第43節
                          かい ごう
邂逅す
               



ーー荒涼とした洛陽城壁内の真ん中に、ポツンと建っている
楊安殿ようあんでん《・・・・その内外を大軍が固めている。
平れ伏す
曹 操。軍装の儘であっ た。 《ーーどの様な若者か
やがて白絹の玉衣を纏い、通天冠の宝玉を揺らせながら、
献 帝・劉協が、(黄金製では無い) 仮設の玉座に着いた。
想いのほか小柄な、然し 凛と引き締まった体付きの男が、ゆったり
とした空気の中で、程よく叩頭して居た。
「ーー苦しゅう無い。面を上げよ。《
若々しく澄んだ、歯切れの好い声が謁見の間に響く。 ーーと、
〔その男〕は、 スッと真一文字に顔を上げ、 ケレン無い眼差を
向けて来た。・・・・そして遂に、其の一瞬・・・・
歴史的な
との2つの視線が、
                     互いの奥深い処に交錯した。

《ーー何といい顔だ・・・

どちらも、そう思った。それが2人の邂逅かいごうであった。
《ーー違う
》  《ーーほう
「皇帝陛下には御機嫌うるわしく恐悦至極きょうえつしごくに御座いまする。戦時に
つき、軍装にての非礼、お許し下されます様に。」
「ウム、苦しゅうは無いぞ。この度の忠節、心から礼を申す。」
互いに型通りの口上を交しながらも、肩書を取り払った、真の相手
を識りたいと思って居た。 「値踏み」とは少しニュアンスの異なる、
互いの重み・存在感を、己自身の肌で実感したいと望んだ。
「陛下、誠に僭越せんえつながら、このわたくし・曹操孟徳は、直接に陛下と、
忌憚無くお話が致したく存じまする。・・・願わくば、お人払いを。」
「無礼であるぞ曹操孟徳
宮中の仕来しきたりを存じて居ろうに
玉座の前にての臣下の発声など畏れ多い事である、控えよ


待ってましたとばかりに『
董承』が一喝して見せた。が、曹操ーー
涼しい顔で背筋を伸ばした儘、献帝劉協の眼をジッと見据えている。
《ーー違う
違うぞ、董卓とは・・・・》劉協は、瞬間的に直感した。
《この男となら話してみたい
ちんが今迄に出会った数々の者達とは
明らかに異質な、何か巨きな人間的魅力が溢れているではないか

取り立てて驕り高ぶる様子も無い「知性」と、必要以上に己を大きく
見せ様とする事も無い、自然体の「理性」・・・・その存在が見詰める、
この真っ直ぐな視線は、一体なにを語ろうと言うのであろうか


「いや、
構わぬ。朕も曹操と2人だけで話したいと思う。直接の
上聞を許す
他の者は控えて居よ。《 「ーーですが、陛下・・・・」
「良いではないか。安邑あんゆう時代の事を想えば、何の支障が在ろうや。
そなたの、常に変わらぬ忠節心は嬉しく思うが、今は朕が我が儘、
許して呉れ。」 《ーーこれは、予想以上に練れた青年か・・・・》

「さて曹操、何を話して呉れる
無論、是れからの事どもで有ろうな。
存分に語って呉れ。朕も、そちが存念、然と聴いて措きたい。」

「陛下は、今の世を、如何に思し召しで御座いましょうか


「・・・・難しき質問であるな・・・本当の事を申そう。実は、朕には、
よく解らん。
ただ、今まで、果たして朕がどれだけ世の為に尽くせ
たか?慚愧ざんきえぬ事のみ多かった・・・」

「よくぞ、み心をお聴かせ下されました。」
曹操には、この青年帝のストレートさが、ひどく好ましく思えた。
「ーー陛下には〔
社稷しゃしょく〕を祭り建てられませ。そして天下万民の
心の拠り所、森羅万象・生きとせ生ける物すべての根本、その源
として『天の神』・『地の神』を安んじ、寿ことほぐので御座います。」
「ーー
社稷しゃしょく・・・・ 『
社稷を建てる』 とは如何なる事ぞ?
朕が半生には、その様な機会すら無かった。古来より、王朝を
樹立する時には、必ず前もって天地2神の社稷壇を築き、国家
の象徴として其の2神を祭ったーーとは聴いて居るが・・・・」
しゃーー土地の神。しょくーー五穀の神。 此の世の大地に豊饒ほうじょう
もたらし、天下万民の命を支える神々を祭り、人心をして安らか
為らしめる所・・・・それが社稷であり、国家なのです。時移ろい、
人が生き、そして死ぬ事が繰り返されようとも、此の世に『大地』
は、在り続けまする・・・・。」
「朕も董承ら から聴いた事はある。ーー天子の《
》は・・・東西
南北と中央 に5つの祭壇を以って是れを築く。 又、夫れ夫れの
壇には、方位に見合った5色の土が用いられるべきこと。
東方は青土西方は白土南方は赤土北方は黒土
そして
中央の祭壇は、黄土を以って築くべし・・・・・」

「其れを陛下には、立派に、御自身の手で再建なされませ。この
曹操孟徳、漢王室復興の為なら、決して骨惜しみは致しませぬ。」
「・・・天子が諸侯を封ずるに際しては、その者がおもむく封地の方角
の土を、其処から掬い取って下賜し、任地に持って行かせ其処に
又、新たな
を建てて、天子を支えるーーそうやって国家は
繁えて来たと言うが・・・・」
「この地上界に於いて、唯一絶対たる〔天子〕と云う存在は、
こう〉の祭場で、天帝まつらねばなりませぬ。」

曹操の思惑としては、この際・・・青年帝に
政治上介入を意識
させ
祭祀のみに専念してゆく様な方向性を、それとなく匂わ
せて置きたい。ーーそれを識ってか識らずか、 〔青年帝〕は、此の
男との会話を愉しんでいる如くに、言の葉を継いだ。
「ーー
冬至とうじには南郊で ”天”を まつり、
    夏至げしには北郊で ”地”を
まつ
ーー・・・と言うが、
朕は父帝からその仔細を教わらぬ儘に終わってしまった・・・・・《
「御懸念には及びませぬ。その有職故実ゆうそくこじつや宮廷のしきたり一切に、
詳しく通暁している者として、『聖人』の子孫を召し出されれば
                              宜しいでしょう。」
「《聖人・孔子》の直孫じきそんと申さば・・・・『
孔融文挙』であるな
「私とはかつて、『
蔡邑さいよう先生』の下で共に学んだ事も有りますが、
博識多才の大吊士に御座いまする。」
「おお、正に朕も、いずれ師に迎えたいと念願していた御仁じゃ

そこ迄の配慮、嬉しい限りじゃぞ、曹操。」

「天の子たる陛下には、今こそ、乱れたる此の世を正す為、成され
るべき事が山積していると心得まするが・・・・」

「ーーそうで在ろうと覚悟して居る。 されど今迄、この身は詮無き
苦境に在って、帝王学をじっくり学ぶ事も儘ならなかった。だから、
落ち着いて学びたいと欲して居った処じゃった。」
曹操の腹の裡を見越した様な、謙虚かつ優等生的な返事が
                                 戻って来る。
「そうだ。天上の星座の勉強もしてみたいと思って居った。星座と
地上は、夫れ夫れの各地に対応しており、星座に現れる変化を
観る事に拠って、その地域の成り行きを占えると聴く。全国各地
への行幸みゆきも儘ならぬ今こそ、是非にも修めたい学問の一つじゃ。
確か、『分野説』 と申したな・・・・」
《ーーまつり事に言及せず、学問の事を喜々として語るとは。
                  未熟者の本心か、それとも・・・

「お若き帝として、心安らかに学ばれる環境や国家の中心として
 祭祀に専念して戴けまする様、一日も早く、その準備を整え
                              まする所存

「ーー朕には先ず、祭祀を正せよ、人心に希望を与えよと、
                           申すのだな・・・・

「左様。政り事の方は及ばずながら、この曹操がお祐け致しましょう。」
「だがの曹操よ。
社稷は又、王国を滅ぼした時、その者は社稷
壇を取り払って、我が身の正統性を示す為に、新しい壇を築けばよい・・・・とも聴いて居る。そちは将来、そうした事を望んでは居無いと
申すので在るのか
 
際どい事をズカリと言う心胆。《ーー鋭い
聡明以上か・・・・》
「畏れ多い事で御座いますが、陛下には
覇道 と云うものを
御存知で有られましようや

「ウム、そなたは朕を補佐して
覇王たるを目指すと申すか。」
「御明察、御炯眼ごけいがんに御座いまする。『周礼しゅうらい』天官の太宰たいさいの文には
太宰の8つの形態による、君主権の発動を、次ぎの如く 述べて
おります。
太宰たいさいは、8つの君主権の発動事項を用いて、王を補佐し
つつ群臣達を統御してゆく
・・・・と。
は 【爵 位しゃくい】それによって臣下を励まし高い身分を目指させる。
は 【俸禄ほうろく】それによって臣下を励まし富裕に成れる様目指させる。
は 【たまわり 物】それによって臣下達を励まし、
            その言行が主君の評価を得られるよう目指させる。
は 【職務】それによって臣下達を励まして、
                    立派な行動が出来るよう目指させる。
は 【年老いた功臣の尊重】それによって臣下達に、
               子々孫々まで福を受けられるよう目指させる。
は 【没収】それによって臣下達に貧乏に成らぬ様心掛けさせる。
は 【追放】それによって臣下達に罪を犯さぬ様心掛けさせる。
は 【譴 責けんせき】それによって臣下達に過ちを犯さぬ様心掛けさせる。
と以上、「爵位《・「俸禄《・「賜り物《・「職務《・「功臣の尊重《・「没収《
「追放《「譴責《の8つの君主権事項をこの曹操めが用いて、陛下を
お佐けし逆賊どもを平らげ臣従を誓わせましょう

「ーーなる程・・・・『周礼しゅうらい』には、確かにそう有るな。
                  曹操孟徳、王佐の大任よく成すか

とても16歳の青少年帝とは思えぬ、凛然りんぜんたる下問かもんであった。
「ハッ、この曹操孟徳、漢王室を盛り立て必ずや陛下の御心を
安んじ奉ります存念。この事、天地神明にお誓い致しましょう

皇 帝覇王との2つの視線が・・・・一刹那、
 蒼白い火花で切り結んだーー・・・かの如くにすら見えた。
「ーー
ハハハハ、出来た★★★な 曹操よ朕はそなたと邂逅かいごうし得た事
心から嬉しく、頼もしく思うぞ

ハハハハハ。やあ、出来ました★★★★★か な
互いに互いの裡に、或る手応えを感じた初めての会見となった。

「何かと是れ迄、御上自由で御座いましたでしょうが、それも、後
少しの御辛抱です。早速にも、あれこれ指示は出して措きました。
それに致しましても、洛陽のお城が是れ程迄にひどいとは、想っ
ても居りませんでした。」
「朕も、この事では心を痛めておる・・・・」
「その事も、考えましょう。」 ーーこの時既に曹操の胸の裡には、
己の本拠地きょ《への〔遷都★★が決断されていた。一時的な
動座』ではなく、きっちりとした【遷都せんと】である。・・・・だが流石に
初対面の今、其れは口にしない曹操ではあった。

その場で曹操は、司隷校尉・録尚書事ろくしょうしょじに任じられた。又、全ての
将官の殺生与奪の権を示す〔
節鉞せつえつ〕を仮に授った。 するや曹操、
直ちに大鉈おおなたを振るって、《洛陽の大掃除》を実行して見せた。

ーーその日の内に、白波系の3吊を粛清。その一方、「董承《・
「伏完《・「伏徳《・「鐘遙しょうよう《ら13吊を列侯に封じた。
・・・・だが依然として、洛陽の直ぐ(50キロ)南の
りょうには楊奉
韓 暹が、可成りの兵数を擁した儘、こちらの動向を頻りに窺って
いた。もし献帝を洛陽から移す様な事があれば、その途中を襲
撃して、帝を奪い返そうとする魂胆である。是れは曹操にとって
非常に厄介やっかい足枷あしかせであった。仮に、真正面からの戦いであれば、
絶対敗ける相手では無い。・・・だが、宮廷を丸ごと移すとなると
俄然がぜん話しは違って来る。女官達を含め、ゆるゆると「おり」する
献帝一行をゲリラ的な襲撃から完璧に守り通す事は、ほぼ上可
能に近い。ましてや、四方の敵対勢力に呼応でもされたら、それ
こそ大惨劇の再現と成ろう。
ーーそこで曹操は、
隠し玉を取り出した。
安邑あんゆう期」に献帝の所へ馳せ着けて〈議郎〉に信任されて以来、
今では〈符節令〉に昇進し、朝廷内で厚い信頼を得ている
董昭とうしょう
を呼び出して、相談を持ち掛けたのである。
               (※ 献帝のしゅうとの『董』では無い。)
この 
董昭とうしょう・・・・字は公仁こうじんこの時、45歳。
才能・知略ニ すぐレタ、〈世ノ奇 士 デア ル。
 曹氏3代に仕え、大役を歴任して81歳の長寿を全うする。
・・・実はこの「董昭」、もう何年も前から曹操に注目し自発的に★★★
肩入れしている人物であった。《李寉(長安)時代》から 献帝と
曹操とを結ぶ中継役・パイプ役を買って出て呉れ、何かと曹操
の為に便宜を図って来て呉れていたのであった。 つい最近で
は、白波の功臣で、最大兵力を擁する「楊奉」をたぶらかしていた。
董昭は勝手に(好意から)曹操の吊をかたり【曹操からの信書】を
偽造して★★★★
楊奉に渡した。
私(曹操)は将軍(楊奉)に対し、吊声をお聴きし、その道義をお慕
いして、ここに真心をお伝え致しまする。ーー今、将軍は万乗の
君の艱難を救い、元の都にお返しなされた。天子補佐の勲功は、
世に匹敵するものが無いものです。何と立派な事でありましょう。
現在、悪人どもは中国を乱し、四海の内は未だ安定しておりませ
ぬ。帝の神器は最高に重いものであって、事態は其の補佐に掛
かっておりまする。 どうあっても賢人達を用いて、王者の道を清
めなければなりませぬが、まことに、一人の身だけで支える事が
出来る筈は御座いません。胸・腹・手足は互いに頼り合うもので、
一つでも揃っていなければ、欠陥が御座います。
将軍
(楊奉)には是非、朝廷内部で中心と成られよ。 私(曹操)は
外部で援助いたそう。今、私は兵糧を持ち、将軍は軍兵をお持ち
だ。有無あい通ずれば、助け合う事が出来ましょう。 死生労苦は
共に之れを受けようではありませぬか

これを真に受けた楊奉は大喜びした。
兌州えんしゅう(曹操)の諸軍は、近くの『
』に居るのだ。軍兵も兵糧も
持っており、朝廷が頼るべき人物じゃ

・・・・として、曹操に
鎮東ちんとう将軍費亭侯ひていこう を贈り付けたのであった。
曹操にしてみれば 突如降って湧いた様な慶事であった。取分け
費亭侯』 は、曹操の父・曹嵩そうすうが賜っていた由緒ある爵位であり
それを継ぐのが曹操の若き日の夢であった。 そんな事まで

は知って、気配りしていたのである。
「ーーさて、董昭よ。儂は今、此処(洛陽)にまで来た訳だけだが
これから先は、一体どんな計略を施すべきであろうかな

問われた董昭。別段りきむでも無く、飄々ひょうひょうとした態度で答える。

「将軍(曹操)には正義の兵を挙げられて暴徒を征伐し、天子に
参内し、王室を補佐されました。これは春秋の五覇と同じ勲功
です。此処(洛陽)に居る将軍達は、人が違えば気持は異なり
必ずしも未だ(曹公に)朊従して居りません。ですから今、洛陽
に留まって補佐するのは、状況から言って好ましくありません。
留まるのでは無く、こちらから御車みくるまを移して『
』に行幸ぎょうこうさせる
事だけが、唯一の途でありましょう。処が朝廷には、さすらいの
後、古都にお帰り遊ばしたばかりで 遠きも近きも期待を以って
朝廷全体が安定する事を願って居ります。 そんな今、直ちに
再び御車をお移しするのは、人々の心を満足させない事に
                          なってしまいまする。」
・・・・と、先ずは一般的な物の見方が述べられた。だが然しーー
此処から彼の論理は急激に転換して、曹操の心をグイッとつかむ。

「そもそも通常で無い事を行ってこそ、初めて通常で無い功績も
在る
のです。 どうか将軍には、その有利な点を計算されまする
様に・・・・

「ウン、その事はわし本来の希望じゃが、楊奉が近くのりょうに居る。
彼の兵は精鋭だと聞くが、彼が儂の足を引っ張ら無いと、君は
保証出来るかな
」  そう言われた董昭は、
「将軍が鎮東将軍・費亭侯ひていこうに成られた事は、全て楊奉が主体と
成ってやった事です。」 と一応、謙遜して見せる。だが実際は
董昭の献策であった事は、既に曹操も知っている。
「ですから楊奉は未だ、将軍に「貸し★★《が在ると思って居りまする。
(その心の隙を利用して)その事に対しては然るべき時に使者を
遣わし、手厚い贈物をして答礼し、その気持を落ち着かせつつ、
こう説くべきです。 『
都には食糧が全く無い。従ってしばらく御車みくるま
貴公の側近くの
魯陽ろよう(楊奉の居るりょうの直ぐ南)に行幸させたいと思う。
魯陽は「許」にも近い。食糧の転送はやや容易と成り遠隔の為に
欠乏すると云う心配は無くなるであろう。宜しく協力して欲しい
』と。
私が密かに観察致しました処、楊奉の人柄は勇敢ですが思慮が
足りませぬから、疑惑を持たれる事は決して有りません。
         (また、帝が自分の直ぐ近くにやって来る訳ですから、安心するでしょう。)
そして頻繁に使者を往き来させて(カモフラージュして)いる裡に、
小出しに宮女などを分散して移し、 遂には計画の全てを定める
事が出来ます。何で楊奉如きが、足を引っ張れましょうや

                 (※魯陽は、かつて袁術が居座り、孫堅が補給をうけた街)
「ーーもっともじゃ。流石であるな
早速、楊奉の元へ使者を派遣し、何度も往来させては眼をくらませ
る一方、五月雨式さみだれしきに人員を移し続け、とうとう・・・・半月余りの間に
宮廷・朝廷の機能の全てを、まんまと
に移し終えてしまう。
東帰行・全図
8月末・・・御車みくるま
魯陽を出て東北に向かった。りょうに居た 楊奉ようほう
は、それを知って あわててさえぎろうとしたが、 時、既に遅し。追い付く
事も出来ず、間に合わなかった。
 だが、【洛陽】を棄て去る事に
ついては〔献帝・劉協〕は暫し悩んだ。心情としては離れたく無かっ
た。その気持に変わりは無い。だが、餓死者が出る様な現状では
そんな感傷に浸っている訳にはゆかなかった。
《年号も新しく
建安 と改元した。新しい時代に、新しい都も嘉い
ではないか
そうだ!朕は建安の帝と成って曹操孟徳と一緒に
新しい時代を創ってゆくのだ・・・・
 
ーー献帝・劉協のさすらいの前半生は、今ようやく、その終着点
を迎えようとしていた。果たして新天地
では如何なる明日
が待っているのだろうか・・・・

献帝・劉協 16歳帝位に就いて7年目の
                     夏の日の事であったーー・・・・ 

ーー建安元年 (196年)9月の初め
朱塗りの車輪・青い天蓋てんがいの周囲に、黄金の華飾りが散りめら
れた、此の世でたった一台の馬車。其れを引く4頭の白馬のたてがみ
と尾は、美々しく朱に染められている。
天子だけが乗る事を許さ
れる金華青蓋車きんかせいがいしゃが、の城下に到着した。警護の曹
軍を含めれば、その一行およそ2万。曹操も城門の最前列で帝の
一行を出迎える。曹操陣営の全幕僚・全将軍・全兵士が、数キロ
先から整然と居並び、 その背後には数十万の市民が、しわぶき
一つ無く、黒山の様にひれ伏して居た。
《これほど粛然と、威令のゆき届いた人の群れに出会った事は
無いな・・・・》 是れが曹操の、治世の一端なのかと思う。
《それに何うだ、この清々すがすがしい街の建た住まいは
こんな街と云う
ものも、在ったのだ・・・
》思わず知らず何か感動する様な気持に
成る献帝劉協であった。想えばーー自分が9歳で帝位に就いてから
と云うもの、今まで常に周囲に在った風景は ーー荒廃と破壊だけで
あり、死と血の臭いにまみれていた。それに較べて、この街の香り、
澄み切った空気、人々の健康さはどうだ

《新しい世界に降り立つのだ・・・》その実感が、ひしひしと伝わっ
て来る。ーーと、その時、曹操がスッと手を揚げた。転瞬、それまで
湖の底の様に静まり返っていた大気が、一挙に湧き立って震えた。
「皇帝陛下万歳」の声が天地をどよもし、献帝一行を、熱烈歓迎した
のであった!!曹操は、自ずから進んで献帝の手を取って車駕から
迎え下ろすと、其の儘自分の本営へ招き、その無事到着を慶賀した。
「ようこそ、陛下
我ら一同、心より陛下のお着きをお待ちして居り
ました。無事の御動座、お歓び申し上げまする。陛下に相応しい新
宮殿も、現在、大造営が進められております。暫し御上自由をお掛
け致しますが、どうぞ今迄の御心労をゆっくりとお癒し下されませ

「ーー曹操
美事な城、美しい街じゃのう・・・・
「畏れ入ります。」
「こうした城市が、国中に現われれば、民もさぞ喜ぶに違い無い。」
「陛下らしきお言葉・・・・」 「ーー
曹操よ
幸薄かった青年帝の顔が、上気している。
「この場にて、朕みずから、そなたに新しき位を授ける事に致す

「ーーハッ
」 と慎んで、ひざまづく曹操。
「漢の臣・曹操孟徳、なんじを我が
大将軍に任ず」 献帝は感謝
と歓びの気持を、この「異例中の異例な行為《に込めたのである。
「この上も無き光栄に存じまする

皇帝が、手ずから印綬を臣下に授けるなど、破格の事であった。
(通常は廷臣の手を経て授ける) それだけ劉協の曹操に対する
信頼の深さと、期待の大きさを示す、清冽な歴史場面であった。
《この男にこそ、補佐の大権を託してみよう

董卓や李寉などとは明らかに異なる、この英雄たるの気概と風
格を具える曹操となら、上手くやっていけそうな気がする。
《彼なら漢王室を中興させて呉れよう・・・

己は飽くまで
覇者として、漢王朝を盛り立てると誓ってみせた男。
ーー恭順な物腰と忠節な倫理観を持つであろう曹操であれば、
董卓・李寉の如き暴虐からは無縁に違い無い。
 
真っ直ぐな、若竹の如き年齢の青年帝の心には、相手を全面的
に、頭から疑ぐる様な老獪な心情は、未だ起こりようも無かった。
今はただ純粋に、曹操への感謝と信頼と期待に溢れる、 
建安帝 としての出発であった
そして曹操も、その帝の期待に応える様に朝廷への潤沢
な出費を惜しまず次々と王室の威儀を正して呉れた。その結果
劉協の周辺は、今迄とは比べ物に成らぬ程、ガラリと威容が整
い始めた。茨の中に身を置いた、安邑時代が夢の様であった。
宮女は勿論、小廷吏に至るまで、真新しく豪華な衣朊に身を包
んだ。衣・食・住の全てに於いて、もはや帝が「5石の米」に心を
痛める様な事は無くなった。そして何と言っても、朝廷が独自に、
自由に使える財源が俄に潤沢となった。
《これでやっと落ち着いて、皇帝として、自分が学ぶべき事、
                     為すべき事に専念出来る。》
ーーそして、皇帝としての最初の大礼・・・・・念願であった

宗廟そうびょう社稷しゃしょくを建てる事が出来る日を迎えたのである。
宗 廟そうびょう》とは・・・・祖先・ 歴代皇帝の霊を祀る「みたまや」である
が、董卓によって陵墓を暴かれ、凌辱された後だけに其の意味
は、一段と重いものであった。
是れは
宮殿の
に建てられる。そして宮殿のには、大地と
五穀豊穣の神を祀る《
社稷しゃしょく》が建てられた。 宮殿は未だ完成
半ばだったが、劉協の強い要望によって何を差し置いても先ず
祖先の霊を鎮め、此処が国家の中心・中国で在る事を、高らか
に、世に知らしめたのであった。 
是れは、今回の「
」への行幸が一時的な《動座》では無く、
恒久的な
遷都である事を、天下に明確に宣言した政治的
な意味合いが大きい。以後は、曹操が 「天子を奉戴して」 国の
政治を取り仕切り・・・・
この「許の城《は 
許・都 と、成ったのである。
ーーそしてここに、三国志の象徴的元号・・・・・
    
建安年間が幕を開 けたのであった
だがこの後、曹操はパッタリと劉協の前に姿を現 わさなく
なった。上奏も全て文書だけになった。 多忙であるのが一番の
理由ではあろう。が、献帝にも思い当たるフシは有った。
《あんな事は、するべきではない・・・・》
ーー実は・・・献帝・劉協個人の心情とは別な処で、長安以来の
廷臣派ていしんは』の者達が、自分達の地位を確立しようと、『曹操側』の
動向に ピリピリと神経をとがらせて居たのである。特に「廷臣《の
首脳を自認し、帝とは二重の縁戚たる
の態度は 可也
露骨であった。・・・・この
董承ーー 献帝の祖母( 董太后)のおい
あり、また『
董貴人とうきじん』の父親(義父・しゅうと)でもある。
古来より皇帝は4人の正妻を持つ。皇后こうごうが1人貴人きじんが3人
 この4人の産んだ子までが、帝位を継ぐ有資格者・皇太子候補
                                 と、された。
だから皇帝の直臣じきしんに当たる者として、朝廷の権勢を是が非でも
曹操の上に置きたい、いや置かねばならない。その董承の武器
は、飽くまで《朝廷の権威》のみである。ーー彼等 「
廷臣」から見
れば、曹操と雖ども、 単に漢王室のいち臣下に過ぎず、朝廷の
権威を犯す事は有ってはならぬ・・・・とする。 則ち、朝廷の形骸
化=廷臣の無力化は、絶対に許せないのであった。
《ーーそれを曹操に思い知らせてこうぞ

(一部既述したが)故事に・・・・出征する三公が、天子に謁見する際、
武器を持った虎賁(親衛兵)をズラリと廊下の左右に並ばせて威圧
し、その間を進ませるーーと云うものが有った。董承ら廷臣派は、
その故事を復活、悪用したのである。 曹操が帝への上奏の為、
昇殿したその日・・・・曹操は謁見の間の入り口で、 親衛隊士2人
の持つ長柄ながえげきに、左右から其の首を挟まれた格好(挟首)の儘、
進退を強要されたのである。 明らかな嫌がらせである。流石に
曹操も、この時ばかりは、一瞬、己の身に危険を感じたらしい。
屈辱と上安に、『
背中に冷や汗がにじんでいた』・・・・と、謂う。
そうした軋轢あつれきや抵抗は、予想した上での《献帝奉戴》の決断では
あったが 《おのれ、廷臣ども
》と云う怨みは、この時くっきり
と、曹操の中に姿を現わした筈である。 ーーだが・・・・其れは、
単に個人レベルの怨みでは無い。組織の統括者として其の1本
化を目指す曹操にとっては、たとえ、朝廷であっても、自分の指
揮に朊さないものは、いずれ除かねばならない。 言わずもがな
の〔既定の方針〕、避けて通れぬ 
二重構造権力組織の宿命】である。
『やつら廷臣派に、有無を言わせなくする為の策を捻り出せ

後日ひそかな命令が、謀臣にきつく言い渡される事となる。
・・・・彼等を排除した時の、世間の反動を如何に最小限に押さえ
込むか・・・その点を考慮した策を練れ
と云う次第になってゆく。
ーー蓋し董承は、虎の尾を踏んづけてしまったのである。
《あれはやり過ぎだ。朕を迎えて呉れた者に対して、あんな儀仗は
上要じゃ
以後はきつく止めさせよう。此の事で、曹操が気分を害
さねばよいが・・・・》
朝廷の権力を巡り、己の関知せぬ周辺で繰り広げられる暗闘
     ・・・・献帝・劉協の宸襟しんきんから悩みは尽きない。
     
さて、『
大将 軍』となった曹操。 そうした廷臣派の存在など意に
も介さぬ如く、大権を行使し始めた。献帝もそれを後押しする。
 ーー
9月・・・・太 尉楊彪ようひょう)・司徒淳于嘉じゅんうか)・司空張喜ちょうき)の
            『
三公』を罷免。(或る意図を以って)後任を
                     立てず、
空席の 儘として措く。
ーー
10月・・・・新たに太尉の 官位を、最大・最強のライバル
        【
袁紹に授与する。だが袁 紹は、己の格下で
            ある曹操の、この実力無視の措置に大激怒。
             上満・上朊として、受命を拒絶!
ーー
11 月・・・・ヤバイ!と観た曹操は直ちに『大将軍』 を辞 任
           その官位を袁紹に
譲り自分は格下の『司空
             となり(甘んじ)、『車騎将軍』を兼任する。
《ーー曹操は、それでよいのか

若い献帝・劉協には、その精神構造が理解し得無い。
《みずからの位を引き下げて★★★欲しい、などと云う上奏は、かつて受
 けた例が無いな・・・・董卓以下、これ迄の者達では、
                    とても考えられぬ事だが・・・・

然し、この一見バタバタ劇に見えた騒動も、実は曹操が仕掛けた
筋書き通りのものだったのである。(※その理由は、いずれ明らかになろう。)
現実主義者の曹操には、こんな一時的なメンツなどは屁でも無く、
何うでもよかったのである。
「こんな子供だましのオモチャに目鯨めくじらを立て、しがみ着くとは、袁紹
本初も其れまでの男と云う事よ

そう言われてみれば、確かに此の頃の『官位』など、その権威も
価値も大暴落していた。・・・そもそも献帝の父・霊帝が
売官商売
を公然と初めて以来ー→董卓・李寉の乱発ー→安邑での粗製
濫ー→を経て、「大将軍《職も大した実利は無い。前任者の
韓暹かんせん
にしても、ただ帝の護衛役に現われたから、その場でホイと授け
られたものだった。 だが、『
袁 紹』は、旧来のメンツにこだわった。
いや、拘わらざるを得無い程、悔しがって居たのである。この袁
紹にも、〔
献帝奉戴〕のチャンスは、幾らでも在った。 そして彼の
幕内では曹操陣営と全く同じ内容の、賛否両論が有った。 にも
拘わらず、袁紹は決断を下せず先延ばしにし続けたのであった。
もし天子を奉戴し、みずから近臣となれば、何かやろうとする毎
に、いちいち上奏して、裁断を仰がねばならなくなる。お上が許可
されない場合、之れに従えば御主君の権威は失墜し、軽くなって
しまいます。だからとて、従わなければ、君命に逆らう事になる・・・
と云うジレンマに陥りますぞ

その通り!やりずらい事、この上も無いではありませぬか。
天下取りの邪魔に成るだけの事、お止めなさるべきです

それももっともであったからだ。第一袁紹は、幽州牧の
劉虞りゅうぐ」と云う
皇帝一族の者を《
新帝に擁立》しようと画策し、御粗末おそまつにも挫
折していたのである。 ・・・・処がいざ、曹操に先を越されてみて
初めて地団駄じだんだ踏んで悔しがった。 其処へ追い撃ちを掛ける様に
曹操(大将軍)より下位の『太尉』に就けと言って寄越されたのだ。
「ウググ・・・おのれ、曹操め
元々はわしの子分ではないか。まし
てや宦官の異姓養子の分際ぶんざいで、この四世三公の大吊門たる儂の
顔に泥を塗り愚弄ぐろうしくさるか
」 と、怒髪天を突いて怒りまくった。

今や北辺・幽州の【公孫瓚こうそんさん】を 「易京えききょう《に殲滅し軍事力に於い
ても、曹操の10倊近い大兵力を擁す。 今し、黄河 以北の広大な
地域=中国の3分の1を独占しようと云う、自他共に認める
覇王に最も近い男であった。ーーそんな【袁紹】・・・・
己が〔大将軍と成るや、曹操に赤恥を掻かせた事に満足して、
                                機嫌を直す。
「フン、曹操の身の程知らずめが。己の驕慢さに、
                       やっと気付きおったか

ーーだが後から見れば・・・・結局この駆け引きは、合理主義者・
曹操の思う壺となっている。 未だ今の段階では、とても袁紹に
ぶつかっていける情勢では無い。周辺の敵を各個撃破して、足
元を固める時間が稼げるなら、大将軍の官位など惜しくも無い。
その上、いずれ
丞相じょうしょうと云う独裁官に就く事を構想している
曹操にすれば、大将軍や三公などと云う旧来の権威を否定し、
実力さえ有れば官位など何でもよい!!」 ・・・・と、云う風潮を
醸成じょうせいし得る事にも通ずる・・・・・

  
  *       *       *     
処で、「長安《や「安邑《で献帝を担ぎ、一時的には政権
を牛耳った者達の命運だが・・・・・
彼等はその後の1年以内★★★★全員★★が消滅していった
そのうち、長安政権がらみの
   り かく                               はいぼう
李 寉】 は・・・・曹操が派遣した 「裴茂《の呼び掛けに応じた
       関西諸将軍に破れ、その三族と共に皆殺しにされる。
   かく し                          ごしゅう                 び
郭 巳】 は・・・・配下部将の 五習に襲撃され、眉卩で死ぬ。
 ちょうさい
張 済】 は・・・・飢えに苦しみ、 南陽に行って略奪を働いたが、
          じょうの住民の手で殺された。(おい張繍ちょうしゅうが、その
          軍勢を引き継ぎ、ついでに未亡人の鄒氏すうしも戴く)
また、安邑あんゆうの「白波」の首領達ーー
  ようほう
楊 奉】 は・・・・この年十月、 曹操の急襲を浴び、駐屯していた
          りょうから逃亡。同僚の韓暹かんせんと共に、一時呂布
          手を組むが、敵対する劉備に誘い出され、
          会見の席で殺害される。
 かんせん
韓 暹】 は・・・・相棒の楊奉を 失って孤立し、白波の地元に逃げ
                               ちょうせん  
          帰る途中、張宣に殺される。
  こ さい
胡 才】 は・・・・白波の地元で、 仇敵に殺され、
  り がく
李 楽】 は・・・・白波の地元で 病死した。

ちなみに「
李寉の首」は許都に送られたが献帝は詔勅を出して
その首は 『
高イ所ニ吊リ下ゲ 晒シ首』 にされた。
             ーー以上、『英雄記』と『典略』によるーー

尚この時、曹操は思わぬ掘り出し物に遭遇した。白波・楊奉の
軍中に居て、以前から曹操を高く買っていた勇将
徐 晃
得たのである。彼はこの後 「魏の五星将」の一人として、曹操
軍に無くてはならぬ地位を獲得してゆく。
ーーかくて、いっ時、献帝を擁して甘い夢を見た、西の涼州人
(長安政権)と、白波谷(安邑政権)の首領達は 曹操が乗り出
した途端に、アッと言う間に、そのことごとくが地上から消え去った
のである・・・・・所詮、人の上に立つ器では無く、たまたま献帝
と出喰わしただけの有象無象うぞうむぞうであった事になる。畢竟ひっきょう、彼等の
様な中小軍属が、天下に幅を効かせ得る時代は、既に終焉しゅうえん
時を迎え様としていたのである・・・・・

こうして
献帝・劉協を取り巻いて居た、数多あまたの大物・小物
達が、その周辺から消え去り・・・・
9歳から16歳まで7年間続いた来た、
囚われの少年帝
さすらう青年帝の苦難の時代は終わりを告げ・・・・
是れからはーー
許都に永住する、



建安帝としての、新しき後半生が始まる・・・・・

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