【第141節】
建安之十三年 建安の13年
荊楚傲而弗臣 荊楚 傲りて臣とならず
命元司以簡旅 元司に命じて旅を簡ばしむ
予願奮武乎業卩 予も武を南業卩に奮わんを願う
伐霊鼓之硼隠兮 霊れし鼓の硼隠たるを伐ち
建長旗之飄飄 長き旗の飄飄たるを建て
耀甲之皓皖 甲せし卒の皓皖たるを輝かし
馳萬騎之瀏瀏 万騎の瀏瀏たるを馳す
〔述征の賦〕と題される詩賦の一部である。父・曹操の荊州平定戦に従軍した、22歳の【曹丕】の、現存する最初の詩賦の断片である。字余りであるし、中身も御粗末この上ない駄作ではあるが、のち『文帝』と諡号され、〔文学の独立宣言〕を発する人物の、記念すべき処女作品である。こうした詩賦の1つも創って試ようとする程、曹操軍には余裕と自信が有ったのだ。
あっけない幕切れであった・・・・。
「来たか。」 ”新野城”への入城を果した曹操の元に、劉jからの使節団が到着した。ーー《降表》に眼を通す曹操・・・・然したる感慨も湧かない。平定の一過程にすぎ無いのだ。
「分かった。受け入れよう。」
ーー荊州陥つ!!・・・・この瞬間、天下一豊饒な国・荊州の地は、そっくり其のまま曹操のものと成ったのである。
是れで、荊州の1つの時代は終わった。戦乱とは全く無縁な、別天地だった美しき日々は、過去の物となったのだ。と同時に、次の新しい時代の幕が切って落とされた瞬間でもあった。是れ以後この荊州を巡る争奪の日々こそが、まさしく
『三国時代のメインテーマ』となってゆくのである・・・・・。
「之を書いた”王粲”と云う御仁に会ってみとう御座います。」
降表を読み終えた【曹植】が感嘆している。
「ウム、さすが学研の地と謂われた荊州。人材は居るものよのう」
この父子は荊州1国を得た事よりも、名文を記ためた1個の人間の方に、その関心が有るかの如くであった。
ーーそこへ、劉備軍の動向が届けられた。
「フム、浮かれても居られぬな。こんな紙切れ1枚より、”江陵”を得ずば、何の価値も無いワ。儂みずから江陵を陥す!直ちに馬引けい!」 たちどころに、最精鋭の騎馬軍団1万騎が、出撃体勢に入った。壮観である。
「目指すは江陵!一気に荊州を駆け抜けるぞ!」
速い。影をも絶めぬ。通算すれば、1日で130キロを走破すると云う空前のスピードであった。54歳となった曹操孟徳、気力・体力ともに充実し切って居る証左である。
漢水の渡河点・樊城まで僅か半日。劉備達が逃げ出して蛻の殻となった樊城など見向きもせず、その日の内に漢水を越え、対岸の州都・「襄陽」へと乗り込んだ。
ーー降伏の儀式が待っていた。
その城門の外には、荊州の要人・旧臣全てが、恭順の意を示す為に、地上に伏せ、臣下の礼を以って蹲っていた。皆、無官を示す白装束である。曹操は其の列の中を、愛馬”絶影”(3代目)の馬上より、青いマントを翻しつつ闊歩していく。驕った風も無く、然し颯爽たる王の入場であった。
そんな中、城門の脇に、裸足になった少年が唯独り、己の棺桶を携えつつ、深々と荊州牧の印璽を捧げて、頭を垂れて居た。
「劉j殿か?よくぞ英明なる断を下された。安心なされよ。」
馬上からの、この一言に拠って、劉j少年以下、旧臣達全員の命は保証された事になる。
※ちなみに『演義』では、曹操を極悪人に仕立て上げる為に、劉j一家を皆殺しにした事になっているが、真っ赤なウソである!事実は次の”仕置き書”の如く、青州刺史に任命し、厚遇とまでは言わぬが、生涯を保証してやっているのである。
城門内には香が焚き込められ、掃き清められた玉砂利の左には歩兵が、右には騎兵の双列が新しい荊州の主を出迎えていた・・
ーー曹操の《仕置き書》(処置文書)に曰く、
『楚は長江・漢水と云う自然の要害が在り、服従するには最後、強くなって反抗するのは最初であって、秦と覇権を争った国。荊州は其の故地である。
鎮南将軍・劉表は、長い間この地の民衆を支配して来た。亡くなった後、子供達は睨み合いを続け、とうとう荊州全部を保ってゆく事が出来無くなったとは言え、なお延命する事は可能であった。然し、青州刺史「劉j」は、気高い心と清潔な志を持ち、智恵は深く思慮は広大、栄達を軽視して信義を重視し、利害を無視して徳性を重んじ、万里に渡る領域の支配権に執着せず、3軍の軍勢を放棄して、中正の道を尊崇し、名誉を大切にして、上は先君の残された業績を輝かせ、下は子孫に伝える不朽の幸いを企図した。かつて鮑永が并州を放棄し、竇融が5郡を手放したのさえ、比較にならぬ程の立派な行為である。
列侯として1州の刺史の位を与えても未だ、その人柄には不充分な待遇ではないかと惜しまれる。処が近頃、文書を寄越し、青州に帰任したいと言って来ている。刺史の位は高いとは言っても、俸給は不充分である。いま意志通りにする事を許し、劉jを諫議大夫・参同軍事に任命する。』
劉jの降伏を、是れでもかと云う程に褒め千切っている。呉との決戦を控えて、兵力は温存され、荊州軍10数万が手に入ったのであれば、お安い御用と云うものであろう。ーーと、もう1つ。孫権への暗黙の信号である。大人しく降伏すれば、この劉jの様に、後々まで栄華は保証され、その身は保たれるのである。無駄な抵抗は諦めて、すんなりと恭順の道を選ぶが善いぞ・・・・!
「以下、夫れ夫れの処遇については、追って沙汰致す。曹洪よ、此処(襄陽)はお前に任せる。儂は直ちに江陵を目指して進発するぞ!」ーー何故、【曹洪】なのか?ハッキリ言って、彼より有能な人材は、他に幾等でも居るではないか。・・・・然り、曹操軍に於いては、いかに有能で武略に卓越した部将であっても、決して方面軍司令官や重要支軍の最高責任者に指名される事は無かったのである。全て、血族か一族の者に限られて来ている。挙兵以来曹操にとって幸いだったのは、夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪などなど、無条件に信腹できる、ガッチリとした《血縁集団》を擁して来れた点であった。是れは他の国々には真似の出来ぬ、曹魏政権だけに見られる、羨むべき決定的な強味であり、優越性であった。
又、余程の事が無い限り、1人の将軍に直属の兵力を1万以上与える事もしていない。曹魏政権の中枢を占めるのは全て、荀ケ荀攸・郭嘉・陳羣・程c・司馬懿などの「文民・名士」であり、軍権は彼等によって抑えられている。
※ここには既に、のちの《貴族》の萌芽さえ観られる。それはいずれ、彼等の総意に基づく〔九品中正制〕などにより、より明確強化され、《貴族社会》へと移り、世紀を超えた時代の潮流へと続いていく・・・・。
現在の曹魏政権下では、シビリアンコントロールが徹底され、その頂点に曹操だけが君臨すると云う、卓抜した軍政機構を創って来ていた。国の姿が巨大化すればする程、この事は厳格に行なわれている。《有能な武将は両刃の剣である》・・これが君主たる曹操の部将への基本認識であった。軍権は他人には委ねない。委ねなくとも済むだけの血族・一族が居る。不足する才は、文民名士に支えさせればいい。武将とは、常に叛逆し得る存在であるとシビアに位置づけている。・・・・だが、だからこそ曹操は、他のどの君主よりも武将を大切にしていた。個人としての曹操は、常日頃から1人1人と心を通じ合い、全人格的、心情的結び付きを深め、その相手を丸ごと大切にして来たと言える。ウワバミ曹操
・・・・不満を生まぬよう、無論、君主としての封領には細心の注意を怠らない。
2日後・・・途中の当陽近くの「長阪」の地点で、劉備軍に追い着いたが、付き従う10余万の難民に邪魔される格好となり、結局、取り逃がした。張飛に長阪坡の橋を落とされた事もあったが敢えて深追いはせず・・・曹操みずからが率いる高速騎馬軍団5千騎は、全くの無傷の儘、荊州平定の最大の目的地・《江陵》への入城を果した。
ーーここに、曹操による〔荊州平定戦〕は、完璧な成功を以って終わりを告げたのである!
国境線を踏み越えてからは、たった10日にも満たぬ圧倒的電撃戦であった。余りにも呆っ気無い、電光石火の決着であった。
208年(建安13年)、秋9月の事である。その直後からも陸続として集結して来る大騎馬軍団。そして終わる事の無い歩兵のうねり・・・・荊州の人々は今更ながらに、曹操軍団の物凄さに肝を潰し、抗戦などしなかった上層部の決定に胸を撫で降ろすのであった。
曹操は、この「江陵」を大本営と定めると、暫くは新領土となった荊州の実質的掌握・治世に当る事となった。無論、その先には呉国への対策が想定されていた。
ーーさて、今や《魏国》の国力は、爆発的に膨張した事になる。人口だけでも一挙に800万人近く増大する。中原7州の支配地域の合計が2500万人だとすれば、魏国総人口の実に3分の1を占める事になる。当時の中国全土の総人口を4500万人と推せば、魏国はその70パーセント強を占有した事になるのだ。
是れは農業生産力の飛躍的な増大を約束するものである。又、商業交易面でも、中国最大の流通ルートを確保した事になる。
荊州は全国13州中、6州と境を接し、東西南北全方向に開かれた通商交易ルートを持つ、大物産国でもあるのだ。GDP(国内総生産)の伸び率に換算すれば、200パーセントを超える驚異的(天文学的)大発展に匹敵するのである。更に、何と言っても最も直接的、かつ最大の収穫は〔荊州水軍の獲得〕であった。闘艦(戦艦)・蒙衝艦(中級軍艦)・巨大楼艦(指揮艦)など、1000艘以上の大艦隊を無傷のまま、ゴッソリと掌中に収めたのだ。小船まで加えれば、その数実に1万艘余の艦船の入手であった。是れは、長江流域の水利権の殆んどを制圧したに等しい。然も既存兵力の消耗は皆無であり、新規に10余万の陸軍が参入する・・・!!新たな人心収攬の為、在来の人士を謁見し、過不足ない地位と責務を与えなければなるまい。又、新参の荊州軍部隊の再編成と忠誠心の移植、士気高揚も果さねばなるまい。そして何よりも、最終目標の〔呉の平定戦〕に、本腰を入れなければならない。
忙しいが、充実した日々になるであろう。
「覇者」と成り、「国王」と成り、「皇帝」と成る日の為に・・・・・。
『荊州を手に入れたのは嬉しくも無いが、萠異度を手に入れたのが嬉しい』・・・曹操が許都に残して来た荀ケに宛てた手紙の1部である。曹操は昔から、良きにつけ悪しきにつけ、こうして最前戦から後方の恋女房に宛てて、愚痴やら自慢やらを逐一報告して来ていた。今回も今まで同様な書き方である。曹操の方は未だ、荀ケを心の友として信じていた事が判る。又、荀ケが萠越を強く推挙していた事も知れる。
【萠越】−−字は異度・・・人柄ハ公正ソノモノデ、有リ余ル英知ヲ持チ、逞シイ身体ツキノ堂々タル風貌ヲシテイタ。大将軍の何進が其の名声を聞き知り、召して東曹掾に任じた。萠越は宦官を誅殺するよう何進に進言したが、何進は躊躇して決断しなかった。萠越は何進が敗北するに違いないと悟り、みずから求めて汝陽の令に転出し、直後に単身赴任して来た州牧の劉表を補佐して、荊州を天下随一の国に育て上げて来た。』
劉表を支え、その発病後は、荊州の全権は彼の掌中にあったと言ってよい。長期的に観ても、萠越の政略は、曹操に帰順する事を前提に推し進められて来ていた。荊州の無血平定は、いつに萠越の内部功績に因ると言っても過言では無い。13歳の劉jなど、ひと睨みされただけで縮み上がったであろう。彼の冷静沈着な判断により、荊州は悲惨な戦禍から救われたとも言い得よう。従って論功行賞のナンバーワンは何と言っても、この【萠越】であった。列侯に封ぜられた15名中、最高位の光禄勲(宮殿警護長官)に任じられた。6年後に病没する。
以下、在来名士の登用ラッシュとなった。無論、彼等は全て恭順投降を強烈に推進して来た立役者の面々である。有名なのは、のち〔建安の七子〕と評される【王粲】であろう。字は仲宣・・・・
僅か14歳の時、当代一の大学者と謂われた「蔡邑」から私邸に招かれた。その時蔡邑は王粲が門前まで来て居ると聞くや、履物をあべこべに突っ掛けたまま飛び出して彼を出迎えた。王粲が入って来ると、年齢は幼い上に容貌は貧弱だったので座中の賓客達はみなビックリした。すると蔡邑は「この方は王公(王暢)の孫じゃ特別な才能を持ち、儂も及ばない。儂の家の書籍や文学作品は全部彼に譲る事にする」と言った、と云う逸話の持主。董卓の長安政権から招かれたが拒絶して荊州へ遣って来てた。だが劉表は『王粲の風采が上がらず、身体はひ弱で華が丸で無い性格だった』のを嫌って余り重用しなかった。2度迄も其の風貌を正史に特記される位だから、余っ程の無男であった。2代目の劉jに対し、曹操への降伏を強く迫った件は既述した。曹操は直ちに彼を丞相掾(補佐官)に就け、関内侯の爵位を贈って重用した。病床の「韓崇」は大鴻臚(諸侯及び帰服した蛮族を司る)に「ケ義」は侍中「劉先」は尚書令に、「傅巽」は関内侯に任じられた。又注目の荊州刺史には、予想外の無名新人「李立」が任命された。皆ビックリしたが当座の飾り物人事だと気が付く。一方、軍人部門で注目を集めたのは、「蔡瑁」と「文聘」の重用であった。
【蔡瑁】−−字は徳珪・・・荊州軍事の頂点に立ち水陸両軍を統轄して来た。姉を劉表の後妻に入れ、その子の劉jを後継者に仕立てた。だが今となっては、彼の重要性は『水軍司令官』と云う、曹操軍中には誰1人居無い、特殊で貴重な立場であった。呉国との水上決戦では、彼の水軍で、彼の指揮により、その水上戦の行方が懸かる事となるしかない。絶対に、妙な気を起こさせては為らなかった。 そこで曹操は、蔡瑁を鎮南侯とし、
〔水軍大都督〕(総司令官)に任命した。そして蔡瑁の属官だった「張允」を副都督とし、呉国との水上決戦は《荊州水軍》をソックリ其の儘、現状通りに使う事としたのである。使わざるを得無い。
だがその動静には決して気を許しては為らなかった。何となれば劉備と行動を共にした、諸葛亮とか云う天才青年とは姻戚関係に在ると謂うではないか。
もう1人の【文聘】−−字は仲業・・・・劉表の将軍の1人と
して主に荊州北方の守りを任されていた。 清潔・質素を旨とし、威厳と恩恵が有り、その武勇は魏国にも轟いていた。荊州降伏の直後曹操はさっそく彼を招聘した。だが諸将みな出頭する中、文聘だけは姿を見せなかった。「儂は州を保つ事が出来無かった者だ。主君からの処罰を待つのが当然である・・・」再三の招請でやっと出頭して来た文聘に、曹操の詰問が飛んだ。
「何故、来るのが遅かったのじゃ!?」
「過日、劉荊州を補佐して国家に使える事が出来ませんでした。荊州は滅びましたが、常に漢川を拠り所として守備し、領土を保全し、生きては若年の孤し児(劉j)を裏切らず、死しては地下の方(劉表)に恥じない事を願って居りました・・・・が、計画はどうにも為らず、ここ迄きました。実際、悲痛と慚愧の思いに、早くお目通りする顔も無かったので御座います・・・・。」
文聘の眼には涙が溢れ、肩が震えていた。その姿に接した曹操は、敵ながら感動した。そして、しんみりとした調子で言った。
「仲業よ、卿は真に忠臣である・・・・!」
直ちに関内侯とし、兵を授け、曹純と共に、長阪へ劉備を追撃させた・・・・(その後は、呉と境を接する〈江夏郡太守〉を任され数十年間に亘って、敵に恐れられ続ける事となる。)
ーーだが曹操の、こうした人材の発掘にも拘らず・・・実はもう1人遠方ではあったが、有能な武将が居たのである。 但し、この時既に60歳を越えた老人であった。曹操の幕下には、今67歳のバリバリ爺さん「程c」が居る。だが誰しも、彼は特殊人類だと思う。まさか此の世にもう1人、同種の然も武人としては格上のバリバリ爺さんが居るとは思わない。曹操もつい、年齢だけを聞いて見逃してしまった。
−−その老将とは・・・【黄忠】、字を漢升と言った。のち劉備に仕え、60過ぎの老体とは思えぬ勇猛ぶりで、蜀の5虎将の1人となる人物である。その黄忠は今も故郷の長沙(長江の南方)を動く事もせず1軍官として淡々と過して居る。荊州の支配者が誰になろうと我関せず己の職責を果す。
自らは進んで栄達を求める事もないがひとたび戦場に立てば、
『彊摯壮猛ニシテ爪牙ト作ル』英傑であった。その慎ましい生き様と清廉な処世に共感する中国の人々は今でも老いて尚盛んな人を《老黄忠》と呼ぶそうである
流石の曹操も、この時は彼を見落としたのである。逆に言えば、そのお蔭で劉備は後日、大喜びする事になる。
又、曹操の元には出仕する事を潔しとせぬ者達も多く在った。ハッキリ拒否して劉備と共に随行して去って行ったのは【伊籍】(機伯)。西方の蜀へと脱出したのは【李厳】(正方)。身を潜める様に去った者としては、あの白眉こと【馬良】や弟の【馬謖】。
そして【尹黙】、【向朗】、【陳震】、【廖立】、【霍峻】などなどが居た。来たる人材も多かったが、その一方で去ってゆく者達も決して少なくは無かったのである。そして彼等が、いずれ再び戻って来る時ーーそれは劉備の臣下として再登場する事となるのである・・・・。
人探しと言えば・・・・逆に”賞金付きのウォンテッド”で、指名手配までして執拗に追及した相手が、曹操には2人いた。
1人は「梁鵠」ーー字は孟黄。かつて曹操が若かった日、曹操を見くびった仕打をした前科が有った。彼が選部尚書(人材登用役)の官に就いたばかりの頃、曹操はまさに官界にデビューしようとしていた時であった。曹操本人は〔洛陽の令〕の地位を望んでいたが、梁鵠は曹操を数段も格下の〔北部尉〕に当てた。濁流の家柄として曹操を軽んじたのである。
《俺の人生も是れ迄か・・・・》 若い日の怨みを晴らされるに違い無い。梁鵠は自ずから縄を掛け、軍門に出頭した。
処が曹操は、詰らなかった。笑って戒めを解かせると、直ちに梁鵠を仮司馬に任命し、己の秘書とし、その「書の才」を発揮させたのである。
ちなみに此の【梁鵠】・・・当代きっての書の第一人者であった。特に隷書や楷書(王次仲が書法を作った)の名人とされていた。梁鵠の前に「師宜官」と云う第一人者が居たが、彼はセコイ人物で己の書いた物は、その簡札の表面を削り取ったり焼き捨てたりして、他人に盗用模倣されるのを拒んでいた。そこで梁鵠は多くの簡札を用意しておき、或る日、師宜官を招待し、煽て上げて自慢の筆を振るわせた上で酒を飲ませ、泥酔した隙に其れを盗み取った。こちらも可也な者だが、梁鵠は其れを手本に書法を研究し、ついに道を極めて、選部尚書の官に昇ったのである。
曹操は、この梁鵠の才を師宜官以上だと高く評価し、その作品を常に天幕の中に吊り下げたり、壁に釘で打ちつけたりして、愛玩し続けていく。爾来、魏国の建造物の全ての”額字”は、この梁鵠の書で飾られてゆくのであった。
ちなみに曹操自身、相当以上の書道家でもある。唯一曹操の作と認定されている揮毫2文字が石に刻まれ、漢中博物館に保存されている。
『袞雪』ーー急流の飛沫が踊る様を表したとされる・・・・観る者を唸らせる、覇王の雄壮な気が伝わって来る。横書き隷書で、隷書の至玉と称えられる。 ※筆者の父は田舎書家でも在ったが、 「指でなぞってみるだけで、その息の長く、最後まで力に満ち、自在闊達な気宇の雄渾さに触れる事が出来る!」と言っていたものだ。
もう1人の【王儁】の字は子文・・・但し、こちらのウォンテッドは親友の行方探しの為であった。王儁は、曹操が世に出る前からの親友であった。放蕩時代の世間冷視の中、彼だけは常に高く評価して呉れていた。未だ若く、袁紹とも友人付き合いしている頃、袁紹の母親の葬儀には3万人の参列者が集まった。流石に4世三公の名門・袁家の葬儀であった。その葬儀の最中、曹操は隣りの王儁に、こっそり話し掛けた。「天下は乱れようとしている。動乱の中心人物と成るのは、必ず其処に居る袁紹と袁術の2人だぞ。天下を救い、人民の為に命乞いを願うならば、この2人を先に始末しないと、動乱は今にも起こるぞ。」
「君の言葉通りであれば、天下を救う者は、君をおいて一体誰が在ろうかね。」2人は顔を合わせると、人知れず笑い合った。当の2人を眼の前にしての、物騒な対話ではあったが、そう云う仲であった。以後「王儁」は州郡や三公政庁、皇帝の招請にも応ぜず荊州で野の人となって、陰ながら常に、曹操の評判を高め続けて呉れて居たのだった。
ーーだが、その友人も、既に此の世を去っていた。探索の結果、王儁はつい先頃、荊州南部の武陵の地に於いて、64歳の享年を終いえていたのであった・・・曹操は、物静かで終生、己を評価し続けて呉れた友の死を哀しみ悼んで、みずから長江まで遺体を引き取りに出て、改めて此の江陵の地に葬り、先哲として表彰するのであった。その時、親友の墓の前で、54歳の曹操の胸の中に去来したものは、一体何だったであろうか・・・・
去去不可追 去り去りて追いもならず
長恨相牽懋 牽きとめんとて長く恨む
夜夜安得寐 夜毎夜毎に寐ねもやらず
惆帳以自憐 くやみつつ自ら憐れむ
人道居之短 人の命はかく短きに
天地何長久 何と天は長く地は久しきか
存亡有命 生くるも死すも命あり
慮之為蚩 慮い悩むはおろかなり
愛時進趣 時を愛しみてははげみても
将以恵誰 恵みを誰と分かとうや
烈士暮年 烈き士は老ゆるとも
壮心不已 壮き心の已むことはなし
盈縮之期 長く短い命の期り
年之暮奈何 されど年の暮るるを如何んせん
時過時来微 ああ やすみなく
時は過ぎ 時は来たる
こうした、しみじみとした心映えを有する一方、覇業の達成を目前にした【大曹操】には、己の気付かぬ裡に、戒しむべき
”驕りの影”が忍び寄っていた・・・・
そして其の所為で、曹操は途轍もない幸運を逸し、この後に
巨きな禍根を残してしまう事となったのである。
無論その時、曹操には、そんな意識は全く持てなかったのだが、後で思えば、取り返しのつかぬ大きな過失・大痛手を背負い込んだ1場面であった。本来であれば大きな味方になる筈の1大国を失い、それ処か、不倶戴天の敵に廻してしまったのである。
ーーそれは、この江陵を訪れた、風采の上がらぬ
【或る小男】との謁見の場で起こった・・・・
【第142節】筋金入りの売国奴(国売の秘密結社)→へ