第136節
趙雲子龍ここに在り!
                                   地獄に咲いた愛の華




ーー・・・・来た・・・!!

地響きにも似た馬蹄の轟きが、北の方角から聞こえて来る・・・・
そして遂に、砂塵の中から、敵は其の姿を現わしたのである。
その数5千騎!曹操みずからが率いる、高速騎馬軍団であった。遭遇地点は、当陽の直ぐ南ーー
長阪の地である。
劉備が呂粛との、世紀の会見を終えた直後であった。

周囲を圧倒し、津波の如く姿を現わした人馬の群れは、明らかに「
江陵」占拠を目的とする、超スピードを誇る軽騎兵だけの軍団であった。無論、天下最強を謳われる”虎豹騎”が其の主力である
曹操の騎馬軍団は先ず、10万以上の難民と5千余の荷駄にブチ当った。進撃も儘成らぬ人間の大洪水である。邪魔者は踏み潰せとばかり、必然的に難民への虐殺が始まってしまう・・・・。阿鼻叫喚の中、曹操軍は情け容赦無く、前へ前へと斬り進んでゆく。やがて難民は蜘蛛の子を散らす様に街道脇に逃げ惑い、進撃路が開けて来る。其処へ目掛けて騎馬隊が疾駆する。だが少し進むと又、難民の群れが眼の前一杯に現われる。踏み潰し、斬り倒し、突き殺して道を空ける。その繰り返しが、涯てし無く続く・・・・「劉備の奴は、未だ見えぬのか?」大渋滞で進めぬ曹操は仕方無く後方で馬を下りて状況を観望して居た。
「ハッ、なにぶん此の有様。然とは確認できませぬ。」
ーーきゃつめ、考えおったな。民衆を隠れ蓑に使うとは、とんだ喰わせ者よの!虐殺の汚名を此方に押し付けて置いて、己だけはノウノウと逃げおおす心算か。ま、よいわ。いずれ決着つけて呉れよう。それより先ずは”江陵”じゃ!急がせよ!!
もう、辺り一帯は難民と雑兵とが秩序も無く入れ乱れ、揉み合い圧し合い、当ても無く右往左往逃げ惑うばかりである。

やがてーー
劉備軍、発見!!斥候騎兵が注進に及んだ。
「何処に居った?」
「1部は此処より東へ向かっております。」
「・・・・東へか・・・?南へは?」
「一部は向かっておるやも知れませぬが、然とは致しませぬ。」
「フム、散り散りじゃな?劉備めは東へ逃げる魂胆だな・・・・。よしこの際じゃ。ひと捻りにしてやろうぞ!」
ここで曹操は方針転換する事にした。長年に渡った劉備との”腐れ縁”を、此処でバッサリ断ち切る決断を下したのである。そして其の騎馬軍団を東へ折れ曲らせるや、劉備本隊に襲い掛かったのである。とは言え、其れが果して本軍なのか判らぬ程の難民に包まれていた。
劉備軍はおよそ数千。殆んどが歩兵である。まともに戦ってはならぬ、と命じられている。目的は唯1つ、逃げ延びる事だとも言い渡されていた。出来得る限り交戦は避け、各自が己の命を持ち堪えて、本軍に付いてゆく事ーーそれだけが使命なのだ。・・・・もし、この先が有るとするなら、将兵は1人でも多くなくてはならなかった。孫呉と同盟の交渉を持つ際に、丸裸では同盟では無く、
臣従”に成ってしまうからであった。

「構わぬ、やれ!」  邪魔になる難民は容赦なく切り殺してでも劉備の首を取れ!と厳命したのである。大混戦・大虐殺となる。劉備軍は、恰も民衆を守って移動している様に見える。だが実態は、自分達が目立つ事を避けていた。民衆を置き去りにすれば、確かに足は速くなる。然しそれでは、いずれ追い着かれ、丸見え状態で一挙に捕捉殲滅される危険性が高い。足は遅くとも、人民の煙幕の中に紛れ込んで居た方が、助かる見込みは高い状態であった。又、足の遅い劉備の家族を護衛せねばならぬ事情もあった。兎に角曹操が”東へ来過ぎた”と思い、追撃を断念して、本来の目的である南下を再開する迄の間は、歯を喰い縛って持ち堪えるしか無いのだ・・・・・。
だが、そんな阿鼻地獄の中、移動する群れの先頭を、後を振り向く事もせず、只ひたすら駆け逃げる者が居た。その人物は総大将で在りながら、作戦の指揮など物皮、己の命惜しさに一目散であった。無論、
劉備である。
卑怯とは謂えまい。彼は『
』である。玉が取られては一巻の終わり、《ツミ》である。劉備が逃げ延びる事は、時代の要請と観てやろう。ちなみに、彼の乗る馬は〔的盧〕と言う。千里を駆けても疲れを知らぬ名馬とされる。初め劉表の物だったが、白い十文字の星が眼下の涙槽にまで届く為、持主に災いを齎す凶馬と謂われた。馬相観の達人でもあった萠越に脅された劉表はビビッてしまい、劉備に押し付けた。「何の馬一匹ごとき、儂の妨げに成ろうものか」と愛馬にして来た。吉か凶か、疲れを知らず、逃走には打って付けではあったが。
ーー妻も子も家来達も置き去りに、眼の玉ひん剥いて、ひたすら逃げる。疾駆する。集団の先頭だから、眼の前には何の障害も無い。さながら爽快な”野駆け”にすら見える。民衆なぞ、とっくの昔に見えなくなっていた。その横を
諸葛亮徐庶、そして魯粛らの文官だけが並走していた。武将は全員が後方担当で、激戦しているに違い無かった。
こんなザマは、これで終わりにして見せるぞ!》辛酸を舐め続けて来たこのダメ男は、その馬上でそう思ったかも知れ無い。
一方、悲愴だったのは後方の武将達であった。曹操軍に追い着かれ血みどろの激闘の渦に巻き込まれて居た。取り分け
趙雲子龍に与えられた任務は苛酷なものであった。
趙雲の現在の役職は
主騎である。本来の任務は、常に主君の傍らに侍し、劉備の身だけを警護する近衛隊長である筈であった。だが趙雲の人柄は、それを超えた。
日頃から
甘夫人阿斗を、自分の肉親以上に大切に慈しんで来ていた。その献身的とも言える言動は、単に主君の家族だからと云う義務感だけでは無く、彼の溢れる様な愛情によるものであった。関羽や張飛とは立場も心根も異なった、特別に強い絆を抱いている。樊城脱出以後も、片時も側を離れず世話を見、守り通して来ていた。故におのずと、この逃避行に於いても趙雲の任務は、劉備の家族を守り通す事とされていた。

ーー然し今、幼い「阿斗」を抱えた夫人達の車駕は只でさえ足が遅かった。その上、お付きの侍女達の車駕が警護を兼ねて取り囲んでいる為に、一段とスピードが減殺されてしまっていた。更に悪い事には、大群衆の洪水にも呑み込まれてしまい、殆んど立ち往生状態となり果てていた。そんな目立つ車駕は、敵騎兵の眼には格好の獲物として映るから、次々に突き進んで来る。趙雲は其れを逸早く発見しては、未然に阻止して倒さねばならない。だが時間の経過と共に、趙雲が頼りとする味方の従騎も今や僅か数騎に激減してしまっている。車駕の何台かは横転させられ、中から遺骸が転がり出ている物も数知れ無い。夫人の車駕には、かろうじて十数名の歩兵が張り付いて居て呉れるのが、せめてもの救いであった。が、趙雲自身はどうしても車駕を離れて闘わざるを得無い場面が多く成ってきた。予想外の大乱戦となった此の「長阪」の地では、流石の趙雲も、思いの儘に車駕に寄り添い続ける事は至難であった。しつこい敵兵を突き伏せ奮戦している間に、いつしか一行を見失ってしまった。
《−−おっと、是れはいかん!》馬上から腰を浮かして眺め廻すと幸いにも前方に其れらしき車駕がチラと見えた。警護の数騎も付いている。安堵した趙雲は、この際ここで時間を稼ごうと踏み留まり、独り長槍を突き立て薙ぎ払い、魔神の如き猛戦で敵を喰い止め続けた。
《この間に、少しでも遠くへ進んで下されよ。》
その思いが通じたか、一瞬、敵兵の姿が途切れた。頃はよし!と見計らった趙雲、先程視認した車駕に戻ってみると、なんと人違いであった!
ーーしまった!!
「阿斗様は何処じゃ!?阿斗様を知らぬか!!」
劉備は独りでも逃げられる。だが、2歳の赤児はそうはゆかぬ。甘夫人の胸に抱かれている筈だ。47歳で主君がやっと授かった一粒種である。そして事実上は、趙雲自身が父親代わりに育て上げて来た愛児であった。

「阿斗様〜!奥方様はいずこじゃ〜!?」
敵の返り血を浴びて探し廻る趙雲の形相は、この修羅場でさえもギョッとさせられる。
「もはや、敵の手に落ちたと思われまする。来る途中、井戸の在る作業小屋付近で、それらしき一行を見た者があります。其処は既に、敵の制圧下と成っています・・・・。」
《−−おのれ〜!!》 趙雲子龍の全身が憤怒と化した。
掛け替えの無い者達であった。愛する者達であった。阿斗様は一粒種である。それは単に主君の子で在るのみならず、此処に群れ集う全ての者達の『希望の星』でも在るのだ。又、甘夫人は〔遅れて来た者〕同士、常に労わり合い、互いを解り合える無二のお人である・・・・それが今、命を絶たれようとしている。此の世から消え去ろうとしている!
「我が命に替えても、奪い還して見せる!!
喚くや趙雲、
近くに居た腹心の1騎を従えると、もと来た道を駆け戻る。
行く手には難民が犇めき合っているが、その先は敵の群れなす真っ只中である!
ーー唖然として見送る敵を劈き、趙雲子龍がゆく。待つは地獄か奈落の底か・・・・!?
擦れ違い様、敵騎兵の血飛沫が飛ぶ。流れに逆らう1筋の赤心。名も無い従騎も豪胆である。2騎の跡に残るのは、ただ敵兵の遺骸と血糊の河ばかり・・・・。だが趙雲は、闇雲に猛り狂って居るのでは無い。その眼光は冷静な鷹の眼差である。人群れの中、敵騎の集団は避けている。命惜しまずと雖も、兵理を忘れ去る趙雲では無かった。手薄な敵、単騎を狙って進む。
「趙雲さまア〜!」
2度聞こえた。声はするが姿が見えない。
「−−何処じゃ?」 必死に眼を凝らして見廻すと・・・・涸れた小川の太鼓橋の下から、侍女と覚しき人影が懸命に手を振り続けて居る。
「おう、其処か!待って居れ〜。」 馬腹を蹴って乗り着けると、
「−−趙雲どの・・・・!!」
大切な人、大事な女性、
甘夫人が居た。
「嗚呼、奥方様・・・・
!!」   
飛び降り、思わず手と手が絡み合う。だが胸が詰まって、後の言葉が出ない。
「阿斗と・・・・はぐれてしまいました・・・・。」 涙が吹きこぼれ、今にも舌を噛みそうな、悲痛な母の顔が戻っていた。
「誰の手に在りますのか?」
「若いし、いざとなれば走れるからと言って、夫人が抱いていて呉れたのですが、車駕が倒された時に離れ離れになって・・・・。」

「分かりました。阿斗様は必ず、この子龍がお連れ致します!奥方様はこの者に同乗し、先に行って下され。此処からなら、未だ大丈夫、追い着けまする。」 幸いにして、遅れて来た歩兵20人ばかりを付け加える事が出来た。
「子龍、死なないで・・・・!!」 凍み透るばかりの真心である。
それが今、何よりのはなむけであった。 暮れ暮れも頼んだぞーーとだけ腹心に言い残すと・・・・
「御免!!」 趙雲子龍は、再び馬上の修羅と化した。

記憶に残る、井戸の在る風景だけが頼りである。
《ーー頼む、居てくれ!!》 念じつつ1騎、2騎、3騎と、趙雲の朱槍は、馬上の敵どもを突き落としていく。駆けては突き、突き伏せては駆ける。
ーーと、ポカリと・・・・嘘の様な静寂が出現した。10数棟の作業小屋の中庭であった。信じられぬ事だが、この大激震の阿鼻の中、ヒョイと無人の空間に踏み込んだのだ。

 一方、
張飛益徳は、退却戦では最も困難とされる殿軍を買って出ていた。
《俺がやらねば、誰がやる!!》
とは言え、殿軍でんぐんでも10余万の最後尾と云う訳では無い。劉備軍としての殿軍しんがりである。その主力は
50の重騎兵であった。
皆デカくて獰猛どうもうな顔付をしている者達ばかりである。その代わり、強い。気狂い染みた張飛の錬兵・しごきにも耐えて来た猛者であった。敵の数の多さにビビる様な連中では無い。降り注ぐ火の粉を打ち払うかの如く、右に左に敵の軽騎兵を屠り去る。狭い間道に誘い込んだ為、道幅一杯に重装の50騎が密集すれば、追尾して来る大軍と雖も、そう易々とは突破できない。敵も実際に戦うのは、先頭の者達だけとなる。1対1では相手にならない。張飛に鍛え上げられた重装50は格段に強い。とは言え今の処は未だ、曹操本軍が相手では無い。先行して来た偵察部隊である。それでも100騎は下らない。ーー逃げ込んで来る味方歩兵や避難民を遣り過しながらの戦闘である。少しだけ退いては敵と渡り合う。難しい。激戦と死闘を絶え間なく繰り広げつつ、敵部隊を喰い止めては進む。 だが然し、敵の圧力は次第に増すばかりである。本軍の先鋒軍団が追い着いて来たのだ。軽騎兵ゆえに敵に弓矢攻撃が少ないのが、せめてもの救いであった。だが哀しい哉、多勢に無勢の根本的兵理は、時が経つに連れて、殿軍の上に
不利を生じさせていった。
ーー
万人ノ敵ニイ尓かなイ、世ノ虎臣ナリーー と謂われる張飛でも、この激闘の中、その部隊は無傷では居られなくなった。頼みの綱で虎の子の重装備騎兵達が徐々に力尽き始めたのである。息つく間も無い死闘が、涯てしも無く続いて来たのだ。50騎の猛者達も40騎となり、30騎となり、ついに今は20余騎にまで減っていた・・・・。
軍師の諸葛亮からは、長阪坡ちょうはんは迄は、何としてでも持ち堪えて欲しい!と厳命されている。そのダラダラ坂を登り切れば、其処に橋が在る。
ーー長阪坡ちょうはんはの橋を落とせ!其処で敵を長時間喰い止めよ!

その使命が課せられている張飛であった。・・・・だが、其れらしき川も橋も、未だ見えて来ない。ダラダラとした坂道は、一体どこまで続くのか!? 戦うのみである。
「急げ〜!早く俺達を追い越すんだア〜!」
残った手負いの20余騎は、命知らずの者だけになった。戦友の遺骸が彼等を憤怒の鬼にさせている。目茶苦茶に強い。
とりわけても
張飛益徳の強さは、人間業では無い。兎に角強過ぎる。1丈8尺(4メートル)の蛇矛(じゃぼう)一閃、周囲の敵は木偶でくの如くにあおのいては涯ててゆく。
「おお、おう、オリャオリャオリャアリャア〜〜
!!
丸で、この死地を愉しんでいるかの如き、気合の入り様である。
踏ん込んではぎ倒し、薙ぎ払っては2歩だけ退がる・・・・・。





「−−おう、あれは・・・・!!」
農作業小屋の一角に、見覚えのある車駕が横転し、無残に破壊されていた。
《・・・・ナムサン!》 無事であれかしと念じつつ、急行する趙雲。
 だが其処には阿斗も糜夫人の姿も無く、ただ数名の侍女達が深手を負い、息も絶え絶えに崩折れて居るばかりであった。
何人かは既に、血溜りの中に事切れていた。
「阿斗様は!?阿斗様はどうした!?」
「・・・・敵の手に落ちて・・・はと・・・・糜夫人が・・・・気丈にも抱えられて・・・・あちらの方へ・・・・」 と指さす力も無い。
夫人は、重臣・【糜竺びじく】の妹であり、甘夫人より若く気丈な
正妻”であった。今から12年前の196年ーー劉備は呂布に下丕卩城を急襲され、甘夫人は捕えられ、単騎で逃げ出す醜態を演じた。尾羽打ち枯らして逃げ込んだ劉備に、兄の糜竺が奴僕
2千人・金銀財貨を提供して、その勢力を盛り返させた。その折に妹の彼女を夫人として差し出したのであった。そして大富豪の令嬢として〔正妻〕に迎えられた。甘夫人は〔
〕であり飽くまで側室なのであった。その立場は、阿斗を産んだ今も変わらないが、両夫人は姉妹の如く仲睦まじかった。共に夫に見捨てられ、呂布や曹操の捕虜生活の辛酸も共有して来ていた。
《今こそ、若い私がお守りしなくては!》と、咄嗟に気転を効かせて、近くに身を潜めて居て呉れるに違い無い・・・・。
「この近くに井戸は無かったか!?」
「ハイ・・・・確か、アノ・・・ウラテ・・・・」顔見知りの侍女が、苦痛の底から最期の言葉を残して息絶えた。
「済まぬが、参るぞ・・・・。」せめて亡骸を横たえ伸ばしてやると、趙雲は再び騎乗してギャロップした。
《−−在った!》無人となっている作業小屋群の中央に、確かに石の井戸が存在した。
《どうか居てくれ!》 祈りつつ近づく趙雲。
と、その石積みの陰から、女物の裳裾が見えた。
「糜夫人様か!」
飛び降りる如くに覗き込めば・・・・其処には、袈裟懸けに深手を負って、井戸に凭れる痛ましい
糜夫人の姿が在った。
「−−嗚呼、趙雲どの!・・・よかった・・・阿斗様を、阿斗様を!」
いざとなれば、阿斗もろとも、一緒に井戸の中へ飛び込む覚悟であったのであろう。血染めの腕の中には、
阿斗がニコニコ笑っていた。
「おお、阿斗様、御無事だったか!!」
修羅の中、初めて趙雲に人間らしい表情が戻っていた。

「糜夫人様よっくぞ守り通して下された。御一行から眼を切ったは趙雲一生の不覚。お許し下され。さ、急いで私の馬にお乗り下され。相乗りして参りましょうぞ!」
糜夫人の胸から阿斗を抱き取ると、趙雲が励ました。

「いえ、私はもう駄目だと判ります。それより、何としてでも阿斗様を頼みます・・・・!」
「お任せ下さい。されど、命懸けで後主を守って下された、貴女を置いてゆく訳には参りませぬ。さ、共に参りまするぞ!」

その優しい心映えに、糜夫人の眼から一筋の涙が零れ落ちた。
「その御心遣いだけで充分で御座います・・・足手纏いに成っては兄にしかられます・・・・。」
苦しい息の下で、かろうじて立ち上がらせて貰った糜夫人は、ニッコリ笑って見せた。が、もはや血の気は無かった。
「私の代りに、阿斗様をお守り下さいまし!子龍にはとても良くして貰い、嬉しゅう御座いました・・・・。有難う。お別れします・・・・。」
言うや、若い命は、みずから井戸に手を伸ばすと、その暗渠あんきょに身を躍らせた。
「−−あっ!!糜夫人様!!」
止める間も無い、覚悟の死であった。
「−−・・・・!!」せめて遺体を陵辱されぬ様にと、上から廃材と石とで蔽った。 そして、小脇に咲き乱れていた淡い秋桜子の一輪を投げ落として、せめてもの手向けとする趙雲であった。が、冥福を祈る暇も無く、気付いた敵兵が襲い掛かって来るのが見えた。
「宜しいか阿斗様。今度はこの子龍がダッコしてあげまする。この胸の中で良い子にして居られるのですぞ。」
優しい眼差で、幼い命の温もりを抱き直すと、趙雲は戦袍の片胸を開け、胸当ての中へ阿斗をすっぽり包み込んだ。
ひらりと愛馬にうちまたがった趙雲が、キッと前方をめつける。
「さあ来てみよ!俺は今、尋常では無いぞ。この憤怒の槍先に容赦は無い!行く手を阻む者あらば、1人残さず冥土へやらへ送ってやろうず!
趙雲子龍ここに在り!!いざ参る!」

羅刹と化した趙雲は、やって来た先頭の1騎に自慢の朱槍を突き入れると、馬首を巡らして逃げるのでは無く、何とこちらから敵のド真ん中目掛けて、一気加勢に踊りこんでいった・・・!!

「殿、趙雲が寝返ったとの報告が届いて参って居ります!」
長阪の坡(だらだら坂の意)で橋を越え、どうにか一息つける地点にまで逃れた劉備の耳に、配下の1人が告げて来た。
「敵陣の方角に向かって唯独り、駆け去ってゆく趙雲の姿を見た者が多数おります!」
その報告に、周囲に動揺が走った。
「バカ者、何を言うか!!」
劉備は激怒して、手戟でその者を打ち据えた。
「子龍は男の中の男ぞ!わしを見捨てて逃げる様な人物では無い!もし子龍が裏切ったとしたら儂は此処で死んで見せるわい!
そこまで断言する劉備であった。 (この逸話は『趙雲別伝』に見える)
それにしても惨めである。余りに情け無い・・・・その己への怒りが部下の打擲となってしまったのである。
《関羽よ、張飛よ、趙雲よ。今どこで、どうしているのだ・・・・!?》
夫人や我が子の身の上よりも、先ず、それを思う劉備であった。
襲われたのは、敵の方であった。まさか単独で突っ込んで来るとは想っても居無かった。逆に攻撃部隊50余騎の方が奇襲を喰らった格好となった。流石に『
全身が是れ、肝っ玉』と謂われる趙雲子龍である。
狼狽うろたえるな!敵は唯の1騎ぞ!」言い合ってはみるが、集団は咄嗟に馬首を巡らせきれない。その本の僅かな隙を突いた趙雲の捨て身のが、鬼神と化して駆け抜ける。
「逃がすな、趙雲子龍と名乗ったぞ!」その相手が天下に名高い趙雲だと判るや、敵騎の眼の色が一変した。
「大将首じゃ!超大物ぞ!討ち取れば大手柄だぞ〜!!」
阿斗が(劉禅)が2歳児であった事が、かろうじての幸運であった。胸当ての中にスッポリ納まり、趙雲の戦闘能力を削ぐ事が殆んど無かった。あとは血煙街道まっしぐらである。後の敵には眼もくれず、ただ遮る前面の敵を全て突き倒すのみ。だが、後方の大騒ぎに気付いた前方の敵も、趙雲めがけて殺到して来る。前も後ろも全て敵だらけとなる。 斬り下げ突き崩し、突き刺しては斬り進むーー無我無心の大激走・・・・いつしか趙雲は右手に朱槍を左手には剣を持つ、最大の戦闘能力に達していたのである
その剣は実によく斬れる。乱戦の中、敵の勇将から奪い取った1振りである。−−途中、人馬ごと窪穴に落ち込んだ時、不覚にも落馬して朱槍を取り落とした。そこを切り込まれた際、思わず切り下げた此の剣の威力は絶大であった。何と鎧兜ごと、敵の体が真っ二つに成ったのである!妖しいばかりの切れ味であった・・・
のち、是れは曹操秘蔵の〔青訌せいこうの剣〕そのものであったと、雑書には書かれている。
倚天きてんの剣〕と対をなす名刀・天下の業物とされる。無論、伝説の類いである。
人の眼は後ろには無い。追撃の流れに乗りつつ逆行する趙雲の騎行は、想いの外のスピードを与えていた。不意を喰らって追い抜かれた敵兵が、それと気付いて次々と追撃して来るが、間道に入ったり、表街道に飛び出したり、出没自在な手綱捌きのお蔭で敵は大混乱を来たすばかり。
胸の中の「阿斗」は、泣き声1つ立てず寝入っている。時々眼を醒ますが、頭を撫でてやると安心した様に又、ウトウトする。状況が判る筈も無い赤ん坊ではあるが、激しい趙雲の動きにも大泣きせず、信頼しきってムズからない。
「良い児ですな、阿斗様は・・・・。」
幼君を気遣いながら駆け通すうちに、眼前の長いだらだら坂が、急にガラ空き状態となって来た。ーー難民達は既に散り散りとなって雲散霧消していたのである。そして足の速い劉備本軍だけが此の坂を越えていたのだった。こうなると、丸で
唯1騎の趙雲を、曹操の大部隊が追いかけているかの如き様相を呈していた。
往路・復路ともに奮戦に次ぐ奮戦であった。流石の超人も、そして愛馬も、疲労の極に近づきつつあった。その騎行速度が明らかに落ちて来ていた。本人は気付いて居無いが、背中には数本の矢が折れ刺さっている。見通しの良いダラダラ坂である。敵部隊の馬蹄の轟きが背後に迫り、その両者の距離が見る見る縮まってゆくのが、手に取る様に視認できる。もし今、脇道から敵の数騎でも現われたら、今度ばかりは終わりである。愛馬の疲労骨折が起きても事は終わる。危うし趙雲子龍!幼君・阿斗の命運も是れまでか!?

ーーと、前方から懐かしい割れ鐘のバカ笑い・・・!!
「お〜い、趙雲!何をノンビリ★★★★やっておるんじゃい。早く来んかい。報告を聞いて、ハラハラして居ったぞ〜い!」
張飛】がカラカラと笑っている。
「甘夫人は!?」
「おお、既に無事に此処を通られたわい。お主に感謝して居られたぞ。−−で・・・?」
「この中に。」 己の胸懐を指す趙雲。
「おお、眠っているではないか!こりゃ、大物に成られるぞ。うん、でかしたな子龍!!よし、あとは俺に任せて置け。お主は早く橋を渡れ!ひと暴れしたら、こいつを落とす!」
「頼みまする。」
「心配無用じゃ!後ほど又、会おうぞ!」

趙雲ハ身ニ幼子おさなごヲ抱イタ。すなわチ後主デアル。
 甘夫人ヲ保護シタ。乃チ後主ノ母デアル。
 両方トモニ 危難ヲまぬがレル事ガ出来タ。

                        −−『
正史・趙雲伝』−−
                  
この
当陽長阪坡の戦いで、趙雲子龍の愛
なくば、主君・劉備は、夫人と我が子の両方ともの命を、全て失う処であった。
彼のこの至誠の行動は、永く後々まで人々の心に焼き付いて、忘れ去られる事は無かった・・・・。
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