如実に証明してゆく事となる。とは言え、少なくとも此の時点で曹操は、己自身の中に、”何か”異変を感じた筈である。 この直後に控えている〔呉との決戦〕を眼の前にして、決して平然とした心で居られた訳では無かった・・・・
所謂、
嫌な予感と云うやつである。胸騒ぎと言ってもよい。今まで全て順風完璧だった”何か”が、初めて大きく狂いを生じたのである。これ迄も挫折には屡々遭遇して来た曹操であるが、それは全て後で取り返しのつく失敗であった。失敗の原因は結局、自分自身の裡に在るものだった。だから挫折を乗り越え、それ以上の栄光を取り戻す事が出来た。・・・・だが曹沖の死は、其のパターンには入らぬ、人の力では取り返しの効かぬ、運勢に関わる事であった。それまで昇り坂1本やりだった曹操の勢運にとって、見逃す事の出来無い大ターニングポイントと成っている
ーー是れは直ちに表面に現われる如き性質のものでは無いから史実と史実の間隙から読み取る事しか出来ぬが、極めて重大な「
歴史を内面から動かしてゆく因子」であった・・・・と言えよう。
その後の、曹操の後半生の動きを総合して観た時、その戦略・戦術パターンが、この事を契機にガラリと変容している事に気付く。倣岸不遜とさえ思われる様な、思い切った用兵や大胆不敵な行動は影を潜め、その思考にも冴えや切れが見られず、結果としては「攻勢」から「守勢の人」と成っている事実は否めないのである
 天下を相手に、天命にさえ挑み掛かっていた、自信満々で溌剌颯爽とした曹操が、急に小じんまりと凋んでいく・・・・55歳は凡人では”晩年期”の始まりであるが、何処とは無しに、その言葉が当て嵌まってしまう雰囲気が漂い始めてゆく・・・・
 下り坂に向かわぬ上り坂は無いのであり、人生の絶頂期には得てして下降線が既に内包されているのであった。


曹沖の死が、《
蹉跌へのプレリュード》の【第1楽章】であるとするならば、【第2楽章】はピアニッシモで、極く静かに幕を開けた・・・・それは、此の世には、人智の及ばぬ不条理が存在すると云う事を、今更ながらに思い至らしめるが如き、大異変の前兆であった。ーー初め、10月の半ば頃から、チラリ、ホラリと現われ始めた。11月に入ると、それがポツリ、ポツリの状況となっていた。而してその舞台は事もあろうに、曹操本軍80万の軍団そのものであった。だが過去の遠征体験から推して、まま有る事例として、最初は気にも留められ無かった。ところが11月中旬になると、全軍全部隊に於いて例外無く、それが確実に進行している事態が判明して来た。
《−−もしや・・・・!?》 と、大本営の参謀達が危惧した12月の矢先であった。”
それ”は遂に、爆発的な凶暴さで、その禍禍しい姿を現わしたのである!!一部の参謀達が内心恐れていた事態が、現実となって、終に勃発したのであった。

とは言え、全く予期し得ぬ事では無かった。昨年、38歳の若さで逝ってしまったデカダンス軍師の【
郭嘉】は、もし南征すれば自分は生きて帰還する事は無いであろうと曹操に伝えて上で、この南征の大計画を進言していた。その言葉は、個人的な健康状態を言ったものでは無く、北方中原の者が南方に入った時には、可也の確率で”それ”に罹患する可能性を警戒しての発言であった。又若き日の【公孫讃】伝には、上司(劉基)が冤罪で日南郡への流刑となった時、彼独りだけが忠節にも同行する決意をしたのだがその折に北芒山で祈願し、こう言っている。「昔は人の子でありましたが、今は人の臣下であります故、日南に行かねばなりませぬ日南には毒気が充満しており、もしかすると帰って来れ無いかも知れませぬ。ここで御先祖様にはお別れ申し上げます。」それを見て居た者達は皆すすり泣いた・・・・とある。この外にも、当時の北方人が南方を、生きては帰れぬ〔死の病が猖獗する土地〕と観て、恐れていた記述が散見される。ーーと云う事は、この事態の発生は、或る程度予測し、折り込み済みの南征ではあったのだ。
・・・・然し、その凄まじさが、まさか是れ程のものであるとは、流石に誰も予知し得無かった。

 −−
疫病の発生である・・・・!!

※この疫病の正体が、現代医学から観ると果して何であったのか?・・・については、様々な見解が述べられているが、史書には症状の記述が一切無いので、結局の処は判らない。 更に重要な事だが、この疫病に因って、一体どの程度の被害が出たのかの、具体的人数の記録も一切記述が無いのである。故に、この疫病が曹操の野望にとって、果して本当に戦局を左右する程の痛手だったのかどうか?・・・も、後世の我々には確信を持って言い切れないのが実際である(のちに検証する)。だからこの疫病に関する記述については、本書に限らずどの著作物も、全て個人の推測・独断の域を出るものでは無いのである。その事実をお知らせして措いた上で尚、筆者なりに筆を進めてゆかざるを得無い但し、この疫病の発生自体については、「魏書」「呉書」「蜀書」のいずれにも整合性が見られるから、事実であったと観てよいであろう。ーー直ちに荊州中の医師と云う医師全てが招集され、その治療と予防に当った。だが悪疫の猖獗は終息する処か、瞬く間に全軍将兵の間に蔓延していった。・・・・然しやがて、徐々に、或る1つの傾向が判明して来た。罹患した後に重態に陥る者は、全て北方から遠征して来た本軍兵士達だけであったのだ。荊州兵達は誰1人として発病していなかった。
明らかに【風土病★★★的な疫痢】であった。12月に入った時点では、大袈裟でも何でも無く、本軍兵力の半数以上(何と十数万人!)が全く使い物にならぬ重態に陥ってしまったのである。中には、とうとう死亡する例まで多発し始めていた。

厳重に秘匿せよ!敵に悟られてはならぬ!!

厳しい緘口令が敷かれ、病人は全て人目を憚り、長江上に浮かぶ軍船の中に収容され、一般人の眼から隔離された。
 天下最強を謳われる【曹軍100万】の呼号とは裏腹に、その擁する水軍の内実は、さながら大病院船団へと変質せざるを得無くなっていったのである。最初は船底一杯に、所狭しに横たえられた兵士達だったが、やがて其の数は船底だけでは到底収容しきれなくなり、とうとう甲板に野晒し状態に並べられる事態にまで至るのであった。それでも尚、患者は増え続け、いよいよ秘匿困難になった為、終には病人船だけを別地点へと出航させざるを得無い状況にまで事は深刻化していった。
《−−どうする曹操孟徳よ・・・・!?》
曹沖の死に打ち拉がれて居た曹操であったが、其処に追い打ちを掛ける様に襲って来た此の2番目の窮地ーーだが然し、その理不尽さこそが逆に宿命への憤怒に火を着け、この男を我に返らせたのである。怒りは時として人間に最大のパワーを与える。この時の曹操がそれであった。己に架せられた新たな宿命を前にした今、曹操は正気を取り戻したのである。宿命との対決・・・・それこそが此の男の原点であった。生まれ付いての贅閹の遺醜
・・それこそが巨大なバネと成って、此の男を培って来たのである
《曹操よ、お前の元々の大望は何だったのじゃ!?》
曹沖への哀惜を振り払い、大元帥として正気づいた曹操は、この異常事態に自問自答せざるを得無い。ーー客観的に見れば、後継者が誰であろうとも、天下統一へ向けての覇道の予定表は、何ら揺ぎ無いものである。とすれば、やはり既定方針通り、この機に呉を屈服させて措かねば、己の代で新王朝樹立の覇望を果す事は出来無いと云う事である。限られてきた人生のタイムリミットを想う時、一から遣り直していたのでは、とても追い着かない。さりとて、この予想外の緊急事態勃発を目の当たりにした今、感情にかまけた無思慮なゴリ押しは危険この上ない。《嫌な予感》がする以上、かつて官渡の戦いで袁紹に踏ませた如き、破滅の二の舞は絶対に避けねばならない・・・・。《呉国平定の大戦略を変更したくないとすれば、一体どんな手が残っている?》

ーー結論は・・・・
戦わずして勝つ!! であった。

恫喝に拠る、敵の戦意喪失作戦である。疫病の蔓延を秘匿した上で、自信満々に振る舞い、相手の屈服を導き出そうと云うのであった。だから、普通なら最重要機密であるべき陣立ても、半ば公然と発表させ、その顔ぶれと兵力を聞いただけで敵が怖気を震って戦意を失う様な、曹操の腹芸をたっぷりと沁み込ませた軍容が確定された。と同時に、大々的な諜報謀略作戦が発動されていた。盛んに呉国内部への謀略組織が送り込まれ、曹軍100万が強調、喧伝された。だけでは無く、内部への切り崩し工作が着々と進められていった・・・その中で最も有効な手立ては、〔漢朝廷からの勅使の派遣〕であった。是れなら白昼堂々と、呉国に対して正面突破が出来る。いくら裏で曹操が操っていると分かっていても、相手は絶対に拒否出来無い。いや寧ろ歓んで迎え入れるのである。こんな美味しい手段を使わぬ法は無い。
そこで早速、狙い定めた”或る大物”に対して、〔征虜将軍号〕を授けると云う詔勅を持たせ、「劉陰」を使者に立てて呉国へ送り込んだ。無論これは表向きの事、真の目的は大物に対する切り崩し工作である。その相手が呉国にとって重要人物で有れば在るほど打撃は大きく、その人物をきっかけにして雪崩現象を誘発し、終には呉国は戦わずして自己崩壊するであろう・・・・。

そうした水面下の戦いが始められてから既に1ヶ月余ーー疫病の沈静化を待つと同時に、諜報工作の報告が次々と届き始めていた。そして其の報告の全ては、曹操の目論見が達成可能である事を裏付けるものであった。
『呉は降伏に傾いております。』
『呉の重臣達のほぼ全員が、降伏を孫権に説得中と思われます』
『張昭を筆頭に呉の名士層は、武将達への説得にも成功。呉国の降伏は時間の問題と成っております。』
・・・・これ等の諜報は非常に確度の高いものであった。何故なら驚くなかれ、その情報源は、呉の重臣達から直接得たものであったからである。それだけでは無かった。 遂には、曹操も思わずニンマリする如き”
超大物”が、孫権を見限って、密かに我が子を人質に出す起請文を提出して来たのである
その人物は何と、是れまで初代からズッと孫呉政権の中枢に在り続ける、孫権の直系親族であった。 この事は『正史』にも堂々と記述されている事実である。とすれば・・・・
 魏呉決戦を直前に控えた此の期に及んでさえも、呉の国内は、眼を覆う様な混迷・混乱の真っ只中に在ったと云う証拠である。

呉の国よ、孫権よ、そして周瑜公瑾よ、
 お前達は一体どこへ行こうとしているのだ!? 【第145節】 美女将軍推参!(圧倒的な降伏論)→へ