【第139節】
伝説の名医
                               華侘 殺害




「・・・・ウ、ウ・・・ウウウ・・・・」
気怠いまどろみの中で気が付くと、
曹操は身体中グッショリ寝汗を掻いて居た。床の中、頭の内は未だボンヤリしていたが、身体の方が先に、不快さに覚醒した。
《−−!!》その寝覚めの悪さにすっかり目醒めた曹操
ーー何か夢の中で、うなされていた様な気もする。思い出せない・・・・思い出せる夢と、夢のまま忘れる夢とが有るが今は後者の方であった。だが、不快だった潜在の記憶だけは、ぼんやりと残っている。

《ーーそうだ!俺は殺されそうになったんだ》、と思い出した。夢の中で、グサリと短刀で腹を刺され、グリグリグリグリ腹腸を抉り廻されていたのだ。ちっとも痛く無いのに、〈ああ、俺は死ぬんだな〉と思った点だけは、記憶の底に浮き出して来ていた。刺したのは誰だったか思い出せないが、中年の、男だった様な気がする。

暗殺!〕・・・そんな素振は、おくびにも出さぬが、曹操は内心常にひどく脅えていた。豪放磊落の様だが、悪魔の如き細心の注意を払って来ていたのである。こんなエピソードも伝えられている
(無論、曹操を矮小化する為の雑書に拠るものだが)

「余には若い頃から、不思議な能力が具わっているらしいのじゃ。いくら熟睡して居ても、人が近づくと知らぬ間に防禦の剣を振るってしまう・・・と云うものだ。だから御前達、暮れ暮れも気を付けて仕えて呉れよ。」と、側仕えの者達に話して置く。そして、ほとぼりの褪めかけた数日後、昼寝中にわざと布団を蹴落とす。気の利く近習も1人が、布団を掛け直そうと近づくや曹操、ガバと撥ね起きて枕辺の護身剣で斬り殺してしまう。あとは又、血の着いた剣を元に戻して、グウグウと狸寝入りする。暫くして大騒ぎに成ると、何事じゃ?とばかり眼を擦りながら起き出して、ビックリ仰天して見せる。「や!是れはどうした事じゃ?一体誰がこんな事を仕出かしたのか??」ーー以後、曹操午睡の際には、誰1人として黙って近づく者は居無くなった・・・・。
 又、曹操は常々こう吹聴していた。
「誰かが儂に危害を加えようとすると、儂は必ず事前に胸騒ぎを覚えるのだ。天から授かった、一種の特殊能力かも知れぬ・・・・」
某日、近従の1人と密談する。
「お前にはひと芝居うって貰おう。儂の安全の為と思い、協力して呉れ。命は保証するし、協力して呉れた褒賞はドッサリ弾むから、安心して良いぞ。・・・・よいな、お前は刀を忍ばせて、そっと儂に近づくのだ。儂は胸騒ぎがしたとして、お前を捕えさせよう。お前は只、黙って居れ。万事、儂に任せて置けば、お前の出世は意の儘ぞ。」・・・・処が、曹操の口約束を真に受けた近従は、捕えられるや即座に斬り殺された。当人以外に、誰も芝居だと知る者も無く曹操を狙う者達は怖気を震い、以後誰1人として近づこうとはしなくなった・・・・だが、こんな予防線を張り巡らせて居てさえも〔暗殺〕に対する恐怖感が消え去る事は無いーーそれ程迄に、数え切れぬ程の人間達を殺して来ていた。覇者たらんと目論む人間には必ず付き纏う”負の遺産”である。寝汗も掻こう。

《−−夢だったか・・・・》


曹操は今、許都の寝室で、独り目を醒ましたのであった。
時は、ややフィードバックして208年(建安13年)、
8月の或る朝
・・・・曹軍80万が荊州へ雪崩れ込む直前★★の場面へと戻る。
曹操は今、荊州征服と云う覇業の途上、その中継地点でもある
許都」に立ち寄って居た。謂わずも哉であるが、「許」には献帝の宮殿が在る。だから曹操は事のついでに、遠征の挨拶を済ませ、そのあと直ちに全軍を率いて南へ向かうと思われた。・・・・だが、だが然し・・・・曹操は此処でピタリと止まると、全軍の動きをも全て封じ、突然、進撃を止めてしまったのである!万全の軍容を整え終わり「業卩」を進発したのは7月の事であった。今や進撃には何等の支障も無かった。にも関わらず、既にズルズルと1ヶ月以上の時間を無駄に費やした儘、此の「許都」を動かぬのであったーー何故か?? その答えは次節で解明する事として本節では此の許都滞在中に曹操が実行した2つの処刑事件を観て置く事にする。登場の早々から人殺しとは何とも剣呑この上ないが、殺した相手の2人共が、当代超一流の人物とあっては見逃す事は出来無い。
この208年8月の、「許都に於ける処刑」の対象者の1人は・・・・孔子の末裔を自認し、漢王室を取り仕切る、少府の
孔融であった。その孔融と曹操との間の軋轢や抗争については既述した如く、処刑に至った理由は明らかである。
処が、もう1人の
超大物の殺害については、現代に至るも尚謎の多い儘の出来事である。恐らく、覇業目前の時期に在る曹操の、特別な潜在意識と微妙に関係が有る筈の事件である。
ーーその超大物とは・・・・
華陀かだ・・・・字を元化げんかと言うが、一説には【華傅かふ】とも伝わる。もはや100歳を超える筈だが、外見は至って若々しかったと謂われる。時代を超越する〔人類の至宝〕と謂えようか。
−−世に健康増進・保健の思想を普及させ、
人類史上初の麻酔に拠る外科手術を施した、中国随一の名医・・・・
日本語なら「KATA」でも「KADA」でも構わない。

三国時代に実在した人物
であり、正史に『華陀伝』が立てられている。とは言え、その人生の殆んどは未まだに謎が多く、老熟した時点から突然に登場して来る名医である。最晩年には曹操に召し出されて、お抱え医師となっていた。いや、成らされていた・・・・と言った方がよいか?
「正史」は『華陀伝』に於いて、彼が如何に驚異的な名医であったかの具体例として、事細かい症例を厖大な量で記載している。その数は、正史だけでも16例、補註は更に5例を加え、何と21もの治療例を掲げている。
(現代から観れば、かなり怪しい方術の類も含まれてはいるが)患者への見立てはピタリと的中し、適切な秘薬(四物女婉丸亭歴犬血散など)の処方を為し、も急所に一打ちでたち処に快癒させたとある。汗を掻かせる事を重視したり、出産・虫下し・食べ物(滋養)・性生活にまで症例は及ぶ。特筆すべきは、文献に残る、人類史上初めての〔麻酔を用いた外科手術〕を幾例も実施し、成功させている点であろう。−−その具体的な記述・・・
もし病気が内部で凝り固まってしまって、鍼も薬も役に立たず、切開する必要が有る場合には、患者に彼特製の 《麻沸散》
(まふつさん=麻酔薬)
を飲ませた。飲むと間も無く、患者は酔っ払って死んでしまった様に、何の感覚も無くなる。そこで患部を切り取った。病気が腸の中に在る場合には、腸を切り取って綺麗に洗い、縫合し膏薬をつけてマッサージすると、4〜5日でほぼ痛みが無くなる。患者はズッと気が付かぬ儘で、1ヶ月も経つと、本復するのであった。
2000年も昔の記述とは、とても思え無い。現代医学そのものである!!【
関羽】の肘の切開手術をしたり、【孫策】臨終の矢傷の手当てに呼ばれた等の逸話・伝説を産む要素は充分である。
又、弟子の「
呉普ごふ」には、健康増進の為には、体操が如何に重要かを伝授している。
人の身体と云うものは、働かせる事が肝要である。但し、極度に疲労させてはならない。身体を動かせば穀物(食物)の気が消化され、血脈はスムーズに流れて、病気も生じようが無い。ちょうど戸の枢(くるま)が何時も回転しているので腐る事が無い様なものだ。
さればこそいにしえの仙人達は
導引と呼ばれる事を行ない、熊の様に木にぶら下がり、とびの様に首を巡らせ、腰や身体を伸ばし、夫れ夫れの関節を動かし身体の老化を防ごうとしたのだ。私にも1つの長生法が有り、其れを五禽の戯と名付けている。
第1が《
》、第2が《鹿》、第3が《》、第4が《》、第5は《》である。夫れ夫れの動物の特徴ある格好を真似て、身体を動かし続けるのだ。この動物体操に拠って病気が予防できるだけでなく足腰を鍛える事も出来て、導引の用に当てる事が出来る。身体に調子の悪い所が有る時には、起き上がって、どれでも好いから、1つの〔五禽の戯〕を行なえば、ビッショリと汗を掻く。そこで具合の悪い部分の上に粉薬をつけると、身体は軽々として、腹も減って食欲が湧くのである。』ーーエアロビクスでいい汗を流し、ストレッチ運動で身体をほぐし、ちゃんとサリチル酸湿布で予後のケアも怠り無い・・・・差し詰め現代なら、スポーツジムへ通う我々都会生活者の姿である。
もう1人の弟子の
樊阿はんあはりの名医として、現代針医療の始祖と仰がれるが、指導の師は華陀であった。当時、医師達の間では背中と胸臓はい辺りにはみだりに鍼を打ってはならないと云うタブーが在り、針の深さも4分が限度とされていた。だが樊阿は背中に1〜2寸の深さで鍼を打ち、巨闕おうかくまく胸臓はいには5〜6寸(約12cm)の深さにまで打つ事によって、病気を全て治して見せたのである。その「樊阿」が師匠の【華陀】に、身体を強壮にする食餌しょくじきを尋ねた。
すると華陀は
漆葉青黏散しつようせいねんさんと云う”秘食”を教えて呉れた。其れは、漆の葉を細切れにしたもの1升を、青黏(地節ちせつ黄芝こうしとも呼ばれる)を砕いた物14両の比率で作った秘食だった。 青黏は黒いウルチ米だとも言われるが、一種「玄米食」の如き健康食品であったろうか?樊阿は、この秘伝を独り占めして他人に教え無かった。だが彼が老境に成っても気力盛んなるを怪しんだ者が、何を服用しているのか?と問い質した。樊阿は酔っ払った時、心ならずも此の秘薬を口に出してしまった。すると忽ち此の薬法は人口に膾炙して、世の人々に大きな福音を与えた・・・・とされる。

この様に、当時としては驚異的・奇跡的とも言える、数々の治療例を残した大名医の
華陀ーー外科手術の腕は超一流であったが、同じ術でも、どうやら「処世の術」の方は、世間並であったらしい・・・・曹操の逆鱗に触れ、処刑されてしまった経緯について、正史はその顛末を次の如くに記している。
華陀はもともと士人であったのに、(曹操からは)医者としてしか遇されぬ処から、常々、心憎く思って居た。のちに太祖が天下に号令する様になった後、重病に罹った事があって、華陀1人に診察させた。華陀が言った。「是れを完治させるのは殆んど不可能です絶えず治療に努められれば、御寿命を延ばす事は出来ます。」
華陀は久しく家から離れた儘で帰りたい情が募っていたので、この機会を捉えて言った。「家に在る書物と処方とが必要で御座います。其れを取りに戻りたいと思います。」
家に帰ると、妻の病気を理由に、たびたび休暇の延長を願って戻らなかった。太祖は幾度も手紙を送って呼び寄せようとし、更に郡や県の役所に命じて彼を強制的に戻らせようとした。然し華陀は自分の腕前を頼み、他人の禄を食む事を厭って、どうしても家を離れようとはしなかった。太祖は大いに腹を立て、取調べの使者を遣った。もし彼の妻が本当に病気であれば、小豆40石を下賜して休暇を延ばしてやるように、もし嘘であれば、直ちに捉えて護送する様にとの命令であった。この様に
(嘘がバレて)華陀は早馬で許に護送されると獄に繋がれ、取調べを受けて罪状を認めた。
荀ケが命乞いをして「華陀の腕は誠に巧みで、人々の生命も彼の腕1本に懸かって居ります。宜しく大目に見て赦してやって下さいますように」と言った。だが太祖は「心配するな。天下にこんな鼠の如き輩が他にも居無い事があろうか」として、華陀を厳しい拷問に掛けた。華陀は死に臨んで、1巻の書物を取り出すと獄吏に与えて言った。「此の書で人の生命を救う事が出来る。」だが獄吏は、法を畏れて受け取ろうとはしなかった。華陀も強いて押し付け様とはせず、火を求めて其の書物を焼いてしまった・・・・

ちなみに、この『
華陀伝』は正史の中では方技ほうぎと云う番外篇に収められている。この事からも判る様に、当時に於ける医術医療関係者は、謂わば雑技方技の範疇に十束一絡げにされ、その地位や評価は極く低いものでしか無かったのである。正式な官の認知を得て居無い以上、如何に世の評判が高かろうが、所詮、医者は最下層の庶民の身分であったのである。その事を念頭に置いた上で、改めてもう1度「正史」の記述を検討してみよう。
【華陀】の出自は元々「士人」階層であり、庶民よりは上の身分であった。学問を修め、幾つもの経学にも通じ、沛国・相の陳珪から〔孝廉〕の推挙を受けたり、大尉の黄
王宛から招聘される程の経歴を持っていた。彼の素養は、充分「名士」として通用するものであった訳である。処が何故か華陀は、その両方ともを辞退して、医の道を選んだ。とは言え当時、医師養成コースが在った訳では無いから、早い話、宮仕えを拒否して野に下り、独学の道を選んだ事になる。敢えて大樹に寄らず、苦難の道を選んだ辺りに、彼のヒューマンとしての独自の人生観が覗える。現代では医師は1定の社会評価を得ているが、当時の医学は”方術”と見られ謂わば雑技=〔方技〕の範疇でしか無かった。華陀の自負心には其れが大いに不満であり、医学に対する正当な社会評価を望む気持が強かった様に思われる。だから、陋習に捉われぬ曹操であれば、その古い価値観を打ち破って呉れるのではないか!・・・・との期待を抱いて仕えてみたのかも知れ無い。
然るに、何時まで経っても、曹操は華陀を〔方技の者〕としてしか扱わない。当然、地位の向上も無い。
《ーーこの儘では、何の変化も期待できそうにも無いわい。いっそ遁ズラして呉れるか?居無くなれば、医術の有り難味も一層よく判ると云うものじゃろうて・・・・。》
そんな或る日、曹操が重病に罹った。無論、華陀に診察を委ねたそこで華陀は、常々考えて居た通りに行動した。ーーだが「正史」の論調を素直に読む限りでは、『華陀はもともと士人であったのに
(曹操からは)
医者としてしか遇されぬ処から、常々、心憎く思って居た
とし、華陀と云う人物は己の待遇に不満たらたらの、
ヒドイ俗物であった事にされている。その事を強調する為に、わざわざ続けて曹操の感想を記載している。
『華陀の死後にも、太祖の頭痛は完全には治り切っては居無かった。太祖は言った。「華陀には之を治す事が出来た。アイツめは俺の病気を完全に治さずに措いて、自分が重んぜられる様に計って居たのだ。だから俺がアイツを殺さなかったとしても、結局、俺のこの病気を根本から取り除いては呉れ無かったに違い無い
何とも曹操らしからぬ、ケチ臭い言い草である。真相を糊塗しようとする、弁明の気配が濃厚ではないか。但し、華陀の腕前だけは大したものだったとして、こう続ける。
『のちに、可愛がっていた倉舒(曹沖)が危篤に成った時、太祖は嘆息して言った。「華陀を殺してしまった事が残念だ。その為に、この子をむざむざと死なせる事に成ってしまった。』
ーー是れでは華陀と云う人物は、出世欲と名誉欲・物欲の塊り・・・・俗物中の俗物と云う事で終わってしまう。チトひど過ぎるので、別の説(俗説)も掲げて措く。
同じ重病の時の事・・・華陀は対処療法では無く、根本治療の為に、曹操に「頭蓋骨の切開手術」を勧めたとされる。頭のハチを割ると言うのだ。トンデモナイ事だ!曹操は怖気を震って怒鳴りつけた。
「おのれ!貴様、余を殺す心算だな?こ奴を牢にブチ込め!!」
※ ちなみに筆者も過日、医者から頭蓋切開の手術を勧められた。眼性疲労から来る眼窩の痙攣の根本治療の為である。「ガーン!!」であった。医師の説明では、ほぼ
100パーセント完治すると言う。だが患者たる筆者の心に先ず浮かんだのは、《トンデモネエ!もし失敗したら!?》と云う拒絶反応であった。やはり恐ろしいし、気持悪い。
まして1800年も前の事である。病いから来るイライラと、暗殺に脅える恐怖心とが、権力者を激情に奔らせたーと云う説である。そんな直接的な行為をせずとも、典医であれば投薬は日常茶飯の事である。良薬と偽って猛毒を盛る事は容易い。
《華陀がもし、害意を抱けば・・・・!?》ひと度疑い出せば、不安で堪らない。証拠が残らぬ様に、ジンワリと徐々に効く怪しい秘薬とて有ろう・・・・。

最後にもう1つ、筆者の見解も記してみる。ーー医は根源的に「生」の代表である。その「生」を大量に抹殺し続ける「死」の張本人が曹操である。戦さであれ、謀略・機略であれ、曹操は殺人マシーンそのものである。人が彼を軍神・知将・英雄・奸雄と呼ぼうとも、その本質が変わる訳では無いのだ。そんな曹操の下に仕えて居る自分の姿に、華陀の〔医師としての良心〕が苛まれて居たのではないか?
《儂は人を生かす為に尽くし、彼は人を殺す為に尽している・・・・己は弱き者・病める者と共に歩まんと心に誓ったのだ。決して体制側には仕えまいと決心したのでは無かったのか・・・!?》
若い時から、官への出仕を拒んで来た華陀であった。多くの患者弱者と接し続けるうちに、その思いは確固たる彼の人生観と成っていたに違い無い。そうした〔良心の呵責〕が、遂に曹操と袂を分かつ決心をさせ、故郷に華陀を帰らせたのではないだろうか?
第一、100歳に成った人間が、今さら名誉欲や物欲の権化へと変容するものであろうか?人間の欲望への執着は、死の瞬間まで続く場合も見られるが、彼はそうした俗物に属する類の人間であるだろうか?逆に、華陀の方が、曹操を単に1人の患者としてしか扱わぬ態度に徹した為に、権力者たる曹操の方が不興・不快を覚えた・・・・とする方が、華陀の人生から観ても自然だと想うのだが、綺麗事に過ぎるであろうか?
いずれにせよ、華陀の獄死は史実である。その死に、曹操が直接関わったのも亦事実である。死刑では無いが、荀ケの命乞いを無視し、厳しい拷問を命じて獄死させたのだから、「華陀を殺害した」のは曹操である。後に悔やむが、紛れも無く曹操の大きな失態である。若い頃の謙虚さが次第に薄れ、尊大さが顔を覗かせ始めて来ている。多くの権力者達が辿って来た、悪い兆候と謂えよう。
終いの処、〔
華陀の医学書〕は、世に残されていない。弟子である広陵の「呉普」と彭城の「樊阿」とは、共に華陀の下で学んだが、その教えは全て口伝であったと思われる。そんな貴重な医学書の1巻を、華陀は密かに獄中に秘匿していた。そして死を予感した時、獄吏に其れを渡し託そうとした。
「これで人の生命を救う事が出来る。」
人類規模で貴重な、華陀畢生の奥義書であった。だが、その価値を知らぬ獄吏は後難を恐れて、其れを受け取ろうとはしなかった。
「そうじゃの・・・あんたが殺されては、人を救う事にはならんわい。こんな所へまで後生大事に持ち込んだ、儂の不明を恥じるしか有るまいて・・・・。」 華陀は其れ以上の無理強いはしなかった。
《その価値も分からぬ者にゴミとされるよりは、自分の手で始末して措こうかい。》華陀は火を求めると、その秘伝書を焼いてしまった。人類にとっての大損失であった・・・・。

それに付けても惜しまれるのはーー後に人類が近代を迎えるに至った時、何千年の長きに渡って世界に冠たる超大国だった中国が、欧州諸国の足元にも及ばぬ大差を着けられて屈服させられ、苦難の現代史を味わう羽目に立ち至った事実である。・・・・もしも
曹操が、華陀に限らず、当時【方義=雑技】と低評価を受けて居た「近代科学に通ずる諸学問・専門家」を取り立て厚遇重用していたならば・・・折角〔火薬・羅針盤・木版印刷術〕の3大発明を他の地域に先駆けて為し遂げる実力の在った中国人なのだから、その専門技能職の社会的地位が高かったならば、改良のうえ逆輸入されて来た”3大発明”に因って惨めな辛酸を嘗める事は無かったであろう。ーーまあ、曹操とて超人では無かったが、然し常識に捕われぬ彼の度外れた人物からすれば、率先垂範して後世に多大な影響を与える端緒とは成ったものを!!と慨歎する。
やはり其の実行は、彼が巨大な統一王朝の皇帝に成らねば無理な注文なのではあろう・・・。

荊州平定作戦の途上、ここ「許都」に駐留する曹操は、この
8月中3つの死と関わる。その1つが、この〔華陀殺害〕であった。これは曹操にとって、後味の悪い”死”であった。
だが、もう1つの「死の知らせ」は、曹操が断固として命じたものの結末であった。
孔融の処刑である。
路粋ろすい、孔融弾劾の上表文を作れ!」
命じたのは許都に入城した直後の事であろう。曹操の帷幕には〔記室〕と呼ばれる部局が在る。上奏文や檄文などの公式文書を担当する。従って、当代一流の文筆家が揃って居る。あの檄文の名人「陳琳」や「阮王禹」、そしてこの「路粋」などが控えて居た。
終に曹操は、手元に80万の軍勢が集結した今、その影響力大の厄介な邪魔者の抹殺を決断したのであった。その手続きとして先ず、路粋に其の断罪状を書かせたのである。
その対象である【孔融文挙】は、こうした公式の手続きを踏まざるを得無い程の、漢王室の大立者であった。曹操との確執は既述してあるのが、念の為に大略のみ観て措く。

・・・この「漢王室」VS「曹魏」、「孔融」VS「曹操」の暗闘は、時代の要請からしても避け難いものであったが、その闘争の形態は軍事的抗争では無く、水面下での非常にハイレベルで政事的なインテリジェンスの戦いであった。単純に武力で制圧すれば済むと云う問題では無かった。何と言っても、400年の長きに亘って、中国の人々の全てを支配し、その心や思考までをも決定づけて来た《やんごとなき中枢》に関わる、アンタッチャブルな問題なのだった。400年は・・・・重い。衰えたりと雖も、その権威や整備された機構組織力、そして何より、恩恵に預かり続けて来た知識階層が〔世論〕を形成している。【董卓の例】でも判る様に、「漢王室」を蔑ろにする者は、世論の集中砲火を浴びて亡去るのだ・・・・そもそも曹操自身が、当代きってのインテリである。その事は皮肉にも此の場合、曹操のアキレス腱・弱点と成って、彼自身の前に立ちはだかって来る。いかに《贅閹の遺醜》として、既成の価値観に束縛されず、新しい時代の申し子と目されようとも、時代の趨勢に鈍い訳では無い。否、寧ろ、そうであるからこそ、慎重に成らざるを得無い。何しろ少なくとも200年間(後漢成立以来)、誰も経験した事の無い事例である。いっそ曹操がもう少し粗野で無教養であればとっくの昔に抹殺されていた筈の者達がゴマンと存在して居た。
その代表が「孔融」だったとも謂えようか?
孔融文挙は善く言えば、
プライドの塊りの様な信念の男であった。しか爪らしい学研肌では無く、寧ろ仁侠肌、反骨と男気に満ちた「ヤクザ先生」たる処があり、なかなかに面白い人物ではある。曹操好みの”異才”と言えよう。但し最も肝腎な或る認識が欠落していた。時代の流れを読む時局の要請に気付くと云う大局観が、見事な程に抜け落ちているのだった。それは、後漢王朝が産み落とした「名士」と云う、宿命の申し子である以上、無理からぬ事ではあったろうが・・・・。
度重なる反発に、曹操は遂に切れて、孔融を罷免した。が、孔融シュンとなる処か、意気益々盛んで、訪問客は連日門前に市を為すの有様。ー「座席は何時も賓客で埋まり、樽の中には酒が空にならない。儂には心配する事など何も無い!」
名士社会の頂点に在ると云う絶大な自信は、自宅に押し掛けて来る全国からの曳きも切らぬ人々の群れが、それを裏付けている私邸に人を集めては、酒を浴びつつ言いたい放題。曹魏政権の横暴を批判しては、その果つる処を知らず・・・・。然るにインテリたる曹操は躊躇い、殺さぬどころか半年後には、朝廷の要請に抗し切れず、孔融を復職させている。
「父上、こんな事では天下に示しが着きません!丞相たるの威勢を以って、奴は抹殺すべきです。孔融文挙こそ、我が曹魏に巣食う獅子身中の虫ではありませぬか!!」
次世代の曹丕には、父世代の遣り方がまどろっこしい。そこが、漢王朝の恩恵を蒙った事の無い、2代目の冷徹さである。無論、背後には司馬懿仲達が居る。曹操もそれは承知の上だ。曹操が決断のきっかけを欲しているのを仲達も承知である。承知と承知が1つになって、そこで登場したのが「路粋」であった・・・・。
その路粋の筆とされる弾劾文が伝わるが、御世辞にも名文とは言えぬ代物である。
孔融は昔、北海に居た(太守であった)時、王室の不安定を見て、仲間を招集し叛逆を図ろうとし、「儂は大聖人の子孫じゃが、宋に滅ばされた。天下を所有する者は、何も卯金刀に限るまい」と申したではないか!
※ 
卯金刀とは、劉の字を解体したもの。劉氏一族、即ち漢王朝を誹謗する者達の間に於ける隠語符丁である。
孔融は九卿で在りながら、朝廷の儀礼を遵わず、頭巾を被らず忍び足で歩き、宮廷を驚愕せしめたではないか!
※ 宮廷内は常に、裸足の小走りで床を踏み鳴らして移動しなくてはならなかった。皇帝と同様に普通に歩くのは畏れ多いのだ。又、音を立てる事は暗殺者の忍び込みを防止する措置でもあった。それだけでも反逆罪・不敬罪により死刑となる上に、正装して居無いなどトンデモナイ事である。大曹操と雖も、チョロチョロ走りで参内しているのである。
白衣(無官の平民)の禰衡と思いのまま振舞い喋り、禰衡と孔融は互いに賛美称揚し合っていた。禰衡が「孔子は死んでいない」と言えば、孔融は「顔淵が生き返った」と讃え合う有様であったではないか!
ーー恥も外聞も無い、目茶苦茶な言い掛かりである。又、子供でさえ書ける様な御粗末な文章である。・・・・だが、【
献帝・劉協】は我が最大の股肱であり忠臣である孔融への弾劾文上奏に対して一言の弁護も弁明もして遣れ無かった・・・・。

孔融文挙、辞世の詩賦だけが残る。
   言多令事敗 器漏苦不密 靡辭無忠誠 
   華繁竟不實 生存多所慮 長寢萬事畢

     言多ければ事をて敗れしめ
     器のるるは密ならざるに苦しむ
     辞として忠誠なる無きはかりしに
     華のみ繁くして ついに実あらず
     生存しては はばかる所多かりし
     長く寝ては 万事おわ
 



「−−ほう〜・・・・死におったか・・・・。」
大して驚きもしない
3つ目の死であった。
これから征討しようとする相手の劉表が、自分から死んで呉れたのである。諜報により、以前から分かってはいた事ではあったが、ニンマリするより、何か拍子抜けする様な呆っ気無さであった。
《毒でも盛られたのではないのか?》・・・・・と思える程に余りにもタイムリーで、却って妙な塩梅であった。
「−−ま、それが奴の天命よの。」

劉表景升】、享年68。
曹軍80万の大襲来を見る事無く没す。



《天は、この曹操孟徳に荊州を与え、
       天下統一をせよと促しているのだ!》
     
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