【第138節】
〔赤壁の大決戦〕が迫り来る今、実は・・・・此処に、かつて誰も
採り上げて来無かった、厄介な史実が出て来るのである。
なぜ”厄介”かと謂えば・・・・赤壁戦の起きる同じ12月に、曹操・孫権・劉備の3者全員が不可解な行動を取る、〔奇妙な地上戦〕が記述されているのである。 然も其の戦場は、赤壁の位置とは完全に逆方面の、然も大決戦を控えて緊迫する時間性とは全く矛盾する、トンデモナク掛け離れた地点での事である。
どうも、スッキリと説明が着かない・・・・だから是れ迄、誰もが目を瞑り、敢えて無視又は切り捨てて来た史実である。
『正史・曹操伝・孫権伝』の分量では、赤壁戦の記述よりも長いにも関わらず、である。 この問題に、どう向き合ってゆくか?読者諸氏にも、一緒に取り組んで戴きたい。
(筆者の見解が必ずしも正鵠を射ているとは限らない”難題”であると云う事でもある。)
その予備知識として先ず、このあとに登場して来る地名の位置関係を示して措く事とする。(下図参照)
〔A〕ーー戦場となる【●合肥】・・・・曹魏と孫呉とが、今後しばしば争奪戦を繰り広げる事となる国境線上の軍事都市。かの劉馥が廃城であった物を黙々と生涯かけて復興した城砦である。長江からは120キロ北。孫呉の大本営が置かれている「柴桑」からだと、北北東に直線距離でも300キロ離れている「赤壁」からでは500キロになる。
〔B〕ーー曹操が出撃してゆく【●巴丘】・・・・曹操の大本営が在る「江陵」と「赤壁」の中間地点、洞庭湖の入口付近の長江岸都市である。〔A〕の合肥へは直線ですら600キロも離れている。謂わずも哉だが、往復すれば倍になるし、実際の道のりは更に長い。
では、『曹操伝』(武帝紀)から、問題の部分を抜き出してみよう。
『12月、孫権が劉備に味方して、合肥を攻撃した。公(曹操)は江陵から劉備征討に出撃し、巴丘まで赴き、張憙を派遣して合肥を救助させた。孫権は張憙が来ると聞くと逃走した。公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦さとなった。』
更に、この出来事を裏付け補完するものとして『蒋済伝』の記述
『建安十三年(208年)、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。その時(魏の)大軍は荊州を征討していたが疫病の流行に遭った。その為将軍の張喜に単身千騎をひきいさせ、汝南を通過の際に、その(汝南の)兵を配下に収め、それによって包囲を解かせる事にしたが矢張かなりの兵が疫病に罹った。そこで蒋済は偽って『歩騎4万が既に零婁に到着している旨の手紙を手に入れたから、主簿を遣って張喜を出迎えさせるように!』と内密の刺吏に書き送った。3組の使者が手紙を持って城中の守備隊長に報告する事となり、1組は城に入る事が出来たが、2組は賊(孫権軍)に捕えられた。
孫権は其れを信用し、急遽包囲の陣営を焼き払って逃走し、城はお蔭で無事に済んだ。』
ーー遠過ぎる・・・ではないか!?同じ12月の項に記述されているのだから、「合肥戦」のあと「赤壁戦」に戻って居なくてはならない。『赤壁戦』こそ国の存亡を賭けた最重要な決戦であり、何やかやで、ほぼ1ヶ月近くを要する。まさか”閏月”の裏ワザは有り得無いから・・・空を飛んで1000キロを往復しなければならなくなってしまう訳である。孫権が”家臣を派遣して攻撃させた”のなら未だしも、そうでは無く、自身が合肥に出動して包囲したのである。・・・・困る!!つまり、〔時空の不一致〕と云う大問題が生じてしまうのだ。往復1000キロと云う大空間を、12月中(それも中旬までの極く短い間に) と云う時間制約の中でクリアーしなければ、直後の赤壁戦には間に合わないのである。別の疑問も湧いて来る。
(1)、孫権は、こんな重大な時期に何故、大本営の柴桑を空っぽにして、遙か彼方(直線でも300キロ)へ出張ったのか?そんな事をして居たとすれば、直後の生きるか死ぬかの赤壁戦に、君主が大本営に不在だった事になる!?
(2)、曹操にしても、そんな超遠方支援の為に、何も態々「江陵」を発つ必要は無いではないか?指1本の命令で事足りる。曹操の”出撃意図”が不明である。本拠地を後にしたのであるからには、全艦隊を率いての本気である筈だ。ーーとすれば、赤壁戦への出撃は、江陵からでは無く「巴丘」からだった事になってしまう。そんな事は、ついぞ聴いたためしが無い・・・・。
然も、更にである。困惑して居る我々に追い撃ちを掛ける様な、別の記述が又ゾロ出て来るのである!『正史・孫権伝』の一説、
赤壁戦の勝利に引き続く一連の部将達の動向が記された後に、こう続いて記されている。『孫権はみずから軍勢を率いて合肥を包囲し、張昭には九江の当塗に攻撃を掛けさせた。張昭の軍は目立った戦果を挙げず、孫権も合肥城を攻めて1ヶ月以上にもなるのに落とす事が出来ずに居た。 曹公は荊州から帰還すると、張喜に騎兵を引き連れて合肥に赴けつけさせた。張喜が到着する前に、孫権は軍を退き上げた。』
こちらでは、張喜の出動は赤壁戦の”後”になっているのである。同じ正史なのに、《曹操伝》と《孫権伝》では、時間が全く整合していないのだ!? 〜んもう、チョット勘弁してヨ〜と言いたくなる。
ちなみに救援部将の「チョウキ」だが、曹操伝では「張憙」、孫権伝と蒋済伝では「張喜」と表記されているが、同一人物であるとするのが普通であろう。(張憙は此処1ヶ所にしか、また張喜は掲載した文中以外には正史に出て来ない隠れキャラである。)尚、「合肥」は其の戦略上の重大さから、この後も幾度となく魏呉両国間で死闘が演じられる、記述の多い戦場と成る。故に、その記述が何時のものであるかに留意しなけらばなら無いが、この場合は明らかに、赤壁戦”直後”のものである。
こちらの『孫権伝』なら、全ては赤壁戦後の事となり、孫権の動きもスッキリする・・・・と思いきや、今度は「張喜=張憙」の出撃が問題となって来る。彼の救援と、それに因る孫権の逃走は1回限りである筈だ。それは一体、戦前か戦後なのか?つまり、2つの《伝》は同じ事件を、夫れ夫れの立場から記述したものなのだ。”紀伝体の史書”では、よく有るケースなのだが・・・・一体どっちが正しい??いつも〔お助けマン〕としてシャシャリ出て来る(?)【裴松之】氏は、こう云う時に限って何のコメントも発していない。(チョメ!)仕方無いので、初心に帰って、もう1度正史を入念に検証してみよう。
『孫権が劉備に味方して』だから→劉備が1番先に動いている。
『公は・・・・劉備征討に出撃し』だから→この時の曹操の主敵は劉備である。然し、
『孫権が・・・・合肥を攻撃した』のだから→大敵は孫権であり、
『孫権は・・・・逃走した』事を以って落着しているのだから、曹操の目的は孫権軍の排除である。尚、『合肥は攻撃され、救助させた』のだから、元から城内に在るのは曹操側である。
ーーこうして整理してみると、幾分、何かが見えて来た気がするのだが、読者諸氏にも、そろそろ推理がまとまったであろうか?
筆者の推論を整理すると、こう謂う塩梅である。
赤壁戦前の12月の段階で、曹操側は既に合肥城を以前から支配していた。そこへ劉備が戦いを仕掛けて来た。だが大した兵力でも猛攻でも無く、睨み合い状態と成っていた処が曹操の耳に、孫権は赤壁方面を周瑜に全任して措いて、自身は合肥へ向かったとの情報が入る。折しも赤壁へ向けて出発していた曹操は孫権軍を阻止する為、途中の巴丘で指令を出し、張喜(張憙)を合肥に急行させた。
すると孫権は、直ちに軍を反転させ、柴桑に戻って来た(当然、劉備も退き上げる)・・・・・
では次に、この推論が的外れでは無いかを自己検証してみよう。その方法として、3者夫れ夫れの立場から、不満・不都合は無いかを考察してみたい。
《1》、劉備の立場=【諸葛亮】の立場・・・・
未まだ国論の定まらぬ呉を、是が否でも決戦論へと突入させたい劉備としては、一刻も早い抗戦の既成事実を作ってしまいたい。それも孤立する事無く、否応無く呉(孫権)を巻き込んだ形でなければならない。その上、虎の子部隊を失わない程度の戦闘でなければならない。・・・・その全ての必須条件を満たす、絶妙なピンポイントが【合肥】であったのだ。無論、諸葛亮の、軍師としての達見であろう。「合肥」はまさに、魏呉の争奪地点であり、その上この時点では立て籠もる曹軍の守備兵力も多くは無い。呉の兵力が来ても小兵力で、劉備軍の兵力が主役に成れる。
そもそも呉国としても、放っては置けぬ北の要衝である。出来るなら、この際に奪取して措きたい。−−そう考えれば、まことに合肥こそは”絶妙な”謀略戦の実施地点であったのだ!
故に先ず、劉備(諸葛亮)は仕掛けたのである。否応無く、曹操が呉の敵である事を思い出させる為にわざと暴発して見せたのだ。(出先の軍部が事変を起こしてしまう事によって全面戦争へと突入して行った××事変
××事件の先鞭とも言える)3ヶ月あれば、充分移動は可能であろう。
問題は、呉国の総司令官【周瑜】との関係と、この謀略戦の実施のタイミングである。暮れ暮れも、周瑜を怒らせてはならない。主役である周瑜の邪魔に成ってはならないのだ。元々、劉備を排除しようと警戒している周瑜だから、こんな策動に諒諾を与える筈も無い。で実際、実施のタイミングは、周瑜の大戦術(曹操おびき出し)を阻害していない。とは言え、諸葛亮は此の時点では、周瑜と直には接触しておらず、その詳しい戦術・戦略を知らない。
【魯粛】である。魯粛は当然、周瑜の大戦術を周知している筈であるから、諸葛亮は其れを聴いていよう。そこを弁えた上で、タイミングを選び実施させたのだ。「赤壁の大決戦」の主体は、飽く迄曹操と周瑜(孫権)でなければならない。魏呉の決闘でよいのだ。力の無い劉備陣営としては、”戦後”の方が重大なのである。曹操との戦いの口火を切らせ、参戦したのだと云う名目さえ獲得すれば良いのだ。詰り、戦後の発言権・政治力を確保して措くのが目的であった! 更には、魏呉決戦の帰趨が判然としない(寧ろ呉の敗北が濃厚であった)以上は、その場合に備えての位置取りが、勝った時と負けた時の両方に対応し得るのであった。
《2》、赤壁戦の主役・【周瑜】の立場・・・・
「勝手な真似をしおって・・・!」と諸葛亮を非難するが、こと、曹操が腰を落ち着けずに動き出した事実については、文句は無い。寧ろ、大歓迎である。周瑜が最も恐れていたのは、曹操が動かず泰然自若として呉の自壊作用を待つ戦略を確立してしまう事であった。是れには打つ手無しとなる。
《しめた!この機会をこっちのモノにしてしまおう!》
諸葛亮孔明と周瑜公瑾の、虚々実々の駆け引きは、既に始まっていたのである・・・・その時期は、まさしく(必然)赤壁戦の直前と云う事になる。又孫権の動きは、事後の展開から推せば、直ぐに柴桑(大本営)に帰着できる程度の移動でなければならない。従って、長江上での決戦に自信無く、オロオロと合肥くんだりを気にして居ると見せかける、陽動的な軍事行動であったか?いや其れ以上に、降伏派に牛耳られている現状の国論を、一気に徹底抗戦へと急転換させる為の、勿怪の幸い・主君のパフォーマンスであったに違い無い。
《3》、【曹操】の立場・・・・
占領拠点の「江陵」を進発したのだから、全軍を率いた本気である。然し本気と謂っても、戦闘が目的では無く、呉の降伏を引き出す為の威嚇・恫喝が目的の意味の本気であった。だから進み過ぎて、交戦となってはならない。故に【巴丘】などと云う、いかにも中途半端な位置で止まったのだ。−−詰り、曹操は未だ迷って居たのだ。〔孫呉降伏の確率〕を弾き出している最中であり、自分の無手勝流の戦略が図に当たるか、ジックリ構えるべきかを苦慮して居る途中であったのだ。だから一先ず、柴桑の3分の1の行程だけ軍を進めて、様子を観る事にてしいた・・・・・。
以上の如くに正史を読み取れば、かろうじて矛盾を脱する事が出来た、と思うのだが、如何なものであろうか?
整理すれば、この解読作業の結果、我々に見えて来たものーー其れは、赤壁の戦いは・・・・周瑜が3万の艦隊を率いて柴桑を出撃する以前から、実は動き出していた・・・・と云う事である。長阪で一敗地に塗れた劉備は、10月からの3ヶ月間、ただボーっと、ハラハラドキドキして居たのでは無かったのだ。
諸葛亮は周瑜を1歩出し抜いて、先に動いたのである。然し周瑜も亦、それを逆手に取って、己の戦機と為す事に成功していた
・・・・と云う事であろう。
この〔抜け落ちた前哨戦〕・〔虚々実々の裏舞台〕を識った上で、改めて《赤壁の大決戦》を観たとするなら、おのずと又、その味わいが深みを増すのではなかろうか・・・・?
・・・・処で、この解読作業の劈頭から
《アレ!何か変だぞ?》と、妙な違和感を抱かれた諸氏も居られた筈である。 多分その違和感の原因は、最初に掲げた「武帝紀」(曹操伝)の記述の中に在った、劉備の扱い方についての誇大とも言える過大な表記に有る筈である。そう思いながら、もう1度「武帝紀」の記述を見直してみよう。すると恐らく、其処には・・
『正史・三国志』を著わした【陳寿】の生々しい苦衷と、彼の不遇な人生が垣間見えて来るのである。
『12月、孫権が劉備に味方して、合肥を攻撃した。公(曹操)は江陵から劉備征討に出撃し、巴丘まで赴き、張憙を派遣して合肥を救助させた。孫権は張憙が来ると聞くと逃走した。
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦さとなった。』・・・もしも
是れを小学生に読ませれば、赤壁の戦いは、曹操と劉備の戦いであり、赤壁の輝ける勝者は劉備であった!と答えるであろう。無論、事実では無い・・・・では何故【陳寿=正史】は、こんな書き方をしたのか?その謎を解く為には矢張り、陳寿その人の人生を知らなくてはなるまい。その事は同時に、我々に『三国志』が誕生した経緯と、三国志の持つ本当の意味、そして更には其の限界をも知らしめる事となるであろう。ーー・・・・では、是れ迄も、そして是れからもズーッと我々の指針・灯台・澪で在り続けて呉れる『正史・三国志』が誕生した秘話を、その生みの親である【陳寿の生涯】の裡に辿ってゆこう。
処で、そもそも『正史』と云う意味は、中身が史実で正しいから「正史」と謂う訳では無い。時の権力(皇帝・朝廷)が家臣に命じて作らせた、国定・国撰の国史の事を指すものである。然し、そうした意味では『三国志』は、この範疇に当て嵌まらぬ、特異な誕生秘話を有しているのである。
ーー実は・・・・著者(編纂者)である陳寿自身は、その存命中には己の書き上げた三国志が、〔正史〕に昇格した事を知らぬ儘に、此の世を去ってゆくのである。詰り、元々『三国志』は、時の皇帝から命じられて書いたのでは無く、飽くまで個人的な作業としての〔私撰〕の史書として完成されたものなのである。それが彼の死後ほどなく、周囲の強い推薦を受けて皇帝の認可が下り晴れて国撰の”正史”として扱われる事と成ったのである。ちなみにその時の皇帝は、晉(西晉)の武帝・【司馬炎】=(司馬懿仲達の孫)であり、魏・呉・蜀の三国は滅亡した直後の時期であった。
では、其処に至る迄の、事の経緯を観てみよう。
【陳寿】の字は承祚ーー〔蜀の遺臣〕である。・・・・巴西郡安漢県(現・四川省南充県)の出身で、西暦の233年に生まれた。
翌234年には諸葛亮が没する。 5歳の時には卑弥呼の使者が魏に来ている。18歳の時には司馬懿が、19歳の時には孫権が死去する。蜀・魏・呉の順で三国が亡び、晉に統一される頃には50歳近い。まさに歴史の真っ只中にリアルタイムで生きて居た、〔三国志の生き証人〕である。・・・・だが、彼の人生は決して平坦でも恵まれてもおらず、寧ろ不遇の生涯であった、と言った方が当っていよう。
年少にして学を好み、同郡出身の先輩である「言焦周」に師事して尚書・左氏伝・史記・漢書などを学んだ。特に歴史典籍には精通し(史漢ニ鋭精ス)、文章を作るのも上手かったと謂われる。将来、三国志を著わす下地は、この時期に育まれたと言えよう。やがて
当然ながら、生まれ故国の〔蜀〕に仕官する。だがその官歴は余り判然としない。華陽国志では、「衛将軍主簿(書記官)」・「東観(朝廷の図書館)秘書郎」・「散騎侍郎」・「黄門侍郎」に成ったとあるが、晉書では「観閣令史」に成ったとのみある。いずれにせよ
”史官”であった時期が含まれる。然し、何歳の時に仕官したかはハッキリしない。但、この時期の衛将軍在任期間などから推して、24歳〜29歳の間ではある。31歳の時(263年)には祖国・蜀が亡びる(劉禅の降伏)から、長くても7年間、短ければ3年間の仕官であったに過ぎ無い。然も、其の期間中、2つの理由に因り、彼の昇進は阻害され続けた。
1つ目の理由はーー上司からの軽視であった。先の衛将軍とは
「姜維」もしくは「諸葛瞻」であるのだが、諸葛瞻は諸葛亮の嗣子で、既に父親同士の代に因縁が有った。陳寿の父親は【馬謖】の参軍(参謀)であったのだが、228年の《街亭の敗北》の譴責で馬謖が諸葛亮から死刑に処せられた時 (泣いて馬謖を斬るの語源)、陳寿の父親も同時に髟几(頭髪を剃られる)刑に処せられていた。その事が在ってか、瞻は常に陳寿を軽んじ、辱しめを与えたという。25歳の時からは、劉禅の寵愛を得た宦官の「黄皓」が国を牛耳って、誰も手出しが出来ぬ専横を始める。独り陳寿だけが是れに屈せず、為に左遷・降格させられたとも言う。
2つ目の理由はーー郷党の貶議(郷里の悪評)に因るものであった。其の悪評の原因は・・・父親の服喪中に病気になった陳寿が召使い(婢)に丸薬を捏こねさせている作業を、来て居た客に目撃され、言い降らされた事に因る。現代の我々からすれば、一体何を言い降らされたのか訳が解らないのだが、何せ当時は儒教の欺瞞的な形式主義だけが持て囃されていた時代であったから、「服喪に専念すべき人物が、己の健康を気にするとはトンデモナイ!」と言われた訳なのである・・・・こうした個人の行為を評価し合う事を〔清議〕と呼び、社交界では盛んに行なわれており、その評判は昇進に直接影響した。ーーかくて2種類の疎外要因の為に、陳寿の短い蜀臣時代は全くの不遇であったのである。では、その後は好転したかと言えば、然に非ず。今度は、〔元・敵国の亡国の遺臣〕と云う、より悲劇的で大きな苦境に置かれる事となる。敵対し続けた挙句に亡ばされた敵国の家臣が、おいそれと採用される訳が無い。
ーー蜀の平らぐ(滅亡)に及び、之に座して沈滞すること数年ーーとなる。
(この間の265年に魏が亡び、司馬炎が即位して晉王朝が開かれる)
・・・・だが、見る人は見て呉れて居たのである。その恩人は、蜀の遺臣で元・将軍の「羅憲」と云う人物であった。羅憲は祖国滅亡の時、その間隙を狙って火事場泥棒的に侵入して来た呉の軍をキッパリ撃退し、武将としての名誉を保ったのちに、晉王・司馬昭に帰伏した人物であった。為に信任され、やがて、武帝(司馬炎)からの詔で、蜀の大臣の子弟で採用すべき者の推薦を命ぜられる。そして其のリストの中に陳寿も含まれていたのだった。
陳寿36歳(268年)、蜀の滅亡からは5年目に当たる時の事であった。すっかり落ち込んで居た陳寿は、この羅憲の推挙によって勇躍、晉王朝の都である洛陽に昇った彼は、その史官としての才能を買われて〔佐著作郎〕に任官される。そこで陳寿は先ず、『益部耆旧伝』10巻を著わす。是れは益州(蜀・巴・漢中)の名士列伝で、彼以前にも多くの歴史家が著述して来た事柄ではあったが、陳寿の其れは群を抜いて秀逸であった。故に巴郡出身で散騎常侍の「文立」によって武帝に上送された結果、〔著作郎〕に昇進する。その年(274年)に42歳を迎えた陳寿は、今度は武帝の下命によって『諸葛亮故事』を撰定し上表する。諸葛亮は生前から既に、敵国にすら彼を尊崇する者達が多かったと謂われるが陳寿の筆は、そんな故国の大偉人である諸葛亮の全貌を類い希なる名文で認めている。(いずれ紹介できる)尚、その上表文末に記されている陳寿みずからの官職名は〔平陽侯相〕=(平陽郡侯国の相)となっている。
その後(詳しい年限は判らぬが)陳寿の昇進を推挙する者と其れを邪魔する者とが交互に出て来る。と言うよりは、彼の立場は基本的には飽く迄も《亡国の遺臣》で在り、生涯に渡って中原名士層からの排他的感情の攻撃目標とされ続けてゆく宿命を負っていた・・・・と云う事である。 そんな彼の将来を見通して、陳寿の師であった「言焦周」は世を去る直前に、訪問して来た愛弟子にこんな言葉を遺したと謂われている。
「陳寿よ、君は必ずや才学を以って名を成すが、まさに損折するであろう。別に不幸でも無いけれど、充分慎むが良かろう。」・・・・多少は陳寿の性格を戒める意味も含まれては居ようが、愛弟子が背負った宿命の苛酷さを予言し、それに対する心構えを諭したものと言えよう。尚、この言焦周は、蜀を代表する一級の学者であり、弟子の陳寿は終生に渡り、この恩師への敬愛の念を失わ無かった。そして「言焦周伝」を立て、三国志の中で唯1度だけ、この恩師を訪れた時の陳寿自身を登場させている程である。 折角だから、その部分を掲載して措く。
『五年(269年)、私(陳寿)は仕事を終え、休暇を要請して家に帰ろうとして、言焦周に別れの挨拶をしに行った事があった。言焦周は私(陳寿)に告げて言った。「昔、孔子は72歳で、劉向・揚雄は71歳で此の世を去った。いま儂の年は70を越えている。出来れば孔子の遺風を慕い、劉向・揚雄と軌を同じくしたいものだ。恐らく次の年を迎える事無く、きっと永の旅路に出るであろうから、2度と会う事は無いであろう。」と。たぶん言焦周は術によって、この事を悟り、孔子などの話しに託けて述べたのであろう。冬に至って亡くなった。』−−とは言え、この言焦周の人物評価は総じて悪い何故なら、蜀滅亡時に後主・劉禅に向かって、「降伏するのが得策である!」と最も強く説得したのは、この言焦周であったからである。・・・・然し、彼が愛弟子・陳寿に与えたの未来予知の術には狂いは無かった。実際、陳寿が母親の遺言に従って洛陽に埋葬した時も、その埋葬地を巡って「なぜ郷里に葬らないのか!」との貶議が又ゾロ起こされている。これで陳寿は、父母両方共の喪について糾弾された事となる。だが其の一方で彼は”孝廉”の資格を認められてもいるのだから、陳寿としてはさぞや生き辛かったであろう。 ちなみに陳寿は母親の生前、年老いた母の身を案じて地方長官への栄転を辞退しており、その結果、晉の都・洛陽に留まり続ける事となっていたのである。
・・・・だが後から思えば、もし陳寿が地方長官へ栄転して洛陽を離れていたならば、恐らく『三国志』は此の世に姿を現わさ無かったであろう。何故なら、亡ぼされた敵国の典籍一切は、全て都・洛陽に収蔵されるからであり、三国に関する史籍・史料の閲覧・検討の場は洛陽でしか行なえなかったからである。
さて、いよいよ、その三国全ての史料・典籍が、洛陽に揃って集蔵される時が来た。即ち、280年、陳寿48歳の時、三国最後の呉が亡ぼされ、晉による大同(三国統一・天下平定)が為されたのである。この時、陳寿は〔兼侍郎著作〕の任に在り、無論、晉の都・洛陽に在った。
ここで念の為に付記して措くが、先に、三国志は”国撰”では無く
”私撰の史書”であったと記したが、私撰とは言っても、宮中退出後に独り自宅でシコシコと夜なべ仕事をしたと云う事では全くない私撰の意味は、皇帝からの直接命令を受けて著作を始めた史書では無い・・・と云う事であって、著作の官に在った陳寿は公然の任務として宮中の図書館(東観)と云う最も恵まれた環境の中で集められた厖大な史料を熟読吟味し、心置きなく三国志の著作に専念し得たのではある。その上また、私撰と云う立場からして(無論、後述の如き様々な制約は在るが)、他の”正史”には見られ無い、独自の境地・自由裁量が許される環境には在り得た、と言えなくもないのである。
さて、我々の関心事の1つは〔三国志の完成時期〕についてであるが・・・・華陽国志にはーー
呉ノ平ラグ後に、三国志を撰シタ とある。だとすれば著作の開始時期は、最も早くて此の280年と推定される。又、著作の完了は、最も遅くとも289年であり、284年以前だった可能性が強い。何故なら・・中書監の「荀勗」が、三国志の魏志の叙述内容に不満があった為、陳寿の昇進に待ったを掛けて邪魔した、との記述が『華陽国志』・『晉書』の両方に見えるのだが、この荀勗は289年に死んでいるからである。又『晉書』には、荊州都督の「杜預」が陳寿の功績を見て昇進を上奏して件が記されているが、杜預は284年に死んでいるから、三国志の完成は284年以前だった事が裏付けられるのである。こうした状況証拠によって推定すればーー三国志の完成は恐らく283年頃であり陳寿50歳前後の頃だったとし得る。・・・・いずれにせよ、我々が想像する以上の短期間に集中的に為された作業である。恐らく4年間位の期間であったろうか。(まさに三国滅亡の直後と言って差し支えないであろう)
ーー而して、この陳寿が心血を注いで完成させた三国志は、官に収められる事の無い儘、空しく彼の自宅に持ち帰られる運命に遭うのである。此処に”私撰”の悲しさがあった。
とは言え陳寿は、みずからが三国志を著わしている時、必ずや是れは晉の朝廷(皇帝の司馬炎)に注目される事を意識し、又期待をもして居た筈である。故におのずから其処には、様々な配慮や制約が生じて来る。就中、成立したばかりの晉王朝は、是れ迄の歴史上、最も陰険な形で政権を奪った(形式上は禅譲)のが実態であり、然もその直前には有ろうことか、古来より中国に於いては唯1人であるべき天子が、何と3人も居た!と云う異常事態でありそんな歴史を描いた歴史家は未だかつて誰も居無いのであった更には著作者が元は敵国の人物であると云うのも異常と言える。ただでさえ、警戒され疑心を抱かれる立場の陳寿であった。
大雑把に言ってさえ、これだけ異常・異様な事どもが出揃った条件の下での作業である。陳寿の気の配り様は尋常一様のものでは在り得無い。だから私撰とは言っても、実情は雁字搦めの制約だらけだったのである・・・・。
尚、この138節は、三国志を論評するのが目的では無いから、その特色や構成・謂われ無き批評等につては触れないで措くが、〔陳寿の置かれ居た立場〕と、それに伴う〔歴史家としての限界〕についてだけは考察して置かねばならない。 それが判った時に初めて、なぜ三国志の記述は不自然な部分が多いのか?ーー公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦さとなったなどと云う、事実を大きく逸脱した表記を用いたかの理由が見えて来るのである。
亡国の遺臣だった陳寿が、三国志を著作するに当って最も配慮したのは、当然の事ながら、現王朝・晉に対する態度であった。これは建前上、無条件に”偉大なる善”・”正義の実践者”として扱わざるを得無い。但し、歴史家として嘘を書く事は出来無い。・・・・となれば、おのずから都合の悪い事はサラッと流して書くしか手は無い。とは言え幸いな事に、三国志が扱う年表の範囲に於いては、晉の悪辣な簒奪劇の部分は、最後の方に出てくるでけで、然も個人の紀や伝を立てなくて済む。まあ、何とかクリアー出来そうである。ーーとなれば、次なる問題は・・・・紀伝体を用いて歴史を書くのであるから、必ず”紀”を立ち上げなくてはならない事であった。この場合、困った事には、魏・呉・蜀の3国ともが夫れ夫れに皇帝を戴く王朝を自称して居た点である。一体、どの国を正統王朝と見做し、どの皇帝を”紀”として扱うべきか?・・・・然しこの問題に関しても、陳寿には選択の余地は全く無かった。
現・晉王朝が成立した過程の実態は、魏の家臣であった司馬氏が、陰険な形で幼い魏帝を脅し、簒奪したものであったのだがーー公式な建前上の見解では・・・・『晉は魏から帝権を禅譲された』(より徳に優れた者に譲り渡された)と云う事になっていた。だからおのずから晉の前身とされる【魏】が、三国の中では唯一正統な朝廷であった・・・・とする以外に道は無かったのである。従って
”紀”は自動的に魏に割り振られる事となる。そう成れば必然、三国志の主役は”魏”となる。陳寿は、〔魏イコール晉〕として、配慮せなばならなかったのである。即ち、紀伝体史書のヒーローたる紀の人物達(曹操以下の一族)についての魏の記述は、特別な配慮の上で描くざるを得無かった訳である。乱暴な言い方をすれば、ヒーローとして都合の好い所は強調し、不都合と思われる所はサラッと流す事となる。何となれば、魏が偉大で在れば在る程、その魏を引き継いだ晉は更に偉大なものとして光輝くと云う構図・方程式に成る・・・・と謂う塩梅なのであった。その端的な例が、赤壁戦大敗北の記述である。魏の曹操にとっては人生最悪の大失態・三国志上最大の汚名・汚点を残した史実である。にも関わらず武帝紀(曹操伝)の記述では、僅か1行にも満たぬ、たったの16文字だけで事を済ませているのである。(曹操最大の華である官渡戦大勝利の細大漏らさぬ記述とは両極を為す。)
その一方で、亡国の遺臣たる陳寿としての、個人的感情、私的な願望が(巧みにカモフラージュされてはいるが)色濃く滲み出ているのが、今は亡き故国の蜀の記述である。その陳寿の心を紐解けば・・・
《今や亡んでしまいましたが、蜀にはこんなにも優れた人物が多数居たので御座います。ですから、どうぞ、我ら蜀の遺臣達にも注目して戴き、分け隔て無い登用の道をお開き下さいませ!》の気持が籠められていたであろう。その端的な一例は劉備の呼称である。劉備にだけは特別に”先主”と謂う創作語を用いる。こんな呼び名は三国志にだけしか存在しない。そして決して「備」と呼び捨てにはせず、必ず「先主」と記す。可哀想?なのは孫権で、平気で「権」と呼び捨てにされ差別・区別されている。又、劉備の死についても”歹且”と謂う語を宛てて差別化・顕著化に苦慮している。又、夫人達の記し方も、蜀の場合は「皇后」である。流石に旦那の方は「皇帝」とは書けないから、目立たぬ所で女房の方を「皇后」にして措けば、暗に其の旦那サマの劉備は(隠れ)”皇帝”だと印象付けられる。ちなみに孫呉の女房達は「夫人」に止どまる。そのうえ更には、魏・呉・蜀に3人の皇帝が同時に鼎立した訳だが、蜀の劉備の場合のみ、皇帝即位の手続きの全ての資料(臣下の上表文・臣下の勧進文・皇帝自身の宣誓文)を採録し、魏書と呉書ではカットしてある。そして何と言っても最大の売り・自慢の華は諸葛亮の存在であり、彼の残した事績である。
だから「諸葛亮伝」の中にわざわざ、晋の朝廷から命じられて陳寿自身が編纂した「諸葛亮集」や、陳寿が付記した激賞文までもを転載している。又、劉備亡き後の蜀を、いかに孔明が公正に尚かつ大黒柱と成って活躍したかが一目瞭然となる様な、他の者達の「伝」の配列順としている。無論、陳寿の純粋な尊崇の念が溢れているが、えこ贔屓とは全く無縁な、清々しい記述ではある。そして蜀書の終わり方だけにはエピローグとも言える〔賛=讃歌〕を配して余韻を強調しているのである。
残るは呉の記述であるが、陳寿にとって、これだけは殆んど何の制約も受けずに扱える対象であった。だから三国志の中で、最も人々の様子が生き生き・伸び伸びと表現される事となる。呉書(呉志)部分にダイナミズムを感じられる諸氏の多いのも、その理由1つには、こうした背景も在るのである。
ーーと以上、ほんのザッと観ただけではあるが、これでも既に、
三国志(陳寿)に纏わる制限と、その記述の限界の存在を示すには事足りるであろう。・・・・かくて赤壁戦の直前に起きた不可解な合肥戦に伴う、劉備に対する誇大とも言える、不自然な書き方の理由の訳が解って来るのである。・・・・と云う事で、三国志を愛する我々としては、その書を手にする場合、常に陳寿の苦衷と哀惜を思い遣りつつ、彼の歴史家としての良心に感謝すると共にその一方では慎重な態度で接しなくてはならないーーと云う次第になる訳である。
尚、東観で働く陳寿の手元には、玉石混交の厖大な史料が存在していた筈であるが、三国志の特徴の1つとして、史料の採用に当っては極めて高いハードルを設けて厳選吟味された結果、ほんの少しでも不審ある物は容赦無く切り捨てられた。中には惜しいと思われる様な物も多数あったであろうが、陳寿の厳しい歴史家の眼と心は一切の妥協を許さなかった。(その艶の無さを補うものとして、200年後の裴松之が補註を付すのであるが、その件は別の機会に譲る。)
『その書の辞は勧戒多く得失に明らかで風化に有益であり、文の艶なるは司馬相如に劣ると雖も、質直は之に過ぐ』
・・・・との評価を得て、晴れて三国志の原本が陳寿の自宅から官に納められ晉の武帝・司馬炎から〔正史〕と認定されるのは
陳寿が65歳で他界した後の事であった・・・・・・
尚、この『正史・三国志』がいつ頃、日本に入って来たか?を追記しておくと、想像以上に早い。考えてみれば当然の事ではあるが三国志は中国本土でも「史記」「漢書」に次いで3番目に早い正史であり、完成時の日本は未だ弥生時代に過ぎなかった。結論から言うと、凡そ7世紀末であろう。聖徳太子が読んだかどうかはギリギリアウトの頃。 れっきとした公式文書の初見は「続日本紀」の
769年10月10日の条項に出て来る次の如き記述である。
−−大宰府から書庫を充実させたいので歴代中国の史書を送って欲しいとの要請が朝廷に届き、時の称徳天皇は詔して「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「晋書」をそれぞれ1部ずつ賜った・・・・この時期は少なくとも「日本書紀」の編纂作業以前に相当するから、飛鳥時代末〜奈良時代初頭には日本に入っていた事になる
さて、やや遠廻りしたが、再び話しを赤壁の戦いに戻そう。
本書は今まで「孫呉」と「劉備陣営」の2者にのみスポットを当てて見て来たが、肝腎な大本命たる「曹操」については後廻しにして来た。だがそろそろ時局は、この覇業目前の男へと、眼を転ずるべき時点に辿り着いたようである。
天下統一を目前にしている【大曹操】・・・・・・
【第139節】 伝説上の名医 (華侘殺害)→へ