【第137節】
「長阪坡」とは、長いだらだら坂の意である。その坂を登り切った所に橋が架かっている。この長阪橋の上で今、新たな豪傑伝説が生まれようとしていた・・・・守るは、勇 三軍ニ冠トシテ将為リ 雄壮威猛ニシテ、万人ノ敵ト称サル【張飛益徳】とその麾下の騎兵ただ20騎。ーー来た、来た。丸で黒山の如き大軍団である。橋の上から見下ろせば、少し畝った長い坂道全体が、ビッシリ人馬で覆い尽くされ波打っていた。大津波が下から坂を巻き上がって来る如くであった。 「ほう、こりゃ又、豪勢だな。」丸で人ごとみたいな張飛の感想である。既に腹が据わって居るから、全く意に介さない。是れ迄も殿軍として大乱戦し、何はともあれ劉備本隊を、無事ここまで守って来ていた。それだけでも十分、張飛の男は上がっている。
ーー単に橋を落としただけでは、敵は追撃を止めぬかも知れぬ。さほど川幅は広く無いのだ。此処は一番、事前にビビ゙らせて措くに限る。男・張飛、一世一代の見せ処である。
工兵に命じ、駆け戻ったら直ぐに橋ゲタを引き倒し、崩れ落ちるよう手配済みであった・・・・。
ついに、敵の先頭が橋の向こう側に現われた!!
橋を挟んだ此方側、中国1の大声の持主が、一世一代の大音声を発した。人間が、たった独りで、是れ程の爆裂音を轟かすとは信じられぬ。雷が落ちて地を裂いた如き大音量であった。
「其処で止まれ〜〜ィ!」
知っている味方の20騎でさえ、ついビクン!とした。まして初めて聞いた敵兵は肝を潰された。講談では、実際に1人がショック死した事になる程の怒鳴り声であった。反動で、敵がシ〜ンと成った錯覚が起きる。ーーと・・・・小脇に”蛇矛”を引っ提げた張飛だけが、ポコポコと愛馬を橋の中央に進めていく。独り散策を楽しむかの如き、悠然たる在り様である。一瞬、敵味方ともが魅入られる様な、主役の登場であった。
「我こそは張飛益徳な〜り!主命により、奸賊は1人たりとも此の橋を渡らせ申さ〜ず!死にたい者は掛かって参れ〜〜!!」
名乗るや張飛、突如、馬腹を蹴った。
「続け〜!」命知らずの20騎が、これに遅れず猛ダッシュした。大喝一番、蛇矛を振り上げ、全速力で斬り込む。破茶目茶な行為である。相手は5千騎、然も最精鋭の虎豹騎である。だが一瞬その気魄に圧された5千騎が、悉く後ずさった。と、張飛は又、意表を突いた。敵の手前でピタリと止まったのだ。
《フウ、驚かせやがって・・・・!》
不審な動きに釣られ、敵軍も一瞬ためらって動きを封じられた。
「ガハハハハ・・・・!」 破顔一笑、高笑いしつつ、張飛は其の前へ悠悠と唯1騎、更に駒を進める。転瞬、張飛が吼えた。鎧袖一触、蛇矛が一閃するや、先頭の敵3人が悲鳴を上げた。我に返った敵が、押し包まんと動き出す。
〔長阪橋の死闘〕の幕開けであった。待機していた20騎も
ワッとばかりに突撃を敢行する。日頃から目茶苦茶に鍛え上げられている猛者達ばかりである。こちらも強い。地形的には、断然張飛側に打って付けであった。橋に通ずる道筋の為、瓢(ひょうたん)の口の如く、急に狭く成っている。たとえ5千騎あろうとも、最前線は10騎ばかりで道幅一杯となる。後方の大軍団は、指を咥えて見て居るしか無い
・・・・と成れば、張飛の独壇場である。
何と、大の男を蛇矛に串刺しし、宙空に跳ね飛ばして見せたのである。死体が空を飛んだ!それも続けて2人、3人がである。信じられぬ。が、現実に起きている。
「オラオラ、オラ〜!どうしたア〜!掛かって来んか〜い!!」
右に1人、左に2人、踏ん込んでは更に1人・・・・張飛の膂力の凄まじさは、到底、人のものとは思え無い。
「田分け!臆すな、押し包んで討ち取ってしまえ!」
(※ タワケ・・・・とは、鎌倉時代の分割相続で”田を分けて”自滅して行った幕府の無為無能ぶりから生じた罵声の語源)
指示した本人が、次の瞬間には首だけと成っている。5千騎が、たった1人に押しまくられている。まとめて2・3人が絶命してゆく。雑兵相手では無いのにである。遣りたい放題、仕放題、傍若無人とは正に此の事か・・・・!?
〔長阪坡〕の名は、完全に張飛の為のものと成ってしまった。
停滞に業を煮やした【曹操】が、将兵を掻き分けて、前線視察に姿を見せた。
『曹公以江陵有軍実。恐先主據之。乃釋輜重軽軍到襄陽。聞先主已過。曹公将精騎五千急追之。一日一夜行三百餘里。及於當陽之長阪。』
『曹公(曹操)江陵に軍実(兵車・歩卒・兵器)有るを以って、先主(劉備)の
之に拠らんことを恐れ、乃ち輜重を釈て、軽軍もて襄陽に到る
先主已に過ぐと聞き曹公、精騎五千を将いて之を急追す。
一日一夜行くこと三百里。当陽の長阪にて及ぶ。』
《正史・先主(劉備)伝》
「何をモタついて居るんじゃ!!」
「・・・・あ、あれで御座います。」
「何だ、どうしたと云うのじゃ?」
言われて、前方の橋の上を見た曹操、愕然となった。
「−−!!何じゃ、あいつは・・・・!?」
「張飛益徳で御座いまする!」
「・・・・化け物じゃな・・・・物の怪としか思えぬ奴じゃ・・・・!!」
今、手元には【許猪】も【張遼】も従えては居無かった。とても生け捕りに出来る様な相手では無さそうだ。
「ええい構わぬ。惜しいが射殺せ!弓だ、弓矢を浴びせて射倒してしまえ!」 「弓だ!射手は前へ出よ!」騒ぎ立てた時には既に遅し・・・暴れるだけ暴れると、20騎と張飛はサッと橋を駆け戻っていた。誰も追わない。空しく弓矢だけがバラバラと宙に鳴った。
ーー途端、ガラガラと橋桁が引き抜かれ、長阪橋は崩れ去った。
「さあ、望みとあらば此処まで来てみよ!張飛益徳、此処を死に場所と思い、思う様に蛇矛を振おうぞ!今からは本気じゃ。さあ、やって来い!」
・・・では、今迄は本気では無かったのか!?トンデモナイ怪物にぶち当ったものである。
「曹操様、南へ向かう敵影らしき砂煙が報告されました!敵の騎馬部隊と思われまする!」
「やっ!いかん。つい本筋を忘れる処であったワ!江陵じゃ!もう、こっちはよい。全軍、江陵へ急ぐぞ!!」
ーー実は、この南方の砂塵・・・・諸葛亮の囮作戦であった。何本もの太綱を、騎馬隊に引き廻させたのである。 1頭に3本ずつ、20騎ほどが街道上を駆け廻ると、濛々たる土埃が舞い上がる。
(無論、筆者の想像である)
なけなしの20騎ではあったが、この際、曹操に南下の目的を、思い出させなけらばならないのであった。
《今さら追った処で、劉備の奴はとうに遙かであろう。》
それが才能だとすれば、劉備は〔逃げの天才〕である。どうせ船を用いて自分だけでも漢水を渡ってしまうだろう。こっちに船は無し放って置いても高々2・3千。其れよりも江陵だ!そっちを焼かれでもしたら一大事である!
「ガハハハハ、見よ。奴等、退いてゆくワイ!」
この長阪坡の戦いに於いて、【張飛益徳】の武勇は、改めて天下に轟き渡る事と成ったのである・・・・!!
『表卒。曹公入荊州先主奔江南。曹公追之一日一夜。及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至。棄妻子走。使飛将二十騎拒後。飛據水断橋。瞋目横矛曰。身是張益徳也。可來共決死。敵皆無敢近者。故遂得免。』
『表(劉表)卒し、曹公荊州に入り、先主(劉備)江南に奔る。曹公(曹操)之を追うこと一日一夜。
当陽の長阪に及ぶ。先主、曹公の卒かに至るを聞き、妻子を棄てて走る。
飛(張飛)をして二十騎を将いて拒後(殿軍)せ使む。飛、水に拠り橋を断ち、目を瞋らせ矛を横たえて曰く、身は是れ張益徳也。来たりて共に死を決す可し、と。敵みな敢えて近づく者無し。故に遂に免るるを得たり。』 《正史・張飛伝》
ーー以上、チト過剰描写になってしまったが、歴史の実相では・・・・「趙雲」は甘夫人と阿斗を警護しつつ同行し、無事責任を果したのであり、又「張飛」も、先ず橋を落としてから、向こう岸で大見栄を切った、と云う処であろう。それでは余りにも味気無いので、つい・・・・
同時刻・・・長阪坡から東へ数里の地点に【劉備】は居た〔関羽水軍〕が待つ筈の「鐘祥」の漢津までは、あと僅かの距離である。”当陽”の手前で敵に追い付かれて以後、初めてホッと息をついて居た。【甘夫人】も合流していたが、周囲は殆んど文官と女性ばかりの小集団であった。諸葛亮・徐庶・麋竺・それに魯粛
護衛の兵は居るが、とても”軍”とは呼べぬ〔落人〕に過ぎ無かった。情け無い限りではあるが取り合えず命脈だけは保ったか?
・・・・やがて兵達が追い縋って来たが、歩兵ばかりで、頼りになる将の騎馬姿は無い。
「趙雲どのが見えられたぞ〜!!」
「おお〜!!」 やっと、部隊に安堵感が広まった。
「子龍よ、待って居ったぞ!」 劉備が走り寄って出迎えた。
「阿斗様は此処に・・・・。」
【趙雲】が、血まみれの戦袍の左肩を開くと、胸当ての中に【阿斗】がキョトンと顔を覗かせた。
趙雲から我が児を抱き取った劉備、父子対面でさぞかし感激すると思いきや・・・・一同がビックリする様な挙に及んだのである!
何と、阿斗を地面に放り投げたのである。
「この小僧め!」
「あっ!!」と一同が胆を冷やした。流石に父である劉備は、咄嗟に茂みの上に放り投げたのではあるが、阿斗はバウンドして土塗れとなった。趙雲も仰天したが、急いで阿斗を抱き上げた。
「この小童め!お前の為に、危うく私の大事な将軍を失う処であったワ!」 全身に手傷を負った趙雲の姿であった。肩に折れた矢すら刺さっている。
「勿体無き御言葉で御座います。」 流石の趙雲も、この主君の言動には感激して、ククッと咽を詰まらせた。
(※この場面設定は、演義の第42回の創作)
「・・・・奥方様は!?」
道中、片時も忘れ得ぬ懸念であった。
「−−子龍どの!!」 走り寄る甘夫人。
「嗚呼、御無事であられましたか・・・・!」
「そなたの御蔭じゃ!阿斗も私も、そなたが戻って来て呉れなんだら、生きてこうして・・・・。」
甘夫人の眼からドッと涙が溢れ出していた。周囲の者達も、思わず涙ぐむ。
「力及ばず、糜夫人は御救い出気ませんでした。阿斗様を私に託されるや、みずから井戸に身を・・・・。」
「−−嗚呼、全て、この儂の所為じゃ・・・・。この儂に力が無いばかりに、失わずともよい多くの命を失わせてしまった・・・・。」
幼い2人の娘も、敵の手に掛けられた。劉備は地面を叩いて、己の無力に慟哭するばかりであった・・・・。
「お〜い!みんな〜、無事かあ〜?」
沈み切った場面に遠くからあの馬鹿デカイ元気声が響いて来た。
「あっ、張飛殿だ!張飛殿が帰って来ました!」
養子に迎えた「劉封」少年が、明るい声を上げてみせた。颯爽と、20騎の勇士を引き連れた【張飛】が駆けて来る。
「方々、御安堵めされよ!敵は全て退散致しましたぞ!!」
意気揚々たる張飛の鼻息に、初めて明るい歓声が湧き起った。
「ようやった張飛!ようやって呉れた!嗚呼、儂は何と心強い弟を持った事じゃ・・・。」
「な〜に、是れも軍師殿の御蔭じゃわい。」
「さ、殿軍も張飛将軍も無事参られた。 急ぎ、関羽水軍の待つ
”漢津”へ発ちましょうぞ!」
【諸葛亮】は半ば其の責めを果し、打ち振る軍毛扇にも力が甦っている・・・・こうして、逃げ廻りながらも、人生最大のピンチを脱した劉備一行は、更に東進して、無事、関羽水軍との合流を果す事が出来るであろう。ーーだが・・・・その過程で、彼を信じて着いて来た10万以上の民衆の殆んどは傷付き、死に追いやられ、将兵も亦、その多くが命を落とす事になったのである。その事実を如何に観、どう評価するべきか・・・・。
『先主棄妻子與諸葛亮・張飛・趙雲等數十騎走。曹公大獲其人衆輜重。先主斜趣漢津。』
『先主、妻子を棄て諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎と走る。曹公大いに其の人衆(劉備に従った民衆)輜重を獲たり。
先主、斜に(逃げ廻りながら)漢津に趣く。』 ・・・・《正史・先主伝》
兵力わずか1千そこそこにまで落ち込んだ劉備一行は、やっとの思いで漢水(別名・シ正水)の岸辺に辿り着いた。長江の支流とは言え、この地点の川幅は、裕に2・3百メートルはある。これを渡り切ってしまいさえすれば・・・・・ 西岸を岸伝いに下流へゆくこと1・2刻、遂に「鐘祥の渡し」=漢津に着いた。
「おお〜〜!!」其処で一行が目にしたものは・・・・一瞬、己の眼を疑う様な光景であった。
漢津一面を埋め尽くす、大艦船群が出現したのだ!!その数、およそ数百艘ーー晩秋の川風に軍旗を翩翻とはためかせた、
関羽水軍の威容であった。其の兵力は、実に2万を呼号した!(※500艘×50人としても2万5千人となる)
「御命令通り、お迎えに参りましたぞ!」
青龍偃月刀を引っ提げ愛馬・赤兎にうち跨る美髯の巨将・・・・一同の前に颯爽と現われた【関羽雲長】の何と眩しい事か! 「頼もしいぜ、兄者!」
張飛も感動している。劉備は勿論、皆、眼に涙している。
《−−助かった・・・・!!》 誰しもが「生還」を実感できるだけの水軍であった。そして体中に生きる力が蘇って来る様な大兵力であった。「鬨を挙げよう!」忽ちにして起こる水陸の声、声、声
・・・・是れこそ、掛け値無しの、劉備の”虎の子部隊”であった。
では、これだけの兵力と艦船が有りながら、なぜ諸葛亮は、主君に生死スレスレの危ない橋を渡らせたのか??逃げるだけなら最初から、スンナリと水軍で来れば善かったではないか。せめて家族だけでも乗せてやれば善かったのに・・・・??
ーーやはり【諸葛亮孔明】は、遠くを見詰めていたのである。
その理由の1つは、後を慕う10万を超える民の存在であった。人々を置き去りにすれば、肉体的生命は助かろうとも、政治的生命を失う事に成るのだ。他の君主達に傑れる、劉備最大の財産は人望である。それが彼を支えて来ている。失わせる訳には行かないのだ。
そして最大の理由は・・・・同盟相手への〔手土産〕を確保して措く事であった。近い将来、孫権をして劉備との同盟を決意させる為には、相手の最も欲する手土産ーーつまり軍事力が不可欠であった。いかに信義理想を説いたとて所詮同盟の本質は軍事力強化の1点に尽きる。こちらの手持が千や2千では話しにもならない。却って足手纏いと敬遠されるであろう。その結果、同盟不成立となれば、いずれ身の破滅と成ろう。同じリスクを背負うなら再生の原資だけは確保して置く・・・それがキイポイントであった。虎の子には手を着けず、最低ギリギリの兵力で凌ぎ切ったのである。更に「江夏」に行き、諸葛亮に傾倒している【劉g】の軍も加われば、手土産は手土産だけに留まらず、主君の実力として重みを増し、独立性をも主張し得る事と成る・・・・
「是れは、宜しゅう御座いまするな!」
【魯粛】が破顔して諸葛亮を振り返った。彼も本質は解っている。2万余の軍事力を保有する事に拠り、同盟に現実味が出て来たのであった。頷き返す諸葛亮・・・・。
やがて、漢水の西岸に居る者全てを東岸へ渡し切った。
死地は脱したのである。
だが、そんな中、唯1騎・・・・皆とは訣別し、無念の形相に涙しつつ、正反対の西に向かって走り去ってゆく者が在った。【徐庶】である。
『先主、樊に在り、之(劉jの降伏)を聞き、其の衆を率えて南行す。亮、徐庶と並び従う。曹公の追う所と為る。破りて庶の母を獲たり。庶、先主に辞して其の心を指して曰く、本欲與将軍共図王覇之業者以此方寸之地也。今已失老母。方寸乱矣。無益於事。請従此別「本 将軍と共に王覇の業を図らんと欲せしは、此の方寸の地(胸中の心)あるを以って也。今已に老母を失う。方寸乱れたり。事に益無し。請う、此れより別れん」と。遂に曹公に詣る。』
《正史・諸葛亮伝》
年老いた母親を、曹操に人質として奪われた徐庶・・・・その情報は大混戦の中で届けられたが、徐庶は主人・劉備の安全を確認する迄は、己の責務を全うしたのである。だが、その目途が何とか付いた今、徐庶は断腸の思いで、母親の為に劉備の元を去る決意を固め、選択したのであった。若い頃にヤクザな生活で散々に苦労を掛けさせた母親であった。とは言え、口惜しさに号泣し、惜別の無念で地を叩いて嘆く徐庶・・・・劉備は快く其の申し出を許した。 ーーかくて、劉備の軍師第1号であり、親友・諸葛亮を劉備に推薦した徐庶は、無念の裡に歴史の表舞台から退場してゆくのであった・・・・・さらば、徐庶!徐庶よ、さらば・・・・・・
以後、劉備軍は漢水に沿って水陸軍共に「夏口城」=現・武漢市を目指す事となった。・・・・途中、江夏郡太守と成っていた【劉g軍1万余】と、偶然に出喰わした。この【劉g】、異母弟・「劉j」との跡目争いに破れ、諸葛亮の勧告で政争を避け、此の地の太守と成っていた。 (ちょうど前任者の黄祖が孫権に討たれ、空席と成っていた。)腹違いの劉jが一戦も交えず曹操に降伏した事に抗議する為に出て来た・・・と云う事になっているが、それは有り得ぬであろう。そもそも犬猿の仇敵が、わざわざ降伏を伝えて来る筈も、時間も無かろう。直ぐ隣りに居た劉備でさえ気付けずに居たのだ。
又、何等かの方法で降伏を知ったとしても、高々1万で何をしに行くと言うのか?全滅覚悟で、抗議の戦さを決意する程の人物であったろうか?劉備との合流以外なら、それこそ自身が降伏しに出向く以外には考えられぬ。降伏を申し出た処で、既に讒訴されている位は、劉gにも想像が着こう。やはり心許無く、劉備(諸葛亮)を探し求めて来たーーいや、己を高く買っている劉gに、諸葛亮が前以って、こうしたケースを示唆して措いた・・・・と観るのが順当であろう。(ちなみに、この劉gは赤壁戦の直後に病没する)
いずれにせよ劉備軍は更に増強され、自称3万を呼号出来る迄に成ったのである。その上、長江の往来・進退には不可欠な
”独自の水軍”をも誇示し得る事とも成ったのである。諸葛亮孔明の面目躍如と謂った処である。是れは、兵力不足に悩む呉国との同盟に、大いに説得力を持つ事となろう・・・・。
『先主、斜に漢津に趣く。適與、羽の船と会し、シ正を済るを得たり表の長子・江夏太守・gの衆万余人と遭い、ともに夏口に到る。』
《正史・先主伝》
何としてでも己の構想を実現したい魯粛の進言により、劉備軍は顎県にまで進み、長江を渡って南岸の「樊口」に駐屯した。少しでも「柴桑」寄りに位置し、同盟・抗戦の意志を露わにして措こうとの策であった。そしてこの樊口の地こそが、赤壁戦の始まる迄の劉備軍の本営と成るのであった。此処でようやく敗走に区切りを着け、事後の成り行きを考える体勢に入れたのである。だが余裕は無い。事は全て曹操の思惑通りに進んでいる。この9月中にも曹操は占領地域の人事全てを刷新し、荊州軍10万余を、その傘下に収めてしまうであろう。
一方、〔呉の国論〕は、降伏に傾いていると言う。かろうじて君主・孫権が、ダンマリ戦術で結論を先延ばしにして居るが、魯粛・周瑜の決戦論者2人ともが居無い今、周囲が全て降伏論の大合唱では、孫権の心がグラつかぬとも限らない。
【魯粛】としても、急ぎ「●柴桑」に戻らねば、不安であった。その際、自分とほぼ100パーセント同じ大戦略を自論とする諸葛亮を伴えば、孫権の心は不動のものと成ろう。 又、魯粛には更にもう1つ、急がねばならぬ理由があった・・・同じ決戦派でも、周瑜との”対・劉備観”のズレを調整して措かねばならない。−−実際に戦場で軍を動かすのは周瑜である。いざ決戦となれば、魯粛に出番は無い。その前に、〔劉備との同盟〕を、周瑜の頭越しに、孫権に納得させて置かねばならない。周瑜が戻り、”劉備抜きに”ゴーサインを発する前に、是非とも其れを成し遂げて措きたかった。何がし、味方を出し抜く策動の観も有るが、軍権を持たぬ魯粛としては、そうする以外に理想を実現する事は出来無い。
【諸葛亮】にしても、事情は全く同じである。孫権が降伏派に押し切られる前に、そして周瑜が劉備を排除してしまう前に、是が否でも孫権に同盟を了承させてしまわねばならなかった。勿論諸葛亮の方が魯粛の立場より何十倍も、その背負っている重責の深刻さは切迫している。魯粛の方には何処かしら、策謀の実現と云う、己の才能を実証する為だけの、実験的な”お遊び感覚”、謂わば”才能が才能を愉しむ”如き趣が濃厚でもある。そんな立場の魯粛と同じ速度では、孔明の使命は達成されない。
そこで諸葛亮は劉備に、自身の〔単独での柴桑行き〕を献言した。今や柴桑の大本営には、孫権はじめ呉の政府そのものが全員進出して来ていた。柴桑行きとは即ち、呉国中枢への殴り込みに外ならない。単独の方が好い。もし劉備が直接に出て行けば、余りにも生々し過ぎて、周瑜の反発は必至となろう。下手をすれば、降伏派から暗殺され兼ねぬと魯粛は言う。そんな状況で有れば尚の事、此処は一番、己の舌先三寸に全知全能を籠めて、呉の国論を引っくり返すしか無い。少なくとも、君主である孫権の決意だけは、決戦に固めさせねばならない・・・・・
「事態は切迫しております。御命令を戴いて、孫権将軍に救援を求めたいと思います。」
「分かった!我が事の成るも成らぬも、そなたの柴桑行きに掛かっている。しっかり頼む。吉報を待って居るぞ!」
諸葛亮28歳、魯粛37歳ーー新たな世代が、26歳の孫権の居る呉の大本営「柴桑」へと、長江を下っていく・・・・。
『先主至于夏口。亮曰。事急矣。請奉命求救於孫将軍。
時権擁軍在柴桑。観望成敗。』
『先主、夏口に至る。亮曰く、「事、急なり。請う、命を奉じて救を孫将軍に求めん」と。 時に権、軍を擁して柴桑に在り、成敗を
観望す。』 『先主、諸葛亮を遣わして自ら孫権に結ばしむ。』
時折しも【曹操】から【孫権】へ、短い手紙が届いていた。余計な修辞の一切無い、それだけに却って凄味の有る文面であった。
『近ク辞ヲ奉ジテ罪ヲ伐ツニ、旄麾南ヲ指スヤ、劉j手ヲ束ネタリ。今、水軍八十万ノ衆ヲ治メ、方ニ将軍(孫権)ト呉ニ会猟セン。』
『近頃、罪状を数え罪人を討伐しようと、軍旗が南に向かったが、劉jは何ら抵抗も示さず降伏した。今度は水軍80万を整えて、孫権よ、お前と呉の地で猟りでもやらかそうかい!?』
所謂、〔会猟の辞〕である。余裕綽々、絶対の自信に満ち溢れ、揶揄と恫喝を含んだ、一種の脅迫状である。
孫権は此の手紙を受け取るや、群臣達に示したが、震え上がり顔色を変えぬ者は無かった・・・・と史書は伝える。
ーー戦うか!降るか?
その決断を下す為の時間は、もはや殆んど無い
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