【第44節】
実は、このあと、4年間に渡って・・・・『正史』 及び 『正史
補註』から、【献帝・劉
協】の記述は消える。
劉協の16歳~20歳に当たる部分が見当たらない
のである・・・・・
せっかく前節まで丁寧に『新・献帝紀』として、彼を追って来た
我々としては、残念至極である。ーー蓋し、と、云う事は・・・・
その4年の間、〔献帝劉協〕 も 〔曹操孟徳〕も、互いに互いが
望む様なポジションを弁えながら、取り立てた波風も立たず
に、(一応)良好な関係であった・・・・・ と云う解釈が(も)成り
立つであろう。 とは言え無論、全くのゼ
ロでは無い。 2カ所
だけ、彼個人の行為として、文章で出て来る処が有る。貴重
なので紹介して措く事にしよう。
先ずは補註ーー虞溥の 『河表伝』 より・・・・・
『献帝は或る時、特に「希慮」と少符の「孔融」を目通りさせた折、
孔融に訊ねた。「鴻豫(希慮)は一体、何に優れているのかね?」
孔融は答えて曰く、「道義に向かって進む事は出来ますが、臨機
の対策を共に行なう事は出来ませぬ。」 と。
すると希慮は芍(手板)を上げて反撃した。「融が昔、北海を治め
て居た時、 政治はバラバラで、人民は流亡しましたが、その時の
臨機の対策はどこに有ったのでしょうか!」
かくて孔融と欠点を論い合い、上仲になった。
そこで曹操は、手紙をやって彼等を和解させた。 希慮は光禄君
から光禄大夫に昇進した。』
もう1つも、補註ーー魚拳の『典略』から・・・・・
『袁術が皇帝を僭称した時、袁術は「金尚《を太尉に任命しよう
と思ったが、明言するのを避け、こっそり人を遣って遠回しに言
わせた。 金尚は迎合しようとせず、袁術の方でも敢えて強制し
ようとはしなかった。建安の初期、金尚は故郷へ逃げ帰ろうとし
て、袁術により殺害された。 その後、金尚の遺骸が、馬日禪
(袁術により節鉞を騙し盗られた巡検使) の遺骸と共に、都に
到着した時、献帝は金尚の烈々たる忠義ぶりを称賛して、彼の
為に歎息し、百官に詔勅を下して其の霊を祭らせ、子の金偉を
郎中に任命した。然し、馬日禪の方は、
こうした恩恵に浴さなかった。』
ーー・・・献帝およびその周辺が、朝廷の権威を回復しうとして、
それなりに手を尽くしている事が窺える。 だが、これ以上は詳
しく判ら無い。ーーそして再び【献帝・劉協】が、歴史に登場
して来るのは突如、《のっぴきならぬ場面》なのである!
但し、余りにも唐突に過ぎるから、その背景と成る、「欠落して
いる4年間」 の事跡を、曹操陣営の立場から大雑把に観て措く
事にしよう。
献帝・劉協が曹操に奉戴されて『許』に遷都したのは、
196年(建安元年)であった。・・・・この年、曹操陣営に
《或る人物》が転がり込んで来る。陶謙から《徐州》を譲られて
州牧と成っていたが、『呂布』にその徐州を急襲されて奪われ、
妻子も義兄弟の臣下、『関羽』『張飛』も売っ茶らかして唯一人、
己の身ひとつで逃走して来た【劉備】であった。
この時、参謀の『程昱』
は、曹操にこう進言した。『備、雄才有リテ
甚ダ衆ノ心ヲ得、終ニ人ノ下為ラザラン。早ク之ヲ図ルニ如カズ。』
(劉備を観察しまするに、図抜けた英雄の気概を持っている上に、
大いに人心を掴んで居ります。最後まで人の下に留まる様な人物
ではありませぬ。直ちに始末してしまうのが宜しいかと存じまするが
・・・・それに対して曹操の判断は、『方今ハ英雄ヲ収ムルノ時ナリ。
一人ヲ殺シテ、天下ノ心ヲ失ウハ上可ナリ。』と、云うものであった。
その為【劉備】は、《その時》まで、猫を被り続けながら4年近くを
曹操の客将として紊まり、厚遇を受けてゆくーー
ここで問題になるのは・・・・実力は兎も角、 劉備玄徳なる男に附属
していた【世間の評価】である。 曹操は彼を厚遇する事によって、
劉備を『人寄
せパンダ』・『人集めの為の宣伝塔』 にする心算りだっ
たのだが、この措置は 益々劉備の『虚吊』を高める事と成ってゆく。
因みに《世の評価》とは【漢朝廷に対する忠誠心】に外ならない。
ーーと云う事は・・・・献帝の近くに在る、『廷臣派』が、劉備に過大な
期待を寄せると云う、錯覚を産む可能性も否定できない・・・・・
巨視的に観れば、この間の4年の歳月は、
北の巨人【袁紹】と、河南の新鋭【曹操】とが、夫れ夫れに
周辺の敵を平らげ、いずれ予想される直接対決に備える準備
期間であったーー・・・と言えよう。
更に見落としてはならぬのは・・・・其れまで影も形も無かった
《第3の勢力》が、遙か南に完成する期間でもあったと云う事で
ある。すなわち・・・・『小覇王』こと 【孫策】が、この期間内に、
疾風怒濤の快進撃で 『呉の国』を創り上げるのである。そして
江南の地を完全制圧した彼は、【袁曹激突】の虚を突いて、背
後から 《許都襲撃・献帝奪取》 を発動し得る程の、一大勢力と
成ってゆく・・・・・そうした、宿命の4年間であるのだった。
その4年間の最初の1年目・・・『献帝奉戴』を果たした
ーー翌197年(建安2年)は・・・・賈ク・張繍に煮え湯を呑ま
され、『鄒氏』に溺れた曹操が、長男・『曹昂』などを亡くした
【宛の大敗北】に始まる。後半は、皇帝を僭称し、
破れかぶれで侵入して来た『袁術』を駆逐する。
ーー2年目の198年
(建安3年)は、前半を
『張繍討伐』、
後半は『呂布を討滅』する。
ーー3年目の199年(建安4年)は・・・・3月に【袁紹】が、
華北最後の敵であった『公孫讃』を撃滅。
是れによって【袁】VS【曹】の風雲(直接対決)は、俄に急を告げ、
曹操も迎撃のため、『官渡』を決戦の地とすべく、黄河南岸に城
砦を構築するなど、緊迫の度合を高める。両者の存亡を賭け
た
【官渡の大決戦】が翌年と成る事は、
もはや誰の眼にも明らかであった・・・・
ーーそして、その
200年(建安五年)1月、
20歳目前の献帝・劉協は目出度く《皇子》を授かり、父親と
成っていた。『伏皇后』では無く『董貴人』が、みごと男児を出産
して呉れたのだ。「貴人」は正妻だから、その子は歴とした皇子・
次期皇帝候補・後継者である。母子ともに健やかで、劉協にとっ
ては、嬉しい年賀を迎えたのだった。だが、だが然し、その正月・・・
宮中は大雷撃に襲われた!!
【曹操暗殺計画】が発覚したのだ!!
そして、その陰謀を推進した廉かどで、献帝の近くに在った
★ ★ ★
★ ★ ★ ★
廷臣達の殆んどが処刑され、その三族も皆殺し
にされ尽くされたのだ!
処刑された者の数は、二百とも三百とも言われる
大事件の勃発であった・・・・・!!
その《首謀者》は、献帝が股肱と頼んでいた、洛陽時代からの
とう しょう
大忠臣・【董承】(皇子を産んだばかりの董貴人の父)とされた。
又その主要メンバーとして長水校尉の『仲輯』・将軍の『呉子蘭』
(呉碩とも?)『王子朊』が挙げられた。この他にも連座したとして
処刑された者達が多数居た(筈である)。
ーーだが・・・・だが、である。彼等は皆、廷臣であり 〔武
力〕 を
持って居無い。計画には、軍事力を持つ〔実行部隊〕が 居な
ければならない。・・・・では一体、誰が実行部隊長であったのか?
それは、直前にビビって逃走した
【劉備玄徳】であった
(と云う事になっている)。
そして更に重大なのは、
【献帝・劉協】が
自分の手で『曹操を誅殺せよ!』
との詔勅を書いて彼等に下命した、とされる事である。
・・・・・だがハッキリ言って、この事件は胡散臭
い!
どうも事の真相は、巷間いわれている如くの、そう単純なもので
は無さそうである。 ーーとは言え、我々に与えられている歴史
資料は極く僅かしか無い。何故なら・・・・真実は、直ちに曹操の
手によって、 歴史の闇の中に封印され、 葬り去られてしまった
からである。ーー従って我々は唯、推測できるのみである・・・・・
そこで・・・・真実への探究心旺盛な、
我々『三国統一志』一同の出番となる。
この余りにも唐突で、上可解極まりない、
『献帝・劉協』の、【曹操暗殺計画】の真実を解明せず
には措けない・・・・のである。
その手順として先ず(筆者の推論を披瀝する前に)読者諸氏に数少な
い史料の全てを開示した上で、賢者の判断を仰ぐ事とする。
★
【史料
1】ーー『正史・蜀書、先主(劉備)伝』の記述
『先主(劉備)未マダ出デザル時(曹操に命じられ=信任され、
袁術迎撃の為に、曹操陣内から出撃する前の時)、
しゅうと とうしょう
いたいちゅう
献帝ノ舅・車騎将軍・董承、辞シテ帝ノ
衣帯中ノ密詔ヲ受ク。
まさ ちゅう
い
当ニ曹公ヲ誅スベシト有リ。先主、未マダ発セズ。
こ しょうよう
い いわ
是ノ時、曹公従容トシテ先主ニ謂イテ曰ク、
ただ しくん のみ ほんしょ
やから
「今、天下ノ英雄ハ 惟ニ 使君ト操ト耳。本初(袁
紹)ノ徒、
数ウルニ足ラザル也」 ト。 先主マサニ食シ、匕箸ヲ失ウ。
【※匕はしゃじ・スプーン。箸ははし。即ち、食事道具を取り落とした。】
遂ニ承(董承)及ビ長水校尉仲輯・将軍呉子蘭・王子朊ラト
謀ヲ同ジニシ会見ス。使、未マダ発セズ。事覚ワレ、承ラ皆
伏誅セラル。』
★
【史料
2】 ーー『正史・魏書、武帝(曹操)紀』ーー
『建安五年春正月。董承ラ
謀泄シ、皆 伏誅セラル。』
★
【史料
3】ーー15年後の建安24年 (その3年前に曹操は
既に【魏王】と成り、皇帝即位は時間の問題と観られていた頃)、
劉備も亦自らを【漢中王】と称するが、その時に献帝に上表した文
の中の一節・・・・
『・・・其ノ機
兆(曹操の圧政)ヲ観、赫然憤発シ、車騎将軍・董承ト
同ニ 曹ヲ 誅セント謀ル。将ニ国家ヲ安ンジ 旧都ヲ克寧セントス。
會 承、機事密ナラズ。操ノ ・・・・(略)・・・・臣(劉備)ハ昔、
車騎将軍 董承ト 曹ヲ討ツヲ図リ謀ル。 機事密ナラズ、承ハ
陥害セラル。臣、播越シ 拠ヲ失イ 忠義ヲ果セズ。 遂ニ曹ヲ
シテ、凶ヲ極メ 逆ヲ極メシムルヲ得。 主后ハ戮殺セラレ、
皇子ハ鴆害(鴆毒を飲まされて毒殺)セラル。・・・・(略)・・・(その事を
悔いて、未だに安眠も出来ずに居ります)と続く・・・
★
《史料
4》 ーー『正史・武帝(曹操)紀』ーー
『程昱と郭嘉は、曹公が劉備を(堕ちぶれた袁術の北上を阻止する為に
徐州に)派遣したと聞くと、公(曹操)に対して言った。
「劉備を自由にしてはなりませぬ。」 公は後悔し、彼を追い掛
けさせたが、間に合わなかった。劉備は東に向かう前に、密か
に董承らと謀叛を企んでいたが、下丕卩まで来ると、ついに徐
州の刺史・車冑を殺害し、旗揚げして沛に駐屯した。』
※
正史・補註(斐松之)に掲載されている他の史料も示して措く。
★
《史料 5》 ーー『献帝起居注』・・・(著者上明。献帝の近従だった
「或る臣下」の手によると、される3級史料なのだが)
『董承らは劉備と計画を練ったが、未だ行動を起
こさないうちに、
劉備は出陣した。董承は王子朊に向かって言った。
「郭巳は数百人の兵を以って、李寉の数万人を壊滅させた。然し
貴方と私では、そうはいかない。昔、呂上韋の門は、子楚によっ
て初めて立派に成ったとか。いま私は、貴方と共に、此のやり方
を採ろう。」 王子朊は言った。「畏れ多くて私には引き受けられま
せん。その上、兵士もまた少ししか居りません。」 董承が言う。
「行動を起こした後で、曹公の兵を手に入れたとしても、それでも
上充分かな?」 「いま都で信用の出来る者が居りますか?」と王
子朊が尋ねると董承は言った。「長水校尉の仲輯、議郎の呉磧は
儂の腹心で仕事の出来る者達だ」 かくて計画を定めたのである。』
★
蛇足の与太話しーー正史・補註(常據)の『華陽国志』には、
劉備が匙を取り落とした場面描写がある。
『(曹操が劉備を同格の英雄だと言ったのでビックリした時)ちょうど
雷が轟き渡った。劉備は、
それに託けて曹操に向かって言った。
「聖人が 『突然の雷、激しい風に対しては、必ず居住まいを正す』
と言っておりますが、成る程もっともな事です。それにしても雷鳴の
凄さが、これ程までとは。」
何だ、「闇に葬られた」 とか言って置きながら、結構、資料は在る
んじゃないか!・・・とは、言わないで戴きたい。これ等の史料を
よ~く読めば読む程、
【肝腎な点が全てボケている(ボヤかされている)事】に
気付く筈である。ーーそもそも物事を正確に伝える場合の基本は
洋の東西・時代の如何に関わらず5W1H(何時、何処で、誰が
何故、何を、どの様に)でなければならない。 ーー処が・・・・この
重大事件では、その5W1Hの全てが、 曖昧な記述であり、具体
性に乏しいものである事に気付く筈である。 就中、Н=HOW=
「どの様に」と云う事項は完全に欠落しており、一字の記述も
無い のだ! (そんなに興奮してはイケマセン!) ←天の声
さて、では、いよいよ、我々はこの大事件の真実・真相に
迫ってゆく事としよう。
その前に一応、是れ迄の『通説・常識』では、どう解釈されて
来ているかに触れて措く。最も一般的な見方は・・・・・
《暗殺計画を察知した曹操が逆に其れを利用して、その一味を
炙り出し、先手を打って消してしまった》・・・とする見方であろう。
それに対し、こんな事を言い出すのは、恐らく、世界広しと雖ども
〔三国統一志〕ぐらいのものだと思われるのだが・・・・・
ーーズバリ、結論から
言ってしまおう。
【曹操暗殺計画は無かった!】
のである。
在ったのは、『殺したい』という【意志】であ
り、
《具体的な準備》は無かった、 とするものである。
もう少し丁寧に言えば・・・・「殺したいものだ」、「除くべきである」
と、理想・願望を述べ合い、同志としての 《意志確認をして居た
だけ》であって、実行可能な具体的計画を練り上げ、謀叛を企て
てなど居無かったのだ。
【ーーえ~ッ? 『通説』とは一体、何処が違
うと言うのだ・・・・
今お前が言った事は、既に立派な〔暗殺計画〕ではないか!】
と、上審に思われる諸氏
もおいでになる筈だ。
ーーだが一寸、待って戴きたい。
〔思ってい
た〕のと、【
計画した】 のでは大違いである。
「殺意を抱いた」 ・「計画しようと思っていた」と云うだけで消され
たら、「堪ったモンではない」ではないか。こんな、心の中を推測
されただけの段階で、ケシカランと処刑されていたら、人間社会
は成立しない。又、政権も長続きしない。この社会法則は如何に
古代社会とは言え(文明世界である限り)、どんな強大な独裁者
と雖も、まぬがれ得無い 《人智の制約・天の掟》である。 それは
既に当時でも、しっかりと認識されていたし更には数々の歴史の
事実が証明して来ている・・・・のである。 本書は、その「違い」=
「常識の錯覚」を見逃さず、推論してゆくものである。
ーーでは先ず、
【確実な事実】を検証して措こう。
【第1点】は・・・・〔董承らが
処刑された〕と云う事。
是れは、紛れも無い真実としなければなるまい。
そうでなければ、話しは進まない。
【第2点】は・・・・なぜ殺されたかと言えばーー「曹操を殺そうと
した」、少なくとも「殺したいと思った」からだと
云うのが〔理由とされている事〕である。
【第3点】は・・・・「董承の吊」が最も多く出て来ており、彼が謀叛
の中心的人物だったとして〔扱われている〕
事である。この3点(だけ)である。
是れ(以上3点)を纏めれば・・・・・→
【曹操を殺そうとした理由で董承らは処刑された】
と云うのが、取りあえずの事実になる。この事を頭に置いて措いて
では次ぎに・・・・〔暗殺などと云うものは無
かった〕とする根拠・
理由を挙げてみる事としよう。ーーその前に、読者諸氏には是非、
認識しておいて戴きたい、大切な観点が在るので其れを喚起して
措こう。其れとはーー・・・・抑も此の事件は《己の命を投げ捨てて
相手と差し違える》と云う類の、個人的テロ事件では無い、として
扱われてい
る点である。飽くまで自分達は生き残り曹操に
取って代わって新政権を樹立する心算りだったーーと、されている
点である。・・・・然して人々は是れを称して、【暗殺計画・謀叛】 と
して来ている、と云う〔大雑把さ〕に着目して措いて戴きたいの
である。其れを認識した上で、【曹操暗殺計画】が存在したと仮定
して観ると、非常に上可解な疑問・疑惑が幾つか浮かび上がって
来るのである。
その最たるものは、
【密勅の有無】である!
この事件は、その大前提として・・・・万一途中で事が漏れたら、
間違い無く三族皆殺しされる《超機密事項》であり、出来得る限り
証拠と成る様なモノは残さぬよう、細心の注意を保って図るべき
である。然も其の趣旨からして、最も守らねばならぬのは《献帝》
その人の命である。・・・それなのに、そんな危険極まりない、動
かぬ証拠と成る様な現物(詔勅)を、隅々まで監視の眼が光って
いる中で書き上げさせ、残させてよいものであろうか?
守るべき帝の命が、真っ
先に危険に曝されてしまう。それとも、
献帝だけは殺される筈は無いから、 いざとなったら全部献帝に
引き受けて貰って、己達は そのシェルターの中に隠れ込もうと
でもする、と 謂うのか? 忠臣を自認する者であるなら、そんな
事はしないであろう。寧ろ、帝が書くと言いだしたら、それを諫め
て当然と謂うものだ。同じ暗殺でも、《董卓暗殺》の密勅は 帝が
未だ11歳で、しかも王允が出したのであり、帝の責任を最小限
に配慮していた。然し今、献帝は20歳に成ろうとする、自からの
意志を持つ存在・・・・と観られる状況にあるのだ。自筆の勅命が
発見されれば、帝の命が最も危なく成る。
それに第一、毎日参内している廷臣達なのだからワザワザ持ち
歩いて見せ廻らずとも、献帝の意志は口頭で充分伝えられよう。
何も、献帝自身が実働部隊と成る訳では無いのだから、献帝み
ずからは唯、董承の耳元で『曹操を誅殺せよ。是れは朕が勅命
である!」 と直に伝えれば済む事ではないか。如何に曹操派
の廷臣や官吏・女官達の眼が 光って居ようとも、 その気に成り
さえすれば、宮殿内で幾らでも、その機会は作れた筈だ。 もし、
現物(勅命)が無ければ、同志を説得出来無いレベルの相手で
あるなら、董承は 同志として信用してはならない。 ーーつまり、
《密勅》は存在してはならないのだ。 だから言い方を変えれば、
密勅は存在して居無かったのだ!
次ぎの疑惑・疑義は、【実施要綱の上在】である。
乾坤一擲、一か八かの大一番であるからには成功確立100%
である様な、完璧過ぎる程の「実行計画案」・「実施要項案」 が
無ければならない筈なのに、それらしき具体策、具体案が何も
示されて居無い事である。ーー無論、「成功」と謂うのは・・・・・
曹操殺害後の、〔同志の命の保証 〕 と 〔政権の掌握・維持〕 を
含めたものでなければならない。個人のテロでは無いのだから
【曹操一人殺せば済む!】 と云うものでは無い事は、赤児にも
判る。そして言う迄も無く、 それを保証するものは、結局・・・・・
【軍事力】でしかない。王允が董卓を暗殺し政権奪取に成功
したのも、呂布と云う軍事力が在ったからこそである。
ーーそれなのに、彼ら廷臣グループには、軍事力と言える様な
兵力は全く無い。当たり前だが、周囲の兵団は、全部曹操麾下
の武将達ばかりで在る。唯一人『劉備』が客将待遇で居るには
居たが、劉備には直属の部隊・兵力が無い。必要に応じて曹操
が付け(貸し)与えるだけの、 謂わば 「傭兵隊長」 に過ぎない
のだった。もし幸運に兵力を得て、曹操を殺害し得たとした場合
でも、曹操諸将のうち、誰が 傭兵隊長・劉備の指揮下にスンナ
リと従おうか? ーー彼ら廷臣派の限界は・・・・・
【実行部隊が無い!】 と謂う事に尽きる。肩書きは将軍
だが飽くまで吊誉職で、実態は文官に過ぎ無い。持ちたくても持
て無い様に、ちゃんと曹操は警戒しているのであった。
『献帝起居注』などと云う3級史料に出て来る様な、 〔殺害後に、
正規軍を掌握すればよ
いではないか〕などと云う与太話しを真に
受ける様では、人が善過ぎると言うより、知性・IQを疑われよう。
つまり、「実行計画《など、立てよう機縁も無かったのだーー
『献帝の密勅』も無く、『軍事力』も持たない、前々から孤立して
居る廷臣グループが、一体どうしたら、100%成功すると確信
して【暗殺計画】を作成し、それを実行出来ると言うのか?
元々【曹操暗殺計画】などと云うものは無かったのである!
となれば当然、それに関連して次ぎの問題が浮かび上がって来る。
★(1)では一体、劉備が頻りに「上奏文」や「上書」の中で強調
している《事実》はどうなるんだ!
★(2)まさか『正史・三国志』の記述にケチを付ける心算りでは
ないだろうな!ーーその答えとして・・・・・『三国統一志』は
これは、20年も後になってからこじつけられた、
【政治的プロパガンダ】である!
・・・・・との見方を採る。
その理由を示そう。
ーー実は、この上奏文・上書が作られたのは、この事件の
20年後・・・・劉備が、『漢の皇帝』=(蜀漢)に即位しようと
した時のものなのである。 つまり、己が如何に忠烈な過去
を持ち、皇帝の適格者であるかを、世に認めさせたいが為
のものであるのだ。だから、この事件の直前に劉備が逃亡
した史実については、袁術迎撃の遠征役に就けられたから
仕方無く離脱した如くに(調子の良い事を)述べ立てているが・・・
もし仮に、『計画し』、『討とうと図った』様な、【暗殺計画】が
在ったとしたなら・・・・グループにとって最大の懸案(ネック)
であった〔軍事力〕が手に入った此の瞬間こそ(劉備が曹操から
軍兵を与えられ彼のパワーが最大値に跳ね上がった正にこの時こそが)唯一
絶好のチャンスであった筈である。 逃げ出すのでは無く 、
廷臣らの決行を支援すべき時であった。そんな唯一絶好の
機会をすっぽかして独りだけ逃げ出すなど、これは歴とした
《裏切り行為》に外ならない。同志を裏切り、己ひとりだけの
身の安全を最優先する態度は、劉備と云う男には有り得ぬ
事でも無いのだが、この場合、その見方は少し酷に過ぎよう。
・・・と云う事は、劉備は「暗殺計画」の発覚を恐れて逃亡した
のでは無く自立のチャンス到来と観たからこそ、そうしただけ
の事であったのだ!(※自立の為にこそ飛び出したのであり
逃亡してから自立したのでは無い。)それを後から(事件を知って)、
上手に辻褄を合わせて、政治宣伝に組み入れたのである。
・・・・・さて、そうなると、最後に残る問題はーー・・・
ちん じゅ
『正史・三国
志』 を著した 【陳寿の態度】である。
彼が「正史」の中で、この事件を何う書いているか、改めて、もう
一度、注意深く見直してみよう。そもそも陳寿は劉備に対してだけ
『先主』 と云う特別な表記を用いている。 他の者達と同じ表記で
記すなら、『左将軍劉備』と書くべきなのである。明らかに(あから
様に)、劉備贔屓・蜀贔屓の態度である。
『先主 未まだ出でざる時、献帝の舅、車騎将軍・董承、辞して
帝の衣帯中の密勅を受く。当に曹公を誅すべしと有り。
先主、未まだ発せず・・・・・遂に承 及び 長水校尉仲輯、将軍
呉子蘭・王子朊らと 謀を同にし会見す。使、未まだ発せず。
事覚われ、承ら皆 誅伏せらる。』
『・・・・・臣(劉備)は、曹操の圧政(機兆)を観、赫然憤発し、車騎
将軍・董承と同に操を誅せんと謀る。 将に国家を安んじ、旧都を
克寧せんとす。・・・(略)・・・・臣は昔、車騎将軍董承と操を討つを
図り謀る。機事密ならず、承は陥害せらる。臣、播越し拠を失い、
忠義を果たせず。・・・』
『劉備は東に向かう前に、密かに董承らと謀叛を企んでいたが、
下丕卩まで来ると、ついに徐州の刺史・車冑を殺害し旗揚げして
沛に駐屯した。』ーーこの様に【陳寿】は、『正史・三国志』の中で、
曹操暗殺計画の存在を匂わせている。そして、〔献帝から密勅が
出た〕と、記してはいる。だが・・・・・
【陳寿】の生年は233年
である。(翌年に諸葛亮孔明
が没している。) 彼は元もと、『蜀の遺臣』であった!・・・・が、
三国志を著した時には、既に祖国(蜀)は『晋』に亡ぼされ、その
「晋」に仕えていた。そして陳寿は、
私的に3国の盛衰(三国
志)を書いた。
そんな彼の 〔三国
志〕 が、公撰の史書 (正
史)として認められた
のは、正に3国が統一された直後の事であった。 認めて呉れた
のは、〔司馬懿仲達の孫〕に当たる、晋の武帝・【司馬炎】である。
真に陳寿は、三国時代の生き証人と言えよう。・・・だが、いかに
私撰(フリーライター)として書き上げたものだったとしても、いな却って
公撰と成る事を夢見て 居れば居る程、尚の事、 彼の歴史家 とし
ての立場は、【時代の制約】から、完全に自由だった訳では無い。
其処には自ずと、時代(新王朝)への配慮と云うものが、入り込ま
ざるを得無い背景が在ったのだ。
ーー「魏」「呉」「蜀」の3国を統一した『晋王朝』は、吊目上では、
「魏(曹氏)《を受け継いだ(禅譲された)形で樹立された事になっ
ていた。・・・・だから『三国志』を著す時には、その正統性の視点
(歴史観)は、『晋』の前身である「魏《に在る・・・・とせざるを得無
かったのである!故に、『魏』=曹魏の支配者達だけは《皇帝》
として表記され、「伝」では無く『紀』=(武帝紀・文帝紀・明帝紀)
を立てられる。所詮歴史書とは、勝者中心の歴史観に支配され
る、支配されざるを得無いものなのである。ーーつまり曹操(魏)
が偉大で在れば在る程、 その曹魏を(倒して)引き継いだ 現王朝
(晋)は、更に偉大である! と云う事(方程式)に成るのだった。
超一級品の『正史・三国志』と雖も、基本的には、そうした制約・
自縛の上に成り立っているのである。それだけでは無い。更に、
「蜀の遺臣たる陳寿《としての誇りと、祖国を失った同胞(蜀出身
者達)への愛情が、その背景に潜在していたのである。
《・・・亡んではしまいましたが、蜀にはこんなに素晴らしい者達が
居たのです。ですから、今まだ冷遇されている、その遺臣達にも
眼を向け、どうぞ重用ちょうようしてやって下さいませ・・・・・!》
歴史家としての抑制の効いた、直ぐにはそれと気付かせぬ、ゆき
届いた配慮が施されているのである。
ーーと云う事は・・・・曹操に都合の悪い事は、あっさりと(それと無く)
書かれる。 また、 風評の芳しくないものについては、「仕方なく
やった」 と、云う体裁を構えざるを得無い。
その一方で、「劉備」が忠烈だったとされる点については丁寧に
(上表文中にはクドクドと2回も此の事件が使われている) 書か
れる傾向 (偏向では無いが)が潜んでいる事を加味しなければ
なるまい。ーーこの事件に関して言えば・・・・
曹操は確かに「廷臣の大粛清」はやった。が、其れは、殺された
相手が《暗殺計画》などと云う、許し難い行為をしたから、已むに
已まれず、仕方無く採った対抗手段・正当防衛だったのだ・・・と
(後から糊塗)せざるを得無い。然も其れには、後漢王朝(曹魏
の敵だから、少々悪玉に仕立てても文句は出ない) の皇帝が
荷担していた。いや荷担どころか、自分から密勅まで出す 腹黒
さであったのだ。ーー態々その箇所だけ、帯の中に密勅を忍ば
せたと、急に詳しく解説して見せているのは、如何にも態とらしく
語るに落ちた と云う部分である。 又、劉備が匙を取り落とした
などと云うエピソードも、 考えてみれば上自然な、 如何にも見て
来た様な、取って付けた話しである。これはーー20年後に登場
させる、劉備の上表文の為の【伏線】である。実に周到に仕掛け
られている。・・・・言う迄も無いが、劉備は、祖国・蜀の先の主
(先主)で在り、宣伝したい蜀の国の創業者である。事件の前に
単に(自立する為とは謂え)逃亡した・・・では格好悪いので曹操
の「廷臣大粛清」を、《暗殺計画》にすり替え、忠節一途な人物で
ある事をアピールしたのだ。もしくは、劉備が上表文の中に書い
た嘘 (政治手法・政治宣伝) をフォローする為に伏せて措いた
エピソードである。
又もし仮に、「曹操暗殺計画」が在った としたなら、その軍事的
首謀者と頼られる劉備に、曹操は兵力を与えないであろうし、お
めおめと解き放つ様なヘマはし無かったであろう。それを咎めた
程昱や郭嘉の言葉の中に見られる理由も、 その時点での謀叛
では無く、将来・未来への危惧が心配されているだけである。
この事から観ても、曹操は「謀叛が準備されている」などとは少し
も、心配して居無い。
ーー畢竟、曹操は・・・・既定方針通りに、前々から殺したかった
相手を、 【必要に迫られて殺しただけの事】 なのだ。・・・そして
そのカモフラージュの為に 《曹操暗殺計画》 をデッチ上げたので
ある。董承ら廷臣達は、謀叛を企むどころか逆に、
曹操に〔嵌はめられた〕のである。
蓋し、その実行の時期は、早過ぎても遅過ぎてもなら無かった!
当にピンポイント、此の時をこそ、選んで実行された
廷臣派の大粛清劇であったーーなぜなら・・・曹操は此の時、己の
存亡を賭けた【官渡の大決戦を直後に控えて居
た】
からである。
もし、対陣中に背後の「許都《で、廷臣派が策動(決起)でもしたら
万事休す。だから、後顧の憂いを断ち切った。その危惧は、朝廷
内部よりも、寧ろ 〔外部からの脅威〕 と連動したものであった。
ーーすなわち・・・・『呉』の【孫策】が、官渡の決戦(袁曹激突)の
間隙を突いて、《許都襲撃》 の本格的準備を始め、挙国総動員
態勢に入っていたのである。 その総兵力は10万以上。 是れが
来襲した時、内部(朝廷)から呼応されたら敗北は必至。
ーー前に袁紹軍50万!、後ろに孫策軍10余万!
曹操に、〔人生最大のピン
チ〕が訪れようとしていた!
だから、粛清した。董承も劉備も、況してや献帝・劉協も関係無い。
後に歴史家がどう書くか? などと、悠長な事は考える筈も暇も無い。
眼の前に迫った、現実的で生臭い、「生き死に」の問題だった!
是れが、【曹操暗殺計画】の、全ての真相、真実であろう。
「やめて呉
れ!
やめてくれ曹操!頼む、せめて命だけは助けて
やって呉れ!頼み参らす、
この通りじゃ!」【献帝・劉協】 は
玉座から立ち上がって、拝む様に手を合わせていた。
「ーー・・・・。」 臣下の礼を崩さず、平伏端座で軽く頭を下げたまま
一言も発せぬ曹操。
「朕は何も知らぬのだ!信じて呉れ、曹操!本当じゃ!汝と出会
ってから3年と半年・・・難儀に喘いでいた王室を是れ程までにして
呉れた、大忠節の汝を、なんで朕が嫌って居ろうぞ!どうして、除
こうなどする必要やある?ましてや女の身である董貴人が其んな
事を思い着く筈が無いではないか?一体、生まれたばかりで言葉
も発せぬ朕が皇子に、どんな罪が有ると言うのじゃ!」
劉協は玉座を降りて、曹操の傍らに立った。
「・・・・陛下に罪など有ろう筈は御座いませぬ。全ては佞臣どもの
悪だくみに御座います。」
やっと顔を上げた曹操と、献帝劉協の瞳が会った。劉協の眼元に
は、必死の涙が浮いていた。
「董貴は産後間も無く、母親に成ったばかりの身じゃ。また皇子は、
朕が大事な一粒種なのじゃ!」 「ーー・・・・。」
「その身は市井に落としても構わぬ。都を離れさせてもよい!
だから、だから・・・・!」 とうとう皇帝の眼から、涙が零れ落ちた。
「ーーこればかりは、いかに陛下のお頼みでも、お聴きする訳に
は参りませぬな。曹操は只、法の定めに従い、それを実行する
事しか出来ませぬ。」
其処に居るのはーー今まで劉協が知っていた曹操孟徳では無
かった。あの、何事でも心に響く様な、表情豊かで、感性に溢れ
た男は居無かった。・・・・氷の如く冷たく、鋼鉄の如くに硬く重い、
暗い眼の『権力と野望』とだけが、曹操と言う吊の人の皮を
着けて、何が何でも生き残ろうと、存在して居るだけであった。
「では、これにて御免いたす!」 ズイと立つ曹操・・・・・
「ーーああ、曹操!朕の最後の頼みじゃ!頼む、頼み参らす。
我が妻を、我が皇子の命を、命だけは救ってやって呉れ~!」
崩折れる劉協・・・・・
へきれき
この『事件』は、献帝・劉協にとって、晴天の霹靂であったろう。
そして又、この『事件』に因って、劉協の対曹操観が、決定的に
変わっていっただろう事も当然であろう。
ーー『董卓』ではないが、董卓以上に恐ろしい男・・・・己の本心を
巧みに抑えつつ、その野望の強さは、董卓の上をゆく男・・・・
本心を剥き出しにする事なく、劉協個人には礼節を厭わぬが、
漢王朝には微妙な態度で接し続けてゆく覇王・・・・・
知性・教養を有し、文化人としても軍人としても、また政治家と
しても超一流の人物・・・・非情にも温情にもなれる心の在り様・・・
《ーー曹操と云う男は、一体、朕を、漢の朝廷を、
どうしようと考えているのか・・・?》
これからも長く、この【覇王】と【皇帝】の、
〔光〕と〔影〕の、
微妙かつ深刻な関係は続いてゆく・・・・・
以上、これにて
『新・献帝紀』は一旦、幕を閉じる
事とする。かつて誰も着目しなかった、
〔亡
びゆく者の眼から観た・三国志〕 に依り、
我々の今後の歴史理解が一段と深まる事を祈るものである。
そして『三国統一志』の第2章も、是れ迄を以って完結としよう。
第1章と共に、兎角〔時代背景理解〕が多かったが、第3章から
は、ストーリィが、もう少し滑らかに進む様に成るであろう。
ーーさて我々は、次の第3章において、今度は 『三国志演義』
のヒーローである処の 【劉備玄
徳】・【関羽雲長】
・【張飛益徳】
の3兄弟と、遅れて合流する【趙雲子龍】を中心に彼等
の西暦
200年まで、乃ち官渡の戦いまでを追う事にしよう。
無論、彼等が関わる人物達・・・「陶謙《
【呂布】・【公孫
讚】そして
官渡戦の
当事者たる【曹操孟徳】と、最大の覇王候補であった
【袁紹本初】の実像とも出会う事になる。益々楽しみである。
※ この第2章を最初にお読み下された方には、第1章へ戻る
ルートをお奨め致します。(筆者より)
・・・・では、新しき英雄達の元へ・・・・ワープ!!
※ 此処で、【第1章】 《天下 悠悠》 へ 戻る→
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