ザ・日本人
     かつて 日本人は、皆んな 農家に 生まれ、そして 育ったのだ。



           稲作田圃
   農業は芸術であり、稲と繭は、人々の 愛と汗と 祈りの 結晶である

田起こし
冬が明けて、田の面に春が来ると、田圃には先ず、一つの作業がある。
『田打ち』(ダブチ)と言う。一般的に謂う【田起こし】である。柄の長い三本刃(ミツッパ)鍬でポックリポックリ一鍬一鍬、日んがな一日中、家中で幾日かかっても全田圃をやってしまうのである。が、馬の在る家は【馬耕:ばこう】と云う事が出来る。馬の利発さが良く解る作業である。
馬の鞍から後方へ縄綱で馬耕の「鋤:すき」と云う代物を付ける。底が尖った鉄板で出来ていて、馬が前進すれば自然に地面に喰い込んで、地面を犂(す)き起こし行く作用をするのだ。
差換え手さえ左右に動かせば、左スキでも右スキでも自由に出来るが、この使い手に成るには修練が要る。慣れない者では、馬の速度に合った地面への突っ込みが出来無いので、犂がズズズズッと浅掬いのまま進んでしまったり、深く突っ込み過ぎて、馬が進めなくなったりする事ばかり繰り返していて、後で「三本刃」で以って、人が一々打ち直して歩かねば ならなくなる。
そんな所ばかりアチコチに一杯作られたら、後に田植え・代掻きの折、作業に差し障りが出て来るのだから困る。
父や兄がやると、まるで軽々と只、馬の後を従いて歩いているばかりの様に楽々と見える。田の土が、馬の後ろから面白い様にひっくり返っていく。
だから、その時期になると、馬持ち衆は他所の家に依頼されて、幾日も働く日が出来る。勿論、日当の御礼は下さるが。
そして母や姉は、田の隅の方で、馬では小廻りが効かない部分だけを、三本鍬で「田ブチ」をして、済ますのである。

此処まで話して来てみて、【馬】が 農作業に 如何に大きな役割をしていたか を つくづく思う。まとめて馬の残り話でもしよう。
俺の幼かった頃と、大きく成ってからとでは、馬に対する処し方も大分変って来た。幼い頃は人馬一体で、母屋は馬も含めての家であったのである。
馬屋(厩・馬部屋)の在る家には必ず「デエドコ:台所」が在った。其処には「大戸:オオド」と云う、家作の中で最大の戸が在った。
即ち、馬を飼う室は、二間(約4m)四方以上あって、地面より馬の背丈位に 掘り下げた土間にしてある。それが一ヶ年中に貴重な【馬肥】が造成されて、地面を越す程に成るのだ。ウマヤの出入口には「マセン棒」と称する太い棒が一本、馬の出入りを支えている。幅一間(約2m)位に取った太柱に、三、四段の穴を開けて、出す時・入れる時は、そこを外して行うのである。飛び越すには高過ぎ、潜るには低過ぎる所に位置させて措く。
その前方には地続きで、馬飼室と同じ位の広さの土間が在り、其処は諸道具、雑多置き場である。普通そこには大釜(五右衛門風呂の底にある釜)の握った竈:かまど、カイバを伐刻する押切器:ケエキリ、馬の鞍置場、鶏の夜どまり棚、農具置場(鎌、鍬、マンガ鍬、草履鎌などなど、その他一切)、そして張り出した縁側の下は揚げ蓋になっていて、ランプ用の石油缶など在るのである。そして外界との境に、その「大戸」なる物が在る。
子供には動かせない重量のある大きな物で、その真ん中に、人間だけが 出入り出来る 「くぐり」 と 云う、丁寧にも障子と雨戸が二重に付いた三尺に四尺位の出入り口が取り付けてある、 "分厚い戸" と 言うか "移動壁" と でも言いたい代物がある。夜が明けると之を開け、夕方になると之を閉じるのである。
ああ、一つ大きな忘れ物があった。風呂場である。風呂桶が厩に近く据えられているのだった。そして家中が食事する部屋・『オエエ』 は、『デエドコ』 と障子一枚隔てただけである。だから食事時に、馬が放尿する音は 勿論 聞こえるし、風呂に入って居ると 馬の鼻面が出る。止まり木に眠っている鶏どもが 寝声をするのも 聞こえるのである。
                        
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代掻き(しろかき)
さて、話しを戻そう。春になって「馬耕」(田打ち)が済んだ田圃へは、今度は【馬堆肥:うまごえ】(メエノコ)が 運び込まれる。それには先ず、「肥出し」 を行う。そして、掘り下られた馬屋の土間に 一年分たまった馬堆肥が、すっかり搬出される。空っぽになった地面露出の「ウマヤ」には、馬が気持よく休める様に、藁を一杯に敷き詰めてやるのである。それが 次年度の 堆肥第一号と成って、一番底に沈む訳なのである。
これから後は、女子供の作業である。田圃には そろそろ水が 用水から引き込まれて、土塊の底部には 水がジクジクと 来ている。
その田の中へ踏み込んで、馬の背で運んで 田の 此処 あそこに何十ヶ所と小山になっている 「馬堆肥:メエノコ」を手で 無理離して 散らばすのである。
あの馬が、あの体重で、一ヶ年かかって 踏み固めて呉れた、馬尿と 馬糞と 青草と 藁のミックス製品だ。何とも大した代物である。
この散布作業は、中々手間が懸かる。10枚の田圃全部終るには何日も懸かるが、一日で手の指から掌から黒黄色いドスと言いたい色に染まり、幾ら石鹸で洗っても落ちばこそ、致し方ない。
完了した田には水を張り、土塊が見え隠れ程度にする。
【代掻き】だ。馬の無い家は家中で出揃ってゴッチョゴッチョ、ゴッチョゴッチョ足踏みの、やや進行形と云う運動が始まる。これはエライ事だ。
馬の有る家で、然も「代車」の在る家は大いに楽をする。代車と云うのは、細い鉄製の輪車を一本の軸に10箇程(確実には覚えていない)連ねたノを2軸付けた車の上に板を張った物を、馬に曳かせて田の中を捏ねくり廻すのだ。(その10×2=20個の重い輪車と、馬の4個の蹄が、田の土塊を捏ね潰す)
その板の上には大人が乗って、馬に曳かせる舵を執るのである。代車の買えない、馬だけの家では、馬に長い綱を付けて、鞭を持ち、ハダカ馬に田の中を踏ませるのだ。馬が人の周囲をグルグル何周も廻るノを繰り返す訳だ。
俺達は石の代りに、楽しみながら、大人に利用されたのだ。と言うのは、父と一緒に代車に乗って、その肩に掴まったり膝に座ったりすると、重量が増すから石を乗せる代りになるのであって、俺達から言うと、広い水田の真っ只中を舟に乗った様な気分を味わうのだった。友達に頼まれては、父や兄に同乗の許可を取ってやったものだった。
「一番代:ジロ」「二番代」と云う様に、重さの必要度が変化するのである。何時どんな時でも、どの田の時でも同乗させて貰えると限らないから、前以って父達に相談かけて措かねばならなかったのである。代車の有る家は、そう何軒も在ったのでは無い。
一番代が終ると、田の畦(土手)に茂り出した青草が、田の中に刈り込まれ、山や川端、辺りの新しい若芽が、鎌で刈り取られて投入された。”カツチキ”と言って 「カツチキ採り」 は 一種の 肥料作り の 年中行事だったものだ。
その当時は、肥料と謂えば、田に入れた藁や青草や青若葉を腐らせる為の「石灰」があっただけと記憶する。金肥(金銭で購入する科学肥料等)と云う物は無い。馬の堆肥の無い家は、冬の田に藁と土を交互に積み重ねて置いてそれを散布したのである。

            
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馬との暮らし
その第一の「馬堆肥」の作られる過程だが、(それはエサを与える事と殆んど同義なのであるが)それこそ四季折々で 異なっていくのである。
【冬季】・・・青草の出るまでの冬期間は、秋に刈乾した”乾し草”が ウマヤの天井にギッシリ蓄えられてある(父・兄の秋の作業)。その乾し草と藁が、毎日「オヤツ」代りに馬屋一杯にバラ撒かれる。馬は その中の 好きな草を 好きなだけ食べて、残りは自分の寝床にしてしまい、翌日は自分の尿と糞で堆肥に踏みつけてしまう。そして翌日は又 翌日で、飼主が奉仕して呉れるのだ。
その外、三度の食事は 別に与えられる。何かで出動させられる折は別だが、普通は 「ケエキリ:押切器」で藁や乾草の上等の所を刻み、「フスマ」 と云う 麦の脱穀皮を粉末にした物を購入して来てあって、それを混ぜて「カイバ桶」に入れて与えられるのである。
【春から夏】にかけての青草の時期になると、父や兄は朝の作業として”一ダ”(馬の背にビッシリ荷着けした6把のこと)は必ず刈って来てでないと、その日の仕事には入らぬと云う激しい労働に入る。そして其れを「馬の飼料」兼「堆肥」として、馬屋に投入用意をする。
その1把たるや素晴らしい量で、完全に1、2日は使える。詰り早朝、馬は自分の「オヤツ刈り」 に 付いて行って 刈って貰い、背負って来る と云う訳になり、それが人間にとっての ”堆肥” にも成る と云う訳である。だから夏分は一日に2度程、水をバケツで「飼桶」に汲んでやるだけで、結構のどは渇かぬで済むらしい。激しい作業時には”大豆”を茹でて呉れたり、特別の折には「モミ:籾」の下等物など御馳走してやる折もある。
本当か人間の勝手な言訳かは知らぬが、『余り旨い物を喰わせると”ネエラ”(病気の一種)になる』と謂われていた覚えがある。従って野原も木の無い原野も、農家にとっては大切な代物の宝庫なのである。
そして【秋】には《干草刈り》が、馬持ち農家の大きな行事になる。長い柄の鎌で薙ぎ刈りにして置き、水分の抜けた頃に束ねてウマヤの天井にギシギシ積み込んで飼料兼堆肥原料にするのである。
病気になって動かなくなると、近所の馬持衆が集って来て、天井から荒縄で馬体を吊るし立たせ、舌を紐で縛って動かなくして措いて、薬をドクドクと口に注ぎ込んでやるのである。一升瓶で酒を注ぎ込んでやる処は覚えている。
又は病気が軽い頃は、塩を口腔中に塗り着けてやったりもしていた。何うしてもダメな時は、「専門の人」が隣の村から来て呉れた。
何う手当してもダメの場合もあったのだろう。小泉山の頂上に松の木立に囲まれた大きな大きな穴がある。「馬の墓」だとされていた。夕方大勢で埋めに行って、夜中に帰って来る。その時は夫れ夫れが、何分かの馬肉の分け前を持ち帰るのである。勿論、公然の秘密なのだが、俺は見た事も会った事も無い。ただ父から聞かされたのみであった。  「馬」では在るが、農家にとっては、それは大きな「金」の損失である。それこそ一大事である。

堆肥作りとして話さねばならぬ事は、ウマヤの一隅に在る風呂の事である。
これは町家の人の様に、健康上 血液の循環が どうの此うのと言う 次元とは異なる。全く別な目的が存在するのだ。その最大の違いは、使用後の湯水の扱い方にある。入浴後の風呂湯は翌日、大喜びでウマヤに散布されるのだ。それが(馬堆肥にとっての)馬尿の不足、即ち、干し草の水気を補い、養分の補強効果を果たす、大切な工作・工夫なのであるからだ。
だから、『馬の有る家のみに風呂(桶)が在る』 と云う形に 自然になり、風呂の立つ晩は 近所の人達で大賑やかになるのであった。又、風呂を持つ家でも、他所の家で沸かすと「貰い風呂」には皆行くし、来て呉れれば歓迎もするのである。
皆、お茶の仕度がされてある一座敷に入って、世間話をしながら順番待ちをしたり、お茶を頂いたりする。炬燵の上に 漬物や煮物を沢山 出して、勝手にやったりして賑やかいのである。
夏の風呂は、それこそ間遠(入浴間隔が長くなるの)である。従って来浴する人数も多くなり、夏の夜更けまで続く。後から来た人は、前の人の風呂を焚き足して遣りながら、涼風の中で夜話に耽る。その湯水も大切に汲み出され、庭に萌え盛っている作物の根元へ灌けてやるのである。大切な肥料とされるのだ。土蔵と母屋の間は、広い百野菜畑に成っているのであるからだ。

                        
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苗代なわしろ作り
ついでに 苗代(なわしろ)作りも 話しておくか。

2月15日の【十五日おかゆ】を掻き廻した太い「ぬるで箸」は、挟んだ繭玉を抜き取って綺麗に洗い、再び神棚にあげて置く。そして其れは ”農家の一番の 仕事始め” とも謂うべき、春の田の 「苗代:なわしろ田」の水口に、青い「サワラ」の葉を添えて、お祭りするのである。どの家にの苗代田にも、それが必ず祭られて、今年一ヶ年の豊作が祈られる シンボル と 成るのである。

他の田には未だ手を着けない裡に、苗代田だけは早目に作り始めるのだ。
それと謂うのは、 他の田が、「苗」を植える準備が整ったら、直ちに 苗を植えなければならぬ。その為には、それまでに既に・・・
1・種をまいて、 2・芽が伸びて、 3・植えられるだけ充分に成長した苗・・・に成って居なければならぬのだ。
春の河水が氷が無くなって生き生きして来ると、農家では、昨年の秋に取って置いた種籾(たねもみ)を「かます」(藁を分厚く編み込んだ大振りな入物袋)に入れて、用水の中に”ほとばさ”ねば(浸して水分を孕ませねば)、早く芽を出させる訳にはゆかぬ。そこで先ず、種籾を土蔵から出して、大きな桶に塩水を溶かし、その中に”ほとばす”(浸して水分を孕ます)。
すると、実入りが思わしく無いノは 塩分の比重に負けて 浮き上がってしまう。それは掬い取り、除いてしまう(塩水選と謂う)。十分、塩分水に耐えて重みの有るノだけを「かます」に入れて用水(路)に浸し、板と石を重しにして、上も下もなく 全体に浸せるよう 配慮して 沈めて措く。
籾(もみ)が充分に、水分と水温を受けて 発芽の態勢に成るのを待つ一方、一枚の管理の良い田を選んで決め、其処を【田打ち】(耕)し、【代かき】:しろ掻き(荒く耕した土を 細かい粒状態にする)をして土を造り、下肥(しもごえ:人糞尿)や必要な肥料を充分施して、均して置く。
そして、その田一枚だけを塗り堅め、整田して待つ。
籾(もみ)が用水から揚げられると、父親は、注意深く、苗代田に作った水田に踏み込んで、一歩一歩ていねいに、上手に、籾種を 泥の中に播いていく のである。厚すぎても 薄すぎてもいけない。熟練である。
そして毎日、朝夕、注意して見廻って、水深を 調節する。可愛いらしい 芽が出て、やがてそれが 微かに水面に頭部を露わす様に成ると、一層の注意が要る。春とは謂え、信州も特に諏訪地方は寒冷である。柔らかな幼い新芽に、ひとたび霜でも掛かったら 一大事である。忽ち 古茶色に 焼けてしまう。
夜は増水して水没させて霜を防ぎ、昼は減水して地温を高めてやる。細かい注意を毎日してやるのである。
今は、ビニールと云う物が考案され、それが利用されて、この霜害防除が楽になって来た様だ。俺達の幼時は、昔からの習慣の儘だったのだろう。
どの家でも 田の一隅を採って、こうした「苗代」(なわしろ)を一つずつ持って
「苗」を育て上げたのである。

            
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〔本田準備〕
       (土手叩き・畦掘り・畦ぬり・豆まき・代かき
この苗が生育するまでに、一般の田圃は、その受け入れ態勢、すなわち、「早苗植え」、つまり「田植え」の出来るまでに用意せねばならない。
先ず第一に【土手叩き】がある。山裏地方は、八ヶ岳山麓に造られた村落であるから、何れかの方向が上(かみ)、その反対が下(しも)と成って、其処に自然、「土手」 が 築かれねば、「水平面の水田」 は 出来ぬのである。
平地に近くなれば 土手が低くて済み、一枚の田も 広い面積が取れる。
急斜面になる程、土手に支えられる 水田面積は 小刻みに 狭い由と成る。
有名な姥捨山の”田毎の月”の話は、急斜面に小作りに沢山の水田を作った
”棚田”の代表的な物である。その水田の生命線である「土手」が凍み(しみ)の強い諏訪、殊に山麓地帯では一冬過ぎると、地面が凍み上って、春先に溶ける為に、地肌がポケポケに成って来る。此処を、大きくて重い、平盤型に造った木製大槌で、叩き固めてやるのである。すると、浮き上がった雑草が落ち着くのである。雑草が固められた地面に、改めて根張りして 土手を張り廻して呉れる と云うのである。この「土手叩き」は、強力でなければ出来無い作業の上に、唯叩くだけで無く、槌の面が地面にピタリと打ち下ろされねばならず難しい。
その次が【畦ぬり】(あぜ塗り)作業である。この 畦ぬりは 更に技術の必要な作業で、これも亦 誰でも 力さえ有る大力者なら と云う訳には ゆかぬ仕事である。俺は中学時代に 「土手叩き」は 何とかやった事はやったが、「畦ぬり」だけは 終ぞ、やってみた事が無く終った。
先ず第一段階は【畦掘り】と謂う。畦にする昨年の旧い畦の跡に、改めて鍬を入れて、綺麗に角張った ”芯の土手型”を 削り取っていく、詰り一種の彫刻と言うか、掘り出しである。旧い 膨らみ崩れた 余分の地塊を 画然と切り削り、その畦の”骨格”とも謂うべきモノをぐるりと田の周囲に作ってしまうのである。
腰を中腰に屈めて、注意深く 切り削って行くのだから、文字通り 骨の折れる作業である。グルリと梯形に掘り廻らすと、今度は田の内側の今の骨の裾の土を鍬の先で丁寧に細砕していくのだ。見て居ても腰の痛む思いのする作業である。終ったら水口(みなくち)から水を、その砕土に引き廻す。
水が廻って来たら、今砕いた土を泥に捏ね上げていく。よく捏ね上げて、頃は好しと観て取ったら、今作った骨格の上部と斜面部に、その泥を厚目に乗せる。乗せたらズリ落ちない裡に手早く鍬の平面部でペタペタ、ペタペタと叩き抑え付けていく。直ぐ振り向いて再び叩き抑えて戻り、又振り向いて今度はス一一ッス一一ッと鍬の面を上手に操って滑らかな表面に塗り上げていく。
一呼吸で 二間(にけん)か 一間半(3〜4m)位の間隔に 作業範囲を自分で適当に区切って、次々と進めて行くのである。
気も使い、腰も使い、腕も使う、素晴らしい重労働だと思った。泥の捏(こ)ね方と水の量が難しく、下手な人がやると、斜面部分がズリ落ちたり、堅過ぎてサ一一ッと塗り上げる時に、鍬が滑らないで見苦しい物に成ったりする。
「勘」の必要な作業が、農業には幾つも有る。所謂”熟練度が物を言う”事が多いのである。下手な人は、綺麗にしようと 滑らかにする 最後の所を、二度三度四度もス一ッとやって居ると、折角上げた泥が底部へズレ落ちて、骨が現われそうな畦に成ってしまう。
この素晴らしい工芸品は、農家の人が お互いに大切にし合い、三日四日の間は絶対に踏まない様にする。だが、よく、苦労を知らない町の人や商人、又はそう云う素人達が、心ない下駄の跡など付けてしまう事がある。

足跡が付かない程度に、新しい畦が乾くと、俺たち子供に出来る 【豆まき】が 始まる。身長より少し短い位の、ステッキよりやや太目の棒の、先を尖らした 「豆突き棒」を持ち、腰に ビク一杯の大豆を入れて 始める。
二人でやっても良い。先ず大きい方の人が、目見当で約3、40cm間隔に、豆突き棒で、固まり始めた畦の 斜面上部と 上面外側に 「穴」を突いて行く。後から小さい者が 2、3粒ずつ 大豆を その穴に落して行く。次の人が、その穴の一方を 指先で豆に蓋をする様に、土を押し被せて行くのである。一人で三役やっても良い。二人で手分けてやっても良い。
これが一ヶ年分の大豆の収穫になるのである。素晴らしい量である。しばらくして、若々しい薄緑の可愛い豆達がズラリと並んで頭を擡げて来た時は嬉しい、そして素晴らしい光景である。
畦が すっかり出来上ると、これで 田に水を張っても 水漏れが無くなるので、今度は 田の 広い中央部の 耕作に掛かるのである。この作業が、前に書いた【代かき】になる訳である。
その代かきが待ち遠しい様に、「苗代」の苗は成長して、鮮緑の美しい絨毯の景観が田圃中のあちこちに現出して来るのである。

                        
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田植え
【田植え】と云うのは、体を完全に二つ折にして一日中働くのだから、苦労な作業である。従って”田植え賃”は高額なのが定評である。苗の根元を折らぬ様に苗代田から抜き取っていく作業と、その苗を根元から折らぬ様に、本田に植える技量は大切な技術で、これが一人前に出来る人は、農家の賃稼ぎに出動できるので、非農家の女衆は皆、手伝いに行っては覚えるのである。
そして、この時期は、どこの家でも、一時に大勢の手が必要なので、そう云う人達を頼み歩いて確保して来るのである。なるべく一斉に済ましてしまわないと、苗は一日でグンと延伸してしまうから、全田では不揃いを来たす。だからその時季にはお互いに日を交換し合って、助け合って一挙に片着ける方策を取る。互いにやれば、賃金も出し合わずに大勢で出来る訳だ。
これを 『結い』 と謂って、農家同志で よくやる習慣が有る。
「おい、お田植え ゆいにして お呉れや。」
「家へ代シロに来てお呉れやれ。お田植えにゃ又来るで」 と云う式である。

先ず 【苗取り】、これは難しい。これだけは慎重にやらないと、とんでもない事になる。と言うのは、これほど苦心酸胆して作り育てた苗を取り上げる際に、根元を傷めてしまったら”お終い”だからである。大体の家が、田植えをしようとする日の早朝、「苗代田」に行って”苗取り”をして、それを一日の中に植えてしまう。翌日は又、同じ順で繰り返していく・・・
早朝、朝日の出ない裡に 皆で ミカン箱と 小さい布団を 一枚持ち、裸足で、脚絆をしっかり履き、結える藁束を担ぎ、緑色の絨毯の田に行く。水田の中へミカン箱を沈め、その上に小布団を敷いて、藁を傍の水面に浮かせて措く。
先ず腰掛けて、おもむろに手を深い泥田の中深く入れて、水中の苗の根元にスウッと縦に、静かに指先を揃えて、くすぐる様に突っ込み、根元を傷めぬ様、細い毛根の先から、泥ごと丁寧に抜き取る。
5、60本一緒に根こそぎにこぐ(扱ぐ)。水面近く持ち上げたら、ピチャピチャ、ピチャピチャと水中で揺り動かして泥を洗い落す。
水面に出ている部分が5cm位の優しい苗だが、こうして掘り取って観れば、全長25、6cmな根元の太い立派な苗で、更に長い逞しい根が生き生きと付いていて頼もしい限りである。その一掴みを、藁を取ってクルリと束ね、後方の水中に浮かして次の束の抜き取りに移る、と云う仕事の繰り返しである。
大体 今日の作業分は出来たと見ると父が「さあ、いいらよ。上がっとくれや。」と声を掛ける。皆、田から上って泥の脚絆と裸足を用水で漱ぎ、草履を履いて朝飯に家へ引き上げる。家では、泥の支度でも食事できる様に支度がしてあるので、その急ごしらえの食卓とも食堂ともつかぬ場所で朝飯をとる。この後は、体を二つ折にして作業する様だから、一休み 食休みしてから「お田植え」に出掛ける。

田の中には父が もう、さっき採った苗束を目分量で 田一面に散布してある。
植えるには先ず、不必要な足跡を付けぬ事が 大事なマナーである。せっかく代かきをした後、日を経て泥田を程よく鎮静し、苗の根着き良くしようと苦労したのに、「ボクリ」と大きな足跡が付いたら、其処へ植えられた苗は着きが悪くなる。深すぎて”水かぶり”になれば「浮き苗」になって枯れてしまう。
なるべく大股に泥を荒らさぬ様、静かに歩く。横でも縦でも良いから畝(うね)が通らないと、風通しが悪くなって生育に支障が有るし、時々行う除草その他の作業に不都合である。
縄をピンと張って、その縄に布で株間の幅を示す赤布が付けてある物、三角形の木の枠を作り、それを転がしながら、その枠の付けた泥の跡に植えて行く工夫など、方法は色々だ。兎に角、後ずさりに植えて行くのである。
先ず、【一本植え】・・・之の事は絶対のこと!「毛根の先」を指先に掛け、泥の中にズブズブと突っ込んでしまえば、浮いて来ない。根本などに泥が有ろうが無かろうが、そんな事は泥水が自然に土を掛けて呉れる。
兎に角、『毛根の先を 確実に 泥の中に 沈める事!』 が 大事である。
一番嫌う 「突っ込み苗」 と 云うのは、毛根でなくて、”根元”に指を掛けて 泥に差してしまう事である。それは、その時点で既に、根元を折っている事になるのである。そして 「浮き苗」。足跡の凹など構わず 手応えも無いのに、其処へ無責任に 置いて行くこと。3,4歩下った頃に、もう横になって水面に浮いて来る。一本でも見付けたら必ず責任を以って、深く改植して措く事である。
植える時にはたった一本でも、秋の収穫時には分散して大きな一株に成り、稲穂が房々と14,5本実るのだからである。農家では「落穂拾い」と謂って、刈り取る時に誤って取り落した一本の穂でさえ粗末にしない習慣なのだから、浮き苗一本でも 如何に大切かが 解るだろう。
各自が責任を以って行っていった心算の作業でも、翌日に父が見廻れば、浮き苗が有ったり突っ込み苗が有って、手間を掛けて改植して歩くのである。どの”田尻”にも幾何かの”補植苗”を置いて、苗代田も全部、
「早苗植え渡す夏は来ぬ♪」 と なってから、活着した頃合を見計らって、もう一度、全般の誤植株を見直して廻り、田植え作業は完了するのである。

            
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日常の水田管理
       (水見・ベロ虫除け・田の草とり
これから秋口まで、【水見】(みずみ)と云う大切な仕事が、毎日、朝夕、最も重要事項として一夏中、取り行われるのである。
起床して、何を置いても、田の「水見」に田圃を一巡して廻るのである。
豆の葉が大きく成って来ると、畦はその葉で蔽われ、土手の草が繁ると、それも道を塞ぐ。一枚一枚の田の畦を、耳を澄まして水洩れの音を探聴して、全田の水加減を見て廻るので、スネから下は河の中を渡ったと同じにびしょ濡れになる。朝の露の為である。
うっかり、蛇の穴か野ネズミの穴か、モグラの穴を見逃して、そのまま過ぎると、日中の日照りに、すっかり稲を乾し上げてしまうからである。無事の時はホッとするが、水口からは充分に水が入っているのに田の水が浅い。《不可しいぞ!》と思って、引き返して丹念に耳を澄まして廻ると、ドロドロドロと音を立てて、ポッカリ開いた大きな穴から、地球の奥へ吸い込まれている、田の水が見つかる。
これは単に水の乾燥の問題だけでは済まされぬ。散々苦辛して、肥料を混ぜて作製し上げた”肥満の水”を、無駄無駄と地底に放下してしまった事になる。肥えた水を逃し、用水の無肥の硬水と替えてしまった事になるのだもの、勿体ない限りで口惜しいのである。
土手のうま(劣化し)ない様に、土手の雑草も早めに早めに刈らねばならぬ。
農家は多忙である。春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋と、立て続けに迫る 蚕の飼育。
その間にやらねばならぬ 野菜畑の 植え付け、施肥、中耕、そして 桑畑の、
取っても除いても吹き出す様に出て来る雑草の退治も、やらねばならぬのだ。”目の廻る忙しさ” と謂うのは、本当に農家の事である。
稲の活着が 決まった頃、鯉子を放飼養 したりもする。それから、油断も隙も無い 「ペロ虫」 が 湧いて来て、優しく成長しようとしている稲の葉の、葉緑体を舐めるのだから 堪ったものでは無い。
長い棹の先に桶の様に取り付けた「ペロ虫取り器」を、田圃じゅう振り歩いて、時々除かねばならぬのである。これを少しでも怠ったら一晩か二晩で、すっかり成長を 妨げられてしまう のだから 恐ろしい。
そうこうして居る裡にも、穂苗の根元の周囲を掻き廻してやらないと、「アマンドロ」と云う微生植物が蔓繁して、日光の浸透を妨げて、根分け作用(根株の増殖)を阻害してしまう。
この【田の草取り】と称する作業は、出来る限り早めに早めにやって行かないと、一ヶ年では、大きな不作の原因を作ってしまうのである。
この作業中に苗の葉先で、よく眼球を突いて眼を病ったそうだが、段々考えて金網で面を作り、顔を覆って作業する工夫を思い着いた。だが此の「田の草取り」も、田植え以上に苦行である。
家中、横一列に並んで、一人で四畝ぐらい分担して、畦間を一歩一歩踏み進めつつ、一株一株の根廻りを五本の指で掻き廻してやるのである。そして、途中に不必要な雑草が在ったら、抜き取って田の外に出さねばならぬ。
一番の害物は「ヒエ:稗」と云う一種下等な稲の同族だ。肥料など皆無でも繁茂する強悪な下等植物だが、肥料の有る水田に入ると猛烈な繁殖力を発揮して何う仕様も無い。然も除去できるのは、穂が出て来てからの時なのだ。出穂前までは紛らわしくて、殆んど目立たぬのが、生き残りの手の様だ。
除き取ったヒエの穂は、燃やしてしまう以外に法は無い。大勢の中には、よく、自分の事しか考えぬ人が在って困るものである。「稗」を抜き取って、平気で道路に投げ出して措く人、酷い人は河に投げ込む。道で落ちた「稗の種子」は道の近くの田に入って、来年の害の原因を作り、河下の農家は、水と共にその種子を受けて、来年の凶悪の害をもたらす。そこで各村では場所を一定して「稗捨て場」の立札を建て、後にその山に火を掛ける方法も採っている。
斯くて「稗」は、折角の肥料を充分に盗吸収して生育し、子孫を残していくのである。養蚕などの多忙で、一時この除去時期を失すると、来年は酷い事になるのである。通る人が笑って言う。
「なあんだ。ここ家(ね)えは、稗を作ってるだかえ。」と。だから、『穂は出たが未だ実らない』裡にサッとやってしまう事だ。

                        
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堰浚い(せぎサレイ)
今となっては、季節の判然としない物事も色々ある。大体の時期は見当つくが、何月頃か となると 思い出せぬ ものの一つに 「セギサレエ」 が在る。
堰浚い(せぎサレイ)とは、農業用の水路を掃除する作業である。前日の裡に村中に「触れ」が廻る。触れとは、各戸に次々と 口伝えで 伝言を廻す事である。多分、今でも やっている のではないか と思う。その時季は 川に魚が居たのだし 子供達は皆その川に入るのだから、温暖な時だった筈だ。大人は兎も角、子供達は、それこそ「手薬煉ヒイテ」待ち構えるのである。
さて、その用水だが、最初の取入れ口から村の上までは、小泉山の北山麓を掘り割って、その割り砕いた岩砂を積んで高い土手を築造をしてある。だから冬の間に、その日陰の堤堰が凍み上り、春になって解け崩れなどして水洩を起こしている心配が有る。又、一年の間に柳川から流入して来ている新たな土砂を、再び除いて掘り深めなければ、村の中央を抜けて村の西方の田圃を灌水し、更に隣の玉川村までを潤す、安定した今年の水量を確保できない。だから特に大人が大勢で協力してやる作務は、この区間である。
(村の西方を下:シモと謂った。地形の降下している方面。東方は上手:ワデと謂う)
この山麓の堰は、村の上、約1キロ近い間で、夏でも此処へ掛かると、涼風が動くほど陰冷なまでに急斜面の樹木が切り立った、北側にそそり立つ場所である。左下は雑藪が気味悪く黒々と錯綜して大蛇でも秘むかと思われる所を隔てて、遥か向うに主流が流下している河原がチラホラ散見し得る。
右手はワングリと洞穴の半割りを想わせる様な、頭上に蔽い懸る岩崖の赤黒い荒膚。その膚からは一年中、雨だれの連なる様な恰好で大きな雫が落ち続けている。そして半円を描いて開吼している断崖は、何処かで絶えずガサッと気持の悪い音を立てて、風化岩滓を落し続けているのだ。

枯れた雑草藪蔓樹枝を除去し、岩滓を片付け、反対側の左斜面に投落する狭まった道筋を整える等々をする為、村中で各戸最も屈強の一人を必ず出す申合せになっている。自分達が直接朝夕使う「用水小せぎ」と、村に在る全水田の一年中の水利に関係ある事なので、誰も彼も自主的に用具を考えて持ち、其処へ集まって行くのである。
【神ヶ洞】:じんがどう・・・そうである。正に「神が洞」の名に相応しい凄い用水路である。この用水路からは、村の上、即ち「神ヶ洞」の出外れの所で二つに岐れる。その一つが思いも掛けず、観音山の上よりも村の上:カミの方が高いのだ!と聞かせれると、誰でもその意外さに驚くのである。だから、そんな関係で隣の粟沢村の衆も、この日この作業に協同して居たのかなと思えるのだが、はて、そこまでは知らない子供だった。
兎に角、子供達は、用水を見つめ、今か今かと 水量の減るのを待ち侘びるのだ。大人の作業が上流で始まると、先ず用水の流れが赤く濁って来る。
嬉しい。胸がワクワクする。段々と減って来ると喚声が聞こえる。用水堰だから そう大した獲物は無いのだが、何しろ宝拾いの様なものである。
一時にドッと減るのであるから、思い思いに移動して飛び廻るので、前の人が探し尽くした跡へ行っても、とんだ獲物が移って来て居たりして、面白いのである。「うなぎ」の大きな物が見付けられる折も有るのだから、堪らない魅力が有るのだ。まあ、何時の年でも、『泰山鳴動』 の騒ぎ であるが、それが楽しいのである。各戸の庭先に金ダライが置かれ、何がしかの獲物が、静かにヒレを動かす頃には、用水の水量は又、朝の量に復しているのだ。

            
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           養蚕桑畑
       根限りの連続、詰り、”苦闘の連続! ”と謂う事である。


コボ育て
春立つ 小鳥の歌に 誘われて、家の中も 家の外も 田圃も、春の仕付けで
活発に動き出し、野山の緑も 夏へ夏へと息づいて 生動し始める。
その頃になると、冬の間 一番 人の出入りの多かった、正月も親類が集って祝った、そして俺たち子供宿の 楽しい娯楽宴会場であった 「下座敷」 は、
八畳のたたみ全部が片付けられてしまい、ネコ(厚手の藁ムシロ)が敷き詰められる。 そして周囲の新芽に誘われる様に、伸びた桑の葉が初夏の風に揺れ出す頃、蚕種(タネ)屋さんに依嘱して措いた【春蚕:ハルゴ】の種子(タネ)の 『催青:サイセイ』 が 出来た! と 知らせが 来る。
(それは、丸で ”菜種 の 粒” の 様な 姿をしたものである。)
この報告を かねてから待つ母は、家中の 人の手を借りて 隣室(下座敷)へ 己の全部の必要物資 (暫らくは、その空間に籠もって暮らすのだから、新聞を読む眼鏡、硯箱、贈答控え、子供の学習用具など、沢山の小物類)を移し 四方の境になる所を 外気が入らぬよう 紙で目張りして 閉じてしまう。
その上更に、室全体がスッポリ包まれてしまう大きな紙を張り合わせ、渋柿の液で加工して丈夫にした物で、野営テントの様な具合に包んでしまう。
その中には勿論、蚕養棚や養蚕カゴ(篭と言っても、障子1枚大の 平板な 竹製の盆)は仕つらえて在る。詰り 其処が一定期間の「蚕室」と成る訳なのだ。
その特殊空間(部屋)へ一旦、稚蚕が入れられたら、母以外は出入りしない。用事は 声の応酬で 済ませ、どうしても 入らねば 用の足せない時は 先ず、出入り用に 一ヶ所だけ覆ってない 障子を開けて 部屋に入り、障子を閉めてから、その張り子の紙幕の切れ目の方へ廻り、其処から注意深く、その幕紙を潜って 蚕室に入る。
蚕室の中はドヨンと生温かく、母の頭上には 厳しくも、湿寒計が下げられて在る。母はその寒暖湿度計を1度たりとも狂わせじ!と、持ち込んである火鉢の炭火と、その中央に掛けてある湯盆の湯気を調節しつつ、稚蚕に給桑しつつ、成育を監視し続けるのである。軽い掛け布団を一枚持ち込んで、それに包まって二十四時間の勤行の連続が始まるのである。
【コボソダテ】と云う行事(仕事)である。・・・(♪ 私見だが、方言で赤ちゃんの事を「こんぼこ」と言う。コボソダテとは『コボ育て』、即ち「子んぼこ育て」=「赤ちゃん育て」「保育、愛育」・・・恰も自分の赤ん坊の如くに、愛情を持って稚蚕を育て上げていく・・・その様な接し方、態度、姿から来た呼称ではあるまいか? 父には、もう訊けない。)

蚕は 喰桑すると糞をして 成長するが、短期間に育成するものだけに、2給桑くらい毎に、その残桑と 糞との糟(カス)を 除去してやらぬと、病気にやられる。その防止の為に、取り換え用に 使用する”網”を 「モジ」 と 謂う。モジは成長に合せて、細目・中目・大目・荒目 と云う順に 換えられていく。
蚕種(タネ)屋さんから、紙に大切に包んで 持って来られた『催青:サイセイ』(卵が適当な温湿度を掛けられると青味がかった黒色に変わる処から来た言葉かも知れん。学術的な事は俺は知らぬ。)と呼ばれる卵が、円形に付着した「蚕座紙:さんざし」には、もう早い1、2匹が殻から出ている場合があった。多分、そうした保温した室に来れば直ぐにも全部が脱穀するのであろう。
母が鶏の羽で作った刷毛(はけ)で、静かに静かに「カゴ」(長四角の竹製大盆)に掃き落として居る姿は、貴く尊い様であった。多分、「おっかさまに色々言うじゃねえぞ。」 と 強く戒められて 入所許可を取った所為か、子供ながら自身にも 《大切な仕事をして居るのだ。》 と 思えたのかも知れない。
俺も、大きな刃と柄の付いた桑切り包丁で丹念に幅1ミリ程に刻んだ「テンバ」(新芽の頭頂部を摘んだ物)を大切に給桑した。中学に進んでからも手伝ったし、小学校上級生の時だってやった訳だが、単なる「手伝い」の域を出ない為に、責任の無い観察さえ、して居無かったのだ。だから俺には細かい技術的な、そして学術的な、正確な養蚕の知識は無い。
卵から剥けたばかりで、産座紙の上を這い廻り、刷毛でカゴに落された物は 2 ミリ位の 「黒い毛虫」 で、 【毛蚕さま:ケゴさま】 と 謂う。
その毛蚕さまが、母の親身の 「コボソダテ」 に 拠って ”一眠” に入る。
すなわち、”第一回の脱皮の用意”である。何日かかったのか、何時間かかったのか覚えていないが、やがて、その毛蚕が ”一眠”から醒める(第一回脱皮をする)と、皺だらけの 頭デッカチ 尻すぼみの 「二齢の蚕」が、ザワザワと 篭(カゴ)の静謐を破る。もう、こうなれば、蚕室(下座敷)を覆っていた、厳重な囲いは 除った のでは なかったろうか。

                        
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10コシリ取り
そうしている間に、「二階」は 4室全部が、養蚕室らしく 片付けられ、準備万端に 用意される。片付く と言っても、二階(4室)は 元々から、全て 「養蚕専用に 建てられた」 階 だから、もう室の両側は 「二間棹」 を、枠で組んで 天井から下まで ”造り付け” に してある。但し、篭(カゴ)は秋に、一年間の養蚕の済んだ後、全部を河原や池を使って洗浄し、日光消毒をして 一ヶ所に蔵して在った物を、 4部屋に配分する。棚は雑巾で、一本一本を、約 150 本 近い ”二間棹” を 拭いて措く。床も綺麗に掃除する。何と言っても、骨身を削り寝食を節して飼育しても、『病気!』を出したら 全てが無駄になり、一年間の収入が零となるのだ。給料取りで謂えば、家族全員が 半年禁足を喰らった以上の 憂き目を 食う訳である。だから棚だって時々、河原へ持ち出して洗い清め、新しい縄を使って結え直すのである。
桑の葉と蚕を乗せる【カゴ:篭】の大きさは、障子1枚分位で、縁は竹で作り、手触りの良い様に藁で被い、縄でギリギリ巻きした、竹で作った長四角の大皿である。其れが 一室の両側に、夫々15 段の 棚で、二階一杯に 並ぶ訳である。だからカゴの総数は15段×2列×4部屋=120枚になる訳である。
蚕が外気に触れても差し支え無い齢に成ると、二階へ放されるのである。

【ヤスム】(休む)・【オキル】(起きる) と云う 成育現象は 面白い。蚕は結局のところ、己の持つ体袋ギリギリまで太ってしまうので「ヤスム」と謂う事に成る。
もう、与えた桑には 喰い付かず、体の下に 自分の脚部を 密着させ、頭部を ツンと上に向けて 突き出し、すまし込んでしまう。この時、間違って 人間が、その脚部を動かしてしまい、折角 密着させた足場を狂わせると、その蚕は 脱皮しようにも 古い皮が付き纏って、古い袋から抜けようと、グルグルもがいて苦しむが、結局、死なねばならぬ。だから、4回 巡って来る 「ヤスム」 時は、
家人は細かい配慮をして遣らねばならぬ訳である。「一眠オキ」・「二眠起き」・「三眠起き」・「庭起き」 と謂うのは、脱皮作動が 無事済んだ事である。

「二齢」、「三齢」 頃は 未だ カゴの重さも 優しい。だが、【庭起き:ニワオキ】と呼ばれる「4眠終り」の(4回脱皮した)蚕の体は、太さも長さも逞しく成って来て、カゴも重くなって来る。即ち幼虫の形態としては最後の脱皮である4回目を終え、いよいよ営繭する(サナギに成る)時を迎える「四齢」の蚕である。
斯様に神経も体力も酷使する養蚕では、子供にとってお手伝い出来る事は、精々「桑摘み」(桑もぎ)だけである。小さいビク(竹籠)、大人と形は同じでもホンノ可愛い物を担いで、家人と一緒に桑もぎに行く。小さい形のツメ(指に指輪の様に嵌めて、その端に付いている刃で摘む)を作って貰って、大人の邪魔にならぬ様に、練習とも遊びともつかぬ作業をやるのである。自分の籠に一杯になると、後はその辺の山を飛び廻り、草花を玩び、草の実を獲りなどして帰りを待つ。
最近の養蚕法は大分改良されて、人力が省かれる様になったが、俺達の頃は”筋肉の戦い”であった。【給桑】するには、駅の弁当屋さんがプラットホームで一休みする時に使うX型の折りたたみ台を各自使って、足腰でバランスを取りながら、殆んど腕の力だけで、一枚一枚カゴを揚げ降ろしして遣るのである。農家の人の腕の強靭に成る理由は、こう云う事が一杯ある訳である。
稚蚕の時は、【蚕尻取り:コシリとり】 (糞と残滓の片付け)も 独りで操作できるが、大きく成ると重いので 二人で組まないと出来無くなる。
台を二つ並べ、一枚には 新しいカゴ、他方へは 棚から降ろした蚕のカゴを乗せる。二人で蚕の載っているモジ(網)の四隅を持ってピンと引っ張り、トントンと二度ばかりカゴの上で底を突くと、モジに乗っている食べ残り桑と蚕の外にくっ付いている 蚕糞が 下に洩れ落ちる。ピンと 引っ張らないでやると、みんな真ん中に丸まり集ってしまうのである。それを新しいカゴに移す事だ。
古いカゴには一日中行った4、5回の給桑の残滓と糞が残る。それを傍に払い落して措く。お蚕さんは実に気持良さそうにサワサワと辺りを頭を動かして探す。一日に一回は必ず之(コシリ取り)を遣ってやらないと、順調の発育を妨げるし、発病し易くなる訳だろう。「庭起き」してからの蚕(最終の幼虫姿態)は、食欲旺盛であるので、糞も大きくなり、軟らかくなる為、二人の足の裏に厚くビッシリとひっ着いて来る。履いている上履など重くなってしまって、履いてなど居られなくなるので裸足になるのだ。その又足が此うなるのだ。何でも構わないから傍に在る物に擦り着けて落し、作業を続けざるを得無い。
中学時代のお手伝いは、大体夜の夕飯後になるので、姉と二人で夜中まで掛かってやった事を思い起こす。二人とも、もう眠くて堪らず、半分眼を閉じた位の状態で行い、終わった途端もう、一階下の寝床まで降りて行く力も無く、その「蚕糞:こくそ」の山の横に倒れて眠った事もあった。それでも 夜が明けると 姉には容赦なく、又 今日の作業が 待っているのである。
本当に、『 ”根限り” と 云う 作業の ”連続 ”』 で ある のだ。

            
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11桑もぎ
一階には一室 、板の間が在り、其処には 重厚な 『桑切り器』 が有る。
その器械は 四角型の横長い物で、箱型の底部は、その骨体の前方に備着されている刃渡 80cm程の 大包丁の柄と連撃されていて、包丁を上げると 一刻み前方に 迫り出す仕組になっている。その中へは桑がギッシリ詰められて、蓋がされて有るので、包丁を下すとザクリと 桑が切断される。その幅は 蚕の齢に合わせて 加減できる様になっている。そして又その蓋が上手く工夫されていて、厚い布地が張られているが、それは押え付けた中の桑が前方へ移動される度に、その布だけがずれて一緒に前方に迫り出す妨げの作用はしない、訳になっている。その代り、その蓋の布は一回毎に元へ戻して次の作動に移る事にしてある。大きな刃物の付いた動具なので、この辺では子供は絶対に付近に寄せ付けない。誤って挟んだら大人の腕位は簡単に切断されるからである。之を ガシガシガシガシと 2、30回上げ下しすれば、一回分こなれて 蚕の食べ加減の幅に成り、切り口も着くから 蚕も食べ易い訳だ。
その、摘んで来た桑の葉を置く室は、出来るだけ奥まった 暗っぽい 冷っこい一階か地階 (二階の無い家は穴蔵など利用)に入れて、なるべく凋枯気味にならぬ様に貯蔵する。時には口で霧を吹き、上下を掻き混ぜて、濡れ布で蔽ったり、絶えず管理を厳しくする。
桑の葉が切られるを、もどかしい程の気持で待って居た「給桑係」は、その裁断された葉を『ボテ』(給桑用の大籠)で二階に担ぎ上げ、早速に給桑する。「切り手」は 切り続ける。「呉れ手」は 呉れ続ける。
蚕が喰い付いて一斉に食べる音は、五月雨が新緑の葉を叩くに似ている。
朝の給桑をして、桑もぎに出る。帰ると給桑場へ採取した桑を空ける。ビクにギッシリ詰めて大人が腰をギシギシ軋ませて、やっと家まで背負って来た桑はビクの中で 熱を持っているので、大急ぎで空けて 展散せねば いけない。
昼食して給桑して、桑もぎに出る。帰って来て給桑する。桑もぎに出る。帰って給桑して夕食をとる。ここで「コシリトリ」(蚕尻取り)をする。給桑して寝る・・・この作業の回数は覚えていないが、『一日中 休憩無し』 である事だけは 頭に残っている・・・。【庭起きからの作業の一週間】は、この様な激しさである。

桑もぎだって、この「四齢期」は、全家総出なんて生易しいものでは無い。
かと言って、少しでも給桑が閊えて不足すると、【ヒキる】生理作用が不自然に成るので、作った繭の重量に影響する。詰り、金額に響いて来る。桑もぎの
その中途で雨(夕立ち)に見舞われる時の惨めさと謂ったら無いのである。濡れた葉の給桑は出来無い。下痢を誘う。家の中の処構わず、何でも敷いて、拡げて干す。ただでさえ忙しい折に、その余分な時間と労力が 必要になるからである。泣くにも 泣けない と云う 状況になる。そればかり では無い。
一枚一枚の桑はツメで摘むのだから、両手の指先は指紋が消えてツルツルになり、やがて皮が薄くなって血が滲んで来るのである。手拭を破いて一本一本の先を巻いても、作業は中止できないのである。あの痛さと心の焦りと、積りに積って来た疲労・・・只、《あと、もう三日!》とか自分の心に言い聴かせて、歯を食い縛る以外に無かった。辛かった。

時には、こんな不測の事も起きる。畑の広さと桑の育ち具合で、その期毎の(一年で4期)、蚕の「ハキタテ量」を予算立てするのである。が、気候が寒気となり、蚕の食盛期が延びる場合がある。詰り、涼気の為、蚕が 《もう少し食べてから》 と 云う 傾向に なってしまうのだ。さあ、大変!
大体八日分(七日位が普通か?)はと立てた予算が、九日食われると、そこ一日分の桑が畑に無い訳だ。村中さがすが、有れば良いが、大体の傾向は似て来るから、各戸で騒ぎ出す。一日でも早い家は、村中の融通で間に合うが、遅れた日付になった家では大騒ぎで他村へ飛ぶと云う事になる。それも枯れ気味の物は喰い付かぬ。胃の痛く成る様な緊張が続く。

農家の生活は此うであるが故に、「ヘヤ」と謂って一室は特別に成っていて、家中が万年床に並べて在って、バタン・キューと眠るだけの毎日である。農事の境目に時折、全部の布団を出して、日光干できれば上々と云う処である。
その布団だが、工夫は生活の中から生れる、と云うもの。秋も 終りになる時、
「スベ」 と 謂って、藁の裾の方に 付着している 軟い部分を、「ガヂ」 と称する 小型の鉄製熊手(五本指を曲げた恰好)で掻き取って集めた物を 敷き布団より一周り大きな袋を作って、ギッシリ詰め込むと、厚さ30cm程のぷかぷかしたクッション満点の袋が出来る。これを 「スベ布団」 と称する。それを家中の部屋に、父が新造して呉れるのである。それは それは 温かで、天下一品である。だが、それも、取り換えの秋には旧いのはペシャンコに成っている。尤も一日、日光に晒すと、ポコンポコンに膨らみ返る。
兄は、俺が物心ついた頃は、夏は二階の一隅に寝て居た。夕食を済まして色々やって、さて寝るかと兄と一緒に二階に行くのが楽しみだった。冬の穴蔵で草履作りをして稼いだ金を一部とって措いて、珍しい菓子が何時も床の隅にしまって有って、それを貰って二人で食べて寝る事が嬉しかった。又、
『八月:やつき』と謂う、八ヵ月の稼働期間だけ泊まり込み、三食付で雇用されて来て働いて呉れる人達の部屋も二階の一隅に在った。二人位は常時いた。時には夫婦者が来て居て、夜、夫婦喧嘩をしていた事も印象にある。

                        
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12ヒキ拾い
さて、「ニワ起き」 してからの ”激戦” は、「ヒキる」事で 頂点に達する。
【ヒキる】と謂うのは、4回の脱皮を完了し、充分に給桑され成熟した4齢の蚕が、蛹(さなぎ)に変態する為に営繭(えいけん)できる体調になる事である。まあ簡単に言えば、繭(まゆ)を造る準備が、完全に整った状態である。
蚕の体が黄色がかって、透明に成るのである。そう成り始めたら、忽ち、もう、時間を争う問題になる。ましてや、丁度その日が好天候だと来たら、湧き返る様な速度で、全蚕が 「ヒキ」 始める。本能的に、所構わず営繭を始める。
普通は腹部 (俗に ”頭” と謂っている所)が透き始めると、全員が総掛かりで 『ヒキ拾い』 を 始めるのである。
給桑の台などに 載せてやる 手ぬるさでは、とても 間に合わない。何処でも好いから カゴを 棚から引き降して来て、「ヒキた」物を選び出してしまうのだ。
一方、『ムズ』 掛け役 (ヒキた蚕だけを載せた状態のカゴを、特別に ”ムズ” と謂う)は、その拾い集められた蚕を、素早く 「カゴ」 に、一定量ずつ計って 散在させ、手早く上から 『ヤトイ』 を かけてやって 棚に収めてやる。
すると蚕は 見る見る裡に、そのヤトイの中へ 繭の形を造り上げていく。忙しそうに体を くねらせ廻して 一生懸命である。
この 【ヤトイ】 と 云うのは、蚕が繭(まゆ)を固定させ易い様に(蚕の寝床として)、人間が「波形に加工した”藁(ワラ)”」の事である。秋の片付けが済んだ折、新しい藁を「ガヂ」(小型熊手)で、裾の無駄皮を掻き取って綺麗にした物を「ヤトイ織機」に差し込んで、左右交互に、その胴中に抑え込む様に畳み込むと、『波形の藁』が出来上るのである。それを藁で結え、何千と積重ねて冬を越す間に、その波形は固形化されて、「カゴ」の上に拡げても結構、伸びず倒れずに、蚕の ”営繭の場” に なる 訳である。
( ♪ : 矢型のトイ。雨が伝い流れるトイの如く凹型に窪んで、繭の着床を補助する、
  その矢形(波形)の形状から 「矢トイ」→「ヤトイ」 と謂われるのか?単に 雇う か?)
この 「ヤトイ織り」 は、両腕の力で力を込めて畳み込む仕事なにで、腕力の有る男でなければ出来無い事である。俺は兄が病気に成ってから 東京に出るまで、即ち中学生時代は 一手に引き受けて毎年この 「ヤトイ織り」をしたのである。これは屋内でする仕事なので、秋末で無くても、冬に雪が降ってからでも、春先でも良い。養蚕室の西隣り2室は、カゴを積み蓄めたり、「ヤトイ」を天井まで積み高めたりする部屋である。
どんな多忙であったとて、無事に「ヤトイ」込んでしまえば大成功である。

蚕の”ヒキ”が早過ぎて人手が足らず困った場合など、全く目も当てられない。堪らなくなった蚕はサッサと、仲間のザワザワしているカゴから抜け出して、棹を伝って天井の横へ造り始める。もっと弾んでしまった奴は、カゴの裏や縁に造り始めてしまうのだ。蚕は、本格的な繭を作る前に先ず、周囲に生糸を掛け巡らす。寝床とする概略の巣懸けをしてから、その中に本格的な繭の形を作り始めるのである。詰り、ヒキた奴が糸を吐き始めて最初に作るのは、未だ繭本体では無く、その準備段階の寝床(着床)なのである。
それを引き剥がのだ。とは謂うものの、その外形を造る生糸を一回無駄にさせたら、繭を造る分の糸目が、それだけ減量される訳である。それが ”一粒 幾ら” と云う 金目な宝であるから、そんな事を幾つも遣られたら、大きな損害に成ってしまうのである。でも実際には、そんな場所へ懸けられたら尚 始末は着かないから、少しは損しても、それは覚悟で、早く見付けて、巣懸け始めの裡に、中身の蚕を剥き抜いて、本場所へ移してやるのだ。だが、もう、一度そうしたノは、慣れない人の目にも判然と見える程、浪費体調が見えて可哀想である。その位、瞬間を争う事柄なのである。
もうザンザン騒いで来ると、そんなせせこましい事は言っては居られない程、室中が湧き立って来る感じである。群中から選んで拾っている裡は好いけれど、こうなって来れば一枚のカゴの中で「ヒキ」た蚕の方が多くなって来る。もう堪らないので、カゴの上に縄で作ったモジを蔽う。するとヒキたのは桑など見向きもせず、それに這い上って来る。それを素早く取って「ソレッ!」という訳で、それこそ猫でも杓子でも居る所へ依頼する。もう、子供も子守も老人も、道通りの人さえ掴まえたい心境なのだ。
「ヤトイ手」は文字通り汗だくもので片付けねばならない。給桑も回数など考えて居無い。拾い残りの未熟蚕は集めて直ぐ給桑する。するや残り蚕は狂った様に喰い付いて、その裡からもどんどんヒキが進行して行くのである。

            
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13マユかき
上蔟:じょうぞく(蚕がヤトイに入る)してから一週間位経つと、蚕は繭の中で蛹(さなぎ)に成り、振ってみると好い音がする。その時、幼虫時代に菌を宿していたノは 蛹に成り得ずに、営繭中途で病重くなり 死蚕となって、不完全な薄皮の中に 黒く透けて見える。之が沢山出たら大変である。
だから、その為に、幼虫育成中に色々と気を配って育てる訳であるが、それでも尚、給桑最中に 湿気を食わせたり、消毒不足で 菌に犯されたりして、
”伝染病”でも出たら、悲しいを通り越して悲惨なものである。それを乗り越え 何とか ヒキる 最終段階を 迎えても未だ、この様に、不完全な繭が出て来る のだから、養蚕農家に 油断は禁物なのである。・・・そして、やっと、喜びの
【繭かき】 (マユ掻き)が 始まる。 激闘の後の、朗らかな 収穫行事である。
別して追われる条件は無く、楽しく家中が蚕室に横一列になり、又は明るい縁側に出て来る者、ゆっくり作業の出来る場所に、営繭したカゴを棚から引き降して来て、世間話に花を咲かせながら 「繭を掻く」 のである。即ち、ヤトイの中に巣掛けした 『繭を 一つ一つ丁寧に 拾い上げる 』 のである。潰さぬ様、汚さぬ様、注意さえすれば 良いだけだので、頭も そう 集中力が要る訳では無い。力も勿論要らない。この時は、女も子供も男も病人でも好いのである。

その繭を売る方法には変遷があった。俺の幼年時代には、個人の「繭買さま」が来て繭を調べ、”火ジロバタ”(囲炉裏端)で父と対話し、雑談して居る裡に父と「繭買さま」が 交互に袂(たもと)の中に手を差し込んで 値決めをする。
どんな事をするのか判らぬが、決まると、その繭を売る事にして、現金の何がしかを掴ませて喜ばせて帰るのである。・・・その裡に、共同売買が考案され、一ヶ所に「繭買さま」が皆集まって来て、中央の卓の周囲に席を占め、売り手は自家物の平均的な部分を其処に提示して評価して貰う訳である。
即ち、売ろうとする繭を全部そこへ持って行く。世話人は無作意に(少量の時は全部を)、中央卓上に出す。各買い手は手に取って、その質を確めた上、黒皿の中に希望落札値を記して伏せて出す。世話人は即決する。作業員は各自の持場(買手の)へ掻き下ろして持ち去るのである。
仲買人(繭買さま)の家は、家中が 繭の山になる。それを 本社(製糸工場)
から来ているテッポウ篭 (竹編の直径80cm位、高さ130cm位)に 木綿袋
(ボテと謂う)を広げ入れて繭を詰め入れる。そして何本も荷作りする。
それから後は運送屋さんと馬持衆の受け仕事になるのである。俺は中学生の折、馬方衆の仲間に入れて貰い、荷の着け降しは大人に依頼して賃稼ぎをした。南隣の家が 仲買人をしており、何時も依頼されていた家だったので、そうして呉れたのだろう。 家から茅野駅を越し、諏訪大社・上社を通り越し、
”真志野”と言う 四つ目の村まで大勢衆と行った。
今考えると湖水(諏訪湖)向うで、岡谷からの方が遥かに近い所だったのだ。三里近いから10キロ以上は有った訳だ。行くと製糸工場特有の臭いがプーンと鼻に来て、荷受け衆に渡すと、工女衆の飯場で朝飯を出して呉れるのだった。飯は麦飯だったが、珍しいので、あのサッパリした舌触りが懐かしく美味しかった。一杯の味噌汁も小皿に盛った四切れ程の沢庵漬も変った味が懐かしい。現金を貰ったのか 後払いだったか覚えていないが。
斯くて一年4回の大行事(養蚕)は、次々と取行われるのである。この頃はもう、母のコボソダテで、次期の始動がはじまっているのだ。
春蚕(ゴ)、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕の四期が済むと、養蚕道具の大掃除が一家総動員で行われる。裏の河原一杯で、池の端で、秋の収穫作業の始まる迄にすっかり片付けてしまわねばならないのである。春先にやる家もある。

                        
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14桑畑の草取り
ここまで書くと、どうしても書かねばならぬ事は、苦しかったが、思い出の強い「桑畑の手入作業」である。幼い小学生の頃は一人前の仕事出来無いので、妹や弟の子守などしながら、精々大人達の小用足しや弁当運び、お留守居番位だった。だが、やがて兄が病人となり、雇人は来無くなり、広い畑に迄は、手が廻りきれないと云った「中学時代の日々」が思い出である。同級生は休日は山に湖に、今に謂うレジャーの相談であるので、自然俺は学校では話の中には入れず、多分いつでも浮かぬ顔をしてトンチンカンの返事でもして居たのであろう。何時の間にか俺は「矯風会員」と云うアダ名まで付いてしまったのが、その時代である。
母と姉と俺の三人だけが、我が家の可動人員である。従来の半分にも満たぬ員数で、然も女手と学生である。やってもやっても間に合う量では無い。でも何うにかして、なるべく他人様の賃力を当てにせずにやらねば、ただでさえ収入は益々減少していく。すぐの妹・志貴、そして美貴、赤ん坊の左千夫3人は何とか家で蠢いて遊んで居て呉れる。
姉と俺は大きな「メンパ」にギッシリ飯を詰めて布袋に入れて畑に出て行く。
冬中にすっかり葉の落ちた「夏蚕桑」(ナツゴぐわ)はス一ッと気持のいい線で畑を蔽っている。背丈は 一丈(3 m)余り。父が 夜なべで研いで呉れた「ボヤ切り鎌」を 腰から取って、一株一株 根元から切り取っていく。
この作業は 【桑ブチ】 と謂う。この作業は、別名「桑ブチ鎌」とも謂う、木の枝伐り専門の「ボヤ切り」で行うし、土手の草は 「草刈り鎌」と云う 薄手の草刈り専門の鎌で行う。更に、畑の地面に生えた雑草は、「草取り鎌」と云う 短柄の特殊な曲線をした鎌を以ってやるのだ。
【桑ブチ】された畑は、一面サッパリ散髪した形に変貌する。その刈り取った桑棒は、後で束ねて家に運んで呉れる。これは一年中の薪に成り、ささげ豆の巻き付き育つ 「手」に成り、完全に再利用される物である。
この畑には一面に、春の芽生えの胎動が息づいているので、他の畑作業を済ませた2週間後に来て見れば、一面の雑草が地に芽吹いている。その位の裡に除草してしまえば良いのだが、先行しなければならぬ作業が一杯あるので、遂い、その雑草を芝(状態)にしてしまう。1キロか2キロ、時には5キロも離れて畑が点在するので、殆んど村中の畑を駈け巡らねばならぬ。
畑には野菜あり馬糧畑あり、春蚕畑あり夏蚕畑あり、秋蚕畑ありである上に、水田とは異なって、村中の各家が 夫々の計画に沿って 運営しているので、全ての家が 季を一にして、野面(のづら)に出揃う と云う光景は無い。見渡す広漠たる畑の中にポツンと小さく蠢く態の俺の姉の姿は度々である。ましてや村の衆よりも一操作(工程)遅れ気味であれば尚更である。
汗ばんだ肌を広げて風を入れながら、二人で松林の木陰に入り、「メンパ」を分け合って食べる時の天下泰平さは何物にも代え難い。これだけは、やってみない者には、説明のしようも無い世界である。
何を話した事だろう。何時も楽しい話が引っ切り無しに続き、「さ、始めろ」と惜しそうに話を打ち切るが常であった。

苦行する者だけの 爽快
時間が一番多く掛かる仕事は、何と謂っても ”夏蚕桑” の 【草取り作業】 である。この冬の初め、又は春に先立って伐った桑の跡へ芽吹いて、忽ち成長した 雑草の除去であるから、思い出も強いのだ。真夏の太陽は 文字の如くジリジリと頭上真上から照り付ける。桑の丈は身長程あって、青葉がギッシリ繁茂しているから、風の吹き込む余裕は殆んど望めない。そんな中に、しゃがみ込んで、いざり歩きながらの 除草作業である。乾燥した畑の土は、ムンムンと立ち昇る。無風なのに、土埃は立つ訳だ。何故なら、地面にしっかり生え着いた雑草を、鎌でザックリ掻き起し、根にビッシリ付着している土塊を払い落さないと、農民の命とも謂うべき大切な”土”まで一緒に捨てる事となり、畑の外へ運び出せないのだ。だからその乾いた土を、しっかり払い落す一々の動作の際に立つ埃が 未だ収まらぬ裡に、次から次へと又、新たな埃が 立ってゆくのである。詰り、蒙々たる土埃の中での、苦闘の連続と謂う事である。
頭髪から首筋から、埃と混ぜ合せた汗は 肌を流れ下り、肌着を泥にして、脚の方へと下がっていくのである。互いに隣り合って進んではいるが、”撤した無言の勤行”である。そう言い表わすより外に表現の方法の無い作業である。 これが 昼食時を抜かした、日がな一日中 続けられるのであるから、物事を考えるより、無心に草の株を追って動く 眼と腕先に 駆使されている・・・ と謂う以外に無いのである。一枚の畑の終る3、4時間が一つの作業の単位なのである。そして、その中に 更に細分される小単位が、一畝(うね)の桑のトンネルを、こっちから 向うに抜ける一苦行で 刻まれていく のである。
一畝終ってトンネル抜けて、向うの明るみに出て、立ち上がって 周囲を見廻して 一息吐く時の爽快さ。こんな爽快さと謂うものが、他に有るであろうか。
一つ、区切りを刻み終った!と云う 成功感 と 安堵感。盲目漢の世界が 闊然と展開して、広々とした桑海が光り、微かな空気の揺らぎが、こよない涼風となって 肌の熱気を癒して呉れる気分。実にすばらしい。

「お昼にしろ。」 と優しく呼び掛ける姉の声に、畑を出る。青葉の陰に 沈めて措いた 「メンパ」 の袋を担いで、林の中の 湧き水の近くに出る。
『メンパ』 と云うのは、木を薄く剥いで 円筒型に作った 木製弁当箱である。
俗には 「一升メンパ」 とも謂った。詰り、一升の米を炊いて 此の上下両方に詰めると 丁度一杯になる、と云う事である。深さは身、蓋とも同じなので、母は身に一杯、蓋に一杯、ご飯を詰め、中間 (身の御飯の上)に 瓜、大根などの味噌漬のベッコウ色に成ったのを挟み、両方を合せて呉れたのである。
近くに生えている ススキの枯れた茎で、新鮮な箸が 即製される。「メンパ」をぱかっと割って、身を姉に、蓋を俺が取り、味噌漬を分かち合う。他の菜入れも開けて昼食である。冷たい湧きき水の 澄んだのを、菜入れの蓋で掬って、メンパの御飯に 掛ける。そして カリカリと音のする味噌漬で サラサラと 口に入れる美味しさ。天下に あんな素晴らしい味の饗宴が 又と有ろうか。
あの場所で、あの新緑の下で、あの涼しさを感ずる肌で、あの清水を掛けたメンパ飯を、再び味わってみたいとは、今でも思う事や 切である。
『閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声』と謂う芭蕉の句をみて、後の人達が、あの蝉は ミンミン蝉か ニイニイ蝉と争った とかの本を読んで、一体 文学者と云う者は 何を詰らぬ事を ほざくのかと可笑しくなる。「岩にしみ入る」 と云う声で鳴く蝉は、あの俺の生れ育った、あの山で鳴いて呉れる、あの蝉以外に 絶対に無い筈だ。ミンミン蝉も ニイニイ蝉も、都会の近くの山で聞いた事はある。だが、あの、俺達が 『松ゼミ』 と呼んだ、あの声では全然ない。山全体を貫き通す と言うか、人の耳の感覚の外に はみ出して聞こえる と言うか、易しく言えば 「耳を聾(ろう)する」 とでも言うか、あの、鼓膜が 「シ一一一」 となったきりで、 《自分の耳は今、音が聞こえているのか?》 と 一瞬、疑ってみる程の
空漠さを 感じさせるものである。
その蝉の声を耳にしつつ、亭々と聳える高い松の木の遥かの隙間から、細く鋭く射し落ちて来る、爽やかに光る日光をチラッチラッと眩しく体のあちこちに映しながら、青草の中に身を横たえて、静かに 静かに 呼吸を楽しみながら、まどろむ二人なのである。
姉は幽かな寝息を立てている。何と謂う鳥か、胸毛が濃紫色に輝いて見える小鳥が、チチッチチッと鳴いて、直ぐ其処の、今し方、御飯に掛けた湧き水に沈み込んで、羽をプルップルッとやっている。《水浴びだ!》と思った。俺達が此処に居るのに気付かぬのか、気付いても、先刻からの長時間なので物体と考えて、生物と考えて居無いかも知れない と 思った。
あの景色、全く 四十年昔の事とは 思えない。若い記憶は強烈だったのか、深いのか、不思議でならない。

★ どうして、こんなに辛く苦しい思いをしてまで ”草なんか”取るのだ?? 放っぽって置けば済むではないか?! たかが雑草、3 mもある桑の大木なら 幾らでも葉を茂らせるだろうに・・・と簡単に、農事を知らぬ私は思ってしまう。だが良い繭、高く売れる絹糸の原料と成る為には、そんな瑣末とも思える様な原初の段階から既に、全ての農事や事柄が ”豊穣” と云う 「質」 と、 ”豊作” と 云う 「量」への連鎖・連環を求めて、懸命に 必死に 始められているとは・・・!!

            
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      C
実り収穫
稲刈りと謂えば夜刈りに決まっていた。昼間の稲刈りなどは絶対見た事は無かった。



15、〔夜刈り 即ち稲刈り
話のついでに、風物詩的な 懐かしい話を書こう。今では 農作業が機械化され、農作業の手順が 機械に都合の好い様に 工夫されて来たから、風習まで大きく変貌してしまった。その第一に挙げられるものは、【夜刈り】 であろう。
当時、家には未だ、その又昔(江戸時代!)に使った道具さえあった。
その道具とは、高い棒の先に金具で皿の様な物が作り付けてあった。
父に訊いたら「今の様にカンテラの無い時、この上に”シデ”(松の根)を焚いて、灯り代りにして ”夜刈り” を したのだ」 と言う。もう 俺の 幼年時代には、
文化が進んで 【カンテラ】 と称して、四方を硝子で囲った 角長い金の提げ物の中に、石油を入れた物を入れて 火を点すものであった。
そのカンテラを、田の軟らかい土の中に立てた 長い棒の先に吊るして 明りにし、闇夜の 稲の刈取り作業を したのである。だから、晩くなって月が小泉山に昇ると、それはそれは嬉しい事であった。
『稲刈り』と謂えば「夜刈り」に決まっていた。昼間 稲刈りなどは 絶対見た事は無かった。その時期になると、田圃一面が「カンテラ」の燈が点々と散在して、《夜の世界が生きている!》 と云う感じであった。

※ なぜ、”夜”になんぞ『稲刈り』する必要が有ったのか??その答(必然性)は偏に、以後の(脱穀〜収納)作業が全て、未だ専ら人手に頼る、【江戸時代そのまんまの技術水準】であった為である。故に人々は、昼間でなければ出来ない刈干など、その後の膨大な作業量と時間の制約から逆算してみた結果、稲刈りは夜間の裡に済ませて措く必要性が有ったのである。

処が或る時、どこかの家で、家人が作業を切上げて帰宅したら、その田圃へ入って残りの稲を盗み刈りする事があった。それからは村で相談の結果、時刻を決めて総代さまが寺の鐘を撞き、その後の時刻に夜刈りをしている者は『盗刈りと見做す!』としてしまった。それが何才頃からだったかは覚えて居無いが、俺の可なり大きく成ってからの事だったようだ。それと謂うのは、俺の懐かしい思い出は、そんな鐘の鳴らない裡だったのだから。

母は色々の物を持ち運んで田圃に置き、俺が立ち疲れて、それを訴えると、刈った稲束を積んだ上に それ等を敷いて寝かし、上に暖かく色々掛けて呉れた。俺は遠く、近く、ザクザク、ザクザク、ザクザク、ザクザクと 稲を刈る音を耳にしながら、美しく輝く星空を凝視している裡に、何時の間にか眠ってしまうのだった。起こされて見ると、田はすっかり刈られて、黒い土の田に変わり、片隅に”稲束の山”が積み上げられ、その上に夜露しのぎのゴザが蔽われて全員帰り支度をしているのであった。
仰向けに寝せられて、ぬくぬくと温められながら、稲刈り音以外は、それこそ何も聞こえない夜の星空の数を数えるでも無く眺めつつ、ボリボリと『凍り餅:こおりモチ』(百姓の、大人子供共用の一年間のおやつ)を齧ったり、美味しく焼き作りして持って来て呉れてあるオモチなど食べた懐かしさ、そして、星の瞬きは 強く心の 眼の中に 残る。
帰る大体の潮時は、小泉の山の端に 『三つ星さま』 (オリオン)が 出たのを 目印とした。俺が段々と大きく成って、眠らずに田の中を飛び廻って居る裡に、段々と空の星が動いて形が変わって来るのを覚え、「三つ星」の座が近づいて来ると、嬉しかったものである。そして、
「おーい、三ッボッサマー デターッ!」 と知らせるのが、とても大きな一役を 果たした様な 気がして、楽しく 嬉しく 誇らしく 思って 安心した。

だが成長するに連れて、手伝いの内容が変って来た或る晩、一つ事を仕出かしてしまった。その傷は一生の傷跡を身体に残してしまった。
大きく成って、妹が二人も出来て、いたずらも十分出来る年頃と体力に成ったので当然、夜刈りの仲間に入れて貰いたかったのだが、家人は「未だ危ないデ」と言って許して呉れ無かった。
昼間、時折練習をしては、今度こそと頼んでもダメだった。でも自信は付いたので、昼間の裡に、稲刈り鎌を一丁隠して措いた。
俺の役目は、夕食後、家中が夜刈りに出払った後の、幼児(志貴、美貴)の御守をして、留守番をするのであった。母が美味しく餅を色々に味を付けて置いて行って呉れるのを妹達に呉れたり、色々やって遊ばせて過ごすのだ。
その晩は、何と言って妹達を騙したかは知らぬが兎に角、家人の夜刈りして居る「下(シモ)の田圃」へ行った。みんな「ザクッザクッ、ザクッザックッ」と気持ちの好い音をさせて競う様に刈っている。
暗いから俺の行った事など知って居無いだろうと思ったが、見つかった。
「刈るもいいが、手を切らねぇ様に、そろそろ刈れよ。」と遠くから誰かに声を掛けられた事は判った。皆と離れて、明かりから 遠ざかっているので、手許は暗いが、一掴みずつ、そろそろ 刈るには 差し支え無い様に 眼が慣れて来た。ザクリッ!ザクリッ!と気持が好い。「うまく刈れるか?」と声を掛けられて、「おう。」と返事を返して又、楽しく刈って居た。

そのうちに、《あッ!やっちゃったッ!》と思った。暗いから血が出たか何うかは判らないが、何だかヌルヌルする様な気がする。その裡に少し痛みが感じられる。《これは確かにやっちゃったぞ!》と思った。そっと逃げる様に田圃を離れた。その頃まだ村には電燈は来ていなかったので、村の中の真っ暗の道を飛ぶ様に帰った。そして、そっと戸を開いている縁側際まで来て、手を出して、しっかり握って来た右手を外して見たら、ひどい血だ。そしたら途端に痛み出した。が、之が知れたら又、当分、稲刈りは御預けだ。腰の手拭をビリビリ裂いて、左手の小指をギリギリ巻きにした。そして、その上へ無理して手袋を嵌めて、何食わぬ顔で家に入って妹達と遊ぶのだ。その夜は、兎に角ごまかせた。寝てから相当痛かっただろうが、そう云う事は覚えて居無い。

只、記憶に有る事と謂えば、陽の当る縁側に、父親の膝下に左腕をギュッと押さえ付けられて、身動き出来無くされた儘、湯呑茶碗に入れた煙草のヤニの溶かした液の中に、左小指を突っ込まれ、火で焼かれる様な感じを覚えてバタバタやった事だった。父の得意の消毒法なのであった。怪我をすれば必ず遣られる一手なのだった。曰く、「乃木大将はな、鉄砲で脚を撃たれると、塩を着けた縄でゴシゴシやったもんだ。」と。
左手の小指を縦に切り裂いてしまったのだった。何度爪が生え代っても、俺の小指の形は少しも元通りに成って呉れず、イタズラ小僧の(そんな心算は無く、おとなしい子だと思ったのだが)形見だか烙印だか残ってしまった。

                        
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16鯉とり
『稲も実がついて、もうこれ以上 水は要らない』 と云う頃になると、畦を通ると株間を背を見せて通っている「二年鯉:ニネンゴ」 の姿が、堪らなく 勇ましくも頼もしく目に映る。その天候の好い或る日、【鯉とり】をやるのである。
一家総員が一日がかりでやる作業である。小型のビクを各自 (父も母も姉も兄も、お手伝いも子供も)腰に付け、小川を堰き止め、大きな 「桑入れザル」
(直径70深さ60cm程)を沈め、もう一つの桑入れザルは、畦を切断して、田の水を放出する口に当てて、作業にかかる。
或る程度水が減じた処で一畝(ウネ)置き位に並んで入り、拾うというか捕っていくのである。そして一通り抜けるとビクの獲物を小川に沈めたザルにあけて来る。小さい俺には 愉快で愉快で堪らないが、なかなか上手く 捕まらない。捕まらないのが又 楽しい。川の魚を獲るのと違って、逃げられても 悲しくも 口惜しくもない。それよりも ピシャピシャと泥を引っ掛けられて 逃げられると、余分にも可愛くなってしまって、キャッキャッと はしゃいだものだ。少し小川のザルに溜まると、父か兄が 家の池へ 入れに運搬する。

田植えが終って、見渡す一面に 早苗が風に波を打つ頃になると、懐かしい【コイゴ屋】 が 村に入って来る。浅い大きな水桶を 天秤に担いで 爺さんが、「コイーーゴェッ、コイゴーーッ。」 と 叫んで歩く。ムケたばかりの、目の中に落ちて消えてしまう様な、可愛いと言うより 「小メックイ粒」 が、赤黒ゴチョゴチョと 泳ぎ廻っているのは 楽しかった。池があって、田の在る家は勿論の事、池ス は無くとも 田さえ在れば、求めて水田に放すのである。
百匹を”一ソク”と言って 数えてくれるのである。その数え方が また愉快だ。金魚すくいの網を紙でなく布で張った物を持っていて、掬っては数えつつ、
買う人の持っていった容器に移して呉れるのである。
掬って移す間中、口を動かしているその数え方・・・
「ヒトヨ、ヒトヨ、ヒトョ、ヒトョ。フタョ、フタョ、フタョ、フタョ、フタョ。ミッツョ・・・・
 ヨッツョ・・・・イツッョ・・・・ムッョ・・・・ナナツョ・・・・ヤッツョ・・・・ココノツョ・・・・
 トウョ・・・・十一ョッ・・・・十二ョッ・・・・。」
上は幾つまで言ったかは覚えていないが、どうも五匹位を単位にして掬っていたらしい。だからトウで五十匹なのであったろう。少くて五十匹、多くて二百匹位だったのだろう。大体、放したものは、外敵(猫、人間)にやられない限りは、殆んど育つのだから、余り サバを読む必要は 無かったらしい。但、育つには育つが、水田の水が溢れた折に取入口から小川に出てしまうノ、油断をして堤が崩れて知らずに居て小川に出たノ、などで 思わぬ減量する場合もある。相当大きく成ってからでは、田の畦に猫が待機していて掻き揚げていくノ 悪い人間が 夜中に堤を切って盗獲するノなどがある場合はある。

その ”コイゴ” を 放したのが、もう 12、3cmもの 成長魚になっている。「二年鯉:にねんゴ」と云うのは、一冬を家の池で過ごした昨年の田鯉を、再び水田に放すのである。だが此の場合は、田も或る程度深めに保水できる、見張りの効く里家近い所でないとイタズラされて大変なので、そうどこの家でも矢鱈にやると云う事はない。そして やるとしても、数も加減しないと無理になる。
二年鯉になると 20cmは越す 素晴らしい代物に成っている。これが池に入れられて 群泳している所を眺めれば、実に豊かな気持になれる。
獲るうちに水も段々干して来て、鯉の在り処が判然として来るし、掴み易くもなる。どうかした年に 「鮒:フナ」が混じっていた時には 賑やかなものだ。繁殖して数が増し、思わぬ大漁になる。二年鯉の中に鮒をわざと入れたのかどうかは知らぬが、鮒の大漁をした事が一年あって大騒ぎした事も記憶している。 又その当時、家の池にはズバ抜けて大きいのが四匹いたものだ。俺は未だ幼くて 覚えていないが、それは或る大水(出水)の折、上流の部落の田圃の二年鯉か又は、池が氾濫して溢れ出した鯉なのであったろう。兄が裏の河原へ行った処、河の瀬の淀んだ所に大きな鯉が一杯いたという。大きな柳川に然も大きな鯉が居る、その事が一つ考えられぬ事であるのに驚いて、兄が早速すくって来たのだ、と云う 因縁ものが 居たものだった。

こうした物達が 百姓の冬中の、そして一年分のスタミナ源に 成るのである。
だから俺達は 鯉の食べ方だけは 人に負けぬよう 上手に食べられると思う。
(鯉の身には 至る箇所に、 【矢骨】 と云う、釣針の如く 3方向に分岐した、見た目通りの ”矢の先っぽの形” をした、鯉だけにしか無い 独特の ”小骨” が散在して 在る為に、ガブリとやって ムシャムシャ食べる訳には ゆかぬのだ。箸の先で、余ほど丹念に 細かく解体しつつ、注意しながら食べないと、その矢骨が 咽元に喰い込んでしまい、簡単には取れなくなる。まあ、何度か 硬目の御飯を 丸呑みにし、それと一緒に 胃の中に落し込む しか方法は無い。その間中は 痛くて、話す事も 儘ならぬ、酷い目に遭う訳だ。)
従って海の魚も 他の川魚も、大きい物を食べる方法は 丹念に上手にやれる自信がある。親戚の人が来た、珍しいお客様が来た、今日は御祭だ、今日は御祝だ、今日は お御馳走するか、と云う様な折に、網で掬って来ては 煮て食べるのである。子供の思い出 と しては、前の日に来たお客さんに 丸太煮
(鯉コク料理)にして、突いて食べてもらった大鉢の残りを、みんな野良に出掛けてしまった陽の当る縁側に寝そべって、骨から肉を剥がすと大きな白い肉がぽっこり取れたり、鯉の脇の辺りを吸いついているとポッテリとした美味しい肉の塊が口の中に飛び込んで来た楽しさなど、微笑ましい思い出である。

            
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17イナゴ取り
秋のもう一つは【イナゴとり】である。これも「ハチの子」(蜂の幼虫)や「ツブ」(タニシ:後出)、「ザザムシ」(川底の水棲昆虫)など、長野県人の 「イカモノ喰い」と謂われる食物の一つだそうであるが、農薬を使う農家の田圃には居無くなってしまい、郷土の味覚は一つ減ってしまった。
田舎では家に田の有るのが常識ではあるが、家によっては2、3枚しか水田の無い家、又、村に3、4軒は 全く水田と云う 財産の無い家も在る。ましてや
町家に有る筈は無い。それで 誰言うとなしに、「イナゴ採りにかまけて、稲の穂を抜いて(コいで)行く者がある!」 という様な事が 言い触らされたり、又
「折角の大切な金の波間を 踏み汚す輩が居る!」 とか 謂われ始め、段々と
『他村の人の イナゴ取りを禁ず!下古田区。』 と云う立札が、村の田圃の方々に 建てられた事などもあった。従って之も、稲の在る裡は、なるべく自家の田圃で取る様になってしまった。
一番とれるのは、未だ朝日の昇らぬ 寒い裡が好い。イナゴの羽が霜に濡れ、寒くて元気も無いのだ。旭が照って来ると、それは 素ばしっこくなって来て、慣れない人などに捉えられる物では無い。従って之だけは”コツ”が物を言う。飛んでしまった後ばかりへ手を出し、てキャアキャア言って居る裡は、遊び以外の何者でも無い。稲を刈ってしまえば イナゴは全員、草の生えている土手に移動するから、それは又すばらしい漁場に成る訳である。が、その頃では、もう遅い。やっぱり、イナゴが食欲を満たしつつ、稲葉の間を渡り飛んでいる時が、最盛期であるのだ。
手拭を二つ折にして、両端を糸で縫った細長い袋が、一番手っ取り早い”入れ物”になる。何でも構わぬが 細長い程よいのである。そう云う袋を2つ3つ腰に挟んで出掛けると、一日位とり歩ける。
下手の裡は、1匹のイナゴを右手に持てば、もう何をする余裕も無いのだが、上手に成ると、5、6匹は平気で 掴みながら、次のノを 手中に納められる。
掌中に 収めきれなくなると、袋の口を開けて、手早く入れてしまう。その口を開ける時にも、コツが一つ・・・イナゴは物に掴まれば上に攀じ登る習性が有るから、袋の出口へ出口へと集って来て居る。そこで口を掴んでバタッバタッと2、3度強く振って、奴等を底に払い落して措いて開けないと、開けた途端に口から飛び出される。これで解る様に、三人でイナゴ取りに行っても、一人は袋に八分目も獲る間に、一人は半分も獲れない。もう一人は 「これっぽっち」 と 言われるばかりに 底にチョコリ と云う場合は 幾等でも有るのである。
それと謂うのは、1匹取っては袋を開けて入れて居るのと、6匹続けて捉えて入れるのでは、それだけ手間が違うのに、その入れる手間にも時間の長短があり、1匹まごまご入れている間に 2匹逃したら 何う云う事になるか?笑い事では無く、初めは本当にその様なナンセンスは幾等でも有るのである。
夕方帰って来ると、母はそれを釘に吊るして一晩糞をとる。翌日、朝食を済まして皆が座を立つ頃、父が大鍋に湯を沸かしたのへ放り込む。煮え切ったのなら未だ良いが、生温いと 鍋から飛び出す 騒ぎが起こる。で、見て居ると、
母は 蓋を左手に、袋を右手にして、バササッ!パッ!と 早い二拍子で 蓋の下に投げ込む早業を 演ずるのである。そして、茶褐色に変色したのを、庭へ蚕カゴ(平たい長方形)を出して、それに展開して日に干すのである。
そして、忙しい時季が過ぎてから、美味しく煮付けると言うより、炒(い)り付けるのである。 砂糖が相当に入るらしく、蜜の様に粘り着いて、入れ物の中に収められる。こよない栄養源であり、一年中の御馳走の片隅に鎮座する宝の食品と成るのである。

                        
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18消えゆく風景〕 (稲こき
稲刈りの話をしたから、やっぱり 秋収穫の 第一山場である 【稲扱き:コキ】 と云う仕事を描かなければ ならなくなった。考えてみれば この中にも懐かしい思い出が 一杯含まれているのだった。幼年時代の稲扱きが、夢のある愉快(と言ってしまっては大人に申し訳無いが)な作業であった。
田圃に山と積んだ稲束(今のハゼに掛ける様な、あんな可愛い物では無く、大人がやっと担ぎ上げられる 大束である) の傍に ”場” を 作るのである。
(その 稲扱きの現場・場所の事を、『ノンキ場』 と 皆が 呼んだ。)
先ず、自家から運んで来た 『ネコ:厚手のワラむしろ』を 敷く。其処へ家中の大人達が立った儘の姿で、横に (大人数の時は 向い合って二列に)並び、各自が 【マンガ】 と云う 稲扱き道具を 位置づける。その歯の下には 『箕:ミ』 を置いて、落ちる籾(モミ:殻の付いた米粒)を受けるのである。
その 【マンガ】 と云う道具の 原理は・・・ 櫛の歯の間に 稲穂を挟んで 手前に引っ張り、モミだけを、一粒ずつに 分離する (コき落す) 理屈である。 まあ
簡単に謂えば、自分の体幅と 同じ長さの 櫛を、歯を上向きにして 斜め前方に置き (真正面だと 腰の入った姿勢が取れない)その櫛の歯に 稲穂を引っ掛け、米粒をコキ落す訳である。
実際には、幅1cm、長さ25cm位の 長四角な鉄板で、尖端が三角に削いである物を 約30枚、稲の穂先が一本通せる位の間隔に 並べて固定した物である。大人がその間に入れる位の幅の脚を取り付けて、斜め前方に上向きに置く。そしてその底部に板を打ち付け、自分の体の重みで動かぬ様に仕掛け、位置づける。各自、傍へ稲束を持参して来て、一握りずつ取り上げては、【マンガ】に掛けて扱く(コく)のである。前方へパッと放る恰好にして振り下すと穂先の部分が歯の下部へ、茎の部分は上部にマンガに引っ掛かる。
それを片手で握り、片手で上から 抑える仕草を しつつ、腰を使って手前に引っ張る。すると、尖端の三角の所から歯の間に挟まれて、穂の先に付いている籾が ザラザラと 箕に落ちる。之を一日中、繰り返すのである。
箕の中には、粒々に成ったノ、 穂が千切れてしまったノ、5粒程付いた儘で 短く切れ取れて しまったノ 等々が 集っているが、やがて一杯になる。すると其れを、そのまま 「俵:たわら」 に入れる。繰り返す裡に、今度は俵が一杯に成る。そこで縄を咬めて、しっかり結え、隅の方に並べていく。

昼が近くなると、子供の嬉しい、待望の 楽園が 訪れる。 田圃の遥か向うに、大風呂敷を背負い、大きな荷物を持った家人(母とか姉とか)が見えて来る。飛んで迎えに行く。大きな提げ袋の中は、全員の食器である 外側が真っ黒、内側が真っ赤な、漆塗の木製の椀が入っている。深いのが汁物、浅くて大きいのが飯、小柄のノが菜を盛るノである。それを喜んで受け取り、大きな鉄瓶を提げて、ニコニコしながら田圃に上り、急いで臨時の宴席を作る。
皆は田の向うへ行って、体中に白く粉が着いた様になった自分の体の埃を、被っていた手拭でタンタンと払い落して食宴に集って来る。
提げて来た大鍋の中にはゴッテリと煮詰った味噌汁の南瓜(カボチャ)が溢れるばかりに入っている。漬物の大ドンブリ、昆布と鰊(ニシン)が之も味噌汁で煮付けた重箱など、文字通り「母が丹精こめて」作った料理が展げられる。
茶碗に注いだ濃い御茶に眩しい日光が射すと、何とも懐かしい光沢が浮ぶ。喉を潤している間に各自の前に盛り付けた料理が並ぶ。そして煙草を吸って居た父が一番殿りで、食事が賑やかく始まる。
家の中でランプの下で食べる食事よりも、何と華々しいと言うか、麗しいと言うのか、光に満ちたと言い表わしていいか、此の 「野良のお昼食(おヒル)」は格別である。そんな昼食時を狙って行商人が巡って来る。父が野良着の腹の中から鞣し皮の財布を取り出して、クルクルクルと紐を解き、長細く伸びた底に手を突っ込んで、【柿屋】から甘い柿を買って貰うのは、お祭りの屋台店で買う時の様に、楽しい 嬉しいものであった。
柿屋は大きなボテ籠の両方に甘柿を一杯詰めた物を担いで、又2、3枚、田を隔てて野食をしている隣の ノンキ場 へ行く。
子供達は、大人が稲扱きをしている間に、【落穂拾い】と謂って、夜刈りの際に束から落した稲穂を、畝をキチンと数えながら丹念に拾い集める仕事をしたり、ツブ掘り(タニシ掘り)を楽しんだり、その他、家への通信連絡係を仰せ仕かるのである。又、土手に逃げ出したイナゴは、打ち続く霜にすっかり元気を無くして草の中に屯して居て、直ぐ捕まえられる。

やがて頃合いを見て、万事多忙の父だけが、まず先に、昼食の空を提げて、家に戻る。村役の用事、子供の用事、家人の用事をひっくるめて先に帰るのだ。俺も一緒に付いて行く。帰宅すると父は、家に置いてある馬に餌を作って食べさせ、やがて馬の支度を整えて呉れる。
俺は、その馬に手綱を引っ張って、ポックリ、ポックリと村の道を通り、田圃の中を通って「ノンキ場」に到着する。そこで兄が、重い荷物付けをする。之は誰にでも出来ると云う事では無い。大人も大人、特に力の有る男が、かなりの修練を積まぬと出来る事では無い。あの籾(モミ)がビッシリ詰った凄い重量(籾タワラ1俵と謂うと、力の標準にされる単位にまで成っている)を、自分の肩に ヤッコラサと担ぎ上げて、(肩まで上がれば一人前の男だが、誰にでも上る物では無い)、馬の鞍の横に設えてある 縄の輪に入れ、他の端に伸び出ている縄口を ギュッ!ギュッ!と引いて締め、しっかと荷付をする。
その場合、荷が”片方寄り”せぬ様に、その下に 棒で 突っかえを して措くか、誰かに暫らく 肩を入れて貰って居て、手早く反対側へ、対(つい)に、なるべく均等に 荷付をする。之を4 回繰り返して、馬の背に4 俵積む。
すると、来る時は、呑気そうにポクリポクリと足を運んで来た馬も、流石に重いと見えて、首を立てて、力を脚に入れて踏ん張り、慎重に軟らかい田の中から道に出る。この馬が上手に、調子を取って道路に導き出されると、「それッ!」と手綱を俺に放って寄越す。
今度はパカッパカッと確っかりと慎重に歩を運ぶ馬を、労わる心持で手綱を執りつつ家に向う。大人のやる処を見て覚えているから、大きな石がゴロゴロしている所とか、土橋の上とか、大きな障害の在る所では、「ホレョッ、ホレョッ」と後向になって、馬の脚下を凝視めてやりながら通る。すると馬も、歩運びを加減して、何か、《どうしても 此処は 危険で 渡れそうも ない!》 と馬が感ずると、それこそ何としても、手綱を引っ張っても首を高り上げて通ろうとしないものである。馬は悧巧な動物である。
家に着くと父が来て荷を、さっきの逆の順序で降ろして呉れる。そして又引き返す。子供が居無い時は、又は大人が男一人しか居無い時は、「着け」「降ろし」両方を独りでやらねばならぬ。だから子供も立派な一人前である。
夕暮れ頃、稲扱きして居た大人達は、家の庭に干した籾の作業、『籾叩き』の時間を見計らい、諸道具を一ヶ所に片付けて霜除けを被い、家路に着く。

俺が中学に進んだ頃、「キカイ」と称する【稲扱き機】が売り出され、農作業の一大改革が行われた。其れは大きな動力輪が付いた、踏む事に拠って回転する 胴体の板材に、山形に曲げた 太い針金を 沢山 植え付けた物である。
これに拠って、乾燥する必要上、刈り取った稲は全部、田圃に長い干物場を作り、それに掛けて乾かす事になった。従って稲束は、それに掛けられる事と同時に、その機械に一度に掛けられる大きさの必要も生じて小さくする必要が出来、その省力化(一台で両側に陣取って交互に使用すれば、一家中で一日中にこなした量を、二人で半日かからぬ裡に片付けられる様になった)に拠って、何も暗い所で夜刈りまでする事は無くなり、稲刈りは昼間やって、そこで直ぐ干場に乾す事 (ハゼ掛け)に変わって、【夜刈り】の あの光景は
永久に姿を消し、【マンガ】も不要になり、無用の長物と化して、バラして他に利用するしか無くなってしまった。

            
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19モミ叩き
子供の面白い印象とすれば、「モミタタキ」の思い出が濃い。それと言うのは、この作業が始まる前には、未だ夕陽が相当、西の空に在る裡に雨戸を閉めてしまうのだ。そうしないと、作業の時に空中に飛散する「ノギ」と称する細かい粉塵が、家の中に侵入して来てしまうからだ。又、その庭に子供が居るとノギを被ってしまうし、そろそろ夕方で、外で遊ぶと云う頃でも無くなっているので、子供達は薄明るい部屋の中が面白くて、家の中に入るのである。
すると、庭で働く家人の『活動写真』が障子に映るのだ。然も其れがカラーで逆さまに映って動くのだから、面白くてゲラゲラ笑いながら眺めるのである。
ついでに【モミ叩き】の説明をするか・・・。
田圃に場所を構えて 家中で一日中 「稲扱き」 をした籾(モミ)は、「俵」に詰めて、その日に 家に持ち帰る。そして翌朝、田圃へ出動前に、広い庭(農家では昔は必ず、この作業をする為に 広い庭を 家の南側に 作ってあった) に、
藁を敷いて、之も亦、モミを干して「籾叩き」の目的が第一の、【ネコ】と呼ぶ、分厚くて素晴らしく広い藁の筵(ムシロ)を、4枚か6枚敷き詰めて、俵の中の籾を干すのである。「夜刈り」で刈って、山の如く積み重ねて置き、幾日も掛かって「稲扱き」作業で扱き落して、俵に詰める迄に、「モミ」は相当の湿気を吸ってしまう。だが、その湿った「モミ」 も、強い秋の陽射を 一日受けて 乾燥すると、カラカラに乾いてしまうのである。
田圃から引き揚げて来た一同は、その日のモミは庭の片隅に積んで置いた儘にして措き、朝から一日中、ネコの上に拡げて乾かして措いた籾の方を、莚(ネコ)の上の 適当な箇所に掻き集める。
第一作業は、モミをふるい(篩)に掛けて、粒を 選り分ける事である。
先ず、掻き集められたモミを、【箕:ミ】で掬って、縦 1、5 m、横 80 cm位の
【大篩:おおフルイ】 の中へ移す。 ( 箕とは、篠竹を割った物を主にして蔓で編んだ、農具特製の 大きな掬いザル。) この箱型の 【大ふるい】 には、高さ1m位の枠が付いていて、それに竹のレールが張ってある。又ふるいの底部には車輪が付いているので、子供でも簡単に動かせる物である。
それで ふるうと、粒に成ったモミは 下に落ち、未だ未練がましく 穂にモミが残留しているのが中に残る。これを【ボッサラ】と称して、ネコの処々へ次々と小山に置いていく。ふるい手と運び手は、手分けしてトットッとやってしまう。
「大ふるい」 の下に溜まった粒籾は、『トアオリ』 と云う器械を使って、風力で粒と粉塵とに分離する。綺麗に塵埃を払った「籾」は仕上がり物として、土蔵の中に作り付けてある『ブンコ』と云う仕切りの中に、どんどん放り込んで行くのである。
その【トアオリ】とは、手で羽車を回転させる風力分別器である。概形は象に毛布を着せた様な大きな道具で、庭の一隅に位置づけられる。(後に詳述)
又、【ブンコ】だが、農家の土蔵は一階は農具類の収穫用の「ネコ」なども置くが、殆んどは此の「籾」を入れて置く『文庫?』がズラリと並んで、作り付けられている。その家の全収穫量(40俵から100俵位まで)を入れる様に作られている訳である。形は6尺の真四角の物が、壁に沿って並んでいる。籾を入れる口は「落し板」に成って、入れるに順って落し蓋を増していくのである。

さて、作業であるが、その様にして1回目の作業が終ると、そのネコの上には
『ボッサラ』 の小山が 幾つも 並ぶ訳である。それを 「叩き棒」 で、皆で (3人位が一番好都合)で囲んで、交互に叩き廻す。叩き棒のことを 【コテ】 と謂う。大きな木の枝を、幹の部分を付けた儘で、切り取った形である。枝の部分が柄に成り、幹を削った(加工した)部分が叩く部位に成るのである。大人が立った儘の姿勢で地面を叩く作業に、その反り加減がピタリと合う様、上手い具合に造られている。大きさは男用、女用と云う訳でも無いが、その家の家族に合った物が用意されている。
三人ならば 交互に打って、トントントンと 三拍子になり、二人なら トントンの二拍子と云う訳である。そして全山を叩き廻すと、前述した第一回の作業の順序で、それ等から再び「籾」が 精選されて 「ブンコ」に 収められる。人数が多ければ、その作業が何れの部分も休止無しに取り運ばれるから、籾の量の割合に、作業は片付いて行くのである。
そして最後に 「ボッサラ 」の純粋なノ (殆んど 籾の付着しない物) が残り、
それは 馬の餌になる。馬の無い家では 鶏の餌にする。
その頃になると、もう日没か日没近くなり、雨戸の節穴から障子に映る逆様の活動写真のカラーも 色褪せて来るし、家の中には 母が入って来て、夕食の支度を始めたり、子供達が 「火じろ」 (囲炉裏のこと)を 囲んで 焚き火のお手伝いなど 始めるのである。

                        
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20タニシ掘り〕 ツブ掘り
もう一つは【ツブ掘り】(タニシ掘り)である。稲刈りが終ると、一番うれしいのが、このツブ掘り。これは家族の御馳走になるのだが、多忙の収穫時なので自然、子供達の遊びがてらの仕事である。やがて美味しい食べ物に成るので、子供ながらに一粒でも多く掘ってやろうと、眼を皿にして動き廻る。これも大体、自家の田を採るのが普通である。
田圃に水の有る期間に、蓋を開けて 餌を あさり 大きく成ったツブは、水田の水を 落される(払う事)と、その居た場所の泥を低くして、その場に沈み込んでしまうらしい。だから、やたら歩いたのでは、あの広い田圃なので、何処まで探したのか?未だ探さない所は何処だったのか?皆目判らなくなる。そこで各自が 畝(うね)の数を決めて、3畝なり4畝なりを持分と決めたら、その幅に自分の視界を拡げつつ、前進して探すのである。”勘”に近い 慣れの動作になるが、田の乾いた泥面の一部が、ほんの2cm直径の窪みに見える。其処を手に握った棒切れで ボックリ掘り起こすと、ツブが 掘り返される訳である。
余り沢山採り過ぎても勿体ない。ちょうど家族全員で楽しめる程度にして、又その次にする方が良いので、ビク一つ位とった処で家に持ち帰る。
大きなタライか桶に空けて、水を満杯にして置く。水に入れてやって3時間も経って行って見ると、ツブと云う物は、固く蓋を閉じて生きている物とは、それこそ考えられぬ恰好に、もう全員が カタツムリそっくりの顔になって、桶の底から 横辺に 散在して 気持よさそうに へばり付いて、呼吸だか 水浴び だか知らないが、やって居るのである。そして彼等の体内に在った泥混じりの垢が桶の上部一面に浮き上がっている。 所謂、 『泥を吐く』 動作なのだ。
そこで 腕まくりして、そのツブ達を 再び ガラガラ、ガラガラと やらかすと、皆 あわてて 元の 蓋を固く締めた形に戻って、桶の底に沈む。そこで更に、彼等の衣装を洗う様に、更にガラガラ、ガラガラとやって、水を新しくする。之を2、3度繰り返して又、遊びに行く。3、4 時間おきに来ては、そう云う事をやって 一昼夜経つと、大きな 5升鍋と謂うのへ 大根の小切れと共に入れて味噌煮にするのである。
父が囲炉裏火の番をしながら、古唐傘の骨で、先の尖った大きな楊枝の様な物を全員に作って呉れる。(囲炉裏の正座は、家長の座と決まっているから、家中で食事をする時は、父だけが其処で食事する特権が与えられているし、父はその室に居る限りは其処が自分の座と決めて火を炊きつつ談話を交し、煙草を吸い、茶を飲むのだ)
先ず、その楊枝の先で一寸突くと、薄い蓋が簡単に取れる。そして首を反らしてチュウーッと殻の中の味噌汁を吸い取って、作業のし易い様にしてから、斜めにツブの体に楊枝を刺し込む。そしてからが、所謂 「コツ」 で ある。何が 「コツ」 かと謂えば、ツブを上手く回転させながら、楊枝の先を調子を合せて回転させると、ツブの体(ミと言う)がクルクルクルと抜け出して来るのである。上手になると、尻まで綺麗に抜け出て来るが、下手の人がやると頭だけが毟れて後の大部分は殻に残ってしまうのだ。その時には、第二段の作業として、歯でカリッとツブの尻先を齧り取る。詰り、穴を空けるのである。すると物理の理で、頭部の口をチュッ!と吸うと、口の中へ残った部分が飛び込んで来る。 幼い時は、その理屈が解らぬので、尻に穴を空けずに、一生懸命吸うのだが 出て来ない。理屈は解らぬが、家人の教えに従うと、上手く出て来るので、
《不思議な ものだなあ!》 と 思って食べたものだ。
これも田舎に育ちながら、自ずから 好き嫌いが有って、御飯茶碗に1杯食べればタンマリと云う者、御飯は何うでも構わぬから3杯も平らげる者、と 色々在るのだ。だから、こんな大鍋で煮ても、最後は一つも残らなくなる。
あの味を 幼児から 秋毎に食べて 大きく成った俺は、大きく成っても ツブの「むき実」を売って居れば、早速求めて食する。俺にとっては懐かしい、そして素晴らしい味であるのだ。

                        
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21臼ひき
収穫に関連しての 風物と言えば、秋ばかりとは 限らぬが、大体は秋の裡に行われるものに 【臼曳き】 と 云うのがある。即ち、自家脱穀の一方法である。
大きな農家には必ず一台は【臼】(引き臼)と云うノが在って、土蔵の軒下などに置いてある。( 農家で ”臼” と言えば、この 上下二段から成る 「引き臼」 の事を指す。餅搗き臼 とは 全く別物。粉引き用の 石臼 でも無い。)
凄く大物で、そうそう簡単に移動できぬので、其処へ置いた儘にしてある。
臼の大きさは、外見では 上下同大に見える。が、重量は 下臼が 断然重く、
上臼とは比較にならぬ。直径約1m、縦の総長も亦 約1m位か。太った人の譬えを 『立ち臼の如し』 と謂うのは、此処から出ている。兎に角、あの硬い籾(モミ)を 殻を剥がして(ヌカ)、玄米(白米)にするのだから、それも 何百粒とも知れぬ数を 同時に行うのだから、滅多な重量では 浮き上がってしまう。

上臼の一隅に 突起部が付けてあって、それに 「引き棒」 の先を挿して、グルグルと 廻すのである。女や子供には、何も入らぬ 空の臼であっても、容易に動かせるものではない。まして、それに 漏斗 (じょうご)から ザンザン 絶え間無く落ちる籾を、上部に溜らない様に、ザンザン、ザンザン、ザンザンと 曳き落して(続けて)行くには、相当な腰の力と 腕力が必要である。1俵や2俵で終るのなら、男の強いのが掛かれば出来る事だが、何俵も 然も一日中 続けるとなると、とてもではないが 常人に出来る業では無い。
そこに、 【引き屋サ】 と 云うおじさんが 生まれた訳だ。俺の家などでは何うしても、そのおじさんの世話にならないと、来春までの家中の食糧が間に合わない。隣り部落の、お年を取られた方だったが、見るからに力の有りそうな、ずんぐりした短躯で、顔も鼻も唇まで大造りのおじさんであった。幼い俺は只、そのおじさんの怪力に驚き、御飯の時などもジッと眼を据えて見詰めて居たに違い無い。何しろ御飯も大変な大食いしたので驚いた事が記憶にある。
何しろ普通の人でも、前方に引くとか、向うへ押す位は出来るが、引いて来た余力で4分の1円周を動かし、そこから押して行って、又その余力で引く位置迄の4分の1円周を動かせねば、グルリグルリとは動かせぬのである。
普通の家の人達がやる時は、落す籾粒を僅かにし、軽めにするしか無い。
そうすると、時間ばかり費やしてしまうが、致し方無い訳である。

【下臼】は上臼とほぼ同大であるが、やや作りの加減で重くドッシリしている。これは誰でも知っている物だろうが、大木に斜めの外溝を彫り込んである物である。下臼は、底は勿論平らだが上部は籾粒が自然と周りに落下して行く様に、円周に向って 中央部から 斜降した歯溝が彫られ、中心の太い柱が、
上臼の支え木を 載せている恰好だ。
従って 【上臼】 は、その下臼の上部と 噛み合わせる為に、下部面が凹んで下臼に乗っかっているのである。上臼の中央は大きく抉られて、上方から来る籾を受けられ、下臼との間に順次はまり込んで 「籾すり運動」が 可能になる仕組に成っている。臼の上方 真ん中に、大型の漏斗(じょうご)が吊るされて、それに籾が容れられ、下部の吐出口に量を加減できる挿し込み板が付いていて、適宜に落下する籾量を調節できるのだ。
上下臼の噛み合せも、下臼の中央柱が上臼の支えをしている場所で、その間隙の粗密の調節が出来る様になっている。

上から縄で吊った「引き棒」は、臼面(上臼の上部)と平行にしてあって、上臼の先端に付けてある所からは1本だが、1、5mばかり手前に来た処で、又に開かせて、両手でしっかり握れる様な横棒になっている。それをしっかり握り締め、両脚は定位置に ピタリと決めて、押し引きは一切、踏足を移動せず、
腰の動きと腕の曲げ伸ばしのみで操るのであるから、大儀な物なのである。
籾は【籾ブンコ】から、「漏斗」に絶えず入れ継いでいかなければならない。又、他の者は、臼の周囲に落ちた籾を「トアオリ」に運んで、玄米と糠(ヌカ)に分けてしまい、玄米は【玄米ブンコ】に収め、糠は母屋の側面辺りか何処かに特別作り込んである【糠ブンコ】に、どんどん運び込んで行く。家中総掛かりで忙しいのである。

【トアオリ】(外扇り?か)は、丈は女子1身長位。手前中央の腹の中に、6枚羽のアオリ(手動扇風機)を内蔵した「玄米」と「糠」との”風力分別器”である。
本体の手前側に、回転羽車を回す為の取っ手(回転軸から連結された物)が出ていて、その取っ手を上下運動させれば、羽車が回転する構造になっている。そして、重い玄米は手前足元へ落ち、軽いヌカは頭部の別口から吐き出される事となる。投入方法は、背中側の上部にある漏斗の口から入れる。
トアオリを扱う者(あおり手)は、右手で取っ手を上下させながら、左手で漏斗から落す量を調整(加減)しつつ、作業を続けるのである。

            
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22水車小屋 精米と藁搗き       ♪【孫達への別冊】より♪
オジイタンのお家では、おお家の 車屋(水車小屋)が 傷んでからは、明夫サの家(衛サの叔父)で お米を ”精米” して貰いました。原理は幼稚なもので、戦時戦後に 玄米(モミすりした米)を 一升瓶で突いた のと同じ事です。
【車屋】(水車小屋)に入ると、外の水車の軸続きの、太い横木が廻っていて、その横軸(軸胴)の所々に、木の爪(凸部)が 掘り付けて有るのです。その「木爪」は 力強く回転しながら、一本一本が重量感のある『精米足』(縦軸棒:杵の役割)を「ギー♪」と引っ掛けては持ち上げ、回転の為に 爪の引っ掛かりが外れると、「トン♪」と 下に落とすのです。その落ちる真下には『米ツキ臼』が在って、中には搗かれる玄米が入れられている訳なのです。詰り、水車で廻す横棒は、キネ役の縦棒(精米足)を、爪で 『引っ掛けては 持ち上げ』、
『外しては落とす』 と 云う 上下運動 (米ツキ運動) を 繰り返しているのです。 親に注意されるまでも無く、入室した途端に 威圧感 と 空恐ろしい迫力に
圧倒されて、只 見上げ 見下して、身をすくめて 眺めて居るだけです。
『臼』は 木で無く、御影石の大きな”石臼”で、どの位の容量か、かなり大きな袋の玄米が、一度に全部 入ったのを覚えています。臼の数(足の数)は 水車の大きさに拠って色々だったのでしょう。
「♪ ギートン、ギートン ♪」 と、ゆっくりした拍子で、幾つもの太い足が、互い差いに上下する態は愉快な眺めでした。家々の好みで九分搗き、八部搗き、七部搗きと自由に、時間で調節できるので素晴らしいですね。
あの重い足(縦軸棒)を、お母さんは一体、どう遣って止めて、お米を臼から掻き出すのか?と心配して居ましたら、一本一本の 【足】 の傍に 「縄の輪」 が垂れていました。そして丁度その輪の先っぽ辺りには、足から出た小さな横木爪が付いていました。足が上がった処で、お母さんは太長い備付の棒を、廻っている軸胴に乗せたかと思うとググーッと腰を沈めて肩で、先刻の小さい横木爪を引っ掛けてヨイショと担ぎ止め、傍の輪縄に掛けました。すると、足(縦棒)は軸胴(回転運動し続ける横棒)の木爪(凸部)が届かぬ、位置に少し離れた(浮いた)位置で空転し続けるだけの状態となり、その臼の足だけ足先を上げて休みに入りました。
(※ 現代で謂えば、自動車のクラッチをニュートラルにした状態になる。)
子供ながら ナールホド!と思い、お母さんの力持ちを 見直したものです。
小屋の鍵は誰が管理していたのか、代金は何の位、どんな方法で払っていたか、九分搗きか六部搗きかは何うして計ったのか、大人に成って考えると色々ものですね。原理は幼稚だけれど、美味しい糠も家庭造りですので、種々に利用されたと覚えています。
藁搗き水車
ワラつき水車のお話をしましょう。村に一つだけしか無い共同使用水車ですから、冬季は殊に盛ります。家の裏と言っても、柳川を隔てて公園の下の段に在るのですから、たっぷり五百メートルは離れているのです。が、音で、「あ、誰か搗きに来たぞ」と直ぐ判るのです。
この水車の仕組は、平べったい自然石の 大きい物を、「搗き足」の真下に備え付けて、小屋は此の足一本だけの小さな物です。然し、米搗小屋のと同じ大きさの、直径30cm近く、長さ3m近い太い重材である上に、その底部には鉄の輪を嵌め込んであるのです。ですから、過って此の下へ出した脚なんか、考えただけでも身の竦む思いがします。作業は慎重に行われていくのです。音は遠く「トンカラ、トンカラ♪」と長閑に聞こえますが、小屋の中の人の神経は尖り切って居るのです。子供は、よく言い聴かされていますので、間違っても近寄りません。
搗藁(つきワラ)は、お百姓のこよない大切な生活資源です。毎日はく草履、冬は 無くてはならぬ 雪靴、山仕事には欠かせぬ 草鞋、種々の縄。 それに冬季唯一の金銭収入の源に成る副業の草鞋(わらじ)作りがあります。入用なだけの田浦から取り入れた藁束を背に負って、この水車に入ります。
あのゴワゴワした荒藁が、しなしなした 優しい感触に変わって 担ぎ出されるのは、百姓ならでは 分らない 楽しさです。

                        
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     D
支度手工業
      秋の取り入れが終ると、冬ごもりの支度が始まるのである。


23、〔薪とりたきもの採り
寒い山裏で冬籠りと謂えば、何と言っても暖気を取る必要が有るのだから、「薪とり」 と 「炭焼き」である。農耕馬の有る家には、特殊な薪とりと炭焼きが出来、馬の無い人達に羨ましがられたものである。
それと謂うのは、村から15キロ程離れた八ヶ岳の中腹に、下古田の区有林が在り、そこの雑木は自由に採って良いのだが、遠いから馬の無い家では運んで来られない弱点があるのだ。だから百姓家にとっては大きな特権になっていた。雪が来て しまえば、動きが取れないので、近くでやる作業は 後廻しにしてでも、馬持家は其れを先行するのである。村に在る小泉山には区の山が有るので、その外の家では、此処の山の伐採許可の期間に、競って之を採るのである。俺の家は馬は有るし、それに自分の持ち山林が在ったので、そう云う面では心配も無し、慌ててする必要は無かった。
薪採りの朝は、夜中起き(2時頃か) して 支度しなければならないので、もう出発の時点から、特別な感じが身体を走る。
《ああ 今日は、山へ行くんだ!》 と云う、何とも言えない楽しい心境になる。学校の行事以上に嬉しかったものである。
家の外は真っ暗闇、星が光っている裡に庭の池で洗顔し、母の作って呉れた朝飯の膳に着く気持は、清々しい と云う感じだった。母だけが山行きの者と一緒に起きて、弁当を作って呉れるのである。家人は皆眠って居るのだから、お互いに余り大声ではモノ言わぬ気分が又、妙に嬉しい優越感に似たものを感じたものだ。父と同じ様な脚支度などして貰いながら、「之をお前の袋に入れてな。」(つまり今で言うオヤツ)を嬉しく聞きながら、ランプの灯りの下で、火の燃えるのはこの時だけである。
兄の作った子供用の可愛い草鞋(わらじ)を上手く履かせて貰い、ハバキの可愛いのを当てて貰い、暖かい半纏を着、手拭など首に巻き付けて待って居ると、一足先に庭に出て、馬に飼糧をやり、鞍付をすました父が、外で「さあ、どうだ。」と声を掛けるのを待って居る。
父の声で庭に出ると流石に冷え冷えするが、それが却って気持が好い。馬の鞍の上に押し上げて貰って、父が手綱を取り出発する。
村は闇に眠っている。馬の蹄の音が周囲に響くだけである。父はこれから歩くのだ。黙々と歩く。村を出外れ、隣村に入る。又次の部落を越す。広い畑中道に掛かる頃は、何か辺りが白んで来る。すると右、或いは左の遥かの暗さのぼけ始めた所から鶏鳴が聞こえて来る。詰り、その道を遠く5、6キロ両側に離れて、谷の底にも森の影にも幾つもの部落が点在して大山裏(山浦)地帯を形成している、広い八ヶ岳山麓一帯なのである。
それ等も やがて通過して、山の峰の高低が クッキリし始める頃は、もう 7、8キロは 登って来たのである。
「この影に、上ツキノキが在るぞ。」と父の話が出る所で道は完全に山に入るのである。そして見渡す山麓は、霧が動き出して 山肌がハッキリして来る。
『山の神』 とか 『ゴーロ坂』 とか言う 聞き慣れた地名の場所を 父から告げられて行く裡に、区有林に到着する。
父は馬を繋ぎ、餌糧袋を馬の鼻に結え付けてから、馬の食事をするのを見届け、一服し、朝食ともつかぬ物を少々口にして直ぐ仕事に掛かる。
雑木林は一年間伸びていた物である。去年の此の時期から誰も入る筈が無いのである。他部落の者が盗伐したものなら、それこそ大問題になるので、木々は伸び伸びと成長したのである。その雑木林の中に分け入って、好きな材を自由に伐り出す事が許可されたのである。一番火力のある、そしてその炭を炬燵に入れて火持ちの良い楢(ナラ)だけを選んで伐り歩くのであるから、他家の人達から言うと 垂涎の限りであるのだ。

さて俺は、限りも無く拡がる八ヶ岳山麓や中腹、とは言っても直ぐ指呼ノ間に岩肌の荒々しく見える山頂の仰げる場所で一日(父が一日の可能荷付け量)の仕事の終るまで、好きな事をして遊べる訳である。
山鳥を藪から追い出してみたり、野兎を散々追いまくってみたり、紫の大きな房をズラズラと繋ぎ垂らしている山葡萄の蔓を引き摺り降ろして散々食べたりするのである。山中、兎の新しい糞だらけの中でまろび廻って遊び呆ける。
やがて父が食事に来る。馬はうつらうつらと立ち眠りをして居る。里では多分、朝の作業の真っ最中頃かも知れん。
子(イッチイ)は 疲れて 昼寝。親(父親)は 再び 作業開始である。そしてやがて、空のおてんとう様が真南より、幾らか西寄りになったかと思われる頃、父は馬に荷物を付け出す。楢材の直径10cm位までの素晴らしい生木の薪束が、馬の背に振り分けに(片方に3把ずつ)荷付けされる。そして 俺なりきの土産物を抱えて、再び馬上に押し上げられて、父が一服する。
馬は、これからが一仕事になるのである。相当の重量らしく、馬蹄が土に減り込んで馬の足運びも重そうに始動して山を降りるのである。
けれど家に着けば結構夕暮れになっているのである。そして、その新薪は白壁の土蔵の周囲を追々埋めていき、霜柱が立ち始める頃には一杯になるのが、その家の男衆の大きな誇りともなるし、皆に羨ましがられるのである。

                        
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24炭焼き
霜柱が立つ様になると、今度は 【炭焼き】である。この時は又、一段と早起きして行く。そしてこの時、家中の可働力総動員で八ヶ岳山中腹に押し上ってゆくのである。この時は、現場に夜明け前に到着したいのである。母はどうだったか覚えていないが、兄も姉も勿論行った。現場(父が前下見して措くのだろう)に着くと、一同支度を整えて作業開始である。
【炭焼き】だが、『バラ炭やき』と謂うのが本当である。従って採集する素材も、バラ炭にして最も効果的(火持ちが良い、しっかりした炭が出来る材)な物を選んで採集するのである。無ければ 何でも 雑木で構わぬのだが、態々この山岳中腹まで 一日掛かりで登って来て、”駄炭”を 焼いては バカらしいので、一番素晴らしいと謂われる 「ツツジ」 の 木 のみを 集めるのである。
近くから始まって、次第に奥へ採集行を 各自でやる。そして自分の見付けて伐った物は、直ちに現場(炭を焼く場所)まで引き出して来る。そうでないと、何の変化も無い、限りない山中である。一度(森林地帯を)出て来れば、さて何処へ置いてきたか見当が付かなくなるのである。
一日量の目安が着くと、誰かがストップ命令を出す。それも帰る時間の計算も入れねばならぬから、皆 汗を流しての 山中捜査 伐集である。其処に昨年の穴か、誰かが作った穴が在れば好し、無ければ穴も掘らねばならぬ。
現場で大切な事は色々有る。素材豊富が一つ。消し品(消火用材)が一つ。(水が最適、次は霜柱、無ければ残念だが土でも可。)大体霜柱が一番使われる。水の場所は固定されるから 素材量が限定されて、早い者勝ちになる。穴と言っても凹地を作る程度にすれば、自然に堤が盛り上がる。

先ず穴の周囲の素材を穴に積み込む。誰かが積み込む時に、他の人々は近くの松の青葉付きの小枝大枝をどしどし大木から伐り落して、穴の周囲にグルリと待機姿勢を敷く。相当大量に要る。と言うのは、素材の上に掩蔽して『火の立つ』のを防ぐのである。火が立つと云う事は、赤い火がメラメラと立ち昇って、素材が完全燃焼してしまい、”炭”の状態を通り越して ”灰に”成ってしまうからである。即ち、青松葉で蔽われて、煙だけしか立たない様にして、素材を空気に触れさせずに焼くのが大切である。だから、山と積まれた素材が、すっかり炭化してしまう迄、その上部で燃やし続けなけらばならない。
その為の掩蔽物なので少なくも本体の3倍位は欲しい。勇壮なものである。
素材は積み上げた。掩蔽青松も揃った。霜柱の集積も済んだ処で皆、一息ついて空腹を埋め、ひと休止だ。その次の作業が今日の第一山場である。

素材の底に枯ススキが入る。掩蔽青松が完全に素材を蔽い尽した処で点火である。真っ白い、綿が浮き上る様に、太く 濃く 大きく モクモクと 青天に昇って行く態は、量感たっぷりの 勇ましさである。
俺は、その濃い煙を透して、日の玉・太陽を仰ぐのだ。両端位の所に隠れる日は、やや目に輝きを感じるが、その太い煙の中央に隠された日は、真紅の玉盤である。その 或いは赤く、或いは 白光りし、時には 外れて煌めく、煙に揺らぐ太陽を、飛び廻って 騒ぎ散らし、喜んだものである。
俺はそんな事が嬉しくてキャアキャア騒いで居るが、大人は誰もが青松葉を大きく抱えて、穴の中の煙の立つ根元に眼を光らせて居る。そして煙の色で「それ、其処が火が立つぞ!」 と見届けると サッと抱きかかえた青松葉を叩き被せる。この時の、皆の眼付と動作の俊敏さ、激しさは 子供ながら感じた。

何度も何度も 被せられている裡に、用意して置いた 青松葉が終る。それから間も無く、最後の 掩蔽松の上に 《火が立ち始めたな》 と 思われる頃、皆が箕に掻き集めて来た霜柱 (この山奥へ来ると、霜柱では無く、長さ20cmを越す素晴らしい 氷柱群である)が 次々と 投入される。そして、やがて煙は湯気と成って立ち昇るのを見て、一同ホッとして腰を下ろす。 ゆっくりと汗を拭って御飯の蓋を開ける。こう云う時の弁当は、さぞかし美味しいであろう。
やがて湯気も細々と成って来た頃、袋詰めの作業が始まるのである。大きな南京袋、カマス等が広げられる。先ず一番上に掩い被さった半焦げの青松枝を全部取り払うと、黒々と素晴らしいバラ炭の山が露われる。
周囲の半焼物や 雑物を 全部取り除いてから、火の起こらない様に、改めて霜柱を入れ混ぜながら、拡散したり 底返しして ”放熱”させる。
手で触れてみて、これなら「容れ袋」に納めても、発火の恐れ無し!と観ると、(時には山から家迄の途中で、長時間、風を受ける為、発火した例は聞いた)箕で袋に詰める。大きな、大人の背丈ほどの丸太い「炭袋」が幾つも立ち並ぶ時は、子供ながら、《よかったなあ!》 と思った。
そして皆で 帰路に就くのである。 帰着すると、袋炭は 広庭の中央の、火になっても 周囲に害の無い様な所に 放置して措く。日数が経って、もう 絶対大丈夫!と 考えられる迄は、決して軒下や 納屋には 入れない。それが夜中に燃え出して 火災になった話は 聞かされている からである。

            
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25穴蔵でのワラジ作り (若衆の 現金稼ぎ
野外の作業が出来無くなると、若い男衆は、冬の藁(ワラ)仕事の 藁細工
【ワラジ作り】 が始まる。庭に大きな穴を掘って 掘建小屋を造るのである。
毎年やる事なので、その入口である桙組(ほこぐみ:障子の開閉が出来る枠)も周囲の材も、その心算で閉まって在るので、藁で屋根を葺き、新しい障子紙を張り替えれば良いのである。大体は2、3軒が合同で、同じ場所へ造る。
俺の家は、祖父が、専門の養蚕農家として(江戸時代末に)設計して、明治
(時代)になってから 新しく作造した 建築物なので、何から何まで 都合好く出来ており、全てが ”作り付け” に 成っていた。
『穴倉』も下座敷の縁の下に掘り下げて、本式に石積で造り、入口も永久式に作られいた。「軒場」も、他の家では見られぬ広いものにして、雨が降っても雪が降っても、決して取り入れ物するに困らぬ程の広いものだった。その軒下の一部に揚げ蓋式にして、夏は庭として使え、冬は揚げ蓋を外して「穴蔵」の出入口になっていた。だから前隣の繭仲買人の家では、出荷の期間は必ず借りに来て、繭倉庫として使っていた。家屋の一部として出来ているので、頭上は座敷から出た縁側になっていて、直ぐ座敷に上がれた訳である。

他の、毎年作る掘っ建て小屋の【穴蔵】は、母屋とは関係無い所に在るので、家人に知れず誰でも出入り出来るので、面白い話や愉快な話題の種は、こう云う種類の『穴蔵衆』の、楽しい娯楽場にも早変わり出来る可能性は多分に有る。俺達 子供仲間が 学校帰りに、「あそこの穴蔵の 誰々さん所へ 行ってみろ。面白えって。」 と 誘われて行って、奇妙な物を見せて貰ったり、エロチックな冗談や 悪戯を 教えられたり、春画めいた物の手本を見せて、子供達の好奇心を煽り立てる 若衆が居たりするのは、こう云う場所なのである。
高等科や補修学校の兄貴達の唯一の 「××教室」 に 成るのだから、農家の青少年は 愉快になって行くのである。こう特殊な場所は矢鱈には無いが一ヶ所在るとなれば、入れ替り立ち替り 訪れる子供が出来るから、忽ち広がってしまうのである。自分たち幼年者が、冬の番屋小屋でカルタ取やっている傍では、兄貴達が重り合って覗きながら、綺麗に彩色された面白い和綴の本を騒いで見合って居た事が思い出される。多分、こう云う所の衆が借り出した物であったのだろう。詰らぬ事になったが、

此処で行う仕事と云うのは、【草履(わらじ)作り】である。村共同での「藁搗き(ワラつき)専門の水車」が在るので、其処で代わり番子に沢山の藁を搗いて、軟らかくして来て措いて、草鞋を作るのだ。
穴蔵に持ち込む物は『仮足:かりあし』と云うL字型の細工台である。「仮足」と云う物は、元々は足の五本指に擬えて造った物だそうだ。実際、子供は父兄から教わって庭でイタズラ細工し、自分の足指を使いながら玩具めいた草履を作るのだが、しっかりした物を作るには、ギュウギュウと締め付けなければならぬ。又、何かの用事で席を外せば調子が狂うから「仮足」でなくては駄目である。そのL字型の底辺部は自分が座る横敷き板で、それに直角に仮足板を組み込む。その厚い縦板には五つ程の凸(突起)が彫り出してあって、縒り藁を引っ掛けながら仕事をするのである。
その売出す 草履は、硬めに艶よく仕上げられて、幾足ずつかは知らぬが、重ねてギュウッと締めて荷造し、「一束:いっそく」と謂って売買単価の標準になるのであった。この草履は、仲買人が 各穴蔵を巡回して 幾らでも買って呉れるので 張合であるのだ。これが若い衆にとっては唯一の自分で稼せぎ取れる現金であり、家人もその金の使途については、容喙はせぬのである。
だから、この穴蔵では、よく【エンロク】が行われるのである。「エンロク」と謂うのは、銭を出し合って御馳走を食べ合う事である。肉を買って来て煮て食べ合ったり、美味な珍しい菓子をたらふく食べ合ったりし楽しむのである。
自分の趣味に使う者、目的の仕事用具を求めてみたい者、妹弟に何か買ってやって喜ばせて呉れるのも、この中から出されるのである。
親爺の在る家では家族の一年中の、足中(あしなか:足の半ばしかない農耕作専用で、泥水の中へ履き込んで作業する為の物)とか、藁草履、又は学童や家人が 屋内で 上履きにする 「ボロ草履」 を 作り上げるのである。
「ボロ草履」 と云うのは、藁と 古布切を 交互ぐらいに 使って作った物であるから、手間も掛かるし、特殊な材料が入混じっているので 暖かだし、丈夫であり、普通の藁草履よりも 塵埃が立たないので、うんと貴ばれ、作れない人の間では 羨ましがられたものである。
俺達も習作をするが長いのが出来たり、お多福型が出来たり、ひょうたん型が出来て大笑いされるのである。子供用の小型の「仮足」も作って貰って在ったので、よく練習したり、友人も練習がてら遊びにも来たが、俺達はそれよりも、早く一人前の縄がなえる事の方が望まれたし、『半ら使えるな』と許しが下りると1 ”ボ” 幾らと云う御駄賃(ほうび)が貰えるのだった。(両手を一杯に拡げた長さを1尋:ヒロと謂い、12尋で1ボと謂った。)どうせ本物の使用には耐えぬだろうが奨励の意味だったであろうと今思う。
養蚕の多忙の時に丁度、「チギ」 と云う 大きな棹秤(サオばかり)を 常時天井から吊るして在って、桑を買い足す折とか、他家から手不足を補う為の「賃もぎ」(摘んで呉れた桑の量を計って御礼を出す)に使用するので、俺達の小ビクも一緒に計って呉れるので、小手帳に書き留めて措いて、お祭りの時などに父に示して小遣銭をねだると出して呉れた様なものだ。
大人が力を或る程度入れても千切れなければ不細工でも何かと使える場合が有るからである。例えば秋の漬菜の摘み時の結え縄とか、一寸した物を纏めて措く為の物とかである。

そして、これは穴蔵で作るとは限らず、「仮足」が無くて製作できる物に、冬の大事な履物【雪靴作り】がある。これも親爺、老人の仕事であり、沢山作れば勿論売れた物である。之は、使用時がもう直ぐ目前に逼っているのである。そして之は丈夫である上に、雪の上だけに使用する物であるから、大切に置けば2年でも3年でも保存や連続使用が可能である。
どこの家にも「雪靴」は必ず、家の隅の何処かに前年使用した物が吊る下がっているものである。突然の大雪にも慌てぬよう、家人皆が使用できるよう、大小様々なノが用意されているのである。
だから、冬の学校の校舎内の「ホコリ」と言ったら凄いものであった。本当に、体育館(体操場と謂った)の休み時間と言ったら濛々と云う文字そっくりであった。外は雪景色で、強い午後の陽射しが窓(と言ってもガラス窓では無い)から差し込むと、斜めに長く埃の柱が見えたものである。そして、その日光の太い棒状の光線の中へ渦巻き昇って行く”ワラ埃”が印象的である。
今の都会育ちの母親達が見たら、驚いて叫ぶであろうと思う。凄まじい生命力と謂うか、無智の無謀と謂うか、知らずの裡に、相当な成人病の原因には成った事であろう。そして粉塵の凄さでは、あの穴蔵の作業である。皆、手拭で鼻口を覆って作業して居るのではあるが、一作業の区切りに食事に起つ時など、藁から出た塵埃で頭髪から耳から眉毛から衣服は勿論の事、あの綿打屋の職人さんと寸分違わぬ姿態になって、穴蔵から出て来る。
庭でパタパタ、パタパタ、パタパタ、パタパタと 手拭で体中を叩いて、青空を仰いで冬の清い大空を吸いながら、母屋に向うと云うものである。
これを一冬中続ける若衆なのだった。そして此の男児が 21才に成ると 徴兵検査で 「五尺一寸、チョン!」で兵営猛訓練に叩き込まれて行ったのである。

                        
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26ビッグな軒下 (ネコかき・真綿むき・シルク繰り
父は 【ネコカキ】、母は 「ハタオリ」、「ハタヘリ」、「ふみどり」、「真綿むき」 と、
ぼろつづり、野良着作りに、”一年中の着物作り”に、目を廻さねばならないのである。ネコは 農作業上は勿論(殊にモミ叩き)、夏冬の 農家の屋内の敷物として、欠く事の出来無い物なのであり、その大きさから謂っても、そう簡単には作れぬ物なので、【ネコカキ】は 大切な技量の要る仕事であったらしい。
俺の家では他家には一寸見られない特別広くて軒高な、庭と云う程の軒下(軒場)が在ったので、父はその日当りの良い風除けの際で、この機を組み、幾日も掛かって断続的に織り上げて居たのを見かけた。
竪琴と云った形態の道具、即ち障子の外枠と云った感じの、太い長い材木程の柱を四角に組み、倒れぬ為に下の台はどっしりした重量感の有る大材で造られたワクである。それに丈夫な綱を全面に下垂し、下方から段々に上方に向って編み上げていくのは、母の織物と同じ理である。但、幅が2間(3、6m)もある代物なので、藁の量も大量に要り、父の手に握られる藁の量も、草履作りの折の一掴みとは大分違った大量を持って、一目一目を表裏交互に撚りを掛けながら、サッサと抜いていくのだった。そして『オサ』(縦横の糸の交差を 最後にトントン♪と 手前側に引き寄せて、押さえ締める為の横棒)も、母の機織りの様な繊細優雅な代物では無く、部厚い材木の横棒と云う感じのオサで、ドスンドスンと織り目を締めていた。従って一冬に一枚位しか織らなかったのか、織れなかったのではあるまいか。父の居無い、織りかけのネコ織が、日向ボッコして居たのを、よく見ているのだもの。

その暖かい日溜りは、子供達の日向ぼっこの場であり、母や姉の【真綿むき】の場所であった。タライに水(日向水か温湯かは知らぬ)を一杯満たして前に屈み込み、薄皮になってしまった糸繰り残りの、中の蛹(サナギ)が透けて見える繭(屑繭)を一杯浸してあって、30cm四角程の取付枠がタライの前方に沈めて在って、それに一粒ずつピチャピチャ、ピチャピチャと可愛らしい音を立てながら、軟らかくしては剥いて、張り掛けて、必要な厚さに重ねていくのであった。目見当で或る厚さに成ると、取付枠から外すと、真綿の概形をした
”濡れ布”が出来る。それを蚕篭:カゴに拡げて乾燥すると、高価な【真綿】に成るのである。 ( ”真綿” と謂うのは、木の綿(綿花)では無く、正真正銘の絹(蚕の繭)である)この真綿が、綿入着物を作る時や、綿入布団を作る時には、必ず欠かせぬ必需品である。綿と布の間に、この真綿を入れて初めて、両者が相互に密着し合うのである。その綿入れの着物や布団を作る処を毎年、幼い時から見続けているから、屑の様な物から作り出す物で、こんな大切な場所に利用されると云う事が不思議の様に思えたものであった。
「真綿むき」 の話が出ると 必然と、【糸繰り】(製糸) の話になる。

仕事の原理は、製糸工場の女工達が 過酷なノルマを課せられて、立ち働きする、その作業内容と 殆んど同じである。だが、母の行う 『糸繰り』 作業は、ゆったりと座って、自家の為だけにするもので、【座繰り:ざぐり】と謂う。
機械の重量は凄い物であり、その一部分は精密な所もあるが、全体としては素朴な形と大きさしかない代物である。三尺(約1m)四方大の物だが、重量の大部分は、粘土で固めた、繭を煮沸する釜がデンと喰っ付いて居るからである。その釜に炭火を絶やさぬ様に入れ、その上に大きな煮沸釜を湯を満たして載せてある。その端に板1枚かけて、母が腰を掛けて作業するのだ。
売れ残りの屑繭や、汚れ繭を煮ると、柔かく戻るのだ。その繭を、「口箒:くちボウキ」と言う、藁の穂先のミゴと云う部分で作った、一摘まみ程の可愛い物で、チョイチョイ、チョイチョイと突ついて居ると、周囲に付着していた雑糸が除かれて、蚕の口から出たままの1本の ”口糸” が見つかって、繭がクルクルと廻り始める。そうなった物を湯船の一方に揃えて措く。そして母は自分で、何粒の繭から生糸をつくろうか と決めて、8 粒から10粒位だと思われたが、その8本乃至10本を、1本にまとめて、繰り揚げ口に掛ける。
その8本撚(より)の生糸を、「節抜き」 (親指の頭で押した位の大きさで、真中に穴の開いた 瀬戸物製の 円盤)に通して、頭上の 「取り枠」に 巻きつける。この「取り枠」とは 昔から 文学上にも 風俗誌にも よく出る 『枠を転がす』 と 謂われる、あの代物 (巻き取り具)である。20cm程の材を 四角にした 回転する木枠で、滑らかに回る様に、芯には回転軸を通す穴が通っている。
その動力源は人間で、母が両脚で左右交互に踏むと、横に付いている動輪の為に増幅された力が、この頭上の木枠を クルクルと 軽快に廻して行く(生糸を巻き取る)のである。
脚は動力を踏み、手元は糸を出している繭の群を凝視していて、解除(解け方)の悪いのは直ぐ突ついて促進し、どれか一個が糸量が尽きて来たら、隅に待機させてある粒の中から一つ取出して、早速その生糸の口を、活動中の群の中に手早く放り着けてやって、常に糸量を均一にして行くのである。
他人がぼんやり見て居ると眠くなりそうな長閑な風景だが、繰っている母親の全神経はフルに動いていたのだから、相当疲労する作業だったろうと思う。

            
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27母の存在 (衣服の女神
俺の母は、玉川村の助役さまで 『飾り屋』 と謂う屋号の、金銀細工を商う家の二女として育ち、玉川学校では 二階級特進 と云う成績で名を称され、『あいのサ』 と謂われた才媛で、村の素卦家や神官の家に寄遇しながら、令嬢クラスと文筆に親しみ交際する 青春時代を過ごした。そして時と所を得て嫁いだ相手は、明治政府の新制度に生まれた ”地方巡査” と云う、目新しい新サラリーンマンであった。処が程なく三男だった夫は、主家の命で家を継がされ、山村に引き込まざるを得無くなった。当然ながら妻である母も付き従った。
母はその日以来、農家も農家、先頭に立って采配を振るわねばならぬ身になってしまったのだ。引き込んだ5、6年当座は、村の富裕農家の子女を集めて裁縫教授もやったが、それは写真に写っている俺が2、3歳と見える。
『郷に入っては郷に従え』と謂う言葉があるが、村に入ってからは姑(しゅうと)に仕えて、全ての事を身に着けたものと思われる。
その意味では、只優しい涙もろい、叱る事や 逆らう事を知らぬ 平凡な母だとしか 感じ取って居無かったが、その心底には 素晴らしいものを 秘そませた母だったと、今頃 やっと思い返す 不幸ぶりである。
そして、もう一つ老年の母、即ち自分が『母』として親しみを覚え出した頃の、母としての 特技だったろうな、と思う事に 【ハタヘリ】 がある。
「おばさんから ”へ” て 貰った織(おり)は、とても良い柄(がら)だ!」 と 言う人々が、よく 頼みや 相談に来た事は 覚えている。つまり、織物の 『柄 創作』 (クリエーター)とでも表現できる事か。
『木綿ベタ』は農家の主婦の夢であり、一生の記念になる。その反物が娘の嫁入り着物地になって祝儀箪笥に収められて行く。そして、その娘の一生の着物になるのだからである。
下座敷と「おええ」(食事をして、囲炉裏・お勝手の在る部屋)と未だもう一つ「だいどこ」まで3間の境を開け続けて、長々と糸の束を延ばし、母とその客人とで、糸を見詰めながら、「此処を何本にして、何処へ何色を移して」などと、長々と想を練って居た風景を目に浮ばせる事が出来る。

そして 【ハタオリ】 である。「機織」は、明治生れの人間なら誰でも、必ず胸に残留している 景であろう。あの 「機ヘリ」を済ました 大きな一巻きの 染め木綿の ”色糸” の固りが、ドッシリと重圧感のある 『機織器』 の向う先に 備え付けられる。そして母の座のある前方の上部に 「オサ」(縦横に交差した糸をギュッと押さえ締める横棒)の終り(即ち、織り布の端緒)を 仕付けるのである。
母も 簡単な一枚の板の腰掛を外して、中に位置を取った時の心境は 素晴らしいであろう。散々工夫して創作した「ハタ」の編み色糸を、これから いよいよ 一反の ”布” に 作り上げていくのだ。幾日かかるかは、家の都合や、自分の他の仕事との 兼ね合では あろうが「さて!」と、その第一歩を踏み出す気分は 何とも言えぬものに違い無い。
まあ、そう言っても、知らぬ者には ちょっと 解らぬかも 知れんなあ・・・。
そうだ、先ずあの「機織り器」の雄大な姿である。幅は4尺(1、2m)位は有るかな。長さは一間(1、8m)は有るであろう。底部は ドッカと している。
角材太柱で 全てが構成されている。底部が支える機体の中心骨格は、床の面から3尺(約90cm)ほど上の位置に、長四角の太角材の堂々たる枠が、平らに周囲を取り巻き、それに様々の小道具が肉付されて、高さは約6尺(1、8m)に達し、天井に届く大きさである。
「オサ」の目の中を交互に潜って来ている ”縦糸” が、母の手元に来て、上下二群に分れている。その各々は底部にある母の脚で踏む踏板に連繋されていて、左右交互に踏む毎に、互いに上下 位置を換替する。
交替する度毎に、母の手練で横斜から投げ込む「ヒ:杼」 (産業革命でジョン=ケイの発明した 飛び杼 の ”ヒ”)が横糸を、その上下糸の間に一本、解き置きながら 反対側の手の方向へ飛び抜けて行く。その飛び抜ける「ヒ」を取り外して落したら大変だが、他方の手で巧妙に受け止めて措いて、脚を踏み違える。そしたら直ぐ、その上下糸に挟まれた横糸を重ねつけて、補装してある「オサ」でトン♪と織り込む。受けた今の手の「ヒ」を今度は、そちら側から再びコロコロリン♪と可愛い音を立てて、向う、詰り先刻の側の手の方へ転がす。その方に待機していた手が 「ヒ」を受け取る。脚が踏まれて ”縦糸” も、上下糸の帯の口が、先刻と逆に口を開ける。トン♪と 織り込む。そして 「オサ」 は 三回に一回位は トントン♪と 重複する音で 余分に織り締める。
だから音は、「オサ」で織り込む音がトン♪であり、「ヒ」が右から左へ、左から右へと縦糸の間隙を飛び交う音がカラカラリン♪である。『はたおり、とんからりん』 と 言うのは、この音を 謂う のである。
【ヒ:杼】 は、堅い木で 両端を ロケットの如くに尖らせて、中身を繰り抜いた 巨大タンカーみたいな船形で、そこに 強靭に撚り上げて、細竹に紡錘型に巻き付けた ”横糸” を、軽快に解けほぐれる仕掛にして差し込み、その本体(船型の枠)の一方の横腹に小穴を開けて、(横糸を)外に導いてある。そして本体底部に、滑車の素晴らしいのが付いているから、カラカラリン♪と気持のいい音を残して、「ヒ」は横糸を置き敷きつつ、反対側に飛び抜けるのである。
当時の俺は、《母は よく根気が続くなあ》 と云う様に考えて 見て居たのだが、今の 此の歳に成って、物を創造り出していく楽しみ と云う事を考えると、母は一日の作業の裡、一番楽しい一つであったろう と 想像できる。
「オサ」に”へ”込まれている縦糸ばかりの模様は、横糸が走って母の手元の布巻き棒にキチキチと巻き込まれていく製品は、素晴らしい鮮やかな色彩に成っているのを幼いながら、その度に目を瞠って見たものだった。
母は、用事があれば、何時でも 作業は 止められる のであった。又それで、ちっとも差支え無いのであった。
母達には、その外にも、大きな仕事が有る。それは家族一年中の衣服の繕いと製作である。その第一が、今の機織なのだが、冬もの秋もの、そして夏季の野良着である。ランプの下で、母と姉と俺とで、「小座敷」で何か語りながら、女の作業を見て居た事が光景として浮んで来る。母と姉が這い付くばって、足を手のたしにして、開いた衣服の裏に真綿を引き伸ばして敷き詰め、その上に綿を入れ、閉じて 隅々を引っ張り 伸ばし ながら、トントンやっている処も 目に浮ぶ。大きな布団、座布団、”綿入れ”と謂う名のぬくぬくした厚手の冬衣服である。これで一つ、劇を思い出した。

                        
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28イッチー劇場 (脱兎の如く
外は 真っ白な銀世界。庭 も 屋根 も、ましてや 日陰になっている 北 裏側の急斜面などは、身の丈が埋まる 深雪の 或る日 である。
表の庭から一部屋「おええ」を置いた次の、奥まった「小座敷」と云う 寝間の隣部屋で、母と姉がせっせと古布を継ぎ合せ縫い足し、太糸で縫い刺して、炬燵の周囲に敷く「下敷」と云う物を作っていた。
何が原因だったか、何をしたのか、ハタ されたのか、その事は 一向に 覚えて居無い。何か無理な事を言い出して、母や姉の反対に会ったのであろう。
頭に来たと言うか、母や姉に対する 威嚇の心算でやったのかも判らない。
兎に角やった事は、母と姉が 丹精こめて作った 炬燵の下敷に 足を掛けて、ビリビリと 引き裂き出した俺だったのだ。止められただろうが、止めらばこそ、尚一層 ビリビリ やり出したものだから、姉が 表の縁側へ飛び出して、馬屋に居たか 庭に居たか 知らぬが、叫んで 父に 俺の暴挙を 告げたらしい。
気が付いたら表の庭に、父が大きな叱声と共に顔を出した。チラッと見たら、何か手に、太い長い棒の様な物を引っ提げている。
その父の、顔の表情と 叱る声と、手の棒の三拍子に吃驚した俺は、之で叩かれたらイチコロだと思ったのであろう。眼ンクリ玉をひん剥いた儘、一飛躍すると、裏の雪の急斜面に飛び出した。
勿論、父は直ぐ続いて追って来るものと思った俺は、後など見ている隙も無ければ、身動きも出来ぬ深雪の中だ。斜面を泳ぎ降り、畑を泳ぎ切り、その下の畑の一間ほど(約2m)の石垣を飛び降り、広い畑を泳ぎ抜けて河原に出た。岸までは深雪だったが、幅三間ほどの河は半分氷に閉されていたのを夢中でザブザブと渡り、向う岸に着き、更に岸向うの畑を泳ぎ抜いて、「積さん」呼び名を「ツンモーさ」と言っていた親しくして可愛がって呉れて居た高等科へ行っている位の、うんと年上の人の家の軒下に立った。
其処は隠居家で、ツンモーさは祖父母と三人で、その小じんまりした家に起居していたのである。ツンモーさの部屋を覗くと、四畳半位の室だったが、ツンモーさの自由に出来る室らしく、周囲には一杯、絵などを張ってあったし、勉強机が一つ有って、当時としては珍しい個室の勉強部屋になっていた。
どうしてだか解ら無いが、この家の三人は、俺が行くと特別に可愛がって呉れたので、これと云う友の無い時は、直ぐ何と無く行く。行くと必ず何をして居ても迎え入れて呉れて、友達になって呉れた。歳が違い過ぎる俺を、どうして邪魔がらないで可愛がって呉れたのかは、今だに不思議だが。
三人(祖父母とツンモーさ)で、 深雪の中を 只ならぬ恰好で、しかも 道でも無い所を 真っしぐらに駈け降り、突進して来る俺を見て居たらしく、大急ぎで炬燵の中に入れて慰めて呉れた。それから後は何う始末が展開したのかは、皆目覚えて居無いが多分、何時もの様に ”祖母” と云う方 (小柄で 薄い白髪の 小さな髷を チョンと着けた方)が 俺を連れて、家の父母に詫びを入れて呉れて チョンに成った事であろう。
母がよく、「お前は ”虫” が 強くて困った。赤ん坊の時も、お針子さん達の前を 這って居る時、ガラス製の かんざし(簪)を ガリッと 噛み潰したり して。」 と 言って話したから、一寸他の子供より、やや虫っぽい処 (短気と言うか、直ぐ頭に来ると言うか)が 有った子だったろう。そう言えば今でも、足に大きな傷が残っているノが有るが、それは此うだったのだ。
之も、何をやったのか覚えて居無いが、雪解けの雨だれが、夕立のザンザン降りの如く軒端に落ちて、その下は掘れて深さ5、6cmの、軒と平行の長い水溜りになり、落ち続く雨だれで赤く汚れていた。
裏の縁側の方から逃げたが、表縁からパーンと義経の八艘跳び宜しく、その濁った水溜りまで一ッ飛びして、外へ飛び出してしまったのだった。夢中で飛び出したので、自分には判らなかったが、家の中に居た皆が大声で騒ぐので、裸足で雪の広庭へ出た足許を見たら、足も雪も真っ赤な出血である。
何で来て居たのか、未だ嫁入って居無かった母の実妹である両角しず伯母さんが来て居て、手の傷の手当をして呉れた事だけを覚えている。
雨だれの濁水の中にビール瓶の欠損したノが上向きになっていて、その上に俺が飛び乗ったのだったと云うのである。
俺の左足のクルミの直ぐ下に 三角形の大きな傷跡が はっきり残っている。俺の傷は、どれも これも みな 左だなあ。秋の夜の、こっそりやったイタズラ(夜刈り)で 切り割った指も 左手の小指だ。




        ・・・以上、〔ザ・日本人〕・・・おしまい


                        
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