ザ・日本人
     かつて 日本人は、皆んな 農家に 生まれ、そして 育ったのだ。



           稲作田圃
   農業は芸術であり、稲と繭は、人々の 愛と汗と 祈りの 結晶である

田起こし
冬が明けて、田の面に春が来ると、田圃には先ず、一つの作業がある。
『田打ち』(ダブチ)と言う。一般的に謂う【田起こし】である。柄の長い三本刃(ミツッパ)鍬でポックリポックリ一鍬一鍬、日んがな一日中、家中で幾日かかっても全田圃をやってしまうのである。が、馬の在る家は【馬耕:ばこう】と云う事が出来る。馬の利発さが良く解る作業である。
馬の鞍から後方へ縄綱で馬耕の「鋤:すき」と云う代物を付ける。底が尖った鉄板で出来ていて、馬が前進すれば自然に地面に喰い込んで、地面を犂(す)き起こし行く作用をするのだ。
差換え手さえ左右に動かせば、左スキでも右スキでも自由に出来るが、この使い手に成るには修練が要る。慣れない者では、馬の速度に合った地面への突っ込みが出来無いので、犂がズズズズッと浅掬いのまま進んでしまったり、深く突っ込み過ぎて、馬が進めなくなったりする事ばかり繰り返していて、後で「三本刃」で以って、人が一々打ち直して歩かねば ならなくなる。
そんな所ばかりアチコチに一杯作られたら、後に田植え・代掻きの折、作業に差し障りが出て来るのだから困る。
父や兄がやると、まるで軽々と只、馬の後を従いて歩いているばかりの様に楽々と見える。田の土が、馬の後ろから面白い様にひっくり返っていく。
だから、その時期になると、馬持ち衆は他所の家に依頼されて、幾日も働く日が出来る。勿論、日当の御礼は下さるが。
そして母や姉は、田の隅の方で、馬では小廻りが効かない部分だけを、三本鍬で「田ブチ」をして、済ますのである。

此処まで話して来てみて、【馬】が 農作業に 如何に大きな役割をしていたか を つくづく思う。まとめて馬の残り話でもしよう。
俺の幼かった頃と、大きく成ってからとでは、馬に対する処し方も大分変って来た。幼い頃は人馬一体で、母屋は馬も含めての家であったのである。
つまり、馬屋(厩・馬部屋)の在る家には必ず(母屋の一画に)馬飼室を含む「デエドコ」と呼ばれる土間空間が在ったのだ。(※ このデエドコは”台所”の意では無く、デエジなトコ=大事な処の意の呼称。)
其処には「大戸:オオド」と云う、家作の中で最大の戸が在った。
即ち、馬を飼う室は、二間(約4m)四方以上あって、地面より馬の背丈位に 掘り下げた土間にしてある。それが一ヶ年中に貴重な【馬肥】が造成されて、地面を越す程に成るのだ。ウマヤの出入口には「マセン棒」と称する太い棒が一本、馬の出入りを支えている。幅一間(約2m)位に取った太柱に、三、四段の穴を開けて、出す時・入れる時は、そこを外して行うのである。飛び越すには高過ぎ、潜るには低過ぎる所に位置させて措く。
その前方には地続きで、馬飼室と同じ位の広さの土間が在り、其処は諸道具、雑多置き場である。普通そこには大釜(五右衛門風呂の底にある釜)の握った竈:かまど、カイバを伐刻する押切器:ケエキリ、馬の鞍置場、鶏の夜どまり棚、農具置場(鎌、鍬、マンガ鍬、草履鎌などなど、その他一切)、そして張り出した縁側の下は揚げ蓋になっていて、ランプ用の石油缶など在るのである。そして外界との境に、その「大戸」なる物が在る。
子供には動かせない重量のある大きな物で、その真ん中に、人間だけが 出入り出来る 「くぐり」 と 云う、丁寧にも障子と雨戸が二重に付いた三尺に四尺位の出入り口が取り付けてある、 "分厚い戸" と 言うか "移動壁" と でも言いたい代物がある。夜が明けると之を開け、夕方になると之を閉じるのである。
ああ、一つ大きな忘れ物があった。風呂場である。風呂桶が厩に近く据えられているのだった。そして家中が食事する部屋・『オエエ』 は、『デエドコ』 と障子一枚隔てただけである。だから食事時に、馬が放尿する音は 勿論 聞こえるし、風呂に入って居ると 馬の鼻面が出る。止まり木に眠っている鶏どもが 寝声をするのも 聞こえるのである。
                        
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代掻き(しろかき)
さて、話しを戻そう。春になって「馬耕」(田打ち)が済んだ田圃へは、今度は【馬堆肥:うまごえ】(メエノコ)が 運び込まれる。それには先ず、「肥出し」 を行う。そして、掘り下られた馬屋の土間に 一年分たまった馬堆肥が、すっかり搬出される。空っぽになった地面露出の「ウマヤ」には、馬が気持よく休める様に、藁を一杯に敷き詰めてやるのである。それが 次年度の 堆肥第一号と成って、一番底に沈む訳なのである。
これから後は、女子供の作業である。田圃には そろそろ水が 用水から引き込まれて、土塊の底部には 水がジクジクと 来ている。
その田の中へ踏み込んで、馬の背で運んで 田の 此処 あそこに何十ヶ所と小山になっている 「馬堆肥:メエノコ」を手で 無理離して 散らばすのである。
あの馬が、あの体重で、一ヶ年かかって 踏み固めて呉れた、馬尿と 馬糞と 青草と 藁のミックス製品だ。何とも大した代物である。
この散布作業は、中々手間が懸かる。10枚の田圃全部終るには何日も懸かるが、一日で手の指から掌から黒黄色いドスと言いたい色に染まり、幾ら石鹸で洗っても落ちばこそ、致し方ない。
完了した田には水を張り、土塊が見え隠れ程度にする。
【代掻き】だ。馬の無い家は家中で出揃ってゴッチョゴッチョ、ゴッチョゴッチョ足踏みの、やや進行形と云う運動が始まる。これはエライ事だ。
馬の有る家で、然も「代車」の在る家は大いに楽をする。代車と云うのは、細い鉄製の輪車を一本の軸に10箇程(確実には覚えていない)連ねたノを2軸付けた車の上に板を張った物を、馬に曳かせて田の中を捏ねくり廻すのだ。(その10×2=20個の重い輪車と、馬の4個の蹄が、田の土塊を捏ね潰す)
その板の上には大人が乗って、馬に曳かせる舵を執るのである。代車の買えない、馬だけの家では、馬に長い綱を付けて、鞭を持ち、ハダカ馬に田の中を踏ませるのだ。馬が人の周囲をグルグル何周も廻るノを繰り返す訳だ。
俺達は石の代りに、楽しみながら、大人に利用されたのだ。と言うのは、父と一緒に代車に乗って、その肩に掴まったり膝に座ったりすると、重量が増すから石を乗せる代りになるのであって、俺達から言うと、広い水田の真っ只中を舟に乗った様な気分を味わうのだった。友達に頼まれては、父や兄に同乗の許可を取ってやったものだった。
「一番代:ジロ」「二番代」と云う様に、重さの必要度が変化するのである。何時どんな時でも、どの田の時でも同乗させて貰えると限らないから、前以って父達に相談かけて措かねばならなかったのである。代車の有る家は、そう何軒も在ったのでは無い。
一番代が終ると、田の畦(土手)に茂り出した青草が、田の中に刈り込まれ、山や川端、辺りの新しい若芽が、鎌で刈り取られて投入された。”カツチキ”と言って 「カツチキ採り」 は 一種の 肥料作り の 年中行事だったものだ。
その当時は、肥料と謂えば、田に入れた藁や青草や青若葉を腐らせる為の「石灰」があっただけと記憶する。金肥(金銭で購入する科学肥料等)と云う物は無い。馬の堆肥の無い家は、冬の田に藁と土を交互に積み重ねて置いてそれを散布したのである。

            
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馬との暮らし
その第一の「馬堆肥」の作られる過程だが、(それはエサを与える事と殆んど同義なのであるが)それこそ四季折々で 異なっていくのである。
【冬季】・・・青草の出るまでの冬期間は、秋に刈乾した”乾し草”が ウマヤの天井にギッシリ蓄えられてある(父・兄の秋の作業)。その乾し草と藁が、毎日「オヤツ」代りに馬屋一杯にバラ撒かれる。馬は その中の 好きな草を 好きなだけ食べて、残りは自分の寝床にしてしまい、翌日は自分の尿と糞で堆肥に踏みつけてしまう。そして翌日は又 翌日で、飼主が奉仕して呉れるのだ。
その外、三度の食事は 別に与えられる。何かで出動させられる折は別だが、普通は 「ケエキリ:押切器」で藁や乾草の上等の所を刻み、「フスマ」 と云う 麦の脱穀皮を粉末にした物を購入して来てあって、それを混ぜて「カイバ桶」に入れて与えられるのである。
【春から夏】にかけての青草の時期になると、父や兄は朝の作業として”一ダ”(馬の背にビッシリ荷着けした6把のこと)は必ず刈って来てでないと、その日の仕事には入らぬと云う激しい労働に入る。そして其れを「馬の飼料」兼「堆肥」として、馬屋に投入用意をする。
その1把たるや素晴らしい量で、完全に1、2日は使える。詰り早朝、馬は自分の「オヤツ刈り」 に 付いて行って 刈って貰い、背負って来る と云う訳になり、それが人間にとっての ”堆肥” にも成る と云う訳である。だから夏分は一日に2度程、水をバケツで「飼桶」に汲んでやるだけで、結構のどは渇かぬで済むらしい。激しい作業時には”大豆”を茹でて呉れたり、特別の折には「モミ:籾」の下等物など御馳走してやる折もある。
本当か人間の勝手な言訳かは知らぬが、『余り旨い物を喰わせると”ネエラ”(病気の一種)になる』と謂われていた覚えがある。従って野原も木の無い原野も、農家にとっては大切な代物の宝庫なのである。
そして【秋】には《干草刈り》が、馬持ち農家の大きな行事になる。長い柄の鎌で薙ぎ刈りにして置き、水分の抜けた頃に束ねてウマヤの天井にギシギシ積み込んで飼料兼堆肥原料にするのである。
病気になって動かなくなると、近所の馬持衆が集って来て、天井から荒縄で馬体を吊るし立たせ、舌を紐で縛って動かなくして措いて、薬をドクドクと口に注ぎ込んでやるのである。一升瓶で酒を注ぎ込んでやる処は覚えている。
又は病気が軽い頃は、塩を口腔中に塗り着けてやったりもしていた。何うしてもダメな時は、「専門の人」が隣の村から来て呉れた。
何う手当してもダメの場合もあったのだろう。小泉山の頂上に松の木立に囲まれた大きな大きな穴がある。「馬の墓」だとされていた。夕方大勢で埋めに行って、夜中に帰って来る。その時は夫れ夫れが、何分かの馬肉の分け前を持ち帰るのである。勿論、公然の秘密なのだが、俺は見た事も会った事も無い。ただ父から聞かされたのみであった。  「馬」では在るが、農家にとっては、それは大きな「金」の損失である。それこそ一大事である。

堆肥作りとして話さねばならぬ事は、ウマヤの一隅に在る風呂の事である。
これは町家の人の様に、健康上 血液の循環が どうの此うのと言う 次元とは異なる。全く別な目的が存在するのだ。その最大の違いは、使用後の湯水の扱い方にある。入浴後の風呂湯は翌日、大喜びでウマヤに散布されるのだ。それが(馬堆肥にとっての)馬尿の不足、即ち、干し草の水気を補い、養分の補強効果を果たす、大切な工作・工夫なのであるからだ。
だから、『馬の有る家のみに風呂(桶)が在る』 と云う形に 自然になり、風呂の立つ晩は 近所の人達で大賑やかになるのであった。又、風呂を持つ家でも、他所の家で沸かすと「貰い風呂」には皆行くし、来て呉れれば歓迎もするのである。
皆、お茶の仕度がされてある一座敷に入って、世間話をしながら順番待ちをしたり、お茶を頂いたりする。炬燵の上に 漬物や煮物を沢山 出して、勝手にやったりして賑やかいのである。
夏の風呂は、それこそ間遠(入浴間隔が長くなるの)である。従って来浴する人数も多くなり、夏の夜更けまで続く。後から来た人は、前の人の風呂を焚き足して遣りながら、涼風の中で夜話に耽る。その湯水も大切に汲み出され、庭に萌え盛っている作物の根元へ灌けてやるのである。大切な肥料とされるのだ。土蔵と母屋の間は、広い百野菜畑に成っているのであるからだ。

                        
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苗代なわしろ作り
ついでに 苗代(なわしろ)作りも 話しておくか。

2月15日の【十五日おかゆ】を掻き廻した太い「ぬるで箸」は、挟んだ繭玉を抜き取って綺麗に洗い、再び神棚にあげて置く。そして其れは ”農家の一番の 仕事始め” とも謂うべき、春の田の 「苗代:なわしろ田」の水口に、青い「サワラ」の葉を添えて、お祭りするのである。どの家にの苗代田にも、それが必ず祭られて、今年一ヶ年の豊作が祈られる シンボル と 成るのである。

他の田には未だ手を着けない裡に、苗代田だけは早目に作り始めるのだ。
それと謂うのは、 他の田が、「苗」を植える準備が整ったら、直ちに 苗を植えなければならぬ。その為には、それまでに既に・・・
1・種をまいて、 2・芽が伸びて、 3・植えられるだけ充分に成長した苗・・・に成って居なければならぬのだ。
春の河水が氷が無くなって生き生きして来ると、農家では、昨年の秋に取って置いた種籾(たねもみ)を「かます」(藁を分厚く編み込んだ大振りな入物袋)に入れて、用水の中に”ほとばさ”ねば(浸して水分を孕ませねば)、早く芽を出させる訳にはゆかぬ。そこで先ず、種籾を土蔵から出して、大きな桶に塩水を溶かし、その中に”ほとばす”(浸して水分を孕ます)。
すると、実入りが思わしく無いノは 塩分の比重に負けて 浮き上がってしまう。それは掬い取り、除いてしまう(塩水選と謂う)。十分、塩分水に耐えて重みの有るノだけを「かます」に入れて用水(路)に浸し、板と石を重しにして、上も下もなく 全体に浸せるよう 配慮して 沈めて措く。
籾(もみ)が充分に、水分と水温を受けて 発芽の態勢に成るのを待つ一方、一枚の管理の良い田を選んで決め、其処を【田打ち】(耕)し、【代かき】:しろ掻き(荒く耕した土を 細かい粒状態にする)をして土を造り、下肥(しもごえ:人糞尿)や必要な肥料を充分施して、均して置く。
そして、その田一枚だけを塗り堅め、整田して待つ。
籾(もみ)が用水から揚げられると、父親は、注意深く、苗代田に作った水田に踏み込んで、一歩一歩ていねいに、上手に、籾種を 泥の中に播いていく のである。厚すぎても 薄すぎてもいけない。熟練である。
そして毎日、朝夕、注意して見廻って、水深を 調節する。可愛いらしい 芽が出て、やがてそれが 微かに水面に頭部を露わす様に成ると、一層の注意が要る。春とは謂え、信州も特に諏訪地方は寒冷である。柔らかな幼い新芽に、ひとたび霜でも掛かったら 一大事である。忽ち 古茶色に 焼けてしまう。
夜は増水して水没させて霜を防ぎ、昼は減水して地温を高めてやる。細かい注意を毎日してやるのである。
今は、ビニールと云う物が考案され、それが利用されて、この霜害防除が楽になって来た様だ。俺達の幼時は、昔からの習慣の儘だったのだろう。
どの家でも 田の一隅を採って、こうした「苗代」(なわしろ)を一つずつ持って
「苗」を育て上げたのである。

            
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〔本田準備〕
       (土手叩き・畦掘り・畦ぬり・豆まき・代かき
この苗が生育するまでに、一般の田圃は、その受け入れ態勢、すなわち、「早苗植え」、つまり「田植え」の出来るまでに用意せねばならない。
先ず第一に【土手叩き】がある。山裏地方は、八ヶ岳山麓に造られた村落であるから、何れかの方向が上(かみ)、その反対が下(しも)と成って、其処に自然、「土手」 が 築かれねば、「水平面の水田」 は 出来ぬのである。
平地に近くなれば 土手が低くて済み、一枚の田も 広い面積が取れる。
急斜面になる程、土手に支えられる 水田面積は 小刻みに 狭い由と成る。
有名な姥捨山の”田毎の月”の話は、急斜面に小作りに沢山の水田を作った
”棚田”の代表的な物である。その水田の生命線である「土手」が凍み(しみ)の強い諏訪、殊に山麓地帯では一冬過ぎると、地面が凍み上って、春先に溶ける為に、地肌がポケポケに成って来る。此処を、大きくて重い、平盤型に造った木製大槌で、叩き固めてやるのである。すると、浮き上がった雑草が落ち着くのである。雑草が固められた地面に、改めて根張りして 土手を張り廻して呉れる と云うのである。この「土手叩き」は、強力でなければ出来無い作業の上に、唯叩くだけで無く、槌の面が地面にピタリと打ち下ろされねばならず難しい。
その次が【畦ぬり】(あぜ塗り)作業である。この 畦ぬりは 更に技術の必要な作業で、これも亦 誰でも 力さえ有る大力者なら と云う訳には ゆかぬ仕事である。俺は中学時代に 「土手叩き」は 何とかやった事はやったが、「畦ぬり」だけは 終ぞ、やってみた事が無く終った。
先ず第一段階は【畦掘り】と謂う。畦にする昨年の旧い畦の跡に、改めて鍬を入れて、綺麗に角張った ”芯の土手型”を 削り取っていく、詰り一種の彫刻と言うか、掘り出しである。旧い 膨らみ崩れた 余分の地塊を 画然と切り削り、その畦の”骨格”とも謂うべきモノをぐるりと田の周囲に作ってしまうのである。
腰を中腰に屈めて、注意深く 切り削って行くのだから、文字通り 骨の折れる作業である。グルリと梯形に掘り廻らすと、今度は田の内側の今の骨の裾の土を鍬の先で丁寧に細砕していくのだ。見て居ても腰の痛む思いのする作業である。終ったら水口(みなくち)から水を、その砕土に引き廻す。
水が廻って来たら、今砕いた土を泥に捏ね上げていく。よく捏ね上げて、頃は好しと観て取ったら、今作った骨格の上部と斜面部に、その泥を厚目に乗せる。乗せたらズリ落ちない裡に手早く鍬の平面部でペタペタ、ペタペタと叩き抑え付けていく。直ぐ振り向いて再び叩き抑えて戻り、又振り向いて今度はス一一ッス一一ッと鍬の面を上手に操って滑らかな表面に塗り上げていく。
一呼吸で 二間(にけん)か 一間半(3〜4m)位の間隔に 作業範囲を自分で適当に区切って、次々と進めて行くのである。
気も使い、腰も使い、腕も使う、素晴らしい重労働だと思った。泥の捏(こ)ね方と水の量が難しく、下手な人がやると、斜面部分がズリ落ちたり、堅過ぎてサ一一ッと塗り上げる時に、鍬が滑らないで見苦しい物に成ったりする。
「勘」の必要な作業が、農業には幾つも有る。所謂”熟練度が物を言う”事が多いのである。下手な人は、綺麗にしようと 滑らかにする 最後の所を、二度三度四度もス一ッとやって居ると、折角上げた泥が底部へズレ落ちて、骨が現われそうな畦に成ってしまう。
この素晴らしい工芸品は、農家の人が お互いに大切にし合い、三日四日の間は絶対に踏まない様にする。だが、よく、苦労を知らない町の人や商人、又はそう云う素人達が、心ない下駄の跡など付けてしまう事がある。

足跡が付かない程度に、新しい畦が乾くと、俺たち子供に出来る 【豆まき】が 始まる。身長より少し短い位の、ステッキよりやや太目の棒の、先を尖らした 「豆突き棒」を持ち、腰に ビク一杯の大豆を入れて 始める。
二人でやっても良い。先ず大きい方の人が、目見当で約3、40cm間隔に、豆突き棒で、固まり始めた畦の 斜面上部と 上面外側に 「穴」を突いて行く。後から小さい者が 2、3粒ずつ 大豆を その穴に落して行く。次の人が、その穴の一方を 指先で豆に蓋をする様に、土を押し被せて行くのである。一人で三役やっても良い。二人で手分けてやっても良い。
これが一ヶ年分の大豆の収穫になるのである。素晴らしい量である。しばらくして、若々しい薄緑の可愛い豆達がズラリと並んで頭を擡げて来た時は嬉しい、そして素晴らしい光景である。
畦が すっかり出来上ると、これで 田に水を張っても 水漏れが無くなるので、今度は 田の 広い中央部の 耕作に掛かるのである。この作業が、前に書いた【代かき】になる訳である。
その代かきが待ち遠しい様に、「苗代」の苗は成長して、鮮緑の美しい絨毯の景観が田圃中のあちこちに現出して来るのである。

                        
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田植え
【田植え】と云うのは、体を完全に二つ折にして一日中働くのだから、苦労な作業である。従って”田植え賃”は高額なのが定評である。苗の根元を折らぬ様に苗代田から抜き取っていく作業と、その苗を根元から折らぬ様に、本田に植える技量は大切な技術で、これが一人前に出来る人は、農家の賃稼ぎに出動できるので、非農家の女衆は皆、手伝いに行っては覚えるのである。
そして、この時期は、どこの家でも、一時に大勢の手が必要なので、そう云う人達を頼み歩いて確保して来るのである。なるべく一斉に済ましてしまわないと、苗は一日でグンと延伸してしまうから、全田では不揃いを来たす。だからその時季にはお互いに日を交換し合って、助け合って一挙に片着ける方策を取る。互いにやれば、賃金も出し合わずに大勢で出来る訳だ。
これを 『結い』 と謂って、農家同志で よくやる習慣が有る。
「おい、お田植え ゆいにして お呉れや。」
「家へ代シロに来てお呉れやれ。お田植えにゃ又来るで」 と云う式である。

先ず 【苗取り】、これは難しい。これだけは慎重にやらないと、とんでもない事になる。と言うのは、これほど苦心酸胆して作り育てた苗を取り上げる際に、根元を傷めてしまったら”お終い”だからである。大体の家が、田植えをしようとする日の早朝、「苗代田」に行って”苗取り”をして、それを一日の中に植えてしまう。翌日は又、同じ順で繰り返していく・・・
早朝、朝日の出ない裡に 皆で ミカン箱と 小さい布団を 一枚持ち、裸足で、脚絆をしっかり履き、結える藁束を担ぎ、緑色の絨毯の田に行く。水田の中へミカン箱を沈め、その上に小布団を敷いて、藁を傍の水面に浮かせて措く。
先ず腰掛けて、おもむろに手を深い泥田の中深く入れて、水中の苗の根元にスウッと縦に、静かに指先を揃えて、くすぐる様に突っ込み、根元を傷めぬ様、細い毛根の先から、泥ごと丁寧に抜き取る。
5、60本一緒に根こそぎにこぐ(扱ぐ)。水面近く持ち上げたら、ピチャピチャ、ピチャピチャと水中で揺り動かして泥を洗い落す。
水面に出ている部分が5cm位の優しい苗だが、こうして掘り取って観れば、全長25、6cmな根元の太い立派な苗で、更に長い逞しい根が生き生きと付いていて頼もしい限りである。その一掴みを、藁を取ってクルリと束ね、後方の水中に浮かして次の束の抜き取りに移る、と云う仕事の繰り返しである。
大体 今日の作業分は出来たと見ると父が「さあ、いいらよ。上がっとくれや。」と声を掛ける。皆、田から上って泥の脚絆と裸足を用水で漱ぎ、草履を履いて朝飯に家へ引き上げる。家では、泥の支度でも食事できる様に支度がしてあるので、その急ごしらえの食卓とも食堂ともつかぬ場所で朝飯をとる。この後は、体を二つ折にして作業する様だから、一休み 食休みしてから「お田植え」に出掛ける。

田の中には父が もう、さっき採った苗束を目分量で 田一面に散布してある。
植えるには先ず、不必要な足跡を付けぬ事が 大事なマナーである。せっかく代かきをした後、日を経て泥田を程よく鎮静し、苗の根着き良くしようと苦労したのに、「ボクリ」と大きな足跡が付いたら、其処へ植えられた苗は着きが悪くなる。深すぎて”水かぶり”になれば「浮き苗」になって枯れてしまう。
なるべく大股に泥を荒らさぬ様、静かに歩く。横でも縦でも良いから畝(うね)が通らないと、風通しが悪くなって生育に支障が有るし、時々行う除草その他の作業に不都合である。
縄をピンと張って、その縄に布で株間の幅を示す赤布が付けてある物、三角形の木の枠を作り、それを転がしながら、その枠の付けた泥の跡に植えて行く工夫など、方法は色々だ。兎に角、後ずさりに植えて行くのである。
先ず、【一本植え】・・・之の事は絶対のこと!「毛根の先」を指先に掛け、泥の中にズブズブと突っ込んでしまえば、浮いて来ない。根本などに泥が有ろうが無かろうが、そんな事は泥水が自然に土を掛けて呉れる。
兎に角、『毛根の先を 確実に 泥の中に 沈める事!』 が 大事である。
一番嫌う 「突っ込み苗」 と 云うのは、毛根でなくて、”根元”に指を掛けて 泥に差してしまう事である。それは、その時点で既に、根元を折っている事になるのである。そして 「浮き苗」。足跡の凹など構わず 手応えも無いのに、其処へ無責任に 置いて行くこと。3,4歩下った頃に、もう横になって水面に浮いて来る。一本でも見付けたら必ず責任を以って、深く改植して措く事である。
植える時にはたった一本でも、秋の収穫時には分散して大きな一株に成り、稲穂が房々と14,5本実るのだからである。農家では「落穂拾い」と謂って、刈り取る時に誤って取り落した一本の穂でさえ粗末にしない習慣なのだから、浮き苗一本でも 如何に大切かが 解るだろう。
各自が責任を以って行っていった心算の作業でも、翌日に父が見廻れば、浮き苗が有ったり突っ込み苗が有って、手間を掛けて改植して歩くのである。どの”田尻”にも幾何かの”補植苗”を置いて、苗代田も全部、
「早苗植え渡す夏は来ぬ♪」 と なってから、活着した頃合を見計らって、もう一度、全般の誤植株を見直して廻り、田植え作業は完了するのである。

            
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日常の水田管理
       (水見・ベロ虫除け・田の草とり
これから秋口まで、【水見】(みずみ)と云う大切な仕事が、毎日、朝夕、最も重要事項として一夏中、取り行われるのである。
起床して、何を置いても、田の「水見」に田圃を一巡して廻るのである。
豆の葉が大きく成って来ると、畦はその葉で蔽われ、土手の草が繁ると、それも道を塞ぐ。一枚一枚の田の畦を、耳を澄まして水洩れの音を探聴して、全田の水加減を見て廻るので、スネから下は河の中を渡ったと同じにびしょ濡れになる。朝の露の為である。
うっかり、蛇の穴か野ネズミの穴か、モグラの穴を見逃して、そのまま過ぎると、日中の日照りに、すっかり稲を乾し上げてしまうからである。無事の時はホッとするが、水口からは充分に水が入っているのに田の水が浅い。《不可しいぞ!》と思って、引き返して丹念に耳を澄まして廻ると、ドロドロドロと音を立てて、ポッカリ開いた大きな穴から、地球の奥へ吸い込まれている、田の水が見つかる。
これは単に水の乾燥の問題だけでは済まされぬ。散々苦辛して、肥料を混ぜて作製し上げた”肥満の水”を、無駄無駄と地底に放下してしまった事になる。肥えた水を逃し、用水の無肥の硬水と替えてしまった事になるのだもの、勿体ない限りで口惜しいのである。
土手のうま(劣化し)ない様に、土手の雑草も早めに早めに刈らねばならぬ。
農家は多忙である。春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋と、立て続けに迫る 蚕の飼育。
その間にやらねばならぬ 野菜畑の 植え付け、施肥、中耕、そして 桑畑の、
取っても除いても吹き出す様に出て来る雑草の退治も、やらねばならぬのだ。”目の廻る忙しさ” と謂うのは、本当に農家の事である。
稲の活着が 決まった頃、鯉子を放飼養 したりもする。それから、油断も隙も無い 「ペロ虫」 が 湧いて来て、優しく成長しようとしている稲の葉の、葉緑体を舐めるのだから 堪ったものでは無い。
長い棹の先に桶の様に取り付けた「ペロ虫取り器」を、田圃じゅう振り歩いて、時々除かねばならぬのである。これを少しでも怠ったら一晩か二晩で、すっかり成長を 妨げられてしまう のだから 恐ろしい。
そうこうして居る裡にも、穂苗の根元の周囲を掻き廻してやらないと、「アマンドロ」と云う微生植物が蔓繁して、日光の浸透を妨げて、根分け作用(根株の増殖)を阻害してしまう。
この【田の草取り】と称する作業は、出来る限り早めに早めにやって行かないと、一ヶ年では、大きな不作の原因を作ってしまうのである。
この作業中に苗の葉先で、よく眼球を突いて眼を病ったそうだが、段々考えて金網で面を作り、顔を覆って作業する工夫を思い着いた。だが此の「田の草取り」も、田植え以上に苦行である。
家中、横一列に並んで、一人で四畝ぐらい分担して、畦間を一歩一歩踏み進めつつ、一株一株の根廻りを五本の指で掻き廻してやるのである。そして、途中に不必要な雑草が在ったら、抜き取って田の外に出さねばならぬ。
一番の害物は「ヒエ:稗」と云う一種下等な稲の同族だ。肥料など皆無でも繁茂する強悪な下等植物だが、肥料の有る水田に入ると猛烈な繁殖力を発揮して何う仕様も無い。然も除去できるのは、穂が出て来てからの時なのだ。出穂前までは紛らわしくて、殆んど目立たぬのが、生き残りの手の様だ。
除き取ったヒエの穂は、燃やしてしまう以外に法は無い。大勢の中には、よく、自分の事しか考えぬ人が在って困るものである。「稗」を抜き取って、平気で道路に投げ出して措く人、酷い人は河に投げ込む。道で落ちた「稗の種子」は道の近くの田に入って、来年の害の原因を作り、河下の農家は、水と共にその種子を受けて、来年の凶悪の害をもたらす。そこで各村では場所を一定して「稗捨て場」の立札を建て、後にその山に火を掛ける方法も採っている。
斯くて「稗」は、折角の肥料を充分に盗吸収して生育し、子孫を残していくのである。養蚕などの多忙で、一時この除去時期を失すると、来年は酷い事になるのである。通る人が笑って言う。
「なあんだ。ここ家(ね)えは、稗を作ってるだかえ。」と。だから、『穂は出たが未だ実らない』裡にサッとやってしまう事だ。

                        
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堰浚い(せぎサレイ)
今となっては、季節の判然としない物事も色々ある。大体の時期は見当つくが、何月頃か となると 思い出せぬ ものの一つに 「セギサレエ」 が在る。
堰浚い(せぎサレイ)とは、農業用の水路を掃除する作業である。前日の裡に村中に「触れ」が廻る。触れとは、各戸に次々と 口伝えで 伝言を廻す事である。多分、今でも やっている のではないか と思う。その時季は 川に魚が居たのだし 子供達は皆その川に入るのだから、温暖な時だった筈だ。大人は兎も角、子供達は、それこそ「手薬煉ヒイテ」待ち構えるのである。
さて、その用水だが、最初の取入れ口から村の上までは、小泉山の北山麓を掘り割って、その割り砕いた岩砂を積んで高い土手を築造をしてある。だから冬の間に、その日陰の堤堰が凍み上り、春になって解け崩れなどして水洩を起こしている心配が有る。又、一年の間に柳川から流入して来ている新たな土砂を、再び除いて掘り深めなければ、村の中央を抜けて村の西方の田圃を灌水し、更に隣の玉川村までを潤す、安定した今年の水量を確保できない。だから特に大人が大勢で協力してやる作務は、この区間である。
(村の西方を下:シモと謂った。地形の降下している方面。東方は上手:ワデと謂う)
この山麓の堰は、村の上、約1キロ近い間で、夏でも此処へ掛かると、涼風が動くほど陰冷なまでに急斜面の樹木が切り立った、北側にそそり立つ場所である。左下は雑藪が気味悪く黒々と錯綜して大蛇でも秘むかと思われる所を隔てて、遥か向うに主流が流下している河原がチラホラ散見し得る。
右手はワングリと洞穴の半割りを想わせる様な、頭上に蔽い懸る岩崖の赤黒い荒膚。その膚からは一年中、雨だれの連なる様な恰好で大きな雫が落ち続けている。そして半円を描いて開吼している断崖は、何処かで絶えずガサッと気持の悪い音を立てて、風化岩滓を落し続けているのだ。

枯れた雑草藪蔓樹枝を除去し、岩滓を片付け、反対側の左斜面に投落する狭まった道筋を整える等々をする為、村中で各戸最も屈強の一人を必ず出す申合せになっている。自分達が直接朝夕使う「用水小せぎ」と、村に在る全水田の一年中の水利に関係ある事なので、誰も彼も自主的に用具を考えて持ち、其処へ集まって行くのである。
【神ヶ洞】:じんがどう・・・そうである。正に「神が洞」の名に相応しい凄い用水路である。この用水路からは、村の上、即ち「神ヶ洞」の出外れの所で二つに岐れる。その一つが思いも掛けず、観音山の上よりも村の上:カミの方が高いのだ!と聞かせれると、誰でもその意外さに驚くのである。だから、そんな関係で隣の粟沢村の衆も、この日この作業に協同して居たのかなと思えるのだが、はて、そこまでは知らない子供だった。
兎に角、子供達は、用水を見つめ、今か今かと 水量の減るのを待ち侘びるのだ。大人の作業が上流で始まると、先ず用水の流れが赤く濁って来る。
嬉しい。胸がワクワクする。段々と減って来ると喚声が聞こえる。用水堰だから そう大した獲物は無いのだが、何しろ宝拾いの様なものである。
一時にドッと減るのであるから、思い思いに移動して飛び廻るので、前の人が探し尽くした跡へ行っても、とんだ獲物が移って来て居たりして、面白いのである。「うなぎ」の大きな物が見付けられる折も有るのだから、堪らない魅力が有るのだ。まあ、何時の年でも、『泰山鳴動』 の騒ぎ であるが、それが楽しいのである。各戸の庭先に金ダライが置かれ、何がしかの獲物が、静かにヒレを動かす頃には、用水の水量は又、朝の量に復しているのだ。

            
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           養蚕桑畑
       根限りの連続、詰り、”苦闘の連続! ”と謂う事である。


コボ育て
春立つ 小鳥の歌に 誘われて、家の中も 家の外も 田圃も、春の仕付けで
活発に動き出し、野山の緑も 夏へ夏へと息づいて 生動し始める。
その頃になると、冬の間 一番 人の出入りの多かった、正月も親類が集って祝った、そして俺たち子供宿の 楽しい娯楽宴会場であった 「下座敷」 は、
八畳のたたみ全部が片付けられてしまい、ネコ(厚手の藁ムシロ)が敷き詰められる。 そして周囲の新芽に誘われる様に、伸びた桑の葉が初夏の風に揺れ出す頃、蚕種(タネ)屋さんに依嘱して措いた【春蚕:ハルゴ】の種子(タネ)の 『催青:サイセイ』 が 出来た! と 知らせが 来る。
(それは、丸で ”菜種 の 粒” の 様な 姿をしたものである。)
この報告を かねてから待つ母は、家中の 人の手を借りて 隣室(下座敷)へ 己の全部の必要物資 (暫らくは、その空間に籠もって暮らすのだから、新聞を読む眼鏡、硯箱、贈答控え、子供の学習用具など、沢山の小物類)を移し 四方の境になる所を 外気が入らぬよう 紙で目張りして 閉じてしまう。
その上更に、室全体がスッポリ包まれてしまう大きな紙を張り合わせ、渋柿の液で加工して丈夫にした物で、野営テントの様な具合に包んでしまう。
その中には勿論、蚕養棚や養蚕カゴ(篭と言っても、障子1枚大の 平板な 竹製の盆)は仕つらえて在る。詰り 其処が一定期間の「蚕室」と成る訳なのだ。
その特殊空間(部屋)へ一旦、稚蚕が入れられたら、母以外は出入りしない。用事は 声の応酬で 済ませ、どうしても 入らねば 用の足せない時は 先ず、出入り用に 一ヶ所だけ覆ってない 障子を開けて 部屋に入り、障子を閉めてから、その張り子の紙幕の切れ目の方へ廻り、其処から注意深く、その幕紙を潜って 蚕室に入る。
蚕室の中はドヨンと生温かく、母の頭上には 厳しくも、湿寒計が下げられて在る。母はその寒暖湿度計を1度たりとも狂わせじ!と、持ち込んである火鉢の炭火と、その中央に掛けてある湯盆の湯気を調節しつつ、稚蚕に給桑しつつ、成育を監視し続けるのである。軽い掛け布団を一枚持ち込んで、それに包まって二十四時間の勤行の連続が始まるのである。
【コボソダテ】と云う行事(仕事)である。・・・(♪ 私見だが、方言で赤ちゃんの事を「こんぼこ」と言う。コボソダテとは『コボ育て』、即ち「子んぼこ育て」=「赤ちゃん育て」「保育、愛育」・・・恰も自分の赤ん坊の如くに、愛情を持って稚蚕を育て上げていく・・・その様な接し方、態度、姿から来た呼称ではあるまいか? 父には、もう訊けない。)

蚕は 喰桑すると糞をして 成長するが、短期間に育成するものだけに、2給桑くらい毎に、その残桑と 糞との糟(カス)を 除去してやらぬと、病気にやられる。その防止の為に、取り換え用に 使用する”網”を 「モジ」 と 謂う。モジは成長に合せて、細目・中目・大目・荒目 と云う順に 換えられていく。
蚕種(タネ)屋さんから、紙に大切に包んで 持って来られた『催青:サイセイ』(卵が適当な温湿度を掛けられると青味がかった黒色に変わる処から来た言葉かも知れん。学術的な事は俺は知らぬ。)と呼ばれる卵が、円形に付着した「蚕座紙:さんざし」には、もう早い1、2匹が殻から出ている場合があった。多分、そうした保温した室に来れば直ぐにも全部が脱穀するのであろう。
母が鶏の羽で作った刷毛(はけ)で、静かに静かに「カゴ」(長四角の竹製大盆)に掃き落として居る姿は、貴く尊い様であった。多分、「おっかさまに色々言うじゃねえぞ。」 と 強く戒められて 入所許可を取った所為か、子供ながら自身にも 《大切な仕事をして居るのだ。》 と 思えたのかも知れない。
俺も、大きな刃と柄の付いた桑切り包丁で丹念に幅1ミリ程に刻んだ「テンバ」(新芽の頭頂部を摘んだ物)を大切に給桑した。中学に進んでからも手伝ったし、小学校上級生の時だってやった訳だが、単なる「手伝い」の域を出ない為に、責任の無い観察さえ、して居無かったのだ。だから俺には細かい技術的な、そして学術的な、正確な養蚕の知識は無い。
卵から剥けたばかりで、産座紙の上を這い廻り、刷毛でカゴに落された物は 2 ミリ位の 「黒い毛虫」 で、 【毛蚕さま:ケゴさま】 と 謂う。
その毛蚕さまが、母の親身の 「コボソダテ」 に 拠って ”一眠” に入る。
すなわち、”第一回の脱皮の用意”である。何日かかったのか、何時間かかったのか覚えていないが、やがて、その毛蚕が ”一眠”から醒める(第一回脱皮をする)と、皺だらけの 頭デッカチ 尻すぼみの 「二齢の蚕」が、ザワザワと 篭(カゴ)の静謐を破る。もう、こうなれば、蚕室(下座敷)を覆っていた、厳重な囲いは 除った のでは なかったろうか。

                        
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10コシリ取り
そうしている間に、「二階」は 4室全部が、養蚕室らしく 片付けられ、準備万端に 用意される。片付く と言っても、二階(4室)は 元々から、全て 「養蚕専用に 建てられた」 階 だから、もう室の両側は 「二間棹」 を、枠で組んで 天井から下まで ”造り付け” に してある。但し、篭(カゴ)は秋に、一年間の養蚕の済んだ後、全部を河原や池を使って洗浄し、日光消毒をして 一ヶ所に蔵して在った物を、 4部屋に配分する。棚は雑巾で、一本一本を、約 150 本 近い ”二間棹” を 拭いて措く。床も綺麗に掃除する。何と言っても、骨身を削り寝食を節して飼育しても、『病気!』を出したら 全てが無駄になり、一年間の収入が零となるのだ。給料取りで謂えば、家族全員が 半年禁足を喰らった以上の 憂き目を 食う訳である。だから棚だって時々、河原へ持ち出して洗い清め、新しい縄を使って結え直すのである。
桑の葉と蚕を乗せる【カゴ:篭】の大きさは、障子1枚分位で、縁は竹で作り、手触りの良い様に藁で被い、縄でギリギリ巻きした、竹で作った長四角の大皿である。其れが 一室の両側に、夫々15 段の 棚で、二階一杯に 並ぶ訳である。だからカゴの総数は15段×2列×4部屋=120枚になる訳である。
蚕が外気に触れても差し支え無い齢に成ると、二階へ放されるのである。

【ヤスム】(休む)・【オキル】(起きる) と云う 成育現象は 面白い。蚕は結局のところ、己の持つ体袋ギリギリまで太ってしまうので「ヤスム」と謂う事に成る。
もう、与えた桑には 喰い付かず、体の下に 自分の脚部を 密着させ、頭部を ツンと上に向けて 突き出し、すまし込んでしまう。この時、間違って 人間が、その脚部を動かしてしまい、折角 密着させた足場を狂わせると、その蚕は 脱皮しようにも 古い皮が付き纏って、古い袋から抜けようと、グルグルもがいて苦しむが、結局、死なねばならぬ。だから、4回 巡って来る 「ヤスム」 時は、
家人は細かい配慮をして遣らねばならぬ訳である。「一眠オキ」・「二眠起き」・「三眠起き」・「庭起き」 と謂うのは、脱皮作動が 無事済んだ事である。

「二齢」、「三齢」 頃は 未だ カゴの重さも 優しい。だが、【庭起き:ニワオキ】と呼ばれる「4眠終り」の(4回脱皮した)蚕の体は、太さも長さも逞しく成って来て、カゴも重くなって来る。即ち幼虫の形態としては最後の脱皮である4回目を終え、いよいよ営繭する(サナギに成る)時を迎える「四齢」の蚕である。
斯様に神経も体力も酷使する養蚕では、子供にとってお手伝い出来る事は、精々「桑摘み」(桑もぎ)だけである。小さいビク(竹籠)、大人と形は同じでもホンノ可愛い物を担いで、家人と一緒に桑もぎに行く。小さい形のツメ(指に指輪の様に嵌めて、その端に付いている刃で摘む)を作って貰って、大人の邪魔にならぬ様に、練習とも遊びともつかぬ作業をやるのである。自分の籠に一杯になると、後はその辺の山を飛び廻り、草花を玩び、草の実を獲りなどして帰りを待つ。
最近の養蚕法は大分改良されて、人力が省かれる様になったが、俺達の頃は”筋肉の戦い”であった。【給桑】するには、駅の弁当屋さんがプラットホームで一休みする時に使うX型の折りたたみ台を各自使って、足腰でバランスを取りながら、殆んど腕の力だけで、一枚一枚カゴを揚げ降ろしして遣るのである。農家の人の腕の強靭に成る理由は、こう云う事が一杯ある訳である。
稚蚕の時は、【蚕尻取り:コシリとり】 (糞と残滓の片付け)も 独りで操作できるが、大きく成ると重いので 二人で組まないと出来無くなる。
台を二つ並べ、一枚には 新しいカゴ、他方へは 棚から降ろした蚕のカゴを乗せる。二人で蚕の載っているモジ(網)の四隅を持ってピンと引っ張り、トントンと二度ばかりカゴの上で底を突くと、モジに乗っている食べ残り桑と蚕の外にくっ付いている 蚕糞が 下に洩れ落ちる。ピンと 引っ張らないでやると、みんな真ん中に丸まり集ってしまうのである。それを新しいカゴに移す事だ。
古いカゴには一日中行った4、5回の給桑の残滓と糞が残る。それを傍に払い落して措く。お蚕さんは実に気持良さそうにサワサワと辺りを頭を動かして探す。一日に一回は必ず之(コシリ取り)を遣ってやらないと、順調の発育を妨げるし、発病し易くなる訳だろう。「庭起き」してからの蚕(最終の幼虫姿態)は、食欲旺盛であるので、糞も大きくなり、軟らかくなる為、二人の足の裏に厚くビッシリとひっ着いて来る。履いている上履など重くなってしまって、履いてなど居られなくなるので裸足になるのだ。その又足が此うなるのだ。何でも構わないから傍に在る物に擦り着けて落し、作業を続けざるを得無い。
中学時代のお手伝いは、大体夜の夕飯後になるので、姉と二人で夜中まで掛かってやった事を思い起こす。二人とも、もう眠くて堪らず、半分眼を閉じた位の状態で行い、終わった途端もう、一階下の寝床まで降りて行く力も無く、その「蚕糞:こくそ」の山の横に倒れて眠った事もあった。それでも 夜が明けると 姉には容赦なく、又 今日の作業が 待っているのである。
本当に、『 ”根限り” と 云う 作業の ”連続 ”』 で ある のだ。

            
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11桑もぎ
一階には一室 、板の間が在り、其処には 重厚な 『桑切り器』 が有る。
その器械は 四角型の横長い物で、箱型の底部は、その骨体の前方に備着されている刃渡 80cm程の 大包丁の柄と連撃されていて、包丁を上げると 一刻み前方に 迫り出す仕組になっている。その中へは桑がギッシリ詰められて、蓋がされて有るので、包丁を下すとザクリと 桑が切断される。その幅は 蚕の齢に合わせて 加減できる様になっている。そして又その蓋が上手く工夫されていて、厚い布地が張られているが、それは押え付けた中の桑が前方へ移動される度に、その布だけがずれて一緒に前方に迫り出す妨げの作用はしない、訳になっている。その代り、その蓋の布は一回毎に元へ戻して次の作動に移る事にしてある。大きな刃物の付いた動具なので、この辺では子供は絶対に付近に寄せ付けない。誤って挟んだら大人の腕位は簡単に切断されるからである。之を ガシガシガシガシと 2、30回上げ下しすれば、一回分こなれて 蚕の食べ加減の幅に成り、切り口も着くから 蚕も食べ易い訳だ。
その、摘んで来た桑の葉を置く室は、出来るだけ奥まった 暗っぽい 冷っこい一階か地階 (二階の無い家は穴蔵など利用)に入れて、なるべく凋枯気味にならぬ様に貯蔵する。時には口で霧を吹き、上下を掻き混ぜて、濡れ布で蔽ったり、絶えず管理を厳しくする。
桑の葉が切られるを、もどかしい程の気持で待って居た「給桑係」は、その裁断された葉を『ボテ』(給桑用の大籠)で二階に担ぎ上げ、早速に給桑する。「切り手」は 切り続ける。「呉れ手」は 呉れ続ける。
蚕が喰い付いて一斉に食べる音は、五月雨が新緑の葉を叩くに似ている。
朝の給桑をして、桑もぎに出る。帰ると給桑場へ採取した桑を空ける。ビクにギッシリ詰めて大人が腰をギシギシ軋ませて、やっと家まで背負って来た桑はビクの中で 熱を持っているので、大急ぎで空けて 展散せねば いけない。
昼食して給桑して、桑もぎに出る。帰って来て給桑する。桑もぎに出る。帰って給桑して夕食をとる。ここで「コシリトリ」(蚕尻取り)をする。給桑して寝る・・・この作業の回数は覚えていないが、『一日中 休憩無し』 である事だけは 頭に残っている・・・。【庭起きからの作業の一週間】は、この様な激しさである。

桑もぎだって、この「四齢期」は、全家総出なんて生易しいものでは無い。
かと言って、少しでも給桑が閊えて不足すると、【ヒキる】生理作用が不自然に成るので、作った繭の重量に影響する。詰り、金額に響いて来る。桑もぎの
その中途で雨(夕立ち)に見舞われる時の惨めさと謂ったら無いのである。濡れた葉の給桑は出来無い。下痢を誘う。家の中の処構わず、何でも敷いて、拡げて干す。ただでさえ忙しい折に、その余分な時間と労力が 必要になるからである。泣くにも 泣けない と云う 状況になる。そればかり では無い。
一枚一枚の桑はツメで摘むのだから、両手の指先は指紋が消えてツルツルになり、やがて皮が薄くなって血が滲んで来るのである。手拭を破いて一本一本の先を巻いても、作業は中止できないのである。あの痛さと心の焦りと、積りに積って来た疲労・・・只、《あと、もう三日!》とか自分の心に言い聴かせて、歯を食い縛る以外に無かった。辛かった。
     夕立は せく桑籠(ビク)の人 宿らせて
                   夕立の しぶきを踏みて 桑籠 重し


時には、こんな不測の事も起きる。畑の広さと桑の育ち具合で、その期毎の(一年で4期)、蚕の「ハキタテ量」を予算立てするのである。が、気候が寒気となり、蚕の食盛期が延びる場合がある。詰り、涼気の為、蚕が 《もう少し食べてから》 と 云う 傾向に なってしまうのだ。さあ、大変!
大体八日分(七日位が普通か?)はと立てた予算が、九日食われると、そこ一日分の桑が畑に無い訳だ。村中さがすが、有れば良いが、大体の傾向は似て来るから、各戸で騒ぎ出す。一日でも早い家は、村中の融通で間に合うが、遅れた日付になった家では大騒ぎで他村へ飛ぶと云う事になる。それも枯れ気味の物は喰い付かぬ。胃の痛く成る様な緊張が続く。

農家の生活は此うであるが故に、「ヘヤ」と謂って一室は特別に成っていて、家中が万年床に並べて在って、バタン・キューと眠るだけの毎日である。農事の境目に時折、全部の布団を出して、日光干できれば上々と云う処である。
その布団だが、工夫は生活の中から生れる、と云うもの。秋も 終りになる時、
「スベ」 と 謂って、藁の裾の方に 付着している 軟い部分を、「ガヂ」 と称する 小型の鉄製熊手(五本指を曲げた恰好)で掻き取って集めた物を 敷き布団より一周り大きな袋を作って、ギッシリ詰め込むと、厚さ30cm程のぷかぷかしたクッション満点の袋が出来る。これを 「スベ布団」 と称する。それを家中の部屋に、父が新造して呉れるのである。それは それは 温かで、天下一品である。だが、それも、取り換えの秋には旧いのはペシャンコに成っている。尤も一日、日光に晒すと、ポコンポコンに膨らみ返る。
兄は、俺が物心ついた頃は、夏は二階の一隅に寝て居た。夕食を済まして色々やって、さて寝るかと兄と一緒に二階に行くのが楽しみだった。冬の穴蔵で草履作りをして稼いだ金を一部とって措いて、珍しい菓子が何時も床の隅にしまって有って、それを貰って二人で食べて寝る事が嬉しかった。又、
『八月:やつき』と謂う、八ヵ月の稼働期間だけ泊まり込み、三食付で雇用されて来て働いて呉れる人達の部屋も二階の一隅に在った。二人位は常時いた。時には夫婦者が来て居て、夜、夫婦喧嘩をしていた事も印象にある。

                        
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12ヒキ拾い
さて、「ニワ起き」 してからの ”激戦” は、「ヒキる」事で 頂点に達する。
【ヒキる】と謂うのは、4回の脱皮を完了し、充分に給桑され成熟した4齢の蚕が、蛹(さなぎ)に変態する為に営繭(えいけん)できる体調になる事である。まあ簡単に言えば、繭(まゆ)を造る準備が、完全に整った状態である。
蚕の体が黄色がかって、透明に成るのである。そう成り始めたら、忽ち、もう、時間を争う問題になる。ましてや、丁度その日が好天候だと来たら、湧き返る様な速度で、全蚕が 「ヒキ」 始める。本能的に、所構わず営繭を始める。
普通は腹部 (俗に ”頭” と謂っている所)が透き始めると、全員が総掛かりで 『ヒキ拾い』 を 始めるのである。
給桑の台などに 載せてやる 手ぬるさでは、とても 間に合わない。何処でも好いから カゴを 棚から引き降して来て、「ヒキた」物を選び出してしまうのだ。
一方、『ムズ』 掛け役 (ヒキた蚕だけを載せた状態のカゴを、特別に ”ムズ” と謂う)は、その拾い集められた蚕を、素早く 「カゴ」 に、一定量ずつ計って 散在させ、手早く上から 『ヤトイ』 を かけてやって 棚に収めてやる。
すると蚕は 見る見る裡に、そのヤトイの中へ 繭の形を造り上げていく。忙しそうに体を くねらせ廻して 一生懸命である。
この 【ヤトイ】 と 云うのは、蚕が繭(まゆ)を固定させ易い様に(蚕の寝床として)、人間が「波形に加工した”藁(ワラ)”」の事である。秋の片付けが済んだ折、新しい藁を「ガヂ」(小型熊手)で、裾の無駄皮を掻き取って綺麗にした物を「ヤトイ織機」に差し込んで、左右交互に、その胴中に抑え込む様に畳み込むと、『波形の藁』が出来上るのである。それを藁で結え、何千と積重ねて冬を越す間に、その波形は固形化されて、「カゴ」の上に拡げても結構、伸びず倒れずに、蚕の ”営繭の場” に なる 訳である。
( ♪ : 矢型のトイ。雨が伝い流れるトイの如く凹型に窪んで、繭の着床を補助する、
  その矢形(波形)の形状から 「矢トイ」→「ヤトイ」 と謂われるのか?単に 雇う か?)
この 「ヤトイ織り」 は、両腕の力で力を込めて畳み込む仕事なにで、腕力の有る男でなければ出来無い事である。俺は兄が病気に成ってから 東京に出るまで、即ち中学生時代は 一手に引き受けて毎年この 「ヤトイ織り」をしたのである。これは屋内でする仕事なので、秋末で無くても、冬に雪が降ってからでも、春先でも良い。養蚕室の西隣り2室は、カゴを積み蓄めたり、「ヤトイ」を天井まで積み高めたりする部屋である。
どんな多忙であったとて、無事に「ヤトイ」込んでしまえば大成功である。

蚕の”ヒキ”が早過ぎて人手が足らず困った場合など、全く目も当てられない。堪らなくなった蚕はサッサと、仲間のザワザワしているカゴから抜け出して、棹を伝って天井の横へ造り始める。もっと弾んでしまった奴は、カゴの裏や縁に造り始めてしまうのだ。蚕は、本格的な繭を作る前に先ず、周囲に生糸を掛け巡らす。寝床とする概略の巣懸けをしてから、その中に本格的な繭の形を作り始めるのである。詰り、ヒキた奴が糸を吐き始めて最初に作るのは、未だ繭本体では無く、その準備段階の寝床(着床)なのである。
それを引き剥ぐのだ。とは謂うものの、その外形を造る生糸を一回無駄にさせたら、繭を造る分の糸目が、それだけ減量される訳である。それが ”一粒 幾ら” と云う 金目な宝であるから、そんな事を幾つも遣られたら、大きな損害に成ってしまうのである。でも実際には、そんな場所へ懸けられたら尚 始末は着かないから、少しは損しても、それは覚悟で、早く見付けて、巣懸け始めの裡に、中身の蚕を剥き抜いて、本場所へ移してやるのだ。だが、もう、一度そうしたノは、慣れない人の目にも判然と見える程、浪費体調が見えて可哀想である。その位、瞬間を争う事柄なのである。
もうザンザン騒いで来ると、そんなせせこましい事は言っては居られない程、室中が湧き立って来る感じである。群中から選んで拾っている裡は好いけれど、こうなって来れば一枚のカゴの中で「ヒキ」た蚕の方が多くなって来る。もう堪らないので、カゴの上に縄で作ったモジを蔽う。するとヒキたのは桑など見向きもせず、それに這い上って来る。それを素早く取って「ソレッ!」という訳で、それこそ猫でも杓子でも居る所へ依頼する。もう、子供も子守も老人も、道通りの人さえ掴まえたい心境なのだ。
「ヤトイ手」は文字通り汗だくもので片付けねばならない。給桑も回数など考えて居無い。拾い残りの未熟蚕は集めて直ぐ給桑する。するや残り蚕は狂った様に喰い付いて、その裡からもどんどんヒキが進行して行くのである。

            
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13マユかき
上蔟:じょうぞく(蚕がヤトイに入る)してから一週間位経つと、蚕は繭の中で蛹(さなぎ)に成り、振ってみると好い音がする。その時、幼虫時代に菌を宿していたノは 蛹に成り得ずに、営繭中途で病重くなり 死蚕となって、不完全な薄皮の中に 黒く透けて見える。之が沢山出たら大変である。
だから、その為に、幼虫育成中に色々と気を配って育てる訳であるが、それでも尚、給桑最中に 湿気を食わせたり、消毒不足で 菌に犯されたりして、
”伝染病”でも出たら、悲しいを通り越して悲惨なものである。それを乗り越え 何とか ヒキる 最終段階を 迎えても未だ、この様に、不完全な繭が出て来る のだから、養蚕農家に 油断は禁物なのである。・・・そして、やっと、喜びの
【繭かき】 (マユ掻き)が 始まる。 激闘の後の、朗らかな 収穫行事である。
別して追われる条件は無く、楽しく家中が蚕室に横一列になり、又は明るい縁側に出て来る者、ゆっくり作業の出来る場所に、営繭したカゴを棚から引き降して来て、世間話に花を咲かせながら 「繭を掻く」 のである。即ち、ヤトイの中に巣掛けした 『繭を 一つ一つ丁寧に 拾い上げる 』 のである。潰さぬ様、汚さぬ様、注意さえすれば 良いだけだので、頭も そう 集中力が要る訳では無い。力も勿論要らない。この時は、女も子供も男も病人でも好いのである。

その繭を売る方法には変遷があった。俺の幼年時代には、個人の「繭買さま」が来て繭を調べ、”火ジロバタ”(囲炉裏端)で父と対話し、雑談して居る裡に父と「繭買さま」が 交互に袂(たもと)の中に手を差し込んで 値決めをする。
どんな事をするのか判らぬが、決まると、その繭を売る事にして、現金の何がしかを掴ませて喜ばせて帰るのである。・・・その裡に、共同売買が考案され、一ヶ所に「繭買さま」が皆集まって来て、中央の卓の周囲に席を占め、売り手は自家物の平均的な部分を其処に提示して評価して貰う訳である。
即ち、売ろうとする繭を全部そこへ持って行く。世話人は無作意に(少量の時は全部を)、中央卓上に出す。各買い手は手に取って、その質を確めた上、黒皿の中に希望落札値を記して伏せて出す。世話人は即決する。作業員は各自の持場(買手の)へ掻き下ろして持ち去るのである。
仲買人(繭買さま)の家は、家中が 繭の山になる。それを 本社(製糸工場)
から来ているテッポウ篭 (竹編の直径80cm位、高さ130cm位)に 木綿袋
(ボテと謂う)を広げ入れて繭を詰め入れる。そして何本も荷作りする。
それから後は運送屋さんと馬持衆の受け仕事になるのである。俺は中学生の折、馬方衆の仲間に入れて貰い、荷の着け降しは大人に依頼して賃稼ぎをした。南隣の家が 仲買人をしており、何時も依頼されていた家だったので、そうして呉れたのだろう。 家から茅野駅を越し、諏訪大社・上社を通り越し、
”真志野”と言う 四つ目の村まで大勢衆と行った。
今考えると湖水(諏訪湖)向うで、岡谷からの方が遥かに近い所だったのだ。三里近いから10キロ以上は有った訳だ。行くと製糸工場特有の臭いがプーンと鼻に来て、荷受け衆に渡すと、工女衆の飯場で朝飯を出して呉れるのだった。飯は麦飯だったが、珍しいので、あのサッパリした舌触りが懐かしく美味しかった。一杯の味噌汁も小皿に盛った四切れ程の沢庵漬も変った味が懐かしい。現金を貰ったのか 後払いだったか覚えていないが。
斯くて一年4回の大行事(養蚕)は、次々と取行われるのである。この頃はもう、母のコボソダテで、次期の始動がはじまっているのだ。
春蚕(ゴ)、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕の四期が済むと、養蚕道具の大掃除が一家総動員で行われる。裏の河原一杯で、池の端で、秋の収穫作業の始まる迄にすっかり片付けてしまわねばならないのである。春先にやる家もある。

                        
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14桑畑の草取り
ここまで書くと、どうしても書かねばならぬ事は、苦しかったが、思い出の強い「桑畑の手入作業」である。幼い小学生の頃は一人前の仕事出来無いので、妹や弟の子守などしながら、精々大人達の小用足しや弁当運び、お留守居番位だった。だが、やがて兄が病人となり、雇人は来無くなり、広い畑に迄は、手が廻りきれないと云った「中学時代の日々」が思い出である。同級生は休日は山に湖に、今に謂うレジャーの相談であるので、自然俺は学校では話の中には入れず、多分いつでも浮かぬ顔をしてトンチンカンの返事でもして居たのであろう。何時の間にか俺は「矯風会員」と云うアダ名まで付いてしまったのが、その時代である。
母と姉と俺の三人だけが、我が家の可動人員である。従来の半分にも満たぬ員数で、然も女手と学生である。やってもやっても間に合う量では無い。でも何うにかして、なるべく他人様の賃力を当てにせずにやらねば、ただでさえ収入は益々減少していく。すぐの妹・志貴、そして美貴、赤ん坊の左千夫3人は何とか家で蠢いて遊んで居て呉れる。
姉と俺は大きな「メンパ」にギッシリ飯を詰めて布袋に入れて畑に出て行く。
冬中にすっかり葉の落ちた「夏蚕桑」(ナツゴぐわ)はス一ッと気持のいい線で畑を蔽っている。背丈は 一丈(3 m)余り。父が 夜なべで研いで呉れた「ボヤ切り鎌」を 腰から取って、一株一株 根元から切り取っていく。
この作業は 【桑ブチ】 と謂う。この作業は、別名「桑ブチ鎌」とも謂う、木の枝伐り専門の「ボヤ切り」で行うし、土手の草は 「草刈り鎌」と云う 薄手の草刈り専門の鎌で行う。更に、畑の地面に生えた雑草は、「草取り鎌」と云う 短柄の特殊な曲線をした鎌を以ってやるのだ。
【桑ブチ】された畑は、一面サッパリ散髪した形に変貌する。その刈り取った桑棒は、後で束ねて家に運んで呉れる。これは一年中の薪に成り、ささげ豆の巻き付き育つ 「手」に成り、完全に再利用される物である。
この畑には一面に、春の芽生えの胎動が息づいているので、他の畑作業を済ませた2週間後に来て見れば、一面の雑草が地に芽吹いている。その位の裡に除草してしまえば良いのだが、先行しなければならぬ作業が一杯あるので、遂い、その雑草を芝(状態)にしてしまう。1キロか2キロ、時には5キロも離れて畑が点在するので、殆んど村中の畑を駈け巡らねばならぬ。
畑には野菜あり馬糧畑あり、春蚕畑あり夏蚕畑あり、秋蚕畑ありである上に、水田とは異なって、村中の各家が 夫々の計画に沿って 運営しているので、全ての家が 季を一にして、野面(のづら)に出揃う と云う光景は無い。見渡す広漠たる畑の中にポツンと小さく蠢く態の俺の姉の姿は度々である。ましてや村の衆よりも一操作(工程)遅れ気味であれば尚更である。
汗ばんだ肌を広げて風を入れながら、二人で松林の木陰に入り、「メンパ」を分け合って食べる時の天下泰平さは何物にも代え難い。これだけは、やってみない者には、説明のしようも無い世界である。
何を話した事だろう。何時も楽しい話が引っ切り無しに続き、「さ、始めろ」と惜しそうに話を打ち切るが常であった。

苦行する者だけの 爽快
時間が一番多く掛かる仕事は、何と謂っても ”夏蚕桑” の 【草取り作業】 である。この冬の初め、又は春に先立って伐った桑の跡へ芽吹いて、忽ち成長した 雑草の除去であるから、思い出も強いのだ。真夏の太陽は 文字の如くジリジリと頭上真上から照り付ける。桑の丈は身長程あって、青葉がギッシリ繁茂しているから、風の吹き込む余裕は殆んど望めない。そんな中に、しゃがみ込んで、いざり歩きながらの 除草作業である。乾燥した畑の土は、ムンムンと立ち昇る。無風なのに、土埃は立つ訳だ。何故なら、地面にしっかり生え着いた雑草を、鎌でザックリ掻き起し、根にビッシリ付着している土塊を払い落さないと、農民の命とも謂うべき大切な”土”まで一緒に捨てる事となり、畑の外へ運び出せないのだ。だからその乾いた土を、しっかり払い落す一々の動作の際に立つ埃が 未だ収まらぬ裡に、次から次へと又、新たな埃が 立ってゆくのである。詰り、蒙々たる土埃の中での、苦闘の連続と謂う事である。
       草除りは 耳の雲雀と 動く手と
頭髪から首筋から、埃と混ぜ合せた汗は 肌を流れ下り、肌着を泥にして、脚の方へと下がっていくのである。互いに隣り合って進んではいるが、”撤した無言の勤行”である。そう言い表わすより外に表現の方法の無い作業である。 これが 昼食時を抜かした、日がな一日中 続けられるのであるから、物事を考えるより、無心に草の株を追って動く 眼と腕先に 駆使されている・・・ と謂う以外に無いのである。
       雲雀の声ばかり 畑で草を除る
一枚の畑の終る3、4時間が一つの作業の単位なのである。そして、その中に 更に細分される小単位が、一畝(うね)の桑のトンネルを、こっちから 向うに抜ける一苦行で 刻まれていく のである。
一畝終ってトンネル抜けて、向うの明るみに出て、立ち上がって 周囲を見廻して 一息吐く時の爽快さ。こんな爽快さと謂うものが、他に有るであろうか。
一つ、区切りを刻み終った!と云う 成功感 と 安堵感。盲目漢の世界が 闊然と展開して、広々とした桑海が光り、微かな空気の揺らぎが、こよない涼風となって 肌の熱気を癒して呉れる気分。実にすばらしい。

「お昼にしろ。」 と優しく呼び掛ける姉の声に、畑を出る。青葉の陰に 沈めて措いた 「メンパ」 の袋を担いで、林の中の 湧き水の近くに出る。
『メンパ』 と云うのは、木を薄く剥いで 円筒型に作った 木製弁当箱である。
俗には 「一升メンパ」 とも謂った。詰り、一升の米を炊いて 此の上下両方に詰めると 丁度一杯になる、と云う事である。深さは身、蓋とも同じなので、母は身に一杯、蓋に一杯、ご飯を詰め、中間 (身の御飯の上)に 瓜、大根などの味噌漬のベッコウ色に成ったのを挟み、両方を合せて呉れたのである。
近くに生えている ススキの枯れた茎で、新鮮な箸が 即製される。「メンパ」をぱかっと割って、身を姉に、蓋を俺が取り、味噌漬を分かち合う。他の菜入れも開けて昼食である。冷たい湧きき水の 澄んだのを、菜入れの蓋で掬って、メンパの御飯に 掛ける。そして カリカリと音のする味噌漬で サラサラと 口に入れる美味しさ。天下に あんな素晴らしい味の饗宴が 又と有ろうか。
あの場所で、あの新緑の下で、あの涼しさを感ずる肌で、あの清水を掛けたメンパ飯を、再び味わってみたいとは、今でも思う事や 切である。
『閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声』と謂う芭蕉の句をみて、後の人達が、あの蝉は ミンミン蝉か ニイニイ蝉と争った とかの本を読んで、一体 文学者と云う者は 何を詰らぬ事を ほざくのかと可笑しくなる。「岩にしみ入る」 と云う声で鳴く蝉は、あの俺の生れ育った、あの山で鳴いて呉れる、あの蝉以外に 絶対に無い筈だ。ミンミン蝉も ニイニイ蝉も、都会の近くの山で聞いた事はある。だが、あの、俺達が 『松ゼミ』 と呼んだ、あの声では全然ない。山全体を貫き通す と言うか、人の耳の感覚の外に はみ出して聞こえる と言うか、易しく言えば 「耳を聾(ろう)する」 とでも言うか、あの、鼓膜が 「シ一一一」 となったきりで、 《自分の耳は今、音が聞こえているのか?》 と 一瞬、疑ってみる程の
空漠さを 感じさせるものである。
その蝉の声を耳にしつつ、亭々と聳える高い松の木の遥かの隙間から、細く鋭く射し落ちて来る、爽やかに光る日光をチラッチラッと眩しく体のあちこちに映しながら、青草の中に身を横たえて、静かに 静かに 呼吸を楽しみながら、まどろむ二人なのである。
姉は幽かな寝息を立てている。何と謂う鳥か、胸毛が濃紫色に輝いて見える小鳥が、チチッチチッと鳴いて、直ぐ其処の、今し方、御飯に掛けた湧き水に沈み込んで、羽をプルップルッとやっている。《水浴びだ!》と思った。俺達が此処に居るのに気付かぬのか、気付いても、先刻からの長時間なので物体と考えて、生物と考えて居無いかも知れない と 思った。
あの景色、全く 四十年昔の事とは 思えない。若い記憶は強烈だったのか、深いのか、不思議でならない。
     ひっそりと 湧出にゆあみ する小鳥

★ どうして、こんなに辛く苦しい思いをしてまで ”草なんか”取るのだ?? 放っぽって置けば済むではないか?! たかが雑草、3 mもある桑の大木なら 幾らでも葉を茂らせるだろうに・・・と簡単に、農事を知らぬ私は思ってしまう。だが良い繭、高く売れる絹糸の原料と成る為には、そんな瑣末とも思える様な原初の段階から既に、全ての農事や事柄が ”豊穣” と云う 「質」 と、 ”豊作” と 云う 「量」への連鎖・連環を求めて、懸命に 必死に 始められているとは・・・!!




        ・・・以上、〔ザ・日本人/春&夏]・・・秋と冬は次回


                        
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