第143節
曹操の野望と焦燥
                                     覇王のアキレス腱





 今や天下の3分の2を手に入れ、気力体力ともに充実しきり、
揺らぐ事の無い絶対の自信に溢れる
覇王・・・・・人は其の男を大曹公と呼んで畏怖した。だが、人間・曹操孟徳は人知れず常に巨大な敵と格闘し続けて居た。
ーーその相手は・・・・
死神司命神である。
《俺は一体、あと何年生きて居られるのだろうか・・・・!?》
はや
55歳・・・己に残された歳月は確実に短くなって来ている。

《寿命としては、あと10年か?65歳と見るのが妥当な線だろうな。だとすれば・・・60歳迄には、一応天下平定を終えて措かねばなるまい。最期の5年位は《魏王朝》の完成に必要となろうか?》

曹操は流石に、秦の始皇帝の如き”己の不老不死を望む”様な愚かな夢を見る事は無かった。だが、同じ権力者の座に昇りつつある今、己の命の火が燃え尽きる時間との競争に、是が非でも克たねばならなく成っては居たのである。
《天下統一まであと5年・・・・あっと云う間であろうな・・・・!》
其れも是れも、全て、愛する我が子
の為であった。今まだ12歳
曹沖倉舒そうちゅうそうじょこそは〔治世の名君〕となるべく天から遣わされた至宝であろう。生まれた時から、限り無い仁愛に溢れ、非の打ち処ない才能を具備し、幼くして既に万人から愛されている神の童である。父である自分が、統一王朝の基盤さえ遺してゆけば、彼が成人し皇帝と成った暁には、それこそ中国史上に永遠に語り継がれる〔大賢帝〕と成る事は間違い無い。
その治世は漢王朝を凌ぎ、”魏王朝”の永遠の繁栄の基ともなるであろう・・・・。だからこそ曹沖には、戦乱を終えた「平和な国」の王に成って欲しい。父の如き、悪業・修羅の道は歩ませたくなかった。
《曹沖には”静謐せいひつ”を遺していってやりたい!!》

      
5年後ーー曹操60歳、曹沖は17歳である。
     
10年後ーー曹操65歳、曹沖22・・・・。

1つだけ、心配が在る・・・・
曹沖の健康である。決して壮健とは言えないのだ。日常生活には殆んど支障は無いが、全土を戦い巡るには不安な、生命力の脆弱さが感じられる。もし自分が死んだ時未だ今の如く戦場を馳せ巡る日々を強いられるなら、曹沖の体力・生命力は、それに耐えられないかも知れ無い・・・・。

《短命には終わらせたくない。曹沖の様な人間こそ長く生きさせてやるーーそれが親の責任であり、統治支配者の務めであろう・・・・》
ひいては其れが、次代の国家や民衆にとっての幸せに直結する事ともなろう。
《・・・・いずれにせよ、静かに内政に専念し得る様な、安定した国の状態に仕上げて置いてやらねばならぬ!》
漢王朝の簒奪さんだつ、新王朝の立ち上げに伴う、世のののしりやそしりはこの〔奸雄・曹操〕が全て浴びればよい。いや、浴びてやらねばならないのだ。ーー出来る事なら、たとえ少しの期間でも
父が後見の大御所と成って、兄弟間の争いを裁き、曹沖の独り立ちを見守ってやれる時間も欲しい
《その為に、俺に残された統一の制限時間は・・・・
あと5年

最大にして最後の課題は、やはり
呉の制圧である。是れさえ片づければ、残りの者などは雪崩を打って帰順して来るだろう。新王朝の樹立は、こちらが知らん顔して居ても、周囲が勝手に動き出して、成立させてしまおう。

想えば、20歳で洛陽の北部尉として世に出てから30有余年・・・・若い時は何も考えずに、ひたすら戦って勝つ事だけに命を燃やしていたものだった。失うものは何も無かった。だが今は、考えねばならぬ事が山積している。それだけ多きを得て来た者の支払うべき代価であろう。とは言え、天下統一は、もはや単なる「曹操の野望」では無く、「目前の現実」となっている。今、54歳・・・・曹操は其の生涯に於いて、最も野心に満ちた絶頂期に差し掛かろうとしていた。今や、西の辺境である益州と涼州を除けば、残る敵勢力は【孫権の呉国】ただ1国のみであった。その呉国も、揚州1州だけの勢力に過ぎ無い。ーー但、もし畏れるとすれば・・・・それは敵の《若さ》である。若い世代の持つ、未知のエネルギーである。若さは途方も無い事をやって退ける可能性でもあるのだ。これは理屈では無い。曹操自身が、それを証明して来ている。
歴史が大きく変わるときには、得てして弱小と観られる若い世代が想いも掛けぬ結果を創り出す事がある
。「呉の指導集団」は皆若く発想が自由であろう。思い切った策を取る事も厭わぬだろう。
《其れに対し、今の俺に油断は有るか?》
 ーー・・・・
無い!!
〔100万対10万〕・・・・誰が観ても圧倒的な兵力差である。決戦時の実質兵力は40万対10万弱ではあるが絶対優勢に変りは無い。驕りでも何でも無い。厳然たる事実であった。
残るはーーいつ、攻め込むかだけの問題であった。そして其の答えは曹操の胸の裡で、おのずから凝められつつあった。人生のタイムリミットから逆算した時、そこに導き出されて来る答えは、唯1つである。・・・・是れからの5年間は、
若い頃の5年間では無い。時間を湯水の如くに使い呆けられた、かつての無鉄砲な若者では無いのだ。やり直しの効かない、唯1度だけの5年間である。もし、今回の遠征を此処で打ち切り、業卩城へ凱旋した場合ーー改めて呉への遠征軍を組み立て直さねばならない。そうなると早くて2年、下手をすれば3年後になろう。そして完璧に敵地を平定しきる裡に、5年全てを使い切ってしまうやも知れぬ・・・・。

《今のチャンスは絶対ムダには出来ぬ!》

ーーとは言え、
曹操の”読みとしては・・・・
九分九厘の確率で呉の降伏は有る!〕と踏んでいた。200年前の【光武帝】は今回とそっくりの進撃ルートを経てここ江陵の地に於いて、江南(呉)の屈服を導き出している。まして其の時とは比べ物に成らぬ大軍団を率いる曹操であった。其れは先ず、固いだろう。幕僚達も全員がそう観ていた。
・・・・但し、今回の荊州降伏の例でも判る様に、単に外交圧力のみに拠って、呉国の方から降伏の返答を出して来る事は無いであろう。何の実権も無い「劉j」を戴き、ほぼ政権の全員が帰順論者で固められていた荊州ですら、実際に曹操が襲い掛かるギリギリ迄、敢えて〔降表〕を携えては来無かったではないか。軍事力に物を言わせた外交圧力ーー実際に呉に向かって進撃を開始した時にこそ歴史は変るのだ!
実際に総力戦を挑んで来る事も有るまいが、かと言って只ダラダラと何時迄も、相手の国論一致を待って居る訳にもゆかぬ。決断を促す最後通牒・恫喝の書面を送り付けずばなるまい。そうして措いてから、いよいよ実際に動く!そして劉jの二の舞が演じられるのだ。その際ついでに『こちらの狙いは劉備の首である。』とでも付け足して措いてやれば、其れが相手側の”落とし処”と成るであろう。それを口実に、実質的な交渉の糸口・降伏への準備が始まるやも知れぬ・・・・ま、そんな事はどうでも好い事だ。

「ここ江陵から、一気に呉へ雪崩れ込む!!」


そんな折、丸で曹操の心を測ったかの如く、参謀の言羽
進言して来た。読者諸氏には覚えて居られるだろうか、この軍師?
 11年前、降伏したと見せ掛けて、『
鄒氏すうし』と云う主君の愛人を差し出して曹操をフヌケにし、24時間女体に溺れている処を急襲!!嫡男・曹ミや甥の曹安民、80斤の双戟を振う典韋らが犠牲となって、命からがら逃げ落ちたあの大失態・・・・その謀略の張本人こそこの賈ク(かく)であった。怨み骨髄の仇敵と成ったが、「官渡決戦の直前」に敢えて飛び込んで来た彼を、曹操は「我ガ信ヲシテ天下ニ重カラシムル者ハ、子ナリ」と全てを水に流して受け容れた。爾来、算ニ遺策無ク、権変ニ経達スと言わしめる献策・進言を為して来ていた。但し、己が特殊な立場に在る事を忘れる様な賈クでは無い。(前主君だった張繍は自殺に追い込まれていた。)
言羽はみずから太祖の旧臣に非ずして、策謀深長なるを以って、猜疑せられん事を懼れ、門を闔して自ずから守り、退きては私交無く、男女の嫁娶も高門と結ばず』と細心の注意を生涯貫き、乱世に身を全うしていく。
その
賈言羽は、今、言う。     
明公は既に袁氏を討ち破ぶられ、今は漢水の南域を手中に納められました。その威名は遠方にまで輝き渡り、軍事力も更に強大なものと成って居られます。
この際、焦って長江を下って劉備(実際は孫権)を討とうなどとは為さらずとも、荊州の豊かさを利用しつつ経済力を高め、軍吏や兵士を労らい、じっくり民の心を掴みさえされれば、軍事力を行使する迄も無く、江南は頭を下げて帰服いたすでありましょう。」

正にその通りであった。他の条件を一切鑑みなければ、この進言通りの策が最も賢明である。それは曹操自身が1番よく判っている
 だが・・・・〔死神〕は曹操にあと10年、65歳迄の寿命を、確実に保証して呉れた訳では無い。曹操が勝手に臨む年数でしか無い。生身の人間には、何時、何が起きても不思議ではあるまい・・・現に曹操より後に生まれて、先に死んだ者が殆んどである。
一族の総帥としての曹操、父親としての曹操、そして新王朝の創業者たらんとする曹操・・・その野望の跡継ぎは、今12歳の【
曹沖】でなくてはならないのだ!
この胸の思いは、未だ公式発表した訳では無いから、参謀達もそこの処は解って居無い。だから、賈クと同趣旨の進言をして来る者達が幾人も居た。丞相府が新設されたのを機に
文学掾(丞相府の書類一切を取り仕切る直属官)に抜擢されている司馬懿仲達も、その1人だった。
「ここは、じっくり構えるべきで御座います。我が軍の得意とする処は陸上決戦であり、水上戦は呉軍の得意とする処です。ましてや今すぐ攻め込むとなれば、我が軍は、忠誠心も士気も低い荊州水軍に全面的に頼らざるを得ず、決して万全な姿とは申せませぬ。
少なくとも1年を掛けて、合肥方面の陸上兵力を数十万に強化する迄は、動くべきではありませぬ。 陸上の歩騎主力兵団を以って、直接に呉の地を窺いつつ、荊州から水軍を繰り出して長江を下り、水陸2方面から同時に大兵力で呉に攻め入る姿こそが、万全のものだと考えまする。それだけの国力も軍事力も、この荊州の豊饒が保証して呉れまする。出来れば3年を掛けて荊州を万全に仕上げた上で、急ぐにしても1年を掛けての準備期間を置いた上で、呉の平定戦に臨まれるのが、曹孟徳の戦さ振りだと愚行致しまする。」

ーー然し今回だけは、曹操は頑として、それ等を受け入れようとはしなかった。常に参謀達の意見をよく聴き、吟味採用してきた曹操にしては、異例な姿であった。
《・・・・何で急ぐ、曹操?・・・・何を焦る??》
司馬懿仲達がそれに思い当たるのは、もう少し後の事となる。

「曹軍百万と号せ!」 心中測り難い部分もあるが、曹操の呉への進攻決意は本物であるらしい。
「是れを孫権めに届けてやれ。」
近く辞を奉じて罪を伐つに、旄麾ぼうき南を指すや、劉j手をつかねたり。今、水軍80万の衆を治め、方に将軍と会猟せん。』
・・・・所謂いわゆる、〔
会猟かいりょうの辞〕が送り付けられたのである。

そしていよいよ曹軍の帷幕は、是れ迄の軍容を手直しし、ついに呉国制圧の「最終的陣立て」の確定作業に入った。

後世、その陣容を推測する時に、唯一の参考資料とされるのが、『中国歴代戦争史』である。その史料の軍団編成の中には、9月に帰順した荊州の人材も、名を連ねている。だから確度は高いとして珍重されている。ーーだが筆者は、どうも其の内容について、そのまま鵜呑みにする事は出来無い。何故なら、その中に記されている巨大な”或る軍団”が、実際の赤壁戦では全く機能した形跡が見られ無いからである。まあ兎に角まず、その資料を見てみよう読者諸氏には、既にお馴染みな人物が殆んどあるが、新たに加えられた荊州の人材にはを付して措く。又、未だ紹介が不充分な人物についてはカッコ内に概略を記して措く。

       【本軍・・・・長江へ押し出す主力軍
               〔中軍〕
元帥・漢丞相・・・・
    軍師・・・・
丞相長史・・・・「陳矯」
(元は広陵太守・陳登の臣だったが中央に招聘された)
太中大夫・・・・
    丞相軍祭酒・・・・(献帝奉戴の仕掛人。
                                   のち曹操の魏王即位の仕掛人ともなる)
 
軍謀祭酒・・・・

丞相西曹掾・・・・
 丞相東曹掾・・・・「徐宣」(陳矯と同じ)
参丞相軍事・・・・
(あの”華独座”。孫策の死後、曹操に招かれ両国友好の証として
                                                 円満退社していた)

        「
(元・会稽太守で孫策に追放されたのを招聘) 
            ★
裴潜(王粲の友人) 
            ★
「桓階」(荊州長沙出身。かつて孫堅の副官となるも父の死で退官。
               劉表に願い出て、孫堅の遺体を引き取る。その後、劉表と袂を分かち在野)
 
            ★
「和洽」(戦禍を避け、南方の武陵郡太守に転出していた)
             「劉広」(伝無し。不明)
虎騎宿衛軍・・・・
   豹騎宿衛軍・・・・   襲騎宿衛軍・・・・

《水軍》
先鋒ーー荊州水軍都督・・・・
 右武衛先鋒ーー荊州水軍副都督・・・・
《陸軍》
先鋒ーー奮威将軍・・・・
(廷臣の揚彪が下獄された時、荀ケと孔融が駆け付けて拷問せぬ
                よう頼まれるも聞き入れ無かったが、結局、無実であると上申して助けた)

                                 ー→〈実際は”当陽”に駐屯した。〉
右武衛営本軍ーー横野将軍・・・・

            長水校尉・・・・
(食糧担当のエキスパート。屯田制は棗祗が発議し、
                                              この任峻が実現させた)
〔後軍〕・・・・”江陵”に残り、支援体制を受け持つ。
江陵支軍》 後軍都督・征南将軍・・・・    軍糧監運使・・・・

         A
       【本軍・・・・長江へ押し出す主力軍
                〔中軍〕
元帥・漢丞相・・・・
曹操 軍師・・・・荀攸
丞相長史・・・・「陳矯」
(元は広陵太守・陳登の臣だったが中央に招聘された)
太中大夫・・・・
言羽 丞相軍祭酒・・・・董昭(献帝奉戴の仕掛人。
                                    のち曹操の魏王即位の仕掛人ともなる)
 
軍謀祭酒・・・・
王粲
丞相西曹掾・・・・
陳羣 丞相東曹掾・・・・「徐宣」(陳矯と同じ)
参丞相軍事・・・・
音欠(あの”華独座”。孫策の死後、曹操に招かれ両国友好の証として
                                                 円満退社していた)

        「
王朗(元・会稽太守で孫策に追放されたのを招聘) 
            ★
裴潜(王粲の友人) 
            ★
「桓階」(荊州長沙出身。かつて孫堅の副官となるも父の死で退官。
               劉表に願い出て、孫堅の遺体を引き取る。その後、劉表と袂を分かち在野)
 
            ★
「和洽」(戦禍を避け、南方の武陵郡太守に転出していた)
             「劉広」(伝無し。不明)
虎騎宿衛軍・・・・
許猪 豹騎宿衛軍・・・・曹休 襲騎宿衛軍・・・・曹真

《水軍》
先鋒ー荊州水軍都督・・・・
蔡瑁 右武衛先鋒ー荊州水軍副都督・・・・張允
《陸軍》
先鋒ー奮威将軍・・・
満寵(廷臣の揚彪が下獄された時、荀ケと孔融が駆け付けて拷問せぬ
                よう頼まれるも聞き入れ無かったが、結局、無実であると上申して助けた)
                              
                                 ー→〈実際は”当陽”に駐屯した。〉
右武衛営本軍ーー横野将軍・・・・
徐晃
            長水校尉・・・・
任峻(食糧担当のエキスパート。屯田制は棗祗が発議し
                                              この任峻が実現させた)
〔後軍〕・・・・”江陵”に残り、支援体制を受け持つ。
江陵支軍》 後軍都督・征南将軍・・・・曹仁 軍糧監運使・・・・夏侯淵



     【漢水方面軍
         ・・・・是れが、事実上は機能しなかった軍団である・・・・
         《左武衛先鋒》
〈水軍〉 江夏太守・討逆将軍・・・・
〈陸軍〉
第1軍
ーー丞相主簿・護7軍都督・・・・
        虎威将軍・・・・
  奮威将軍・・・・
       丞相軍祭酒・・・「杜襲」
(献帝奉戴の頃、独り荊州国境に在って苦闘を凌いだ苦労人
                 「袁漁」
(伝無し。全く不明)
第2軍
ーー蕩寇将軍・・・・
第3軍
ーー平狄将軍・・・・
第4軍
ーー平虜将軍・・・・(魏の人材が豊富な為に伝は立てられていない。劉備が曹操を裏切って独立
                              した時に、一緒に徐州まで行って、騙されて先に帰ってしまった事がある)

第5軍
ーー折衝将軍・・・・
第6軍
ーー揚武将軍・・・・「路招」(伝無し。3ヶ所だけ朱霊に続いて名が出て来るのみ)
第7軍
ーー奮威将軍・・・・「馮楷」(伝無し。1ヶ所に名のみ出て来る)
《襄陽支軍》
斤万鋒将軍・・・・
@−→後詰めとして”襄陽”に残った。
        A
     【漢水方面軍
            ・・・・是れが、事実上は機能しなかった軍団である・・・・
          《左武衛先鋒》
〈水軍〉 江夏太守・討逆将軍・・・・文聘
〈陸軍〉
第1軍
ーー丞相主簿・護7軍都督・・・・趙儼
        虎威将軍・・・・
于禁  奮威将軍・・・・程c
        丞相軍祭酒・・・「杜襲」
(献帝奉戴の頃、独り荊州国境に在って苦闘を凌いだ苦労人
                 「袁漁」
(伝無し。全く不明)
第2軍
ーー蕩寇将軍・・・・張遼
第3軍
ーー平狄将軍・・・・合卩
第4軍
ーー平虜将軍・・・・朱霊(各地を転戦活躍し、最後は後将軍にまで昇進する。)
第5軍
ーー折衝将軍・・・・楽進
第6軍
ーー揚武将軍・・・・「路招」(伝無し。3ヶ所だけ朱霊に続いて名が出て来るのみ)
第7軍
ーー奮威将軍・・・・「馮楷」(伝無し。1ヶ所に名のみ出て来る)
《襄陽支軍》
斤万鋒将軍・・・・
曹洪−→後詰めとして”襄陽”に残った。
と、以上が『
中国歴代戦争史』に記されている軍事編成である。その個々の内容(肩書と人名の関係)については、ほぼ『正史』の記述と一致しており、信用し得るであろう。 然し、【漢水方面軍】については、そのネーミング(位置づけ)自体が問題である。この後の実際の戦いに於いて、曹操軍が”漢水”方面から夏口を経て、廻り込む様な動きをした形跡は一切無いのである。史実は・・・全軍が
”江陵”を起点として動いているのだ。だから、勇将が率いる実質的な陸軍主力である7軍団を呼ぶ場合、”漢水方面軍”とするよりは、寧ろ〔水軍支援軍〕とか〔長江先鋒軍〕などと呼ぶ方が実際的であろう。ーーさて此処で問題となるのは・・・・一体曹操は、この天下最強の陸軍の活用法を、どう考えて居たのであろうか?と云う点である詰り、
陸上からの攻撃を採用しようとしたか否かである。無論呉本国へまで陸上を進撃してゆく意味では無い。呉軍が大本営を置いている”柴桑”に対してである。 この柴桑を落とせば、戦いはほぼ終結する。後は単に本国への追撃あるのみと成る。然も得意の陸上戦であれば、勝利は絶対であろう。ーー当然、考えた・・・・と、するのが常識である。その場合には、先の7軍団が大いに活きて来る。では何故、実際にはそうならなかったのか?
仮にもし、曹操が断念したとすれば(断念したとは言い切れないが)その場合には
3つの理由が推測される。
つはーー(既述した如く)実際の決戦は勃発せず、
             その前に〔降表〕が届けられると観ていた為。
つはーー曹操の人生タイムリミットから、決着速度が早くつく
                          水軍の進撃を選んだ為。
つ目の理由ーーそれは現実的に無理だったからである。
この当時、江陵〜柴桑に至る長江北岸は〔
雲夢うんぽう〕と呼ばれる、葦の繁茂するだけの大湿原地帯であったと言う。是れでは進めない。
問題は柴桑が位置する南岸であるが、是れも亦同様な大湖沼地帯であった。とは言え、9年前に孫策が黄祖を破った”
沙羨”の会戦場も在る事から推して、全く可能性が無かったとは言い切れない。又、”巴丘”辺りから上陸し、山隘をぬって固い地面を進めば、多少時間は掛かろうとも必ず到達し得る・・・・のだが・・・問題は、その後であった。
「−−流石だ・・・!!」曹操はじめ帷幕の全員が絶句した。検討すればする程、改めて、その場所を選んだ周瑜(孫権)の軍才に舌を巻かざるを得無かったのである。言う迄も無くこの柴桑こそは、熟考され選びに選び抜かれた唯一の絶好地点だったのだ

壮長なる長江が平地に流れ出して以後に唯1ヶ所、両岸に山岳が迫り出して最も狭く縊れた地点・・・然も、其処で陸地が突然に消える。其処から東へは、徒歩では絶対に進めぬドン詰りの地形。先に
待っているのは中国最大の湖・番卩陽湖であり、再び姿を現わす長江のみである。 結局、艦船が無ければ、1歩も進めない!!
それが柴桑なのであった!と云う事はーーもし柴桑まで進軍出来たとしても、相手が水軍を利用して水上へ逃れ去ってしまえばそれ迄の行軍は全て徒労と化してしまう。その上、全くの無駄足であるばかりか、逆に敵水軍に遡上されて糧道を建たれたら!?
・・・・江陵を起点とする限り、即ち荊州平定の一環として、このまま更に呉国併呑に臨む今回の場合は、結局、
制海権(制船権)を握らぬ限り、どうにもならぬのである。故に、陸上からの進攻は諦めざるを得無い。・・・・と云う事で、今まで余り問題にもされ無かった点について、一石を投じて置こうではないか。


そんな折、【孫権】が動いた。”知られざる前哨戦”とも言うべき、
〔例の一節〕・・・『
12月、孫権が劉備に味方して合肥を攻撃した。公は江陵から劉備征討に出撃し、巴丘まで赴き、張憙を派遣して合肥を救助させた。孫権は張憙が来ると聞くと逃走した。』
                         ・・・・(正史・曹操伝)・・・・
ーーかくて曹操は、あれもこれも全て承知の上で、何時でも呉国への侵攻を断行し得る軍用を整え終えた。
あとは、大号令を下すのみである
!!

刻一刻、
赤壁の戦いへと、時は流れてゆく
【第144節】蹉跌へのプレリュード(赤壁戦序曲)→へ