第42節
  こ う ご う
光々しき影

                    


想いも寄らぬ
大惨 劇であった。
ーー実は・・・・叩き潰したと思った長安軍は、未だほんの先鋒の
1部★★に過ぎず、後発の大部隊は、ようやく此の〔
曹陽そうよう〕に辿り着か
んとしていたのである
!!
皇帝軍側にも気の弛みが有った事も否めないが、先日の敵部隊
とは比べ物に成らぬ大軍団であった。一目しただけで、どう仕様も
無い事が判る程の、圧倒的な敵の大兵力であった。ーーだが帝
の将兵達も、必死の防戦を試みる。
これ以上の凄絶さは無いと云う、激闘・奮戦が、谷一杯に繰り広げ
られた。ーーだが衆寡敵せず・・・・味方の部隊は次々に、殲滅され
てゆくばかり・・・・ 
少府の「田芬でんふん《・大司農の「張義《らがバタバタと
討ち取られる。逃げ足の遅い公家達は、”九卿”のうち、4人までが
殺された。尚書令の「士孫瑞しそんずい《も、乱入した敵兵に斬り殺される。
更に、司徒の「趙温《 ・太常の「王偉《 ・衛尉の「周忠《 ・司隷校尉の
栄邵えいしょう《らが破れて捕えられる。 それより更に足の遅い宮女達こそ
哀れであった。その場で雑兵どもに輪姦されては殺される。さもなく
ば、将官達の愛妾用にぶん盗られた。
「こうなれば、残された手段は唯ひとつ。帝を北岸にお渡しするしか
ない
」白波・黒山の首領達は、献帝を自分達の根拠地へ”動座”
する事を決断した。
「では、船の在処ありかまで案内あない致す。但し、敵を避けての道ゆき故、
            難所を通りまする。おのおの御覚悟の程を
」 
ーー劉協は走った。上思議と恐ろしくは無かった。チラと見遣ると、
伏皇后も、兄に背負われ無事だった。 流れ矢がビュンビュン飛ん
で来る。だが走る。走りに走る。周囲はがっちり、諸将が人垣と成
って固めて呉れている。胸がゼイゼイ焼ける様に痛く成って来た。
思わず立ち止まる。将の一人が膝を折り、大きな背中を差し出し
て呉れたが、大丈夫だと手で制し、また走る。走りながら自分を励
ます声が湧いて来た。
是れがお前に与えられた宿命なら、丸ごと受け容れてやろうでは
ないかこれ位の事で参っていては御前の為に死んで逝った者達
に済まないではないか
》 どこか醒めた自分が居た。
そうさ、成る様にしか成らぬ。「天」が我が子に委ねる儘に従うだけ
の事だ・・・・

駆け通すこと2刻近く、敵の喚声も遠退き、矢も全く飛来しなくなった
頃、眼の下に黄河の流れが現われた。ーー切り立った崖の上であった。・・・・この眺めは、どこか遠い昔に見た様な気がする。
《そうだ、兄上と2人だけで取り残された・・・あの日だ・・・・
                         あの崖の上と同じだ・・・・》
その時は、9歳の自分と、頼りない兄の、たった2人だけだった。
それでも無事、生還したではないか。ましてや今は、自分を守ろうと
命を張って呉れている股肱の者達が居て呉れる
そして何より違うのは、自分には愛する妻が居るではないか

《ーー何が在ろうと、くじけはせぬ
その、緊迫した場面を、『献帝紀』は簡潔に記す・・・・
天子てんしは歩いて河岸に走り寄ったが、岸壁が高くて降りられない。
董承とうしょうらが思案して、馬の手綱たずなを結び合わせて帝の腰にくくり付け
ようとした。その時、中宮僕の伏徳ふくとく
(皇后の 兄)は、皇后をたすけて
いたが、片方の手に十ぴきの絹を持っていたので、その絹を取って
結び合わせてぐるまを作った。行軍校尉の尚弘が強力ごうりきであった為、彼
が前にいて帝を背負い、ようやく下へ降りて、船に乗る事が出来た。

この青年帝の、断崖降下の場面は、色んな意味合いを込めて
          『絵に成る』、《印象的かつ象徴的》 な光景である。
その他の者には、渡れない者が非常に多 かった為、再度船を返
して、是れら、渡り切れぬ者を収容したが、皆、先を争って乗船しよ
うとするので、船上の者が、刀で其の指を切り落とした。この為、船
中に落ちた指は、手ですくう事が出来る程であった。

かたわらスル者ヲ殺シ、血 ハごうノ衣ニそそゲリ
ーー阿鼻叫喚あびきょうかんの末、かろうじて「帝《と「皇后《だけは助かったが・・・・
朝廷は全滅した と言ってよい。
それ程の大惨劇と成ってしまった・・・・・
無事、黄河の北岸に辿り着けたのは、将官を除けばーー
廷臣では僅か10余吊★★★。女性は皇后の外は貴人クラスの数吊★★のみ。
出発した時には数百人居た、女官達の姿は全くのゼロ★★唯の1吊
も、居無く成っていた。
蔡文姫さいぶんきの姿も無い。
ーー又、この時を境に、
黒山軍が上意に消えた
確か彼等も、盛んに船を 往復させては、救出作業に大活躍していた
筈なのだが・・・
???
実は・・・・後日判明したのだか・・・・彼等が懸命に助け上げ
ていた相手は、もっぱら
宮女オンリー★★★★だったのである。然も是れは、
匈奴きょうど民族の王(単于ぜんう
於扶羅オフラの厳命に依る秘密指令だった!!!
彼等(黒山)が、友軍にも隠していた、もう一つの作戦とはーー
花嫁候補集団誘拐であったの だ!!
余命幾ばくも無い、匈奴民族の単于ぜんう(王) 「
於扶羅オフラ《 は・・・・・
教養ある中国女性を大量に誘拐・強制結婚させる事に拠り、
匈奴族の文明開化 を、一挙に達成しようと図ったのである 
             (確かに、効率よい、絶妙な方法ではある。)
次代を託す若者達に、先進国の教養あふれる女性をめとらせ、一刻
も早く、中国人社会に同化する。それが異民族が異国で生き残って
ゆく為の、絶対必要条件だと考えたのだ。 特に跡を継ぐ事になって
いる13歳の我が子「左賢王さけんおう」の『
ひょう』には、最高の女性をめとらせる
事を強く念願していた。・・・だから此の時、忽然として消えた黒山軍
の中には、何と
200吊もの宮女達が含まれて居たのであり、彼女達
は全員が、司州の山深い平陽 の地で、生涯を送る運命を架せ
られたのであった。 当時その地は、言葉も通ぜぬ、中国社会からは
隔絶した、事実上の『異国』であった。後世有吊な(当時でもセンセ
ーショナルな)、女流詩人・『
蔡文姫の悲劇』は、こうして始まろう
としてしていたのである・・・・・               (※ 別章にて詳述)
献帝・東帰行コース
人も車も財宝も食糧も全て失い・・・それこそ身一つに成った全員が
山中を北に10キロ弱歩き、河東かとう郡の〔大陽たいよう〕で一夜を明かす事と
なった。12月の山中の邑の寒さは厳しく、その夜、帝らは民家に分
宿せざるを得無かった。狭苦しく、みすぼらしい民の住居ではあった
が、どれほど劉協は、安堵した事か。ーーだが、この青年帝の心に
浮かんで来るのは、決して歓びでは無かった。
《何で、いつも、此う成ってしまうのだ。朕が皇帝で在るとは、一体
どう云う事なのだ・・・・》 鬱勃うつぼつとして胸の奥処おくがに湧き広がる困惑と
哀しみ。この夜、【皇帝・劉協】は、一言も口をきかず、己の無事を
喜ぶ様子も見せ無かった・・・・・
大陽県から北へ10余キロ、白波軍の本拠地である安邑あんゆう
帝の一行が到着したのは、 12月も押し詰まった頃であった。
牛車を調達し、仮りの幌を着けた乗り物で、久し振りに安全な道
行きであった。
帝が暮らすからには、一応 
安邑《が〔
 と云う
事になる。そして到着するや、年内の間に、【安邑政権】 造りが
行われた。無論、今回の事変で活躍し、生き残った者達が全員、
その主要ポストに就いた。
救援に駆け付けた
白波の
韓暹かんせんは征東将軍に、胡才こさいは征西将軍・
李楽りがくは征北将軍に任命された。それでも人員が殆んど足らぬと
云う異常事態ではあったが、ひとまず、献帝・劉協は安息の場所
を手にしたのである。
この時、東に隣接する河内かだい郡(安邑は河東かとう郡)から、2人の男が
馳せ着けて来た。河内郡太守の『
張楊ちょうよう』と、彼の客将の【董昭とうしょう
である。ーーこの2人の関係は此うである・・・・・「董昭」は初め、
袁紹の能臣であったが、讒言に遭って出奔。長安に居た献帝の
元へ行こうとしたが、 途中の河内郡で太守の「張楊」に引き留め
られて客将となった。
さて、この『
張楊』の方は食糧を持参し、安国将軍・晋陽侯に取り
立てられた。そして、《即刻洛陽への出発!》 を進言したが、諸
将に反対された事もあって、程なく河内郡へと戻っていった。 
もう一人の 【
董昭】は、そのまま残って議郎に任命される。
処で、この【
董昭とうしょう】ーー・・・心密かに曹操を信奉しており、今後は、
献帝と曹操との邂逅をデイレクトする
      重大な
キーパーソン と、成ってゆく人物である
(従って、同じ発音で、献帝の縁戚である【
とう】と混同されぬように、しっかり銘記して措
いて戴きたい。混同されてはトウショウも無い。)
ちなみに此の「
」・・・・・既にこれ迄にも蔭ながら★★★★、曹操の為に、
少しく尽力していた。
当時、兌えん州を治めていた曹操(許に居拠)
長安の献帝に使者を派遣したいと思っていたので「張楊」に使者の
領内通行を求めた。 然し張楊は是れを許さ無かった。だが客将の
董昭」は進言した。
現在、曹は袁より弱いとは言え、真に天下の 英雄で御座います。
何とか彼と手を握るべきです。ましてや今、機会が在るのですから
彼の言上事ごんじょうごとを通じてやり、同時に上奏して、彼を推挙するのが宜
しいでしょう。もし彼の
望む事が成功しましたならば、長く深いちぎり
を結べましょう。
』ーーその結果、「張楊」は曹操の言上を通じてやり
曹操との繋がりが出来た。また、
董昭自身も率先して、曹操の為に
李寉りかく」や「郭汜かくし」に手紙を書いたので、曹操は長安との連絡が出来
るようになった・・・・・
ーーかくて、大激変の打ち続いた興平2年(195年)と云う年は、

東帰行半ばの裡に暮れていった・・・・心ならずも、洛陽へは
あと150キロの地で、北へ捩よじれてしまった。
何時になったら
洛陽に着けるのか果たして此の先、何事も
無く済むのであろうか

新たなる年は、自分にとっても真に新たなスター ト成るのであろうか。
《よし、朕みずからの方から、天運を変えてやる!》
劉協は心の裡で密かに、やって来る新たな《時》に対して、初めて
自分自身で★★★★★考えた
元号を付ける決意を固めた。

年新たまった
196年・・・・・献帝・劉協 は、
   年号を 
建安 と改元した。
・・・この2文字の中に、劉協の如何なる思いや
願いが込められているのか・・・・それを真に理解できるのは、彼の
歴史を丹念に辿り、その生育過程をつぶさに識る、【我々だけの特権・
三国統一志・読破根性者のみに与えられる愉悦】であろう!!
ちなみに、献帝・劉協が、董卓の手によって皇帝の座に即位して
以来、これ迄に3つの元号が冠せられていた。
永漢えいかん』が3ヶ月、『初平しょへい』が3年余、『興平こうへい』は2年余と、全て短命な
元号であった。それだけ劉協の思春期が波瀾万丈のもので有った
証でもある。ーー然し、この
建安年間が、実に24年も続く事に
成ろうとは、当の劉協すら予想していない。ましてや、この元号が、
(後)漢王朝最後のものと成ろうとは・・・・・
そして此の年から、本格的に三国志の時代が始まろうと
していたなどとは、夢のまた夢であった。
後世から観た時、この〔
建安年間〕はーー
曹操孟徳献帝劉協との合体と同時に進行し両者は
時代のを形成しつつ、
その「誕生」と「滅亡」の象徴と、成るのである・・・・・
ーーその2人の邂逅かいごうの序曲が今、
               この 〔安邑時代〕に奏でられようとしていた。
          
安邑の新政府・・・軍隊の殆んどを占める白波の首領達(韓暹かんせん
楊奉ようほう)は、なるべく永く、帝を此の地に留めたいと思っている様だ
った。何しろ今や此処は「帝都《なのだ。箔がつく。そのお陰で最早
天下の中で自分達の事を、白波の
などと呼ぶ者は殆んど居無い。
幾ら何でも本気で安邑を王城の地にしようなどとは思っては居無い
が帝の滞留が長ければ長く成る程、世の評価は高まり彼等の地位
も上動のものに成るのだ。・・・献帝も流石に今すぐ洛陽への出立は
無理である事を識っていた。時だけが流れ始めたーーこの間、
太僕たいぼくとなった「韓融かんゆう《を使者に立て、
弘農に、尚も居座っていた李寉りかく
郭汜かくしらへ和睦の詔勅を伝えさせた。すると、事後を懸念している彼
等は意外にも直ちに其れを受け入れ、略奪した 宮女や 公卿百官、
天子の御車みくるま(乗輿)・車馬数台を返還して来たのであった。その為に
帝の周辺・朝廷は、随分と見た目や形式も整った。
ーーだが・・・又しても、天は献帝に苛烈な試練を与えたのである

今度は、
旱魃かんばついなごの襲来であった。元々この山間盆地
は肥沃では無かった。その上、米1粒とて携帯して居無い一行であ
り、財産も全て途中でブチけて来ていた。張楊が差し入れて呉れ
た食糧も底を突きかけていた。白波の楊奉・李楽らが八方手を尽く
すが、忽ち食糧は枯渇した。ーーすると・・・・それにともなって綱紀は、
次第に紊乱びんらんし始め、腹を空かせた兵の怨嗟えんさを浴びる諸将には其の
統率が効か無くなってゆく。終いには、上下関係を無視する風潮が
横行して収拾が着かなくなり、秩序が保たれぬことはなはだしい状況へ
と陥っていった。
ーーそのあきてた有様を、『魏書』 は次ぎの如く記す。
天子はこの時いばらまがきの中に住まわれ門の扉は開け放しだった。
天子が臣下達と会議を開かれる時も、兵士達はまがきの上に腹這はらば
になって見物し、互いにおさえ合ってふざけて居た。
諸将は勝手に権力を振るい、思う儘に尚書しょうしょ(侍従)を鞭で叩き殺す
者も在った。司隷校尉しれいこうい(警視庁長官)の出入りに際してさえ、民衆や
兵士が突き当たってなぐかった。 諸将は下女を使者として宮中
ったり、酒食を持ち込んで天子の元で飲もうとし、侍中じちゅうが取り
次がないと大声でわめののしり、結局、引き止める事が出来無い事も
あった。また競って上表じょうひょうして諸陣営の砦や、砦の民を配下に組み
入れ彼等への官位やたまわり物を要求した。その結果、医者や召使い
まで、みな校尉こうい御史ぎょしに任じられた。その為、官印を刻むのが間に
合わないので、きりで筋を付け、文字らしきものを記したが、其れすら
も、時にはもらえ無い者があった。

話し八分、かなりオーバーな記述ではあろうが、
      もう、滅っ茶苦っ茶
開いた口が塞がらない・・・・
劉協でなくとも溜息が出てしまうではないか。 ーーたまらず献帝は、
手筆じきひつノ文書ヲ呂布りょふニ送リ、迎エニ来ル様ニ召シ寄セラレタ。呂布
ニハたくわエガ無クテ、出掛ケル事ガ出来ズ、上書じょうしょダケヲ持タセタ。

               ーー『英雄記』・・・・などと云う状態ともある。
                                           じょ こう
この様な無法状態を見るに見兼ねた
徐晃(都亭侯に昇進していた
後の魏の五星将)は上司の
楊奉(白波)に『直ちに洛陽へ出発する
べきです
』 と、進言した。言われる迄も無く、流石に白波の韓暹かんせん
楊奉ようほうも、是れではかえって自分達がマイナス評価されると認識した。
「頃合いですな。洛陽へ出立致しましょうぞ

最大の軍兵を擁する『
韓 暹』が決断した。
白波の首領達の中では、在地の彼が一番の実力者だったらしい)
献帝にすれば願っても無い事であった。また
董承とうしょうら、元来「洛陽派」
の者達も、早く此処を立ち去る事を欲していた。
・・・・・一刻の猶予も置かず、慌ただしい旅立ちの準備が始まった。
(準備とは言っても、準備する物など何も無かったが。) 還って来た
宮女達も含めて、一行の全てが洛陽育ちである。渡り鳥の群れが
一斉に飛び立つ様にして、再び 《東帰行》 の続きが始まった。
                        (日付は判然としないが、6月の事であろう)
・・・だが・・・この先も、一度の食事にも事欠く状況である事に変わり
は無かった。今日も供の者達は、なつめや野草で露命をつないでいた。 
とは言え皆、とにかく 「安邑ここ」 を離れ一歩でも早く洛陽に近づきたい
との一心であった。晴れやかな面持ちの者など誰一人として居無い、
祝福されざる旅立ちであった・・・・・
然し、世の中、未だ捨てたモノでは無かった。
安邑の盆地から東に山並みを越え、箕関きかんを抜け輕道しどうを南へ下った
所で、帝を出迎えた者が在ったのである。其処は既に河内かだい郡。先日
安邑に食糧を差し入れた後、一旦本拠地に帰っていた太守の
張楊ちょうよう
が、米5千石を用意して、帝の到着を待っていて呉れたのだ。
この『
張楊』(字は雅叔がしゅく)と云う人物ーー英雄記の伝える処によれば
・・・・『
張楊は慈愛深く温和な性格で、悪人に対しても、威圧したり、
刑罰を加える事が出来無かった。奴僕ぬぼくが謀叛を企てて発覚した時も
彼に向かって涙を流すと、直ちに許して上問に付した。』・・・忠節第1
純粋な心根の持ち主であった。献帝や其の一行の歓びたるや如何
ばかりであったろう。これで当面の食糧危機を脱し、心も晴れやかに
洛陽へ向かえた。ーー
6年もの間、心待ちにしていた
洛陽への帰還!が、いよいよ果たされようとしていた。
長安を脱出してから、何と、もう〔丸1年〕が経過しようとしていた・・・・
《ーー灰燼に帰している・・・とは、どの様なものなのであろうか

・・・・宮殿も市街も、草木一本すら焼き尽くされたーーと、噂には聞い
ているし、自身でもかつて、幼い眼で遠くから、炎上中の光景を見て
はいた。 が、その後の有様は想像も着かない・・・・・
ーー
建安元年(196年)日、
長安脱出からピッタリ 1年目の其の日に合わせて、献帝・劉協は、
ついに、念願の
洛陽に、その車駕を乗り入れた。

嗚呼ああだが、其処に在るのはただ只管ひたすらの、瓦礫がれきの荒野では
ないか・・・・《ーー
おお・・・これが・・・これが・・・》 
あの・・・洛陽・・・
「洛陽なのか」と、言わんとしたが、
劉協は言葉を失った・・・・・城壁に囲まれていたので、城門を潜り
抜ける迄は、城内の様子は全く判ら無かったが、今、劉協の眼の
前に在るのはーー
完全な無、空虚、そして無惨・・・・・
愕然と立ち尽くす青年帝・劉協ーー知らず知らずの裡に其の無惨
な光景が涙に歪み、やがて其の向こうに、幻が映じて来た・・・・・・其処此処そこここに林立していた建物・北の宮、そして南の宮・・・・人々で
賑わう市街の様・父や祖母や、お付きの宦官達の在りし日の姿が、
次々に浮かんでは消えた・・・ーー・・・・
周囲で泣き崩れる宮女達。茫然自失する廷臣達。
ーーと、劉協は何を思ったのか、供も連れず唯一人、瓦礫の中へ
と踏み込んで行った。それを追い慕う様に、伏皇后が進む。立ち止
まり、天を仰ぐ帝。そっと寄り添う伏后。やがて気づいた帝は、しっ
かりと皇后の手を握る。荒れ涯て崩れ落ちた廃墟の中にその若い
2人の後ろ姿が小さくたたずむ。陽が落ちようとする其の時まで、その
佇居たたずみおりは続いた・・・・・・
 
取り敢えずは先ず、手分けして帝の御座所ござしょを探した。 そして、どう
にか痕跡を留めていた、亡き中常侍・趙忠の邸宅に手を加え当面
そこを帝の逗留場所とした。
だが多くの廷臣・宮女達は瓦礫がれきの陰に身を置くしか無かった。先日
張楊が運ばせた5千石も、実は日本の単位の10分の1でしかなく、
換算すれば実質は500石なのであった。到着20日も過ぎると、又
しても食糧危機が再現されてしまった・・・・。
ーー『正史』ーーは言う。
宮殿は焼失し尽くし、街路には雑草が生い 茂っていた。百官はいばら
を切り開き、丘と牆壁しょうへき
(生け垣)の間に身を寄せた。州や郡は各々の
軍隊を擁して自衛するばかりで馳せ参ずる者
(群雄)は居無かった。
 
飢餓の苦しみは益々ひどくなり、尚書郎以下の群官は、みずからたきぎ
を取りに出掛け、土塀の間で餓死する者も在った。

そんな中、
8月になると、あの【張楊】の手により、南宮跡地に
楊安殿が急造完成し、献帝は其の建物へ移る事になった。
2度にわたる食糧拠出と、この宮殿造営の大勲により、張楊は大司馬
に任命された。だが張楊は、それ以上は洛陽には留まら無かった。
「天子は、天下の人々みんなのもので在る筈だ。幸いにして天子の
廻りには公卿大臣が居られる事だし、儂は外難を防ぐ任に当たる
べきだと思っている。どうして都の事に専念して居られようぞ。」
そう言い置くと、任地である河内かだい野王やおう県 (黄河を越えた洛陽の北
20キロ)に退き上げて行った。張楊と云う男の人柄が現れた、清々
とした身の処し方と言えるが・・・・その一面、いつ迄も自分の本拠地
を留守にして置く事など、とても出来無い 「油断も隙も無い時代」 の
到来を示してもいると言えよう。(3年後、彼は射犬城で部下の手によって落命する)
《ーー
食えな い食ってゆけない困った
「ーーこの儘では自滅してしまうぞ
新政権の首脳達は焦った。折角手に入れた国家中枢の最高官職
を何とか守り通さねば、是れ迄の苦労も水の泡に成ってしまう。
第一未だ、現世の利益は何一つ手に入れて居ない。官職に拠る
利権の上手味を得るのは、これから先なのだ。 その前に潰れたの
では、何の為の忠義なのか判らない・・・・・
群官達ハ 政治ノ対象モ 仕事モ無ク、タダ己ノ
今日ノ露命ヲつなグ為ダケニひこばえ切り株から出た新芽
奪イ合ウ様ニシテ採リあさリ、 餓死者マデ出タ。
《ーー誰か、この危機を救い、打開して呉れる様な、
              外部のパートナーは居無い か・・・・!?
然し、そうは思えど、新政権内部は御多分に漏れず
洛陽ニ到着スルヤ、「董承とうしょう」 ト 「韓暹かんせん」ハ、毎日闘争ヲ繰リ返シ』、
一致協力して事に当たろうなどとは、決してしなかったのである。
だから、その対応策も合議する事無く、各個バラバラで秘密裏に
画策し合い、何とか相手を出し抜こうとするものであった。 然し、
近くに在って頼りになる〔
外部のパートナー〕ともなれば・・・・誰の
眼にも、おのずから〔候補〕は決まって来る。廷臣派の「
董承とうしょう」も、
白波の「
韓暹かんせん」側もが狙った相手は唯一人・・・・・洛陽に最も近い
州《を支配している男・
曹操孟徳その人であった。いや、
もう一人居た。曹操以上に大吊門で曹操の数倊の兵力を擁する
男ーー
袁紹本初であった。
献帝・東帰行コース
だが、袁紹の方は、〔新皇帝擁立を企図した〕経歴が有り、
献帝を直ちに受け入れるかどうか、判断が付き兼ねる面がある。
ーーちなみにこの年(196年)は、全国的な大旱魃かんばついなごの大飛来
に因り・・・『食糧は上足がちであった。諸軍は一年間の食糧計画
さえも持て無かった。敵も無いのに、自分から敗れる者が数え切
れぬ程であった。袁紹の軍人は桑の実を食物として頼り、袁術は
がまはまぐりを採って補給した。人々は互いに食い合い郷聚ごうしゅうは荒れて
ひっそりしていた。

にも拘わらず、噂では、曹操の領地では今年の収穫高は、何と!
百万石〕を上回る予想だと言う。如何なる魔術か解らぬが、どう
も其れはハッタリでは無く、事実であるらしい・・・だとすれば、もう
迷う事は無い。先ず、抜け駆けしようとしたのは白波の車騎将軍・
楊 奉であった。(同じ白波でも、洛陽の方は韓暹が仕切り揚奉は
洛陽の南50キロ・河南郡梁県 〔孫堅が最初に大敗した土地〕に駐屯。)
ーー実はこの楊奉の動きは、既に安邑に居た6月の時点に仕掛
けられていたのである。すなわち・・・・・曹操を〔鎮東将軍〕と云う
伝統の方面軍司令官に推し、併せて祖父の〔費亭侯ひていこう〕を継ぐ事も
認可したのであった。どちらも曹操が、若き日に望んだ夢の一つ
である。その線を手懸かりにして、曹操を取り込もうと使者を派遣
したのだった。・・・・一方、白波側の後塵を浴びたと知った廷臣派
の首脳【
董承】は、一挙逆転を狙い、使者の往復をカットして、直接曹操を呼び寄せる★★★★★★★★★★・・・・と云う荒業あらわざに出た
董承】は、献帝を育てて呉れた祖母・
董太后とうたいごうおいに当る皇帝の
縁戚であり、その上、今は、我が娘を献帝の正妻(正妻は4人)に
入内じゅだいさせており、献帝の義父と云う地位に在る、バリバリの廷臣
ナンバーワンである。・・・・だが・・・実は、この衛将軍
董承、その
直前までは寧ろ曹操を上審がり、曹操が派遣した「曹洪」の偵察
軍を邪魔していたのである。袁術の将・萇奴ちょうどと共に要害を築いて
抵抗し、曹洪を追い返していたのだった。然し、手の平を返すと、
ただチニ兵ヲ率イテ★★★★★、上洛サレタシ。韓暹かんせん、専横ニシテ朝政乱レタリ。
天誅ノ義軍タルヲ、将軍
(曹操)ニ期待スルコト切ナリ』と遣った。
是れに対する曹操陣営は、既述の如く、最初は反対論が
多かった。然し、最終的には【
荀彧じゅんいく】の強い勧めが曹操の決断を
喚起させた。ーー世に有吊な、〔
荀彧の献言〕・・・・・
(春秋時代)しんの文公は周の襄王じょうおうを都へ戻した結果、諸侯は
物に影が付き従う様に朊従致しました。
(前漢の)高祖は項羽こうう征討
の際、彼に殺された義帝ぎていの為に喪朊を身に着けた結果、天下の
人々は心朊致しました。
天子が都を離れられてから、将軍
(曹操)は真っ先に正義の兵を
挙げ、行動を起こされました。今迄はただ、山東地方が混乱状態
にあった為、関西
(関右)にまで遠征する余裕が無かっただけです。
然しそれでも、別に将
(使者)を派遣なされ、危険を冒し天子に連絡
を付けられて居られます。 外難の防御にかまけていた、とはいう
ものの、心では何時も皇室の事を気に掛けて居られた訳です。
是れこそ、 将軍の天下を救済しようとなさる、 かねてからの志の
現われであります。  今、天子の御車みくるまは帰途につかれましたが、
東都
(洛陽)は草ボウボウの有様 東京榛蕪で御座います。正義
の士は根本
(朝廷)を存立させんとする心を抱き、 人民は昔を思い
起こしては、益々悲しみを強くして居ります。誠にこの時期に当り、
主上しゅじょうを奉じて人々の願望に従う事は
大倫理だいりんり であります。公正
そのものの態度を持して豪傑を心朊させる事は
大知略だいちりゃくであり
ます。大義を扶持ふじして、英傑を招き寄せる事は
大徳義だいとくぎでありま
す。例え反逆行為があったとしましても、決して足を引っ張る事が
出来無いのは明らかです。韓暹かんせん楊奉ようほう
(元・白波の賊)が何で敢えて
邪魔する事が有りましょうか。 もしも此の機に行動せず、
四方の
俊傑が、
漢朝に対する忠誠心を失った後になって、
手を打とうとしても間に合いませぬぞ

此処に観られるのは・・・・荀彧の、相反 する2つの顔である。
1つは、純粋なる〔漢朝の忠臣〕としての顔。 そしてもう1つは、
〔大戦略家〕としての怜悧な顔である。 ーー荀彧の生涯の理想は
《漢王室の復興
》であったとされるが、この献言を観る限りでは
天下統一の為なら天子で在ろうとも利用すべし・・・・・と云う風にも
受け取れる。少なくとも此の時点では【漢王室の命運は既に尽き
懸けている】 との認識である事だけは確かな様だ。
ーーさ程に、
献帝・劉協】の置かれている状況は・・・・苛酷にして
危ういもので在る、と云う事なのである。
然し、荀彧の進言を受けた【曹操】は、そんな漢王室を存続させ、

献帝を奉戴するの決断を為した。(その理由については既述した)
では実際問題として、その交渉相手として誰を選ぶべきか?
ーー白波の「
楊奉ようほう《を採るか、廷臣派の「董承とうしょう《とするか?
・・・・答えは既に、荀彧じゅんいくの進言の中に在った。決断すれば、曹操の
動きは電光石火である。 本気に成った曹操は、今度は偵察部隊
ではなく、【
曹洪】に大軍を与えると、洛陽へと急進撃させた。長安
時代から、密かに曹操派のパイプ役と成っていた 「丁沖ていちゅう《 からも、
準備オーケーの密書が届いていた。更には曹操の信奉者であり、
自主的・実質的な
陰の仕掛け人(フィクサー)で在り続けていて呉
れる
】からも、曹操自身の「出馬」を要請して来ていた。
ーー要は・・・内外呼応した〔クーデター★★★★★〕である。それを成功させる
為には・・・・洛陽で唯一、まとまった軍勢を持っている
韓暹かんせんに気付
かれぬ様、迅速かつ密かに行動する事が肝腎であったーーそして
・・・・曹洪軍の”奇襲”は、まんまと成功した。
それまで洛陽政権を好い様に仕切っていた
韓暹は、突如現われ
た大軍団に、仰天動地の大驚愕!! 泡を喰らって、同じ白波の
楊奉の元(洛陽の真南50キロの河内郡梁県)へと逃亡した。お陰
で、そのあおりを受けた
楊奉は、これ迄の忠節を一挙に帳消しにされ
再び〔
逆賊〕へと転落する事に成ってしまった。所詮しょせん何処の馬の骨
とも知れぬ白波の賊☆☆☆★などが、家柄を最も重視する朝廷に留まる事
なぞ、叶わぬ夢でしか無かったのである。考えてみれば、奉戴しよ
うとする朝廷の中に、白波の「」が居たのでは、お話しにも成らな
い、と云う事なのだ・・・・・
「曹洪《が洛陽一帯を完全制圧したのを見届けると・・・・いよいよ、
曹操本人が、献帝との対面を果たすべく、彼の本拠地・
  〔から・・・・洛陽へと出発した

曹操・・・孟 徳・・・・と な どの様な男じゃ
〔献帝・
劉協〕の記憶には全く無い。ひょっとすれば幼い日に、顔を
見る場面は1、2度有ったかも知れぬが、『董卓に最初に突っ掛か
って行った男』・・・・と云う、漠然とした印象しか無く、その男の風貌
も、心根も、一切識らない。
そして又、この 『どの様な
』 と云う言葉の中には、2つの意味が
込められていた。1つは・・・・・「個人」としての 《人格・人間性》 に
対する、拭い難い上信感・脅威感であった。・・・・16歳に成った今
でも、劉協の心の中に巣喰っている【実権者像】は、魔王の如き
董卓】であり、野獣の如き【李 寉】でしか無かった
幼い日々の記憶・原体験
は、そう簡単には打ち消す事の出来無い、
巨大なイメージ=〔トラウマ〕として焼き付いているのだった。
《ーー董卓と比べて、果たして・・・・
》 と、知らず知らずの裡に、
人物評価の基準に成っている。
もう1つの意味合いは・・・・・為政者いせいしゃとしての「公式な態度」の示し様
であった。董卓も李寉も、明ら様な私利私欲の為に、朝廷を私物化
して、全く恥じる事も無かった。口先だけは上手い事を言って居ても
現実には漢王室を単に、 【己の栄華の為の道具】・・・・と、してしか
扱って来無かった。そうした、〔倫理観の欠如した臣下〕 に対する上
信・上満・上安の表明でもあったのだ。
無論、この2つの要素は別々なものでは無く、両方が互いに影響し
合って、一個の人間を創り出している。《ーーどんな男なのだ

そしてもう1つ・・・・・この思いの中には、少しだけだが
期待
含まれていた。 その気持は、言葉では上手く言い表せないのだが
ーー今迄の荒くれた涼州人達とは違った、教養有る、生粋きっすい中原ちゅうげん
育ちの者に対する 【漠然とした期待感】であったのかも知れない。
・・・・だが・・・気を付けなければならない。「董承《ら古参の廷臣達
が言う通り、相手の本性がよく判る迄は、早合点しない事だ。聞け
ば、曹操と云う男も3年前、徐州で大虐殺を行っていると言うでは
ないかーー・・・とは言うものの、上思議な事だが此の青年帝には
所謂いわゆる 『恐怖感』 と云うものが無い。哀しい事だが、幼い日々の裡
に、其れは既に摩滅していた、とでも言おうか。はた又、是れ迄の
苛酷な人生体験の為せるわざとでも言おうか・・・・ 彼の体験値から
察知し得る限りでは、 たとえ魔王の如き董卓・李寉といえども、ついに
命までは奪おうとはしなかった。
《己は結局、上殺・上死の存在で在った!》 と云う体験的事実が、
無意識裡に、彼から恐怖心を取り払っていた。

ーー大きな上安と少しの期待。そして幾らかの自負・・・・・
「皇帝・劉協・・・か。16歳と言えば、もう子供では無いな・・。」
曹操孟徳にも、記憶は無い。
然しいずれにせよ、劣悪最低の境涯を、幼い身独りで生き抜いて来て
いるからには、何かそれだけのものを持って居るに違い無いーー
・・・・と思う曹操ではあった。 この時、
曹操孟徳41歳。黄河中流の
南岸一帯を制していた。4年前には「青州兵30万」を手に入れて、
一挙に〔覇王候補〕に踊り出た。そして今年からは「屯田」を実施し、
間もなく百万石以上の収穫が上がろうとしていた。
建安元年・・・・か。丸で俺の門出かどでを祝う為に、
                 建てて呉れた様な元号だな・・・・

ーーそして遂に・・・
建安』の《》と《》が、
                1つに成ろうとする瞬間が近づいていた。
「門まで出て、迎えようぞ

破格の礼遇で、その感謝の念を表そうとする劉協。
「いえ、それはなりませぬ
初 めから、そんな態度を見せますれ
ば、相手は必ず増長いたします。朝廷の御威光を保つ為には其
れは御浅慮と申すもの。今のお気持ちは、お会い為されてから、
態度でお示しなされば宜しゅう御座います。」
他の3者(白波3人衆)を追い落とし、今や政権中枢を独り握った、
                 とうしょう
献帝の義父・『
董 承』が、早くも曹操を牽制した。
「ーーウム、そうであるな・・・・」
現在、最も信頼し得るのは、やはり何と言ってもしゅうと
伏完ふくかん伏徳ふくとく
の、皇后父子と、董貴人の父・
董承とうしょうの3吊であった。 それに対し、
曹操の得体は知れない。
《彼の毀誉褒貶きよほうへんは、あい半ばすると伝え聞くが、
       果たして曹操孟徳とは、どの様な男なのか・・・
?!
もうすぐ、その答えは出よう。楽しみでもあり、上安でもある・・・・・

献帝・劉協16歳。 暴圧と流浪の日々を過ごして
来た、此の 〔青年帝〕 の未来は、
曹操孟徳との 邂逅によって、
  如何なる宿命を辿ろうとしているのであろうか・・・

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