第140節
秘められた タイムリミット
                                    裏に事情あり




ーー不自然である。異様に時間が掛かり過ぎている。
曹操は
7月に業卩城を出陣したのだ。荊州へ雪崩れ込んだのが9月である。この間、丸々2ヶ月。足掛けだと3ヶ月を要している。業卩城から荊州国境までは、僅か350キロに過ぎ無い。如何に大軍とは言え、半月もあれば余裕で踏破できる筈である。これでは丸で牛歩の如き進軍速度である。まして許都からだと100キロ未満である。殊に「許都に於ける長期間の停滞」は謎めいている何故なら、一旦動き出した後の曹操の素早さは、劉備に「江陵」を占拠される事を恐れて『一日一夜300余里』と云う未曾有の超スピードを記録しているからである。そんなにも劉備の動きが懸念されるのであれば尚の事、途中の「許都」で長々と引っ掛かって居る訳にはゆかなかった筈である。
一体、この異様に遅い行軍速度、及び「許都での遅滞」の原因は何だったのか?・・・その事を解明していった時、其処には意外な背景・真相が在った事実が浮び上がって来るのである。その理由は幾つか考えられる。
《1つ目の理由》はーー文字通り、牛の歩みの中に見い出されよう。輜重は全てが牽く。自称80万(実数は2・30万か?)の人間達が、一斉に野外で飯を食う場面を想像してみて欲しい。それも恐らく1、2ヶ月分は携行してゆくであろう。全体、食糧だけで、どれ程の物量になるであろうか?気が遠くなりそうである。だが、カロリー消費量の多い将兵達が行軍して戦う為には、タップリ運ばねばならぬ。そして其れを運ぶ手段は当時は「牛車」でしか有り得なかったのだ。驚くべき事に、文明先進国の中国でさえ、近代になる迄、「四輪の馬車」は考案されて居無いのだ。 特に、方向転換用の、前輪に装着すべき”自在軸受け
(ショックアブソーバー)
を識らない。その為、ハイスピードでは曲る事が出来ず、急カーブでは横転事故を起こしてしまい、運搬用としては馬車は使え無かったのである。
は専ら騎兵用、騎乗用であり、馬車は2輪が主流であった2輪では御者と同乗者だけで一杯になってしまい、荷駄は積めない。始皇帝時代まで見られた”戦車”が急激に廃れたのも、直線の突撃場面にしか使えぬ故であった。自在に方向転換が出来ぬのでは、兵器としては致命的欠陥だった訳だ。4輪馬車が在ったとしても、其れは直線的にゆっくりゆっくり進むだけの儀丈用の物であり、暴走を想起すれば危険な代物でしか無かった。だから軍用食糧に限らず、日常の物品運搬も全て「牛の牽く荷車のみ」であったのだ。だから当時、と言えば(彦星の牽牛の命名からも判る様に)それは当然、牛が牽く牛車を指した。
さて、その
であるが・・・・使用目的は2つ有った。最大の用途は、農耕用である。牛を持たぬ農民には曹魏幕府から貸付が為され、その代りに税率がハネ上がる。それ程に農業生産性に重大な影響を与えるインパクトであった。特に屯田制が整備されている魏国領内に於いては、”牛耕”は生産力アップの絶対不可欠な要素であった。故に曹魏領内の農家は、常に牛の保有を心掛けていた。−−従って・・・・牛が農耕に使用されている時期は、大軍による長期遠征は不可能なのである!!今回の荊州平定戦が7月に発せられ、冬場に向かう農閑期に設定されたのにも、ちゃんとした理由が有ったのである。基本的には、この一種のタイムリミットは、今後の大作戦にも当て嵌まる制約となる。
牛の用途のもう1つは
荷車の牽引である。牛は干し草さえ有れば何処へでも連れて行ける。だから大軍の移動・進攻には必ず、この牛車に拠る輜重部隊が、陸続として同行しているのである。と云う事は、大軍であればある程、その行軍速度には、牛の牽く荷駄の制限が出て来る事となる。曹操の生涯で最大の、この南征大作戦の台所事情は、こうした一面を持っていたのである。
※ちなみに、牛は牛でも、呉の国や荊州の水田で農耕に使われている水牛は別物である。水牛は、水分の多い生の草しか食べないそうだ。干し草は受け付け無い生き物なのであるという。故に常に緑の草の生えている南方の地でしか使えない。水牛を牛車とした北方への遠征は不可能なのであった。呉はそうした条件下に在る・・・・
さて是れで、大軍の移動には時間が掛かる事は解った。だから「業卩」から「許」迄の300キロについては了承しよう。途中、黄河の渡河もあった事だし、理解できる。だが、それは肯しとしても、「許都」で更に1ヶ月を費やしているのは何うした事か?曹軍80万はピタリと歩みを止めて、全く動かない。8月のひと月間、一体曹操は許都で何をして居たのか??「許都」から荊州国境までは僅か100キロ未満。その気に成りさえすれば、大軍であっても10日もあれば敵の心臓部(州都・襄陽)に到達できる筈である。にも関わらず、曹操は延々と此の許都に長逗留して動かない・・・・。
《2つ目の理由》−−それは、天網恢恢疎てんもうかいかいそにしてらさず、500キロの前面に渡る呉国包囲網の完成を待っていたのである。中国全土を視野に入れた、水も漏らさぬ、大陸規模の兵力展開を果す・・・・それは、この一戦に於いて天下統一を期す曹操の決意の表われであった。其の作戦は、ひと月をかけて、深く静かに進められ、その準備完了が報告されるのが8月中の事であった。そもそも荊州平定戦とは言うが、事実上はその直後に想定された「呉への進攻」であり、〔呉国の平定〕である。従って此の8月に、曹操が取り分け注目していたのは、合肥の動向であった。つまり、荊州占領の以前に、その後に来る呉国との決戦を意識していたのだ。・・・・魏呉両者の中央正面には東西に300キロに渡る「大別山脈」が立ちはだかっている。その南に沿って、長江が流れている。曹操は此の山脈を迂回して(上方を北として)左側から廻り込み、荊州を狙う。この時、山脈の右側から呉軍に攻め上がられると、本国が危ない。距離的にも右側は短い。その危険性を抑え、敵の進攻を封じ込める要衝が《合肥》なのであった。だから今、曹操は別働方面軍の動きに注目し、「合肥」が喰い破られない自信と確証を得られるまで「許都」に留まり、万全の体勢を期して居たーー本軍から400キロも彼方の地に於いて既に戦いは始まっていたのである。そして8月中に、破虜将軍・【李典】によって、合肥安泰は果された。
 ちなみに〔方面軍〕は2つ在った。大別山脈の右脇(東側)から海岸線までの空間に、一連の阻止防衛ラインを構築するのがA軍。この
A軍は長江を挟んで、呉の勢力圏と直接向き合う事となる。それ故、支軍を3拠点に配置させた。これは呉軍の北進を防ぐと共に、呉の戦力を引き寄せ分散させる効果もある。(事実、赤壁戦では、周瑜は3万の兵力しか持て無かった。)
その3拠点のうち、最も山脈寄り
(荊州に近い)の要衝が合肥で、破虜将軍【李典】が担当。その100キロ北東の東城には、在地の【陳登(あの呂布を滅亡に追い込んだ陳登である)を平東将軍として控えさえた。最も海寄りの広陵には、威虜将軍の【臧覇】を送り込み、呉国中枢に睨みを効かす。B軍は、大別山脈の左備えである。本軍主力が通過(南下)する右脇を固める信陽には、在地の【李通】を征南将軍として配していた。ーー以上を整理すると
・・・・曹操が如何に大規模に、各軍を全土展開していたかに驚く。そしてそれは明らかに、呉の完全包囲網であったかが、判然と浮び上がって来る事にもなる。やはり南征の真の目的は、荊州では無く、呉の平定・天下制覇の野望であったのだ。実に敵の全正面500キロに渡って、各軍団を配備しきったのである!
その各方面軍が所定の位置に着くのを、曹操はジッと待って居たのである。それが、許都での長期滞在の理由であった。
《3つ目の理由》・・・・其れは西方への布石の為であった。「おお、馬騰ばとうよ。よくぞ決心して呉れたな!」
「ハハ、お恥ずかしゅう御座る。寄る年波には克てず、御言葉に甘えまして、ノコノコと出て参りました。」
8月、許都に留まる曹操を訪れる者があった。この時期を狙って、曹操の方から段取りをつけ、招いたのである。この〔
馬騰の招聘〕も、天下統一戦略の一環であった。
馬騰・・・・字は寿成じゅせい。中国の西の辺境・涼州一円を支配する実力者である。涼州はあの「敦煌」を含む、シルクロードの入口であり、異民族地域の中に突出している。北には「匈奴」・西には「羌氏」・東には「鮮卑」の各部族国家と、国境を接している。中国にとっては、異民族の侵入を防ぐ最前戦基地でもあり、同時に、西方との交易の要衝でもあった。南で「雍州」に連なる。雍州には「長安」が在る。現在、馬騰の支配地域は、その雍州にまで及び、曹魏領の直ぐ西を窺う程に成っていた。
馬騰の母親は羌族の娘で、彼には半分異民族の血が混じっている。身長190センチの堂々たる体格に、立派な顔付の男である。が今は、髪や髭にも白いものが目立つ。若い頃は、長安を襲撃するなど血の気も多かったが、相棒の【韓遂】と仲間割れなどして、東方への進出は果せ無かった。今は長安以西に勢力を維持しているが、みずからの老いを鑑みて、曹操の誘いに応じ、一族郎党を率いて、朝廷警護役(衛尉)として帰順する事にしたのであった
・・・だが曹操の真の狙いは、この馬騰では無く、息子の
馬超の方に在った。父親や一族を取り込み、息子の動きを封じ、懐柔しようとしていたのである。息子の馬超と、その率いる胡騎軍団の勇猛さは、極めて魅力的である。反面、隙を見せれば、脇腹に手痛いボディブローを喰いそうでもあり、厄介な勢力であった。どうも息子の方は父親以上に覇気に満ち、若いだけに山っ気が有り、臣従を潔しとしない処がある。その上、今まで父親が育て上げて来た騎馬軍団の統帥権を、そっくり其のまま受け継いでしまっていた。流石、海千山千の馬騰である。そう易々と全面降伏はしない。とは言え曹操にしてみれば、体の良い人質を取った事にはなる。馬超単独では大した事は無いが、万が一この本拠地が手薄に成る今、裏で呉と手でも組まれたら、厄介な事態に陥る・・
その懸念を払拭して措く為に、曹操はピシリと布石を打った訳である。
さあ是れで、8月の許都長期滞在の理由が全て判った・・・
と思ったら大間違いである。実は未だ、最大の理由が残っているのだった。 ・・・・えへん、えへん、是れは多分、有史以来、この『三国統一志』が初めて発表する説であろう。(チト大袈裟ですかな?)
さて、その最大の理由とは・・・・少府・孔融文挙の【処刑解禁日】に在ったのである!!是れこそが、最大の理由だったのだ。
孔融が許都の市場で公開処刑されたのは、西暦208年(建安十三年)の《8月29日》であった。ーーこの日付の中にこそ、或る秘密が含まれているのであった。
 思えば、如何に80万の軍隊を抱える曹操とは雖も、大名士であり、漢王室最大の立役者でも在る孔融の断罪と処刑は、電光石火の不意打ちでなければならなかった。もし弾劾と処刑の間が長ければ、様々な方面から、不測の事態が勃発する可能性が強かった。最悪の場合には、皇帝からの勅命が発せられ、全国規模の反曹操連合が結成される事態すら考えられた。それ程迄に孔融の存在は、後漢王朝とは表裏一体を為し、名士階層全体にとっても浮沈の瀬戸際を代表する、重い存在だったのである。
 逆に言えば、曹操が
法的に正式な手続きを踏んだ上で、スンナリと其の処刑を果せば、曹魏政権は《漢王朝権威の抹殺》と云う巨大な政事的凱歌を挙げた事となる。後漢王朝の無力さが天下白日の下に晒され、以後の新時代・新王朝の到来は、暗黙の裡に承認された事にも繋がるのだ。ーー処がここに、そんな曹操の決行を阻害する、当時の道理の壁が立ちはだかったのである。読者諸氏には暫しの間、孔融が処刑された8月29日》と云う日付を記憶して置いて戴きたい。実は此の日付の中にかつて誰もが指摘しなかった、曹操の苛立ちと焦りとが凝縮されて隠れているのである
中国古代からの伝統思想の主流に陰陽道がある。
森羅万象の悉くは「陰」と「陽」から成り立ち、万物みな其の影響を受けているーーとする思想である。現代でさえも、これを信奉する人々が居る位だから、当時は常識中の常識であった。これを犯す者は人間として扱われないと云う、一種の社会規範・道徳律でもあった。・・・季節に当てはめれば、万物が枯れ絶える「秋と冬」が
に相当する。「春と夏」は、万物が燃え立ち盛長するに当たる。刑の執行・処刑は、万物枯死する〔陰の季節〕・・・・詰り、秋9月から正月まで所謂〔三冬の月〕の期間内でしか行なえ無かったのである!それ以外では処刑では無く、”殺人”となってしまう訳であった。
 又、更には1ヶ月の裡でも
月が欠けてゆく陰の期間内でしか処刑は出来無い。詰り15日以後にしか執行できないのであった
・・・と云う事は、今は8月であるから、処刑は出来無い。逆計算のタイムリミットで数えてみると最も早い日付でも
9月15日となる。未だ1ヶ月も先なのである!・・・だが、もう曹操には、時間が無かったのだ。曹操に許されたタイムリミットは8月迄であった。何故なら、全作戦を終了して、耕牛と農民を故郷の大地に、春までには戻してやらねばならぬからであった。
 荊州を平定し、呉国との決着をつけ、無事に牛と農民を春の耕作期に故郷に還す→その為に「許都」を出撃するタイムリミットは8月中か、ギリギリでも9月の頭であった。それ以上は、1日の遅延が命取りに直結していってしまう。せっかく大勝利を収めても、本国の収穫が激減して破綻すると云う、馬鹿げた結末を招き兼ねないのだ。
「待てぬ!何か良い方法を見つけよ!」 そこで幕臣一同、鳩首協議して考え出されたのが
8月29日であった。処刑解禁となる9月15日までは待て無い。だが、出来るだけ9月には近づけさせ、日限の15日以降と云う、片方の条件だけは満たす・・・・。
「よし、それでゆこう!!」一刻でも早くケリを着けて南征したい。だが、世間の耳目を集めている以上は、陰陽道を無視する事もマズイ。と言っても、半月も待っては居られぬし・・・・その苛立ちと焦燥の結晶が、まさに此の《8月29日》であったのだ。(処刑日が29日と云う事は、告発・検挙は8月中旬であったと想われる。)

この「孔融の処刑」に伴う、社会的反響の有無や具体的な動向についての記述は、(当然ながら)史書には残されて居無い。但し、処刑直後に曹操が発した
布告の中に、逆の証明として、事の重大さが顕われている。わざわざ1個人の処刑に対する公式見解を出さざるを得無い程の、異例の措置である。
太中大夫の孔融は既に其の罪に服した。然しながら世人には、彼の虚名を取り上げる者が多く、事実を極める者が少ない。
孔融が表面的な艶やかさを持ち、好んで怪しげな事を行なうのを見て、その誤魔化しに眼が眩み、彼が風俗を乱していた事を考察しようとしないのである。彼と同じ州の者が述べている事だが、平原の彌衡は孔融の論説を伝授していると言う。彼は父母が子と関係無いのは、例えば水と水瓶の様なもので、子は生まれる前に、仮に其の中に入って居るのだと主張し、又もし飢饉に会った時、父親が下らない人間ならば、寧ろ他の人間を助けて活かせと申している。孔融は天に逆らい道に背き、人倫を損い道理を乱した。
市場に屍を晒したものの、尚その処断が遅過ぎた事を残念に思って居る。以上、もう1度、この事柄を述べた。
諸軍の将校・属官に明示し、皆に余の意向を熟知せしめよ!


この布告は、逆に曹魏政権内にも、多くの孔融同調者(漢王室復興論者)が存在して居た事を物語っている。だが、この素早く出された布告の脅しと睨みは効果的であった。背後には80万の武力が刃をチラつかせて居るのである。結果、一頻り物議を醸した世論も、やがて砂地に水が退ける如く、沈静化していった・・・・。
唯一、補註の『魏略』の中に、処刑直後の現場のレポートだけが見られるが、哀れの一言に尽きる。
『当時、許のまちに居た官吏の中には、孔融と親交の有った者達も居たが、
誰も思い切って遺骸を引き取り、弔おうとしなかった。(市場に転がされた儘であった) 処が脂習は独り出かけてゆき、骸を擦りながら彼を哭して言った。「文挙よ、卿は私を捨てて死んだ。私は是れから誰と語り合えばよいのか。」哀しみ歎きは尽きる事が無かった。太祖は其の事を聞き、脂習を逮捕しようとしたが、結局は彼の素直さを認めて許し、所払いで済ませた・・・・云々』


《剣呑な事じゃったわい。やはり名士どもの腹の底には一物有るな。漢王朝の権威は未まだ侮れぬか・・・・。》
だが大事には至らず、ひとケリは着いた。曹操の果断さの勝利と言えようか。ーーかくて曹操の政治的奇襲攻撃は成功した。それをキッチリ見定め、事後の許都を一族の「夏侯惇」に委ねた上で、さあ、いよいよ一挙に荊州へと雪崩れ込む秋が来たのだ!

ーーと思った矢先、今度は曹操自身が全く夢想だにしなかった、
謀重大事態が、眼の前に現われたのである・・・・!!
「ブルータス、お前もか!?」 カエサル
(シーザー)は呻いた。
流石の曹操も呆っ気に取られ、一瞬、己の眼を疑う程の衝撃であった。曹操の眼の前に静かに佇む男・・・・彼こそは、曹操を今の地位にまで導き、艱難辛苦を共にし続けて来た、曹操にとっては最重要な人物であったのである。
「私は此処に残って、帝のお嘆きをお慰め致したい。よって、以後の従軍は御遠慮仕まつる・・・・!!
室内には唯2人だけの、他の誰も知らぬ場面であった。曹操を睨みつけた、その
大名士の眼光の底には、言い知れぬ不信と許し難い怨みとが籠められていた。その人物は〔漢王朝の復興〕こそを、己の使命とし人生の至上命題として生きて来ていたのだこれまで曹操に尽くし、共に戦って来たのも、曹操が《覇者》として行動しているからであった。覇者とは・・・実力は天下人であっても現王朝を盛り立て、飽くまで臣下としての礼を尽す権力者を指す2人が出会って以来、今迄ずっとこの名コンビは、〔覇業〕の達成に向かって突き進んで来た。両者の息はピッタリと揃い、何の問題も無く、主従と云うより縁戚・身内の間柄と成っていた。だから、《献帝奉戴》を最も強力に推し進め、実現させたのも、この男の悲願の賜物なのであった・・・・処が曹操は、その覇業が進み、今や天下最大の勢力と成るや、徐々に”変節”し始めている様に思えてならなかった。漢王室を盛り立てる処か、その権威を削ぎ落とす様な事ばかりし始めていた。何やかやと理由をこじつけては、旧来からの帝の側近達を次々と抹殺し続けて来ている。陰に廻って、少府・孔融と接近して、その被害を何とか最小限に抑えて来たのだが・・・漢王室にとっては最後の砦・頼みの綱であった忠臣孔融までが、遂に消された。之はもう《覇者の姿》では無い!朝廷の簒奪を目論む野獣の行動である。
薄々は彼の価値観とのズレを感じてか、曹操は彼に一言の事前相談も無く、頭越しに今度の暴挙を決行したのであった。
「御意向にそぐわないのであれば即刻、私を罷免して戴きたい!
今にも泣き出しそうな、決然たる物言いであった。その気迫は、大曹操の説得を初めからガンとして受け付けぬ熾烈さを帯びていた
「−−よかろう・・・。お前は残れ。」
咄嗟にそう答えたが、内心曹操は大いに狼狽たえていた。まさかの相手であった。領邑は家臣団中最高の2千戸を与え、自分の娘を彼の長男に嫁がせて、親戚にまで成っている曹操の分身であったのだ!
「元々、お前には此処の留守を任せているではないか。」それは業卩を発つ以前からの規定の方針であった。その事にやっと思い至った曹操の動揺は、相当なものであった。
「お前は今、だいぶ疲れて居る様だな。ゆっくり休んだら、夏侯惇の奴と力を合わせて、此処を頼んだぞ・・・・。」
「はい。帝は、私が命に替えてもお守り致します・・・・!」
草創期から艱難辛苦を共に舐め、主従と云うよりは友として、血族以上の信頼関係と人としての絆を認め合い、励まし合って来た
”身内中の身内”であった。
言の葉とは裏腹に、その2人の間に今、初めて〔
宿命の亀裂〕が走った瞬間であった!それはやがて、2度とは修復し難い、両者の暗く深い溝と成る。それは、互いを永遠に隔つ、内なる根本思想の葛藤が、初めて表面に露呈された瞬間でもあった。
《あいつめ、少し逆上せておるのだ・・・・》
悲劇へのタイムリミットが設定された・・・・。


満を持していた曹操本軍80万が、荊州へ怒涛の侵攻を開始するときが来た!!
「荊州は、天下を我等に与えて呉れる実りの地ぞ!
−−いざ、出陣じゃ!!」
208年(建安13年)9月初旬、遂に荊州侵略の大軍が、許都を発した。 腕組みして見送る独眼の【夏侯惇】、複雑な面持ちで佇立する【荀ケ】、そして今はにこやかな表情を見せ続ける【献帝・劉協】・・許都に残る者達の見送る中曹操は全身に自信を漲らせて、天下統一へのスタートを切った。
自国領内の潁川郡を100キロ南西に抜け、繁昌→舞陽を通過、ついに荊州との国境に至る。・・・・だが曹操の胸の底に在るのは飽くまでも呉との決戦である。荊州占領はその序幕に過ぎ無い。とは言え、先ずは1歩ずつ、その前段階を完璧に仕上げる事だ。
その荊州侵攻の最大の軍事目標は
江陵の無血占領である。江陵はーー荊州軍事の心臓部であり、荊州統括の最重要拠点である。其処には北方からの侵略に備えて、大量の刀槍弓矢と、莫大な食糧とが備蓄されていた。天下一富める国に相応しく、その備蓄量たるや、曹操全軍が1年以上徒食できるとも謂われている。これを押さえれば、先ず”食わせる心配”は不要となりもっぱら軍事活動に専念できる。
又、長江を睥睨し、天下最大の
大水軍を擁している。この水軍無しには、呉への進攻は考えられない。これ等を無傷のままゴッソリと入手するには急襲するしか無い。故に許都滞留中、曹操が最も気を使い厳命したのは情報漏れの阻止であった。
街道筋は勿論、脇街道・間道・裏道に至る迄、完全封鎖網が敷かれた。 1ヶ月以上に及ぶ、
この鉄壁の情報封じこそ、曹操最大の勝因であったと言ってよい。荊州に居る全ての者達が、その直前になる迄、この大軍の動き出しを察知し得無かったのだから、その徹底ぶりは称讃して尚余りある。(それに引き替え、荊州側の情報収集の拙劣さが際立つ。)
特に
劉備に気付かれてはならない。いざとなれば、何を仕でかすか判らぬ、覇気衰えぬ人物である。少なくとも「江陵」に入り込まれたら、厄介この上ない。水軍を乗っ取られたり、焼き払われたら、堪ったものでは無い。一撃で捕捉、抹殺してしまいたい。
曹操は劉備と云う人物を、傍が想う以上に評価しているフシが有る。劉備が現在の如く「仁徳の士」として世に観られるのも、この曹操の優遇が培ったものと言える一面が強い。一時、曹操の所へ逃げ込んだ時の優待ぶりは、異常とも言える程であった。
何やかやと言っても、群雄悉く滅亡した中で、独りしぶとく生き残って居るではないか!それだけでも称讃に値すると思って居る様である。「董卓」「呂布」「袁術」「公孫讃」「袁紹」「孫策」「劉表」・・・・と、自分と覇を争っていた英雄達が、全て地上から消え去った今敵とは言え、どこかしら昔馴染み的な、憎み切れぬ”何か”を持つ男である。自分と同じく《壮き心の已む事は無し!》のジェネレーションだと観ている。小規模経営ながら進取の気概を失わない強かさは、見上げたものだとさえ思っている。流石に天下を取る器だとは観て居無いが、己の天下統一に妨げに成り得る人物だとは観ていた・・・・ 他方、荊州本国の新君主【
劉j】については曹操、歯牙にも掛けて居無い風であった。既に真の実力者である【萠越】からは、以前より密かに、国を挙げての臣従・帰順の打診が、幾度と無く齎されて来ていた。荊州平定は容易だが、客将・【劉備】の暴走は封じ込めて置く必要がある、と云う事であった・・
建安13年9月大津波が荊州を襲った。曹操の大軍は、南陽郡の山野を埋め尽し、堵陽・博望を呑み込み、郡都の「宛城」を包囲した。11年前に此処で苦杯を舐めた時に比べたらその軍用は月とスッポンであった。かつて誰も見た事の無い騎馬だけの大軍に、宛城は十重二十重にビッシリ覆われた。 だが、これでも未だ先陣に過ぎ無い。後続の歩兵軍団が現れた時には曹操は既に城主の座にどっかり腰を据えて居た。
「未だ届かぬのか?」 劉jからの《
降表》である。
「脅しの使者を出しまするか?」 曹丕が尋いた。
「いや、構わぬ。あす〈新野〉を落としても来ぬようであれば出せ。今日は、兵馬に休養を取らせるが良い。」
全て順調であった。この後は、まっすぐ南下するのみである。
大曹操の機嫌も好い。

ーー同日同時刻・・・・
劉備主従は未だ、いつも通り「樊城」に在った。
「・・・・何?」 「−−しまった!!」  全員が驚愕し、蒼ざめている最中であった。その距離わずか130キロ!

又、その樊城の対岸の州都・「
襄陽」では・・・・【劉j】が全面降伏を決定し終わり、王粲の手による《降表》が認められ、使者は既に北へ向かって出発していた。
何も知らぬ
魯粛は、独り夏口を経て、劉備に会うため、江陵を目指す船中に在った。

徐々に、然し確実に、
歴史の地殻は変動し始めていた 【第141節】荊州陥落・人材劇場(去る者・来る者)→へ