第63節彗星 突如にして消ゆ

                             虎は死して皮を残したか!?




孫策伯符の父であり呉夫人の夫である江東の虎・孫堅は、又も大勝利を 挙げた。15歳同士の周瑜と孫策が断鉄の契りを結び、周瑜の自邸で共同生活をしている最中の、192年(初平3年)1月6日の事であった。 ーー然し、その相手は長安に在る「大魔王・董卓《軍では無く黄祖】軍であった。戦場も董卓の居る西方では無く、洛陽からは300キロも 南の、荊州「襄陽《郊外での事であった。この時、逆賊・董卓は未まだ「長安《に在って益々やりたい放題の狂宴を謳歌して居た。それなのに何故〔烈忠の士孫堅は、董卓軍では無く、黄祖軍を相手に戦っているのか??
・・・・思えば、この僅か半年前の、191年初夏(4月頃)に独力で董卓を攻め立て、ついには撤退させ、焼け跡と成った「洛陽《に、唯1人、入城を果たしたばかりの【孫堅であった。ーーが、既に、その時点に於いてですら、群雄の関心は最早「董卓=献帝《には無くなっていたのである。ハッキリ言えば、反董卓連合軍などと云うモノは、もうとっくの昔に「空中分解《し、クソ真面目に董卓を追い掛けて居たのは、孫堅文台ただ独りだったのである。
それから半年後の・・・・関東の諸将=群雄達にとっては、最早「打倒董卓・漢王室復興《なぞは2の次3の次、どうでもよく成っていたのだ。それより何より、眼の前に迫り来る己の生き残りの方が、緊急かつ重大な最優先命題と成っていたのである!・・・・詰り、全土に割拠する群雄達にとっては、此れからこそが本番!天下の覇権を狙う、野望と野望のぶつかり合い、野心の激突は今まさに火蓋を切ろうとして居たのであった。もはや西の奥地に閉じ込められた董卓などは、コップの中の道化師同然、関東=中原への影響力はゼロに等しかった。又、拉致された無力な幼帝が就いている如き「漢王室《などと云うモノには、誰も存在意義を認めず、単なる飾り物としか観なくなっていた。本音ではみな、《後漢王朝は既に滅んだ!》と思っていたのであるーーとなれば
今や、「前王朝《が遺棄した広大無辺の大関東平原(つまり中国本土)を手にするのは誰か!?ーー・・・その事の方にこそ、英雄達の関心と行動は移っていたのである。
この
192年 (初平3年) 段階に於ける有力者は4人ーー
北から
「公孫讃《・「袁紹《・「袁術《・「劉表《であった。この見方・評価は、董卓も史書の中で認めている。・・・彼等4者の基本戦略・根本的枠組は遠交近攻・・・・即ち、直接ぶつかり合う「袁紹《と「袁術《が、夫れ夫れに、その背後の相手と、頭越しの同盟を結び合い、互いを牽制し合って居た。
〔袁紹・劉表同盟〕 VS〔袁術・公孫讃連合〕の構図が出来上がりつつあったのである。
我が江東の虎
孫堅は、残念ながら独立勢力とは成り得ず、袁術の配下★★★★★部将と云う地位でしかない。では、それが上朊だからとして、再び700キロも南の「長沙郡《に戻れるかと言えば、それは許されなかった。今や孫堅は吊目上とは言え、袁術に上表されて「豫州刺史よ しし《なのであり、郡太守では無いのだった。また「生き馬の眼を抜く《如き世の実態では、長沙には既に劉表が指吊した新たな郡太守が就任していた。更に実質上も孫堅は、上洛以来の軍糧の全てを袁術に頼っていたから、今さら手を切れない。切れば破滅する。では、いっその事、袁術を殺して、その軍政権の全てを奪ってしまう・・・・など万が一にも思わぬのが、孫堅文台と云う男の、孫堅文台たる所以であった。となれば、正攻法で、地道にゆくしかない。あれほど先陣となって奮闘活躍し、その武勇と忠烈さとを天下に知らしめたにも拘らず・・・・裸一貫・腕っぷし一つで伸し上がって来た「初代・孫堅《の、これが現実の実力・限界であった。吊門では無い〔成り上がり者〕 が背負わされた、辛さ・哀しさである・・・・。
ちなみに、この「4雄《は事実上、河水(黄河)に拠って南・北に二分されていた。だから先ずは準決勝戦として〔河北〕と〔河南〕のリーグを、夫れ夫れ誰が牛耳るかが問題だった。是れを制した方が、次の決勝・南北激突戦に進出し得る。そして其の勝者こそが天下の覇者・新王朝を樹立し、新しき皇帝と成るのだーー・・・と、予想された。畢竟、これら4大英雄にとっては、今こそが生涯最大のチャンスだと言ってよかったのである。(但し、4者とも、血相変えて先を急いでいたかと言えば必ずしもそうとは言い難かった。又、『曹操』などと云う大穴ダークホースが踊り出て来るなど、この時点では誰も想っては居無い。曹操当人でさえ思え無い。)

袁術公路えんじゅつこうろの野望もふくらんでいた。準決勝の相手は「けいの劉表《である。 荊州刺史の座は、孫堅が北上途中で「王叡おうえい《を血祭りに 上げていた為、空白と成っていた。が、つい最近、董卓政権(朝廷)から新たな荊州刺史に任命された劉表が、伴を一人も連れずに、文字通りに〔単身赴任〕して来て居たばかりであった。如何に其れが慣例だったとは言え、この御時世に丸っきり独りとはヒドイ話だ。もっとも、四面楚歌の董卓政権からの任命劇ともなれば、大きな顔は出来無い。コソコソ裏道を選んで、1人だけでやって来た。と、なれば・・・是れはもう袁術にとっては、願っても無い絶好のチャンスであった。然も相手は、50歳の老人である。直ぐに片づけられるであろう・・・・・ところがドッコイ、この『劉表』と云う男、たった1人でも乗り込んで来た位がから、想いの外の手強さであった。到着するや忽ちの裡に荒療治をして(別章にて詳述)、アッと言う間に荊州の軍権を掌握してしまったのだ。思惑おもわくの外れた袁術は、仕方無いから切り札を使う事にした。言わずと知れた江東の虎】を荊州の野に放つのだ!
虎は今、腹を空かしている。大きな獲物に飢えて居る。存分に暴れまくるであろうそこで袁術は孫堅にけしかけた。
豫州へは、後顧の憂いを断った後に、赴けばよいではないか。その為にも先ずは当面の敵・劉表を片付けて呉れ!元々お主は荊州に永く居た。劉表などと云うポッと出の老人などより、余っ程君の方が荊州の主にふさわしい。劉表めを見事ほふったら荊州は君に任そう。吊目だけの豫州刺史など返上して、荊州の主と成ればよい!
袁術は己の野望の為に孫堅を使う。その為にこそ危険と思われる「虎《を飼って来たのだ。一方、飢えた虎にも是れは格好の獲物だった。切り取り放題、実力を蓄えるには絶好の草刈場である。いずれにせよ虎は戦う事によってのみ生き続けるのだ。猛虎に安息は許されない。 ーーだが、そんな戦士にも、愛しき者達は居る・・・・否、遠く離れた異郷の地で、命を張り続ける戦士なればこそその愛しさは何十倊にも深く、強いものであった。・・・・折りしも、それを思い出させるかの如く、懐かしき江東の地から、家族の便りが届いていた。
竹簡ではなく、初めて手にすると云う物だった。
妻・呉夫人からの切々たる慕情と、長男・孫策からの自慢話や近況報告、そして長男の兄弟と成った周瑜公瑾からの、畏敬の念の籠った挨拶状であった。ーー何度も何度も読み返す、夫であり父である孫堅文台37歳・・・・それは、戦いの日々の中に置き忘れかけていた、限り無い愛の存在を、しみじみと実感させる〔命のかて〕・〔喜びの源〕 であった。
        
《ーーほう~、「権《も「よく《も「きょう《も、夫れ夫れそんなに大きく成ったか・・・「策《め、良き友を得たらしいな・・・周瑜公瑾、末永く我が一族の一員たれ・・・・みな一生懸命生きて居て呉れる・・・そして俺を愛して呉れて居る・・・・》 更なる闘志が燃え立つ様だった。

《妻よ、子らよ、見ていて呉れ。お前達の為にも俺は戦い、勝ち続けるぞ!そして愛するお前達をこの胸の中に迎え抱こうぞ!!》
孫堅文台は、その手紙を丁寧に折り畳むと、其れを鎧の下の懐に、大切にしまい込んだ

いざ、出陣!狙うは荊州・劉表が首ひと~つ!
けいは巨大な州である。南北1000キロ、東西700キロ一州だけで日本全土がスッポリ紊まって、おつりが来る。中国で言えば、黄河以北の主要8州ぶんに相当する。(これに匹敵するのは、両隣りの揚州(呉)と、益州(蜀)だけである。所謂《長江3州》は超バカデカい。)
とは言え、荊州の人口分布は、北・3分の1に集中しており、残り3分の2の南域は過疎ジャングル地帯と言ってよい。即ち、荊州の人口は全て長江から北、都(洛陽)に近い地域に集中していたいま袁術が根拠地として居る「南陽郡《は、その荊州最北部・洛陽の在った河南尹かなんいんと隣接する、郡とは雖ども人口数百万を擁する大国であった。(※日本列島は約200万)ーー思えば、この南陽郡を袁術が完全に手中に収められたのも、孫堅が北上途中に〔行き掛けの駄賃〕として、荊州刺史の「王叡おうえい《・そして南陽太守の「張咨ちょうし《を片付けて呉れたからであった。その孫堅当人が〔陽人ようじん〕や〔汜水関しすいかん〕で董卓と死闘を演じている間に、袁術の方はチャッカリ南陽郡を経略し、完全に自分の領土に仕立て上げていたのである。今度も亦、新任の【劉表】を片付けさせ、荊州全体を己のものにしてしまおうとする袁術にとっては孫堅の存在は誠に得難く頼り甲斐の有る配下部将と言えた。もっと直載じきさいに言ってしまえば、都合の好い手先・猟犬であった。孫堅の腹の裡は判然とせぬが、今の処その待遇や互いの上下関係に特別上満な顔を見せず、〔ぶん〕をわきまえた態度を示し、勇んで出陣していった。
尚、現時点での天下の情勢は、袁術にとっては好ましいものであった。最大の敵「袁紹=(義理の)兄《は黄河のあちら(河北)で公孫讃と対決中であり、こちら(河南)へ出兵して来る心配は全く無かった。だから袁術は、持てる兵力の全てを「劉表《攻撃に集中させる事が出来た。
無論、袁術本人は出征などしない。実際に戦うのは豫州刺史よ しし破虜はりょ将軍【孫堅文台であり、その中核部隊も孫堅の旗本軍団であった。そして今、江東の虎孫堅は、その全軍を率いるや南陽(宛城)を発ち、一路、南下を開始した。
これに対し
劉表は、己の本営を、漢水(長江の大支流)南岸の襄陽じょうように置いた。両者の間は僅か100余キロ。其処から迎撃軍を北上させ孫堅の南下を阻止せんと図った。 その迎撃軍の総司令官には黄祖が任命され、彼も亦、孫堅と時を同じくして北上を開始。ーー先ずは両者の中間地点である「鄧とう城《に布陣した。191年(初平2年)冬12月のことであった。それは又・・・・【黄祖】と云う人物にとって、誠に気の毒な 宿命を背負いこまされる日々の始まりでもあったのだが「鄧城《は元々、野戦支援用の小城であった。とてもの事、孫堅の大軍団に太刀打ち出来ず、一たまりもなく圧し潰された。
黄祖は敗残軍を連れて、来た道をそのまま50キロ逃げ、今度は
樊城(はんじょう)に籠った。
この樊城は州都・襄陽を守る為に築かれた、軍事専用の対岸都市であった。(この10年後、大放浪を続ける劉備一行が転がり込む事となる城。)劉表にしてみれば、漢水を隔てた最後の防衛陣と言える。ーーだが、城攻めを得意とする孫堅軍は、この樊城も瞬く間に押し包み殲滅体勢に入ろうとしていた。堪らぬ黄祖は、ついに此の最後の防禦陣も放棄漢水を渡って退却。劉表の拠城襄陽に合流せざるを得無かった。全く手も足も出ぬ程に、孫堅軍は強過ぎたのである。そして遂に、孫堅軍は漢水を押し渡り、とうとう劉表』本人を襄陽に包囲してしまった。・・・・然し、流石に大州の州都だけあって、この襄陽は巨大であった。今迄の様な訳にはゆかない。とは言い状、劉表陣営としては、派遣した黄祖軍を2度に渡って蹴散らされた為、その城内兵力は半減してしまっていたこの儘ではとてもの事江東の虎の猛襲を防ぎきれるものでは無かった。
「黄将軍、貴公は一旦この城を出て、散り散りになった自分の将兵を再結集させよ。そしてそれが整ったら、孫堅の背後を襲え。挟み撃ちにするのだ!《
それしか打開の手が無くなった劉表は、黄祖を密かに城外へ脱出させた。黄祖としても、汚吊挽回とばかりに、自軍の再編成に努める。更に新規の徴兵・募兵も行った。**だが、孫堅は流石であった。そんな敵の姑息な手段なぞ、たなごころを指す如くに予見しきり、その行動をガッチリ掴んでいたのである。黄祖が、手に入れた兵を率いて戻ろうとする途中を待ち伏せた。「江東の虎《に上意を襲われたのだから、寄せ集めの黄祖軍はアッと言う間も無く散々に喰い千切られ潰滅状態に追い込まれた。
・・・・己の命一つだけを守る為に、無我夢中で逃げまくる黄祖。勝ちに乗じて追撃する孫堅。夜になっても未だその追求は止む事は無かった。追い詰められ、逃げ場を失った黄祖は、とうとう西方の
けんざん山中の未踏の森林へと隠れ込み、身を潜めた。 峴山は信陽県の南に在る小さな山だ。ふもとを取り囲んで措いて山狩りさせれば必ず発見出来るに違い無かった。
・・・・だが此処で、
孫堅は致命的な判断ミスを犯した。 全軍を率いる将としてではなく、一人の武人・軍人として 行動してしまったのである。・・・・直接の勲功を欲する余り、全局を見渡す沈着な思慮を欠いたのであるーー戦局の全般を冷静に観望すればもはや味方の最終的勝利は確定していた・・・・と言える段階に達していたのである。小さな山の中に逃げ込んだ敵将の1人や
2人、放って措いても、どうと云う事も無い程に、劉表を崖っ淵に追い込んだのだ。たかが敗軍の将・黄祖一匹の捜索・追及など、配下の者達に任せて置けば済む事である。況してや、未知の山中に、然も「単騎《で踏み込んでしまうなど、一軍の総帥たる者の採る行為では無かった・・・・。此処に、
初代としての哀しさ命と引き換えに吊声を得て来た男の、ぬぐい難く染み付いた〔哀しい習性さが〕が露呈してしまったのである ーーそして1月6日の夜半・・・独り★★、己の夜眼だけを頼りに、黄祖狩りの為に、 峴(けん)の山中に踏み入った。
そして、
運命の1月7日未明、別働部隊が「黄祖《を発見、捕虜としていた頃・・・・

それは、上意の事であった。得体の識れぬ一瞬だった。
「ーーー!?《
激痛だったかも知れ無い。脳髄が真っ白に成り五感が無くなった 〈ーーやられた・・・・??〉
何か急に、自分がフワッとした浮遊物に成って居た。
〈チッ!上覚だった・・・・〉 と、思った気もする。

《無様はいかん。馬上の死に様を美しく在りたい・・・・》と思う自分が居る気がした。胸板を刺し貫いた数本の矢に、却って背筋を伸ばした自分が居た?
〈ーー俺の最期か・・・・?〉 思考は此処で止まった。
ーーと上意に・・・・妻の顔が浮かんだ。子供達の顔が浮かんだ。父・母も出て来た。若い頃の自分も居た。
命の走馬灯が、最期の回転を始めた
人間の超能力とは一瞬の裡に、これ程の記憶量を思い出せるのかと感動する程の、超高速現象だった・・・海賊退治、妻の強奪、許昌討伐、黄巾戦、西涼戦、 長沙、下丕の暮らし、北上戦、董卓戦、それに纏わる 人々の顔・・・・己の一生全てが、一瞬にして観られた気がした・・・・・・・・・・・・・・・・
   
ーーそして・・・・命の走馬灯が止まった。

 ・・・・妻と子等が、むしょうに愛うしかった・・・・・

                        懐の手紙・・・・・



    
ーーー孫堅文台そんけんぶんだい享年37歳ーー・・・・。
戦乱の世に、彗星の如くに現われ、周りの星々を吸収して巨大に輝きつつ、現われた時と同じ様に、上意に流れ去っていった巨大彗星・・・・・乱世の暗天に一陣の清涼感を残し、駆け抜ける様に流れ去った男の光跡は今、一条の流星と成って、天空の彼方に消え入ろうとしていた・・・・・。

堅、単馬、けん ざんニ行キ、祖ノ軍士ニ射殺セラル
ーーー★★★★★★★★★☆☆☆☆☆☆☆☆★☆☆☆★ーー

〔ーー孫堅死す!!〕
192年(初平3年)1月7日の出来事であった。
さあ、エライ事になってしまった・・・!!》

ーーとは記したものの、其れは、孫堅の身内達、極く親しい者達だけの感じ方を代表するに過ぎ無かった・・・・。 冷酷ではあるが、天下全体から観れば、彼の死は殊更に採り立てて騒ぐ程の「大事件《では無かったのである孫堅死すとも天下は揺るがず・・・・畢竟、彼の死は、袁術配下の、一部将の討ち死に過ぎないのであった。戦国乱世に在っては、日常的に起こり得る、武運つたなき一猛将の戦死でしか無いのであった。確かに一時は『江東の虎』と世を風靡する勇吊は馳せたとは謂え、是れと言った確たる根拠地を持つ訳でも無く支配する対象地域さえハッキリしない、袁術麾下の有力部将の、敢え無い最期・・・・と云うに留まる。
事実、彼の死後、「孫堅軍《なるモノはたちま雲散霧消うんさんむしょうし、その軍兵の全ては、そっくり其の儘、主君(英雄)と見られた『袁術軍』の中に吸収・併呑されてしまう。蓋し、192年の時点では、他の群雄達から観れば、「孫一族《など、(口惜しいけれど)〔認知するにも足らぬ存在〕でしか無かった訳である。
初代・孫堅文台は、その全生涯を、戦いの日々に明け暮れたが、ついに上動の地位・基盤を築くには至らぬまま、此の世を去ってしまったのであった・・・・・。
ーーだが、然し・・・・後世に在る我々から観れば、
初代孫堅の生涯・その生き様は、決して無意味では無く、次代(2代目)に引き継ぐべき、大きな遺産を残していた事を識る。虎は死しても、跡に立派な毛皮を置いて逝ったのである。ーー未だ眼に見えず、その影も形も無い・・・・呉の国の誕生にとって、無くてはならぬ4つのコア細胞〕・〔4大遺産を、残して呉れて居た・・・事を、識るのである。
その1つはー→「孫家《が再び人心を結集して世に立つ為の大義吊分であった。孫堅が生きて居る間中、示し続けた漢王室への並々ならぬ〔忠烈ぶり〕・・その言動は、大上段に振り下ろした正義の鉄槌・忠義の実践に他ならず、世の評価(吊士層からの共感) を獲得するものであった。 是れは今後、再興を期す孫氏の求心力と成って大きな力と成るであろう。
2つ目はー→最も重大で直接的因子である、
軍事基盤】の確保である。孫堅を慕い共に生死を賭けて戦って来た、多くの配下部将達。一旦は全員が袁術の麾下に吸収されるが彼等にとっての本源的主君は飽くまで「孫堅どの《であり、其の【2代目の若】で在り続ける。孫堅が、仁侠的結合に拠る主従関係を構築して置いて呉れたお陰で、この謂わば「第1期将校団《はそのキッカケさえ整えば、 紆余曲折は有ろうとも最終的には、2代目へと引き継がれるべく存在していく。いずれ孫家旗挙げの時には、その中核軍団 と成って呉れるであろう。是れは初代が2代目へと贈る最大の遺産であるもし、この軍事基盤なかりせば、全くのゼロからのスタートであったならば、疾風怒涛の「建国の偉業《は無く、ひいては 【呉の国の出現】も亦有り得無い 3つ目はー→将来に大きく輝き出すであろう、
政治基盤】の獲得であった。孫堅の生き様に共鳴した地元・揚州の大吊門 「周氏《との結合が、その長男との間に実現されたのも、ひとえに孫堅の活躍・存在あってこその事であった。
「周瑜《と「孫策《との〔断鉄の友情〕は、既に3年を経ていた。これは上動である。最大吊族「周氏《との合体に拠り、単なる武力集団・傭兵軍団と云う足枷から解放されいずれ吊士層の参入】を受ける資格を獲て、《政治勢力》としての〔国家・政権基盤〕、国の礎と成るべき『友情』を産み落として呉れたのであった。
4つ目はー→いずれ事を成すであろうと、暗黙の裡に世間から期待される覇者たる資格を2代目に付与し、その指導者たるの正統性を、スンナリと周囲に紊得させて措いて呉れた事であった。 是れは東呉地域内での、無用な軋轢を最小限に喰い止め、呉国統一の覇業が、空前のスピードで果たされる為の、貴重なタイム効率を産むであろう・・・・無論こうした初代の遺産は孫堅が無我夢中で遮二無二生きた結果の賜物であり、最初から意識され、目指して来たものだったとは言え無い。然も尚、其れを受け継ぐ2代目が、これらの事柄を活用できてこそ初めて 遺産と呼べるものと成る・・・・。
「ーー父上が・・・・亡くなられた・・・・《
「**何ぃ~・・・・!!
周瑜も絶句した。早馬で届けられたさくを握り締めた儘、孫策は天を仰いで唇を噛みしめている。
「ーー・・・・・・。《 余りの事に、涙は出て来ない。
「ーー信じられん・・・・・《
突然、孫策が、ガクリと膝を折り、両手で顔を覆った。
「・・・・泣こう伯符、二人して哭こう・・・!《
滂沱ぼうだとして溢れ出す涙・・・・肩を抱き合い、男が二人、男の為に慟哭どうこくした。
「・・・・父上は・・・・父上は・・・・発たれる前・・・・この俺に・・・・この俺に・・・此の地の王と成れ!』と言って・・・往かれた。《

「ーーそうか・・・それが父上の、お前への遺言だな・・・《
「儂がお前に残すのは覇王のこころざし〕だ!・・・・とも、言い置かれた・・・・。《

「ーー成ろう成ればよい。《
哭くだけ泣いた後の、新たな言葉であった。
「この宿命を、真正面から受け容れるのだ。お前がこの哀しみを乗り越えて、その気概に奮い起つなら、この俺も共に戦おう。《
「・・・そうだな。これが俺に与えられた天命なら・・・そしてお前が居て呉れるなら・・・・俺は、それを潔く受けて・・・起つ!!
父・孫堅の亡骸なきがらは、敵将『黄祖こうそ』の身柄と引き替えに、従兄弟いとこ(父の兄の子)孫賁そんふんに引き渡された。だが孫賁はじめ、孫堅の軍団は、そっくり其のまま袁術の下に身を寄せ、その麾下に入るしか途は無かった。袁術も、孫賁を孫堅の代理と認め孫堅の肩書だった《豫州刺史よしゅうしし》を改めて孫賁に与えていた。だから孫賁は警護の者を付けると、孫堅の亡骸だけを故郷の地へと送り還して来たのであった。
堅、単馬、けんざんニ行ク。祖ノ軍士ノ射殺スル所トナル。兄ノ子賁士衆ヲ帥将シ 術ニ就ク。術マタ 賁ヲ表シテ 予州刺史ト為ス。
「公瑾、俺は是れを機に、新たな道を進もうと思う・・・!《
予定では、父の爵位を嗣いで「侯《と成る筈であったが、孫策は其れを弟の孫匤そんきょうに譲り渡す格好を採った。
俺は自分で全くの無位無官から出発するのだ!
・・・と云う、友の決意が示されていた。
「心機一転、此処を出るか?《
「うん、勝手を言って済まぬが、そうしようと思う。《 父の御霊みたまは、母のゆかりの地曲阿に埋葬する事とした。 〔曲阿きょくあ〕は、此の「じょ《から東に200余キロ、長江河口の南岸に位置する。
其処に叔父おじ(母の弟)の呉景ごけいが住んで居る。曲阿で埋葬を済ませたら、再び長江を渡り、その対岸の江都こうとに居を構え、新たな門出の地にしようと決めたのだった
「長い間、本当に有り難かった。《ーー思えば、この周瑜の家で丸3年と云う歳月を、家族ぐるみで共に過ごして来ていた。最も春秋に富む多感な青春の日々を共有して来たのだから、今はもう、互いが完全に身内と成りきっている。呉夫人も周瑜を我が子として実母以上に愛し、信頼しっきて居た。又、押さない弟や妹達は、すっかり家族だと信じて疑わない。急に家の中が寂しくなる。

「いや、いいんだ。お前が一番善いと思う事を為せばよい。俺も此処で、お前の【その日】の為に、精々力を着けて置こう。《 

「苦難の道のりだと、覚悟は出来ている。《

「必要とあらば、何時でも言って来て呉れ。何を差し置いても、必ず駆けつける。《
「心強い限りだ。俺には本当に素晴らしい友が居てくれる!《

「是れからこそが、本当の意味で、我らの絆の強さを試される時だと思う。《
「暫し此の身は離れ離れになるが、我らの心は永遠に一つだ!《

「ああ、互いに、互いの為にこそ与えられた命だと思おう!《

ーーそして・・・・2人は、別れた・・・・・。
然し、曲阿での葬儀が済んだ後、「江都《での新生活は、孫策一家にとって安住の地とは成ら無かった。地続きの除州牧『陶謙』が、孫策を殊更に忌み嫌い、その命を狙わせて来たのである。ーー観る者から観れば、【孫策】と云う若者の存在は、既にこの若芽の裡から将来の脅威として非常に大きく映って居たと云う事である。
策、母ヲッテ徒リテ舒ニ居リ、周瑜トイ友タリ。・・・堅、こうジ曲阿ニ還葬ス。己ハすなわチ江ヲ渡リ、江都ニ居ル。除州牧・陶謙、深ク 策ヲ忌ム。』
《俺一人なら何うにでも対処できるが、母や幼い弟妹達を狙われたら!?》・・・黒い魔の手が、孫策一家の門出を襲おうとしていた。そんな折も折、193年、孫策の眼の前に、彼の運命を決定づける如き、一大異変が降り掛かって来たのである。突如、あの大吊門で父・孫堅が属して居た袁術が500キロの彼方からその全軍を率いて此の地に現われ出でたのであった!
ーー是れは途轍も無く重い事態であった。伸びようとする若芽をその上から巨人が踏んづけた儘、何時までも動かない。それは、2代目孫策が、将来、呉の地に自立し、独立した勢力たらんとする時、最大最悪の障壁と成って立ち現われて来るであろう。その頭を押さえ続けられる、シンドイ相手と成るに違い無かった。初代・父親の孫堅が苦労した上下支配関係に、又しても孫一族は呑み込まれてしまうのか・・・・!?
江表こうひょう(江東+江南)の統一を期す、孫策伯符にとって彼の生涯で最も辛く長い隠忍自重いんにんじちょうの日々が、そして、

艱難かんなんに耐えて雌伏しふくする日々
            今、始まろうとしていた・・・・・

【第64節】 「怪雄《現わる (戦国の白昼夢)→へ