第134節
曹魏百万、篝火赤し
                                       青天の霹靂
荊州〕が、英雄どもを呼び寄せた・・・・!
時に建安13年(208年)、風雲は急を告げている。【曹操】が【孫権】が【劉備】が、虎視眈々と荊州の地を狙う。【周瑜】が【諸葛亮】が、それを唆かす。欲望に取り憑かれた男達の力と智謀が荊州の地に交錯する。そして、その激突が12月に起きる。赤壁の戦いである!!

1月ーー曹操、烏丸族を討伐し、万里の長城から業城に凱旋。
       (華北の完全制覇成る)
       玄武池にて水軍をす。三公の官を廃止する。
2月ーー孫権、仇敵・黄祖を討つ。(荊州進攻の緒につく)
6月ーー曹操、丞相となる。(決戦体勢整う)
7月ーー曹操、大軍を擁して荊州への進撃を開始。
8月ーー荊州牧・劉表死去 (争奪の修羅を見る事無く逝った。享年66)

さて、その隣の呉国ではーー君主・孫権が、劉表の葬儀への参列の為に、重臣呂粛の派遣を決めていた。と言うより、呂粛が提案し、みずから其の役を買って出たのである。
無論それは口実で、目的は情報収集・荊州情勢の把握、そして真の狙いを、呂粛は孫権に告げる。
荊楚の地は我が国と隣接し、川の流れは北方と繋がり合っており、その外側を長江と漢水とが取り巻き、その内側には険阻な山や丘陵が在って、金城鉄壁の堅固さが備わっております。然も、沃野は万里に渡り、士人も民衆も豊かであって、もし此処を領有されますれば、これぞ帝王たるべき資本と成るので御座います。
いま劉表が死んだばかりで、その2人の息子は平素より仲が悪く軍中の部将達も、夫れ夫れ両派に分かれて居ります。
 それに加えて、
劉備と云う一筋縄ではゆかぬ天下の英傑が、曹操との間が上手くゆかず、劉表に身を寄せましたが、劉表は彼の才能を憎んで、充分に彼を働かせる事が出来ませんでした。
今後もし劉備が、劉表の息子達と心を合わせ、上の者から下の者まで1つにまとまってゆける様でしたら、彼等を手なづけ、
荊州との同盟友好関係を結ぶ
のが宜しいでしょう。
然し、もし彼等の間がガタガタする様でしたら、それに対応すべく新しい計略に出て、大事を成し遂げる足掛かりとされるのが宜しいかと存知ます。
どうか私に、劉表の2人の息子の所へ弔問に参るよう御命令をお下しください。さすれば私は、弔問を行ないますと同時にその軍中の有力者達を訪ねて労い、加えて劉備には劉表の軍勢を鄭重に扱って其の心を掴み、みな心を1つにして、
共同して曹操に対処するべきだと説き付けます
劉備は喜んでこの言葉に従うに違いありません。もし、是れ等が上手く行きましたならば、天下の平定も可能と成って参ります。今
急いで行きませぬならば、曹操に先んじられてしまいましょう。


【孫権】
は、これを採用した。【周瑜】の戦略とはやや異なる方向ではあるが、この際、保険を掛けて措くのも必要と判断したのである。衆目の観る処、近い将来必ずや、曹操軍の襲来が予想される。荊州が陥落すれば、次は呉に鉾先は向くであろう。だが、これまで孫権は、曹操に対する国家の意思決定を行なう〔御前会議〕の開催をわざと先延ばしにして来ていた。張昭らに急っ突かれても、「未だ其の時期では無い!」と突っ撥ねた。ーー何故なら今、御前会議を開いて諮問すれば、国論は圧倒的多数で〔曹操への帰伏〕に傾くに違い無かったからである。6年前に、曹操から人質要求を受けた時とは、天下の情勢は全く様相を異にしていた。今回は、よりシビアに成っていた。
国が亡び去るか否か!?》・
己が生き残れるか、死に涯てるか!?》・・・・の分かれ道であった。簡単に言えば、追い詰められた崖っ淵である。
 この6年の間に、確かに呉の国力は格段に増強されてはいた。だが曹魏の其れは、比較にもならぬ程の巨大さに膨張していたのであった。曹操軍は何と80万の大軍を擁すると噂されている。その背後を脅かす様な敵対勢力も皆無である。荊州が陥ちればその勢力は100万!とも成ろう。全力で向かって来る100万の大軍と戦って、一体、勝機は有るのか・・・・?呉軍が全力を結集しても、精々10万余である。是れが現実問題なのだ。
−−勝てっこない・・・・。
かつては要求拒絶派だった部将達の中ですら、悲観論が日に日に強まっている。身内にさえ、帰順して己の延命を図ろうとする空気がかんじられる。
「相手は朝廷軍ですぞ。無益な足掻きは止めて、朝命をかしこみ恭順するのが最善の方途でありまする!」
元々帰順派の文官グループは、得たりとばかり自説を展開するであろう。今や呉政府内は、悲観論・帰順派が主流である事は否めなくなっている。恭順と言えば聞こえは良いが、結局
降伏である。孫権を見限り、曹操に鞍替えして、新君主に仰ごうと云う事に他ならない。・・・・黄祖を討った時の、あの一体感、天を突く様な意気はすっかり影を潜め、呉国幕府の空気は重苦しく、陰鬱な様相を呈し始めていた。勿論、徹底抗戦を主張する者達は居る。部将の1部と周瑜・魯粛であった。だが現在、【周瑜】は此処には居無い。己の信念に基づき、自分は自分で、来るべき時に備えようとしているのか?中護軍を率いて番卩陽湖に駐屯し、日々水軍の猛演習に励んでいるのだった。
となれば、御前会議では
魯粛は孤立し、針の蓆に座る事となる。特に帰順派の代表である重鎮の【張昭】の舌鋒は、此処を先途とばかりに凄まじいものとなろう。実際、近頃の会議に於いては、名士の資格も無い魯粛に対し、常日頃からの反感を隠そうともして居無い。土台、漢王室を蔑ろにする魯粛が許せない。それを孫権が重用するのが又気に喰わない。その憤懣や鬱憤が、魯粛1人に集中砲火となって浴びせられていた。だから、如何に図太い魯粛とは言え、近頃は口を噤んだまま発言もしない。魯粛とすれば、結果が見え透いている様な不毛な論議を、今さら蒸し返しても詮無い事と諦めて居たのである。ーーだが、そんな魯粛を支え続けて呉れているのは、孫権の信頼であった。若き君主からの信頼の強さを、肌に感じられるからであった。
当り前だが、孫権は降伏など絶対にしたくない。問題は、現実が其れを許すかである。国論の大勢は降伏論だが、魯粛は大丈夫だと言う。おのずと魯粛を頼みにする。魯粛と周瑜だけが頼りである。孫権・周瑜・魯粛は若い世代である。未知の局面・新時代の到来にどう対応すべきかと云う、ヤング vs オールドの
ジェネレーションギャップでもあった。
然し、実は・・・周瑜と魯粛の見解も対立していたのである。2人の間には、その抗戦の方策に於いて、厳然たる隔たりが存在していた。
〔政事力〕〔軍事力〕のどちらを優先させるかの違いである。と言うより、両人の置かれて立場上、夫れ夫れが己の使える範囲の力を、如何にして最大限に発揮し得る舞台設定へと持ち込むかーーと云う違いであった。
端的に謂えば、
劉備をどう扱うか?の違いである。
兵馬の権を持たぬ
魯粛は・・・・劉備を第3の勢力として取り込み、曹操に対抗させる力を与えようと、政治力学中心の3極構造の成立を目指す。それに対し、総司令官として常に最前線に在り、戦争の何たるかを肌で識る周瑜は・・・・曹操の襲来を、一旦己の軍才で喰い止めた上で、南北の2極構造の成立を目指す。劉備の存在など不要とする。いや寧ろ、己の構想にとっては邪魔で危険な人物であった。劉備などは抹殺し、スッキリ独力で戦うべきだと考える。せれでも勝てる、と云う冷静な軍事的確信が有るのであった。それを裏付け、保証する〔或る重大な情報〕を掴みつつあったのだ。更に、魯粛との決定的な違いーーそれは、呉による天下統一の大構想を秘めている気宇の壮大さに在った。 魯粛は天下鼎立を以って完了とする。だが周瑜の胸の裡に有るのは、飽くまで全国制覇なのである。その大構想に立つ時、劉備は厄介な存在となるのだ。
《魯粛は、劉備なる男を買い被り過ぎている。一体、今の劉備にどれ程の戦力が有ると言うのだ?あの底知れ無い”空鳥”(ぬえ)の如き人物を、絶えず警戒しつつ共同歩調を取るなど、みずから厄災の種を蒔く様なものではないか。》
ーーその
劉備・・・・確かに胡散臭く、周瑜に警戒される経歴を持っていた。己の都合で6回も相手を取り替え、見捨てたり裏切ったりして来ている。少なくとも劉備と関わりを持った者達の殆んどが滅亡している。《・・・・あいつは疫病神ではないか・・・・?》
公孫讃を振り出しに、陶謙・呂布・袁紹・曹操そして劉表と、6人を盟友としては立ち廻って来た。ふてぶてしいと言うか、しぶといと観るか・・・・〔胡乱な奴〕−−と云うのが周瑜の劉備観であった。就中なかんずく、最後の劉表の元では、荊州乗っ取りを画策していた節が濃厚である。そんな野心家で自分勝手な人物は、到底信用出来ぬと云う訳である。

〔徹底抗戦〕と云う基本姿勢では一致するが、周瑜と魯粛には、こうした政治家と軍政家の本質的相違が在ったのである。だから、武人では無く、直接軍に己の影響力を行使できぬ魯粛にしてみれば、呉の滅亡を喰い止め、曹操の野望を砕く為には《政治力》に血路を見い出すしか無い・・・・即ち、呉と荊州の同盟こそが、緊急最優先の課題となる。その同盟交渉こそが、魯粛の荊州行きの最大の目的となるのであった。
《呉の生き残る道は唯1つ・・・・3つの勢力に拠る南北対峙・2対1の3極構造に頼むしか無い!》
その実現こそが、魯粛の使命感・生き甲斐である。才腕の見せ所と言える。だから、己の夢を実現させて見せる為には、其処に出向かなくてはならないのだ。前向きに、強い意志を持って臨むのだ。孫権は自分を信頼し、是れを認めて呉れた。是が否でも荊州で、曹操に抗する勢力を立ち上げさせ、確保しなくてはならない。
ーーだが・・・・事前情報は、どうも芳しく無かった。新しく跡目を継いだ「
劉j」は、その同盟相手としては望み薄であった。取り巻きの「萠兄弟」らは親曹操派・投降論者であると聞く。
名士なんて奴等は、どこでも皆んな、同じ発想をしやがる・・・・
それに対し、絶対に曹操の下には就けぬ人物が居る。やはり劉備である!捕まれば確実に殺されるだけの因縁を繰り返して来ている。周瑜と異なり魯粛は、劉備をそう観る。
《敵の敵は味方であり、味方にすべきだ!》 と。



呉国生き残りの屋台骨を自負する魯粛は今、部屋の中での不毛な議論に見切りをつけ、周瑜にも秘匿した上で、敢然、
単独行動に出たのであった。

呉の本営「●柴桑」を発ち、船で「●夏口」を経て長江を溯り、
荊州の要衝・
●江陵に上陸した。次には更に北上して、
180キロ先の州都・【■襄陽】を、そして目指す〔●樊城〕に至る予定であった。
ーーだが・・・・その矢先であった!魯粛は此の江陵で、
歴史の大激震に見舞われた
のである。
「しまった!遅かったか!?」
この時すでに、曹操軍80万は、荊州内へ雪崩を打って侵入していたのである
!!
2月の黄祖討滅が、曹操を刺激したのは確かだ。孫権如きに先を越されて堪るか!であろう。それにしても、予想を遙かに上廻る迅速果敢さであった。
「ーー何て野郎だ!あの男は地の涯て迄いって来たばかりではないか?きのう万里の長城を北に越え、きょうは南に荊州を侵す
・・・・曹操は人か魔か・・・!?」
焦り、急ぐ魯粛。だが、そんな彼の北上を阻む様に、逆に南下して来る大洪水があった。50キロ行った先の
●当陽で、魯粛が遭遇したのは・・・・大地1面を真っ黒く覆い尽くす、避難民の大洪水であった。その数、10万以上ーー噂に聞く曹操のホロコーストから逃れ様とする、民衆の渦であった。大パニック陥り、荷駄を引き、泣き喚きながら、大渋滞を惹き起こしていたのである。押し合いへし合いしつつも、その亀の如き前進速度に苛立ち、おめき罵り合いながら、その人間の奔流は未だ延々と尾を引いて、果ても見えない。《−−マズイ、まずいぞ、是れは・・・・!!
この大群衆の海の中から、目指す相手を探し出すのは至難の業である。
「劉備殿を知らぬか?劉玄徳殿の姿を見た者は居らぬか〜!」
手当たり次第に訊ね問うが、所詮無駄であった。だが、曹操に追い着かれたら万事休す。一刻を争う。
いかん、いかんぞ!劉備殿には生きて居て貰わねば困るんだ!
大事な大事な、曹操への対抗者である。いざと成れば、兵力を貸し与えてでも協力させよう、とさえ考える魯粛である。
血眼になって居場所を探し廻った。供の少人数で手分けして探しまくること半日・・・・やっとの思いで魯粛は、目指す劉備との接触に成功した。難民の渦の中、軍団★★とは言えぬ2、3千の少部隊★★であった。その
劉備・・・・・
迂闊うかつと言うのもはばかる様な、余りにも迂闊過ぎる為体ていたらくであった。その最大の原因は、情報戦に抜かりがあった、と謂わざるを得無い
・・・・曹操の襲来を、鼻先に来られるまで全く気付かずに居たのだった。いずれ来るーーとは誰しもが予想する中での、このザマであった。危機回避能力・危機察知本能だけで生き延びて来た様な、是れ迄の劉備らしくもない。又それは、諸葛亮の未熟さもが露呈されている。反面、曹操の機密保持・高度な情報操作・諜報管理能力が際立つと謂うものである。曹操にしてみれば、「してやったり!」と云う処か・・・・。

劉備が最初に劉表から貸し与えられていた居城は、荊州最大の都邑「新野城」であった。出来るなら州都にしたい大都市である。だが余りにも北寄りに位置する為、曹操の直ぐ裏庭とも観られ、こっちには其の気は無くとも、戦乱に巻き込まれる恐れが有った。そこで州都は、更に南へ70キロの「襄陽」とし、劉備には州都の防波堤・犠牲の楯と成って貰おうと云う腹であった。然し時局は急転回の兆しを見せ、曹操軍の脅威はより具体的なものと成って来ていた。病床の劉表は、気が気では無くなった。曹操の来襲と、劉備の背信との二重の不安に苛まれ始めた。特に劉備の動向と其の経歴に猜疑を深めた劉表は、彼を自分の眼の届く近くに呼び寄せる事にした。彼からは新野城を取り上げ、ずっと手前の「樊城」へと移動させたのである。
樊城はんじょう】は、州都「襄陽」の対岸都市である。漢水を挟んで、現代では1つの「襄樊市」と成っている程の近さに在る。当時は軍事専用の城郭都市で、州都防衛の為に設けられていた。劉備の勝手な動きを封じ込め、襄陽の楯として、共同行動を採らざるを得無い位置に引き寄せたのであった。だから諸葛亮が”出盧”したのも、この樊城であった。
勿論今も、劉備主従は其の樊城に居た。城の格は新野城より数段劣るが、此処には1つだけメリットが有った。−−”
水軍”である。長江の大支流・漢水に臨んで北岸に位置する為、水軍を擁していた。従って劉備は水軍を握り、艦船の使用が可能に成っていたのである。劉備は諸葛亮の進言により、関羽に其の水軍の全権を委任した事は既述した。

ーー
9月・・・・その【樊城はんじょう】に衝撃が走った!
曹操軍80万、来襲せり!!
然も既に、ここ樊城の北120キロの宛城えんじょうを進発していると
云うではないか・・・・!
     
ーー
まさに、青天せいてん霹靂へきれきであった!!
快速騎兵軍団が駆け通せば、僅か1日余りの距離でしか無い。劉備も関羽も張飛も、そして趙雲も色を失った。諸葛亮すら一瞬立ち竦んだ・・・・。
「どうしよう・・・!?」劉備は、縋る思いで諸葛亮を振り返る。

「この胸に策は御座いますが、今は何をさて置いても、直ちに向こう岸に渡りましょう。後の事はそれからです。」

そして諸葛亮は、時間を稼ぐ為に関羽に指示して、漢水の水軍を全て襄陽側に移す措置を講じた。その上で樊城を引き払い、漢水を南岸に渡ったのであった。
ーーするや、何たる事か!避難の為に右往左往していた万余の群衆が、劉備の来着を知ってドッとばかりに一行の周囲を取り囲んだのである。そして口々に劉玄徳の名を唱えながら、丸で守護神を拝み倒すかの様に、救いを求めて取り縋って来たのである。
「我等を御助け下され〜!」「曹操の皆殺しから我等をお守り下さいませ〜!」「一緒に連れて行って下さいまし〜!」
その叫びにも似た声は、寄る辺無き民草の必死の訴えであった。何処でどう知ったものか、庶民は既に、曹操の襲来を知っていたのである。そして生き残る為には土地も家も捨て、僅かな家財だけを携えて難民と成る決意をしていたのであった。そして其の民衆の群れは、見る見るうちに物凄い数に膨れ上がってゆくのだった・・・・・。

この間の状況を、『
正史』は次の様に記している。
曹公南征表。會表卒。子j代立。遣使請降。
 先主屯樊不知★★曹公卒至。至宛乃聞★★之。
 遂将其衆去過襄陽。

「曹公(曹操)南のかた(劉)表を征すたまたま表卒す。子(劉)j代り立つ。使を遣わして降を請う。
先主せんしゅ
(劉備)はんに屯し、曹公のにわかに至るを知らず(曹操が)えんに至りてはじめて之を聞く。
ついに其の衆をひきいて去って襄陽を過る。」


この〔ドタバタ劇〕の理由についての考察は、既に【第121節】で観て措いたが・・・・史書に拠る限り(孔明ファンには申し訳無いけれど)、ーーどうも諸葛亮の思考の底には【組織的情報収集】と云う1項目が、生涯に渡って軽視(欠落)され続けている様に思えてならない。若いから、この場合は失態した・・・・と云うのでは無さそうだ。敢えて筆者は、諸葛亮の根本的欠落と言い切ろう。無論、情報収集が皆無であった筈もないから、他国の軍師クラスの者達との比較に於いて、と云う意味合である。彼は蜀漢建国後も、諜報部局を置いてはおらず、全て己独りの私的手蔓(密偵)で取り仕切っている。詰り国家として情報網を組織・機関化して居無いのである。多分それは天才故の不必要さであろう。己独りの明晰な頭脳の裡だけで、全て物事を的確に見通して、それを解決し得たからこその自信の現われでもあろう。−−然し、如何な天才と雖も、1個の生身の人間である。中国全域の事象を、頭脳の中だけで全て察し切る事は、不可能事と云うものであろう。だが、過信とは言うまい。大天才ゆえの盲点、人間としての人間らしさ・・・と観るのは不当であろうか?
 少なくとも今、諸葛亮孔明は、情報戦には敗れたのである。


ーーこの後、諸葛亮は、劉備の下問に対しての答を開示して見せた筈である。

「戦術としては、
上・中・下の策が在りまする。その上策は、直ちに襄陽城に乗り込んで劉j殿を攻め立て、その軍権を奪われる事です。さすれば荊州を支配でき、曹操にも対抗し得ましょう。但し是れは飽くまで戦術上での事。反対に世の評判は最も悪くなりましょう。」
「・・・・
中の策とは・・・・?」
「直ちに我等全員が”関羽水軍”に乗り移り、このまま漢水を下って《江陵》へと避難する事に御座います。」

江陵』は、荊州軍事の心臓部である。ーーもし敵の侵攻あらば、南に退いて江陵に立て籠もる・・・・その準備として、莫大な武器と弓矢・軍糧米が備蓄されているのであった。更に、万が一の場合には、水軍に乗り移り、長江上に出てしまう。何と言っても江陵は大小1万艘の艦船を擁する、中国最大の水軍事基地なのだ。
ーー然し、と諸葛亮は続けた。
「然し此の策は、曹操の暴虐に恐れ慄く民の災難を見棄てる事となり、敵を前にして1戦にも及ばぬと云う事実を残す事ともなり、民衆の期待を裏切る事になりまする。」

「・・・・ム、で、
下の策とは?」
「軍師としては最も避けたい、無策に近いものになりまする。即ち陸路を民と共に南下して江陵に向かうと云うものに御座います。この場合、途中で曹操の騎馬部隊に追い付かれ、生きるか死ぬかの1戦を交えなくてはならない可能性が非常に大きいでしょう」

「・・・・その下策を、もう少し詳しく話しては呉れぬか・・・・。」
劉備の問いを予想して居たかの様に、諸葛亮は「はい」と答えると、より具体的な戦術を示すのだった。
「江陵へ直行する”
素振そぶり”を致すので御座います。」
素振そぶりとな?」
「左様で御座います。
素振そぶりで御座る。」
諸葛亮は、一同の面前に地図を開いて、その詳細を述べる。

「申す迄も無く、江陵は荊州1の軍事物資の大貯蔵基地であり、巨大な水軍基地です。水軍を持たぬ曹操は、何を差し置いても、一気に江陵を目指しましょう。又、大遠征の兵糧を確保する為にも、そうするでありましょう。焼き捨てられるのを最も恐れて居るのです。ですから歩兵本軍は後から寄越し、自身は高速の騎兵部隊を率いて、他には一切目も呉れず、先ず江陵の占領を最優先させる筈で御座います。」
劉備は勿論、関羽も張飛も、そして趙雲もうなずく。

「我々が矢張り江陵を目指すと知れば、曹操は厳命として、途中での交戦を禁じましょう。劉備の首を取る事よりも、江陵を取る事の方が重大なのです。我々に追い着いたとしても、本気で戦う事をさせないでありましょう。若干の囮兵を用いて大軍と見せ掛け、南下させれば済みまする。」

その先は・・・・!?と、一同が諸葛亮を見る。
「万一遭遇しても、我々は逆に、人民の洪水に守られる格好かっこうとなり、被害は少なくなる事でしょう。恐らく、曹操の略奪や暴虐を恐れる避難民の数は、殿の仁徳を慕って、今の何倍にも増えると思われます。」
「−−・・・・。」劉備が何か言おうとしたが、止めた。諸葛亮はそれを確認すると、更に続ける。
「その代り、我々の速度はガタリと落ち、必ず騎馬部隊に追い着かれましょう。恐らく●
当陽辺りで遭遇するかと思われます。
いえ当陽で追い着かせるので御座います。」 

                             (※魯粛が劉備一行を探し廻った地点)

一同、ゴクリと咽を鳴らせた。「その時こそ、南下をやめ・・・・」
諸葛亮の羽軍扇が地図上で右に振れた。
「東進する!」 オオウと云う、声に成らぬ声が漏れた。
「東へ進み・・・・漢水の岸まで逃れまする。」
そこで諸葛亮は、関羽へと向き直った。
「関羽将軍!貴殿は樊と襄陽の水軍を率い、我等が向かう漢水の岸に先廻りして、我等の到着を待ち受ける。我等の命運は1に掛かって、関羽水軍との合流の成否に委ねられる事となる・・・・」
「常々軍師が、水軍の掌握に意を注ぐよう言われしは、この事であったか!」 関羽が唸った。
「関羽水軍によって漢水を東岸に渡り、以後は陸路と水軍にて
●夏口を目指す。」
「おお、そうか!劉g殿と合力するのですな!?」
張飛が合点した。「更にその後は・・・・劉g殿の軍兵を手土産に孫権殿と手を結ぶ!」一同は感嘆の面持ちで諸葛亮を見詰め直す。そして次にはおのずから、その視線は主君・劉備の顔に注がれた。果して劉備は、上・中・下の3策のうち、一体どれを選択するのであろうか!?
「−−−・・・・・」 だが、腕組みした劉備は、ジッと瞑目したまま、即答する気配は無かった。


※ ちなみに『三国志演義』では、この樊城撤退の以前に、孔明を大軍師として鮮烈デビューさせている。【第39回】では例の〔博望坡の火攻め〕で夏侯惇・于禁10万の軍を撃退させ、【第40回】では新野城の〔空城の計〕・〔火攻め水攻め連続攻撃の計〕を以って敵10万を味方3千で殲滅させてしまう。無論フィクションで、39回の時には孔明は出仕して居無いし、40回では新野城には誰も居無い。
 ま、其れは其れでよいが、本書は今後もずっと、諸葛亮孔明に対しても、公平公正な態度で臨む事としよう。過大で早尚な期待は、却って礼を失しよう。



ーーさて、ケタ外れのダメ男で在り続けて来た48歳の劉備は、一体、この人生最悪の窮地を、軍師・孔明の示した上・中・下3策の内から、どれを選択して乗り切ろうとするのか?又、どんな理由で選択を行なうのか?そして更に、其の策は劉備にとって、果して開運の始業と成り得るのであろうか?


一刻の猶予も無い。
曹軍100万の馬蹄の轟きは、
僅か1日半の近さ
にまで迫っているのであった! 【第135節】凄絶!開運の始業(逃げよ、明日無き同盟者)→へ